Title: 尋
2011.03.25


1つの行動と、1つの発言は、賞賛と批判を同時に持ちうるもので、

その二面性こそが、この世のすべてで、人間が生きるということそのものなんだろうと思う。

1つの波紋はうねりになって、大きな流れを生み出す。

その流れは、正しいのでも間違っているのでもない。

ただ上から下へ落ちてゆくようなものなんだろうと思う。

自分にどうにかできるのは、自分の手の中にあるものだけだ。

ここにきて、なにかをあきらめたくなるのも通り越して、

ここから先の自分の立ち位置を探し始める。

人は一人で生まれて。一人で死んでいく。

この言葉をさんざん寂しいと思った先に喜びがあるのかもしれないと思う。

必要なのは強く前を見据えることではなくて、ふかく頷くことなのかもしれない。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 満月。
2011.03.19


満月。今日の月は特別だそうだ。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 311
2011.03.18

自分では意識してるつもりはないけど、自分の発言は完全に「思想、哲学、宗教クラスタ」というところに分類されるそうだ。自分のツイートを見ている人からそういわれて、改めて自分の考えることを客観的に分類すればたしかにそうかもしれないと思った。

そういう前提の上で、ここ最近自分の中に散らばっていたことや、様々なツイートを見る中で感じたことを時系列に沿ってまとめておこうと思う。リアルに自分の感じたこのなので感情的な部分も含まれてて、きっと不謹慎だと思う人も、腹の立つ人もいるだろうけど、できるだけリアルなまま残しておきたいので、そのまま書き留めておもうと思う。備忘のために。

地震の起きたときは幼稚園にいて、ほとんどの子どもは降園していたけど、子どもたちとご父母の方々をあわせて50名近くの人と、職員が園内にいて、その子どもたち全員を無事に避難させて、帰宅させることができた時の安堵感は一生忘れないだろうと思う。それから家に8時間かけて戻り家族の無事も確認できたのだけど、、その時に自分でもびっくりしたのは、地震がおさまって、幼稚園の子どもたちを送り届けたときも、家族の無事が確認されたときも、家族に会えたときも、安堵もしたし本当に安心したのだけど、でも気持ちはしっかり保てていたのに、本堂に入って、少しはがれ落ちた壁にまみれたご本尊を見たときにはじめて、緊張の糸がきれて、いろんなものがこみ上げてきて、本堂でしばらく座り込んだ。

そこで自分の中で想像以上に阿弥陀さんの占めるウェイトは大きかったのだなとしみじみ感じた。同時に、きっと自分は何があっても、本堂さえあればいつでもお寺も自分も立て直すことはできるなと思った。

*

夜が明けて、被害の状況が報道され、テレビに映し出される被害状況を見て、はじめに感じたのは、人間の非力さとか無力さとか、一夜にして、こんな状況になってしまって、一瞬で日常がこんなに一変するなんて、人間はいつもこの世の支配者のような顔をしているけど、本当はこんなに無力なんだということを痛感した。

でもそれから、被災した方々の状況をみていて、はじめに無力だと感じた人間の中にある、底力とか、強さとか、そういうものをまざまざとみせられた気がした、各方面からの支援に関しても同様にそう感じた。この一夜で、人間の無力さと強さと、その両面を一気に見せられた気がした。

人間は儚くも強い。

*

その後の世の中の流れをみていて、支援の為の義援金を募ったり、現地に足を運ぶ人たちがいるのをみて、自分はここでテレビを見てることしかできないのかと思ってすごく自分の無力さを感じた。

それと、義援金を送ろうと思った時に、なんか暖かい部屋で、テレビをみながらクレジットカードで義援金を送る自分の中にある矛盾とか、後ろめたさとか、なんかそういうジレンマを感じていてもたってもいられなくなるような感じがした。

それでもそれは大事な事だと思うし、理屈ではなく被災地を復興するのにはお金が必要で、そこにある思いや背景なんかよりもどんな形でもお金を集めることは急務だと思うし、自分がもちゃもちゃしてるうちに、そういう行動をすばやくできる人たちは本当にすごいなと思った。

