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Title: 恥部。
2012.03.31 やっぱり自分にとって書くことは、反省でもあるし、内省であるし、鼓舞でもあるし、慰めでも癒しでもあるし、自慰でも、たんつぼでもある。 それって自分にとっては一種の恥部だったりもする。 旅の恥はかき捨てられても、同じ事が日常でかき捨てられないことはたくさんある。 でもかき捨てるような恥をかく経験が日常の中に生きてくるということはよくあるのだ。 その境界線をしっかり引こうと思う。 書くことや表現することはイイネとかほしいから始めた訳じゃない。だれかに認めてほしくて仕事をしているわけでも行動してるわけでもない。 でもイイネをもらうことが日常化すると、またほしくなるような弱くてだっさい自分に嫌気がさすのにはうんざりだ。 強くあればいい。 強くあればなにを持っていても、どんな環境でもそれを貫けるのかもしれないけど、でも自分はまだまだその器じゃない。 だからもう一度書く理由を見直して、書く環境を整えて、自分にとって最もいいたいことや、やりたいことができると思えるところに立ち直ってみようと思ったという。 なんとも自分らしくもめんどくさい今日この頃なのだ。 でもこれでいい。 さて、前に前に。 Title: デブ。
2012.03.31 5年前に桜の木を植えた。 次の年もその次の年も桜は花を付けなかった。原因は水も光も栄養も十分すぎるからだそうだ。それから肥料をやめて、枝をばさばさと切り落としたら、こりゃまずいと思ったのかどうかは定かじゃないけど、その年から桜は花を付けるようになった。 最近この時のことをよく思い出す。 思いっきり自分にあてはめて。 欠乏や渇望のくれるものは大きい。 白紙の画面にいくらでも文章を紡げて、時間さえあれば本を貪るように読んで、吸収してははき出して、カラカラになったらまた吸収する。そんなことを繰り返していたのは遠い昔。 今自分に欠けてるのは渇望なんだろうな。 喉の渇いていない馬を水飲み場につれていっても意味はないんだ。 自分の喉を適度に渇かせて、ただの水をおいしそうにのどを鳴らしながら飲む快感をいつまでも味わっていたいのだ。 自分で自分を修復して、メンテナンスできる人間しかどのみち先には進めなくなるのだという言葉の中には、自分で自分をいつも飢餓状態にしておけるかどうかということも含まれているのだろうな。 きっとそれができない人間がデブになる。 デブには、もっといえばデブの思考回路では越えられない一線があるのかもしれない。 デブにはなるまい。 身も心も。 いやむしろ心くらいは・・・ Title: ra
2012.03.30 昨日の夜なかなか眠れなくて、暗い部屋でぼけっとしながら思ったこと。 昔、腐るほど時間があって、でもその時間の使い方をもてあましていたときには、初めて旅という文字を作った人は誰なんだろうかとか、人間が音楽にドキドキわくわくするようになったのはいつからだろうかとか、そんなくだらない無駄なことを考えては、その妄想になにかを満たされていたような気がする。 今、自分の思うことには無駄なことが少なくなった。一文にもならないようなことではなく、考えることでそれが何文にもなると思えるようなことばかりだ。 憚らずにいえば、いろんなことが見えるようになって、視野が広がって、いろんなことを経験してきて、今の自分はどこか何かをあきらめている。でもそれをあきらめるというのは、明らかに見ることだなんてことを大義名分にして、お守りのようにして、そんな自分を正当化して生きているし、その生き方になんの疑問もないとか思う。 でも昨日、夜風に吹かれていたら、何の前触れもなく唐突に、今の自分が浮き彫りになって、プチッとなんかにとらわれすぎてたなと思えて反省した。 なんか、例えるなら、どこでもドアがなくて本当によかったと思えるような所に幸せがあるんだと思える自分と、がむしゃらにどこでもドアをほしがる自分と、その両方が共存していていいんだし、その両方がいてはじめてどちらにも光があたるのだろうなということだ。 自分の心や感性のグラフがあるとしたら、ここから弧を書くように大きくカーブしていけるのだろうか。 自分の「ラ」がどこにあるのかをしっかりと聞き分けるにはまだまだなのだな。 Title: 補完。
