Title: 旅
2013.06.16

弾丸ツアーでアジアのどこかに旅にでる夢をみた。

思い立って飛行機に飛び乗って、深夜の空港につくとそこからすぐに車を乗り継いでどこかの遺跡に向かった。とてもリアルな夢で、目がさめたときにバスで揺られて痛かった腰がまだ痛かったし、ふわっとした高揚感がお腹の底でくすぶっていた。

みたことのない景色がみたいとか、したことないことをしたいとか、まだまだ世界には知らないことがたくさんあるとか。そういう気持ちはいつだって心のどこかにあって、ほおっておけばマンネリ化する日常の中にいつだってそれを求めているのかもしれない。

昔はそれを外に外に求めていたのだけど、最近では自分が旅をしているときとしていないときの心の置き方の違いがよくわかったし、旅はどこにいてもできることもよくわかった。

「人生は旅である」という格言を耳にしたことがあるが、人生は旅だというのは字面だけにその深さがあるのではないのだと思う、人生を旅だというには、まず旅がなんたるかを知らなければならないのだと思うし、そもそも旅がなにをもたらすものなのかをしらなければならないのだと思う。

旅において目的地は1つの手段で、手段に至る過程に自分が何を得て、どう動機付けをして足をだすかということは、本当に人生と似ていると思う。

雨を、忌むも、詫びるも、尊ぶも、同じ心から繰り出される。

*

人と関わる時に大事なのは「素をむき出す作業」だなと思った。

一枚一枚皮をむいていくように、言葉と姿勢と行動をつかって、相手の表皮をむいていく、簡単にむけるときもあればむけないときもある。それをむくのがうまい人が、つまりは人との距離の詰め方の得意な人なのだろうと思う。

最近は会話にはいくつか段階と種類かあるように感じていて、その段階のギャップをどのタイミングで、どの言葉を使って超えるかということを考えたり、相手の使う言葉や姿勢の変化を感じ取ることでコミュニケーションは格段に面白くなるし、自分自身の中でもコミュニケーションが楽しみとして確立されてきたように思う。

意識しないで言葉を使うのであれば、意識して使う方が何倍も楽しめる。楽しまなければなにもうまくはならないと思ってる。

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この間とある場所のエレベーターで乗り合わせた貴婦人達の会話。

「先日○○さん、車をぽんとプレゼントしてくれたのよ~」

「すごいわね、私はこの間旦那に銀座に連れて行かれてバーキンを現金で買ってもらったわ」

「すごいわね~うちなんか息子が海外に留学してるからお金がかかってしかたがないわ~」

それを聞いていてなにか気持ちが悪いというか違和感が残った。エレベーターを降りてから、どうして自分の中でその会話に違和感を感じるのか、どうしてなにか嫌な気分がするのかを考えた。

朧気ながら、その理由はきっと、会話に顔が見えないからだろうと思った。例えるなら、顔を両手で覆い隠しているのに、それでも自分はこんな顔をしているのよと、CGで作られた自分の顔のパネルを見せ合っているような類の違和感なのだと思う。

情報の伝達というのであれば、それが会話であれ文章であれ顔は見えなくてもいいし、むしろ顔を見せない方が効率はいい、しかし会話の種類がお互いを知ることであったり、例えそれが雑談なのだとしても、たわいもなければたわいもないほどに、そこに顔を見せなければ会話は本来の力を発揮できていないし、そこに違和感しか残さないし、その違和感は疲れを生むし、その疲れは次へのコミュニケーションにつながらない。

世間には顔の見えない言葉や行動や姿勢があふれていて、むしろ今やそれがあたりまえなんだという慢性的な思い込みも蔓延している。それは世の中にある問題の切っ先なのかも知れない。

閉塞感や孤独感というのは、人とうまく繋がれないことから生まれるのだと思っている。人が人とうまく繋がれない要因の1つは、世の中が顔が見えないことを問題視するどころか、それを助長していくような科学や、生活の進歩を加速化させているからだと思う。

その加速にブレーキをかけたり、そこに反比例させる力で行動をしていくのは、これから自分が大切にしていかなければいけないことの1つだと思う。

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1人の人が体験できる人生は一種類だけ。

当たり前なのだけど、先日ふと自分が成し遂げられる人生は1つだけなのだというごく当たり前のことが腑に落ちた。

自分は変身もできないし、悪の組織と闘うこともない。世界の為に、社会の為に身を粉にする気もない。では残りわずかな時間で、自分の1つの人生を芯のある形で、楽しんで終えるためにしなければならないことはなにか、何を得て、何を捨て、何を残していくのか。

