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Title: 鶴褒木登
2011.06.27 やっぱ肉なんだな。 土曜日にたらふく肉を食らって、もりもり遊んできたのに、今日またもりもり肉を食らう。そしたらなんだか身体がぴちぴちしている気がして、血がどくどく湧いてくる感じがするのです。 やっぱ肉食系男子は肉を食らわねば駄目なのだな。 でも、不思議とこれが肉をもりもり食らっても太らないんだな。 ほんと不思議と。 さっき完全に見切り発車して、線香花火を買ってこようか悩んだのだけど、我慢した。 大人になったな自分。 ところで、何でそんなに書くことあるのとか、暇なのとか、なんで書いてるのとか言われるたびに、その都度適当な答えをしていたのは、はっきりなんて言っていいのか自分でもよくわからなかったからなのだけど。 前に、その質問を同じように、昔からブログを書いてる友達にしたら、自己顕示欲だといっていた。 でもなんかすこしわかったのだけど、自分の場合はただ単純に好きだし楽しいからなんだ。書くのが。 自分の中にあるモヤモヤとか悶々とかいう単語で片付ければいいようなものを、引っ張り出してきて、それを文字とか文章にしてしっくりきたときの感じがすかっとするし、なによりも書くことで、自分の中の余計なものがそげ落とされて、身体が軽くなるような気がするのだ。言うなれば趣味みたいなもので、ストレス解消もできるし、自己満足もできるってなもんで、その作業が楽しいのだ。 そんで、なんか書いててどうにもしっくりこないときは、思えばそこに意味とか意図とか、そういうものを乗せようとしていたときなのだ。 それがよくわかった。 煩悩具足な自分は、すぐにおだてられりゃ木に登るから、なんかいいこと言ってやろうとか、もっとかっこいいこと言ってやろうとか、社会に一石投じてやるぜとか、誰かの心に火をともしちゃうぜ、なんてことをすぐに考えてしまうのだ。そんで、そこに捕らわれたら、なんだか書くことも窮屈になったり、面白くなくなったりして、見られることばっかり気にして疲れてしまうのだ。 なんどもそのスパイラルを繰り返してきたけど、それをこうやって言葉にできたのははじめてで、言葉にしたことでやっと出口が見えた気がした。 ぐるっと一周して同じところに戻ってくる。 楽しければそれでいい。 楽しくないことを続けていられるほど人生は長くないのだ。 Title: 高校の時の話。
2011.06.27 自分の卒業した高校から小さな冊子が届いた。内容はたいしたことない冊子なのだけど、その中に高校3年生の時の担任の先生のコメントが載っていた。 その先生は本当にいい先生で、他のクラスの友達にはそのクラスになれたことを羨ましがられるような先生だったのだけど。 その先生を一度だけ本気で怒らせたことがある。 理由はさておき。 その先生は、何も言わず目の前で、自分の大学の推薦状をびりびりに破って廊下にぶちまけた。 そして無言でその場を立ち去った。 その後一人で、その廊下に散らばった推薦状を拾い集めながら、よほど怒鳴られて殴られた方がよかったと思ったのを今でも覚えている。 昔から、比較的怒られ慣れている自分には、怒鳴られたり、殴られたりすることにはいくらでも耐性があるのだけど、無言で立ち去られることがこんなに響くとは思わなかった。 友達に、あの先生を怒らせるなんて、ある意味おまえすごいなと言われて、その時に怒らせてはいけない人を怒らせてしまったことを後悔したし、世の中には怒らせてはいけない人がいるのだと言うことをお腹でわかったような気がしたのだ。 なにをどう考えても自分が悪かったし、不条理でもなんでもないだけに、本当にもっといろんなことを配慮しなければいけなかったと思った。もし戻れるなら禁製品の隠し場所にはもっと気をつけようと思う。 その先生が、その冊子の中のコメントで、母校への想いを200字で述べよ。と言っていたので、200字で母校への想いを述べてみようと思う。 今になってわかるなんて綺麗な言葉でまとめたくはないが、一見素晴らしく見えるものだけでは、人は成長できないということが全寮制男子校を卒業したことでわかった気がする。自分で何か選択をするようになって初めて、あの頃にあった本当に大切なものに光が灯るような気がするのだ。二度と戻りたくないけど、でも自分はいつまでものあの頃の話をし続けると思う。そしてそういう大人になったということがしてやられた気がするのだ。 なんて。 Title: 自己反証
