Title: ゆいまーる。
2011.07.31

夏って。

ベクトルが外向きなのもあるけど、一言で言えば、自分の中にこそぎ落とすほど何かが沈殿することがないのだ。

一つ一つの感覚が自分の中にとどまることなくいまく淀まずに流れていくような感じがするのだ。

だから、文章に向き合う機会が極端に少なくなってしまうのだ。

きっとそれを生み出しているのは物理的な時間の余裕なんだろうな。

環境が自分に与える影響と、人生に影響する割合はあまりにも大きい。

ああ。ゆいまーる。


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Title: 粟手。
2011.07.22

スポーツのいいところは、

絶対に負けたくないと心から思えること。

絶対に勝てない相手に出会えること。

全力という言葉を体感できること。

無情にも平等に結果がついてくること。

想いとか、気合いとか理屈じゃない力の存在を感じること。

共有した仲間にしかわからないものを持つことができること。

いいだしたらきりがないのだけど。

なんか。

スポーツのもつ力は大きいな。

なでしこしかり、相双連合しかり。

なんか理屈じゃない部分にゆさぶりをかけてくるんだ。

自分が人生の大半でスポーツをしてきたからこそ、スポーツっていいなとか、爽やかな意味だけではないことは痛いほど感じているのだけど、それでも今スポーツっていいなとつくづく思う。

最近無性にラグビーがしたいんだ。


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Title: 0170206
2011.07.18

なんか、夏、もう終わってもいいかもと思った。

室外機の音が低く響いてる深夜の街で、煌煌と月に照らされて、夜風が吹いて、あちこちで風鈴がなっていて、その横を新聞配達のバイクが追い抜いていく。

すべてが絶妙にかみ合ってて、もちろんそれは、物理的なものだけでなく、夜道を歩くまでの経緯も含めて。

自分がここでこんなに幸せな気持ちでいることを世界中の誰も知らないということが、ある種優越感みたいにこみ上げてきて、その気持ちをかみしめながら、ながむる人の心にぞすむ。なんてことをぼんやりと考えながら、自受法楽みたいだと思った。

あんまり気分がいいから、自動販売機で120円の水を買うのに、150円入れて、おつりをとらずに立ち去ってみたりする。

幸せとかいうものはどこまでも合わせ技なんだと思う。

月だけを、夜風だけを、匂いだけを、気候だけを、そこにいたるまでの経緯だけを、そして2時6分をさした時計だけを、そのどこかだけをすっぱ抜いて、幸せの定義にしようったってそうはいかない。

本当に小さな要素が、たくさん混ざり合って、折り重なって構成される目の前の事実と現実の比重が、すこし自分にとって心地よい要素に傾いた状態を幸せと呼ぶんだ。

不幸せだと思う心も同じで、そこを抜け出したいなら、小さな要素を積みかさねて、比重を反対側に傾ければいいのかもしれない。

そのどちらも、なにか1つの劇的な行動や事実によってもたらされているわけじゃないのに、そのどこかだけをさして、幸せや不幸せの構図に捕まるなんて馬鹿みたいだ。

自分が何で、どこに向かうのかなんてわからないし、人生にはいつもレギュラーが起きるのだし、そのイレギュラーをどう受け取るか、どう処理するかということが醍醐味なんだきっと。

言葉に捕まらないように、一つ一つを味わっていけたらいい。

そして、あきらめがつくっていう気持ちは、悲しくも寂しくも響くけど、その白旗は覚悟であり、向き合うことであり、いままでなかったものを得ることだといってもいいのかもしれないと思った。

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Title: 曲胃。
2011.07.16

昨日の振り返り。

たぶん。というか絶対。

自分は人一倍、熱いこととか、青臭いこととか、思春期とか青春とか、どきどきすることも、わくわくすることも、淡いものも、たまんないくらいに好きで、それを貪欲に求めているのだ。つねに潜在的に。

そういう一つ一つを指くわえて見ていられるようになることが大人になるということなら、大人にはなりたくないとかいい年こいて、本気でおもってて、マイペースで自分勝手で、自分が満たされるためなら、結構いろんなものも踏み台にできるし、嘘もつくし、平気で人を傷つけたりもできるのだ。

それでも、普通にりっぱな大人みたいなことも言えるし、きっと昔の自分がみたら、くそったれだと思えるようなセリフもさらりとはけるようになったし、そういう自分を肯定することもうまくなったし、それなりに社会の中でも半人前くらいにはやっているのだ。

そんで潜在的にあるものと、後から身についたスキルとのせめぎあいはいつだって拮抗していると思っているのだけど、でもふと気づいたら纏足はいたみたいになってるような気になって、いつだってそれをぶっ壊してやろうと思ったりもするのだけど。

でもそのぶっ壊すものの中には、あったかくてぬるいものもたくさん含まれていて、振り上げたこぶしをあげたりおろしたりするのだ。

なんて。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、そういう時間経過のすべてが結果論として、自分のすべての人生を形作るのだろうと思えるようになった。

