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Title: touch
2011.04.30 日出ずる国から世界中を照らせよ。 氣志團のスタンディング・ニッポン、元気出るなぁ。 追悼法要とかよりもこっちのほうがよほど、被災地に元気をだせるんじゃないかとすらおもってしまうほどだ・・・ダライラマ睨下にも一緒に踊ってほしい。世の名が暗く混沌としている時には、こういうノリが大事なんだ。おどらにゃ損損。 明日の法事の時には踊念仏でもしようか・・・ 神風よ運べ、ラブレターフロム彼方~ いやしかし、右肩上がりのこの体重、どうしたもんだろうか。 疲れたということを旗印に、チョコパイを食べ過ぎたからだろうか・・・のどがいたいとつぶやきながら、のど飴を死ぬほど食べたからだろうか・・・くそう。 くそうとかいいながらも、昨晩は鮨を肴にのんだあげくに、〆にトリュフバターご飯釜飯なるものをもりもり食べてしまったし、今日は朝から極上卵かけご飯食べちゃったもんで、体重の落ちる要素がどこにもない黄金週間。昼夜六時。而雨曼陀羅華。 しかし一杯飲んで、周りの目なんか気にしないで、夜風に吹かれて大事MANブラザースを熱唱しながら帰路についたりする時間はなににも代え難いのです。 それと昨日はなんか夏っぽいいい雲が出ていて、それだけでなんか身体の芯の方がふわっとほぐれるような気がした しばし休息。 今日はすこし運動する。 1000歩は歩こうと思う。 スイスイスーダララッタっと。 Title: satya
2011.04.29 震災から49日が経った昨日、ご本山では、御遠忌の法要に続き、追悼法要が営まれた。 法要が終わり、梵鐘の音とともに手を合わせお念仏をする。 その時に、ふと手を合わせる意味というのは、意識をちゃんと今にもってくるということなのかもしれないと思った。今、この瞬間に意識を持ってくるということはとても大事な事だと思う、それは簡単なようですごく難しい。 意識というのは今にないことの方がほとんどで、思い煩うことの原因もほとんどは今にないことなのだろうと思う。 過去を思い出し悔やんでも、未来を想像し悩んでも、それは自分の脳みそが作り出した妄想に過ぎないわけで、自分の想像できることや、思い描く通りに人生が進んだことなんて未だかつてほとんどないわけで、確実にあるのはこの一息しかないのだと思う。 手を合わせることで、この一息に意識をして、そこに意識がいけばいくほど、今の重みが増すのだと思うし、その重みはそのまま生きる事への感謝になるのだと思う。そして感謝して今できることをすればいいのだと思う。 そして昨日、法要の最後に静かに手を合わせながら、なんともいえない感覚を味わいながら、感謝というのは、言葉や理屈ではなくて体感の中にあるものだと思った。 その体感さえあれば、どんな言葉をつかっても、どんな立ち振る舞いをしていても正解なのだろうと思った。 この感覚は、タイで感じた感覚と少し似ている気がした。 自分が仏教に関わっていて、おもしろいと思うのは、いつだって体感が後からついてくるということで、そういう経験をしていくと、学ぶという事の本質はいつだって最後に体感に結びつけることなのだと思う。 正直言うと、お寺に育てば、お経もいつの間にか覚えるし、いつだってお念仏を口にするし、手を合わせる習慣というのは物心がついてから今まで、もう30年近くあたりまえになっているのだけど、でも恥ずかしながら習慣づいているものほど、形式に陥っていることが多くて、自分は、形だけのお念仏を平気で口にしているし、衣を着ていれば周りの目を気にして、格好付けてさらっと手を合わせることもできるし、お経だって意味も考えずに、体裁よくそらんじることもできる。 なんか震災が震災がというのもどうかと思うし、いまさらかよと思われるかもしれないけど。 今回のことを機縁にして、あたりまえにあったものに、いままでなかった体感が伴い、自分の中の仏教や僧侶という漠然とした定義が再構築されて整理された気がする。 この御遠忌の間には、葬儀も重なり、法要を勤めて火葬場にいき、悲しにくれる家族の方をみていて、一人の死にこれだけの悲しみと涙があるのだ、テレビで報道されている犠牲者の数字の一つ一つにこうやって家族がいて、友人がいるのだということをもっと強烈に意識しなければいけないし、そこでなにかを感じることと、その感覚を仏法の中に探していくことが、自分にできることの一つであり、これから先に絶対に必要になることだと思った。 なんか。 難しく考えれば難しい事のようだけど。 簡単に言えば、結局は、「ただお念仏」ここに尽きるのだ。 ぐるぐるといったりきたり、もちゃもちゃとしながら、シンプルになれない凡夫っぷりにいざ本願を頼もしく感じながら、スーダラ節を口ずさみながらこのGWを過ごそうと思う。 Title: 動静。
