Title: 大晦日。
2011.12.31

こうして2011年も幕を閉じるのです。来年も楽しんで生きましょう。


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Title: X100
2011.12.30

お年玉と誕生日と自分へのご褒美と称して・・・むふ


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Title: 後生の一大事
2011.12.29

今年がどんな一年だったかを振り返る。

親鸞聖人750回御遠忌に法然上人800回御遠忌の節目の年である今年に震災があった。

この1年間を振り返り、震災の日から、現在も進行形で放射能の対応などに追われていたり、自分の中では今日に至るまで本当に震災一色だった。

いつも頭の中にどこか震災のことがべっとりとまとわりついているようで、漠然とした焦燥感があったり、自分のしたいことと、できることと、やらなければならないことの狭間でもどかしい想いを引きずりながらここまできたように思う。

その中で様々な形で足を動かす友人をみたり、様々な形で活動する僧侶仲間をみていて、自分にはなにができるのだろうか、自分はなにをしなければいけないのだろうか、そして自分はどうありたいのか、そんなことばかり考えていたように思う。

そこで右往左往して悩んでみても、結局の所、自分にできるのは、物理的な支援をすると同時に、今手の中にあるものの精度をもっともっと高めていくことだと思ったのだ。

ばたばたと付け焼き刃でなんでもかんでも手を広げるのではなく、自分の武器をもっともっと研ぎ澄まして、それで誰かの何かになれればいいと思う。

自分のお寺のお檀家の人たちとの会話ももっともっと丁寧に、子どもたちと関わる1日1日をもっともっと丁寧に。家族や仕事でかかわる人達や友達とすごす時間をもっともっと丁寧に。

目の前に起きていることがどんなことであろうととりあえず、もっともっと丁寧にこなしていけたらと思う。

1日1日の重みを質感として感じられるように時間を過ごそうと思う。体感として今日と同じ日はないのだと思えるように過ごそうと思う。

後生の一大事を心にかけて。

んで。

毎年同じことを言っているのだけど。

来年をどんな年にしたいかといえば。

がんばらず、かかえこまずに、せのびせず。

今を大切に。

是に尽きる。

今年もありがとう。そして来年もよろしくどうぞ。







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Title: 自灯明 法灯明
2011.12.26

なんか悶々してたらタイムリーな中村元先生の言葉にはっとした。
最後の自灯明 法灯明のくだりだけ備忘のために、文章に残しておく。
なんかやはりクシナガラに行きたくなってきた。

仏教の教えというものは、この上に輝く日月のようなものである。

太陽や月があらゆる人を照らすように、仏教の教えの真理というものは、あらゆる人に明らかなものであり、あらゆる人を照らすというわけです。

続けて釈尊はこういわれました。

もしも自分が人々を導くのであるとか、あるいはこの修行者の仲間が私を頼っているとか思うならば、私が死ぬということは大変な事であろう。しかし私は自分がみんなを導くなんて思ったこともない。

またみんなが自分を頼りにしているなどとも思わなかった。

自分はただ人々のよるべき真理、真の生き方というものを明らかにした、それだけなのだ。

だからなにも自分が消えて亡くなったからといって嘆き悲しむな。

およそこの世のもので、いつまでも破れないで存続し続けるものは何もない。

いつかは破れ消え失せるものである。その道理を私はおまえたちに今まで説いてきたではないか。ただ私はそこにある一貫した真理というもの、それを説きあかしてきた、だからそれに頼れ。

この変転常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。

自分に頼るとはどういうことであるか。

自分はこの場合にどうするべきかということを、その場合、その場合に考えることでしょう。

その場合なにを判断基準にするのか。

それは「人間としての道」「法(のり)」インドの言葉で言うと「ダルマ」と呼ばれるものです。これを「法」と訳しますが、この人間の理法というもの、これに頼ること「自己に頼れ 法に頼れ」

