Title: いまここ。
2022.11.08

自分が今立っている場所はいったいどこなんだろう。
両の足の下には、いつだって地球を踏みしめているのだけど、

心はふわふわと、「いまここ」ではないことにつかまってて、

両の足の下でなにを踏んずけてても
気づかないくらいのところで生きていくということに
意識的にも無意識的にも生じる心のささくれが、
チクチクと痛むときに、そんなチクチクを紛らわせる手段に、
思考停止になって時間を奪われていくことの違和感すらも
心の中に澱となっていく。

走り回って、ふんずけて、
つくづく自分の分限を知る。
身の丈。

身の丈を存分に手を抜かずに満たしてあげること、
身の丈の中で、自分と人を大切にすること、
身の丈身の丈。

身の丈といいながら、
ふと足元を見たら、無意識にでもつま先で立たせようとする、
自分の中にできあがってきた、
膨大な時間の積み重ねと、
どうやってうまくつきあっていいこうかって。

フラカンをききながら、
ふと思うのです。








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Title: G
2022.02.02

誰の得にもならないけど、書きたいので書きます。

最近、世の中はコロナでどたばたしており、自分の身近も例外ではなく、本当に毎日がジェットコースターに乗っているかのような日々を過ごしております。そんな心を癒すがごとく、夜な夜なゲームにのめりこんでいます。

現在PS5(Ghost of Tsushima )とNintendo Switch(ポケモンアルセウス・モンスターハンターライズ)を同時進行で進めています。

ゴーストオブツシマのグラフィックはとても素晴らしく、雄大な対馬の大地を馬でかけて、向かい来る敵をなで斬りにしながら、日本海に沈む夕日に手を合わせています。

そしてポケモンアルセウスに関しては、新しいポケモンの姿(ヒスイの姿)にわくわくするだけでなく、ポケモンGO~イーブイ・ピカチュウ~ソードシールド~のいいところを凝縮したような新しいシリーズに、作り手の苦労や、挑戦、苦悩などが垣間見えて、改めて人気シリーズを続けていくことの偉大さと、大変さそして、改めて、作り手の想いや情熱はユーザーとともにあるべきで、その間にある距離感の大切さなどを考えさせられるような素晴らしいゲームです。

そしてモンハンに関しては、夏の大型アップデート、サンブレイクに向けて、指の動きが鈍らないように、リハビリ的な意味で続けています。主に弓をメインにしていますが、最近はやることなさ過ぎてついにチャージアックスに手を出してしまいました。日に日に強くなるイベントクエストのヌシに心が折れそうになります。

そんな日々の中でどうしても言いたいことがあります。

なぜか突然、PS5のボタンの仕様が、決定がXボタン、キャンセルが〇ボタンに変更になっていました。PS4までは逆でした。
この仕様変更が地味につらいです。環境設定で変えられるのですが、その場合、ゲーム内にでてくる決定・キャンセルの表示と、ボタンの仕様が逆になりとてもややこしいので、仕方なく時代に合わせて新たな回路を脳に叩き込んでいるのですが、

無論、ファミコン、ゲームボーイ、スーファミ、DS、switchと育った僕ら(あえて僕らといいます)任天堂街道を歩いてきた脳と身体には、決定はAボタン、PS5の〇の位置、キャンセルはBボタン、PS5のXの位置が脳髄にまで叩き込まれていますし、ダッシュはBボタンなんですよ(最近はL、R捨て押し込みが多い)それはもう血肉なんです。

その長年の習慣は簡単には変えようもなく、大事な場面で、決定キャンセルを間違う自分にストレスがたまり、ダッシュが思うようにできなくて脳が軽いパニックをおこしています。

この仕様変更は本当につらい。

それと、ハードをまたいでゲームをするときに、それぞれのゲームでの仕様の違い、例えば、飛び道具を扱う場面で、照準、エイムから、発射までの一連の動作にも仕様の違いがあり、弓を使う場合、

対馬では、L2照準、RエイムのR2発射
モンハンでは、ZL照準の、ジャイロエイム、ZR発射
アルセウスでは、ZL照準の、Rエイム、ZR発射

乗り物、対馬(馬)モンハン(ガルク)アルセウス(アヤシシ)に乗る場合の、搭乗、ダッシュ、降りるに関してもそれぞれの操作が微妙に違います。なので、さっそうと馬に伸び乗り疾走しようとして飛び降りちゃうとか、その逆が起きることもしばしば。

オープンワールドの中でも、高いところや、水に落ちた場合の仕様も違います。

例えば、対馬では受け身を覚えるとそこそこ高いところからでも飛べるし、水に落ちたら泳げるのに、
モンハンはどんなに高いところから落ちても大丈夫で、水には基本はいれない。
それに対し、アルセウスではそこそこ高いところから落ちると死ぬ、水に落ちても死ぬ(溺れる様子がリアルでドキドキします、たぶんおぼれた経験のある人は胃がきゅっとなると思います。)

1時間おきにゲームを切り替える中で、この小さな仕様の違いに、一瞬の判断を誤り、死んでしまったか、どれだけ敵に見つかってしまったか、ポケモンボールと間違えてポケモンを投げてしまったかわかりません。

でも、弱音を吐いていてもしょうがないので、これは脳への挑戦状だと思って勝負することにしました。
自分の脳との戦いです、一回一回ゲームを始める前に瞑想からはじめることにしました。
そして脳をマインドセットしてから、ゲームに向き合うことで、操作ミスを減らそうともくろんでいます。

結局なにが言いたいってってこともないのですが、

PS5の仕様の変更は世界標準に合わせたからなんだろうか、海外では日本でいうYESをNOで表すからだろうかとか、海外と日本のXマークの感覚の違いをシェアに合わたからなんだろうかと、様々な仮説を思うに、日本のガラパゴスを感じたような気がしてさみしくなったのと、それでも世界シェアで戦う任天堂の偉大さと、その仕様が長年の被験者として骨の髄まで染みついている僕ら、(あえて僕らといいます)の誇りのようなものも感じるわけです。

そして、脳というのは、つねに不測の事態にも対応できるように、メモリーをフルで使わず、できるだけコスパよく省エネで動けるように、目の前にあるタスクに対して、習慣化してまとめることで、脳にかかる負荷を減らしつつも、安定したパフォーマンスをだせるようになっているといいます。しかし、日々が習慣の連続だけになってしまうと、脳は常にパフォーマンスを残した状態で、同じ個所しか使わないので、脳の認知機能が落ちるので、たまには習慣を崩すことで脳が活性化するといいます、認知症の治療にも通づるものがあるように思います。

ですので、1時間おきにハードを変えたゲームで、最高のパフォーマンスをだし続けることは、脳を鍛えることだとおもってがんばることにします。

そしてこの差が、いつか認知機能の違いとなって表れてくれることを願っています。

あなかしこあなかしこ。





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Title: はらっぱ
2022.01.26

園庭にある小枝をひろってせっせと集めたり、大きな切り株を運んだり、葉っぱを集めたりしている子どもたちがいて、

なにをしてるの?ときいたら、

「はらっぱ作り」と教えてくれた。

はらっぱ作り・・・はて?と思う自分を横目に、はらっぱ作りに次々に仲間は増える。

はらっぱ作りしよう!の一言で、学年を超えたたくさんの子どもたちが、イイネ!って二つ返事で動いて、それぞれのイメージする「はらっぱ」をつくりはじめて成立するって何気ないけどすごいことだなと。