2012.03.28 第三京浜をはしっていて、道路脇に見える煙突から垂れ流される煙とか、吹きだす炎とかをみてて、こういう人工的な構造物に惹かれる自分がいるのはなぜだろうかなんてことをぼんやりと考える。 自然の中でのびのびと育って、一度もビルを見たことない人が、生まれて初めてスカイツリーをみたらきっとその構造物に心奪われるんじゃないだろうか。逆にビルの谷間で育った子どもたちが、深い森の中の巨木や、どこまでも深い湖や、向こうからやってくる雨を目の当たりにしたら、一瞬で心を奪われるのかもしれない。 惹かれるいうことはきっとそういう事なのかもしれない。そしてそれは補完とも、バランスをとるとも言い換えられるのかもしれない。 その人が何に惹かれるのか考えたときに、その人の中にあるものはその対局にあるものなんだろうと思う。それを補完してバランスをとろうとする行為を総称して心が奪われるとか、補完すると言っていいのかもしれない。 そう考えると、心が奪われ続けるということはある種のパラドックスなのかもしれない。 そして心が奪われるということは反作用でもあるのだと思う。 人間の心にはいつだって反作用の力が働いていているのだと思う。 平和な国の人間だからこそ、簡単に人の命を奪って、自分の子どもを餓死させるようなことが起こるのかもしれない。平和は破壊への渇望を生むし、破壊は平和への渇望を生む。ブームが巡り巡ってくるのも同じ理由なのかもしれない。 目に見えるものは100%本質ではない。目に見えるものは本質とはかけ離れたところにある。だからその人を本当に知りたいのであれば、目に見える部分の対極を掘り下げなければいけないのだろうと思う。 優しい言葉や、だれかを思う行動の根底にあるものが、必ずしも愛や慈悲であるかといえばそれは違う。暴力や破壊の根底にあるものが中にあるものが、必ずしも無慈悲で非人道的であるかといえばそれも違うと思う。 目に見えるものだけを、自分の解釈で、自分の中でカテゴリー分けしてるうちには絶対に見えないものがあると思う。つまりは、面と向かって好きだという人間が味方で、ビンタをしてくる人間が敵だとは限らないということなのかもしれない。 そこに気づくことと、気づくだけでなく、それに伴った行動をしていくということはとても難しい、でもそう意識することで開けてくるものがあるのだと思う。 人間ってのはめんどくさいくせにとてもシンプルだ。 Title: 経営。
2012.03.22 経営者は結果をだすためにいるのであって、結果のだせない経営者は必要ないと自分に言い聞かせてここまでやってきて、結果とはなにかと考えたときに、頭で考えれば、もっともらしいことをたくさん並べられるようになったけど、結局のところそれはすなわち数字だと思ってるし、数字をあげつづけられない仕事には継続性も進展性もないと思ってる。 特に幼稚園経営においては、数字上の問題を「教育だから」という言い訳をしたら負けだと思ってやってきていて、UNIPHにおいても、収支のバランスが悪い部分に関しては、気持ちや感情を抜きにこだわってきていて、その考え方を貫くのに迷ったこともあったのだけど、ちょっと背中押された気がした。 この考えは今後自分がお寺をやっていく上でも変わらないと思う。 収益のバランスの悪い健全な組織なんてたぶんないし、そのバランスをとるための仕事が経営者という仕事なのだろうな。 原田さんの言葉の中の、社長は職種だという言葉にはすごく共感できる。 経営者が外的要因を言い訳にしてあきらめるなら職種を変えたほうがいいのだろうと思う。 前に数字にこだわるといったら、扱っているものが扱っているものだけに、数字さえとれればいいのか的なことをいわれたことがあるが、どんな業態であるとしても、明確に数字をあげるために努力をすることの中に、その業態としての1番大事なことがあると自分は信じている。 経営者としても、もっともっと見える世界を広げたいものだ。 Title: 居場所