これが釈尊の最後の教えでありました。





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Title: 遺書。
2011.12.23

こないだ遺書を書いたのだけど。

とはいっても死ぬきもなけりゃ、何か重い病なわけでもない。ただ肋骨が折れてるだけで。

この間若手僧侶が集まる会で、僧侶が集まって改めて真剣に遺書を書いてみようという試みがあったのだ。普段から死に触れて、人前で法話なんかしてる人たちがいざ自分の死に向き合いましょうってな意味で。

んで感じたこと。

多くの人が、遺された人たちに、ありがとうとか、ごめんなさいとか、そういう言葉を綴ったというのを聞いて。

自分の遺書にはありがとうも、ごめんさないも1つもでてこなかった。

それに正直言うと明確に誰かの顔を思い浮かべることもできなかった。

結局自分が書いたことをかいつまんでしまうと。

世の中は思い通りに行かないことが既存設定です、そう思ってるとちょっと楽になれるかもしれないです。

まあお先にいってますので、またいつかお茶でものみましょう。んじゃ。

ってな感じのことなのだ。

キレイにまとめすぎとか言われれば、そうなのかもしれないのだけど。

実はなんか感情移入しすぎて、言いたいことや想いがあふれすぎて、むしろ考えすぎちゃって、自分の一生や想いを、文章にまとめることなんて不可能だと思って、なにがいいたいかと思ったら、なんかお別れみたいなのは嫌だし寂しいから、この世もあの世もたいして遠くないよってなことがいいたかったのだ。残された人がそう感じてくれたらいいなと思ったのだ。

あの世とこの世の垣根を少しでも下げたかったのだ。

それと、自分が明確に誰かの顔を想定して言葉を残して、死んでなお自分の言葉や、想いで誰かや何かにバイアスをかけて、可能性を狭めるようなことが嫌だったのだ。

こうして生きてくれとか、自分が死んだらこうしてくれとか、寺はこうして、幼稚園はこうしてとか、あいつにこれを渡してくれとか。HDDのこのフォルダは開けないで黙って削除してくれとか。そういう残したい言葉や想いはたくさんあるのだけど、残したところで、残された人が思い通りにできることもできないこともあるから、まあそこはなるように、残された人がなんやかんやと理由を付けて、きっとあの人はこう思ってるよとか、こういう人だったからきっと喜んでるよとか、勝手なことをいいながら満足いくようにしてくれればいいやと思ったのだ。

秘蔵のコレクションが削除されずに形見分けだとかいいながらみんなが持ち帰ってもそれでいい。

むしろそれが嬉しいし、あの世から見えるかどうかはわかんないけど、もし見えるなら、自分の残した言葉や思い通りにみんなが動いているのを見るよりも、みんな思い思いに勝手なことを言ってるのを見る方がおもしろいなと思ったのだ。

それぞれ残された人達が勝手な想いで、満足して自分を思い出してくれるならそれでいい。そんであのやろう勝手なこといって都合いいこといいやがって、うらめしやなんて、いいながら、あの世でお茶でもすするのだ。

そもそも自分がいなくなったところで、世界はなにもかわならないし、いないならいないなりに日常は回っていくのだ。

なにか残したところで、いないやつの想いや願いなんてものはいづれ風化していくのだ。

なんかお寺にいて一番思うのは、これなのだ。

自分はいてもいなくても間違いなく明日から日常は、その人がいないなりに回っていくのだ。

ばたばたするのなんていいとこ数ヶ月だ。それになにかを残そうったってそんなもんは無理だ。

なぜなら3代前の先祖の残した言葉なんて自分は1つも知らないのだから、それがなによりの証拠だろう。

それが現実なのだ。

でもそれは寂しいことではなくて最高に幸せなことなのだと思う。

だからこそ、その現実こそが今を大事にするべきなによりの理由になるし、その現実があるからこそ、この瞬間が二度とないものであると思えるし、それが人生に彩りをくれるのではないかと思う。