ただ、木や葉っぱを運ぶ何気ない遊びなのだけど、それを「はらっぱ作り」と呼んで、何も言わずに創りあげていくこの風景、この時期だからこそみられる成長の証。

それぞれの子どもたちの距離感やイメージや様々な歯車がうまいことかみ合ってる証拠なんだろうな。

幼稚園の良しあしは園庭の遊びをみればわかるって、昔習ったことがある、手前味噌だけどうちの園庭、年々いい遊びがひろがってきてると思う。

大人たちの中で、誰かが不意に、はらっぱ作りしよう!って言いだしたら、そもそも、はらっぱってなに?どうやってつくるの?はらっぱの定義は?なんのために?なんて言葉が先行してすぐに動けないんだろうな。

それが、はらっぱであろうとなかろうと、動きだしながらイメージをすり合わせて、その中で、そこにある発見や創造や共感できる体感を味わい、楽しむことができる心は、本当はいくつになっても大事なことだし、ここ一番で自分の心を支えるのはそういう体感の伴った心地よさだったりするのだと思う。


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Title: まろ
2022.01.11

先日、またひとつ歳をとりました。

うつけなんぞに負けるわけがないとたかをくくって桶狭間。

雨の中、脇目もふらず進軍してきた若者に虚を突かれ討ち取られつつも、
最後の最後、組み伏せてきた毛利新介の指を噛みちぎったという逸話に歴史浪漫を感じつつ、
気づけば、自分も今川義元が桶狭間で討ち取られた時と同い年になっていたということに驚きます。

誕生日の前日には「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見直しました。
つながり薄れるこんな時だからこそとても心に染みました。
寅さんの魅力はさることながら、はしばしにでてくる食事の風景がとても好きです。
そして自身の恋の物語から、いつしか満男の相談役になっていく寅さんの姿にもまた時の流れを感じます。
満男にかける言葉の一つ一つに、じんわりと心が温かくなりました。

最近は、いつかみた背中のことを思い出すことが多くなりました。
懐古主義になったつもりもさらさらないのだけれど、
時は刻一刻と流れているのだということを、
昔よりもよりリアルに感じることができるようになると、
いやがおうにも、昔みていたあの人たちもこんな気持ちを感じていたのだろうかということを考えてしまいます。

そんな、桶狭間で昭和を懐古するような自分も嫌いじゃないのだけど、
そこに反作用するように、やったことも、やるつもりもないけど、
盗んだバイクに乗って窓ガラスは割ってまわったり、
夜通し山を駆けて、強大な敵を強襲したりするような、
血湧き肉躍るような熱いコスモを、
いつも心の中に燃やし続けていたいなんて、
気づけばそんな青臭い思いが頭をもたげてくるのです。

そんな作用反作用を抱えながら、

まずは、正月太りした身体をしぼり、
膝に負担がかからない程度の運動を続け、
うがいと手洗いと歯磨きも欠かさず
コロナにならないようにしながら、
組み伏せられたら相手の中指くらいは食いちぎってやるくらいの士気だけはつねに保って、
桶狭間に腰を降ろしたくなっても歩みをとめず。

また1年、足元を確認しながら自分のペースで進んでいけたらと思います。

とかく、西に行きましても、東に行きましても、
土地土地のお兄貴さん、お姐さんに
ご厄介かけがちになる若造です。

以後お見苦しき面体 お見知りおかれまして
向後万端ひきたってよろしくおたのみ申します。

あなかしこ、あなかしこ。

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Title: キ
2021.12.25

現実でもなく、非現実でもない、ちょうどいい塩梅の場所。
そういう場所を一つでももっている人はここ一番で粘り強くなれるのだろうな。

年々、振り返るという作業がおっくうになっきて、
足元を確認作業にめんどうくささを感じるのは、
いい傾向なのだろうか、それとも悪い傾向なのだろうか。

節目の敷居は、年々低くなる。

今日が明日になるように、1年は簡単に、その境目を飛び越える。

生きるも死ぬも。

どんなことが起きても、その敷居につまづくことはなくなった。

そんな心の動きに、反作用するかのように、
昔の記憶とか、思い出が
もっといえば昭和というものが、
心をぐっとつかんではなさい瞬間が増えた。

すごいスピードで進む世の中に、振り落とされないように、
しがみつく心のバランスをとるかのように、

今ではない場所に、こころを置いて、
一息つくかのように。

でも、本当は、スピードなんてものは、相対的なものだし、
同じ尺度で測れるようなものではないはずだもんね。

できることをひとつづつ。

ひとつひとつ。











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Title: コロなな。
2021.08.29

もう何が正解で、なにか不正解かわからなくなるような今日この頃、
コロナな日常は有無を言わさず、あれもこれも、手当たり次第にのみ込んでいく。

「夏休み」という魔法のような力をもった響きも、
今だけはどうにも光を失ったかのようだ。

どんなに前向きに現実を受け入れようとしても、比較するまいと思っても、前と後、
いくら得たものが素晴らしくたって、失ったものにしがみつきたくなるのが性分。

頭に響く蝉の声、曇った中ジョッキ、千鳥足の歩道橋、
しけった洗濯物、刺すような背中の痛み、無人のホーム・・・

どうにも夏が好きなもので。

*

最近は野菜ばかりを食べている。

面白いもので、野菜ばかりを食べていると、
野菜の味の違いが分かるようになった。

人間の身体というのは本当に面白い。

手をかけたらかけただけ、
そこにはなんの慮りもなく、
ただ素直に、そのまんまの反応をかえしてくれる。

*

あっちにこっちにとんで行ったままの自我が、
何週もしているうちに、元居た場所を忘れて、
ふわふわと所在投げにさまよっていたかとおもったら、
いい加減に飛び疲れて、
静かに高度を落として、
力尽きてついた先が、
元にあった場所でありたいと願う。

*

はがせ、
脳から自我を、
心臓から心を、
自己から意思を。



















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Title: 2021
2021.07.24

雲が変わり、風が変わって、日々がじんわりと夏に包まれ始めた頃。
こんなに心の踊らない夏はないなんてことを考えていた。

様々な思惑や、想いや、それぞれの視点からの正義に辟易として、
自分の足元がおぼついて、どこに寄りかかり、どこに手をついていいかもわからなくなるような感覚の中で、色々なものから耳をふさぎ、目を閉じたくなったりもする。

なにを信じ、なにを伝え、どのように振舞うべきか考えあぐねればあぐねるほどに、
皮肉を込めて「信じる」ということの本質を突きつけられるような気持ちになる。

人間は何百年も変わらずに、振り上げた正義、信じて疑わぬ側面、
自分自身の深度から見える世界を頑なに守ろうとして、
様々な歪を生み続けてきた。

その歪を生み出す原因が何なのかといえば、
人間のつくりあげるものに、完璧なものなんて一つもないのに、
正解は自分の信じる完璧という幻想の通りであるべきだと信じて疑わない心なのかもしれない。