2011.06.27 少し前に。 損得勘定といえば聞こえは悪いが、つねに自分のメリットと相手のメリットを考えることは大事だと思う。その価値観の位置づけが大幅にずれていたとしても、メリットの何もない人間関係なんて幻想だと思う。 それは言い換えればそれは、自分が目の前の相手に何を与えられてるかに気づくということで、自分がなにを与えられるかをしっかり考えることで、そこにしっかりと意識をもってくるということはきっと大事な事なんだろうと思う。 なんてことを自分で書いたのだけど、その言葉を反芻しているうちに、そりゃもしかしたら間違っているかもしれないと思った。 自分が自分の思っている通りのものを相手に与えられているかなんてわかんないし、また相手から自分が気づける範囲のものしか与えられてないかといえばきっとそうじゃない。 自分の脳みそなんていうのは限界があって、それに気づくと言うことが大事なのに、ふと気を抜くとまた自分の気づけることや、自分の考える範囲がすべてだなんて枠の中に落ち込んでいる。 世界はもっとひろい。 自分の想像力なんてちっぽけなもんだと思うことから世界は面白くなっていくんだと思う。 同じ事に気づいてはまた同じところに落ち込む。 ほんと行ったり来たりだ。 前に前に。 Title: 刃物または拳銃等。
2011.06.26 なんか周りの目をきにしたり、読む人のことを考えて、好きなことや思ったことが自由に書けないとか思って、そんな気持ちを払拭させようとしてるのに、結局はまた見られることに迎合している自分にくそくらえだと思う。 人生のいろんなフェーズの自分がいて、今の自分がいて、つねに自分は変化をしているし、言ってることもやってることも違うし、どこかの自分にすがりつくつもりはないけど、でも過去のどこかのポイントを知ってる誰かの期待を裏切ることに感じるこの抵抗感はなんだろうか。 期待を裏切りたいのと同じくらいに期待を裏切りたくない気持ちが自分の中にあって、そのせめぎ合いのようなところに落ち込んでいく自分の守りたいものはなんなんだろうかと考える。 長いこと書いてきたサイトを閉じて、あたらしくサイトを立ち上げたときに、自分の中で密かに決めていたのは、自分という人間の振り幅を小さくして、できるだけ使い分けることなく、内側から外側への摩擦を少なくしようということだったのに、それって本当に難しいということを実感する。 どうしてこうも取り繕いたがって、自分を自分以上にみせたがるのだろうか。 そして小さくみられたくないのだろうか。 きっとまだまだ自分の中に確証がもてないことだらけだからなんだきっと。 もっと淡々と平然と生きていられるようになりたい。 誰の目も誰のことも気にすることなく、自分をさらけ出せるような強さがほしい。 Title: 損得勘定。
2011.06.25 損得勘定といえば聞こえは悪いが、つねに自分のメリットと相手のメリットを考えることは大事だと思う。その価値観の位置づけが大幅にずれていたとしても、メリットの何もない人間関係なんて幻想だと思う。 それは言い換えればそれは、自分が目の前の相手に何を与えられてるかに気づくということで、自分がなにを与えられるかをしっかり考えることで。 そこにしっかりと意識をもってくるということはきっと大事な事なんだろうと思う。 Title: フェラーリをぶっとばす。
