Title: さっち。
2013.04.24

社会の役に立つことをするということと、自分の行動が結果社会の役に立つということは少し違う。

あくまで自分の中の仏教の感覚からいえば、社会は憂うものだと思うし、社会のものさし、世俗の物差しにあわせることで多くの苦しみは生まれてくる、その苦しみは社会からはずれる、もしくは物差しを持ち替えることでこそ薄れていくのではないかと思っている。そもそもが社会という通年自体がどれだけ曖昧で、不確かで、誰かにとって都合のいいものか。

ほしがりません勝つまではがいつのまにかこの大量消費社会になるくらい流動的だ。

それに気づくいうことが仏教の1つのあり方ではないかと思う。その思惑、枠組み、通念から少し距離をとる。別に反社会活動をするというわけではなく、精神的な部分で自由になる。とらわれない心をもつという意味で。社会の"こうあるべき"は必ずしも自分に幸せをもたらすわけではないと。

なので、はなから社会の為にというのは本来ある仏教の道理からはずれているように見えるし、社会の為になることは仏教において副産物としてあるのかもしれないけど、それは目的ではないはずだ。むしろ社会の為の自分というベクトルは苦しみを増やすのではないかと危惧してしまう。こうあれば幸せは、いつだってこうなければ幸せではないを生み出す。

貧しいものが救われる対象で、富めるものは後回しだという社会の通念、弱きものを強きものが守るのが社会の通念。それははたして本当にそうか?富めるもの強きものは本当に貧しきものや弱きものよりも幸せか?そう投げかけること、そこに疑問を持つこと、そういう視点で物事を考えることはとても大事な事だと思う。

インドにいくと、街の中の牛たちはガリガリでどろどろ。骨と皮で糞まみれ。それをみて多くの日本人にはかわいそうだな、憐れだなという感情がわき起こるかも知れない。でもそれは自分の知っている牛との違いからそう思うのだと思う。

自分の知っている牛はまるっとふとって、のんびりと牧草を食んでいる姿だから、インドの牛がかわいそうに見えるのかも知れない。でもその日本の牛は、牛乳のために、食肉の為に品種改良され、よいサシをいれるためにストレスフルにされているだけなのかもしれない。本来牛は痩せているのだ。

どちらが幸せかなんていうのは自分の世界との相対でしかない。

みんながみんなではないけれど、自分の目には、社会貢献、社会活動をしている人の中には少なからず、そのインドの牛は救うべきものだと決めつけている人がいるように見える。ましてや助けるのか助けないのか?と他者に二択を迫るようなやり方は間違っていると思う。僧侶ならなおさら。

何度も言うがみんながみんなではないけれど。

それに付随して考えてみるに、仏教にとっては社会からイイネ!されないほうがきっと健全なのだ。そして仏教はつねにマイノリティであるべきなのかもしれない。蟻の巣の法則のように。

別に反社会派なわけではないが、かといって社会派なわけでもない。この立ち位置を中道ということでとらえるのは自己肯定しすぎだろうか。

なむさん。



| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 無糖。
2013.04.16

中学高校の同級生とばか騒ぎをして、いろいろなものに気づかされて、心がほっこりした矢先、為替で大損こいて、夜眠るときに全てが夢ならいいのにと思いながら眠りにつくのだけど、無常にも訪れたいつもの朝に、子どもからたんぽぽの花をもらう。絶望も希望もふすまの敷居をまたぐようにやってくる。それはとても怖いことなのだけど、とても幸せなことでもある。生きてるってこういうことだ。

きっと過去を褒められることよりも、未来を期待されることよりも、今を認めてもらえることこそが生きていく上で一番力になる。「今」とどう向き合うか、「今」をどれだけ意識するか、これはたぶん自分の人生においてとても大きな、そして大切な命題だ。

それに付随して、例えば、晴れていても雨が降ってもそこそこ楽しいことよりも、雨が降ると残念だけど、晴れたらとびきり楽しいことの方が、きっと心には栄養になる気がする。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 転ばぬ。
2013.04.09