きっと昔の自分であれば、得るために何をして、いらないものを選別して切り捨てて、そして残したいものから逆算で今の行動を決めていたかも知れないが、今思うのは、どこにいても得れるし、なにも捨てるものはないし、その結果に残るものが残すべきものなのだと思えるようになったことだ。

それがいいのか悪いのかはまだわからない。でも昔よりもずっと生きやすい。

*

湯圧のすさまじいシャワーで頭の先から湯を浴びる。

なにか自分の中の悪いものまで一緒にこそがれて、流されていくような錯覚を覚える瞬間の、逃避と自己肯定の入り交じったような生々しい感じが生きているということなんだろうと思う。



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Title: 鐘。
2013.06.10

わからないことがわかると、また1つわからないことが増える。この連鎖はいつかどこかで終わるのだろうかと思っていたのだけど、最近わかったのは、旅は歩き続けているうちは終わらないし、歩くのをやめたときに終わるだけなのだ。それ以上も以下もない。

そしても1つわかったのは、歩き続けている限りは見たことのない景色を見ることは出来るのは間違いないのだけど、歩くのをやめたら新しい景色が見えないかといえばそうでもないということ。

歩くのをやめたときに見える景色は、歩くのをやめたときにしか見えないものでもある。

世界には1つも0か1で証明できるものはない。

諸行無常であるこの現実はとても慈悲に満ちていると思う。



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Title: kon.
2013.06.05

先が見えないと不安だというが、そもそも見えてると思ってる先なんてなんの根拠もない妄想なのだし、先が見えないからこそ、しっかりに今に目を向けることができるのだし、今に目を向けないから不安がいつまでたってもなくならないのだろうか。

先のことばかりみてる人の言葉なんか信じない方がいい。十中八九その通りにならない。

つくづく今の話をしっかりできる人って思ってるほど多くないのだな、まだ来てない未来の話にわくわくすることもあるのだけど、できることなら今の話をわくわく話せるような人になりたい。



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Title: 動機付け
2013.06.05

ここ最近感じていること。

改めて再認識したのだけど、やはり人間がなにか行動するときの理由、動機付けというのは、自分の中の欠損した部分を埋める為なのだと思う。もしかしたらとかではなく、最近は確信に近くそう思うようになった。

自分のしてる活動、人に対する姿勢、使う言葉も、誰かを嫌いになるのも、好きになるのも、誰かを批判したくなるのも、わくわくするのも、目を背けたくなるのも、もっといえば、原発に反対するのも、歌を歌うのも、炊き出しをするのも、サッカーをみて興奮するのも、ツイッターでつぶやくことも、FBに写真を載せることも。必ず自分の中にある何かを満たすか、もしくは守る為なのだと思う。

その何かというのは、自分自身の存在であって、存在とは何かといえば自分を自分たらしめる概念だ。

自分の思う自分、友達の思う自分、他人の思う自分、家族の思う自分、自分というものは本来概念に過ぎないし、目に見えないし、本当はどこにあるかもわからないようなものなのだけど、そのどこにあるかもわからないようなものに、時に揺さぶられ、振り回されて、苦悩して、幸福を感じたりする。

そのなんだかわからないけど、間違いなくそこにある自分という概念を、ある程度の大きさの範囲にとどめておくために、つねに自己肯定をしてとどめておかないと不安になるのが既存設定なので、つまりは人間はつねに自己肯定されたい生き物だと断言してもいい。

覚りでも開いていない限り、娑婆に生きてる人は僧侶だろうと在家だろうとみんな自分のことを認められたくてしかたがない。表面的にそれを否定したとしても、その否定すらも自分の中にあるなにかを満たすか守るための行動なのだと思う。

これは思い込みでもなんでもない事実だと思う。

そしてその自己肯定をするという作業はとても厄介で、それは他者との比較によってしかできないので、つねに人と自分を見比べているし、人からの評価を自分の存在価値として結びつけたりする。

自分はその大前提を信じているので、自分の中では「誰かの為に」とか「何かの為に」という動機付けがあまり好きではない。きっと表面的な部分では、誰かの為や何かの為に見えるようなことでも、本質はそうではないと思ってる。本質はそうでないのに、そう思い込むことで、そこに生まれるギャップは時に誰かを傷つけるし、自分自身の足をひっぱるのだとも思ってる。

それを自分で認識している人としていない人がいたら、認識している人の言葉のほうを信用しているし、自分の為になにかをしている人と、誰かの為になにかをしている人がいたら、自分の為に何かをしている人を信用する。

それはきっと自分はきっとここ一番で人間自体を信用してないからだと思う。なんで信用できないかといえば、それはきっと自分自身がろくでもない人間だからだきっと。

なもなも。

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