Title: シンプルな想いの話なのだ。
2011.10.23

どこかの遠い国で独裁者が殺されて、その国には自由と民主主義が訪れたそうだ。

昔の自分なら、鼻息荒くして原油産出国への介入の仕方はいつだってえげつないな、裏で糸ひいてる一握りの人間が、大義名分を意図的に作り出して、うまいこと利権の問題を民主主義とかいう思想の問題にすり替えたり、テロだなんだと騒ぎ立てて内政干渉する。こうやって帝国主義は覇権を広げていくんだ、いつだって保守とリベラルの問題は、どこかの頭のいいやつに本質をねじ曲げられているのだ。なんて表面的な知識をつなぎ合わせてわかったようなことを言いたくなっていたのだけど、

結局のところ、ここでどうこう騒いでても本当のところなんて見えないし、わかったようなこといってみることで満たされるものに満足してたって世界はなにも変わらないのだ。

最近はもう理由とか背景とかそんなものはどうでもいい。

一人の人間が殺されることで狂喜乱舞する人が、これだけいるのがこの世界なんだということだけがわかれば十分に自分の今いる世界に還元できるのだ。

*

自分を楽しませることのできない人間が、どうして他人を楽しませることができようか。

*

はなきんだからという理由で、金曜日には不摂生の極みをしたのだけど、その後ろめたさと胃のもたれ具合から、この土日は食生活や睡眠時間にはものすごく気を遣った。

んで思ったのだけど。

なんか不摂生であったものを意識的に戻していくプロセスとかが結構すきなのだ。

決してストイックなタイプではないし、苦しいのとかきついのとか、こつこつととか、そういうのは完全に不向きなのだけど、思い立って意図的に自分を変えていこうとするプロセスと、そこで実際に変わっていく自分を感じる瞬間に感じる気持ちはなににも代え難いと思ってる。

きっとそれは行きすぎたら破壊衝動になるのかもしれないけど、なにかを作り上げてそこに習慣ができると、それを壊してまた新しい習慣をつくりたくなったりするのも同じようなところから来ているのかもしれないと思う。

良くも悪くも、物理的にも精神的にも、自分の中で何かが変わっていくということを実感するという行為が、脳の中で快楽物質を放出しているのは間違いないようだ。

*

ある記事で、戦争経験者の老人がこう言っていた。

サイパンに新婚旅行にいったカップルが旧日本軍の戦車の残骸に腰掛けて、笑顔で写真をとったりしているのをみて、左翼の人間は、この残骸は本当におろかな行為の証だなとかいうかもしれない、右翼の人間は、日本国軍人たちが命をかけて散っていた場所で、戦車にに腰掛けて、笑顔で写真をとるとはどういうことだ!と憤慨するかもしれない。

でも、私の仲間達、旧日本国軍人が守りたかったのは、日本国民の笑顔だったのです。だからきっと仲間達は新婚旅行でサイパンに来ることができて、笑顔で写真がとれるくらいに平和になった日本を嬉しく思っているんじゃないでしょうか。

そしてこの方は、ある時、靖国神社で、夜になると若者が境内で宴会をはじめるということが目に余るようになって、夜間閉鎖を検討されたときに、一人で断固反対したそうだ。そして、若者が笑顔で酒を飲めるなんてすばらしいことじゃないか。きっとここにいる仲間達も笑顔でそれを眺めているよといったそうだ。

なんかこの記事を読んで、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうし、この話も断片的なエピソードなのだろうけど、でも自分は単純だからこういう想いを持ってくれている人がいるということが嬉しいし、だからこそその想いに答えなきゃいけないのだろうと思ってしまう。

正直、今の日本や自分をみていたら、これでいいのだろうかとか思ってしまうことだらけだけど、でもそれでもたまにこういう話を聞いて、自分の中で足下を確認する作業って大事だなと思う。