今は、中身も外見も、潜在的なものも表面的なものも、才能も技術も、全部が全部結果論にすぎなくて、そもそもぶっ壊すも何も、すべてはつながって出来上がったものだから、だるま落としみたいにどこかだけ、ぽこっとぶっ飛ばすことなんてできないのだ。

言葉に捕まらないようにしようと思う。

そんで帰り道に思ったのだけど。

昔と今の自分が1つ違うのは、刹那的という言葉のとらえ方かもしれない。昔思ってた刹那的は脆くも儚いイメージだったのだけど。でも今は刹那的に生きるということは、日々を丁寧に生きることだと思ってる。

そのベースが変わったことは大きい。

それと、守るとか攻めるとか、勢いとか流れとか、そういう言葉で心を奮い立たせるメリットは、ここ一番で言葉によるブレーキがかかってしまうというデメリットを兼ね備えているということも学んだ。

んで。

すべてのものは両面を兼ね備えてるからこそ、依存したくないと思うようになったのだ。






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Title: 水・陸・そら・無限大。
2011.07.16

ここで一応区切りなのです。小学校のことから変わることなく、終業式を迎えて、物理的にも精神的にも区切りをつけるのです。きっと夏が好きなのはこの区切りを境に前と後にじわりとonからoffに切り替わっていく感じが好きだからなのかもしれない。

昨日は立て続けに何人かの友達と電話をして。

泣いてたり、笑ってたり、疲れてたり、うかれてたり。

わずか1時間くらいの間に喜怒哀楽を全部垣間見た気がして、この開放感にあふれた夕暮れにも、世界はしっかりと回ってるんだということを感じた。

自分の笑っているときにも、どこかで誰かが泣いていて、自分が苦しいときにも、どこかで誰かが開放感を感じていて、どこかで誰かが絶望を感じてる瞬間に、希望に灯が灯る。

世界は着実に、無情にも寛容に回ってる。

なんか。

やっぱり少し先になにか約束をつくってしまうことが苦手だ。

どうしても唐突に行かなければならないところができたり、どうにも待ってはくれないことが日常にたくさんあるから、楽しみにしてるところや約束よりも優先しなきゃならないことも多いし、その度にわかってはいるのに、心の中にイガイガしたものがひっかかる感じが嫌なのだ。

それでもその心の置き方を克服することは、大人へのステップなのだとかおもってがんばるのだけど、でも最近は苦手なものを克服するのと、体型に合わない服を着こなそうとするのは違うのかもしれないと思う。

自分の一番いい状態を知るってことは、幸せを考えるときに避けて通れないところで、大概の諍いと争いと苦しみは、自分で自分の身の丈を知らずにいるところから生まれるのだと思う。

自分が一番力を発揮できて、しなやかで、負荷のかからないポジションをどのタイミングで掴むかということで、人生の彩りは変わるのだと思う。

でもそのプロセスで難しいのは、どうしょうもない自分と対峙しなければいけないことと、それを許容する勇気が必要なことだ。つまるところそれは価値観を再構築するときに、いい状態や悪い状態をイコールで幸せや不幸と結びつけないことなのだと思う。

それと。

消耗のベクトルを還元できる先をみつけるということは、人生において大事な事なのだけど。でもそれはあくまで代替えにしかすぎなくて、そもそも消耗するということそのものに取り組むことも大事なのではないかと思うのだ。

同じ刺激を受け続けて自己修復を繰り返していると免疫機能が過剰反応するようになって、それがあたりまえになると、痛みとか悲しみみとか、怒りも喜びとか、そういうシンプルな刺激の心地よさが心地よくなくなってしまいそうだと思う。

なんか回りくどいいい方だけど、それはたぶん鈍るというやつだ。

世界はほんとどうしようもなくシンプルで、どうしようもなくくだらないことが絶妙なバランスで成り立っているのだ。そこには意義も意味もなんにもない。

ただ日が昇って月が出て、また日が昇るだけ。

そのただの出来事を勝手に、劇的に、絶望的にそして運命的に希望を持って生きてるだけの話。

暑いし、鼻くそほじりながら昼寝でもしよ。










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Title: こんぷれ。
2011.07.05

ついに蝉が鳴いた。

これはもうきたってことでいいのだろうか。

梅雨とかもうこんな感じで抜けちゃったってことでいいのだろうか。

だとしたらいつまでも悶々してられない。

ただ、ひとつ明らかになったのは、疲れはとる努力をしないと駄目なとしになったなということ。ちょっと前まで、仕事も遊びも全力でやっていても、夏は無敵だったのに、そのペースを続けていたら耳きこえなくなったし。

しかも眠くて仕方がない。

なので、休むときも全力で休んでやるぜと決めたのだ。

夏だけでいいから1日が30時間くらいあったらいいのにとかぶつぶつ言いながら。

なんかアフリカからのお客様をお迎えしたかと思いきや、その足で竹藪に分け入って、汗だくで夕用の竹を探しながら、竹取の翁の気持ちになって、光る竹からかぐや姫でてこないかとか妄想しつつ、午後には締め切りの迫った仏教関係の原稿を書きつつ、曽我量深の法話のテープおこしをする。そんで夕方からは父母からの要望(一方的で理不尽なものも含む)への解答書を作成するための会議をするわけで。