子どもというのは、何回同じ事を注意しても同じ事を繰り返すし、何度も同じ失敗を繰り返す。今言ったことも3歩歩いたら忘れてしまう。ニワトリもびっくり。

子どもたちに小言をいいながら気づかされたのだけど、自分の注意することは、いつもまだきてない未来の為の事ばかりなのだ。いつか大人になったときにそんな食べ方では恥ずかしいよ。後ろ前の服をきてたら気づいた人に笑われるよ、目を見て歩いていないと電柱にぶつかるよ。

どれも先の心配していう小言であって、それはいわば転ばぬ先の杖。自分は大人だから、いままでの経験の中で、おそらくそうなるであろう予測をして、そうならないようにと杖をだしているのだけど、子どもからしたら、今目の前にあることや、この世界は新鮮な刺激ばかりで、まだきてないことなんかに心を巡らせてる暇なんてないのかもしれない。

だからなにをしてもいいというわけではないのだけど、この大人と子どもの視点の深度の違いの中には、それぞれメリットとデメリットがある。

大人になると、数時間先、数日先、数年先のことを考えるようになる、実際最近友人と話していても、何年後かの自分を想定して、結婚するなり、家を買うなり、引っ越しをするなり、転職をするなり、自分の身の置き方を考えながら今を行動しているし、一杯飲んでいたってそんな話題で持ちきりになることも少なくない。

無論30も超えれば、刹那に生きるなんてことにあこがれはするものの、一か八かで生きることが出来る人なんて一握りで、先のことを考えて行動しないと、困る事も失うものもたくさんある。

でも最近思うのは、苦しみや悩みのほとんどは、そのまだ来てない先の自分の身の置き方や、ありもしない自分のあるべき姿のことだったり、もしくはそこから生まれてくるギャップによるものばかりだ。先を見据えた目のスパンが長くなればなるほど、苦しみや苦悩の種もふえていくように感じる。

それに対して子どもの視点の深度はとても浅い。どんなに長く見積もっても明日か、明後日、来週のことまで考えて行動できればりっぱなもんだと思う。その分今をしっかり受け止めて、今の幸せ、今の楽しさや、今の心地よさを見つけて、感じる心は大人の何十杯も敏感だし上手だと思う。

そしてそのメリットがあるからこそ、小さな身体で、この社会の荒波にこぎ出すことが出来るのだと思う。経験や知識がないまま航海に出ることは大人の思うよりもずっとエネルギーを使うし心も消耗する。だからこそ視点を浅く、今のすばらしさを感じる感受性が豊かなのだと思う。なによりも世界が眼にキラキラとうつらなければ足をだせないのだ。

この大人と子どもの視点の深さにはそれぞれにメリットとデメリットがあって、社会でいきていく以上、いつまでも子どもの視点のままでもいられない。でも大人の視点で物事を考えることの方が優れているかといえばそうでもない。

子どもの心がしっかりと育つ前から、はやくに先を先を考えて、数年先の事を見据えるような視線をみにつけてしまうと、それはぱっとみれば、良くできた優等生なのかも知れないが、それでは見落としてしまうことがたくさんあることを忘れてはいけないし、先を見据えたスパンが長くなればなるほど抱える苦しみが増えているのだということを忘れてはいけないのだと思う。いつだって苦しみや苦悩は、過ぎ去った過去かまだ来ていない未来からくるのだ。

いつかの幸せの為に今の幸せを犠牲にしないというのは教育に関わるすべてにおいて忘れていけないことで、この瞬間から学べることはたくさんあるということをわからないまま未来を見据えることだけを教えるのは教育ではないと思う。

子どもは子どもでいられるだけ子どもでいさせてあげたいものだ。いつかその時が来れば必ず未来を見据えなければ生きていけなくなるのだし、あまり急いで大人にならなくていいし、大人の仕事は子どもに世界をキラキラと輝かせて見せることなのかも知れない。