2011.06.22 偏った例えだとは思うのだけど、前に車好きなあの人がこんなことを言った。 男はエンジンみたいなものだとしたら、きっと女はハンドルみたいなものなのかもしれないと。 確かに考えてみれば、どんなにいいエンジン積んでても、ハンドルさばきが下手くそなら簡単に壁に激突したりして、バンパーへこんだり、ヘタしたら、いいエンジンであればあるほど、即死だってありえるかもしれない。 逆にどんなに巧みなハンドルさばきをしていたって、エンジンがポンコツだったら、エンストこいたうえに、煙をあげて動けなくなるかもしれない。 じゃあアクセルはなんでブレーキはなんだなんて考え始めたらきっとこの話はもっと奥深くなるのだろうけど、いまはそれはさておいて。 今思うのだけど、この例えのみそは。 なんていうか、きっと自分がエンジンだと思っている男と自分がハンドルだと思っている女がいて、お互いがその武器を磨きながら生きていて、いざ一緒にタイヤを転がそうと思うことが理想的なことだということなんだと思う。 いうなれば。 男は、格好ばかりで、見栄映えのいいフォルムをしていたって、エンジンがポンコツじゃ意味ないし、男たるもの心はいつも12 気筒だぜ、そんでフェラーリくらいの馬力で、いつだってすさまじいエキゾストノートを轟かせたいぜと思っていてなんぼで、いつだって最高速度を塗り替えてやるぜなんて、できればそういう自覚をもっていろということで。 女は、660馬力もいらないし、そんな馬力に耐えられるシャーシも踏み返しのきついクラッチもいらない。でもそんなエンジンを積んだ車があらわれたときに、びびって助手席に座るのではなく、660キロの速度に目をつぶることもなく、まっすぐにアウトバーンを走りこなしてみせるわ。という度胸と、癖のあるじゃじゃ馬エンジンを、巧みにいなして乗りこなすくらいのハンドルさばきをもっていてほしいということなのだと思う。 男女差別だといわれるかもしれないけど、自分は男と女は同じだとも平等だとも思ってはいなくて、男がエンジンなんか450ccもあればいいんだとかいうのはおかしいと思うし、女が時速660キロに耐えうるシャーシを求めるのだってやめた方がいいと思ってる。 むしろその違いを知った上で、男はエンジン、女はハンドルであると、しっかりと自分の道を見据えて、自分の武器を磨いていくことが大事で、そうやって割り切って自分を見据えられることで、自分に欠けてるものが明確になるし、そこではじめて誰になにを求めるべきなのかわかるような気がする。 人間のつくったフラットなんかくそくらえと思ってる。 生きることはいつだってでこぼこしてて、自分もぼこぼこのがたがたであるのだ。 それが見えなきゃ心の隙間なんて埋めようがないのだ。 いつかそんなことをつらつら考えながら、フェラーリを全力でぶっとばしてみたい。できればアウトバーンとかで。 Title: 77777キロの先
2011.06.15 よく仏教関係の人間が、災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候なんて良寛さんの言葉を引用して話をして、現実を受け入れよう的な話をしているのを聞くのだけど、原発の問題にしてもそうなんだけど、日本中の人がみんな災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候なんていいはじめて、それが心から浸透したら、普通に日本は滅びていくんだろうなと思う。 そりゃ一見理想的だし、仏教の至言っぽいのだけど。 でも絶対にそんなことにはならない。人間が人間である以上は、日本が滅びたって自分が安らかに涅槃にはいればそれでいいのだ・・・って・・・んなこたあるかい!というほうが自然だし、むしろみんなが指くわえてそれを受け入れるなんてことにはならない。 でも、人間がそうはならないからこそ、そんな言葉をつかって引っ張らないといけないのだろうと思う。 一見矛盾したこのパラドックスにこそ仏教のおもしろさがありミソがあるのだと思う。 たまにそれで日本が滅びるならそれまでだし、それが仏教の至極であり、それが理想だという人がいるのだけど、言葉を選ばずにいうのなら、そういう人は、自分がそういう囚われの中にいることにも気づかず、本質を見失っていることにも気づかない、かわいそうな人だなと思う。むしろ真っ先に救われるのだろうと思う。 言うなれば、もし万が一仏教ががんばりすぎて、本当に世の中が仏教者のいってることに迎合して、みんなが指くわえて涅槃に入ろうとしたら、またなにか教典の言葉を拾って逆側に引っ張らなきゃいけないのかもしれないと思う。