2012.03.20 昨日話してて思った、「友達」ってものを意識し始めた頃の自分をを思い返すと、それは「居場所」という風に置き換えられたと思う。 幼稚園や小学校中学校や高校において「友達」の存在は自分の居場所でありシェルターであったのだろうな。 そう思えば「居場所」を自分で見つけられれば「友達」というくくりに縛られなくなる「恋人」も「家族」しかり。自分の「居場所」をどこにでもみつけられる人と、そうでない人を縛るものの差はとても大きい。 「友達」「家族」「恋人」「家」「社会」「仕事」どこに自分の「居場所」があるかということこそがその人のアイデンティティであるともいえる。 結局人間にとって「居場所」というのは、自分を保持する為に必要不可欠な要素であり、「居場所」にいることによって、自分を認識して、意識することができるのだろうな。 「居場所」が人生に与える影響は大きい。 結局の所自我とか、アイデンティティなんていうものは、今いる自分の「居場所」の投影であり、外側からじんわりと浸透してきたようなものなんだろうな。 「居場所」についてもっと深く考えていったらおもしろいことができそうな気がしてくる。 Title: 坊や。
2012.03.18 いくつになっても、檀家のおじいちゃん、おばあちゃんからしたら、自分は坊やみたいなものなんだろうな。と思って思い出したのだけど、 昔あるお寺の先輩が、ちょっとやさぐれてたときに、特攻服きて単車をおして家をでると、近所のあばあちゃんたちに、「あれあんたまたお出かけかいね、どこいくね?」といつも声をかけられるもんで、その度に「ちょっとそこまで・・・」とかいって苦笑いをしながら家をでていたという、さすがにそれが続いて、決まり悪くなって最終的には暴走やめたという話を思い出したのだけど、そうやって声をかけてくれる人がいることは時に煩わしいのだけど、でもやはり今になって、自分の成長やなりゆきを見守ってくれる人が多いにこしたことないなと思う。 いまはそういう煩わしさには蓋をしがちだけど、そこにも必ずメリットはある。そのメリットがこれから先の社会形成に大きな力になると思う。 お寺という場所が誰にとっても、そういう関係を築くための媒体になれればいいと思っている。 Title: 悲願彼岸。
2012.03.17 ガガガSP、ジャパハリネットを聞きながら考える法話の内容はかなりロックだ。 しかし最近、伝えたいという想いがなきゃどんな耳障りのいいことばや、理路整然と論拠をたてても伝わらない。うまく話すなんてことはそれさえわかってれば難しくないのだと思うのです。これ絶対。 きっと何事も技術でカバーできるのはいいとこ6合目くらいまでなんだよなきっと。 そんで今日は甲本ヒロトの誕生日だそうだ。 Title: 311から1年。
2012.03.11 あの日から1年が過ぎて、いろんなことを考えさせられて、自分の無力さを感じて、今、もっともっと力をつけたいと思ってる。不測の事態に何もできなくて、指くわえてるのなんかもうたくさんだ。 自分がもっと力をつける為には、思いや意志や心や、声を、言葉を、しぼりだしてでももっともっと吐き出さなきゃ駄目なんだと思う。それで嫌な想いをすることがあったとしても、なにも主張しないで、一歩引いたところから、結果論にああでもないこうでもいうよりよっぽどましだと思ってる。 結果だ。 結果だ。 ご託並べる前に結果だ。 結果のだせない奴はこの10年でごぼう抜きにしてやろうと思ってる。
口だけりっぱなことをいうような大人にはなるもんかと思ってる。 311だとか、記号みたいな呼び方で、ひとくくりにした悲しみや苦しみや孤独を、絆とかいう耳障りのいい言葉で包んで、わかったつもりになるのなんかくそくらえだと思ってる。 自分なら、耳障りのいい言葉しか言わないやつとは絆は結べない。 絆っていうのはそんな簡単なものじゃないと思う。 今はもどかしさで苦しいことがたくさんあるけど、復興はここ数年で終わるわけでない。しっかり力をつけて、10年で今の10倍の力をつけて、この1年分のもどかしさを全部はらすんだい。 Title: ふつふつ。
2012.03.09 なんか昨日はいい酔い方をして、夜道を歩いていたら、お腹の底からふつふつといろんなものが湧いてきて。 そのふつふつが朝になってもまだぐつぐつしてて。 なぜか世の中に悪態つきたい気分なので野狐禅を聞きながらぐちぐち。 # Facebookについて Facebookをはじめて、なんかひっかかっていた違和感が最近自分の中で確かなものになってきた。 初めに断っておきたいのは、決してFacebook批判をしたいわけじゃなくて、使い方と、心の置き方の問題に対して思うことがあるというだけの話なのだけど。 はじめに、Facebookに違和感を感じたのは、リアルな友達の反応をみていて、Facebookの上でのコメントやイイネ!