Title: ぱーぱす。
2012.09.28


仏教ってきっと幸せになるためのものだと思ってると絶対にわからない部分があるんだと思う。苦しみを取り除くことと幸せになることは全くの別問題。


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Title: 101
2012.09.25

朝家の近くの道で猫が死んでた。そんでまた違う場所では小動物が死んでた。そんで帰り道では首都高ですごいでかい犬が轢かれて死んでた。今日3回も生き物が無残に死んでる姿をまじまじと見てたら鳥葬を思い出した。死んだらみんな肉塊なんだよな。生き物を生き物たらしめるのは一体なんなんだろうか。

なんてことを思いながら天一でスープライスセットをもしゃもしゃとたべて、「明日もお待ちしています」って書かれてるどんぶりみながら、いつまでも明日があると思うなばかやろうと思った。

*

アトピーの子がいる。かゆくてかきむしって日常生活ができないくらいなのだ。

毎日何回も薬をつけてくれと言いにくる。

最近毎朝それを塗ってあげるのだけど。

首と目の周りとお腹と背中で、全部違う薬を塗り分けるので、なかなか覚えられなかったのだけど。

違う!と言われながらもやっと覚えることができた。

目の周りを塗って、首に塗って、手と足にゆっくりと塗り込んでいく。

なんか今日、薬を塗っていて思ったんだけど。

スキンシップって大事な事だと思う。

言葉を何百回も交わしてもわかり合えないことはあるのだけど、1日数回でもこうやって薬を塗ってあげることでお互いの中に、黙っていてもわかるような安心感が芽生えると言うことはあるのだと思う。

いつも、ぶっきらぼうに、ありがとっていって去っていくのだけど。

園庭のどこにいたって、遠くから手を振ると、手を振り返してくるのだから、目線の端でこっちをとらえてくれてるんだなと思う。

アトピーは治ってほしいけど、アトピーだからこうやって人とわかり合えることがあったのだということを、頭のどこかに忘れずにいてくれたらいいなと思う。






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Title: 半々。
2012.09.24


朝から映画一本見て、ブルーハーツききながら、カラムーチョたべながら、ジャンプ読む。

そんで一通りぼけっとしたらゴッドタンみて、また漫画読む。

合間に金子大栄の本をつまんだりもする。

そんでおしりをぽりぽりかきながら、散歩する。

コンビニまでアイスを買いに。

点数をつけるなら、そんな今日は70点。

どうでもいいような文章がかきたくてしかたないので、背中をかくように文章をかく。

しかし生きているいうことはお金がかかるものだ。

息をしてるのだってただじゃない。

さんきゅーべりまっち。

インドという国は、1度いくともう2度と行きたくないか、もしくは熱病のようにはまるかのどちらかだという。

どうやら自分は後者だったようだ。

というよりも、インドじゃなくてもよい。

今年海外に一歩もでていないので、旅熱がうちにこもって、発熱しはじめたのかもしれない。

冷えピタはらなきゃ。脇の下とおでこに。

部屋を掃除したら、空き箱がたくさんでてきた。

なにもはいってないのっだから捨てればいいのだけど、すてられないのは、いつかなにかをつめこむつもりだから。

できれば夢とか希望とかをつめたいけど、もう中二じゃないから、どうせこの箱は財布に入り切らなくなったカード類や、頂いた名刺などをしまっておくことになるに違いない。

夢でも希望でもないものを詰めるのにツカワレルノダ。

一人ぼっちじゃないぜウインクするぜ。

夕暮れが僕のドアのノックする頃に。

今何に一番乗りたいですかと聞かれたら、

メーヴェ。

そんで家の上をひたすらに旋回したい。

本当は大きな声で、聞いてほしいのに。

ため息だとか、舌打ちだとか、独り言の中に隠してる。

昔はできれば南の方に行きたいと思うことが多かったのだけど。

最近は北の方にも心を奪われるのだ。

フィヨルドなんていう響きに。

氷河が海の底のママンに会いに行くシーンっていうのがなぜか自分の中にはこびりついているのだ。

西日の差すドライブインで冷えたビール飲みながら話をしよう。

わかんないものはわかんない。

わかんないのは、わかるのはんたいでもないし、わかるも、わかんないのはんたいじゃない。

ブルーハーツのDUGOUT久々に聞いたけど、改めてほんといいアルバムだな。

ブルーハーツの良さは30を越えるとさらに味が染みた角煮みたいにがつんとくる。

たぶん。

こうやって好きな音楽をききながら、どうでもいいことを書き続けていたら、いくらでも書いていられるような気がする。

そんでいまの自分の状態を幸せとよぶのだろうなということがよくわかる。

結局こんなもんだ。

こんなもんだこんなもんだ。

幸せなんてこんなもんだね。

はははん。

さて缶ビールでもあけよう。



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Title: Φ。
2012.09.24

しばらく身体を動かしていないと、身体がなまってくる感じがする。

それがどうにも気持ち悪いのですこし身体を動かすと、全身に血流がまわって、身体がほぐれてすっきりする。

頭も同じなんだろうと思う。

なにかを考えている時に、頭の中を血流が回って、ほぐれてすっきりするような感じが心地よかったりする。「脳は大食いだから」と3月のライオンの中の台詞、身体の疲労は休めば回復するけど、脳の疲労はブトウ糖でしか補給できないそうだ。

