Title: 鍵。
2012.04.20


祈るとか願うとかそういう行為に懐疑的というか、そんなことしても腹の足しにもなりはしないと思っていた気持ちが震災以後自分の中ではすこし変化して、その変化は小さいけどとても大きな事なのではないかと感じている。その変化が何なのかじっくり暖めながら考えている。

それと同時に「素朴」という言葉の意味はとても深い。そして素朴であることこそが日本人としての特有の個性でもあるように感じるようになった、これ見よがしでも、裏になにか意図があろうとなかろうと、素朴でわかりやすく、そして謙虚に感謝して生きる。

それが自然にできるようになるためには、この小さな変化が重要な鍵になってくるような気がするのだ。


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Title: 山登り。
2012.04.20

仏教の基本は「苦」に向き合うことだと思う。仏教を扱う上でそれを忘れてしまったら、なんの意味もないし「苦」と向き合わない人間が、僧衣を纏っていたとしてもそれは僧侶でも何でもないと思う。

向き合うと言うことは、知ることであるし、そこに足を踏み込むことであるし、光だけでなく、陰の部分にも目を背けないことで、そして陰までも含めてその事実をどかんと受け止めることだ。

最近思うのは、その「苦」をどこに見いだすのかということで、僧侶や宗教者のカテゴリー分けができるように思う。それを自分の中に見いだす人、他人の中に見いだす人、社会に見いだす人、世界に見いだす人。

そのどれも正解だと思うし、どういう形であり、手の届く範囲に「苦」をおいて活動していればそれは、すべて仏教になりえるし、結局の所どの道を通っても、同じ所にいきつくのだろうと思う。

その「苦」をどこに見いだすかという部分で、僧侶や宗教者にも性格はあるし、好き嫌いもあるし、たぶん自分が違和感を感じる僧侶や宗教者はきっとそのカテゴリーがあわない人なんだろうということがわかったような気がする。

でもそれは山登りのルート選択の違いのようなものなのかもしれない。

しかし時々山登りの重装備をして、格好だけは一人前なのに、山には登らず山の解説ばかりしている人がいるのも事実なので、自分はそうなりたくないなと思った。

という今日この頃。

自分のあり方としては、自己に自己に、人に人に。安穏としたかと思ったら、一転して怒りに打ち震えたり落ち込んだり、そんな捕まえようのない自分に捕まって、それを楽しみつつも、その扱いにもっともっとうまくなる方法や、自分を納得させられるだけの体感を見つけようという姿勢の僧侶でありたい。









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Title: たましい。
2012.04.18

原発職員と、東電職員の人と話をしてて思ったこと。

人の数だけ背景や状況があるのだ。

目の前の事実は、たくさんの相互関係によって成り立っているのだ。

その様々な状況に想いを巡らせることのできる視野と、心と、許容範囲をもっていたいし、僧侶という仕事はそういう立場なんじゃないかと思う。

自分の主張とか想いとか、願いとか、そういうものが全面にでるのではなく、いかなる主張や想いや願いに対しても、その中にある本質的な自己の問題や、心の置き方に目を向けて、そのベクトルの切っ先が誰かや、なにかを傷つけないように、さきっぽを丸くするような心持ちがなによりも大切なのだと思う。

だから目の前にいる人によって、心を痛める範囲が変わってもいいし、目の前にいる人によって、共感できる範囲が変わったっていいのだ。それはどっちつかずなのではなくて、どっちもまるごとなのだ。

もっとミクロにミクロに、手の届くところ目の届くところ、両手の伸びる範囲を全力で慈しめばそれで十分なんだと思ってる。

信念を持った受動的な立ち位置は、もっとも能動的なんだと信じてる。

まだきてない未来のことに思い煩い、すぎさった過去に思い煩うのではなくと仏陀もぶったぎっているのだ。そしてそこの延長線上にはじめて、どう生き、どう死ぬかということの答えがあって、生と死の価値観をどこに置くべきかということの答えがあるのだと思う。