とかそういうものが、面と向かって飲んでいるときの反応とはあまりにもかけ離れているからだ。 いつからみんなそんな大人になっちまったんだと思って寂しく思ってたら、一緒に飲むと全然そんなことなくて、なんだよそう思ってるならそう言えばいいのに。みたいなのが多くて、結局の所Facebook上の人格は、建前と体裁であることが多いということだ。 それをみんな平気でもう大人だしねという言葉で片付けたりすると言うことがどうにも腑に落ちない。 無論みんながみんなそうではないし、なかにはこんなことを言われても「??」と思う人がいることも事実なのだけど。それは割合の問題。 それとある人がFacebookは鬱を助長してるといっていたのだけど。 思うにFacebookで発信することは、言い換えればそれはそのまま、自分が他人からどうみられたいかなのだし、それを真に受けて、みんなあんなに充実してるのに、自分は・・・なんて思う必要もなければ、更新の頻度や内容なんて、寂しさや孤独感でもあるし、自己顕示欲と、承認欲の強さみたいなものなんだから、決してきれいなもんじゃないと思えばいいのだと思う。 それと、しばらくFacebookに記事を書いていると、なんとなくどんな記事を書くと、イイネ!がもらえて、どういう記事を書くと反応が悪いかとか、そういうことがわかってくる気がする。 というよりも言い方を変えれば、どういう記事をかくとみんながイイネを押さざるを得ないかということがわかるような気がするのだ。 それが顕著なのは、ちょっといい話やがんばってる話や、被災地に関わることや、自分にはそれがわかるよ!みたいなことで自分のアイデンティティを誇示できるような記事など、そういう記事を書いたときに、それにイイネを押さないと自分が浮いているような錯覚をおこさせられるということだ。 それに、例えば今書いているこの文章をFacebookにのせたときに、イイネを押す人と押さない人と、コメントを残す人と残さない人で、ある程度カテゴリーがわかれると思うし、つまりはそれも自分がどのカテゴリーにいると見られたいかによって反応が変わるのだろうと思う。 それと、イイネ!機能について、自戒を込めて言うのなら、一方的に記事を書いて、その内容が平面的でたいしたことを言ってないのに、たくさんの人からイイネ!をもらうと、さも自分の意見が正しいかのように錯覚してしまうのだ、面と向かって話してれば、それは違うよというニュアンスをお互いに感じ取れるのに、SNS上ではそれができないので、そうして自分の思考が変な形で凝り固まってしまう可能性というのを頭に入れておかなきゃいけないのだと思う。そしてイイネの数は決して正しいか間違っているかのバロメーターではない。 特に、宗教に関していえば、イイネ!をたくさんもらえるようなことしか言えないような宗教者なんてたかがしれているのだと思う。 Facebookが生み出された背景というのは、おそらく人間が人間を知りたい、身近な人と簡単につながりたいという欲求から生まれたものなのだろうけど、こうしてこのシステムが普及してくる中で、本来の意図は消え去り、よく見えるようになったことで、いままでよりも見えなくなったようにしか思えないのだ。 その大きな原因はやはり原則実名での登録ということなのだろうけど、Facebookをやっていて、人間というのは、自分を見られれば見られるほど、手を後ろ手に隠すのだと言うことがよくわかった気がする。 その中で、強い人間というのはそれだけ見られても、手を後ろ手に隠さない人間であり、そういう人間だけがもっている力というものが存在するのだということもよくわかった。 なんか書き始めたらとまらないのだけど。 なにがいいたいかと言えば、やっぱり人間に関わる問題において、本質は目に見えるところよりも、目に見えないところにこそたくさんあるのだということなのだと思う。 こんなことを言いながらもきっと自分はこれからもFacebookを使うし、イイネ!とかコメントとか書いたり書かれたりしながら人との距離を測っていくのだろうなと思う。 この世の中は、家にいながら直接顔を見ないでも、簡単に人の心をかき乱すことができるツールがあふれている。だからこそそのつきあい方や心の置き方を自分で学んで、ある種の自衛能力と、心構えをしっかりしておかないと、ツールを使っているようで使われてるのに、それにすら気づかないという状況に陥ってしまうような気がする。 