考えるっていうのは、言い換えると、自分の経験の中から、様々な例を目の前の事例に重ね合わせて、自分の中でカテゴリーわけして、納得する理由、もしくは大義名分であったり、動機付けを探すことなんだろうと思う。

だからきっとある程度まで来たときには、そのスパイラルをぶっ壊さないと思考の幅って広がらないのかも知れない。

つまりはわからないということに気持ち悪さを感じるのではなく、わからないことをにわくわくできるような感覚を取り戻すことができて初めて次のステップに進むのかも知れない。

最近なんでもその繰り返しなんだということを痛いほど感じる。

長年できた常識とか習慣に埋もれたところで成長はおしまいだ。

*

めんどくさいやつだと思われたくないという気持ちと、めんどくさいと思われてもいいやという気持ちと、そのバランスが自分の心のバランスそのものなんだろうと思う。

*

どんなことでも、いくらでも難しく伝えられるし、いくらでも簡単に伝えることはできるのだと思う。
ただ後者の方が極めて難易度が高いという話で。

どうで挑むなら難易度の高い方に挑みたいっていう気概だけは忘れないようにしたい。

*

言葉ではなく、文字でなく、仏教を伝えることができる方法が必ずあるはずだと思う。

今の自分にそれができないのは、まだまだ言葉や、文字や、小手先でしか仏教をいじくりたおしてないからだと思う。

*

仏法って、丸太の上に立ってバランスをとるようなものだと思う。それがなんでなのか昨晩夢うつつの中でだいぶ説得力のあるところまで検証できていたのに、目がさめたらその肝心な部分が思い出せない。

*

世界はΦでできているのだ。

*








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Title: しかみ像。
2012.09.21

実は、すこし前に資金運用に失敗して多額の損失をだした。

書こうか迷ったのだけど、その一件のできごとの中で感じたことや、わかったことはとても大切なことであると同時に、この教訓を忘れないために書き残しておこうと思う。

昨年くらいから、仕事に関しても、プライベートにおいても、色々なことがうまく回っていて、大きな仕事を任されてもしっかりと結果も数字もだせていたし、なによりも人前で話すことや、人と関わるという仕事の中で、おもしろいようにいい結果がでて、それにともなって自信もついてきたし、自分の成長に自分ですごく納得をしていた。

でもそれが間違いなく過信だったのだと思うし、自分の力で大概のことはなんとかできるとか思って天狗になっていたのだと思う。

自分のやりたいことや、思い描いてるものが大きくなってきた時に、心の中でもっともっとという欲が先走って、足下おろそかになっていたのだと思う。

身の丈に合わない金額を運用して、為替が一銭が動く度に、一喜一憂している自分を客観的にみて思ったのだけど、うかれてる真っ最中にいる時は、すべてが追い風で、どんな風でも順風満帆に感じるのだけど、ひとたび状況が変わるとすべてが向かい風になって、どんなに帆を張っても面白いように風は船を避けて吹くのだということをすごく実感した。

まさにこの世は無常の世で、一寸先は闇なのだと言うことが、どういうこのとなのか頭ではなくお腹の底から感じたような気がする。


それを実感する中で感じたのだけど。

なにかに迷っているときや、人生において大きな決断をするときに、様々な情報や、過去の例や、色々な人の経験を元に、自分なりの予測をして、ベストだと思う答えを選択して進んでいくのだけど、それは結局の所、いい結果に結びついていると信じたい自分の背中をおすための口実がほしいだけなのだ。

冷静に情報や状況を分析しているように思えても、自分の心に追い風が吹いているか、向かい風が吹いているか、それによって、最後に背中を押してくれる材料を探しているにすぎないのだ。

追い風の時は足をだす勇気になる情報を、向かい風の時は、あきらめる勇気になる情報を、無意識に選択しているにすぎない。

この世の中で情報はとても大切だ、情報に勝るものはないと言っても過言ではないくらい。情報をもっているかもっていないかということで人生に大きな影響を与える可能性すらある。でも情報自体もいつも動いていて、24時間刻々と変わる情報を捕まえ続けるということはとても難しいし、とても消耗する。

そして情報は、仕事でも恋愛でもなんでもいいけど、結果の善し悪しの確立を左右するものではあるが、人生が確立で成り立つのであれば、大抵の事は思い通りに進むはずだし、運命は手中におさめられる。でも現実をみれば、確立の及ぼす影響なんてものは人生においてたかが知れていると思っていた方がいいのだと思う。

その確立以外の何かをなんて呼ぶかは自由だけど、それは、運とか、運命とか、本願とか呼ばれている類のものであることは間違いないと思う。今回の事で、そういうものの影響を頭じゃなくて身体で受け止める体験、経験というのは、なんであれ大事な事だなと思った。