だから初めから人に、期待しなければいいということではなく、理想を言えば、人間同士、すべての人たちが深いところではつながり、まったく同じ立場にあるという認識を、頭の片隅に置いておくことなのかもしれないなんて思いながら、日々心はジェットコースターのように上下左右に揺さぶられ、遠心力でほおりだされそうになるのだけどね。

ただ、コースターが大きな坂を静かにのぼり、これから大きく落下してしこうとする前の一瞬に見える入道雲に無条件に心が躍り、すべてのもちゃもちゃが、全部暑さの中に溶けていくような感覚を思い出して、とにかくこの今を、自分の心が喜ぶことを大切にし、心が悲しむことを避けていこうと、シンプルに着地したような気にもなるのだ。


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Title: kuatro
2021.05.13

意図も、思惑も、見栄も、顕示欲も、背伸びもない言葉を、
頭や心から、こそげ落とすように書き綴って、
すこし身体が軽くなって、頭がふっと解放される。
心の柔らかい部分をまとっていた膜のようなものがはじけて
中から出てきたものが、深く深く深呼吸をする。

そんな時間の大切さが、頭の片隅にこびりついたまま、
また手垢だらけの日常に埋没していく。

不惑という言葉は、惑わないということではなく、
惑っていることにすら気づかないってだけなんだと皮肉を言いたくなるほどに、
世界は簡単に自己を肯定する材料にあふれている。

大人になるということは、こういうことなのだ。
原動力を忘れ、動機もなく、動悸だけがする。

*

恐怖は力みだ。
力みは恐怖だ。

*
身体と心は結びついているということを言葉でなく、
体感の中で、理解できるようになった。

*

小さな点が、積もり積もって、線になり、流れ、うねり、大きな変化を生む。
どの段階でその流れにきづけるのか。

変化したときに、なぜ変化したのか、その流れはどこから来たものなのか。
雨が降った瞬間に、変化につながるまでの、結び目を、見落とすことなく生きていたいと思う。

*

誰かや、何かが、影響を及ぼすとき、
それは、目に見えた点の作用ではなく、
その点を包み込む、面や体積のよる作用でもあり、
その体積は、一朝一夕にふくれあがるものではない。

でも、その紐を解かねば、それは点による、魔法のような奇跡にしかみえないものだ。

*

物事には必ず、理由がある。
その理由も同じ。

点と作用。
そして、反応と反射。

*

文字を手段にしかつかえないようにはなりたくない。
言葉も同様に。

*

自分をアップデートできるのはいつだって自分だけだ。
そこに痛みを伴っても、更新ボタンを押さねば。

*





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Title: おにごっこ
2021.04.20

園庭で3人から始まったおにごっこ、次から次へ声がかかり、みるみるうちに参加者はふくらむ。

そこにはいってくる子たちをみていて気づいたのだけど、その多くは新学期にクラスが変わり、横の関係がまだうまくつくれていなかったり、あたらしく幼稚園にはいってきたり、まだまだ園庭で自分の居場所を見つけられず所在なげにしていた子たちが多い。

鬼である自分の周りを走り回っては、目が合うと逃げる。
何度もそれを繰り返すうちに、みるみる表情はよくなる。
そして、気づくと、逃げてたもの同士がつながっては鬼ごっこから抜けていく。

鬼ごっこの楽しさは、身体能力の確認や、スリルのような身体的な快感からくるものだけではなく、
承認欲求の充足というような精神的な部分にも作用しているのかもしれないと思った。
承認欲求は自己肯定感につながり、それは小さな自信をうむ。
その小さな力が外の世界へ目を向ける原動力になる。

まるで、僕はここにいるよと言わんばかりのアピールに、
答え続けた結果、みんな満足して去っていく。
年齢的に、朝から鬼ごっこはだいぶ身体にこたえるけれど、
でも摂取不捨の心で、最後まで目を離すことなく、骨を砕きても追いかけまわしてやろうと思う。

そして最後には園庭で独りぼっちでたたずむのだ。
それはもう佛のように。

※写真はおにごっこは関係なく、大きなアリを取り囲み巣穴をつきとめようとする子たち。この後に巣穴を見つけるには至らず、みんな途中で飽きていなくなるなか、一人の女の子だけが、遊びの終わりの時間ぎりぎりまで追いかけ続けて、なくなく部屋に戻っていった。

















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Title: ひばり。
2021.01.31


2019年9月29日に放映されたNHKスペシャルで公開されたAIでつくられた美空ひばりの歌う「あれから」という曲がある。


生前の歌声を収集し、そこに含まれる美空ひばりの声や歌いまわしといった特徴を抽出しデータ化し、音声合成技術でどんな曲でもまるで本人が歌っているかのように再現する技術を使い、新曲としてつくりあげたもので、賛否両論物議を醸した一曲だ。


コロナのせいかどうかはわからないけど、最近、昭和ってよかったなとか思うようなことが多くなった。ふと、自分にとっての昭和とは何だったのか考えてみると、自分にとっての昭和とは、それは幼少期の記憶で、それはつまりは誰かや何かに守られていた時代といえるのかもしれない。そして自分はその時代がとても居心地がよく楽しかった。そして今、自分の行動の根本にその時の想いは生きている。


そして、昭和・平成・令和と時間を経ていくことで自分の中に訪れた変化は、守られる側から守らなければならない側になったということなのだと思う。


その変化は、ある日突然訪れるのではなく、少しづつ自分の中に浸透してきて、つまりそれは大人になったという言葉で片づくような類のものなのだけど「あれから」という曲には、気づけばそんな変化の中で、誰もが心の中で無意識にも求めているような、こころの中の柔らかい部分がじんわりと暖められるような寛容さと包容力がある。


様々な穿った思いを差し引いても、ついリピートしてしまって、車の中でも、お風呂の中でも、作業中にもひたすらに「あれから」を聴き、口ずさみながら、何かこんな時だからこそ乾いてしまっているどこかかを潤すような日々を過ごしていたのだけど、


そのリピートの合間に、ふとyoutubeが1988年4月、再起不能といわれるほど体調を壊していた美空ひばりが、東京ドームのこけら落とし公演「不死鳥コンサート」の時に歌った「愛燦燦」を再生した。


ふいに流れてきたイントロを何気なくきいていたのだけど、美空ひばりが第一声を発した瞬間に、おなかの底からこみあげてくるものがあった。ずっとリピートできいていた「あれから」で流れている声とは全く違う。生の声にしかない力、熱のこもった声に一瞬で引き込まれた。ずっと聴いていたからこそ、その違いを顕著に感じた。


言葉では言い表せない、人間の持っている目に見えない「何か」がそこに、しっかりとのっているような声に、人間にしか込めることのできない、熱のようなものはやはり違うのだなと、そしてその熱には理由もなく、無条件に人の心を大きく揺さぶる力があるのだなということを痛感した。


だから人間はおもしろい。


どんなに技術やITが進化しても、少なくとも自分の生きている時代には、この「何か」がなんなのか解き明かされなくていいし、そういう「何か」が社会や世界や、人を動かす、時に合理的ではない理由でありつづけてほしい。




 


