Title: 吊り橋。
2012.06.21


例えば、自然があふれるとても綺麗な小さな村があって、その村には今にも落ちかけている吊り橋が架かっているとする。

便利な大きな街に行くためには、どうしてもその吊り橋を通らなければならないとする。

でもとても危険な橋なので、その橋を渡ろうとすると転落して怪我をしたり、時には命を落とす人もいるとする。

この橋をはやく直してもらうために、村の人を集めてこの橋を作った王様の所に通って、大きな声ではやく橋を直してください!と主張を続けるのも1つの道だし、王様の所へいく仲間を一生懸命あつめることも大事な事かも知れない。村の自然のすばらしさを多くの人に知ってもらうこともきっと必要だ。

そして、それと同時に、その橋から転落して命を落とした人を弔うために崖を降りて骨を拾う人間が必要だし、橋から落ちて怪我した人を治すために奔走する人も必要なのだ。

これは例え話なのだけど。

僧侶として自分は後者でありたいし、苦に向き合うといういうことはそういうことだと思っている。

目をこらしてみれば、今日電車でとなりの隣の席に座ったおじさんも、キヨスクのおばさんも、本屋のおねえさんも、自分の親も、子どもも、友達も、家族も、そして紛れもなく自分も、みんなその橋から落ちてるのだ。

目をこらせばこらすほど、みんな傷だらけで、うかうかしてる余裕なんてないくらいに、自分の身近な人達が傷だらけだったと気づくべきなのだ。

自分や家族が自分の親しい人が、出血多量になるなんてことを思えば、自分のすべきは橋の修復ではなくで止血なのだと思ってる。そしてどうやったらうまく止血できるかを考えることこそが誓願なのだ。

生老病死は今この瞬間も自分に差し迫ってきていて、自分の大切な人ののど元に迫ってきているし、そこに向き合うことが僧侶としてなによりも大切な事であるし、そこにある苦に気づかずして他人の苦が理解できるはずなんてないと思ってる。

例えそれが、焼け石に水だとしても、今自分の手の中に仏法があるということは、そうやって焼け石に水をかけ続けてきてくれた人達がいるから脈々と法統が続いているのだし、自分の役割はその一端で、焼け石に水をかけることだと思う。

それと、隣国で大きな戦争が起きたとする、そこで多くの人が負傷をして、多くの人が家を家族を失っているという話を聞いたとして。その事実に心が痛いし、できることなら駆けつけて自分のできることをしたいと思ってる。

でも今の自分は崖の下にいる人達の骨をそのままにしていけないし、自分本位で器の小さな考え方だけど、自分の止血をやめるわけにいかないし、自分の身近なところにいる人や、ここまで生きてくる上で支えてくれた人の止血を優先させたい。それが必ず誰かを生かすと信じてる。

正直そんな自分でごめんなさいと思うこともあるのだけど。

今自分信じる仏教というものはそういうことなのだ。

これは時間をかけてできあがった自分の味わいであり御了解の集大成なのだ。

むしろこの想いががらりと変わるような言葉や、出逢いや体験があったとしたらはやくそれに出会いたいし、その時に、今ここで感じていたことが通過点だったのだと感じることができたらどんなに幸せかと思う。

追記:このブログを書き終わってから思ったのだけど、そもそもその橋が新しいものに架け直されて、新しい安全な橋ができたとたんに街から人が流れてきて、いままであった村の自然がなくなるってことだってありえるのだよな。






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Title: 土(ツイート備忘)
2012.06.16

もちゃもちゃもちゃ。小手先で土を練る。土は大地で大地は地球なのに。もちゃもちゃ。

よりよい未来を思い描くと言うことも、土こねるようなものなのかもな。土は大地で大地は地球なのに。

人間の脳みそがすくなくとも1日先のことまでしか考えられないようになったとしたら、世界はもうすこし平和になるのかも知れない。まだ来ていない未来をよりよくしようと思う気持ちがいつだって争いや諍いの火種なのだ。