中道ってはんぱなくでかすぎる視野と、はんぱなく狭すぎる視野を意識した上で、そのちょうど真ん中に立っていなさいってことなのかもしれないと思ったのです。



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Title: 人間模様哀愁交差点。
2012.04.18

桜が散って、ツバメが来て、桃が咲く。

季節は巡り巡る。

巡り巡って堂々巡り。どうせ巡るのなら堂々と巡りたい。

人生は結局はただの暇つぶしみたいなものなんだ。どうせいつか終わる時間を過ごすなら自分の為に、もっともっとわがままに楽しんで、自分の舞台の主役はあくまで自分なのだ、誰にも主演を譲る気はないぜってなもんで生きていってなにが悪い。

誰かの為とか、社会の為とか、あの人の為とか、そうやってがんばってる人よりも、自分の行動が自分の何を満たしていて、満たされるからこそやめられないのだと開き直れる方がよほど信用できる。

自分の問題をなにかにすり替えかえたとしても、昇華させたとしても、あくまで自分の中にある問題がなんであるのか問い続けてなんぼだと思ってる。

はてさて。

昨日は自分のVAIOを忘れて仕事場に来てしまった、たぶん初めてだと思う。さて仕事仕事と思って愕然として、さてどうしたもんかと思ったのだけど、でも結局他のパソコンを借りて予定してた仕事を終えることができたのだけど。

でもなにげに自分のパソコンがない方がものすごく仕事がはかどったし頭が活性化された気がする。

自分のパソコンで仕事すると、合間にメールをチェックして横やりが入ったり、SNSをのぞき見したり、こうやって文章を書きたくなってしまったりして仕事が中断するのだけど、でもそれもできないってなもんで、案外集中できるということに気づいたのですな。

てもちぶさたとか、暇とか。そういう時間は大事なのだと言うことを久しぶりに感じた。てもちぶさたと暇は、無駄ではなく、それにはそれのちゃんとした意義があるのだな。

それと「てもちぶさた」の使い方にこそ個性ってでるのだろうなと思った。

はてさて。

ヒーローっていうものがマイノリティを黙殺した象徴であるとしても、ヒーロになりたいという気持ちがどこかにある自分は好きだし、でもヒーローであり続けたいとは思わない自分も好きだ。

こないだ原発職員の人と話をした。自分とさほど年もかわらない中で、地元に残り原発に勤めて、子どもと家族を支えている彼の目を見て、それでも原発は不要です。根絶すべきです、自分は人生をかけて再稼働を阻止しますと言える人とは友達にはなれないと思った。

いいかわるいかじゃない。ただ自分は友達にはなりたくない。ただそれだけのこと。

それとそういう僧侶には絶対になりたくないし、本音と建て前を使い分けるなんてまっぴらごめんだとも思う。

はてさて。

はてさて。

いいかわるいかまえがどこかわからなくてもはしるしかない。

哀愁交差点。


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Title: 捕まる。
2012.04.14


好きこそものの上手なれなんてこたいうけど。

最近なんか腑に落ちたのは

継続ということを考えたときに、自分が上手くなれるのは、継続することができるものだけなんだろうと思う。

書くことも、話すことも、人に関わることも、考えることも、なんでもいいけど継続できないものは上手くはならない、それと無理に継続を続けてもそれはいつか無理がくる。

結局の所自分が継続できるものがなにかということを、はやく見つけることが大事なんだろうと思う。結局の所やめるにやめられないものが何なのか。

それを見つけることは「捕まる」と言い換えてもいいのだと思う。

自分がなにかを捕まえて上手くなるのではなく、自分がなにかに捕まってはじめて上手くなっていくのだろうと思う。

努力で捕まえているだけでは、6合目まで、7合目から先は捕まらないと進めないのかもしれないと思う。

どうやったら捕まるかといえば、自分の弱さとずるさと、くそ嫌らしいところから目を背けないと言うことなんだと思う。きれいな意味なんかつけないで。





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Title: 白銀
2012.04.14

栄華を誇った満開の桜が、葉桜になってきて、歩く人もわざわざ足を止めて見上げることもなくなった今の桜もけっこう好きだったりする。完全に花片のなくなるこの少しの間にある、祭りの後感。