今回こういう形で遺書を書いてみて。

なんかいろんなことを再確認できた気がした。

なむ。










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Title: 落ち葉焚き。
2011.12.23

少しづつ今年を振り返り始める。

今年は大学を卒業して10年目の年。

社会に出て10年。

いまじっくり振り返ってみると、この10年いろんなことがあって、自分を取り巻く環境も刻一刻と変わってきたし、自分のフェーズもどんどん変わってきた。

社会にでたばかりの頃は、自分はまだまだできる、もっともっと力も権力もほしいと思っていたし、1mmでも背伸びをして大きく見せたかったし、肩書きもほしかったし、社会に自分を認めさせてやるという気概だけはあふれていたと思う。その中で、悪態つきながら、文句ばかりいいながら、自分ならもっとこうできるのになんてクダを巻ながら一杯のむことが多かった。

それから、少しづついろんな意味でたたきのめされて、折れそうになったり、落ち込んだり、時には全部投げ出して逃げ出したり、心にもないことを口走って誰かを傷つけたり、しかもそんな自分を正当化して、自分だってがんばってんだからいいじゃんかぐらいにしか思っていなかった。

今思うに、その頃は、すぐに目に見える結果ばかりを求めていて、大事な部分(例えば会話とか、人間関係とか、人の気持ちとか)をおろそかにして、数字や評価ばかりに気をとられて、結果として空回りしていたのだろうと思う。

それから、任される仕事の責任も大きくなってくる中で、自分の判断のミスや、プライドとか、頭を下げられないばっかりに、自分以外の人たちにたくさん迷惑がかかるということも身をもって体験して、改めて責任って言葉の意味がよくわかった。簡単に責任って言葉を使うけど、責任ってものに含まれるものは、本当に広くて重い。

なんかそんなこんなで、右往左往して、この10年を過ごしてきたのだけど。

正直言うと、自分の中にある想いとか気持ちとかはこの10年で全然変わっていない。

今でも結果をだせないやつは消えていくだけだと思ってるし、力がないのだろうと思ってる。それを運が悪いだの、しょうがないだのと言い訳をしたくないし、そういうところにいたら、自分も朱に交わりそうだから嫌だと思ってる。

お寺関係や幼稚園関係はぬるいところがある。そのぬるさの大切さとか、そこにしかないものがあるのもわかるけど、まだまだそこに甘んじないでおこうと思ってる。

表面上だけみんな仲良く手を繋いでいきましょうとかあまり好きではないし、仕事も口だけでなにもしない人とは一緒にしたくないし、今でもいつだって自分の方がまだまだできるとか思うことたくさんある。

まぁまぁいいじゃんそんなに熱くならなくてとかいいたくもない。目の前に楽しいことがあるのに、腕組んでふふ~んとかいうの嫌だし、目の前に許せないことがあれば、まぁまぁとか言って受け流すのも嫌だ。

でもそんな性格の悪い自分がこの10年で身につけたことは。

すごいやつはすごいのだ。嫌な奴でも自分よりもできる奴はできるのだ、だからあいつはわかんなくていいとか、無駄に頭を下げないぜとかそんなちんけなプライドは捨てようと思ったこと。そういう悔しい思いをしなけりゃ成長できないってことと、人生において階段を上りたいのなら、どんな思いをしてでも、どんな小さなことでも結果をだすということが大事で、小さな結果が目の前に次のステップをつくりだすことだと思う。

嫌な奴をまともにぶん殴るのではなくて、得るものは存分に得て、使えるものは存分に使って自分の糧にしればいい。くっそう。とか思ったり、たまに愚痴ったりしながらも、それでもちゃんと階段を上ろうと思い続けることが大事なんだと思う。

なんで階段を上るのかといえば、もっといろんなものを見たいし、感じたいし、楽しいことをしたいからなのだけど、ホントは理由なんて考えるのは二の次でいい。ちゃんと登っていれば絶対自分の好きなことが好きなようにできるようになると信じてる。

最近よくいうのだけど、踊る大捜査線で例えるなら、昔は青島に憧れてて、「どうして現場に血が流れるんだ!」とか「事件は会議室で起きてるんじゃない!」とかいいたいぜとか思ってたのだけど、やっぱ室井さんの信念がなければなにも変えられないのだ。

