Title: 用心深く。
2012.07.31

例えば、一杯の水が超貴重品で、コップ一杯で数千円もするくらいに希少価値があったとしたら、蝉の声をききながら、うだるような暑さの中で飲む一杯の水に対する気持ちは今よりもきっと特別なものになるのだろうな、そのたった一杯の水を飲むというだけのことだけで、その瞬間は至福の時にすらなるのかもしれない。

それはきっと今日が最後だと思えばどんな日でも色鮮やかに見えるようになるのと同じなのかも知れない。

結局そんな程度のものなんだ。

この人生が色鮮やかかどうかなんてのは、そんな畳の敷居くらいの境目で隔てられている。

夏の空気とか、匂いとか、風とか、そういうものを一粒も無駄にしたくなくて、無駄に深呼吸してみたりして、身体の中にはいってくる生ぬるい空気が自分の境界線を曖昧にしていくような感じを存分に味わう。

1年分。

無駄なくよどみなくしなやかに。

どうしょうもなく嫌なこととか、全部投げ出して逃げ出したいこととか、そういうものはいくらでもあるのだけど。

そういうくそみたいなものがちりばめられているからこそ、この一服の夏が最高に輝きを増すのだと、昨日の赤提灯の帰り道にふつふつと思った。

神楽坂のとある坂道の電柱の下にお花が供えられている所があって、もう神楽坂に通い始めてからずっとそこに花は供えられていて、そこには、「すみません気持ちの整理がつくまで花を供えさせてください」と書かれていて、いつも新しいものに差し替えられている。もう何年も。

神楽坂で飲んだ帰り道はできるだけその坂を下るようにしている。

そんでそこの花が新しいものに替えられているのをみて、手を合わせると、なんかほろっとしている自分の中にぴりっとなにかが走るような気がして、そこにある想いと自分の中にある想いの温度差がぐるりと身体の中で一回転するような気がして、生きているというのは一体どこからを指すのだろうかなんてことを考えながらとぼとぼと歩いたりする。

そんなことに答えはないのだけどね。

さて明日から存分に夏を浴びにいく。

びば夏やすみ。





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Title: 五厘。
2012.07.26

なつなつなつなつココナッツ。

日差し満開、セミ満開、心満開、夏全開。

でもまだまだ登り調子の真っ最中。

そんなアラサー真っ盛りな今日この頃。

カートぶっ飛ばして、森の中をクラーネして、露天風呂でのほほんとして、眠り猫を横目に、見ざる言わざる聞かざるなわけで、気温と水温の合計が50度を越えれば、あらかわ遊園のプールにぷかぷかと浮かんでは、帰りにたこせん食べて、駄菓子でかちわり氷買って帰ってきては昼寝をしたりするわけです。

んでもって赤提灯に吸い寄せられては、雪駄で街を闊歩するのです。

これでもかこのやろうと言いながら。

でも今年まだまだ全開になれていない原因は、とても重要な場で発言を求められ、わけのわからないことを口走ったあげくに、リカバリーもできないまま、どうしょうもない締め方で話を終わらせてしまわねばならないことになってしまった自分のふがいなさと、頭の回転のにぶさに嫌気がさして、その気持ちを立て直すのに時間がかかっているからです。

もう二度と同じような失敗はしないぞこのやろう。

なつなつなつなつココナッツ。

こんな気持ちはつまんでぽいだこのやろう。

がんばれにっぽん。




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Title: 草野球。
2012.07.22

外野に立って遠巻きにグラウンドを眺めていると妙に安心する。

きっと、昔から出席番号順で席が決まっていたので、中高6年間大抵後ろのほうから教室を眺めていたことと、ラグビーもウイングのポジションが多かったので、いつだってこの位置から見える全体像に安心するのかもしれないと思った。

試合は投手戦だったので、なかなか外野までボールが飛んでくることはなくて、遠くから聞こえてくる盆踊りの音に耳を澄ましながら、時折吹いてくる風の心地よさに、気を抜いたら試合中であることを忘れそうなくらいに初夏の空気に陶酔していた。

そんなぼけっとしたのセンターの前に、フライが上がってきたが、グローブをかすめることもなく落球したのはいうまでもない。

自分の中では紙一重で落としたのだけど、レフトが言うのは数メートルは離れていたそうだ。

それと、バッターボックスというのはこんなに緊張感のあるものだったんだということを久々に感じた。相手ピッチャーは草野球にはあるまじきスピードの球を投げてくるので、大概はフルスイングの三振か見送り三振だったのだけど。