いいとか悪いとか正解とか不正解とかそういうのじゃなくて、自分がどこに進みたいかこうやってたまに自分で勝手に確認するのだ。

これは右とか左じゃなくて、もっとシンプルな想いの話なのだ。






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Title: manuSya
2011.10.23

気安くわかるなんていいたかないのだ。

わかろうといくら努力したってわかることができないものもあるのだ。

その人の中にある苦しみは、その人の中にだけあるもので、どっかのだれかにわかるはずがないのだ。

だからありきたりなこといいたかないし、気休めになにか言葉をかけるなんてことはしたくないのだ。

わかったふりするのが嫌なのだ。

当たり障りのない距離で、当たり障りのないこといって、なんとなく体のいい関係っていうのが嫌なのだ。

でもだからといってわかんないと開き直るのも嫌なのだ。

あれも嫌だこれも嫌だ。

このわがままにはどこかで折り合いつけたくないのだ。

物事は必ずしも解決すればいいってものではないし、必ずしも自己完結しればいいってものでもない。

そもそも簡単に自分で答えをみつけられるような問題ならばどこかの誰かの中で苦しみになんてならないのだ。

嫌だ嫌だとじたばたして右往左往して、自分なりにもがいて、そこでしてしまったことや、口をついて出た言葉が、今の自分のすべてであり、それ以下でもそれ以上でもないのだから、その自分を信じるしかないし、たのむぜ自分よといって足を動かすことしかできないのだ。

あわよくばそこからこぼれ出たなにかで、意図せずとも誰かの中にある苦しいことが少しでも軽くなれたらいいと思うのだ。

だから四の五の言わずに自分にできるのはいつだってただ淡々と進むことなのだと思う。

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Title: おのふ。
2011.10.19

なんだかんだ一人で全部こなしてやるんだなんて、息巻いて、はったりこいたって結局の所誰かに助けられて、行き詰まって一人もちゃってたって大声でそれを吹き飛ばすのはいつだって他人だったりするのだ。

言葉に捕まりすぎだなんてえらそうにいっておきながら、いつだって言葉に捕まっているのは他でもない自分なのだ。

結局はいつかは死ぬのだし、感情なんて一時の高ぶりなのだから、そんなところで右往左往したり、永遠を約束するなんて散臭い行為だなんてうそぶいたって、こころのどこかでは、そんな胡散臭いものを渇望しているのだ。

ほんと裏は表で表は裏だな。

某ネズミーランドが大好きだという人はある意味では、ものすごく現実的でリアリストなのだろうと思う。現実と夢の区別がしっかりできていて、自分のonとoffもしっかりできるりっぱな大人なのだ。

一方作られた夢の国を穿った見方をしたり、ネズミーマウスなんて中に人間がはいってるのさへへんっ。なんていってる人ほど心の奥底に、曇りないロマンを追い求めてるロマンチストなのだと思う。

それと完全な仮説なのだけど、ネズミーランドが好きな人とワンピースが好きな人は結構な割合でリンクするのではないかと思う。

それと。

攻め上手がSで、攻められ上手がMかといえばそうじゃない。

攻めてるときに、満たされるものが必ずしもサディスティックな面かといえばそうではないのだ、それに一方的に攻められているときに満たされる面も必ずしもマゾスティックな面かと言えばそうではない。

最近つくづく目に見えるものと本質は反比例しているのだなと思う。

だからこそ人間はおもしろいし、だからこそ人間は時にどん底まで落ち込むのだろうと思う。

でもなんてこたない。

ルールと仕組みがわかれば人間なんてそんなにやっかいな生き物ではないし、それほど複雑な生き物ではないのだろうと思う。それをややこしくしてるのはいつだって自分の願望と妄想なんだって。

*

朝から子どもたちと稲刈りをする。

んで、地べたに這いずり回ってしこたまバッタをとる。

20匹くらいつかまえて、虫かごに押し込む。

地べたにはいずり回るまでは、寒いし、こんなにくそ忙しいときに、なんで自分がこんなことをしなければならないのだ・・・とぶつくさ文句をいってたものの、1日が終わって、泥だらけの爪と靴をみてたら、いろんなものがこそげ落ちたような気がした。