だから途中で倒れてかっこよい死に様で消えていくのも悪くはないのだけど、今は、できればいろんなものにしがみつきながらでも、悔しい思いをしながらでも、かっこわるくとも、結果をだして死にたいと思ってる。

ただ大事なのは、結果を出すために大切なのはなにかを問い詰めていくことで、案外結果にはいろんな縁が作用しているから、自分が直接結果に結びつくと思ってるものだけを大切にしてても駄目だと言うことで、早い話が、結果を出すためには、自分の目の前に落ちてきたことを軽く受け流したりせずに、丁寧にこなしていくことの積み重ねだということじゃなかろうかってこと。

世の中結果じゃないよっていうけど。

世の中は結果じゃないという人はそれをお守りに、自分を甘やかしてるだけだと思う。本当をいうと世の中は結果じゃない。でもそれは自分で宣言することでも誰かに言われて慰められるような使い方をする言葉じゃない。

結果というのは、他人からの承認であり、他人からの承認というのは、共感でもある。

他人から共感を得て、自分を承認してもらえるだけの自分をつくろうという想いを忘れたら、成長なんてできないと思う。どんな嫌な奴でも、絶対にこいつを認めさせてやると思えなきゃおちぶれていくだけだと思ってる。

おちぶれてすまんっていいながらも貧保耐三だって誇りだけは失わなかったのだ。

へけけ。

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Title: ギルド。
2011.12.19

実は、というほどのことでもないのだけど。スープがすごい好きなのだ。昔から。

特にコーンスープ。

たぶん理由なんて考える必要はないのだろうけど。

最近子どもたちと絵本を読んでいると、絵本の中にはよくスープがでてくる。この時期に選ぶ絵本にはよくでてくる湯気の立ち昇る温かいスープをみるたびにああ・・・おいしそう・・・と思うのだ。

うちは昔から絵本がたくさんあったし、本ばかり読んでいるような子どもだったので、知らず知らずに絵本の中から受けた影響というのは大きいのかもしれないなんてふと思ったのです。

きっとスープの味が好きだというよりは、寒い日にのむスープというシチュエーションが好きなのだ。

なんか子どもたちをよくよく観察したり、自分の子どもとの関わり方をよくみるに、自分の好きなものや安心するものが子どもの時からの延長であるのかもしれないということを思わされる今日この頃。

いつか時間ができたときに読もうと思っていた、秋葉原通り魔事件の関係の本や手記、雑誌などのインタビューを一気に読みあさる。寝ても覚めても加藤智大のここ2,3日。

さっきのスープの話じゃないけど、自分をつくる要素や可能性は、自分の手を越えたところにたくさんあるのだ、それはいい方にも悪い方にも作用する種みたいなものなのだということを改めて再認識する。

強く感じたのは、生きているということは、心臓が動いていることだけを指すわけではなくて、人は生きながらに死ぬことも、死してなお生きることもある。そして孤独や寂しさや、満たされない思いというので人は生きながらに死ぬことができるのだ。

そして現代には、孤独や寂しさや、満たされない思いを簡単に味わうことだけの背景と要素があまりにも多すぎる。無意識に生きていれば誰でも簡単に落とし穴に落ちる、基本設定で人を孤独に追い込むシステムが当たり前のようにまかり通っているのだ。

「人間」という漢字を初めて作った人は本当にすごいな。

あたりまえのようだけど、人は人の間にいるということが大事なのだと思う。人の間にいるということは、煩わしいことも、めんどくさいことも全部含めて、よりかかられることであり、よりかかることなんだろうと思う。現代人の苦手なのは、よりかかられることじゃなくて、いつだってよりかかることなのだ。

そんなことを思いながら今年を振り返るに、この半年は宗派をこえて若手僧侶があつまる会の企画をしてきたのだけど、今一度僧侶とはなにか?ということを自分自身に問いかけるいい機会だった。