*

そんな中不謹慎狩りみたいのが始まって、自粛自粛、不謹慎狩りムードの中で、なにか物資を送ったり、お金を寄付したり、有益な情報を拡散することだけがそんなにえらいのかと思った。

アニメを流したテレ東が不謹慎だといわれたけど、あれに救われた子どももたくさんいる。

なにもしなくてもただこの数日を笑顔でいることだっていまできることの大切なことだとも思う。

東北に比べて状況は切迫してないけど、それでもこの首都圏でもはじめての大きな地震を経験して、その中で、自分の親や子どもを安心させることに一生懸命な人もいるし、なにかしたくても願うことしかできない人もいるし、それでも十分にいまこの状況でしかできない大切なことだろうと思ったし、こういうときだからこそ普通に生活する、そのあたりまえに全力を注ぐことを忘れちゃいけないと思った。

そういう人が普通のツイートをするのを批判している人をみて、自分の価値観でいいたい放題いいやがって、そういう人がいつも正義を振りかざして、何食わぬ顔で人を踏んづけてることにも気づかないんだとすら思った。

*

スーパーのレジや駅とかで駅員や店員とかに怒ってる人とかみてて、ニュースはあくまで自分の生活とはかけ離れたところで起きているものだと思っているからそういうことができるわけで、もしかしたら目の前の店員さんや駅員さんが東北出身とか、親戚が東北にいるとか、そういうこともっと想像したらいいのにとか思った。ただの想像かもしれないけど、そういうことをすこし頭に入れて行動するのを「思いやる」ということであり、自分の中に落とし込むということなんじゃないかと思う。

自分の中に落とし込まないところで、表面的なところだけいい人っぽいのはすごい嫌だから、自分はできるだけそういう人にならないようにしようと思う。

なんか他にも、みんなが自分の事として受け止めていれば、そんなこと言えないだろうな・・・と思うような発言をする人が多いように感じた。なにか行動をする時、目の前の状況に、しっかりと自分を置き据えて考えれば理屈じゃなく、おのずと答えが出てくるし、行動できるんじゃないかと思う。目の前の人を我が身と同じように考えるというのは簡単なようでむずかしいのだと思った。

*

支援とか心配とか祈りとか、こういうときこそ、目に見えるアクションが必要なのは誰でもわかる。だからこそそこで大事なのは、アクションにだけにスポットをあてるのではなく、そのアクションを通して、その先にいる人にまでスポットがあたるようでなければならないんだろうと思う。

目的と手段はいつだってごちゃごちゃになりやすい。

義援金も物資の支援も、それだけが目的はなく、あくまでそれで一人でも多くの被災者の方が笑顔になれるかどうかであって、その目的から逆算して考えれば、支援の方法にも幅をもたせることができるのだろうと思う。

ただ状況をよめない勘違いした支援だけには気をつけなければいけない。ものには順序とタイミングというものがあるから。

*

ツイートを見ていて、ツイッターのすごいのは、世の中の空気みたいなものを感じられることだと思った。

それに、この短い文章を何度も発信することで、その人の人柄みたいなものがほんとによく浮き彫りになっている気がする。積極的に発言する人(拡散やデマも含め)、周りの様子をうかがいながら最低限の発言する人、正論に反証する人、一歩引いてる人、開き直ってる人、身内の心配をする人、ひたすら共感する人、テレビに文句ばっかいってる人。

こういうときこそその人の人間性がよく見えた気がした。

口ではりっぱなこといってても他人事な人がいるなと思うこともたくさんあって、自分も自分目線になってることすら気づかない他人事のような発言には気をつけようと強く思った。

*

買いだめ騒動で思い出した逸話。

極楽も地獄も、食事の時には1mもある長い箸を使っていて、自分の箸で自分の口に食べ物を入れることができない。極楽では、テーブルを囲んでいる人が、お互いに食べさせ合っている。地獄では、お互い争っていて、食べることができず空腹のままであるという逸話がある。

いま被災地では、少ない食べ物をお年寄りや、子どもたちに先にと譲り合い、みんなが協力をして、みんなでがんばろうとしている。あの地獄ような状況において、佛の心のようなものがみえた気がした。 