それと、含み損が大きくなってきた時に、それを取り返そうとしている時の自分の心の状況は本当に、ひどいもので修羅の心というか、普段平気な顔で、心穏やかになんていって、自分もそんな気になって、充実してすごしていたつもりなのに、一銭が動く度に、心がざわついて、損失が出る度に、誰かを妬んだり、怒ったりしたくなったり、逆に利益がでているときは、もっもっともうちょいいけるなどと思って欲望丸出しで、自分で自分の嫌なところが包み隠せないくらいに凡夫丸出しで、そういう自分に目を覆いたくなりつつも、そこにどっぷりと足を突っ込んでいるときは、そういう自分ですら肯定するための材料を探そうとするから始末が悪い。

なんかある程度の損失をだして、これはもういよいよだめだと思って損切りをして、損失が確定して、もう取り返す事への気持ちも折れてた時に、しばらくどうしょうもない気持ちと、損失がなければ何ができたのだろうか、なんとか取り返す方法はないかとか、そんなことばかり考えていて、その間に法事や葬儀をして、色々な話をしなければいけない時にも、話をしていて、自分の心の中がこんな状況なのに、人になにかを説いてる自分のギャップに、またどうしょうもなく落ち込んだりもしたのだけど。

でも何日か悶々として、全ての取引を終わらせて、もうチャートを気にしなくていいのだと思ったら、すごく心が軽くなったのと、当たり前にいままであったものの大切さとか、すでに手の中にあるものがすごくありがたいことなのだと再認識した気がする。

布施という言葉があるけど、手放してみると楽になるということが布施ということなんだろうと思う。お金をあげて損だとか、ものをあげて見返りを求めるとかそういうことではなく、手を離すことで楽になるのは間違いなく自分自身であるのだと感じた。

お金やものなど、財産はなければ困るし、あった方がいいのだけど、でもそれを手放すとか、不相応の中で満足することで、心がかき乱されないということがあって、それをまさに布施行というのだと思う。

為替のチャートをみていて、数字の上下に極楽の心にも地獄の心にもなり、最後は手放すことでそのどちらかも解放されたような気持ちになって、そんで今になっては今ここでこういう経験をして、もう二度と同じ轍はふまないし、自分にとってお金がどういうものであるかも嫌と言うほどわかったし、いくら悟ったような顔してても、数秒後には簡単に心がぶらんぶらんする自分にも出会えて本当によかったと思う。

むしろそういう自分に出会えないと浄土教は意義を失ってしまうのかもしれない。

為替もまた善知識だとすら思う。

そしてチャートの中にも聖道浄土のかわりめがあった。

恥ずかしながらお金にまつわることで、欲望を丸出しにして痛い目にあったという今回のことは1ミリも無駄にしない。

徳川家康は、武田信玄率いる騎馬隊に惨敗した時、敗走後の自分の情けない姿の肖像画を絵師に描かせ生涯教訓にしたという。そういう意味でも今回の教訓は忘れないように書き記しておいて、たまに思い出して今後の糧にしようと思う。

なむさん。

幸いにも家族や仕事で路頭に迷うような金額ではないのでご心配なく。








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Title: 明日は我が身。
2012.09.19


状況に応じて自分を守ろうと行動したこと1つをやり玉にあげて批判する風潮が何よりも日本人が失った大切なもののような気がする。

人間は状況や環境が変わればなにするかわかんないのだし、そういうことを許す心とか、相手の立場に立ったり、相手の状況をくみ取って追い詰めないとか、そういうグレーな部分が許容されない世の中だからいつも誰かがどこかで追い詰められていくんだ。

権利とか、自分の主張ばかりを振りまわして、善だ悪だと決めつけながら白黒つけたり右だ左だ極端な思考に流れていくのはなんとかしたほうがいいと思う。

この狭い国で袖ふれあわせて住んでるのだから、グレーを許容して、相手の非を許容できなきゃどんどん住みにくくなるだけだし、自分で自分の首を絞めているだけなのに。

明日は我が身だと思えないくらいにぬくぬくと豊かに平和になりすぎたんだろうな。



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Title: ちゃいないっちゃいな。
2012.09.19

10年ほど前に20日ほどかけて中国を横断した。

日本から鑑真号にのって上海まで渡り、西安、西寧と途中で数日沈没しつつも、電車とバスを乗り継いでゴルムドまでいき、そこからバスでチベットのラサにはいるコースだった。

当時は小泉首相時代と言うこともあり、まさに靖国参拝をするか否かの時だったので、やはり各都市で日本人に対して露骨に嫌な顔をする人達がたくさんいた。

電車のチケットを売ってもらえなくて、3日も足止めされたり、宿でも門前払いされたり、目の前に商品があるのにメイヨー(没有)と言われてしまったりということもあったし、露骨に嫌な顔をしてくる人もいた。

中でも忘れられないのが、西安の駅で、毎日朝から切符を買いに行ってるのに売ってもらえず、1日の大半をおしりまるだしの子どもたちが闊歩する広場でぼけっとして過ごしていたら、ある中国人が話しかけてきて、おまえは靖国参拝についてどう思う?と筆談で聞いてきた。