でもネクストバッターサークルから、軽く素振りなんかしながら、打席に向かうときの気持ちが最高に気持ちよくて、やっぱ真剣勝負というのはひりひりしてどきどきする。

胸をえぐるようなボールにのけぞらされて、むかっとしてフルスイングしたバットは心地よく空を切るばかりなのだけど、それでも派手に振り切ったバットの潔さをすこし誇らしくも感じたりするどうしょうもない自分も嫌いじゃなかったりするのだ。

この年になると力の差を歴然と感じたり、それを詰めようと努力する意欲に火が付いたり、ひりひりどきどきする経験は少なくなる。

だから、たかが草野球だけど、されど草野球だと思うのです。





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Title: 傷。
2012.07.17

ダライラマ14世の言葉、備忘の為にめもめも。

仏教は論理的に物事を捉えることで、真理にアプローチしようという宗教です。人間とは何か、心とは何か、幸せとは何か、世界とは何か、幸せとは何か、世界とは何か、その概念を見直し、徹底的に探求し、その中にある真理や法則を説き明かします。その上で、一人の人間としてどう生きていくべきかを見定める。だからこそ、自分だけでなく、仏教徒だけでなく、全ての人人間に当てはまる答えに帰結するのです。


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Title: 無常。
2012.07.17

原発がなくなれば今よりもより幸せになれると思う所に苦しみというのが生じているのだ。中道に依らない価値観で僧侶が自分の物差しを振り回すのは苦を拡散しているに等しい。人は原発があろうとなかろうと幸せにも不幸せにもなれるということをしっかりと伝えるのが僧侶の役目ではないかと思う。

人間というのは、次から次に救いようのないことをするからこそ、大慈大悲があるのだ。それは紛れもなく何千年も前から変わらない事実だからこそ仏教に意義がある。仏教における幸福、幸せがなんたるかは教典を読めばしっかり書いてあるわけで、まずはそこを紐解くのが僧侶の役目なのではないか。

それは諦観とかあきらめとも違うし、目の前の事実から目を背けてるわけでも逃げてるわけでもない。むしろそれが逃げないことであり、僧侶として目を向けていなければいけないことだと思ってる。そこに依ることができなければ仏法は意義を失う。






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Title: みたまいる。
2012.07.16

今年のみたま祭りは三連休とあってここ数年にない人出だった。普段いろいろもちゃもちゃと思うこともあるのだけど、毎年この時期にここにくると、日本が平和になってよかったと素直にそう思える。


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Title: がんのん。
2012.07.10

夕暮れ時にぷらっと縁日に出かけて、ふらりと歩いていたら、顔見知りをみつけて、一緒にビールを飲んで、飲み終わったら、また顔見知りを見つけてまた飲む。

そんなことを3回も繰り返して、ほんのりと酔いが回った頃にはちょうちんにも灯が灯る。

帰り道に今日が人生最後の日でも別にいいやとか思いながら家路につく。

のーてんきでいいねというのは、最高の褒め言葉だよ。

人間だから生きてればしがらみとかあって、嫌なこと言われたり、嫌なこと思ったり、ずるいことしたりもするし、そんな自分に悶々して、夜眠れなかったり、そんな自分を立て直そうとしてなんだかんだと理屈をこねたりすることもあるのだけど。

でもそんなこんなをひっくるめて自分の人生が幸せかどうかなんていうことは、結局の所、風が吹いたり、日が暮れたり、どこかの家の晩ご飯の匂いがしたり、風鈴が聞こえたり、大きな雲がでたり、そんなことで帳消しになるくらいのもんで。

いつもそのくらいの深度ところで生きていたいと思うのです。

そのくらいが自分の身の丈で、一番いごこちのいいところ。

犀のように歩んじゃいたいさ、そこをまっすぐに。

そういえば昨日みた観音様の顔は、おいおまえしっかりしろやと言っているように見えた。

お見通しかね。


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Title: 無常。
2012.07.04

仏教の根本的な思想として「無常」というものがある。

よく聞く言葉だし、それを言葉ではわかっているような気になるのだけど「無常」というのは、理解するだけでなく、自分の中に落とし込めたときに初めて行動としてそれが表れるようなものだと思う。

「無常」というのは言い換えれば、明日が必ずくるとは限らないとうことであり、今がずっと続くということはないということだし、今目の前の人との関係は、この瞬間の積み重ねであるということであり、いつまでも惰性で永遠に続くものなんてないということである。