それはきっと偏ることで、間違った解釈が広まって、本質を失うからだ。 人間は本来、本質をしっかりつかめるほどできちゃいないのだ。だからこそ、方便があるのだ、方便をつかって、心のバランスをとるのが仏教の意義なのではないかと思う。 そう考えたら仏教の役割ってのは、いつでも大きな流れに対して反比例の力を働かせることであり、その反比例の力が少しでも反対側に傾いたら、また反対側にバランスをとらなきゃいけないんだろうと思う。 それを中道というのだろうと思う。 誤解を恐れずにいうのなら、昨日と今日いってることが違ったっていいんだと思う。 なぜならそれが方便だからなのだと思う。 そんなの説得力ないし、意味わかんない、0なのか1なのかはっきりしてよ。昨日は1だっていったのに、なんで今日は0なのさ!という事がもう、自分は0か1でしか物事を判断できない狭い人間であるという自覚ができていないなによりの証拠であって、 そこが自分の立ち位置であるということを信じて疑わないからこそ苦しみが生まれているんだということに気づいていない証拠なんだろうと思う。 曖昧であるということは本質はつかめないところにあり、すべての現実は事象であり、つねに流れているということである。だから本当はつかめるものなんて初めからなにもないのだ。ただそこの流れの中で、溺れずに浮かぶ方法を仏教では説いているのだと思う。 急流を迂回することもあるし、時に深く潜って波をやり過ごすこともある、またある時は、上を向いたままぷかぷか浮かぶこともある。 それをこないだは浮かべっていったのに、今度は潜るの?こないだは潜れっていったのに今日は迂回なの?もうわけわかんない!ときれたところで、そりゃおかしな話なのだ。 Title: 脈拍。
2011.06.14 ある人に言われたのだけど。 動物が一生のうちに打つ鼓動の数って決まってるんだって、そりゃ心臓だってたくさん鼓動すれば消耗するわけだし、だいたい人間だと20~23億回くらいで機能的に限界だそうだ。 その話に根拠があるかどうかはわかんないけど、自分の脈をとりながら、この一回一回の脈は死へのカウントダウンなのだと思った。生きてることはそれだけで消耗してて、日々は着実に死ぬことに向かっているんだな。生まれたばかりの子どもも、お腹の中にいる子どもも、友達も、自分も、親も、みんな毎日力強く脈打って、死へのカウントダウンをしているんだ。 それは紛れもない事実で、当たり前なのだけど、この脈が静かに止まるときには死ねばいいのだと思う。 なんかそんな話をきいて、今度から自分を見失いそうになったら、こうやって脈を確認して、生きてることと死にゆくことを確認してみようと思った。生きてるものはみんな日々消耗して衰えて、目に見える部分の抵抗なんて、無情にもなにごともないかのように無視して、死にゆくのだ。 そこから目を背けないでいることが、すなわち今を強烈に刻みつけるということなのだ。 なんかそう思えば、生も死も人間として大前提のルールである以上は、それ否定してしまうというのは横暴なことでナンセンスなことなのだと思う。 肉体に限界がきて機能を停止する。それまでの長い時間を各々が思い思いに過ごすことを人生を呼ぶわけで、その時間の過ごし方に本当は価値も意味もないかもしれない。 そこに意味や価値を見いだすのは結局は、究極の自己肯定であり、負の昇華なのだと思う。 あえて尖ったいい方をするのなら、ぐだぐだいわずにただ淡々と死にゆけばいいのだ。きっとそこに腹を据えることこそが、生を強烈に刻みつけることなのだ。 どうせ淡々と死にゆくのであれば、自分がこうありたいとか、あれがほしいとか、これがほしいとか、手の内にないものに右往左往するよりも、今宵の月がきれいだとか、風がきもちいいとか、いい日差しだとかいいながら、あたりまえに何もしなくても手の内にあるものに楽しみを見つけられる方が安上がりで長続きできるしお得な過ごし方だと思う。 んで、もしかしたら、死にたくなったり、にっちもさっちもいかなくなったり、もう地球が爆発すればいいのにとか、うんこみたいな奴はみんなくたばればいいのにとか思うときっていうのは、きっと自分が生きてることとか死にゆくことを忘れているときなのかもしれない。 我を忘れるってきっとそういうことなんだきっと。 その言葉に体感が伴った。 そんでほとんどの人は大概みんな我を忘れているのだきっと。 それが人間なのだ。 だからこそ救いというものに需要がなくならないのだ。 Title: トゲトゲ。