そしてその様子をみていた周りの中国人が集まってきて、軽く人だかりができたのだ。

人だかりの中心に、紙とペンをもった自分。

それを固唾をのんでみまもる中国人達。

正直、個人的に靖国参拝に関しては大賛成だし、するべきだと思っていたが、ここで靖国万歳とか書いたらやられるな・・・という思いをリアルに感じたのを今でも覚えてる。

そこで自分は「我不望靖国参拝」と書いた。このメモは今でも持っている。

先日中国のデモでユニクロが「支持魚釣島中国固有領土」と書いた紙を貼りだして、売国奴だと言われているようだが、そういう意味は自分も売国奴だと思う。

その時中国を旅して感じたのは、中国の中にはたしかに反日の空気感というのは根強い。

でも旅の間、本当にたくさんの中国人に助けてもらった。

上海では、港に船が着くなり車で宿までおくってくれたおじちゃんや、自分のお母さんに合わせたいと家まで連れて行ってくれた日本料理屋の人もいた。駅のホームがわからなくて困っていたら必死に自分ののる電車を探してくれた人もいる。

西安で3日も切符が買えずに毎日駅にいた姿をみるにみかねて、見知らぬおばちゃんが窓口に行って、あの日本人に切符を売ってやれと言ってくれたり。

西寧では家にまで招いてくれて食事をさせてくれた公安職員の人もいたし、一緒にビリヤードをしようと誘ってくれて毎日謎のルールのビリヤードをしたり、一緒にお酒をのんだり、床屋につれていかれたり、あまりに居心地がよくて何もない西寧の街に1週間も沈没してしまったほどだ。

実際に旅をしてみて、中国の駄目なところ、悪いところは嫌というほどよくわかった。でもそれと同時に中国のいいところもたくさんわかった。

嫌な人もたくさんいたけど、同じくらいいい人もたくさんいた。

ナショナリズムというのは、とても厄介なものだ。

あのニュースをみて売国奴だという日本人も、中国で略奪をする中国人もほとんどがお互いの国に足を運んで、お互いの国の人間と深く関わったことがないのじゃないかと思う。

お互い自国から一歩も動かずに、だれかのつくったイメージだけで、愛国だ売国奴だと騒ぎ立てることで何が生まれるというのか。

それとユニクロの対応について。

もし自分があの店で働いていたとしたら、あの判断ができない責任者の下では働きたくないと思う。どういう想いで働いているのかはしらないけど、自分のつまらないプライドで、店や雇用が失われるのを何ともおもわないような経営者はきっとなにをしてもうまくいかないと思う。

とくにユニクロ贔屓でもないのだけど、今回のことに関しては、郷には入って郷に従わないことが愛国心であり、郷に従うことで売国奴だと呼ばれるのだとしたらそんなナショナリズムは間違ってる。

NOと言えない日本人、弱腰外交だといわれるし、自分でもそう感じることはたくさんある。

でも日本人は空気を読むこと、間を読むこと、言葉にしなくても感じあう心、そういう部妙なニュアンスや空気を読む力をこの狭い領土の中で育み、共に生きてきた単一民族であり、日本人としての独自性というのはむしろその柔軟性と、懐の広さだといってもいいのではないかと思う。

だから世界中に日本贔屓の国が多いんじゃないか。

大和魂だ、愛国心だというのが、それが強固な自己主張の上にあると思い込むのは、間違っていると思う。

愛国心とはそんな浅いところにあるものではない。

日本人はもっと懐が深いのだ。

万人手を取り合って平和を目指そうなんてナンセンスなことはいいたくないし、毅然たる主張をして衝突をさけられないということはあると思う。

でも靖国神社の遊就館にいくといつも感じるのだけど、日本が戦争をしてまで守りたかったもの、戦争をしなければ守り抜けなかったものは、ちっぽけなプライドや愛国心じゃない。

もっと深い部分で日本人が守りたかったものはなにかがわからなければ、愛国心なんか絶対わからないし、日本が戦争で失ったものがなんなのかわかるはずがない。

なんて。てへぺろ。

ちゃいないっちゃいな。 

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Title: 居心地。
2012.09.16

結局一番大切なことはなにかといえば、承認されること、受け入れてもらうこと、共感してもらえることで、これが欠けることで人の心は様々な問題を抱えてしまうのだろうと思う。

そしてそれが確保できる場所を守りたいというこという動機はとても強い。

人間の行動のほぼ8割はこれがほしい為にすることといっても過言じゃないような気がする。

悲しみも、喜びも、愛も、恋も、友情も、家族も。

結局のところ、そこまでしてでもそういう居場所を確保していないと、人間は自分で自分の認識をしっかりと保てない生き物なんだろうと思う。

それがすべての答えのような気がする。

そしていつもその喪失と隣り合わせに生きていて、その潜在的にある喪失の怖さというのが、人間の弱さと脆さであって、同時に愛おしい部分であるのだろうと思う。

なんか結局そういうことなのだな。

最近自分の中に仏教があってほんとによかったと思う。

その居場所を自分の外に求めて、さがし回っていて、居場所があるうちはいいけど、いつか歩けなくなったとき、いつか自力で立てなくなったときに、その喪失感に苦しまなくていいように、その居場所がなんで居心地がいいのか、その居心地のよさを生み出しているのはなんなのか、それをちゃんと考えて、解明していくことで、その居心地のよさも悪さも、他でもない自分自身でつくりあげているものだということに気づきなさいと、そう教えてくれるのが仏教なんだと思う。