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Title: a
2020.12.27

慌ただしいながらもふと立ち止まり、
使い古されたしょうもない話をしながら、
ただただくだらない話をした帰り道、

歩き始めた寒空に、
なんやかんやと今年もいい1年だったなと、
冷たい空気を吸い込んで深呼吸をする。

ほろ酔いの身体に流れ込んでくる、冷たい空気の心地よさの中で、
あたりまえのように1年は幕を閉じていくはずだったのに。

前と後という言い方はしたくはないけれど、
避けては通れない前と後、
そこを隔てるものが、
決して何かを奪っていっただけではない、
そう言える世界がはやく戻ってきますように。


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Title: 鬼滅
2020.10.26

広告代理店の戦略にのってなるものか、
はやりすたりなんかに流されまい。
そもそも自分はジャンプであらすじも全部すでに読んでいるのだ。
いまさら映画なんぞみるまでもない。

はずだった。

無限列車が走り出してすぐにその想いは消え去り
アニメの底力をみたような気がした。

ジャンプで育った自分の中に流れる、
友情・勝利・努力の三原則の琴線をこれでもかと揺さぶられた。

コスモを燃やし、アバンストラッシュを繰り出し、
霊丸を打ち出していたあの頃に一瞬で引き戻された。

映像も、演出も、音も、
今のアニメは本当にすごい、
霹靂一閃。

このコロナ禍において、知らぬ間に乾いて、枯れそうになっていた場所が、
ぐんぐんと水を吸い上げるように満たされたような気がした。

人が行動するときに、その原動力は、
理屈などではなく、時に説明もできないような曖昧なもので、

その曖昧で理屈を超えた何かは、
いつの時代も、どの世代にも、
人の心の奥底に流れている。

それが、
正しいのか、正しくないのかということや、
その先に目指すものが何なのかとかいうことでもなく、

目の前のその瞬間に、心の全部を乗せてしまうことがある、
その姿には人の心を打つ力がある。

よもやよもやだ。

明日から鬼、滅する。

とりあえず呼吸で止血できるようになりたい。




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Title: BNIT
2020.09.08

いい機会だったのだ、強制的に何かを選別するのには。

この数ヶ月に、失ったものと、それと引き換えに得たものと、
それは天秤にかけた時に、実は得たもののほうが多いのかもしれないと思えるようになった。

不自由な制約の中にいて、自由は何かってことの答えを見つけられたような気がする。

価値観の多様化がどんどん進むこの世の中で、
変化はするけど変わらないものを見出していけることが、
地に足をつけるということで、

この数年の過ごし方で地に足がついているかいないのかということが、
またこれからさき50代まで生きていることができたとしたら、
自分自身に大きな意味を持つものになる。

40代に感じる手ごたえは、自分自身の価値観を、
自分自身がだれよりも愛せるかということだ。

執着は忌むべきものではなく、消すべきものではなく、
それを、愛すべき隣人とできるか否かというようなもんで、

長い時間自分の中に同居してきた、様々なもの、
そのひとつひとつを、引っ張り出して、
ありがとうなってってなもんだ。

性善説でも性悪説でもない人間の心ころころ、
いいこというのは人間だけさ。






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Title: ファミコン
2020.09.07

人間の脳というものは、使えば使うほど学習し、進化していくのだということを実感する今日この頃です。

最近、switch onlineでファミコンのソフトをひたすらにクリアするチャレンジをしています。
あの頃、クリアできなかったあのゲームや、このゲームを、新しく搭載されたどこでもセーブ機能をつかってなんとかエンディングまでたどりつこうというものです。

なにげなく、マリオ3をクリアしたところから始まり、魔界村、マイティボンジャック、
そして先日グラディウスをクリアし、現在アトランチスの謎に挑んでいます。

あの頃、何十回、何百回と挑戦し、クリアできず、ストレスを解消するはずのゲームでストレスをため、奇声を発し、時に涙を流していた過去がまざまざと蘇ります。

でも、改めて言いたい。大人になってそれなりに経験も積んで、心も身体も大きくなった今だからこそ改めて言いたい。

えぐいわ。

ファミコンソフトえぐいわ。

まじで、こんなもんよく普通にやってたわ。
今の時代にこんなもの売りだしたら間違いなく苦情くる。

初見殺しに、想像すらできないゴール方法、重要なところで運で構成されるゲームバランス、
どれをとってもむちゃくちゃで、これを当時普通にクリアできていた小学生は本当にいたのだろうか。

子どもにおもねることなく、
社会に迎合することなく、
あえてプレイヤーに挑んでくる、
ある種のいやらしさすら感じるこのファミコンゲームの数々。

久々に頭のスイッチがばっちりオンになって、そっちがその気ならこっちも負けるものかと、
情熱だけは燃やすものの、とにかくリフレインするゲームオーバーの音、
ストレスもがんがんたまり、散々に巻き戻しモードを使いながら挑んでも、
心と身体の限界をすぐに迎え、平均3日以上の時間を費やしてなんとかクリアまでこぎつけるわけですが、

もう一ついいたい。

エンディングがしょぼいわ。

こんなに苦労して・・・こんなにイライラをためて、やっとクリアしてきたプレイヤーに見せるエンディング・・・
あの頃見れなかったエンディング、やっと見ることができたあの憧れのエンディング。

しょぼいわ!しかもすぐに2周目にいかそうとするその姿勢。

すがすがしい。

でも、この年になっても、何度も繰り返すことで、脳は学習し、それを目に指にスムーズに電気信号を送り、間違いなく進化するのだということを実感できた。

グラディウスに関してはそれが顕著で、
自分自身がゾーンに入った瞬間に、弾がスローに見えるし、
もっというならば、目で見る前に指が勝手に攻撃を回避するという、
神がかり的なプレーが出ることが何度かあって、
それがでた瞬間に感じる快感は長らく味わっていなかったなとしみじみしたものです。

そして、昔はその瞬間を、ポテチまみれの手で、仲間と共有し、狂喜乱舞し、興奮し高揚に包まれるような時間の中にいたのだなと、なにかセンチメンタルな気持ちにもなりました。

人生にも欲しいよ、上上下下左右左右BA。







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Title: ONMC
2020.05.10

いままで、誰かの為に何かをすることで得てきたことを、
自分の為に使いたい。

自分が「生きる」ことの為に使いたいと、
つまるところその欲求なんだろうな。


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Title: ここではない場所。
2020.05.10


自分の場合、文字を生み出す場所というのは、現実世界とは少しずれた場所にある。その場所が久しく遠くに感じる。

現実とはつまりは、税金の支払いであったり、給与の振り込みであったり、健康診断の結果であったり、締め切りの迫る書類であったり、いわば、

「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり
「生きていくためにこなさなければならないこと」の延長にあるような類のことだ。

その「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」を片づけると、それはそれなりに達成感もあり、充実感も得られるので、その充足感を得ては休息し、そしてまたその現実の問題を粛々とこなしていくというのがルーティーンになってくるのだけど、

その生活の中でどうしても満たされないものがある、それは

「どこのだれのためにもならないけど心地のいいこと」であったり、
「それがなくても誰も困らないけど、わくわくする時間」
のような類のものから得られる、自分の中にだけ生まれる小さな満足感だ。