いま自分が描くよりよい未来の為に怒り、憤り、悲しんでいることこそが、世界が平和にならないなによりの証拠なのかもしれない。

未来をよりよくしよう、明るい未来の為に動こうというのは素晴らしいことだと思うし自分もそうありたい。ただ明日までしか時間がないとしたときに自分のとる行動がなによりも一番大切なことなのじゃないかと思う。





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Title: 32
2012.06.16

笑うって事は、表情を作ることではなくて、笑う気持ちになるということなのだ。

だから笑う気持ちになれれば笑顔でなくてもそれは笑っているのだ。怒りも悲しみも喜びもきっとそうだ。

目に見えるということはとても大切だ、目に見える部分を意識すると言うこともとても大切だ。

でもそれがすべてではない、それが終着点でもない。

目に見えるところを大切にすると言うことは他者と自分の距離を測ると言うことだ。

他者と自分の距離を測ると言うことは、自分のサイズを知ることだ。

そして自分のサイズを知ることとは、つまりは世界の広さを、有限のもっと先があると言うことを知ることだ。

笑わずに笑い、怒らずとも怒り、悲しまずとも泣く。

それを慈悲というのかも知れない。

言葉の先のもっと先。

体感によって得ることができないもの。

前後もきっかけもなにもない。

朝起きて布団の中で天井を見上げながら唐突にそんなことを思った。



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Title: 海月。
2012.06.13

食わず嫌いというのはやはりよくない。

なんでも素直にやってみて、嫌々ながらも体験してみて、改めて自分の中に落とし込めると言うことがあるということを感じた。やってみてやはり嫌いなら、よりつよく嫌いになるということも大事な経験で、そこではじめてその反対側にある自分の好きなことが浮き彫りにされてくるのだきっと。

*

ある方が、社会の僧侶に対するイメージをよくしたいとおっしゃる。

そして、今現在、「坊主頭」という言葉が市民権を得てるのは、いままで僧侶が頭をまるめることで社会の中で認められてきた証拠でもあるし、姿形からはいるのは大事だとおっしゃった。

だからまず、すべての僧侶はまず飲酒をやめれば、さらに僧侶に対する社会のイメージや尊敬の念みたいなものはあがるし、そういう決まりをつくってみんな守っていくことが大事だとおっしゃる。

それを聞いていて感じたこと。

そうやって僧侶っぽい格好をして世の中に一目置かれてきて、その上に胡座をかいてきたからこそ、今世の中で僧侶の価値が下がってしまったのではないだろうか。僧侶の格好して、僧侶っぽいことして、それなのに、認められてないからこそ今現状があるのではないか。

無頓着でいればいいというものではないけど、自分がどんな僧侶になりたいかという明確なイメージがあればあるほど、どこに頓着してどこに頓着しないかというのは自然に行動にでるのだろうと思う。

その行動が僧侶のすべてであって、口では僧侶たるものはとかいうのであれば、本尊の前や、食事をするときくらい手を合わせるくらいの所作が身についているべきではないのだろうか。

言ってることとやってることがちぐはぐだなべいべ。

頭を丸めて飲酒しないことよりも、食べるものに感謝して、しっかりと残さずに味わって全部たべることのほうがよほど大事だぜべいべ。

そんで人の目を見て話を聞くことの方がよほど大事だぜべいべ。

その積み重ねだべいべ。

*

本当に頭のいい人の議論の切り口はとてもするどい。

痛みを感じないくらいにするどい。

そんで傷だらけになっても、その傷も一晩寝たらしっかりとくっついているくらいに鮮やかだ。

*

それと自分の仏教感の中で、反比例の一石を投じ続けること、投じ続けなくても反比例の先になにがあるのかということに思いを巡らせると言うことはとても大事だと思っている。

被害者をたたくなら、加害者に目を向けるべきだし、絶対的な社会悪が断罪されるのなら、絶対的な社会善を疑うべきだと思ってる。

善にしても悪にしても右でも左でも。大きな天秤がどちらかに傾いたときに、その反対側に体重をかけて天秤を真ん中にもってくるということが中道の精神だと思ってる。

自分の微々たる力でその天秤を傾けられるとは思わないけど、そういう姿勢を大事にしたいと思ってる。

*

まかせよ。

はい。

ほんとにこれなんだよな究極は。

ほど遠いわ。


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Title: ツイート備忘。
2012.06.09

苦ってなんなんだろうなぁ。そもそも苦って物理的な要因で生まれるものではないのではないだろうか。物理的になにかが取り除ければ苦がなくなるって信じることで深みにはまる恐れはないのだろうか。