2011.04.24 例えば、だれかすごく嫌な奴がいるとか、どうしょうもなく理不尽な思いをしたとか、そういう愚痴を聞くときに、目の前の人の気持ちをくみ取って、そうだね、わかるよとか。ほんとそいつは嫌な奴だね。そりゃほんと一方的に理不尽だね。と言えばきっと話している方は、自分の気持ちをわかってくれると思って肩の力が抜けたり、楽になったり、救われることはあるのだろうと思う。 そこで、いやそれは相手にも言い分はあるし、なんでそういうことをいうか考えてごらんよ。自分の中にも落ち度はないかい?とか、一方的に理不尽だというけど、自分も同じようなことをしたことはないかい?とか言おうものなら、あいつなんだよ、全然自分のことわかってくれない。わかったような顔してむかつく。と言われるのが落ちだろう。 でも最近思うのは、 もしも、気持ちが落ち着いて、冷静に自分のことを振り返られるようになったときには、一方的に自分の言い分をうけいれてくれて、一緒に誰かの悪口で盛り上がったり、世の中の理不尽を無条件で認めてくれた相手と、その時に自分の見えない部分を指摘して、思い通りの言葉をくれなかった相手がいたとしたら、きっと後者の方がなにかを自分の中に残してくれるのだろうと思う。 きっと気分を変えれば乗り越えられる問題くらいなら前者でいいんだ。でも、人生には決して目を背けるだけじゃ乗り越えられない問題にぶつかるときがくる、その時に自分が相談したいと思うのは後者だと思う。 もちろんいつも偏屈に、相手の言うことをぶったぎるのではなく、ちゃんと気持ちをくみ取りつつも、自分の内面に目を向けさせてくれるような言葉を選んで使えるということは大切なことだと思った。 それはいうなれば、動の中にもいつも静があるような生き方というのかもしれないと思う。 きっと方便を通して待機説法をするということはそういうことなのだろうと味わう。 つまるところ僧侶の本分というのはそういうことなんだと思う。 でもそれはものすごく難しいことで、使い方をあやまれば自分も傷つくし、とてもこわいことだと思う。生半可な自分じゃ頑なになって、意固地になるか、わかったような顔で相手を煙に巻くか、途中でびびって相手に迎合するのがいいところだろうと思う。 そんな自分だけど、今日法要をしていて思った。 なんか手前味噌な上に、気分が昂揚しているのもあるのだけど、きっと追悼法要をしたりしても、現地にいる人たちからしたら、法要なんかされたって、生活楽にならないし、それよりもいまは物理的な支援だと、そんなピントのずれたことをされても困ると思う人もたくさんいるだろうと思う。 でもきっと、それでも僧侶は祈るし願うし、手を合わせると思う。 時に本堂に何百人も集まって手を合わせると思う。 それは無条件にあるもので、きっとそれは今だからというものではなくて、いままでも、これからも。 それが僧侶の本分だからだと思う。 祈るだけかよ、何かを願うことしかできないのかよと思うかもしれないけど。 何を言われても、変わらないし、いつも変わらずに手を合わせられるようにありたいと思う。 そして、動の中にもいつも静を。 その静とはつまりは本願であり、もっといえば仏法なのだろうと思う。 きっと震災がなければ、自分は僧侶の本分なんて考えなかったかもしれない。 この震災の中にも、阿弥陀の回向はある。その言葉を何度も自分の中で反芻する。 一見誤解されそうな言葉だけど、本当にその通りだと思う。 月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。 親鸞聖人750回、法然上人800回の御遠忌、この節目に重なるようにこのような震災が起こって、この1年というのは自分の人生にとってきっと大切な年になるのだと思う。 味わうように毎日を。 Title: あしたも。たぶんあさっても。
