Title: 108つ。
2013.11.22

「凡夫」を考えるときに、動物として生命を維持し、種の保存のために、食欲、性欲、睡眠欲があるということ、つまりは生存本能を持ちうるということと、生命又は精神維持機能としての脳の働きを正しく理解するということは避けてとおれない。

思うに、仏教における修行っていうのは、動物的な本能と、生命精神維持機能としての脳の働きを、極限まで余計な部分をそぎおとしていく過程なのではないだろうか。その余計な部分が大きければ大きいほど苦しみに変わりやすいということなのではないかと思う。

それでも人が人である以上、削ぎ落としきれない部分というのが、数%くらいあってその数%とどうつきあっていくのかということの中に仏教の本質があるように思う。真宗においていえば、そのどうにも削り落とせない数パーセントを、無条件に救いとるのがつまりは阿弥陀であり、お念仏になるのだろう。

しかしながらそこで一つ問題になるのは、その数パーセントが3%なのか、10%なのか、50%なのかに差異があるということで、その差がつまりは凡夫への認識の差異を生むだろう。

3%まで無駄を省いた人が、10%省いた人へまだ無駄があると指摘して、10%まで無駄を省いた人が、30%にそれは本願ぼこりだと指摘してしまうのが人間であるのだけど、その数パーセントの差をどう許容していくか、その指針はつまりは自信教人信にあたるのではないだろうか。

それはシートベルトをしないで、スピード違反を注意するようなもので、阿弥陀の前にはどちらも救われるしかない存在だし、差異はないし、その差異を生み出す心こそを聖人は悪人正機と言う言葉で戒められたのかもしれない。

*

釈尊にとって苦行は覚りにいたる道ではなかったといいきれるかというとそうではなくて、苦行の前と後で、思考に変化がないわけがない、むしろ苦行をしてここに覚りはないと感じる事こそも一つのプロセスで、それがあってこその寂静だったのではないかと思う。

そんなことを考えていたら、ふと、苦行を終えてスジャータに乳粥を与えられた釈尊と、比叡山を下りられて法然上人にお念仏を与えられた親鸞聖人に通づるところはあるまいか・・・いやこじつけか。




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Title: ダライラマ14世。
2013.11.20

ダライラマ猊下の話を聞いて感じたことを忘れないために。

いつお話を聞いても、現代の僧侶や僧侶だけでなく、答えをつけかねるような問題や事例に対して、仏教に基づいた明確な答えを示される姿をみていて、本当に仏教を実践して深めていくと答えはとてもシンプルなところに還っていくのだなと感じた。

例えば、第三者として、質問者と猊下という構図をみていると、質問に対する答えはとてもシンプルで、いわれてみれば「そう、そうなんだよ答えは」と思えるようなものばかりで、いかにあたりまえでシンプルなものが見えなくなることこそが迷いに繋がるのかということを再認識させられた気がする。

例えば、ゲイの人の結婚式をお寺でやりたいと頼まれて悩んでいるという僧侶に対する答えに、それは法律の問題もあるのでそこに即して考えなければならないとしつつも、なによりも大切なのはそこに信仰があるかないか。そこに立ち戻り考えるべきという答えは、自分にとってはとてもシンプルでありながらも、とてもストンとはいる解答だった。

他にも恋愛のアドバイスをくださいという質問に、自分は僧侶なので、恋愛はしたことはないが、愛と慈悲、この「宗教」というものの根本にあるものを大切にすること、自分の欲望や執着を押しつけるのではなく、利他的な心を持つことだろうと思います。の解答もあたりまえのようだけど、仏教的な解答としては明白であり、真実であると思う。

ふと一休さんや蓮如さんの逸話を目の前で見ているような気持ちになった。自分の思惑や周りからの目や、様々な算段が無意識にも自分の目を曇らせてるのだということを端的に伝えられているように見えた。

*

質問の中で印象に残ったもの。

幼稚園をされている僧侶からの質問で、園に不審者が侵入した場合、自分は暴力をもって侵入者を排除すると思いますが、仏教徒としてそこに葛藤が生じるという質問。

この質問に猊下は即座に、暴力か非暴力の境目というのは、それがどういう心で行われたのかが重要になる、例えば一つの行動が利己的な目的で行われたものであるならば、それが一見して非暴力であっても私は暴力であると思うし、それが利他の心で行われる場合には、一見して暴力的であってもそれは非暴力であると述べられた。

政治的な立場を退いているとはいえ、受け取り方によってはとてもドキドキするような答えだなと感じたのだけど、でもそれを教典に基づいて明確に示されたことにはとても感銘をうけたし、なによりも仏教というものがなんなのか、「教え」というのはあくまで1人の人間に向けられたものであるのだということを感じた。

それと同時に真宗の僧侶として感じるのは、自分が利他であると考える行動についての信用性についてで、そこにもうすこし言及したくなってしまうのだけど、これを機に「凡夫」ということについて、もっと深めて考えていかなければならないと思った。