一方この首都圏においては、我先に必要以上のものを買い占めるということが起こっていて、水にも食べ物も切迫しているわけではないところでこのようなことが起こる。

被災地と首都圏どっちが地獄の様相だと思った。

*

支援が日本レベルから世界レベルに広がってきて、いろいろな思惑があるだろうこともふまえても、はじめに日本人って本当にすごいな、日本人でよかったなと感じた気持ちが、だんだんと人間っていいなと思うようになった。

*

物理的なケアだけでなく、メンタルの部分のケアがこれから必要になるんだろうと思う。メンタルがしっかり保てれば人間は大概のことががんばれるんだと思う。逆にメンタルが保たれなければ何億円あろうと、物資が整おうと、本当の意味での復興には時間がかかってしまうんだろうと思う。

*

地震のあと白骨の御文を読んで、いままでにないくらい自分の中に腑に落ちた。

*

誤解を招きそうな表現なんだけど、災害に遭うのが不運なんじゃなくて、何事もなく生きていることが奇跡なのかもしれないと思う。

*

昨日幼稚園で、朝子どもを迎えるときに、お母さんたちから子どもを宜しくお願いします。といわれたり、地震の時に園にいた子どものお母さんから涙ながらに、子どもを守ってくれてありがとうございますといわれて、改めて人の命を預かるというのはこういうことなんだと思って、その重さになんかいろんなものがこみ上げてきた。

昨日の卒園式も今日の終業式も、全員を家に帰すまで、気が抜けなくて、胃が痛いくらいで、もう全部放棄して正直逃げ出したいくらいの気持ちのときもあるのだけど、そんな一言をかけてもらえてありがたいし、たいしたことはできないけど、これから先も自分ができることは精一杯やろうと思えた。

被災にあった地域の幼稚園や保育園でも、たくさんの保育者たちが全力で子どもたちを守ろうとして奮闘したんだろうと思う。きっと救いきれなかった命とかもあったんだろうと思うと、本当にやりきれない気持ちになる。

きっとこれから被災地でも保育者の力が絶対に必要になるときがくる。その時にその人たちが顔を上げて子どもたちに向き合ってくれることを切に願う。

*

なんかいまだ不安も心配も続く毎日だけど、今回の地震の件で、はじめは被災地に向けてなにかしなきゃとか、なにができるかとかいろいろ考えて、無力を感じたり、その中でも自分にできることをしたりしながら、今日まで過ごしてきて、ここにきてなんか自分の中でばらばらになっていた行動原理みたいなものが、やっと1つに集約されてきた気がする。

なんかまだうまく言葉にはできないけど、こういうときだからこそ、あたりまえのことをあたりまえに精一杯やろうと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 日本
2011.03.14


がんばろう日本!



| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 保育について
2011.03.10

幼児教育関わる中で学んだことの1つ。

あたりまえのことのようだけど、目の前の人と信頼関係を築くときに一番大事なのは、「気づき」だと思う。誰だって、自分の事によく気づいてくれる人には自然と信頼をできるようになる。その根底には、人間の自分を見てほしいという欲求があって、それを満たしてくれる相手に安心感を覚えるというものだろうと思う。

これは保育に限ったことではないけど、とくに幼少期において身近な大人との信頼関係を築くということは本当に大切なことで、そこでうまく信頼関係を結べるようにしてあげるということは、今後の人生に関わってくる根幹だと思う。

保育をする上で、どんなに理想を掲げても、たとえばいろんな引き出しやアイディア(遊びの展開の方法や、声かけや手遊び)そういう技術的な部分は研ぎ澄まされているのに、いざ保育にそれを取り込んだときに、うまく活用できず活動の中で空回りをさせる保育者がいると思いきや、そういう技術的な部分はまだまだ未熟なのに、早い段階で、例えば夏頃までには保育者と子どもたちの信頼が揺るぎない物になって余裕すらでてくる保育者もいる。