2011.04.22 昔、総武線でエレカシを聞きながら、川面の夕焼けをみながらせつない思いをしたので、いまだに総武線+エレカシという組み合わせは、どうにも心の奥底にある柔らかい部分に、これでもかとゆさぶりをかけてくる。 上野動物園では2月にカピパラのソクがなくなって、今月にはカバのサツキがなくなった。サツキが地震で足を痛めたと聞いたので心配してたけど願い届かす残念だ。 これといって上野動物園が三度の飯よりも好きなわけでも、動物が大好きだ!とか言うわけではないのだけど、いつも池之端門から入るので、サツキの前は必ず通るし、そのたびにカバってすごいなぁと思っていただけに、もういないのかと思うとせつない。 さて、4月に入り、幼稚園もだいぶ落ち着いてきて、泣き叫ぶ子どもも少なくなって、子どもたちの遊びにもすこし余裕と幅もでてきた。いつも子どもたちの遊びの想像力には驚かされるのだけど、さすがに10年もここにいるとさすがにこちらも負けていないわけで、自分なりにも遊びの幅を広げる術や、継続性をもたせる導入もできるようになってきて、うまくきっかけを仕掛けることができるようになってきたと思う。 そしてそこから今度は、子どもたちが自分の想像を超えた遊びに展開していく様に感心しながら自分もまたそこに仕掛けていく。そんな日常の一コマが楽しかったりする。 遊ぶってのは簡単なようで難しい、遊ぶという過程の中で育まれるプロセスは、生きていく上で大事な根っこの部分をつくると思う。そしてその大事な根っここそ、大人になって道を見失わずにいるために必要なものであるような気がする。 もっともっと子どもたちが質のいい遊びができる工夫や、引き出しや仕掛けを学びたい。そしてもっともっと遊ぶことをどん欲に突き詰めていきたいと思う。 今月から被災児の受け入れをはじめる。 今、自分にできることは、物理的な支援と同時に、いま抱えているものの精度をもっともっと高めていくことだ思う。 まえにまえに。 Title: 三歩。
2011.04.19 携帯を新しくしたら、タッチパネルの感度がわるくちょっとせつない。 気づけば桜も散り終えて、机の上にある花片は茶色く縮んでまたせつない。 せつない。 でも暖かくなったからいいや。それで全部丸くおさめる。 グレーなところで。 世の中が、がんばろう、つながろう、ひとつになろうムード一色で、そんなに根をつめて、繰り返し呪文のようなポジティブにさらされてると、そろそろポジティブ燃え尽き症候群になる人がでてくるんじゃなかろうかと思う。それが人間のいいところであり悪いところだ。 空気自体に酔っているような、いうなればWCを応援する時のような一過性のものにならないといい。 長くと飛ぶコツは、エネルギーにムラをつくらずに、同じペースで淡々と放出し続けて、放出した分を自家発電できるくらいのところで黙々と飛ぶことだと思う。 スタートダッシュで全力走をして、いざガス欠になったときに、自分は一生懸命やったし少し休んでいいよな・・・なんて言い訳をするくらいなら、はじめからペース配分を考えて飛べと思う。 そんでこれは自分への戒めである。 スタートダッシュで片付けられる規模の問題ならいいが、今回ばかりはそうじゃない。 スローガンよりも目に見える形で足を出し続けられるかどうか。 まえにまえに。 Title: サクラサク。
2011.04.11 そしていつもと同じように、やっぱり死ぬならこの季節しかないと思いながら、この期に及んでいまだ死に様を思い通りにしようとする凡夫っぷりにますます心強くもなる。 折り重なって咲く花片を見上げながら、お腹の底から湧いてくる開放感を味わいながらも、今年は後ろめたさと背徳感に似たものを感じたりもした。 桜をみて、一杯飲んで、少し高いところから夜の東京の街を眺めて、ビルの赤い点滅を眺めながら、自分の中に湧いてくる気持ちのひとつひとつを文章化しようと試みるも、途中でそれを投げだして、世の中は文章化できなくて、デジタル化できないものにあふれていて、それをそのまま味わっていることがいいときもあるんだと自己肯定をしながら、いつだって最後に自分を動かす動機は、理由のないとめようのない感情でありたいと思いながらも、思いとは裏腹に頭でっかちになっていく自分に気づかないふりをしたりする。 昨日夢をみた。 夢の中で、自分はなにか特別な超能力みたいなものが使えるようになっていて(それがどんな能力かはわからない)そこでうかれてこれで自分の人生は思い通りだ。人生バラ色だぜなんて思っているところに、マザーテレサのようなおばあさんがでてきて、自分にこういった。 なにか特別なことができるということと、幸せになれるということは全く別物だ。なにもできなくたって幸せにはなれる。 そこで目が覚めて、しばらく放心して、その言葉を反芻して書き留めた。 普段滅多に夢なんてみないのに、すごい夢だ。なんて思いながら、朝、境内の桜を眺めていて。 たぶん。 