上座部→大乗の流れの中ではこの「凡夫」をどう受け止めるか、さらにいえば、真宗においても「凡夫」とは何かということを突き詰めていかなければ、本願がなんたるか感覚的な部分でわかりっこないのだと思った。なにが本願ぼこりで、何がぼこりではないのか。その辺りのことを猊下に聞きたいなと思って頭をかけめぐったのだけど。でもきっと猊下なら、他人を思いやる気持ちや、いたわる気持ち、慈悲の心を育てること、まずはここに励むこと、行動は自然とそこに即してくるので、実践としてその心を育む努力をすべしというのだろうと、勝手に腑に落ちたりしたのです。

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焼身抗議について意見を求められたときの、とても悲しいことです、そして利他のために人を傷つけることなく自分の身体を傷つけてそしてなにかを訴えようとする行為はとても尊い行為であると思いますとはっきり述べられたときには、自分はチベットの苦しみも現状も髪の毛の先ほどもわかってないけど、その言葉に胸にこみ上げてくるものがあった。

昔チベットに行った時に、たくさんのラマ僧に助けてもらった。本当にたくさん。そしてデプン寺院でのショトン祭で、何百人ものラマ僧たちの地鳴りのような声明に心が打ち震えた時の気持ちがよみがえってきて、もしあの時に関わった僧侶たちが今とても苦しい思いをしているのであれば自分にもなにかできないだろうかとも思った。そしてなによりもまたあのチベット空気を味わいたいし、ダラムサラにも足を運びたいという気持ちがふつふつと湧いてきた。

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物事のきっかけというのはどこに落ちているかわからない。

なにかが自分の背中を押すときに、必ずしも目の前の現実が劇的にパンチをくれてくるわけではなくて、最後の一藁みたいに、積み重なったものが些細なことでがらがらと音を立てて現状を変えると言うことはよくあるのだと思う。

なにか心のチャンネルが変わった時には、後になってあれがチャンネルの変わった時だったのかもとわかる程度のことだと思う。つまりはそれは捜して見つかるものではないし、そのきっかけが必ずしも万人に同じ変化をもたらすかというとそうじゃない。

そう思うと、何事も積もり積もっていくもので、未来は間違いなくこの瞬間に繋がっているのだと思える。

誤解を恐れずにいうのであれば、昨日の猊下の話に目新しい話はなかったし、新しい発見があったというよりは、再確認であったり、復習のような感じだったのだけど、それでもこの経験は自分に蓄積されたし、それがきっとどこかにつながるのだと強く感じた。

昨日の今日でうまく整理できないことだらけなのだけど、改めて仏教のおもしろさや、悩みや迷いがどこから生じてくるのかということ、それをつきつめていくことへの興味がむくむくと湧いてきたことだけは間違いない。

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まだうまくまとめきれないけど、昨日印象にのこった言葉と考えたいこと。

色即是空・空即是色:色は空ではあるけれど、それ自体は現存するものであり、関係性によりなりたつ物事の本質でもある。空であるがゆえに何物にもなりうる。

感情が起こる前の静かな沈黙。心が起こる前の心、止観
呼吸法、呼吸と一つになる。

五蘊に無関係な自我はない。

量子化学的に物質を最小まで解析していったときに、その一粒だけで成り立っているものというのはない、その関係性、依存性というのは、仏教的な因果の法にもとても似ている。依存をして存在しているということは、それはすなわち無常であるということを表している。苦の要因を探るときに、その依存関係を正しく理解をするとこが大切である。

チベット医学の話、人間の体が成り立つ時、五大元素を元にルン、ティーパ、ペーケンの三つの体質がある。

苦集滅道と浄土観






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Title: むみょう。
2013.11.14

わからないものしかすきになれない。という言葉の中には、自分にはわかるんだという傲慢が見え隠れしているんだよ。勘違いだぜそれは10年前の自分よ。

遊んであげるのと一緒に遊ぶのは違うわけで。それはいわんやお念仏も同じかもしれない。

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Title: 「自分」と「なにか」
2013.11.14

「自分」と「なにか」

そのなにかは、白紙の紙でも、季節でも、日本酒でも、人でも、時間でも、空気でも雨でも、それはなんでもいいのだけど。そのなにかと自分の間になにもない、なにも隔てない時にだけわき上がってくるものというのがあって、なんていうか余計な雑音もなく、「自分」と「なにか」だけになった時に自分の中で感じる事のできる感覚を持っているかどうかというのは、人と人がわかり合うときにとても大事なる。

その感覚はなんていうか、眉唾なものなどではなく、たとえばそれは、学校を休んで昼間に家の布団の中にもぐっている時のような感覚や、運動会の徒競走で負けたときの感覚や、富士山の頂上で日が昇るのを見た時の感覚とか、そういう類のもので、同じ所にいるときに同じように感じるであろう、とても感覚的なものだ。