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Title: ねっこ。
2012.09.16

いじめの問題、自殺の問題、虐待の問題、また人を人と思わないような事件、そんなニュースをみていて本当に、想像力の欠如というのを感じる。

想像力を生み出すのは感性だと思う。

花をみてきれいだと感じたり、空をみて広いと感じたり、土を触って暖かいと感じたり。

どんなことでもいい、その自分の中に湧くふとした感情を大切にすることは本当に大切な事だと思う。

あたりまえのようだけど、今子どもたちを取り巻く環境はこの当たり前のことすらできない状況なのだと思う。

花をきれいだねと言っても褒められないのに、その花が何科の植物でいつに花をつけるのかを知っていれば、周りの大人は褒めてくれるし、いい点数だってとれる。そうやって情報や知識が先行することで、子どもの感性の芽は摘まれてしまう。

感性がしっかり育まれると、そこから好奇心を生まれる。

好奇心をもって初めて学ぶ意欲、欲求が湧いてくる、そこで初めて、知識と情報が自分のものになって、褒められるから、点数がとれるから学ぶのではないと言うことがどういうものなのかを感じることができるのではないかと思う。

喉も渇いていないのに水を飲み続けることはできない。

そしてその好奇心が、想像力を育む。

そしてその想像力が、相手の立場にたって考える、自分の事として受け止める思いやりを生み出すと同時に、自分の行動の影響力を考えられるようになるのだと思う。

すべての源は感性だと思う。

そして人間はここ一番で大きな壁にぶつかって、どうしょうもなくなったときに、救われるのは情報や知識ではないくて、道に咲いている花だったり、近所の犬だったり、顔に当たる風だったり、空だったり、海だったり。そういうささいなところで、肩の力が抜けてまた歩き出す勇気をもらったりする。

小さなことに幸せや、喜びを感じられる心、折れない心をつくるのも感性だ。

現代の抱える問題の多くはこの感性をしっかりと育むことで、少しは緩和できるのではないかと思う。

そして幼少期においてこの心を育み、心にしっかりと太い根っこをはることではじめて、これから社会に出て大きな木になっていくことができるのではないだろうか。

ということを先日説明会で話したのだけど。

考えれば考えるほどに、この感性を育む教育の難しさと、問題点課題が浮き彫りになる。

まずは自分にできることから1つづつとは思いながらも、その途方もない作業と、同時に絡み合ってくる様々な問題とのギャップに悶々としたりもする。

まえにまえに。




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Title: 向日葵。
2012.09.16

ものすごい嫌のことがああったり、とりかえしがつかないことをしてしまって、ああ時間を戻すことができたら絶対にこの状況は避けたかった・・・などと悶々とするということが人生には時々ある。

そういう時には大抵今手の内のあるもののありがたさに気づかされたりする。

昨日まではなんてことないあたりまえのことが、実はありがたいことだったと気づかされるような経験をすると、自分にとっての悪いことは、おい調子にのって、悟ったような顔してると痛い目見るし、満ち足りたような顔して勘違いして生きていると、大切な事を見失うぞといわれてるのじゃないかとすら感じる。

なんてポジティブシンキング。

いいのかわるいのかわからないけど、いいことも悪いことも、マイナスなことは1つもないと思ってる。

たまには冷や水浴びせられないと木に登っちゃうこの愚鈍な我が身。

どうしょうもないことをどうにかしようとおもってもどうしょうもないのだ。

またたんたんと歩いて、また調子にのって、またこけて、そんでまた歩けばいいだろう。

*

アメリカにいるいけすかない友人とこないだ話していて、そのアメリカ人は小学校からのつきあいなのだけど、その友達が、「最近思うのだけど、おれら公園に恵まれてたよね」と言っていた。

小学生の頃そいつは日本にいて、近所に住んでいてよく遊んでいたのだけど、たしかに住んでいた所の周りには恵まれた公園がたくさんあったし、大学の時に、そいつが留学してきて京都で一緒に遊んでいたときにも、自分の下宿先の前の公園でよく遊んだ。

言われてみれば、いつも自分の住んでいる場所の近くにはいい感じの公園があって、うかれてるときも、落ち込んでるときも、どんなときでも公園でその思いを消化したりしていて、公園での思い出というのは自分の中に多いかも知れない。