原発に対するアクションは様々な視点と思想とその人達の置かれた立場が影響している。そのそれぞれの人の置かれた立場によって思いや願いは180度違う。180度違う答えがぶつかるときにこそ中道ってとても大事なのではないかと信じてる。

なにかを否定せずに自分の目的を叶える方法があればいいのに。でもそんな方法は1つもおもいつかないのだ。

でかい幸せや、まだきてない未来の幸せを願うことで手元にある幸せや、今自分の手の届くところにいるものへ気持ちをおろそかにはしたくないし、先を見据えすぎて足下にある花を踏みつぶさないようにだけはしたいと思っている。たかだか人生残りいいとこ30年くらいだからな。

ただただ静かに達観してるわけでも、あきらめてるわけでもない、自分の中にふつふつと湧いてくるこの気持ちは大事にしたいし、お念仏を掲げてデモをするのだけは絶対におかしいと思っている。お念仏をプロパガンダにつかうことを恥ずかしいと思わないのか。

結局のところ人間というのは、自分の置かれた環境や視点や、見えてる世界を存分に自己肯定することで満足してそこに評価を伴わせることで安心できる生き物なのだということを痛いほど感じる。


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Title: どろ。
2012.06.08

梅雨の季節がやってくる。

じめじめむしむし。けどそれも夏への布石。梅雨がすぎればまた今年も充電期間がやってくるわけで。

ここのところ毎日ひたすらに泥団子をつくり、田植えをしたり、木に登ったり、戯れ三昧なのだけど。

こんな穏やかに見える幼稚園というほのぼのとした日常の中にも、たくさんの苦とかがあって。大人とは違うもっとシンプルだけど根源的な悩みや苦しみと共に子どもたちも生きているのだなとつくづく思う。

取り繕ったり、我慢したり、上辺だけでつきあえるほど器用じゃない分、子どもの世界は時に冷酷だし、好奇心を理性で押さえ込めない分、時に残虐だったりもする。

そんなひとつひとつの出来事や、ひとつひとつの子どもの表情は、そのまま人間そのものなんだと思う。そこに向き合うことはきっとそのまま自分への戒めであり、鏡であって、大人というものに対する警鐘ですらあるのかもしれない。

昔みたいに、だから子どもがいいとか、子どもの頃に戻りたいとか、子どもの心が素晴らしいのだ!とかナンセンスで暑苦しいことをいうつもりなんてもうさらさらなくて、むしろ子どもと関わることすらも自分の糧にしてやろうと思っている。自分のことだからこそ本気でやれるし覚悟ももって望めるのかもしれない。

なんて。

ただ毎日遊んでいるような毎日だという後ろめたさに対する大義名分をこじつけただけなのだけど。

けど昨日泥団子つくってて、僧侶っていうのは、僧侶っていう言葉に捕まっていると、何をしていてもそれは僧侶っぽいものでしかなくて、僧侶という言葉を離れてこそ、結果として僧侶になっていくのではなかろうか。

僧侶だけじゃない、どんな道でもそうだけど。言葉のもつ自分の作り上げたイメージとか、枠に捕らわれてるうちは、なんかそれっぽいもの止まりで、実はそれは本質ではないような気がしている。

自分のなりたい僧侶像が昔よりもはっきりしてくるに比例して、他者に対する許容の幅が断然広がったような気がするのは、きっと他人はどうでもよくなったからなのかもしれない。

なんて。

*

竹原ピストルの感性はすごい。すごいというかすげぇ。すげぇというか、すんげぇ。

がつんと直球を投げ込まれたような気がした。

*

たぶん自分は、例えば死んだ時に、悲しいとか寂しいとか言ってくれる人が100人いるよりも、自分がいなくなることで、楽しくないとか、つまんないって思ってくれる人が1人でもいるほうが嬉しい人間なんだと思う。


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