ここにこそ人生を重ねるべきだとすら思う。

そんな葉桜を眺めながらぼけっとしてたら、小さな子どもが蛇口の水を出しっぱなしにして逃げた。そしたらそこにやってきた親が、もったいなからやめなさいとその蛇口の水を止めた。

いつもならなんてことない光景なのだけど。

桜にあてられていたのか、だしっぱなしの蛇口の水と、自分が死ぬまでの時間はとても似ていると思った。

だしっぱなし、垂れ流され続ける水をもったいないと思うのと同じように、今この瞬間も自分の時間も、楽しい時間も、幸せな時間も、あの人との時間も、垂れ流され続けているしその流れは蛇口を閉めてもとめることができない。

なんて。



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Title: 保育。
2012.04.12

保育における経験の差は、子どもとどれだけ短時間で信頼関係を結べるかと言うことと、いかに早く自分の空気に子どもを引き込めるかというところにあると思う。


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Title: 新学期。
2012.04.12

ぶつぶつ文句を言いながら来る子。バスにのるときから号泣してる子。縦横無尽に走り回る子。無言で仏頂面をする子。

それぞれがそれぞれに想いを抱えながら、生まれて初めて社会にでてくる今日、着替えを済ませて、靴を履いた子どもの背中をおしてヨーイドンと声をかけると、みんな一目散に園庭へ駆けていく。

桜舞い散り、空には悠々と泳ぐこいのぼり。

走り出したその小さな背中を見ながら、ここからがスタートなのだ。これから人生の荒波にもまれていくその第一歩が、ここなのだといつも思う。

その背中を見送るのはこのうえなく楽しく、このうえなく嬉しかったりする。

今日は朝からばたばたなんてもんじゃないくらいの状況だったのだけど、でもこの時期の幼稚園の空気はとても好きだ。

春休みに子どものいなかった幼稚園はどうにも活気がなくて、建物までも肩を落としているように見えるのだけど、今日ばかりは、幼稚園が全身でプチプチと音を立てるくらいに活気があるように見える。

あるべきものがあるべきところにあるということは、当たり前のようでとても大切な事なんだと思う。やはりなにかおかしいときは、そんな当たり前のことを忘れているときなのかもしれないと思う。

今日、園庭で、桜の花びらを集めて、ひたすら泥と混ぜて遊んでいる子がいて、隣に座って一緒に遊んでいて思ったのだけど、この花びらを泥と混ぜるという行為は、きっと大人から見たら意味のない行為なんだろうと思う。それに本当にそこに意味なんてない。

でも意味があるとか意味がないとかそんなことにこだわって行動する自分が、ここにいる子どもたちよりいい顔のできている瞬間はどれだけあるというのだろうか。人生における意味なんてそんなもんなのかもしれないと思う。

今年は桜がここまでもってくれて本当によかった。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光。

さてこれから1年どんなことがおこるやら。

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Title: サクラサクラサクラサク。
2012.04.09

満天の桜はまるで宇宙みたいで、じっとみてるとふとのみこまれそうになる。

毎年同じ事をいうようだけど、今年もやっぱり死ぬならこの時期にしたいと思った。これから自分の進むべき道が、どんなに苦しくてどうしょうもない人生になったとしても、最後にこの時期に死ぬことができたらそれだけで自分の人生は100点で終われると思う。

でも今年言われて思ったんだけど、それって1年のうちに10日くらいしかないのだな。そこを狙って命尽きる確立ってばそうとうひくいか。でもそこを狙うんだ。きっとそこで死ぬ。