なんか1日をこうやって書き出すといつも自分の中途半端さになにかイガイガしたような気持ちになる。

一体自分はなにがしたいのだろうかとか思う。

どこに根を下ろしてないような感じがしてなんかふわふわする。

でもたぐいまれなる自己肯定の才能をフル活用して、すべてを1つに集約して、すべては自分の中で通ずるものがあるのだといって納得させるという作業を繰り返す。

自分の根底にあるのは結局は自信のなさであり、すべてはその表裏なんだろうと思う。

でもいまはある程度自信のなさを許容できるようになったし、その許容が結局自分の立ちべき場所に押し出してくれたような気がするのだ。

コンプレックスは目を背ければデメリットのままだけど、許容すれば武器になる。

そしてそれを個性を呼ぶのだと思う。

なんて。

もうカルピスもスイカもクリアしちゃったから、あとは花火と旅と淡いものだけ。

ビバなつ。
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Title: さだめとかそういう。
2011.07.01

もわっとした昼下がりに、原付にのって近所までお届け物に行く。

車道にでて、アクセルをまわした瞬間に、いろんなものがこみ上げてきて、夏が来たんだと思った。そんな気持ちを味わいながら、なんかいいことあるかもなんて根拠のない妄想をしながら回り道をしたりする。そして日が少し落ち始めた頃に神楽坂にいって、一杯あおって、深夜の静まりかえった街を横目に家まで歩いて帰る。

そして明日は園の盆踊り。

確実に着実に、頭も身体も、準備ができてきた。

もう線香花火買ってもいいんじゃないかと思う。

なんか昨日で今年が半分終わって、今年を振り返りつつ夜道を歩いていて、いろんな意味で、本当にいろんな意味で、結局のところ自分の幸せ指数というのは、こうやって手の届く範囲のことで十分なのだと思った。

それと、いろいろなことを総合して思うのは、結局のところ心から誰かを好きになるということは、その人のいろんな表情をみたいということなのだと思う。表と裏は対になっているから、それはいうなればポジティブな表情だけではなくて、ネガティブな部分も含めてなのだろうと思う。好きな人の悲しい顔は見たくないなんて言うのは、頭ではじき出した大義名分に過ぎなくて、きっと本能的に悲しんだ顔もみたいはずなのだと思う。そうじゃないと合点のいかないことが結構あるのだ。そしてそれはある種の覚悟でもあるのだ。

結局はその覚悟を愛と呼ぶのだと思う。

言葉ではうまく伝えられないのだけど。

なんか覚悟と言えば、最近、日本人も白人も黒人も、男も女も、15才でも、90才でも、結局は自分と同じ人間なのだということを妙に実感する。

そしてその実感の中にもなんかある種の覚悟みたいなものが見え隠れしているのだ。

覚悟というのはまだしっくりこないのだけど、言い換えればそれは、さだめという単語に表せるような類のもののような気がするのだけど、それをかみ砕いて味わうにはいまは時間が足りないから、もう少し反芻しながら保留。

この間ある人と議論をしていて思ったのだけど、きっとある程度宗教とか仏教を学んでくると、その視点や見え方を流用しつつ、武器にして相手を完全にたたききることってできるのだと思う。でもそれはきっと一番やってはいけないことなのだと思うし、仏教や宗教をそういう使い方をしてしまったら終わりなんだと思う。

例えば。

結局のところあんたは自分のことは棚に上げているだけだし、この間のあなたはこう言った後にこういう行動をとっていたけど、今言っていることと矛盾しているし、それに気づいてすらいない、それに自分の足下に踏みにじられてるものが見えてもいないのに、だれかをどうにかしてやろうなんて、おこがましいにもほどがある。まずはその一貫性のない自分の事を捕まえるところからはじめたら。

なんて相手を感情的にあおっておいて、くいついてきた瞬間に

そもそもそんなに感情的になって自分を見失うような人が、広く物事が見えているとは思えないし、感情的になった時点で、この議論は不毛なものになったし、自分の感情すらコントロールできない人がえらそうになにか語ってるのとかちゃんちゃらおかしい。

とかいいたくなるときもある。

たまに議論がどういうものかもしらずに、自分の意見だけを主張して、人の話を遮ってまで他人を批判して、結局自己満足の自慰のようなことしかできない奴とかがいて、本気でやりこめてやろうかと思うし、いっそのことひと思いに・・・なんてことがよぎるのだけど、それは脳内妄想だけにとどめておいていわない。結局はそこにのっかったら自分もスパイラルの中なのだ。と冷静に言えるようになっただけ大人になったのだと思う。

#

時間というのはなんて無情なんだろうか。

時が解決してくれたり、時がすべてを許してくれるなんてこともがあるけど、それと同時に幸せな時間とか、かけがえのない瞬間なんてものもどんどん飲み込んでいく。

なんか、時間という概念と、仏教における姿勢というものは通じるものがあるのだろうと思う。

究極に無情であることは、究極に寛容なのだと思う。




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