2011.06.13 人生でことあるごとに自分の中で反芻する言葉というのがあって、そのうちの1つがタモリさんのいった言葉。 「自分の中でこれくらいの力がついたらこれくらいの仕事をしようと思ってもその仕事は来ない。必ず実力よりも高めの仕事が来る。それはチャンスだから、絶対ひるんじゃだめ」以前萩本欽一も言ってた「やりたくない仕事しか来ない。でも運はそこにしかない」 なんか最近ことあるごとにこの言葉を思い出して足を前に出す。なんで自分なんかにそんなこと頼むんだよとか、無理だよとか、なにかもっともらしい大義名分見つけて逃げてやろうかと思うのだけど、逃げ癖がつくのも嫌だし、なによりもさんざん逃げてきた経験上、逃げた後に残るべとっとした気持ち悪さを引きずるくらいなら、ぶつかって仰向けにひっくり返った方がまだましだと思って前にでようと思う。 いままでだったら、タスクが散らばって、脳みその違う箇所を同時に使わなきゃいけないような時には、中途半端な仕事で納得させたり、言い訳したり、体裁よく中身のないものでごまかしたり、時に逃げたりして、その過程で考えすぎてためこんだりもしていたのだけど。 いまは切り替えとかそもそも意識した時点で自分でかってに枠をつくってるのだと思うし、意識して頭で心を動かそうとした時点で、その負荷は無意識に身体をこわばらせるのもわかったし、なんていうか、一言で言えば、ここ一番でがんばるときこそ力を入れないようにするのだということと、その力の抜き方のコツを掴んだのだと思う。 つまりは目の前に流れてきた、瞬間に全力で対応すればいいだけのことなのだ。 年齢や家族を言い訳にして机上の空論を語るようなじじいだけにはなるまい。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 太陽から月へ。
2011.06.08 ものの例えなのだけど。 昔はどちらかといえば太陽のを目指していたのだと思う。 でもいまはどちらかといえば月を目指したい。 それはどちらかが正解でどちらかが不正解なのではなく、フェーズの問題なのだろうと思う。ほんとは何かを目指してるということ自体がもう、なにかにとらわれているのもわかる。でも目標を掲げないまま強く歩みを進めるには自分はまだ力不足なのだ。 昔は、まぶしくて、どこまでも照らせるような存在に憧れるし、自分もそうなりたいし、宗教の可能性はそこにあると信じ切っていたけど、今は、まぶしすぎる光は影を生むこともよくわかったし、闇こそを照らせるような光の中に宗教の可能性はあるのだと思える。 社会とか世界の価値観は、いつでも太陽にあって、影をかき消すくらいの光がいつも時代を牽引していけると信じ切っている。 でも、強い光は強い影を生むだけだ。 少しづつその影が隠しきれなくなって飽和し始めたここ数十年をみていると、その影にいち早く反応した新興宗教が脚光を浴びて、それこそブームのように宗教法人が乱発されて、そうやって裾野が広がる中で本質を失った一過性の宗教観が、世論の中にこびりついてしまって、いうなればそこで、社会の中での宗教というもののイメージの価値が下がったのだと思う。 既成仏教に関していえば、正直言えば、くさった住職や、どうしょうもないお寺があるのなんて、ここ数十年に始まったことではないし、何百年も前、それこそ各派の宗祖開祖の人たちが生きていた時代からそんなに変わってない。 ただ、時代の中で様々な宗教が取りだたされて話題に上がると同時に、いままでよりも少し注目が集まったために、既成仏教のアラも目立ち始めたのだろうと思う。 そんな中で、そこに危機感を感じたり、社会での信頼や、価値観を奪還しようとして、既成仏教の中でも敏感な人たちが、あらゆるアプローチから社会の中での仏教の価値観を押し上げようとした。 そこが注目されて取り上げられ、社会の中では、宗教者=社会活動や社会貢献という構図が定着し始めた。