その感覚の中にすとんと落ちたときに、自分となにかの境目がぼやけて、自分ではないその何かと自分がとけこむような感じ。その感じの中にいると、世界はどこまでも広く遠いのだけど、でもそれは間違いなくこの自分の手の中に繋がっているような気持ちがして、どこまでも言葉は言葉で、自分となにかを隔ててるこの身体すらも、またただの身体なのだなとすら感じる。

しばらくそこに浮かんでいて、ふとこの心地よさをずっと保ちたいなとか、捕まえておきたいなと思った瞬間に、それがかき消える。かき消えてはまたそこに出会って、出会ってはまたかき消える。

それを何度も何度も繰り返してきて、やっと最近すこし、その心地よさを自分の手の届くくらいのところにとどめておけるようになって、正確にはとどめているかどうかはわからないけど、離れてしまったときにはわかるようになってきたように思う。

なんかこう書くと、とても正気な人間の言葉とは思えないかもしれないけど、ようは、自分の取扱説明書がとても効率よく書けるようになってきたということかもしれない。

答えは一つもないとかいいながらも、その言葉は結局のところ一つの答えに帰着するんだきっと。

つまるところ、1も2も。3も4も。5も6も。春も夏も秋も冬も。雨の日も晴れの日も。好きも嫌いも。ぜんぶ一緒で。現実には匂いも色もなくて、色も匂いもないからこそどこまでも広く深く、自由で寛容で非情なんだ。

生きてる事とか現実を0だとして、そこには本当は匂いも色も影も形もない。ただの0で。

人が生きていくということは、そこに1や2やπや√をプラスして生きているのかもしれない。ある人は0+1+π+√かもしれない。ある人は0+5×35(2+1)かもしれない。

みんな自分なりの数式をくみ上げて、その中で共通項をみつけて、時に一緒にいる相手の数式に公約数をみつけたりしながら生きてるんだ。

でもそれは結局のところ計算上の話で、夢うつつみたいなもので、あくまで0になにかをプラスしているにすぎないんだなと。

その数式をうまく華麗にくみ上げることよりも、一つでもとっぱらって、0に近づいてみたい。そもそも数式は自分でくみ上げるというよりは、それはほっておいても周りが数字を当てはめてくみ上げられてしまったものにすぎないのだし。

ぶっこわして0に。0に。

それはきっと前に前にと同じ意味なのだと思う。

そんなことをおもいますた。



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Title: 鉛玉。
2013.11.05

来年はいってくる子どもたちの面接をする。たくさんの子どもの中で何人か、いまの園の体制では受け入れが難しいという判断をせざるを得ない子がいる。

その子はそこで人生で初めて、いわゆる普通の子とは線を引かれてしまう。なにが普通でなにが普通じゃないかということはとても深い問題なのでここではそれに言及せずにおくけれど、両親と子どもを目の前に、その線を引かねばならない決断を迫られた時の、このお腹の底に鉛のボールをぶちこまれるような感覚、なんど味わっても重く苦しい。そして同時に自分の子どもが目の前で線を引かれた親の気持ちを思うと苦しみをこえて吐き気すらする。

その線を隔てるものは優劣でもなければ上下でもないのだ。

日本は世界で一番天才の出にくい国だそうだ。

でもその理由の一端はまさに今日自分の引いたこの線なのだと思う。多くの人が興味を持たないようなところに興味を持ち、その興味の為にはほかの全てを遮断できたり、極度のこだわりからうまく他者と関われなかったり、その子たちの中にきっと天才の欠片あるのだと思う。本当に紙一重なのだ。しかしそれを育てられる土壌は今の日本には極めて少ない。それを理解して育てられる人材も少ない。

親も、自分の子どもがずば抜けて天才であってほしいとか、秘めたる才能があってほしいなんていいながらも、本当はそんなことを望んでいなくて、当たり前に話ができて、あたりまえに友達と関われて、あたりまえに食事が出来て、あたりまえに集団生活がおくれることに安堵する。そうでないと不安になり発達センターに通い、隣の子と比べて、子どもの本来持ちうるものを、とてもおおきな物差しにくくりつけて矯正しようとする。それがいいか悪いかではなく、それが多くの親というものなのだと思う。自分も含めて。線を引かれてもなお我が子を心から信じられる親がどれだけいるのだろうか。

それにもし、仮に幼稚園で理想を、個性をぶちぬいても、子どもたちは小学校にあがらねばならない。

そこでピカピカの泥団子を、集合時間も無視して作りつづけるような子どもの居場所は確保されない。

その現実に、昔は小さなトゲのようだったものが今ふつふつと大きくなってきて、それがジレンマになってのしかかる。なにを教えて、なにを育てればいいのか。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光

今日阿弥陀経をあげながら、その一文がいつもよりも深く心に突き刺さった。

そんな世界は娑婆には一つもないからこそ教典に記されているのではないかという気にすらなる。

力及ばずに、様々な要因をねじ伏せるだけの力もなく、自らもその一端で、くそみたいな線を引かねばならないこの悔しさをいつか払拭するために、今日の想いを書き残しておく。

いまにみてやがれ。

もっともっと力が欲しい。



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