Title: きけんてば。
2013.09.21

バイクはあぶないあぶない言われるのだけどね。そうなのよ。ほんと危ないのです。実際怖いなぁとか思うのです。全然安全な乗り物ではないですよ。

バイクに乗ってる人はみんなそう思ってるはずなのですよ。

でもね、なんで尾崎は、自動車や自転車ではなく、バイクを盗んで走り出したのかということなんですよ。言いたいのは。

旅も同じなんだよな。この話。

沢木耕太郎はなんでまた深夜に特急になんか飛び乗るのかと。

そういうことなんですよ。言いたいのは。


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Title: カラー。
2013.09.18

やっぱ人にはカラーみたいのがあって、友達とか友達の友達とか、コミュニティを構成する人間は似通ったカラーを纏ってて、反対色に対する嫌悪感も含めて、同じ系統であることは多いのだと思う。

たまにそのカラーが合っていないコミュニティにぽこっと座ってる人とかがいて、往々にしてその人の抱える悩みは同じような傾向であることが多い。

たとえば、職場に人をいれるときには、その人が何をしてきたかとか、なにができるかとか、そんなことよりも、なんだろう、そのカラーが何色なのかがとても大事なのだと思う。ざっくりした話だが、最近そのカラーが昔よりも細かく見えるようになってきた気がする。

そしてその色の混ざり合いもまた楽しめるようになってきたようにも思う。その混ざり合いが絶妙にいい色を醸し出したときに、その場の空気というのがいいものになるのだろうな。

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Title: 拈華微笑。
2013.09.11

志村けんのだいじょぶだぁをみながら、子どもが大爆笑している。抱腹絶倒とはまさにこの状態をいうのだろうなというくらいに転げ回っている。

思えば自分もそのくらいの頃、カトちゃんケンちゃんやバカ殿、ドリフをみては抱腹絶倒していたのだけど、今改めて、ドリフやバカ殿をみて、面白いことは面白いのだけど、こんなに床を転げ回るほどに笑えないし、むしろ悲しいかなこれの何がこんなにツボにはまるのだろうかとか思ってしまうこともある。

それは自分が大人になったということで片付けてしまうことができるのだけど、その変化は、一体いままで自分が心から笑えていた感性をどこにやってしまったのだろうか。そしてそこで失ってしまったものは一体何なんだろうか。

そんなことを考えていたら、子どもの感性に直接響く笑いを、意図として今も変わらず作り続ける志村けんは本当にすごい人なのだなと思った。目に見えないその感性をさびさせることなく、意識して維持するだけでもきっと常人には想像できないくらいの努力をしているに違いないと。

そしてその感覚は子どもと関わる時にはとても大切なことのように感じる。

昔、園で子どもが自分の目の前におもむろに花を差し出してきたことがあった。

その時、自分は、ありがとう、くれるの?と聞いたら、その子どもは首を横に振った。そしてまたおもむろに自分のほうに花を差し出してくる。

はて、くれるのではないとしたら何なんだろうか、一体どうしたいのだろうか。なにか袋にいれて持ち帰りたいのだろうかなんてことを考えていたら、その子どもは走り去ってしまった。

その後、その子どもは近くにいた友達に、同じように花を差し出した。するとその差し出された子どもは一言、きれいだね、といった。そうしたら花を差し出した子どもは嬉しそうに園庭にかけだしていった。

その出来事をふと思い出したのです。

志村けんを笑えなくなったことと、きれいだねの一言が即座に出てこなかったことはきっとどこかで繋がっているのだと思う。そしてそれがきっと大人になる過程でどこかに置き忘れてしまった感覚であり、感性なのだろうと思う。

その感性や感覚が何なのかは、朧気すぎるのだけど、でもきっとそれは人間を根底で支える類のものではないかと思ってる。


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Title: ほいく。
2013.09.05

唐突に話をはじめるけれど。

子どもと関わる仕事をしていて感じる事。

保育という仕事において、またそれは子育てをする上でも一番大切なことは、見えないものをどれだけ読み取るか。見えない部分をどれだけ慮ることができるか。そのアンテナをはりめぐらせて、研ぎすましておくことだと思ってる。

長いこと現場にいると、それがいかに大切な事か、それがいかに子どもに影響を及ぼすのかということを痛感する。

例えば、朝子どもが園に登園してきて、顔色を見て、なにかいつもと違うな、調子が悪いのかな、それとも朝でがけに怒られたのかな、それともなにか友達と喧嘩したのかなと、想いを巡らせてその子をみるだけで、意識しなければ見えなかったはずのものが見えてくる。それが見えてはじめて「見守る」ということもできるのだ。

このアンテナの広さと精度はそのまま保育者のレベルであり、質なのだと思う。

子どもは自分の想いを大人のように言葉にしてうまく表現することもできないし、受け流すこともできない。そういう時は無意識のうちにたくさんのサインを出している。その小さなサインを見落とさないこと、そのサインは大人の思う以上に大切であること、これは子どもと関わる上でつねに頭に入れておかなければいけないことなのだと思う。

なんでそういうこと言うのか。なんでそういうことするのか。なんで言うことをきかないのか。

それもまたサイン、それが子どもの心の何を表しているのか、1度立ち止まって考えると、その時には見えてこなかったことが見えてくるかも知れない。

それを汲み取ることができる能力を磨いて、備えているからこそ、親は幼稚園に安心して子どもを預けてくれるのだと思うし、見えないものを見る訓練をしっかりと積んでいるからこそ先生というのは一目おかれる存在なのではないかと思う。

もちろん、目に見えることにしっかりと対処する能力も大切なのだけど、それと同じくらい、目に見えない部分にどれだけ自分が作用できるかと言うこと考えることは大切な事だ。

これは保育だけではないのだと思う。

昔、火を消すのがうまいだけの消防士はまだ2流だという話を聞いたことがある。火をださないために自分は何をしたらいいのか、むしろ消防士なんか1年に1度も出動しないにこしたことはないのだ、いうなれば、たくさん出動するということは、それだけ日々の消防に意識ができていないとも考えられるのだよという話を聞いたことがある。

僧侶も然り、道に迷って苦しんで宗教を頼らなくてもいいように、身近な人達に普段から作用しておくこともまた大事な事なのかも知れない。

どんな仕事をしていても、ある程度の経験を積めば、目にはうつらない部分に自分の力をいかに作用させるか考えるということが必要になるし、超えなければならない壁のように感じる。





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