それを体感として感じることができたらそこで「幸せ」の価値観は一変するし、そもそもの「苦」とはなにかということは必然的に浮き彫りになってくるのではないかと思う。

よりよい社会や未来の地球の為になにかを変えようとしたって、原発がなくなっても、極端なことを言えば、温暖化が進めばいずれ地球を捨てるときがくるかもしれないし、隕石でもかすめれば地球も終わりかもしれない。そんな大きな話じゃなくたって、隣の家が火事になって自分の家も丸焼けになるかも知れないし、地震や洪水に巻き込まれるかもしれないし、いつ戦争がおきるかだってわからない。

今は平和だからこそ、余計な苦しみを自分から生み出して、それを憂うことで自らの首を絞めてしまいがちなのだと思う。

自分の生活や、生きると言うことはそういう何時起きるかわからない不可抗力の上にあるのだということが、いわば「無常」の中に生きているということなのだと思う。そして「無常」というのはなにも特別な事ではなく、既存設定名あたりまえのルールなのだ。そのあたりまえのルールすら自分の都合でなんとかしようとするのが人間なのだ。

その「無常」に生きる自分たちがいかに幸せに生きるかということを説くのが仏教であると思う。

それはつまり、例えるならば、朝起きて一杯お茶を入れて静かにお茶を飲むときに安らぐ気持ちや、ここちよい風に吹かれて幸せだなと思う心、お風呂にはいっておもわず声をもらす気持ち。目の前にいる大切な人と顔を合わせてたわいもない話をするときの気持ち。

幸せは、その積み重ねであり、今この瞬間にあるものをしっかりと認識して生きると言うことではないかと思う。

人間というのはそこしかないのだと思う。

その点の積み重ねが人生であり、幸せの形なのではないかと思う。過去は過ぎ去って、未来はまだ来ていない、自分の手の中にあるものは今しかないのだ。

状況や環境を変えることで幸せが得れるというのだとしたら、仏教は、もっといえば宗教というものは意義を失う。

それがわからなければ決して救いはないのだと思う。

仏陀は貧乏な人にお金持ちになれとはいわない。お金持ちに平民になれともいわない。仕事のない人に仕事をしろとはいわないし、仕事で苦しんでいる人にやめればいいともいわない。

置かれた状況の中でそれぞれにそれぞれが苦を抱えている、その苦を生み出しているものはなにかしっかりと智慧の目を開いてみろといっているのだ。

環境を変えることがたやすいのなら、みんながみんな苦を遠ざけていきればいい、それができないからこそ宗教があるのだ。そして仏教おける救い、特に浄土教においては、そこがわからなければ、決して救いは見えてこないのだと思う。

ここでじゃあ救いってなにさとか、そういうことを数珠玉のように話しながら、考えられる環境があったら幸せだ・・・なんて思った自分もまた明日ありと思って生きているわけで、どんなに意識をしようと思っても難しいからこそ、それをまるっと救ってくれる存在が必要になってくるわけで。

それを阿弥陀というわけです。


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Title: ツイート備忘(デモについて)
2012.07.03

デモの中継見てるのだけど。少なくとも画面に映るこの人達が冷静だとはとても思えない。ちょっと落ち着けよとか思ってしまう。ここまでくると宗教ににた熱の帯び方をしてる。いくら正しいことをしていてもこれでは駄目だ。相手と温度差を生むのではなく融和できるくらいの温度差のほうが効果あるだろ。

デモってプロセスをはしょって結果だけを求めるように見えるから違和感だし、温度差を招いてしまうんだよな。それをちゃんと埋めることができればこれだけのマンパワーはすごい力があるのに。

自分の中でデモに対して思うことと右翼団体に対して思うことというのはすごく似ている。日本が好きだからこそ周りと温度差を生みかえって孤立するような国粋的な行動はやめてほしいし、原発に頼らないエネルギー社会を望むからこそ、賛否両論生むような熱を帯びた主張で問題を対局化させないで欲しい。

ツイートや世論をみてると反原発活動(デモを含)とその行動の問題点を指摘する人達との対局化と温度差が目立ってきているように感じるが、そこで対立構図ができたらそれこそ思うつぼでしょ。原発に変わる代替エネルギーが必要なのはほぼ大半の人間の中でコンセンサスはとれている。

そのコンセンサスを主張する方法論でぶつかり合わせることで本題をぼやかせるのは大きな問題を煙に巻くときの常套手段じゃないか。

大規模なデモが行われ、デモの温度が高まれば高まるほど、あんなに熱くならなくてもねという人が増えてるのだと思う。人間ってそういうものなんだ。必ず大きなムーブメントには反比例の力が動き出す。だから極端によらないで、冷静に問題を考えてしっかりと着実に遂行していくことが重要ではないか。

怒ったらそれだけで負けだ。目が曇る。目が曇ったままでは必ず共感性を失う。


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