単純な自分は、死ぬ日に窓から桜が見えて、風がふいてきて、桜が舞い落ちる様なんかが見えたりしたら、我が人生に一変の悔いなしとか思ってしまうんだと思う。 結局、自分が何をしてきたかとか、どんな風に生きてきたかとか、幸せな人生だったかどうかなんて、そんな程度のもので、至極生きるということはそういうことなのかもしれないと思う。 だから、磨かねばならぬのは外側よりも内側だと思うし、花が咲くこと、風が吹くこと、季節が変わること、そんなあたりまえにある流れのひとつひとつに、しっかりと心をとめられる自分でありたいし、そういう自分をおざなりにしないことは結局は幸せの近道なのかもしれないと思う。 あと。 特別感というか、いうなればオンリーワンであるという自覚というのは、それが刹那的でも幻想的でも自分を酔わせるし、そこに酔えることこそが人間の弱さであり、魅力であるのだと思う。そしてそれを人間くささとよぶのだと思う。 Title: めめんともり。
2011.04.08 あんたにおれの気持ちがわかるか。 あんたなんかにがんばれと言われたくないとか。ぬくぬくとして何も失っていないのに、失った人に親切をして満足するなとか言われたとしても、がんばれと思ってしまう気持ちは湧いてくるし、それが湧いてくることは止めようもないし、止める必要もない。 いろんな事を加味したら、がんばれなんて言えないし、なんて言えばいいかわかんないというのが本音だとしても、そこで言葉がでなくなるくらいなら、口に出してたたかれるほうがましだと思う。 悔しくて泣きながらでも、それでもがんばれと言えばいい。 びびって言葉を選ばなきゃ口に出さなきゃいけないような世の中なんかくそくらえだと思う。 勘違いと、誰かの偏った思い込みと、自分本位な一言と、情報に基づいた根拠と、幅広い視点と、選び抜かれた一言と、どちらを使ったって、目の前の人間の心に与える影響なんてどちらも正解だし、不正解だ。 大事なのは使い手の問題だと思う。 正解だけを選びながら、さもそれが崇高であるかのような世の中くそくらえだと思う。 みんながびびりながら、自虐的になって正解ばかりを手探りして、あたりさわりない言葉のあふれるような世界はくそくらえだと思う。 正解だけが世界を動かすんじゃないと思う。 時に不正解を大きな声で叫ぶことで世界が回り出すことだってある。 そもそも。 はじめから他人の不幸を肩代わりなんかできないんだから、その時点で、すべての行為の根本は自分本位なんだ。 でもそれでいい、というよりもその中でしか生きられない。 それと、あんたが不幸になれと。とかいう人は、どんなに深刻な状況に置かれているとしても、被災者であろうとなかろうと、悲しいことだと思う。その人のために、それじゃだめだぞばかやろう。と本気で言える人間がいないということが、この世の中の弊害だと思う。 きっと仏陀なら、ばかやろうとか感情的な言葉を使わずに、その人が自分で気づいて、また歩き出せるような言葉をかけられるのだろうと思う。 くそう。 Title: AFD
2011.04.01 おもしろい冗談の1つでもいって誰かを笑わせようと思ったら。 そのおもしろい話をする舞台作りから始めなきゃならない。 その話が一番効果的に魅せられる背景を考えなきゃならない。 その背景に入っていく時の自分の行動や、発言までも全部が布石にならなければならない。 その考えが広がれば広がるほど面白いことを言えるのだと思う。 エイプリールだというのに、なにか謎の菌に感染したようで、もう3日も吐き下していて、朦朧とする頭の中でそんなことを考えながら、しかもそれは、別におもしろいことをいうときだけに大事な事ではなく、なににでも応用できるし、これを突き詰めていくことは、技術面のスキルアップと同じレベルで大事な事だなとか思って、きっと背景を言い訳にしてしょうがないとかいってたらいつまでたっても三流なんだろうな、なんて思ったあたりで眠りに落ちて、目が覚めてまた考えるなんて日々を過ごしている。 悶々といろんなことを考えながら、起きても起きても朝にならないという長い夜を二晩ほど過ごして、また人間やはり健康が一番だという台詞をつぶやく。 それと、人が吐き下して寝込んでると言ってるのに。 「はいはい」とか「まさか」とか「今年の嘘はたちが悪い」とか「だまされた~」とか暖かい言葉をかけてもらえて、これこそまさに自分の背景のなせる業だなと思って静かにまた眠りにつくことにする。 きっとこれでもまだ信じてもらえないんだろうに。 おやすみなさい。 |
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