Title: いえない。
2013.12.31

迷っていると思えるうちはまだましなのかもしれない。迷ってることにすら気づかないで、いつのまにか理由ばかりつけて前に進めなくなっていることがなによりも怖い。


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Title: 人言
2013.12.29

自分が何かを想ったり、考えたり、言葉を書いたり、誰かになにかを伝えようとしたり。

そのきっかけはいつも自分の外からもらっている。

それは出会いでもあるし、誰かの言葉や、すすめられた本や、動画や、生き様でもあるのだけど。

自分が前に進むのに、自分一人では決して前にはすすめないなと。

そんなことを感じる1年でした。


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Title: どんぶらこ。
2013.12.20

こびりついてぬぐい去れないのは。

それが真実だからだ。

ずるいだろう。

今は、昔よりも現実と非現実の間に立つことが難しくなったな。
意識しないとそこにはいれないし、境界線になにか柵でもできたのかね。

まあそんなもんは飛び越えればいいのだけど。



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Title: ともゆき。
2013.12.20

ちとはやいけど。

今年をずずずっと振り返ってみるに、ずいぶんといろいろなものを手放すのが上手になったものだと思う。むろんそこにもメリットと同じくらいのデメリットもあるのだけど、でもその表裏一体もぐるりと裏返し。

今、あたりまえにあるもの。

日常とか、家族とか、友達とか、明日が普通に来ることとか、疎むこととか、浮かれることとか、酔うこととか。

歩けることとか、腰が痛くないこととか。

そういうものは、ホントニ突然、敷居をまたぐかのようにすっと、その時がきたらかき消えていくのだなと。

世界はほんとに世知辛いけど、世知辛くて喉が渇くくらいのこの娑婆も、いつか敷居をまたげばたちどころに消えていく。その時がきたときに、いくら水をがぶ飲みしたくても、垂れ流し。

ひりひりするような感覚も、どきどきするような瞬間も、ぎすぎすするような夜も。

実感の伴うものはすべがすべて、点、点、点。

点を繋げば線になるなんていうのはきっと嘘だな。

点はいつまでも点で、点と点を結びつけようとする心の作用は、つまりはここが間違っていてほしくないと願うこころの作用なんだきっと。

「粛々と」

今年はこの言葉にたくさん背中を押されたような気がする。

粛々といま目の前にあることに取り組むしかないのだ。

粛々と積み上げては、粛々と荷を下ろすしかないのだ。

時に酔いどれて、時に大風呂敷をひろげて、時にさげすんで、時に落ち込んで。

粛々といきていくしかないのだ。

そしたらきっとしかるべきところに立ってて、しかるべき人たちと、しかるべきことをやりとげられるような気がしてる。

なんて年の瀬。師走だけど走るまい。





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Title: イメージ。
2013.12.10

イメージということについて。備忘。

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日常の6割はイメージの中にあるものなのかもしれないと思った。

通い慣れた道を走っていたり、夜中にめがさめて真っ暗な家の中を台所まで水を飲みに行くときとか、そういう習慣の導線の中にいるときに、人間は目や、もっといえば五感で得る情報を頼りに身体を動かしているのではなくて、頭の中にできているイメージ先行で身体を動かしているのかもしれない。

そう考えると、例えば、日常の導線に大きなイレギュラーがあると対応出来ずにそこに足をぶつけたりすることにも、身体が疲れていて、イメージ通りに足が上がらなくて階段で躓くことにも納得がいく。目で見て身体を動かしているのであればそういうことはそうそうないのではないかと思う。

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五感からの情報を全て処理するということは、脳にとってメモリーをたくさん使う作業だから、日常のルーティーンはできるだけ省エネで無駄なく動くために、イメージの力を使うのかも知れない。

この「イメージ」ということについてのメリットとデメリットを考えるに、イメージを優先させることのメリットは省エネで動けるし、脳にかかる負担が少ない分、余ったメモリーを別のことに使える可能性がある。デメリットは、五感からの情報でない分、細かい変化や小さなイレギュラーは切り捨ててしまうので、目を凝らさないと見えない類の変化に気づきにくくなるということかもしれない。

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新しい町や国や、道や、人と関わるときに、まずイメージができなければ、人間は五感を使ってそれを処理しようとする、すると脳に血が流れるし、だからこそ「しばし旅立ちたること目のさめるきもちすれ」みたいなことも起きるのかも知れない。

日常でいかに脳に血を流すか考えると、五感をいかに動かすかということは大事で、ただその状態は脳をフル活動させているようなものだから、イメージの力に頼って、脳を休眠させることでみえてくるものとのバランスというのは大事なのかも知れない。

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イメージの力というのはすごいもので、どんなこともイメージできなければ身体は動かすことができないし、そのイメージが強くなればなるほどに人間の身体は無駄を省き、とっさの行動にも対応出来るようになるのだと思う。だから基礎も、訓練も、練習も、なんでもそうだけど、あれは繰り返し頭の中にイメージを植え付ける作業なのだろう。

ベストキッドの「ワックスかけるワックス拭く」もその原理なんだろう。

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イメージ優先の時に紅葉は秋なのだけど、五感で感じるとそれは木々であり葉々になるような感じ。

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このイメージで身体が動くというのは、人と人の関わりの中でも同じ事が言える。イメージ優先で人に関わるときと、五感優先で人と関わるときに自分にもたらす心の変化と影響は全く違うものになる。

現実は目の前に質感のある物なのだけど、実際にその中で生活する自分は、イメージの中の世界で生きていることがほとんどであるのかもしれない。


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Title: 25年目のこんにちは。
2013.12.04

小学校5年生の頃に「25年目のこんにちは」という文集を書いた。

当時10歳だった自分が25年後の自分を想像して書くというものだったのだけど、その「25年目のこんにちは」が、今実際に目前に迫ってきていて、ふとそれを思い出しては、あの頃に思い描いてた未来は間違いなく今なのだなということをひしひしと実感するのです。

そんな中、最近その文集を書いた友人達とあう機会も増えて、当時の話をする度に、これが「リアル25年目のこんにちは」なのだなということに感慨深くなるのです。

まさかあの当時同じ教室にいた友人がフランスに嫁いで、その餞に日本酒を送ることになろうとは予想できなかったし、学級委員長は部長になるし、だれが一緒にどろけいしてた仲間と、銀座で熱燗のみながら鴨鍋をつつくなんてことを想定できただろうか。だれが朝から吉幾三の「おら東京さいくだの」動画を共有して笑うなんてこと思い描けただろうか。

その頃自分が文集に書いた内容はうるおぼえなのだけど、今の自分の人生はあの頃には想像もしなかったようなもので、きっとこの先10年後、20年後の未来も、今想像も出来ないようなものなのだろうけど、どこでどうなれ、少なくとも今の自分を25年後にまた酒の肴にできるような人生がいいです。

しかし吉幾三天才だな。




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