あってもなくてもいい時間を自分のために費やすということ、そこに満足感を得るということの大切さに年をおうごとに気づかされる。

自分を自分たらしめるものは、きっとそこにある。

なぜ年をおうごとに大切なのかといえば、年をおうごとに、自分を自分たらしめるものの前提が、「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」の中から生まれてくるからだ。

昔はそこに境目なんかなかったのだけど。日に日にその間にある溝のようなものが深くなる。

そこから生まれてくる、「自分を自分たらしめるもの」というものも、間違いなくその瞬間の自分であることは間違いなのだけど、これから5年10年して、または20年30年生きられたとして、その時の自分を自分たらしめるものが、そこから生まれたものだけで満たされている自分というものに、一抹の不安をぬぐいされずに、その小さな棘が何年も心に刺さったままになっている。

自分らしさとはなんだろうと。

ここにきて、その問いが頭と心に薄い膜をはったかのようにまとわりつく。

でも、本当は答えはわかっているのだ、それは「こうあるべき」自分の世界から脱却であり、もっと世界は自由である実感を得ることなのだ。
そこに付随して自由から得られる痛みや孤独を我がものにすることなのだ。

まえにまえに。



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Title: さくらさくら。
2020.04.04

気づけば桜も見頃を過ぎて、
満開に気づけないうちに、
いつのまにか舞い散り始めた花びらを見上げ
ふと立ち止まる。

志村けんのことを思うと、
幼少期の記憶であったり、家族の記憶であったり、
大人になる中で思い返すことも少なくなってしまった
「あの頃」の記憶が次々に呼び覚まされる。

その記憶が心の奥底にある柔らかい部分に触れて
なにか温かいものが流れ込んでくるような気持ちになる。

数年前に、自分が子供の頃に腹を抱えて笑い転げていたのと同じように、
自分の子供たちが、バカ殿を見ながら腹を抱えて笑っているのをみて、
なにかとても嬉しくなったのを覚えている。

間違いなく、自分は志村けんの笑いの中に育ってきたし、
変なおじさんも、だっふんだも、アイーンも、
これからも記憶の中にずっと生き続けるのだと思うし、
「あの頃」を共有できるたくさんの同世代の仲間の中で、
いつまでもこの笑いは消えることなく続いていくのだと思う。

感謝。

*

様々な情報や想いがあちこちで交錯して、
そのひとつひとつに、脊髄反射で心揺さぶられ、
いろいろなところが疲弊する毎日なのだけど、

先日ひたすらに土いじりをしていて思った。

目に見えぬ不安や、
日々変化する情報や
様々人たちの思惑や
反射的にわいてくる感情、

そんな形のないものに日々さらされ、
なにか心が疲弊している時には、
感触とか、体感とか、感覚とか、
五感を伴って、今自分の中に感じることのできる、
確かなものをしっかりと味わうことで、
心が少し落ち着いてくるような気がする。

心がふわふわしたら、鉢植えでも植えたらいいんだ。

皮肉にも今になって、
日常がいかに砂上の楼閣、
些細なことで簡単に一変してしまうのかということを痛感して、
あたりまえこそが、かけがえのないものなのだということを再認識したり、
誰かを想い、支え合おうとすることの温かさに触れたりして、

人間のいい面も悪い面もごちゃまぜのこの世の中で、
五感と感性と愛だけはロックダウンできないぜ。
などと嘯きながらフラカンを聴き、
昼間の高速を走る日々です。

今切実に望むことは、居酒屋で笑いながら、
生中を飲むことです。

だっふんだ。



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Title: THNK
2020.01.04

惑っていることにすら自己肯定をできるほどに、いろいろなことが器用になって、
取り繕うことも、無難にこなすことも、それなりの結果で満足することにも疑問すらわかず。

踊り場まできただけなのに、そこに座って、陣取って、階段をのぼってくる人を満足げに眺めながら、
世代が変わっただの、自分も年を取っただの、なにか流れゆくものに浸りきって、
あげく一息つきたいだなんて漏らしたりする。

結局なにも成し遂げないままこの年になってしまったというだけなのに、
その現実を直視したくないからなのか行動しないことにすらうまい言い訳をみつける。
くそみたいに自己肯定ばかりしたくなる。

自分で肯定してやれなきゃ前に進めないような生き方が
この39年の集大成なのかとおもうと、
いままで生きてきた時間は何だったのだろうかと、
悲しくもなるのだけど、

それも全部ひっくるめて、人が一人生きてくるということがどういうことなのかということが肌身に染みていることだけは間違いなのだ。

根拠のない自信も、
よくわからない直感も、
死んだらその時だなんていう思い切りも、
側面的な正義感も、

今の自分の中からは失われてしまったと思っていて、
その喪失が自分にもたらすものが、大人になるということであり、
老いであるというものだと、その事実をとてもネガティブなものだと思っていたのだけど、
それはどうやら違うのかもしれない。













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Title: あれから、。
2020.01.04


最近あまりに昔のことをよく思い出すもので、
これはなにかの前触れか、または一種の走馬灯のようなものなのだろうかと、
自分の中に起きていることにすこし困惑もしていたのだけど、

でもふと気づいたのだけど最近思い出すことのほとんどは、もう失われてしまったものについてばかりなのだ。

もう取り壊されてしまったものや、
もういなくなってしまった人や、
もう二度と行くことのできない場所や、
もう感じることができないものや、

時間とともに変化し、失われてしまったものを、思い出してみると、
その時には気づけなかった重要な意味や価値に気づかされたりして、
同じ映画をもう一度見直すかのように、
自分がこの年になってみて改めてあの言葉行動のひとつひとつに灯っていたものに気づかされる。

*

真宗の教えって、子供に帰っていくような感覚に近いのかもしれない。

子供が子供でいることの安心感を知らず知らずのうちに忘れていることに、あらためて気づかされ、
大丈夫と言われることのあたたかさに包まれることなのかもしれない。

*

なにも解決できなくてもよい。
ともに笑い、ともに泣き、ともに怒り、ともにあること。
人間のできることは、たかがしれている、たかがしれているからこそ、
その「たかが」生きることにどれだけ向き合えるかということ。
自分の人生は「たかが」ではなく、特別なものであり、
「たかが」なんて言われたくないという思いが
「生活」の中で大きく膨らんでゆく。

*

小手先ではなく、1からやり直そう。
うちから紡ぐことを。
ながい助走時間だったかもしれない、
わかったような顔をして過ごしてきたかもしれない、
いろいろなことが上手になったかもしれない、
知らず知らずに傲慢になっていたかもしれない、
登り切ったような顔して、踊り場から下を見下ろしたまま、
登ってくる人たちをながめて、余裕な顔して微笑んだりなんかしてたかもしれない。

そんな自分自身を自己肯定することもとても上手になった、
書くことにも、話すことにも、読むことにも、
言い訳をみつけては、それを正義だと思い込んで、
たださぼってきていたのだ。