毎年口に出してたらそのうち叶うだろう。

ここのとこ桜の写真を撮りながら思ったのだけど、自分の撮りたいものは、空気で、光で、その時の自分の気持ちのすべてなのだ。自分にとっての写真というものの位置づけはそこなんだということがよくわかった気がする。

そこでもFBシンドロームが首をもたげてくるのだけど。イイネ!がほしいが為に撮り始めるときっとおもしろくなくなる。もっとわがままに、自由に自分の中の湧いてきた心や、気持ちよさをそのまま凝固させて、それを見ればいつでもそこに帰れるようなものを残しておきたいと思った。

結局の所、ここでも自分ってのはつくづく自分勝手なもんだと思う。

誰かに評価される枠に収まったら絶対にそこ止まりだ。だれにもわかんないような、誰にも理解されないような、どうせわかりっこないぜ、わかられたってたまんねぇもん、みたいなところで生きていきたい。そしてそこで生きるためのタフさもっともっとほしい。

誰かの為に生きてるような人間にはなりたくないとか青臭いこと言って、誰かの為になろうと思ってる奴にはたいしたことなんかできやしないとか、とげとげしいことを言いたくなる自分に手を焼きながらも、そういうざらついた部分が自分の中にあってよかったし、なくなってほしくないとも思ってる。

サクラサクラ。

サクラサク。



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Title: 桜。
2012.04.07

「桜が我は是桜でござる、梅が我は是梅でござると名乗って出はせぬぞ」

安心法門の中の言葉。

桜はおれ桜だぜ、おれをみろよ。キレイだろなんていわないだろって。

今日桜を撮っててすごくその言葉を思い出した。

そんでなんかほっとした。

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Title: 2012上野
2012.04.07

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Title: 台風一過。
2012.04.04

昨日は暴風雨のさなかに眠ってしまって、夜中にふと目が覚めたら、雨はもう止んでいて、雲だけがすごい勢いで流れていた。ベランダに出てみると、暴風の残り香みたいな風が生暖かくて心地よかった。

しばらくすごい勢いで流れていく雲をみていて、なにかが変わりそうな瞬間っていうのはこういうことなのかもしれないと思った。

暴風の残り香が自分の中のモヤモヤしたものもこのままどこか遠くまで飛ばしていくような、今まさになにかが変わっていきそうな狭間にいるような気がして、身体がすっとかるくなる気がした。

季節の変わり目や、新しい仕事の責任とか、環境の変化を自分の中で処理するのに少し時間のかかる自分のめんどうくさい所も、こうやってこういう気持ちを味わえるための1つの要素なのだと思ったら、ざわついてころころするのもそう悪くないのかもと思える。

結局の所

悪い奴になりたいとも思わないけど、優しい人になりたいとも思わない。

平気で1人でいられるようになりたくないけど、人とかかわることにいつも喜びを感じていたいとも思わない。

めんどくさいことをごちゃごちゃいいたくないけど、だまって波風立てずにいたいとも思わない。

台風一過みたいな空の下で、桜っていう花は、たくさんの渦巻く思いを全部吸い込んで、二酸化炭素を酸素に変えるみたいに、幸せな気持ちをはき出してくれる。

そんで役目を終えたら潔く後はおまえ次第だぜって、背中を押して散っていくのだ。

かっこいいな。


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Title: しだれた。
2012.04.03


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Title: 平成ブルース。
2012.04.01

今日はエイプリールだけど。

嘘って愛があるよね、真実の何十倍も。嘘は真実みたいになにかをぶった切らないもんね。思うにいままで自分は嘘よりも真実で人を傷つけたことの方が多いのじゃないかと思う。

