一切皆苦っていうのは慈悲に満ちたとても温かい表現だという風にも解釈できるのではないだろうか。苦が既存設定なのだから、それははじめから幸せの対極ではないという認識をもつことで、苦は雨が降ることのように変えようのないことなのだと気づかされる。
そこで傘を差すのか、濡れることを気にしないのか、もしくは晴れだけを待ち望み、家にこもるのか、どうありたいかを明確にしていくのが仏道であると思う。
仏陀の中にも苦はあったけど、苦しくはなかった。
というのはつまりは毎日土砂降りだった、けど全然鬱々としなかった。なぜなら雨がふっているだけだからのようなもので。
一切皆苦の「苦」は、自分にとって嫌なことを指す「苦」ではない。という部分を掘り下げていかないと、慈悲がみえてこないのかもな。むろん本願も。