Title: きのぼり。
2012.05.30

木の上で、どうして木の上から見える景色は格別なのだろうか考えた。

きっと木の上には自分の力でしかたどりつけないからで、それは筋力とかそういうものだけでなく、だんだん高くなってくることや、枝が折れるのではないだろうかとか、そういう恐怖心とか、またここを降りなければならないという覚悟とかそういうものも含まれていて。

木登りとはそういうものを全部よじ登っているのだと思う。

木の上で見える景色にはそういうたくさんの要素が含まれているからキラキラしてみえるのだ。

それと昨日木に登ってて思ったのだけど、この枝は自分の体重を支えられるだろうか・・・とその場で考えて判断をしていくというのはとても大事な事なのではないかと思う。

自然の木は、つくられた遊具とは違って絶対的な安全はなくて、枝を引き寄せた瞬間に折れるということもある。だからこそ真剣に自分に目を向けることができるのだと思う。

そうやって自分と対話しながら上へ上へあがっていくのだ。

つまりは木登りは人生と同じなのだ。なんて、誇大妄想をしながら昨日は半日庭仕事をして過ごした。

自然の中にいるということは結局の所自分との対話なんだと思う。比較対象がでかければでかいほどに、人間は身の程をすることができるし、身の程をしらないと本当の意味で遠くにはいけないのかもしれない。

なんて。

ただの木登りの話。








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Title: べいべ。
2012.05.30

金環日食自体もとてもドキドキしたのだけど、自分の中では、みんなが同じ時間に同じように空を見上げてるかと思うとその事実のほうによっぽどドキドキした。

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高速道路脇の看板に、Don't Worry Be Happyと書いてあるのを横目で見ながら。

Happyがなんなのかわかりもしないのに、心配すんなとかいうのって無責任だぜべいべーと思いながらも、それがわかってて、何の根拠も確証もないくせに、眼をキラキラさせながら面と向かってこの言葉をはき出せる人だけにしか変えられないものがあるのだろうなと思う。

*

結局の所、他者と自分を、もっといえば自分と自分以外を隔ててるものは自我でしかなくて、自我によってすべてをカテゴリー分けしているわけで、世界の広さも狭さも、それはそのまま自分の狭さであり広さである。

それを突き詰めていくと、生きてることも死んでることも結局の所、それを隔てているものは自分の自我なのだと思う。

自分にとって、生きてるのに死んでるのと変わらないような人もたくさんいるし、死んでるのに生きてる人と変わらないような人もいる。物理的な隔たりなんて、畳縁くらいのもんなんだと思う。

*

例えば、できたばかりの誰もすんでいない、新築のマンションのベランダはなんてことないただのベランダなのだけど、例えばそこに人が住み始めて、そのベランダに、色とりどりの布団や洗濯物が干されて、それを眺めると言うことは、それはきっとアートとして成り立つのではないかと思った。

なんかそれが、芸術か芸術じゃないかの差なんてそんなもので。

もっといえば、もしかするとそれは人間の共通意識に対する、深度の問題で、断片的なものにどれだけの深度を込められるかと言うことなのかもしれない。


*


最近基本というものの大切さを痛感する。

ざっくりと視野を広げたいとか、人間の幅を広げたいとか、人間として大きくなりたいとか思った時にも同様で、基礎の上にしか+αは乗っからないのだと思う。

人間的な基本って、挨拶とか、感謝とか、思いやりとか、そういうことをただの美談として語るだけでなく、自分の中で実践されているかどうかなのだろうと思う。

それができなくて、人間がわかるもんかい。

*

思春期真っ盛りの人の言葉を聞きながら、今の自分と比較をする。

自分がその人と同じくらいの年に見えていた世界なんてちっぽけなもんで、側面的で、世界の広さも知らなかったし、自分の狭さもしらなかった。

でもだからこそ学べることがたくさんあったのだ。

そんなことを考えながら、やはり年をとっていくという過程の中で、その年には、その年にしか学べないことがあるし、その年にしか感じられないことがあって、それを少しづつ自分の上に積み重ねていくようなものが人生で、それが結局の所、幅にも功みたいなものにもなっていくのだろうな。