なんか。

今回この半年で思ったのは、やはり仏教は人のいるところにあるものなのだ。人のいるところに苦しみや悲しみがあって、僧侶はその人の顔の見えるところにいるべきなのだと思う。

あたりまえで簡単なようだけど。

人の顔を想定しないで、ああでもない、こうでもない、顔も想像できないところで議論を繰り広げると言うことが当たり前のように横行しているのだ。

脳死の議論1つとってもそうなのだ。

自分の大切な人がなるのか、他人がなるのか、自分の家族に提供を待つ人がいるのかいないのか。そんな違いでそこにある答えは様々なのだ。むしろ様々であることが既存設定なのだ。

その様々にある人間模様の一つ一つの顔の見えるところに仏教はあって、僧侶がいるべきなのだと思う。人の数だけ苦しみはあるし、その苦しみの数だけ僧侶のあり方があっていいのだと思う。

なんせ教えは八万四千もあるのだ。

すごく浄土っぽい考え方かもしれないけど、自分は真宗の僧侶なので。

なんか今回の会議を終えた帰り道、ふと、救うっていうのは掬うって言い換えてもいいのかもしれないと思った。

掬う為には、そっと両手を差し出せる距離にいなきゃ駄目なんだろうと思う。

願わくば、自分は人の顔の見えないところでなにかを動かすような僧侶になるのではなく、自分の手で直接誰かの顔を見て何かを掬えるような僧侶になりたいと思う。

自分の中にあるおぼろげなものが形になって、自然に1つの方向に押し出されて、結果として自分ができあがってくるのだ。

だから目指すべき自分なんてない。

夜と朝をなぞるだけのまともな日常。

まえにまえに。





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Title: 小寒
2011.12.10

結局のところ幸せなんていうのはこんな1日で満たされるようなものなのだ@浅草

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Title: 青月。
2011.12.07

なんか。

たぶん。

取り繕いながら、いい顔ばかりして生きてたり、いい人になろうとしたり、仕事が評価されて褒められたりして次はもっといい結果だそうとか思ったり。そういうのが慢性化して、習慣化してくると、やっぱ自分の周りに一枚膜が張ったような、殻がまとわりつくような感じがする。

ほっといても人間はどんどん大人になるんだな。そんで安定感に疑問を持たなくなって、さもそこが幸せであるという価値観を疑いもしなくなるということだ。

評価や世間体とか、どう見えるのかとか、そんなんばっか。

もっと危うさとか、未完成さとか、無鉄砲さとか、そういう高い塀の上をバランスをとりながら、その怖さと達成感の入り交じるような感覚を、お腹のちょっとしたで楽しみながら味わうような日々を過ごしたいのに。

なんで、自分を守るためにむきになったり、つまんないウソをつきまくったりすることはいい加減にやめたほうがいいことで、はやいところ、慌てず騒がず涼しい顔してられるようにならなければいけないのだ。

自分の不完全さとか、未完成さとか、未熟さとか、そういうものにうちひしがれて、また立ち上がって、ぐちゃぐちゃした気持ちを何度も何度も味わいながらいきてたっていいじゃんか。

冷たいと言われるかもしれないけど、誰かを救いたいなんて二の次で、まず真っ先に救われたいのは何時だって自分だ。

そういう自分に後ろめたさを感じたり、もやもやしたりとか、もうそういうものを抱えたままでいいや。

キレイさっぱりあたますっきりなんてのは、なにかを越えたとか悟ったとかそういう言葉にすればキレイだし、さもいいところのようだけど、そんなもんはまだまだ道半ばなんだよきっと。