なんてことを小言をいいながら考える自分が、すごく大人になってしまったような気がして、すこし悲しくなったりもするのです。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: ぽーら。
2013.04.06


つまりは、世間とは違う価値観とか、常識とは違う視点で物事を捉える目を養うということが仏教のいうところであって、その結果その視点と価値観をもってすれば、幸せとは何か苦しみとは何かが自然と、そして自ずとわかるってくる、それがわかってくると、それをなんとかするにはまずどこに手をつけなければいけないかわかってくるという流れだろうか。



| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 空喰う。
2013.04.06

備忘の為に。

仏教というのは、空を知ること、だから深めていけば深めていくほどに仏教すらも空なのだ。

僧侶という呼び方も、教典も。そこにあるのは、ただの空を知る道だということにつきるのかもしれない。

空とは、すべてがすべて絡み合って、支え合って、こんがらがって、一見ぐちゃぐちゃにみえるけど、よくみりゃみんなバラバラで、何一つ実体なんかないということだ。

言葉も匂いも、想いも願いも、すべてがすべて、この自分の脳ミソが自分に絡みついている様々な要因から生み出した、自分の色の自分にしか見えない、自分だけの世界なのだ。

そんなものははなからうそっぱちだ。でもみんな自分の見えてる世界だけはうそぱちじゃないとおもってるだけのことなのだ。

自分はいままで、仏教があれば幸せになれると思っていたし、少なくとも苦しみが軽くなると思ってたし、実際に何度も救われてきたのだけど。でもよくよく考えれば、救われたのは、その方法が自分の中で意識的に、もしくは無意識的に、実践されたからであって決して仏教という概念に救われたのではないし、阿弥陀によってでもない。でも仏教という概念と阿弥陀がいなければそこには自力では絶対に辿り着けないというパラドックスこそが仏教のミソなのだ。

あえて言うのであれば、仏教では人は救えないし、ましてや僧侶なんて呼び名は大切な事を曇らせ真実から遠ざかる要因だ。

僧侶であればこそ僧侶を離れ、仏教を実践するからこそ仏教を離れることが出来なければいけないし、この「離れる」という感覚を実感として体験していくことが、仏教を深めていく過程における1つの目安なのかも知れない。

僧侶が仏教を広めて人を救うなんて言うのは、私は仏教のことがなんにもわかってませんと言っているのと同じなんだきっと。

それともう1つ。目の前にいるのが誰であれ本当はフラットなのだ。その人がいくつであれなにものであれ。人間が人間である以上はフラットなのだ。みんな飯食ってうんこして、セックスして、死んでいくだけ。その中でおいしいものを食べる自分、隠れてうんこする自分、セックスする自分にきれいに理由付けをして、自分自身、人間自身を少し高い所へ押し上げることで、限られた時間に生きていることをごまかすのだ。

そしてごまかしが生み出す歪みこそを苦悩と呼ぶのだ。

まえにまえに。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: いつか。
2013.04.06

いつかね、といって思ったのだけど。

昔、いつか、というのは、すごく先のまだまだ来ることのない遠い未来のことを指していたのだけど。それはきっと自分にはまだまだ先にたくさん時間があって、当たり前に大人になって、当たり前に年をとることを信じて疑わなかったからなんだろうと思う。

最近、いつかという言葉のもつ時間の尺の長さが昔より短くなったというか、いつかが昔よりも近くなったような気がする。

いつかは、本当はいつかじゃないのだ。

いつかなんてものは、はじめからないんだ。

こういうのをきっと空というんだ。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 欠ける。
2013.04.06


ずっと続けられるものというのは、続けていないと気持ちの悪くなるものだ。

続けていないと気持ちが悪くなるということは、それが自分のなかの欠けている部分を満たすからだ。

人は欠けているこそ、なにかをずっと想い続けられるのだ。

だから、欠けていることはすばらしいことだと思う。




| コメントを書く (0) | Trackback (0)