人生はプロセスの連続で、最終的にもプロセスの途中で終わってしまうのだろうと思う。

ゴールも結果もない。

だからこそおもしろいのだ。

年をとるのはしぼんでいくのでも枯れていくのでもない、いままで見えなかったものがどんどんみえるようになることだいべいべー。

*

旅をしていて、夜眠れなくて、窓もない狭い部屋で真っ暗な中で、何をするでもなく座って夜が明けるのを待っている時がある。外の音に耳を澄ませながら、ただ何時間も、ごろごろしたり、座ったりしながら部屋の中で過ごす。

そういう時間を過ごしていると、真っ暗で自分の身体も見えないから、ふと自分の境界と、世界の境界が曖昧になるような感覚に陥るときがある。

昨日夜眠れなくて、真っ暗なリビングで座ってたら、ふとそんな感覚を思い出した。

境界なんてそんなもんで、目に見えるものだけに絶対的な価値観があるかというとそうじゃない、もしかすると本当に大事な事は目をつぶらないと見えないのかもしれないとすら思う。

*

自分は、いきたここちがするときに幸せを感じるのだ。

そう考えるといろんなことにつじつまが合うのだ。

旅にでたくなるのもなにもかも。

だからもしかすると自分にとっての幸せは決して満たされることではないのかもしれない。

*

ずばぬけられる人は、何かを非情にも切り捨てられる勇気と覚悟を兼ね備えている人なのだとか言い放った後に、そう思うこと自体がもう自分のサイズなのだと知る。

その人達はなにかを切り捨ててる感覚も、勇気を持って足を出してる感覚も、覚悟すらない場合もあるのだ。

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Title: 金環日食。
2012.05.21

微妙だけど金環。

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Title: ツイート備忘。
2012.05.15

若此のわざの外に渡世の計略あらば、速やかに此の悪縁を離すべし。たとひよの計略なしという共、身命を顧みざる志あらば、又此の業を捨てるべし。若 又世の計略もなし、身命を捨てる志もなくば、ただ その身ながら 専ら念仏すべき也。

念仏の前提にはやはり厭離穢土があるんだよな。その前提がないとどうしても欣求浄土にはならないし、ここがどこまでも娑婆であるということと、この世とあの世が隔絶された対比の中にあると思えなきゃやはり浄土教は意義を失ってしまうのですよね。曽我先生。

推敲されてない思いつきなうえに感覚的で乱暴な表現だけど、自分が念仏をしているという時にはまだ、自分と念仏の間には隔たりがあって、自分と念仏の間には溝があるようなきがして、最後の最後は自分自身が念仏そのものになれるかどうかみたいな感覚なんだよな・・・

究極、浄土教の意義にそって考えれば考えるほどに、誰かを救うのは自分ではないし、困ってる人や苦しんでる人はおれじゃなくて阿弥陀が救うよって話になってしまうのだよ。でもそれが言えないからこそに誓願がますます頼もしくなるのか・・・ああおもしろい。

そこで親鸞聖人はきっと歎異抄の4章のようなことを口走ったのだと考えると妙に納得いく。


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Title: ツイート備忘。
2012.05.14

アミターバが無限だと言うことが、なによりも親鸞が為一人なりけりけりということを裏付けしていて、それは言い換えれば、衆生の数だけの阿弥陀があるのだということであり、つまりはその確信が法然上人の信心も、親鸞の信心も全く異なったところはないと言い切れた所以でもあるのだろうな。

阿弥陀という概念を絵像や偶像化をするということはとても大事だし、その概念を物語の中に落とし込むと言うこともとても大事な事だと思う。でもそれは同時にそれはそうでもしなければ表せないと言うことを指しているわけであり、本質はそこにはないということでもあるのだろうな。

「たらふく」っていう言葉はさ、ただお腹いっぱい食べたということだけを指すわけではなく、「たらふく」食べられるくらいおいしいものだったということも含まれているんだよな。むりむりお腹にぶち込んだものを「たらふく」とはいわないもんな。


