Title: ぱふぉぱんす。
自分が自分らしくいるということは、パフォーマンスを発揮するときにはとても大事なこと。その為には自分らしい状態がどういう状態か把握していなければならないわけで、それもこの年になると、自分がどういう状態であればパフォーマンスを発揮できるかということも、昔よりつかめてきたし、その状態に持って行くためのプロセスも、身体と心の持っていきかたもだいぶんうまくなってきた。
しかしそこで、大きな割合で作用してくるのが、自分の身を置く環境や状況で、それは直接関係ないようなことでも自分の心には意識的にも無意識的にも作用してくる。
自分の抱えるものはどんなことであってもパフォーマンスに作用する。それに厄介なのは、パフォーマンスを劇的に上げるカンフル的な要素は、そのままパフォーマンスを劇的に下げる要素も兼ね備えていて、そういうそれぞれの持ちうる特性を見極めた上で、自分がなにを抱えればいいのかを考えなければならないのかもしれない。
それがわかっていても、どうにもいつも同じパフォーマンスを保てないのは、自分の身をおく環境や状況というのは、不可抗力にも刻一刻と変化するし、それにつられて自分の心すらも刻一刻と変化するからだ。
誰かの心も。
世は無常。
何度も耳にたこができるくらいに聞いても、何度わかったように語っても、この至言を腹に落とすことはできない。
わかっているのに、無常である今や、無常である心や、無常である喜びや、そういうものをいつまでもいつまでも、もっともっとと切望して、流れゆくことに抵抗する。
その抵抗は、もう反射みたいなもので、意識下で行われているものではないということだ、本来は意識下で行われることなのかもしれないけど、それを意識で制御するのは極めて難しい。
人が限りある時間の中で生きて、限りある時間の中で、この命の充実を願うことは本能だ。その本能自身が人間を根底で苦しませ続ける。
本能的反射を意識で押さえ込めるかどうかもがいて、そしていざ押さえ込めないのであれば、その押さえ込めない心をどこかにいったんほおりだすしかないわけで、そのほおりだした先が、誰かなのか、何かなのか、神なのか、佛なのか、それがなんでもいいけど、いつか誰もが必ずどこかでそれをほおりだす作業をしなければ前に進めない時にぶつかるということだ。
それは今日かも知れないし、明日かも知れないし、そのきっかけは何も、大それたものであるかどうかもわからないということだ、桜が散ることであるかもしれないし、誰かを想うことかもしれないし、親になることであるかもしれないし、ほんの些細なことなのかも知れない。
腹の底に鉛のようなものをいつも置き忘れているような気持ちにぶつかって、どうしょうもないときに、その鉛の塊をどうするのかという命題を人間はずっと、何千年も考え続けて、考え抜いて、それでも未だアップデートを繰り返し続けている。
その現実こそ無駄に進化した厄介ないきものの背負った宿命なんだろうな。
そりゃ慈しみつつも悲しみたくもなるってなもんで。
POSTED @ 2014.06.06 |
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