1からやりなおそう、
この区切りに、もう一度やり直そう。

*





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Title: ノストラダムス。
2019.12.12

1999年、その頃の自分がなにを想い、誰とどこでなにをしていたのかを鮮明に思いだすことは難しいのだけど、2000年になる瞬間に、暗い部屋の中で、パソコン向かいながら、ずっとノストラダムスのことを考えていたことだけは覚えている。

ノストラダムスを知ってからずっと、どうせ1999年に人類は滅亡するのだという、どこかふてくされたような思いがくすぶりつづけていたのだけど、そんな思いはミレニアムの幕開けとともに何事もなかったようにかき消されて、世界は終わることなくまわり続けている。

ノストラダムスの名前も、はるか深く記憶の底に沈んだまま今を生きている。

でも思うのだ、自分がもしノストラダムスと出会っていなかったら、きっと全く同じ今の自分にはなれなかったのではないかと。

そう思えること、ひとつひとつの出来事が良し悪しではなく、一つの事実として積み重なって、その一番先頭にあるものが今この瞬間であるという偶然性と必然性に、人生の意味や意義などというものは些末なことであるということを知る。

同時に、不自由な中にこそ自由があり、自由なことが不自由であるいうことの輪郭がとてもはっきりしてきたように思う。

*

また少し言葉の中に身を置いてみようかと、決して強くもなく、確固たるものもなく、ふんわりと。
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Title: 波。
2019.10.16

何度経験しても、あのほの暗い蓋の向こう側にいくことが、
終わりで、お別れであるという理解では、心が追い付かず、
やはり、あちら側への入り口で、またいつか倶会一処なのだと、
信じるしかないわが身に白旗。

涙の数だけ強くなれるというのなら、
強くなんてならなくていい、
強くないままに、どう生きねばならないのか。

それを問うのが大事なのだと思う。

*

様々な真実を、境遇を、背景を、
知るということは人を寛容にする。

知らないからこそできること、
生み出せるエネルギー、
成し遂げられること、
寛容では行き着けない場所、
そういう場所で、一歩一歩前に進んで、
不寛容を肯定する生き方の中では、
決して感じることのできない感覚があると思う。

その想いはおぼろげではなく、もはや確信に近いものになりつつある。

*

後悔しても取り返せないことというのがある。
その忸怩たる思いを、
この先自分の中で、大事な糧として、
心にささった棘をそのまま抜かずに、
大事にしていこうと思う。

そしていつか倶会一処、その時に、
改めてその後悔を伝えようと思う。

*

自分の身体の使い方を、頭の中で反芻しながら調整していく。
なんでうまく動けないのか、なんでさっきうまくいったことが今回はうまくいかないのか。

ひさしぶりに身体をおもいっきり動かして、
感覚と理屈をフル総動員しながら、同時に自分に足りない筋力にも気づかされながら、
ひとつひとつレベルアップしていく感覚を味わっている。

身体を動かすこと、できないことができるようになること、
自分自身に目を向けること、
つくづく自分はそういうことに心地よさを感じる脳みそなんだなと、
けだるい心地よさの中で幸福感に包まれる。

*

幸福感というと、

同じようなところを何周もまわって、
同じような穴に落ち、
同じような石にけ躓いて、
同じところに傷を負い、
同じじゃないところに立っている。

そんなもんなのかもしれない。

*

同じように身体を動かしていても、毎回同じ結果が出るとも限らない、
人生も同じで、その時の風や、熱量や、様々な要因が重なり、
その瞬間があるわけで、
経験は勝率を上げるけど、
経験だけで勝ち抜けるようなものではなく、

つねにその後ろにある、目に見えないなにかを感じる心を
さびつかせてはならないわけで。















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Title: |
2019.08.27

「目に光が灯る」という言葉がある。

若い時、なにかを形にしようと、何かに向かって頑張ろうと思う時には、気合いを入れて、身体のどこかに力を入れて自分自身を奮い立たせ、内側からみなぎるエネルギーを四肢に込め、全身で力を、勢いを想いをあふれんばかりに吐き出そうとしていたように思う。

それは思うに、それは自分の力でなにかを捻じ曲げてでも、ねじ伏せようという力なのだったと思う。

それから、いろいろなことを経験し、「頑張る」ということの素晴らしさも、残酷さも、喜びも怖さも感じてきて、最近思うのは、なにかを成し遂げるときに必要な力は、五体四肢に込めるだけではなくて、目に灯しておかなければならないのだということ。

全身に青あざを作り、汗流しながら必死に髪振り乱していても、目に灯る光が消えかけてしまったら何も進まない。
もう立ち上がれないと、心も身体もくたくたになったとしても、目に灯る光が消えなければ必ず先に進める。

いろいろな人を見ていて、どんなに熱く夢や希望を語っていても、なにか目に見える形を残している人でも、目に光の灯ってない人たちがいる。小手先だけで形は整えられても目の光は嘘をつけない。

逆になにをどうして始めていいのか、どうやって前に進んでいいのか迷いに迷っていても、目にしっかり光の灯っている人がいる。

その差はとても顕著なのだということをまざまざと感じた夏だった。

目に光を灯すために、自分に何が足りないのか、なにをみて、なにを感じて、なにを発して、自分自身の様々なフェーズの中で、右往左往翻弄される中で、いなし、逆らい、流され、おぼれかけながらも、目に光を灯せ続けられるように、もっと自分の取り扱いを、変わりゆくことを恐れずに、楽しんでいきたいと思う。

*

つくづく、自分の中のおぼろげな仏教が、
ことあるごとに、あぶりだしてくるのが、
「人間の分限」を知るということ。

分限というのは、限界とは違う。

分限はすなわちそれは、手を放すことなのだと思う。

そして手を放したときに、救われるしかない自分の現実というものが、
諦めや敗北とは違う意味で、すごく心の中の、
どうにも人の中から生まれてくるものだけでは埋めきれない、
重箱の隅のような部分を満たしてくれるような実感を感じている。

*

「夏にしか感じられないこと」は自分にとって特別なことなのだけど、
それはいつも同時に、冬にしか、秋にしか、春にしか、そして今日にしか、
今にしか感じられないことがあるということをまざまざと教えてくれる。





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Title: eneru
2019.08.06

エネルギーには2種類がある。

内側から湧いてくるものと、外側から流れ込んでくるものだ。

その内から外から湧いてくるエネルギーを心のどこかに貯めておきながら、
それを補充しながら、なみなみに満たされている状態がベストなのだけど。

そのタンクには、3分の1ぐらいのエネルギーしか満たされていないのに、
内側からも湧いてこず、外側からはいってくるものも十分に取り込めず、
空炊き状態で、その熱くらってやられちゃうときもある。

むしろ、年を取るということのデメリットに、省エネでも動けるということがある。
いやむしろ省エネでしか動けなくなるのだ。

なみなみに満たされた燃料はむしろその重みに燃費を悪くする。
軽い状態で省エネ運転するのが負担が少ないぜなんてことを、
頭ではなく、身体が自然とこなすのだ。

使わないものは衰える、身体も心も、感性もすべてだ。
それを使うにはエネルギーがいるのだ。

それをどうにかいれなければいけないのだ。
タンクがさび付く前に。

*

何年かぶりに、ぷちっと次のステップに上がる手ごたえを感じている。
ずっと、ここ何年か、同じ場所でずっと足踏みをしながら、なにもかもに焼き直しをしながら、
自分の今持っている技術や武器や能力を再確認しながら、
その使い方を持ち方を、衰えるなりの素振りに、姿勢に、体勢に適応させようと、
ひとつひとつの動作を所作を、丁寧に確認する作業をしてきたように思う。