なんか良寛さんみたいに、生きていくのも悪くないなとか思う。なんか10年前の自分では考えられないのだけど、最近幼稚園があってよかったなと思うことが多いのだ。

嫌で嫌で、どうにも投げ出したくても、投げ出せる状況じゃなかったからこそここまでこれたし、だからこそわかることがあるのだ。子どもの持っている感性や感覚や、物事への取り組み方やベクトルの柔軟さも、どこをすっぱ抜いたって、気づかされることだらけだと思えるようになったのは、自分にそれだけの視野が身についたからなんだろうと全く謙遜することなくそう思う。

大げさなようなのだけど、こないだ子どもたちと遊んでいるときに、ああこれはこれでみんな阿弥陀さんみたいなものなんだろうなと思った。そう考えたら、阿弥陀さんってどこにでもいるし、あるし、究極どれでもなんでもいいのかもしれないのだ。本願に届けば、すべては今現在説法なのだと思う。

ちなみに。

子どもはいいよ。純粋で無垢でなんていうキレイことだけを言いたいわけではないのだ。

子どもは時に大人よりも残酷で、捕まえたバッタの虫かごにカマキリをいれて、食べられる様をみんなで観察したりしながら、やはりお腹が一番おいしいのだろうねなんて言い合ったりする。それに平気で嘘もつくし、気に入らない奴は簡単に殴ったりするし、お世辞もくそもない、思ったままに思ったことを口にして平気で人を傷つけたりもする。

むしろそういう部分を持ち合わせているからこそ、学ぶことができる。

そして純粋と無垢という言葉はそういう部分を持ち合わせてはじめて成り立つのだということがいいたいのだ。

*

氏くんの歌ってる夕暮れをたまに聞き直すのだけど。

聞けば聞くほどにいい歌だと思う。

きっとそれは清水口っこだからなのだということも深く関係していると思うのだ。

なんか根源的に、あの頃に培われた感性や、人との関わり方とか、距離感とかは、無意識の中にも存在してるのだきっと。

*

年をとったり世代が交代したら自分の居場所がなくなるのではなくて、年をとったり世代交代をすればするほどに必要になってくるものをいま身につけておきたいのだ。

んで。

あわよくばしょぼくれても洒落とウイットにとんだ毎日をすごしたいのだ。

*

神楽坂も冬の装いになってきて、お品書きにもウキウキするような文字が躍り始めているのだ。こうやってまた季節の変わり目をこの街で旬を食べながら感じることができて嬉し。

*

やっぱ。

わかった気になってはすぐに忘れて、それを何度も何度も繰り返してきているのだけど。

結局、事実にはいいもわるいもないのだ。

悪い結果も良い結果も、それは縁のなせるわざで。

考えても考えなくても、がんばってもがんばらなくても、どこに立っていて、どこでどんな境遇にいたって、苦しいことも嬉しいことも同じように訪れるだけなのだ。

ただ流れていればいいのだな。

ぷかぷかと。

どこにいくかやない。

流れたところがいくべきところなのだ。

*

自分の欲望や、算段や、もっといえばずるがしこい部分に敏感であると言うことは、同時に他人のそういう部分にも敏感であるということなのだろうな。

自分のなかにある闘争心みたいなものともっとうまくつきあえるようになりたい。

頑なとか頑固とは別の部分で、理解されないことに屈さないで歩いて行ける人だけがみえる世界があると思うし、万が一にもそこがみえるなら見てみたい。

*

やっとかけた。

この一言にここ数週間は集約されるといっても過言ではない。




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Title: 一休。
2011.10.15

是は是、非は非にしておき、生は生、死は死、花は花、水は水、草は草、土は土。

あるがまま流れ流れて、思うままに思い、足を出したままに進めばいいし、座り込んだときには座り込めばいいのだ。


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Title: 一箱分の一日
2011.10.15

今日、ご本山での法話が終わったときに、一人のおばあさんが自分の所に来て、君のおじいちゃんがここで話しているときから、ここで法話を聞いているのよ、お孫さんなのね、今日はお話がきけて本当によかったわと声をかけてくれた。

なんかその一言に帰り道でろんなものがこみ上げてきたのだ、自分もおじいちゃんと同じ所に立つようになったのだな、なんて感傷に浸りつつも、今日の話をおじいちゃんが聞いたらなんと言うだろうか、きっと無駄が多すぎると言うかもしれないし、まだまだだと怒られるかもしれない。