ご用心ご用心。 蓮は泥の中にしか咲かないのだよ。 # 被災地のこと # 少し前に、被災地で見つかった携帯に、娘から父親にあてたメッセージが残っていたという記事を見た。 それをシェアしながら、多くの人がいろいろなことを言っていたのだけど、もし自分が最後の最後に誰か大切な人に向けてメッセージを残したとしたら、それをネットにさらされて、全然関係ない人に色々なことを言われたくない。そんなのわかったふりされたってたまんないもんと思う。 なんか、きっとそれを読むことで、いろいろな想いや行動が生まれたりすることもあると思うし、いいとか悪いとかではとても判断できることではないけど。 自分としては、人の手紙をみんなで回し読みしてるみたいで、あんまり気分良くないし、なによりもそういうのって無粋だと思う。 それともうすぐ震災から1年だけど、美談やちょっといい話をひたすら流すのだけはもうやめてほしい。それが一体なんだというのだ。 熱に中てられたような曇った目では現実はなにも変わらないのだ。 # お金の話 # どこかに所属してサラリーをもらうということ以外に、お金を得る方法をいくつ知っているかということは大事な事だと思う。金額の問題ではない、肩もんで100円もらうでもいい。なんでもいいけど、その方法を考えると言うことが大事なのだと思う。 いまの世の中は、お金はある一定のところでぐるぐると循環させられてるにすぎないと思う。その循環の流れをつくっている人間が確実にいて、その循環はちょっと考えれば抜け出せるのだということに気づかないといつまでたっても浮き上がることはできないのだと思う。 ある本に、民という字は、目がつぶされていることを表しているということが書いてあった。 自分の目がしっかり開いてるかどうか、たまに確認をすることを怠らないようにしようと思う。 # 足知 # iphoneやipadをみてて思うのだけど、appleのすごいのは、ほんとはなくてもいいものを、いつのまにかなくては困るものに変えてしまうということなのだな。 正直iphoneなんてなくても、仕事にも遊びのも大きな支障はきたさない、でもあるとより便利でより楽しくなるだけなのだ。どんな大義名分をつけても、なくても困らないものは、なくても困らない、それなのにないと困ると誰も疑わなくなるのだ。 これって、なににでも応用できるテクニックなのだと思う。 このテクニックをちゃんと使える人だけが、それに気づかない人達を魔法にかけて、思い通りに動かすことができるのだろうなと思う。 たまにそういうことを確認して、自分はそういうものにはまかれまいという想いを強くするのです。 思い通りになんてならないぞ。 自分は性格が悪いのだ。 ちなみに、このテクニックは探せば探すほどにあらゆる所に潜んでいる気がしてならない。 くわばらくわばら。 # なにもそんな難しい事じゃないのだ。 もっと世界はシンプルでいいのだと思う。 でもシンプルな世界をシンプルに受け止めることができるようになるには、もっとしっかりと目を開けないといけないのだと思ってる。 Title: ビオトープ
2012.03.06 虫や生き物の保護活動をする時に、まずどんな生き物を呼ぶか、そしてその生き物がどのような環境が好きか、暗いところが好きなのか、明るいところが好きなのか、草があったほうがいいのか、ないほうがいいのか、それぞれの習性を考えて、敵から隠れる場所、そして安全に産卵できる場所、そしてその生き物の餌までも自然にかつまる環境を整え、あとはそこに自然と生き物が集まって、食物連鎖を含めその環境の中で新たなつながりができてくる。 その自然と生き物があつまる環境をビオトープという。 つまり自分はそれを人間でやりたいのだと思う。 Title: 救い。
2012.03.05 例えば、徐々に弱っていって2時間後に死ぬ毒を打たれたとして、最後の最後まで解毒剤の調合方法を探し、なんとか解毒をすることも「救い」なのだけど、最後の2時間、その人と手を取って見送るということもある意味では「救い」なのかもしれない。そういう意味では「救い」という状態は最終的にどこに価値をおくかということで大きく変わってくるのだろうな。 ナイトライダーネクストをみててそう思った。 Title: 総幸福量
