Title: いちぬけ。
2013.10.24

子どもたちがよくいう「いち抜けた」って実はものすごい言葉だよな。大人になると諸々、本当に諸々が作用して色々なものから「いち抜け」できなくて苦しみが振ってくるのだな。一体いくつになったら「いち抜け」できるのだろうか。はたまたいくつになってもできやしないのか。

しかしながら本当に「いち抜け」できない理由は決して外的なものではなくて、どこまでいっても内側からくるものなんだろな。

つまるところ覚りって「いち抜けた」だもんな。



| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: かみさま。
2013.10.20

1から10を数えるときに、階段を昇るように数えるのではなく、ぐるっと丸く考えると1と10は隣り合わせになるわけで、1から10を数えるときに、いつでも1の隣は10でありたいと思っていて。

真実はきっとそこにあると信じていたりする。

ごちゃごちゃもちゃもちゃした先には、きっと初めて数を数えるときのような気持ちがあるんだきっと。

ある人がいったそうだ。

台風という言葉がなかったとき人はこの現象を神様と結びつけていたのだろうか、神様という言葉がなかったときにひとはひとつひとつの現象をどのように受け止めていたのだろうか、物事や現象に言葉を介さないで向き合いたい。

この感性のひとかけらでも自分の中に落とし込みたいし、それが決して瞬間的なものでなく、確実に自分の中に落ち込むような生き方をしていきたいとそう思って生きているのです。

しかしひさびさにずかんとくる言葉だ。






| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: ふらかん。
2013.10.20

文字を紡ぐのに必要なのは、感情のぶれとか、迷いとか、葛藤とかそういう類のもので、つまりはそれは安穏だと思い込んでいる足下がぐらりとくる経験なのだ。

幸せも、安穏も、安心も、安全も、いつだってぐらりと揺らぎかねないものの上にあるのに、それを忘れて自力で得られる幸せの多くは手に出来ているなんて思えるようなくそったれな自分に冷や水浴びせて、金槌で頭をぶったたいてくれるものが必要なのだ。

旅もきっとそうなんだ。

旅をする理由は旅人の数だけあるのだと思うけど、自分の場合は、いつもどこかにいきたいといいながらも、毎度毎度、やっぱり家が一番だと思うし、帰ってきて思うのは、これでもうしばらく旅に出なくてもいいのだということだ。

それはどこからくるものなのかといえば、きっと安穏としすぎて、霞をくって生きているような自分に対するアンチテーゼでもあるし、そこに甘んじている自分への喝なのかもしれない。

青春ごっこを今も 続けながら旅の途中
ヘッドライトの光は 手前しか照らさない
真暗な道を走る 胸を高ぶらせ走る
目的地はないんだ 帰り道も忘れたよ

こんな夜にはフラカンだ。

生きていてよかった。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: ペンタトニック。
2013.10.02

現実と非現実のちょうど境目のあたりで思いついたことは、イロがあって柔軟で、とてもいいあんばいだったりする。脳は何かを意識すると、何かを遮断するのかもしれない。そうであるならばできるだけ何かを遮断しないでものを考えられるようになりたい。

先に進もうと思った時に。

それがなにであれ、話すことであれ、考えることであれ、人と関わることであれ、体重を落とすことであれ、絵を描くことであれ。もう一つ前へ、もう一つ上へ押し上げるときには、ものごとを分解する能力が必要になってくるのだと思う。

なにかをバラバラにして、もう一度組み立てるには、頭の色んなところを使わなければならない。抜いたネジを忘れずに同じ所に戻す慎重さも、時に大胆に大胆にカバーをはずさねばならないときもある。

いかんせんバラバラにしなければ、どこに油が足りていないのか、どこに汚れが溜まっているのか、どこがかみ合っていないのかわからない。

きれいにバラスことは、あたらしいものを組み直すこと。

5音のペンタトニックみたいに。



| コメントを書く (0) | Trackback (0)