Title: たふる。
2013.08.30

歳をとるということは、決して成熟することではないし、決して立派なものになるようなものでもない。

未熟なままの自分を肯定することであるし、そこにこそ自分があると自分自身を認められることなのかもしれない。

歳をとるというのは、積み重ねた人生と経験の混沌が身体一つの中でかろうじて形を保っているような状態のようなものかもしれないと。

堪る限りにたたかっている人をみて思ったのです。




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Title: いわんや。
2013.08.21

どんなに着飾っても、取り繕っても、すました顔でも、必ずどこかにちらっと我執とか我欲が綻んできて、実はそれがいつもどこかでくすぶっているということが人間の最大のメリットであり最大のデメリットなんだろうな。まさに一如。

仏教はそのぽろりと綻んだ我執とか、我欲とかに遠慮なく、そして重箱の隅をほじくり返す並につっこんできて、ほじくりだした挙げ句、それを目の前にぶら下げて突きつけてくる。目を背けようものならあの手このてで顔を向けさせるとか。

まるでどS。

だからやはりある意味うっかり踏み込むには危険な世界であるのかも知れない。

そこに癒しを感じられるようになるとか、救いをみいだせるようになるには、ある種玄人的な感覚の変化が伴ってこなければいけなくて、五反田に例えるなら、スタンプカード1枚は一杯にするくらいには向き合わなければいけないのかもしれない。

変態を感覚的なマイノリティと定義するのであれば、いわんや僧侶もそこにはいらねばならないのかもしれない。

私は一体朝からなにをいってるのでしょうか。

今日から園には子どもたちがやってきます。



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Title: 生楽。
2013.08.18

生活を楽しむということはとても大切な事なのではないかと感じている。そこでの楽しみは、人生における彩りであり、幅でもあり、余力でもあり、地力でもあるのだと思う。

生活と楽しみを切り離して考えるのではなく、生活自体を楽しむという姿勢は簡単なようでとても難しくセンスの試されることだと思う。こと現代においては、ただ時間を過ごすということ、時間をつぶすということが難しい事ではない、テレビを眺めてればいいし、スマホをいじっていればいい、ゲームをしていればいい、そうやって1日の中の何時間を簡単に消費することが出来るし、それはとても合理的でメリットもたくさんある。それに対して昔の人は合理的に時間をつぶす術が今よりも極端に少なかったっからこそ、いまよりもずっといかにして時間を過ごすかということを考えるのに時間を費やしてきたのかもしれない。

その中で、ただ単に時間を消耗するのではなく、時間そのものを楽しみに変えることで、時間という概念を、「つぶすもの」「消費するもの」から、一つ価値を押し上げたのだと思う。それができるのが日本人の独自性、素晴らしい民族性なのだと思う。こういう意識のコンバージョンができたからこそ、「風流」や「わびさび」なんていう概念が出来たのではないかと思う。

「時間をつぶす」「消費する」ときに、それを方法論で解決するか、抜本的なコンバージョンをするかということはとても大事な事で、これは仏教における意識の変革にも似ている。

でも言いたいのはそんな難しい話ではなくて、生活自体を楽しめるという心持ちは、とても大事な事で、その心持ちを維持すると言うことは心の安穏にもすごく結びついていて、ありのままをありのまま受け止めるという仏教的な心持ちにも通じていて、現代においてはそれが著しく薄れているのだと感じるわけです。

部屋に風鈴一つぶらさげて、風の通り道を捜したり、その音に、目には見えないはずの夏を捕まえるという作業するだけで、なにかくさくさした気持ちが晴れるということもあるよということがいいたいわけです。そしてそういう感性をいつも生活の中にぶらさげておけるくらいの余裕をもっていたいなと。


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Title: 備忘。
2013.08.11

大人になるというのは欲を満たす方法をしるということなのかもな。欲を満たす方法を知れば知るほどずぶずぶとぬかるみにはまっていく。子どもはその方法を知らないから時々かんしゃく起こすけど、大人より苦しみも浅い。

欲を満たす方法は最小限で十分なのに、社会も世界もそれがお金に替わるのであれば次から次にそれがスタンダードであるかのように嘯いてくる。そこに子どももどんどん巻き込まれていく。

巻き込まれて巻き込まれて大人になっていく。

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宗教っていうのは、自分都合にへばりついた狭い視点を、自分から引きはがして俯瞰的にさせてくれるもので、信仰とはつまりはその視点を得ることのメリットを認めて、いつもその視点をもっていたいという姿勢のあらわれでもあるのだろうな。

自分の事しか見えてない時と俯瞰的に物事が見えている時と、どちらがしなやかで強いかは一目瞭然で、信仰を持つことの強さは、拳しか見えていなかったらパンチは避ける事ができないが相手の身体の動きを俯瞰的にみる事ができて初めて繰り出される拳に反応することができるようになるボクサーにも似てる

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いきなり目の前に花を一輪さしだされたらキョトンとしてしまう。そのキョトンとはこの花の意図はなにか、この花がどうしたというのだろうか、この花をどうしろというのかという思惑だらけのキョトンであって、そのキョトンがそのまま苦しみの根源なのだろうな。

ただきれいだね。その一言が大人になればなるほどでなくなる。やっぱり子どもは仏かね。

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宗派という道しるべがあるからこそ、芯に近づくことが出来るのだけど、往々にして宗派があることで本来の芯を見失ってしまうということがある。宗派も宗祖も仏教の何たるかを必死に伝えようとしている。大乗小乗の区別もしかり。

釈尊が何を説き宗祖がそこに何を聞いたのかそれを自らで紐解き、尋ねる姿勢はなによりも大切だと思う。

べつにいつ死んだってかまわないとかいうのは何か違うなと思ってしまうのだけど、でも今日もし命を落としたとしてもそれはしかたないと思えることにはとても共感できるのよ。

死ぬにはもってこいな今日をどれだけ生きられるか。

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