2012.03.04 国や制度や社会や、もっといえば家族でも友達でも、そもそも自分以外の誰かに幸せにしてもらおうなんて考えはどこかで捨てた方がいいのだと思う。自分にとっていいことも悪いことも淡々と起きるのが現実で、自分が干渉することで変えられる現実なんてものはたかがしれている。その中で幸せかどうかというのは、あくまで超個人的な問題であり、物理的な状態を越えた上に幸せを乗せるしかないのだと思う。 まもなく震災から1年が経つ。ここにくるまでの復興や世論の流れをみていて、個人レベルでの絆であったり、人と人のつながりであったり、本当に人間というものの強さをみたような気がする、そしていつも自分に何ができるのだろうかということを考えさせられている。 しかしその反面、結局のところこれから数年の間に、復興に乗じて新たな、そしてとても大きな利権が作られる、そしてきっと国内の原発も何事もなかったように再稼働をすると思う。 そこにあるのは、避けようのない人間の根底に関わる問題であり、人類が生まれてこの方一度も変わったことのない事実なのだと思う。 国家という組織の中で生きている以上、国家レベルの幸せと、個人レベルの幸せというのは決して同じベクトルを向くことはないのだろうと思う。 ブータンの国民が本当に幸せかどうかはわからないけど、少なからず国家としては裕福でもないし、人々の暮らしも日本とは比べものにならなければ、日本で治るべき病気で簡単に人が死んでいくのが現状だ。 しかし総幸福量というやつはとても高いらしい。 いいねブータンなんて簡単にいってる人をみると、まずは自分がその水準で生活をしてみてから言えと思う。それでも幸せだというのがどれだけ至難なことか。 結局の所、今の自分の幸せは誰かによって保たれていて、普段そこに甘んじて生きているのに、それを簡単に棚に上げて、棚に上げてる自分に気づかないうちは本当に幸せになんてなれない、死ぬ間際になっても、なにかに怒り、不安におびえ、生活に追われ死んでくのだろう。 幸せとはいったいなんのか。 幸せを作るのは誰なのだ。 Title: 育。
2012.03.01 いままでずっと水面下で進めてきた仕事がやっと形になってきた。今度新しく託児施設を立ち上げることになった。土地の取得が完了し、予算の見通しも申請の見通しもついた。 正直言うと、幼少期の子どもを幼稚園という施設で長時間預かるということは、年齢的な負担を考えると反対だったし、今でも家に入れるならいたほうがいいと思ってる。 しかし時代の流れや世の中の風潮に逆らって頑固に理想だけ貫くということも時に大事だとは思うが、やるなら理想を貫いた上で、今の時代にあう形を模索して、実現させるのが生きた経営だと思っているし、変化のできないものは死んだものだけだと思っている。 今回新しく託児施設を立ち上げるにあたって、会議の中で「家にいるような」というキャッチフレーズがあがってきたが、それではぬるいと思っている、やるからには「家にいるよりも」安心できて安らげるような場所をつくるくらいのつもりでやりたい。 いままで思い描いてきた理想の託児施設を年内にOPENさせる、本当に0からのスタートで、ここに来るまでにも相当の壁があったのだけど、こうして新しいプロジェクトがスタートしてくるときのわくわく感は結構好きだったりする。 4年前にたちあげた、ビオトープも今年コンクールで賞をもらい、あの時、まったくの更地からこれだけのものができるとは思っていなかった、それも軌道に乗りいまでは、うちの園の保育の柱、経営上でも大事な武器になってきた。 こうして一歩一歩やりたいことを実現させていくのだ。 一目見て、誰もがここに子どもを預けたいと思うものをつくるぜよ。 Title: 教育理念。
2012.03.01 教育ということに対してお宅の幼稚園は、どういう教育理念ですかとか、どういう教育方針なの?と聞かれることがたまにあるのだけど、理念とか理想とかありきたりな言葉を並べ立てるとかえって漠然としてよくわからなくなってしまうのだけど。 自分の理想は、いつか子どもの幸せに繋がるからといって、今の幸せをないがしろにするような教育は絶対にするまいと思っている。子どもが毎日を楽しい、そして幸せだと感じられないようで何が教育か、と思っている。幼少期に遊ぶことや人と関わることに、幸せや楽しさを感じられないようでは、いい大人にはなれないよと思ってる。 |
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