自分の勝ち筋、自分のルーティーン、自分のパターン、
その中で力でねじ伏せることで、成し遂げてきたことを、
いかに力を使わずにおなじ道筋をたどるか、
そこに注力してきたように思う。

そこで気づかされたのは、
力まずとも、力をだし、
力をだしつつも、力まないコツ
のようなものであり、

そのコツの一番深い部分にあったのは、
言葉にするととても陳腐な響きなのだけど、
自分を信じ、頼り、そしてなによりも、自分の範疇を手放すことなのだなと。

そして、人は一人では生きられないけど、
でも現実は一人きりなのだという事実を、
喜びをもって受け止めることなのだということだ。

*

あれやこれや、こねくりまわして紡ぎ倒して、
結局のところでてくるのは、
あの頃と何ら変わらない、
青臭いものでしかないのだ。

でもそれをもう青臭さとは呼ばないことにした。

*

悔いはない。後悔もない。
思い残すこともない。

と、心から信じて疑わない精神状態の時こそ、
ものすごい執着が心の中には渦巻いていて、
結局のところ、人間てものはつくづく人間なのだなと、
その業の、執着の深さには、
いまさらながら、まさに救われることでしか救われないわと、
その実感が自分のものになりつつあるような気がする。

*

なかなか引きはがせなかった。
おもいっきりに力ずくでひっぺがそうとしてもはがれなかった、
日常とか、今とか、そういうものに癒着する自分を、
無理やりにでもはがしたかった。

それは旅であり、言葉であり、曲であり、海であり、夏であり、匂いであり、夜風でもあり、
愛でもあり、塀の上をあるくことでもある。

無理やりにでも時々ひっぱがしておかないと、はがれなくなって、一体化して、
自分が、今に、日常に、一体化してしまうような怖さがいつまでも拭い去れなくて、
それはもう躍起になって、べりべりと、かさぶたのようなところから血が出ても、
力ずくではがさねばという焦燥はどこからくるのだろうかと、
自問自答する。

自問自答しながらも、ありとあらゆるものに頼り、ひきはがそうと試みる。

散々そんな抗いを続けてみて、もうほとほと疲れて、
息をついて、もういいやと、このまま自分がどこに埋もれて消えていってもいいやと、
開きなおってみると、みるみる沈んでいって、
沈み始めてる最中には、焦りや、怖さや、どうにもいえない苦しさの中でもがいたりもしたのだけど、
もがく力も失って、底まで落ちてみたら、
なんてこたない。

そうかそういうことだったのかと。

結局のところ、年を取ることと、ひっぺがせないことの相関関係もよくわかって、
そこに気づかされたら、なんてこたない。

そういうことだったのかと。

おもしろいもんだな。

堂々巡りして、同じところを、同じじゃない自分が堂々とめぐるのだ。


*

身体も、心も、手も足も、頭も、
いままで共に生きてきたこの五臓六腑は、
思いのほか、自分をしっかり自分たらしめているのだなと。

いままで、それを全部使い倒してやるつもりだったけど。
決してそうじゃない。

この五体、五臓六腑は、
まぎれもなくどこまで行っても、
自分を自分たらしめるものを、
自分よりも覚えているものなのだな。







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Title: 向。
2019.07.09

大きな肉の塊を眺めながら、この中にじっくりと火が入っていく様子を想像する。

実際に目には見えない熱の流れを、頭の中でシュミレーションする。

焼き目を付けるフライパンの温度はどのくらいがいいのか、この熱さのフライパンの上に脂身の面から、お肉をのせたらどんな音がするだろうか、何秒でどんな色の焼き目がつくだろうか。

そしてオーブンに移した後に、外側から内側へ、徐々に浸透していく熱のスピードをイメージする。どのくらいの温度で焼いたら、外側が焦げるスピードと、内側に熱が向かうスピードのバランスがいいだろうか。

何度もシュミレーションをして、オーブンの余熱を始める。

一度ガスに点火をしたらもう後には戻れない、
オーブンメーターをみながら、室温を一定に保つ。

本当は音とか、匂いとか、見た目の変化や、肉の弾力をみながら状態を把握する、
とか言いたいのだけど、そんな技量は自分にはまだない。
なので、ある程度はセオリーを守り、数字を頼り、失敗を繰り返し経験値を積むしかない。

肉の表面からじりじりと肉汁があふれてくる、少し赤みがかった肉汁が透明に変わるタイミングを見逃さずにベンチタイムにはいる。
肉塊を焼き始めて思うのは、このベンチタイムの重要性だ。

肉はオーブンから出した後も余熱で中心温度は5度はあがる、アルミで包むとさらに余熱は進む。イメージした出来上がりから逆算してベンチタイムに入るタイミングを割り出す、そこで肉汁が肉の中にしっとりと落ち着いて出来上がりに大きな差を生む。

そして最大の決断はベンチタイムをどこで終わりとみるか。
その決断を下せるのは、他でもない、トランプでもない、
火入れをはじめた自分しかいないのだ。

その重圧を乗り越えて、肉塊をまな板に置く。
何度肉塊をやいてもこの一刀を入れるときには緊張がはしる。

肉を焼き始めた時にやりがちなのが、ここでびびって、いきなり大きく肉を切ることはせずに端っこの方に包丁をいれてしまう、するとたいていの場合、端の方はよく火が入っているので、その色味に火が入りすぎてしまったと思い落ち込むという「あるある」だ。

そんな経験を繰り返してるだけに、最近ではそんなことではひるまずに、端の方の色味に一喜一憂せず、ゆっくりと、そして厳かに肉をスライスしていく。

そして一番の厚みをもつ、Top of the meatを両断したときに、そこにしっとりと肉汁のベールをまとった、ピンクがかったロゼの切り口があらわれ、それは衣のように、ナイフがまな板に到達するかしないかの刹那に、ふわりと倒れる様子をみた時、

ああ、肉を焼いてよかったと思うのだ。

そしてその安堵とともに、サーブする前の切り落としに、スプーンでソースをたらし、口の中にほおりこむ。

大抵の場合、ここで冷蔵庫から冷えた缶ビールをだしてきて、一人で祝杯を挙げる。
張りつめていた緊張が一気にほどける、その一瞬のシェフタイムの至福はなににも代えがたい。