社会の中でそういう位置づけができあがってくれば、意識の低い僧侶でも、それをやれば社会に求めてもらえるのだと勘違いして、猫も杓子も社会活動だ、社会貢献だと裾野を広げだす。 その中で、宗教を道徳や美学と混同して、本人すらもそこに酔っぱらったような状態になって、そもそも社会の中における価値が何かなんてことすら考えもせずにステレオタイプに仏教を語り、ファッションのように仏教を扱うような人もいる。 その結果、目的と手段はいつの間にか逆転して、その大きな流れの中から、抜け出せなくなって自分で自分の首を絞めているのじゃないかと思う。裾野が広がるということはそれだけで本質を失う可能性を秘めているのだと思う。 いま注目が集まっているからこそ、仏教は本質を失いかけているのだと思う。 こういうと弊害があるかもしれないが、宗教なんてものは、やみくもに信じるものじゃないし、ましてや社会的に有意義な価値のあるようなものでも、世の中を牽引するようなものでもない。 ただ一人、自分がよりよく生きていくための実践であり、その「よりよく」がなんなのかを教えてくれるものなのだと思う。 そして仏教のいう、平和とか幸せっていうのは、そのただ一人が増えていくことなのだろうと思う。 太陽はいつだって影を生む。 でも影を否定している訳じゃない。 ただ月は、影を影のままでいいといってる気がするんだ。 仏教は太陽じゃない。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) Title: かぞえうた。
2011.06.06 今日、園で小鳥が亡くなって、子どもが呼びに来たので、一緒にシャベルをもっていってドングリの木の下にせっせと穴を掘って、小鳥を埋めた。そして、今日だけは花壇から花を摘んできていいよといったら、子どもたちが何人か花を摘んできて、いま小鳥を埋めたところに花を敷き詰めた。 そして自分が目を閉じて手を合わせたら、みんながそれを真似て手を合わせると、それをみていた3歳の子どもが、なんでそうやって手を合わせるの?と聞いてきた。それはシンプルだけどとても深い質問で、一瞬なんて答えようか迷ったのだけど。 こう答えた。 例えばさ。 ピースしたまま、ごめんなさいっていうのはちょっとおかしいよね。 朝起きて万歳しながらおはようっていうのもおかしいよね。 あとさ、おうちに帰るときに変な顔したまま、さようならっていうのもおかしいよね。 こうやって手を合わせるのはね。 ありがとうを伝えるときのポーズみたいなものだよ。 いままでありがとうっていうときにはこうやって手を合わせるんだよって。 きっと教義とか、教えとかそういうものを厳密に突き詰めていったり、手を合わせる意味とかをちゃんと説明しようとしたら不十分だし、いい加減なように聞こえるかもしれないけど、それを聞いた子どもたちは、ふ~んといいながら、目を閉じて手を合わせて、いままでありがとういった。 3歳の子どもにそれを伝えているときに。 こういうのを方便というのかもしれないと思いながら、これから先の人生でその言葉の意味の何十分の一でもいいし、自分のいった言葉がどこかにつながって、その言葉に体感が伴ってくれたらいいなと思った。 なんか改めて、子どもたちの中に湧いてきた、本人すらもまだそれがなんなのかわからないような気持ちとか、そういうものにそっと手を添えて、その気持ちにベクトルを向けるということはとても大事な事で、とても責任の重いことなのだということを感じた。 でも。 こういう場面や、こういう日常に立ち会える仕事でよかったなと思った。 幼児教育は、宗教にも通ずるところがたくさんある。頭でっかちになって、言葉遊びばかりする自分をいつもはっとさせてくれるのは、だれでもない子どもたちだったりする。 Title: ことり。
2011.06.06 今日園で小鳥が亡くなっていた。 子どもたちと穴を掘ってお墓をつくった。 みんなで花をつんできて供えた。 子どもたちが、いままでありがとうだね。といって手を合わせていた。 なんかそんな光景をみていて、ああこういう場面に立ち会える仕事をしていてよかったなと思った。 Title: Polaris