その差というのがそのまま保育者の差で、その差が生まれる根本的な部分には、「気づき」の力の差があると思う。

例えば、朝子どもが来たときに、顔色や普段の様子の違いに声をかけられるか、髪型の違いや、服装の違いに声をかけられるか、そういうのは教えてできることではないし、教えて業務としてやらされると、そうとうの時間と労力を割かなければできるようにはならない分野だと思うけど、その積み重ねの上でしかなしえない保育というのがあると思う。むろんそれができる保育者は保護者に対しても同様に信頼関係を築くことができる。

声をかけたり、なにげないコミュニケーションの数(それが的確であるという前提の上で)は=信頼に結びつく鍵であると思う。

そのベースが築けて初めて、次のステップに進めるんだろうと思う。実践的な引き出しや物理的な引き出しばかりを広げようとして、大事な部分をおろそかにしてしまっては、どんどん思い通りの保育とは遠ざかるのではないかと思う。

なんでもそうだけど、その道を突き詰めようと思ったら、技術やスキルにこだわるだけではなく、まず自分が一番ベストな状態でたてる舞台作りにも着目していかないといけないということだろうと思う。

保育においても、そのベースが築けて初めて、声かけにも保育の導入にもつながりと幅がでるんだろうと思う。保育を「点」で考えるのではなく「線」で考えることのできる保育者の多くは「気づき」の力に優れていると言えると思う。

来年度から入る新卒の保育者の研修をみていて、気づきたくともまだ余裕のない状態だから、すこしでもはやく流れを身につけて、気づける余裕を持てるようになっていってほしいと思う。

そこがまずはじめのステップだろうと思う。

そんななことを思いながらも、でもこの新人だからこそあるパワーというか、勢いというもののもたらす「風」みたいなものがすごく心地よかったりする。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: Just as long as you
2011.03.07

だれかにとっちゃどうでもいいようなことだとしても。

身体を洗ってから湯船に入るのと、洗わずに入ったときの体感の違いとか、アップしてから走ったときと、しないで走ったときの身体の温度の変化の違いとか、深く呼吸をしてから大舞台に臨むのと、そうじゃないときに臨むときの心臓の早さの違いとか、雨とか夜とか夏のにおいを感じてるときの首から下の力の抜けた感じとか、ご飯をよく噛んで食べたときとそうじゃないときの味覚の違いとか、興奮しているときとそうじゃないときの視覚的な変化とか、寝不足の時の許容範囲とそうじゃないときの許容範囲の違いとか、後ろめたい気持ちのある時のとそうじゃない時の言葉の選び方とか、ふんばれるラインと折れるラインのわずかな境目立ってる時の気持ちとか、ほんとにどんな些細なことでもいいけど。

自分は、自分の中に起きるそういう小さな違いや、自分の中におきる微かな変化をみつけて、自分取り扱い説明書に書き込んでいって、その説明書がぶ厚くなればなるほど、いままでできなかったことができるようになったり、見えなかったものが見えるようになったり、たどり着けなかったところへたどり着けたりすると信じている。もっといえば、深く深く自分に目を向ける癖がついて初めて、誰かの小さな変化に気づけるんだと信じている。自分の進むべき道はその道だと言い切れるし、迷いなくこの先の10年をそうやって進んでいこうと思ってる。

鼻毛出て、眉毛をかくのを忘れて、チャック全開の人が、誰かの些細な変化に気づいて手をさしのべたり、そこに寄り添うことなんてできないし、なによりもそんな人に寄り添われても、ひとときくらいの安心は与えられても、それは傷口に絆創膏はるようなものにしかならないんだろうと思ってる。

そんなことを思いながら、だから自分にとって書くということも、そういう姿勢の中での1つのツールとして必要だからやめられないのだろうなと思った。

なんか、ほんといつも自分は自分の事ばっか考えてて、どうしょうもないくそ凡夫だと思うし、どこかでそれを止めなきゃいけないんだということはおぼろげながらも頭ではわかる。