なんか言われておもったのだけど、自分の今していることや、やりたいと思っていることというのは、そういう小さな記憶や体験の蓄積が影響を及ぼしているのだろうな。

*

遅ればせながら、夏にもらって、子どもたちと蒔いたひまわりが花をつけた。

夏真っ盛りに咲かなかったので心配していたのだけど、このお彼岸前に小ぶりなんだけど、ものすごく生き生きとした花を咲かせてくれた。

みんなの期待を一心にうけつつもいつまでも花をつけずに、じらしにじらして、しらっとこの後に及んで花をつけたとおもったら、すぐに種をのこして枯れていく。

なんかすごく粋なひまわりだった。

*

小学校にあがってできることは小学校でやればいい。幼少期にしかできないこと、その時期にしか学べないことはなんなのかを真剣に考えて実践することと、園児を確保するためになにを打ち出すのかということは時に相反する部分があって、そのギャップを埋められるようなカリスマ性は自分にはまだない。

*

himawariii.jpg








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Title: 國権
2012.09.12

自分の中ですっきりとしたこと。

正直にいうと、そもそもカウンセリングとか傾聴とかそういう類の人の関わり方を懐疑的に感じていた。

自分が昔カウンセリングを受けた時に感じた違和感がぬぐい去れなかったというのもあるのだろうけど、それだけでは片付けられない違和感みたいなものをいつも感じていた。

なにか自分の手の内をさらさないで相手に両手をだせというようなスタンスで人に関わっているように感じてしまって、性に合わないというのが正直な気持ちかもしれない。

しかし明確になんで違和感を感じるのかということにはずっと答えをだせずにいたのだけど、昨日ある精神科医の先生の話を聞いて、その喉につかえたような違和感がすっきりした。

その先生は、ひきこもりをはじめPTSDや心に傷を抱えた人達へのケアの方法を学術的にお話してくださったのだけど、一番印象的だったのは「人薬」という言葉だ。

喪失感によって心を痛めた人達をどう癒していくかという話の中で、その先生は喪失感は自己愛の欠落であると表現された、何かを喪失したことで、自らの自己愛も欠落し、そこから自信失い、自分を見失い判断力すら失っている状態を心の病の状態であるという。

その状態を正常な状態にもっていく時に、まず人と関わる中で、相手からの共感、承認を得ることで、しっかりと自己愛を取り戻し、そして自信を取り戻していくという。そしてプロセスにおいて人は癒されていく、人と関わることで人は癒されていく、もちろん通常の薬を使うこともあるけれど、それは万能なわけではなく、最後は人でしか人は治していけないというニュアンスの話をされていた。

そしてそれは決してバーチャルでは代替えできないと強く断言されていたのが印象的だった。

実はこの喪失感を自己愛と表現されたことが自分の中ですごく安心したというか、自分の中でのどのつかえのとれる一番の要因になったと思う。

正直にいうと、例えば葬儀の時や火葬場で家族を失って、泣き崩れている人を見ているときに、ふとその涙は誰のための涙なんだろうかということを感じることがよくあった。

そういうことをいうと引かれそうだから、あまり口にはできなかったのだけど、泣くということは、何かを失ったかわいそうな自分に流す涙であって、寂しいとか悲しいも、すべて主観的な感情であって、結局の所人間というのは、最後の最後も自分の為に涙を流しているのだなと感じることがよくあって、むしろ浄土真宗である自分は、だからこそそこに本願の頼もしさを感じたりするのだけど、そういう思いをうまく言葉にすることもできず、誰かに伝えることもできずに、いつも自分の中でその答えを探していたように思う。

仏教においてもまさに、喪失感や苦しみに対して、その要因となるものは何かといえばそれは自己愛であり、執着によるものであるといえる。

その点で、精神科医の視点と、僧侶と視点というのは、同じベクトルを向いているといえると思う。

しかしここからが自分の中でなぜ違和感を感じていたのかという部分なのだけど。

「人薬」というのは、人の作り出したものであり、むしろ言い方を変えれば、その薬は普遍なものではない。他人からの承認や共感によって傷が癒されていくというプロセスは間違いないと思うのだけど、そこで癒された人がまた何かを喪失したときには、きっとまた「人薬」を求めるのではないかと思う。

しかしそれはそこに人がいなければ成り立たないとも言い換えられるのではないかと思う。

それと同時に必ずしも人は薬になるとも限らない。人薬を頼って、だれかに寄りかかったときに、さらに深く傷つくということもありえる。それは癒してくれる対象が不完全な人間だからだといえると思う。

精神科医の先生達は異論をとなえるだろうし、カウンセリングや傾聴をしている人達からしたら納得してもらえないと思うけど、どんなに訓練をしても、どんなに人と向き合おうと、人間は所詮不完全だ。だから必ずしもいつまでも薬で居続けられるかどうかはわからない。

苦しみや喪失感がある程度のレベルまで来たときに、「人薬」には限界がくると思う。

しかしこれもフェーズの問題であり、「人薬」できれいに回復する人達がいることも間違いなく、それを否定する訳ではなく、その範囲の中で掬える人を救っていくということは絶対になくてはならないと思う。そこで1人でも多くの人が立ち上がり歩きだせるようになってほしいと思う。

それを踏まえた上で、僧侶の立ち位置というのが、精神科医の観点と違うのは、僧侶はその治療を仏法で行う、仏法をその人の中に落とし込むことで、その人が人薬を自己精製できるようにすることが大切といえばいいのかもしれない。