2011.06.03 訳とはいっても、とりかえしのつかないことをしてしまって、なにかを埋めようとか、誰かを落としてやろうとか、誰かが攻めてくるとかそういう類のものではないのだけど、とにかくせっせと穴を掘っては砂を詰める。 ただ穴を掘るとはいっても、これなかなかの重労働。 慢性運動不足の四肢はすぐに白旗をあげる。 でも何事もここから先がおもしろくなってくるってなもんで。 疲れ切ってはじめて、無駄につかってた筋肉を最小動作で使えるようになってきて、腰に負担のかからないスコップさばきも身についてくる。昔真剣に運動やっててよかったなと思うのはこういうときで、自分の身体や筋肉とかの動きにすぐ意識をもっていけるようになったのは、泣きながらでも陸上をやってきたからこそ身についたものだろうと思う。 とはいえ、いくら動きがわかったところで、もう動かないぜ。乳酸全開だぜというポイントはすぐにくるもんで、そこで作業を切り上げて、お昼ご飯をたべてたら眠くなってきて、午後はできれば大の字になって、もっと贅沢をいうならハンモックにゆられて眠りたい、とおもいつつもそうもいかないので、パソコンに向かったところ、エクセルとか開く気にならないし、電卓とかたたく気にもならないので、今こんなことを書き綴っているわけです。 特に書くこともないのだけど、指を止めたら寝てしまいそうなので、もう少しキーをたたいて目を覚まそう。 博多から帰ってきて、そのままずるずるっと仕事をしていて、明らかに身体が疲れているわけです。でもはっきりいって、土日めいっぱいに遊んでいただけで、どこをどう自己肯定しようと遊んでいた以外のなにものでもないので、ああ疲れた・・・ということを口にしないように心がけているのだけど、さすがにこのとしになると気力だけで乗り切れないことがあるものなのだと思う。 でもそうやって脳みそにリミッターをかけると、きっともうそれまでなので、なんとか気力でのりきろうと思ってipodをいじりながらなにか、自分の中にぐぐぐっと流れ込んでくるような一曲はないかと思いなやんでいたら、うちのipodが桑田佳祐のそれいけベイビ-!!を薦めてきたので、それをきいていたら、いい感じにふわっと身体も軽くなり、なんとかやりすごせそうな気がした。 その時にふと思ったのだけど。 気力でがんばるぜ!なんて意気込んで力を無駄に使ったら本末転倒なのだ。がんばらなきゃいけないときこそ、無駄な力を弛緩させるべきなのだ。そしてその力を大事なところにまわすべきなのだ。そして力の使いどころを間違わないようにすることなのだ。 これは筋肉の使い方にもよく似ているなんてつながったりする。 そして何事も力を入れることよりも弛緩させることの方がはるかに難しいのだ。 まえにとあるサッカー選手の対談で、パスがうまいとか、シュートがうまいとか、そういう選手はいるのだけど、サッカーがうまいという選手はそんなにいないよねと言っていた。 なんか、旅をすることも、仕事をすることも、話すことも、遊ぶことも、お経でも法話でもなんでもいいのだけど、もっとうまくなりたいことはたくさんあるのだけど、結局のところやっぱ自分はうまく生きていけるようになりたいという一言に結びつくのだ。 生きるのがうまいね。というのは時にほめ言葉にも皮肉にもなるのかもしれないし、そこに数字が伴うかどうかということもわからないのだけど、人間でいることをもっとうまくこなしたいし、生きていくことをもっとどん欲に上達させたいのだ。 だから、迷ったら消去法で、うまく生きていける糧になる方を選ぶのだ。 じゃあうまく生きるってなにさって。 それはきっと言葉の中には見つけることが出来なくて、うまく生きているときには、ここでいいんだとわかるような体感のもとにあるようなもんじゃないかと思う。 字面を追っていけるのは、富士山で言えば、3合目くらいまでなんだと思う。 な~んて言っているうちに、消化にとられていた血潮もすこし頭のほうに流れはじめて眠気もとんできた。 さあて昼休みおわり。仕事仕事。 今夜は焼肉をたべる。 午後はそれをポラリスのように目指すのだ。 |
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