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Title: 昆布×梅干し。
2012.05.12

ここのところの総括。

この3週間で一番感じたのは、人の死は間違いなく縁であって、その一つの死によって残された人の中にはなにかを残していくのだということ。

その縁は近い遠いに関係なく、意識するもしないも関係なく、人が死ぬということは、きっとめぐりめぐって自分に何らかの影響を及ぼしているのだと思う。

そう考えれば、日々自分はいろんな影響を受けているし、日々自分の周りは縁に満たされている。

自分の想いや思想や心は、環境の投影であり、環境が変わればいくらでもかわりうるものであり、変わらないなんてことは幻想だ。無常という言葉は、なにか特別な真理でもなんでもない、ただのあたりまえ体操だ。

それと変化しないものは死んだものだけだっていままで思っていたのだけど。

この3週間少しずつ朽ちていく亡骸をみていて、死んでも人はつねに変化をしているし、それはお骨になっておしまいかと言えばそうでもなくて、実存がなくなっても変化をしていて、その変化は間違いなく世界に影響を及ぼし続けているということを、まざまざと感じた気がする。

それとなんとなくだけど、ざっくり括れば「すごい人」というものの持っているオーラというものが何なのか少しわかった気がする。

それは自分のやるべき事をしっかりわかっていることであり、その責任を果たすためにまっすぐであることであるし、それは言い換えれば腰を据えて自分のやるべきことをやっているという姿勢なんだろう。

正直言えば、自分のやるべきことや、進むべき道、そして自分の責任を果たすという事へしっかりと腰を据えている人ってたぶんそんなに多くないんだろうと思う。自分に関して言えば、いつもここ一番で言い訳しているし、まだ自分にできることはなんなのか、自分がどこへいきたいのかつかみ損ねているし、そのつかみ損ねているということを、なによりも自分の言い訳にしている。

しかし世にいうなんかオーラあるよね、と言われる人には、環境的に腰を据えるしかないところで生きていて、そこに覚悟と責任を背負ってて、その顔こそが力を生み出すのだろうと思う。そのデメリットはその過程において、自分の道の外にあることには、恐ろしく冷静で、無関心にも冷酷にもなれるということなんだろう。

なんかそれがよくわかった。

あと。ひたすら毎日昆布と梅干しのおにぎりをたべていて。

いままで昆布のおにぎりなんて嫌いだ。好き好んで食べるもんかい。と思ってたのだけど、選択肢が2つしかないと嫌でも食べないとしかたないので食べていたら、この3週間で昆布のうまさに気づかされた。

現代は選択肢が多いし、自由度が高いから、自分の好きなものを自由に選べるのが当たり前だけど、きっとだからこそ幅も世界も広がりにくいのだな。

入り口ぐらいではあまり好きになれないものこそ、本当は心の底から好きになる可能性っていうのを秘めてるかもしれないのだ。

そう昆布が教えてくれたのだ。






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Title: ドラクエ。
2012.05.04

ドラクエⅩについて。

ドラクエⅩはオンラインゲームだという。ここにきてドラクエシリーズがオンラインになったということについて、正直いうと初めはなんてこった、オンラインじゃ購入すらも悩むし、オンラインゲームにさける時間もとれないだろうし、なんだよもう働いているおじさんたちは切り捨てかよ。なんて気分になったし、ここにきてオンラインで課金って、なんか時代に迎合してるみたいで嫌だなぁと思ったのだけど。

でもすこし立ち止まって考えてみると、ドラゴンクエストが好きであればあるほど、その名前とブランドを守ろうと思った時にあぐらをかいたら駄目なのだと思うし、時代の流れの中で変化してきたものは最大限につかって、その中で冒険の世界が広がる可能性が1%でもあるなら挑戦するべきなのかもしれない。

ここまで確立されたブランドをあげて挑戦する事への怖さとか、ある程度のものでも売れるだろう、あえて挑戦しなくてもいいんじゃないかという気持ちとの葛藤とか、そういうものに負けずにこういう形でドラクエを展開してくれた事、自分なんかのちっぽけな気持ちを裏切るような形でドラクエを創ってくれていることってやはりすごいと思う。