うまく言葉にできないけど、心理的な治療というのは、有限対有限の対比であるのに対して、宗教というのは、有限と無限の対比であるということではないかと思う。

もっと例えるなら、心理的な治療が外科治療だとしたら、宗教的な治療は、外科治療であるのと同時に、習慣予防みたいなものまでが含まれるのだと思う。そして最終的には自分で外科手術ができるようになるようになることなのだけど、それを代わりにやってしまうのではなくて、自分でできるように良くできたマニュアルを渡してあげることなのだと思う。

僧侶の仕事はそのマニュアルをいかにわかりやすく、現代語に訳してあげるかということであり、そのうまさこそ僧侶の資質なのだと思う。

仏法による救いは、いくつになっても、どこにいても、だれかがいようといまいと、絶対に変わらないし、個別の苦に対してしか対応できないわけではなく、あらゆる場面での苦に対応できるもので、仏教を自分の中に落とし込むというのはそういうことなのだと思う。

仏法に限ったことではなく、宗教というのはそういうものだと思う。

逆にいえば宗教はそうでなくてはならないと思う。だから救いを与えてくれる対象が有限である宗教は、カルトと呼んでいいと思ってる。

仏教には「自灯明・法灯明」という言葉がある。自らを灯火とし、法を灯火としなさいと書いてある。法というのは普遍的な教えということになると思う。普遍的な教えというのは、何百年も前から同じ事を繰り返し、かわらない人間の取り扱い説明書みたいなもので、それを紐解きながら、自分と照らし合わせて自分の扱いにもっとうまくなりなさいとうことなのではないかと思ってる。

これは自分の中では、自分の心の主導権を自分の外に置いてはいけないといっているのだと思っている。

なんか一言にしてしまうととてもシンプルになってしまうのだけど、

「自灯明・法灯明」

僧侶が自分で誰かを救ったら、それは仏法ではない。

これがいままでカウンセリングや傾聴、心理学的なアプローチ全般に対して、自分の感じていた違和感の答えであり帰着点なのだと思う。

その違和感は自分が僧侶であるがゆえであるのだと思う。

文章にすると難しいし誤解も招きそうな書き方をしたのだけど、僧侶である以上、仏法に根拠を求める姿勢を忘れてはいけないということで、仏法に根拠を求めて変えるべきは、誰かではなくまず自分であるということも忘れてはいけないことであるように思う。

なんか昨日の今日でまだ頭の中がちらかっているし、うまくまとめきれないのだけど、備忘の為に残しておこうと思う。




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Title: いじめとか。
2012.09.06

いじめをなくそうということがよく取り上げられるけど、そうそういじめなんてなくならないと思う。

大人が議論して解決するほど、子どもも馬鹿じゃないし、そんなのはいたちごっこだ。それより大事なのはいじめられた時に命を絶たないためにはどうしたらいいかであって、そういうときにどうやって逃げ道を確保するかでもあるし、そこで行き詰まらないためにどうしたらいいかを考えることだと思う。

子どもが狭い世界に閉じ込められないようにするのが親と教育の仕事であって、親や先生や学校が、いじめてるやつが、いじめなんかしてても時間がもったいないなと思えるような、視野と経験を提供しろってなもんだ。

なにかにわくわくして眼をキラキラしてる人間はいじめもしないし、いじめられもしない。

子どもにそれを提供できるのは親であり、先生であり、周りにいる大人であり、その可能性を示すことを子育てといい、教育というのではないか。


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Title: じがむが。
2012.09.06

自分の意識、自我をどこに置くかということについて、自分の中ですっきりとしたことがある。

ここ数年、色々な人の活動をみていて、この年になると、それぞれの生活や、人生を取り巻く環境というのはおもしろいくらい違いがでてきていて、FBを見ていてもそうなんだけど、会社を起こす人、会社に勤める人、社会活動をする人、家族と日々を穏やかに暮らす人、それぞれが今の生活を大切にしていて、それぞれの想いをもって生きている。

そんな中で自分は、世界で活躍する人を見て、自分もがんばらねばと思ったり、家族を大事にする人をみて、自分もそうあらねばとおもったり、会社でがんばってる人を見て頭がさがるおもいがするわけです。

そして同時に誰かと自分を比べてそのギャップにモヤモヤしたり、自分の小ささを思い知らされたりするわけです。

そういうぐずぐずとした思いをするたびに、FBやめようかなとか逃げ出したくなったり、人は人だからとか思いながらも、自分はこんなにがんばってるんだとか、こんなことやってるんだぜと自己顕示したくなっている自分に嫌気がさしたりしながら悶々とした日々を過ごしたりすることもあるのだけど。

でもなんかふと思ったのだけど。

それは、自我をどこにおくかという問題なのだ。

自我を会社というものにおけば、会社でがんばる自分が自分を支るアイデンティティとして確立されて、自然と行動も言動もそういう風になっていく。同時になにかが二の次になる。