それなのに、もっともっと、自分がどういう人間で、誰かにどう思われたくて、どう思われたくないのかとか、失っても大丈夫なものと失うと苦しいものとか、どういうことが評価されて、どういうことが人より劣っているのかとか、自分の中にあるものを知りたいし、自分の中におきる変化を知りたいし、湧いたことのないような感情を味わいたいし、たくさん裏切られたいし、泣きたいし、笑いたいし、悔しがりたい。そんで最後の最後にどうやって老いて死んでいくのか味わいたい。

生き方なんていうと大げさかもしれないけど、そういう自分本位な生き方はやめようとか思っても、いまさらやめようにもやめ方すらわかんないなとか思って、軽く開き直っちゃえばいいかなんて思ったら、なぜか忌野清志郎の歌うSTANDBYMEを思い出した。

No,I won't be afraid Oh,I won't be afraid Just as long as you stand by me,

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 三重奏。
2011.03.05

休息の重要性というのをこの数ヶ月身にしみて感じた。

たぶん体力的なものもあるけど、なによりも脳を休めると言うことは本当に重要なんだと思った。好きな音楽聞いて、なにかに追われず、目の前の時間をじっくり味わえる感覚というのが生きる上で本当に大事だ。

たぶん追われたり、先に先に意識を飛ばすことが習慣化すると、慢性的に副交感神経よりも交感神経が優位になってしまう状態で固定されてしまうんだろうと思う。自律神経のバランスが悪くなれば、身体に及ぼす影響は地味だけど、ボディブローのように効いてくるんだろう。

環境が人をつくるというけど、自分はなにかと対比してもいいし、浮き彫りにされてもいいし、どんな要因でもいいけど、とにかく自分で「自分」というものに目を向けられる環境に身を置いていたい。

やはり自分のことを置き去りにしてたら、なにもうまくいかないと思うのです。

なんか自分の立場でこんなこというのもなんだけど、お金があれば間違いなく守れるものも、失わなくてすむものもあって、いくらお金だけが幸せでないし、守れなくても、失ってもそれが必ずしも不幸せとは限らないし、「少欲知足」足るを知らなきゃ・・・なんてことはよくよくわかってる。けどこの資本主義のど真ん中に生きていて、山に籠もる事もできずに、社会に関わって生きていれば、お金は力で、力があればもっといろんなものを守れて、いろんなものを失わなくてすむのにとか思ってしまう駄目な自分がいて、そういう自分を肯定も否定もできない宙ぶらりんな状態で、その気持ちをどこにぶつけることもできずに一人ハイボールと一緒に飲み込んだりするのです。くそう。

見えれば見えるほど、知れば知るほど、あきらめたり捨てたりしなければ前は進めなくなる時がくる。

あきらめられないし、捨てられないから、そこにとどまるか、手を離して前に進むか、その岐路に立ったときに、いつでも手の中にあるものをさくっと手放して前に進んでいける勇気と力がもっとほしい。

こないだ、のんだ席で自己肯定の為にいいはなった「シモネタが好きな奴は大概人生を楽しんでる奴なんだばかやろう!」というのは後から思い返しても名言だったと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 娑婆だばだ。
2011.03.02


口ばっかりでなんにも動かないやつとか。守る気もないことを簡単に口にするやつとか。自分の視野領域を知らないやつとか。自分の手を汚さずに、八方美人なやつとか。りっぱなこというくせに、全然経験値のないやつとか。噛みついてくるくせにたいした論拠もないやつとか。ぬるいところから世界を憂いてるやつとか。

頭に隕石でも落ちてくればいいのに。

自分はここにいるんだ。自分はこんなことしてるんだ。こんな楽しそうに生きてて、みんながうらやましがるような生き方してるんですよって、張りぼてみたいな人生をめいっぱいに魅せたところで、そんなもんあと5年もすれば全部がはがれ落ちて、はっきりした形で目に見えるようになるんだきっと。

そんなとこからさらばいばいしたいばい。

でも。

さらばいばいできなくて。

自分の嫌なやつと自分を隔てるものはなにもなく。自分だけは違うんだなんてこたいえない。

そんなものは理想郷で桃をかじるようなもんで。自分の立ってるところこそが娑婆だばだ。

んでここが終の棲家。

娑婆だばだ。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)