まだまだまだまだ。

今日改めて思ったのだけど、僧侶というのは死んだ人の為にいるのではないのだ。お寺も死んだ人の為の場所ではないのだ。僧侶もお寺も生きている人の為にもっともっと開かれねばならないのだ。

生きてる人に関わって、絡んで、しがらみながら存在すべきなのだ。

なんて。

それとお坊さんは無邪気であるべきなのだとも思う。

へらっとさらっと熱いこと言ってきょとんとやり過ごせばいいのだ。

なんか何が言いたいのかよくわからない文章だけど、今日の気持ちの記録のために残しておくことにする。



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Title: 思考停止
2011.10.06

なんかここ数ヶ月に会った人の中にはおもしろい人も、そうでない人もいたのだけど、それぞれの分野で活躍されてる人たちに共通しているのは、思考停止していないということだ。

例えば、復興支援をしなければと思った時に、生活や家族や仕事があるから、自分は無理とすぐにはならなくて、じゃあ自分のできる範囲ではなにができるのか、自分のできる範囲を広げることはできないのか、その為には、まずなにを片付けなければいけないのか、など思考を拡大させて考えていけるだけの思考法を持っているということだ。

いうなれば心に湧いた想いを、形にするまでの現実的な試算をしっかりできるということだ。

そういう風に思考を拡大していかなければなにをしたって形になんかならないし、そこで湧いてくるデメリットや自分の能力とちゃんと向き合わなきゃ結局ただの口だけのやつになっていくだけなんだろうと思う。

想いとか熱さは大事だ。

だけど、それだけを旗印みたいに掲げて、こういう世界をつくりたいんだ!おれはこんな夢を描いているんだ!と大きなことだけいうのは20代までにしてほしい。

旗印を掲げることは足を動かすための指針であるのに、さもそれが目的であるかのようになってしまっている人のなんと多いことか。

これを自分への自戒として、足をもっと動かさねばと思う。

足を動かしてたやつと、動かしてないやつの差なんてあと数年もすれば目に見えてわかるようになるんだ。

なんか思考停止について考えていて思ったのだけど。

資本主義の世の中で、国家が形成されているというのは、いうなればお金をという価値観を振りかざして、多くの人を思考停止させて国家を成り立たせてるようなものだと思った。

いうなれば、それは生活や社会をシステム化してその歯車の一個を担わせることで、もっといえば家制度をしっかりとして、家族制度を作ることで、深いことや余計なことを考える隙をあたえないということなのかもしれない。

よりよい社会とか、平和とか、もっといえば思想や宗教など、なんでもいいけど、よりよくあるためにはなにが必要なのか、よりよくあるために今自分がなにをしなければいけないかなんてことを、全国民が本気で考え始めたら、国家なんてものはすぐにバラバラになるし、きっと世界なんてものは簡単に崩壊すると思う。

それをさせない為に、生み出されたものが国家であり、組織であり、その趣旨はなにかイデオロギーをかかげることで、思考停止状態をつくりだし、人間の根源的な問題を、人間の創った仕組みやルールの中で生じた問題にすり替えることで人心掌握してそこから得る利権を確保することなのではないかとすら感じる。

そう考えると、究極だけど、よい指導者というのは、なんの疑問を持たせることなく多くの人に思考停止をさせることができる人なのかもしれない。それは時に、カリスマ性で、時にお金で、時に誇りで、時に愛国心で。

そう考えていけば、思考停止という言葉が、いいものか、わるいものなのかなんて議論は不毛でナンセンスなのだ。

それは手段なんだと思う。手段にいいもわるいもない。ただ大事なのはその手段を意図的にまたは意図せずとも操る人間と操られる人間がいるということなのだと思う。そしてそこにはしっかりと利権が存在しているということと、それを享受してる一握りの人間がいるということなのだ。

自己実現をしたいだけの自己があるなら、それを頭にいれて行動し考えておくということはとても重要なことである気がする。

思考停止していない人たちが、社会を牽引していく時に、自己実現をさせるためにはまわりを思考停止させる術を身につけなければいけないということなのだろうか。

なんてね。

とぅとぅとぅ。


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