*

あの頃となにが変わったのかといえば。

きっとわかりやすく一言で言えば責任とか環境とかで。

その責任や環境が変わって見えてきたことが、あの頃見えてた頃よりも数段に広い視野なのは間違いないのだけど。

でも視野が広がることがいいことだと思い込んでるところに、そもそもの間違いがあるのだきっと。

視野が広がってたくさんのものが見えるようになるということは、自分の中では、昨日まで悪だと思ったものが善なんだといわれるようなもので、この人がお母さんだよって知らない人が現れるようなもので、学歴がすべてだといわれてぶちきれた自分が誰かに学歴がすべてなんだよといわされてるみたいな気持ちになるのだ。

そのギャップをどう処理するかということに何年も取り組んできている気がする。

でも結局の所、その特効薬はみつからなくて、たまにブルーハーツを聞いて発作を抑えるくらいのことしかできないのだ。

*

馬鹿が上ばっかみて、手元がおろそかになってんだ。

まず今やるべきことを。

*

こないだのフットサルが本当に気持ちよくて、やっぱ自分はスポーツが好きなんだな、それと誰かと何かを共有しながら1つの目的を達成するのとかもつくづく好きなんだろうなと思った。ルールの中で競い合うのとか、その中で必死になるのとか、好きなんだよな。

もっとスポーツしたいなぁ。

*

0ってどこだ。

*

タマネギをみじん切りしてて思った。

人生もタマネギみたいなもんだな。

皮むいて、涙を流しながらみじん切りしたら、跡形もなくなるんだ。

*

「酸っぱいブドウ」の寓話は結構好きだ。人間ってそういうもんだ。あれが否定されたら自分を否定されるのと同じなんだって。

*

いろんなことが。思い通りになったらいいのにな。

*

2008年くらいの自分が酔っぱらって帰ってきて書いた言葉は2012年のしらふの自分の背中を押すのです。

*

あの頃から一度だって、一瞬だって「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という感性に手が届くと思えたこともないし、勘違いすらしたことない。自分が間違っても手が届くとか勘違いしてなくて本当によかったと思う。それだけは自分を褒めたい。

*

ビーンボール投げられた時に、にやりと笑える自分だけはいつも保っていたいものだ。

こいこい頭かすめるくらいの球。

*

いつだって今の状況とか状態に自己満足できる人にはかなわない。

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Title: エイプリール。
2012.04.01

エイプリールフールまとめ。

旅にでるという類の嘘はもう風物詩みたいなもので、ほとんどの人は、「はいはいいってらっしゃい」「季語だな」「また同じネタか」「今年もあいかわらずいまいちだな」という評価を頂いてまず春が来たことを実感。

ただ本気でメールしてきてくれた方々ごめんなさい。ありがとうございます。恒例行事だと思って許してください。治療法のない発作というか持病みたいなもんなんで。

北極にはいません。家にいます。

どこにもいきませんし、明日からちゃんと幼稚園に行きますし、ビオトープもやりますし、聞法会もいきますし、サイトのほうもちゃんと責任もってやりますんで。

先日返した本にお礼を挟んどいたのだけど・・・とか、後輩にいま京都駅なのだけど迎えに来てとか・・・午前中に要冷蔵の荷物送ったから楽しみにしてて!・・・とか今日は男子19時池袋集合です!のメールを友人複数に送信したりとか・・・あとは結婚ネタと離婚ネタを毎年のようにメールしたのだけど。

正直だめだ。ほぼ完敗。

3月31日の時点で身構えてる奴に、自分の嘘以上におもしろい返しをしてくる奴とか、嘘とわかってて上乗せてくる奴とか、みんな返し技が巧妙になってきて、正直言うと、実は1つ「おれ結婚することになって、来週親に挨拶なんだよね」とはいってきた水野のメールの真偽だけが判断できずにいるのとそれを今日確認するのが悔しい自分がいるんですよ。

まあいまこの文章を書いてる最中に、「今日本当に飲み会あるの?」とのこのこメールしてきた某てつやがいてくれただけで今年は満足だ。うん。

エイプリールフールっていい日だな。


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