キッチンは戦場だ。

そしてそこで得る勝利とはなにか、それはいつだって五臓六腑が教えてくれるのだ。


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Title: HUMP
2019.04.18



今を、存分にそのままに表現することは、

それだけでまぶしい。

若さも老いも、全部、その時その時に、

そのままをまるっとさらけだすということは、

それだけでまぶしい。


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Title: 反布。
2019.03.15

青臭さとか、不完全さってのは、
それは若さというものをつくるうえで不可欠な要素で、
つまりはそれが完成形で。

その完成形の中からしか
響かせることのできないものがある。

そこから生まれた「響く」というものを
忘れないようにしたい。

そしたらそれは、老いることでしか完成できないなにかになるし、
そこでしか響かせることができないなにかになるのだと。

そうおもって、若さにあてられながら、
いろんなものをこそげ落とす。


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Title: じわる。
2019.01.06

じわりと。

じわりと夜風に年末感がでてきたと思っていたら、いつのまにかもうじわりと正月のあける匂いがする。

じわりと。

昨年は時間の流れというものをすごく肌で感じた1年で、10年一昔とはいうけど、10年という時間でできたこと、できなかったこと、変わってしまったこと、変えられなかったこと、その一つ一つに思いをはせながら、これから先の10年にどうありたいかなんてことを考えた。

無常といえばひとくくりなのだけど、つくづく痛感するのは、変化というのはある日突然、敷居をまたぐかのようにやってくるのかといえばそうではなくて、いつだってじわりとやってきているのだということ。

ある日突然変わってしまった光景も、まだ変わってないこの光景も、ちゃんとじわりじわりと進んでひとつの結果になっただけで。

家族でこうして食卓を囲めるのもあと何年なんだろうかとか、この人とこうして会えるのもあと何回なんだろうかとか、いつまでみんなが健康でいられるんだろうかなんてことを、他人事ではなく思うと、やっぱりこの瞬間にとどまってるものはなにもなくて、いろんなことが、あり方が、関係が、ちゃんと刻々と変化していて、

あたりまえに「今」はしっかりそのときに向けて進んでるんだなという実感と、
そこで生じる思いを自分の中でどうしょうもなく持て余したりもするのだけど、

そんなじわりとした感じを、あじわいながら、楽しみながらこれから先を過ごしていきたい。

今年もよろしくお願いいたします。

今年はいままでできなかったとても大きなことに取りかかろうとおもう。
楽しみながら、じわりじわりと。



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Title: 十年一昔。
2018.12.13

十年一昔という言葉を反芻するように味わう。

この10年の実感を言葉にするなら、まいた種が、芽をだして、試行錯誤の中で育て、すくすくと伸びて開いた花が、そろそろ鉢植えでは手狭だなと感じるくらいの時間だった。

種からひとつの花を育てるという時間、その経験のすべてが今の自分の思考や行動や、理想や夢想のすべての要素に深く絡みついて、絡みついた先からまた新たな種を落とす。

今はその種をまた蒔いて、次の10年であたらしい花を咲かせたい。

そんな作業をあと2,3回するくらいの命の時間が残っていればいいなと思う。

*

それと、十年一昔と同じくらい、サイクルという言葉を実感として感じている。

昔自分の見てた景色の先に、今自分が立っていて、そしていま自分の見ている景色は、
きっと10年前にここにいた人がみていたであろう景色なのだろうということが体感の中でつながって、

その景色がつながっていくこと、そのサイクルのようなものが、
結局のところ人生という簡単な言葉の中に集約されていくのかもしれない。

その一瞬一瞬のその場所で、様々なことを感じ、その感覚を味わい、世の中の道理のようなものが涵養するように自分の中に落ちてきた時、その大きなサイクルを前に、ただただシンプルにわいてくる感情の中に身を沈めてみると、

生きるということを表現するときに必要なものは、言葉とか、功績とか、ましてや見栄や体裁なんてものではなく
どこまでいっても、ありのままということは、その瞬間的な偶然にすぎないという、あたりまえの事実に深くうなづく姿勢のようなものなのかもしれないなと。

その表現こそが、根源的ななにか、共通項に働きかける作用みたいなものを、実践的に試すように、言葉の中や行動や視線の中に落とし込むように使ってみたいとおもう。

*

道理というものを、頭ではなく肌感覚で通せるようになりたいなと。

*

リスクだらけの中を涼しい顔で進んでいく人もいれば、何もないところで、けつまずく人もいる。
その差がなんなのか、おぼろげながら見えてきたような気がする。





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Title: あなほり。
2018.11.09

「穴」を掘っている。

今日で3日目、毎日毎日せっせと飽きもせず穴をほっていると、あちらこちらから人が集まってきて、大きな輪になり、その輪はさらに大きくなり、ブームになる。

ブームはこうして起きる。

「ただ穴を掘る」

だけなのだけど、

穴を掘るという遊びの中には、たくさんのプロセスが詰め込まれているし、
ただの穴掘りは社会の縮図だったりもする。

指示をだす、空気を読む、作業を予測する、効率を考える、輪を広げる。

年少から年長からアラフォーまでが一緒になって穴を掘る。

大きなスコップを使えばあっというまに終わるのだけど、
あえて大きなスコップを使わないことでそこから工夫が生まれたりする。

とても印象的だったのは、

普段遊びっぱなしでほったらかしにされがちな砂場道具たちが、
主体的に遊びに関わることで、明日使うときにないとこまるから
ちゃんとしまっておこうという子がいたことだ。

「遊ぶ」ということは「学ぶ」ということだ、
質の高い遊びとは、つまりは質の高い学びである。

だから、今日も穴を掘る。


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Title: 園庭
2018.10.30

この時期の園庭はとても尊い。
 
4月でも5月でも6月でも7月でもなく、この10月の運動会が終わってからの園庭の様子がとても好きだ。

不安でいっぱいな新学期、子どもたちは園庭いっぱいに広がり、自分の居場所探しをする。

そして居場所探しをする中で、少しづつ仲間を増やして、その関係性を楽しみながら、園庭いっぱいに広がっていた子どもたちは、少しづつ小さな輪になり遊びはじめる。
それでもまだその輪は、自分と自分の気の合う仲間の小さな輪、その小さな輪は、運動会の練習が始まった頃から、やがてクラスの輪になり、クラスを超えた輪、学年を超えた輪になりはじめる。そしてそのたくさんの小さな輪が、やがて大きな一つの輪になっていくような実感がある。

その心の距離はそのまま物理的な距離になって、子どもたちの間にある空間が小さくなっていく。

その変化はとても顕著で、4月からの園庭の様子をタイムラプスかなにかで撮影してたらとても面白いものになるんじゃないかと思う。ある園長先生は、そのことを「園庭の嵩が減る」とおっしゃっていた。若い頃にはその感覚がわからなかったけど、いまははっきりとその嵩の増減がわかる。その嵩の増減がそのまま、自分たちのしてきた保育の答え合わせでもある。
 
居場所ができて、気の置けない仲間の中で、遊ぶことに没頭できてはじめて生まれてくる遊びの数々、そしてそれを彩るたくさんの秋の恵み。
 
芋の弦で綱引きをして、落ち葉をあつめ、もみ殻を吹き、おままごとをして、高度な鬼ごっこが子どもたちだけで完結していく。
 
ただ繰り広げられるそんな日常の中に、本当に信じられないくらいたくさんの変化があって、なによりもその変化や空気の中で心地よさそうにしている子どもたちの表情はとても尊い。
 
いつまでもこんな顔で生活をしていけたらいいのだろうけど、そうもいかないのだろうな。
 
だからこそ、社会にでて、なにか辛いことや苦しいことがあった時に、この原体験や心地よさが、ここ一番で自分を支える何かになってほしいと心から切に願う。

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