なんて負け惜しみをいいながらじたばた。









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Title: 海に続く道。
2011.12.07


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Title: 真夜中の晴天。
2011.12.07

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Title: とり。
2011.12.07

くだらないことで腹たてたり。

くだらないことで笑ってたり。

くだらないことで泣いたり。

そういうのが全部すきなのだ。

くだらないことをまっすぐに垂れ流しながら生きてる様が溜たまらなく心を打つのだ。

意味のない正義感とか。

ちっぽけな虚栄心とか。

自分を守るためのウソも。

ぜんぶ。




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Title: ぽやっと。
2011.12.06

つくづく、自分の判断基準において大事なのは、楽しいか楽しくないか、気持ちいいか気持ちよくないかなのだ。物理的にも精神的にも。

つまりは楽しくて気持ちよいものが最上級なのだ。

いや別に下世話な話ではなしに。

いや半分は下世話な話なのだけど。

なんか抱えていたものが1つ片付いて、すこしぽやっとした時間を過ごせているものの、来年はもすこしぽやっとした時間を過ごしていきたいと思う今日この頃。なにかに追われていない時の感性と観察力は、なにかに追われている時の数倍はあるだろうなということを実感として感じるわけです。

いつだって先ばっかり、前ばっかりを見据えて、顔を上げていれば見栄えはいいかもしれないけど、それだけじゃ見落とすものもあるってなもんで、今は今にしかなくて、案外今手の中にあるものを本気で観察してみれば、大概の答えは手の中で見つかるのだと思う。

それと最近感じるのは、境界線はなんであれ、曖昧なほうがいいのだということ。

例えば住むところもそうで、昔の家というのは、家の中と外の境界が今よりもずっと曖昧だったのだろうと思う。だからいつもどこか社会との接点があって、生活することや、子どもを育てる過程において他人が介入しやすい環境だったのだろうと思う。それと公私の距離が近いということは、言い換えれば逃げ場があるということなのではないかと思う。

そそくさと社会に逃げる、そそくさと生活に逃げ込むみたいな行き来がいまよりももっと緩かったような気がするのだ。

今はどうしてもドアを一枚隔てて、家と外との境界がはっきりしすぎてる。構造上の問題においても、昔の家って言うのは、縁側という場所があったり、外との境界をうまいこと曖昧にしてあったなと思う。

境界がはっきりすることでどんなデメリットがあるかと言えば、しっかりとした境界で自分を囲ってしまうことで、人に関わらなくてすむようになってしまって、人に関わらないと自分の立ち位置もわかんないし、自分を律することもできなくなるし、外から見えないことで、どこまでもほっとかれてしまうことが可能になってしまうことなんだろうと思う。だからいつまでも部屋に引きこもれてしまうのだ。

これは住む場所に限ったことではなくて。

いろんなものの境界をもっと曖昧にしたらいいのにと思う。

なんか権利が確立されて、個が保証されることで、その代償に逃げ場がどんどん失われているような気がする。

そんなんじゃ生きづらいのよ、なんでもかんでも線引きされるのが。

人間関係も全く一緒だ。

自分の自信のなさを補うために肩書きや、代名詞なんてものを背負ってみれば、そんな線引きのせいで、どんどん自分の逃げ場は少なくなっていくのだろうに。

もっと曖昧でいいのだ。

個にこだわることは、むしろ個と一番遠ざかる行為なのかもしれないと思う。

自分をつくる要素は大概自分でおもっているよりももっと複雑なのだろう。

んで、突き詰めていくと。

最高に楽しくて気持ちがよいところというのは、沈黙と孤独に満たされた場所であるのかもしれない。

これはいい意味でなのだけど。

沈黙も孤独も、どちらもそれを楽しむにはそうとうの自信と確信と本気でなにかに向き合った時間がなければできないのだ。

右往左往して、ああでもこうでもないといいながら、いろんな主張や衝突を繰り返して、しがらみにしがらみを重ねても、最後の最後はクレバスに落ちて死ねるくらいに強くなりたい。

なんて。

寒くてすべての活動限界が夏にくらべて40%ダウンでATフィールドも崩壊寸前なのだけど、なんとかそれを食い止めようと熱燗と焼酎のお湯割りを流し込む。

しかしながら人間も動物なのだ。

いくら抗ったところで、冬に全力で活動できるようにはできていないのだと信じたい。

ああねむい。ああお腹空いた。

にくだにくをくれ。

さて今年もあと少し。

もうひと師走。




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