それが、社会活動をすることでも、家族でも、遊ぶことでも、どこにおいたとしても、どこかに自我を置くことで、その環境における自分を自分で支え、大義名分をみつけて、その場所にいる自分を肯定して、保身するようになる。

その固執が、なにかを二の次にする。

そして自分の二の次にしたものが、だれかの自我の置き場所であったりする。

家族と一緒にいて幸せにいることに自我をおいている人間が、社会活動に自我をおいている人を指して、まず自分の家族でしょといったり、会社に自我をおいている人が、趣味に自我をおいている人に、遊ぶ前にまずやることあるでしょとかいっても、それは堂々巡りなんだ。

結局これのぶつかりあいなんだと思う。生きるということは。

そうおもってさらに考えてみたのだけど。

仏教というのは、自我をどこにおくのだろうか。

一見その答えは「人間」なのではないかと思ったのだけど、それだと人間において都合のいいことはいいけど、動物や植物や地球はどうでもいいことになってしまうし、それよりもなにより生命至上主義になってしまう。

そうすると生きることが何よりも一番大切だというおかしなところに落ち込んでしまう。

たぶん、ここを勘違いしてる僧侶は多いと思う。

でもそうじゃなくて、きっと仏教でいうならば自我をおくべきはもう一つ上の場所なんだろうと思う。

もう一つ上というのを言葉で表現すると急に宗教じみた言葉でしか表現できなくなるのが嫌なのだけど、人間も動物も、植物も、もっとっもっと大きな部分に自我をおくということは、同時にそのはかりしれないサイズに自我は無我になってくるのだと思う。

究極のところの話なのだけど。

どこかに置くというよりも、どこにでもおいていいのだけど、それはどこか特定の場所ではなく、流動的にあるべきであるということなんだろうと思う。

それは芯をなくして、主体性をなくすということとは違う。

まだうまく言葉にできないのだけど、生きてると生かされているの感覚の差はここから生まれるのだと思う。

仏教においてこの生きてると生かされているの感覚的な違いは、些細なことのようでとても大きな事なのだと思う。


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Title: 想像力。
2012.09.06

最近テレビやニュースをみていて、あまりにも想像力の欠如したような事件が多くて悲しくなる。

いじめの問題然り、自殺の問題然り、虐待の問題然り、簡単に子どもをさらうような事件然り。

幼児教育に関わっていて最近思うのは、想像力というものは、感性が生み出すものだということ。

例えば、一輪の花を見て、その花がなんていう種類で、いつに咲く花で、なんて名前なのか、それが先にでてくるような子どもを育てては駄目だと思う。

自分が幼児教育に関わる中で、そこを一番大切にしたいと思っている。

花だけではなくて、風鈴の音をきいて心地いいとか、風を感じて気持ちがいいとか、汗をかいて遊ぶことで満たされることとか、土にふれてあたたかいとか、知識や情報だけでなく、理屈ではなく素直にわいてくる感情を大切にしてほしいし、そういう感情がわいてくるような経験をいかにたくさんさせてあげられるかということが、親であり、教育に関わることの使命だと思ってる。

そしてその感情、感性が、好奇心を生み、想像力を育てる。

幼児期にそういう経験を通して、育まれた感性というものがこれから生きていく上での心の根っこになるのではないかと思う。

根っこの弱い木は大きくは育たない。

感性が好奇心を生み、想像力をそだてる、想像力の中で人は思いやりを育んでいく。

人間が壁にぶつかってどうしょうもなくなっうたときに、肩の力を抜いて、背中を押してくれるのは、ふと吹いた風であったり、道に咲いている花であったり、時に知らない人と交わす些細な挨拶であったり、そんな些細なことではないかと思う。そしてそうやって救われる度に1人で生きているのではないという実感をもつことができるのではないかと思う。

その実感こそが、人が生きる上で一番大切なことだと思う。

そういう感性がしなやかで、しっかりとした心をつくる、その上にしか知識も経験ものっていかないのだ、心がおいついていないのに、そこになにかをのせようと思うと、なにかどこかで折れてしまうのではないかと思う。

最近のニュースをみていて、自分のしている仕事や関わっていることの責任や、やるべき事への意欲が改めて強くなったように感じる。








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Title: どうどうとどうどうめぐり。
2012.09.01

最近の自分の書いたものを読み返したり、言ってることややってることを改めて見直してみると。

なにかにとらわれたり、固執したり、捕まったりする類の感覚や状況に陥らないようになりたい。

ということに捕まっているように思えた。

捕まるまいと思えば、捕まらないということに捕まる。

このどうどうめぐりの鎖はどこかで断ちきれるのだろうか。

きっとたちきろうと思ったらそれももう堂々巡りのひとかけらなのだきっと。

非想非非想処ってか。

しばらくはこうやって、どうどうとどうどうめぐりするばい。


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Title: こきたの。
2012.09.01

もう返事の届かないメールを読み返していて。

その時には気づかなかったけど、今になってそこにのってるものや、そこに込められたものに気づかされてはっとすることもある。その言葉に、今ならはっきりと答えられるということがたくさんあって、そういう思いをする度に、人間というのはつくづくせつない生き物だと思う。


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