ブランドのうえにあぐらをかいて精彩を欠いてしまったブランドというのは山ほどある。この流れであまり口にしたくはないけどSONY然り。

堀井雄二×鳥山明×すぎやまこういち

自分たちの世代でこの3人の組み合わせにドキドキしない人は少ないと信じてる。

そしてこの3人が時代遅れのおじさん達なのではなく、今も子どもたちの、そして男子の心を冒険の世界へ誘う為に全力でゲームを創ってくれてるのかと思うとなんだか嬉しくなるし、自分もそういう気持ちでがんばらねばとすら思う。

堀井雄二さんがなにかのインタビューでこう言っていた。

「やっぱりゲームハードにソフトを入れてゲームを起動するってめんどくさいんです。据え置き機なら尚更だよね。だからね、これからのコンシューマー業界というのは、そういうめんどくささを乗り越えてでも遊びたいって思わせるようなゲームを作ることが、僕みたいなゲームクリエイターの仕事かなと思ってる」

いつだって自分の範疇で、なんだよ、なんでポータブルででないんだよ、しかもオンライン課金かよ、ドラクエも終わったな。なんていって自分の視野でしかものを判断できなくなった自分はもう冒険心の欠片もない大人になってしまっていたのかもしれない。

くそう。

でも、オープニングファンファーレが鳴ったときに胸の高鳴りと、冒険の世界に引きずり込まれるような感覚はいまでも自分の中で消えていないんだ、そんでいつだってまだまだ自分は勇者になれると思ってるだ。

竜王でもバラモスでもゾーマでも、デスピサロでもなんでもかかってこいってなもんだ。






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Title: UDGODIE十勝。
2012.05.03

ここ数日に感じたことはこれから先の自分の思考にもきっと少なからず影響を与えるようなことばかりだった。

たぶん話しても信じてもらえないような不思議な体験をして、そこで自分の中にわいてきた気持ちがあまりにも生々しく人間臭くて、なんか自分の底が見えたような気がした。なんか色んなもので覆われてない、自分の元素みたいなところが垣間見えた気がした。

そしてやはり何事も経験が大事だということ。年をとると自分の手の中にあるものだけで行動し、手の中にあるものだけで判断し、思考し、そしてそれに伴う感情を使いまわしていても十分に生きていけるようになる。

それにはそれでメリットはあるのかもしれないけど、でもやはりいつまでも、自分にはまだ感じたことのない感情があって、感じたこともないような気持ちになりうることがたくさんあるのだと言うことを信じていたいし、同じような日常の使い回しだけじゃつまんないし、新しい世界も開けなければ自分自身にも出会えない。

それと意識というのはおもしろいもので、同じように行動していても、同じように生活をしているつもりでも、意識や心の持ちようの与える影響は大きい。そしてその小さな目に見えない意識や心の持ちようが人に与える影響も計り知れない。

平常心っていうのは簡単に口にすることはできるけど、それを保つというのは難しい、難しいということばですらなんか形骸化した言い回しのようにきこえるのだけど、でも難しいけど、それはそんなに難しくないのだということもよくわかった。

なんかここのところ自分に起きた3つの経験が、全部繋がって思ったのは、結局の所何かを分け隔ててるものなんてたかだか1cmくらいのものなんだということ。

この1cmを高いと見るか低いと見るかということを心の持ちようというんだろうと思う。生きてることも死んでることも、戦争も平和も、誰かを好きになるもならないも、誰かを尊敬できるのもできないのも、安心できるのもできないのも、たかだが1cmの境目で隔てられてるだけ。

そして人生の大事な部分はこの1cm程度のことなんだろうということ。

そんでもっと突っ込んで言えば、本当はこの1cmの敷居を作り出しているのは他でもない自分だということで、その1cmの敷居をものともしなくなるための鍵がきっとオフバランスということなんだろう。

数日の間に別々に体験したり、聞いたり浮かんだりしたことが、ふらっと繋がって朧気ながらも一つの答えに結びつく。

まだここで一区切りでもないくらいに色んなものに追われているのだけど。でもこの想いや経験や気持ちを風化させたくないし、これをもっともっと熟成させて自分のものにしたい。

そんなここ数日なのです。


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