Title: 大人の子守歌。
2014.07.29

何か一つの事件が起きたときに、加害者にも被害者にも、必ず意志だけではない何かが大きく作用しているように思えて、その意志の外にある背景や環境や状況や、その全てが一つの結果に繋がっているのだということをつくづく感じる。ましてやそれが子どもであればあるほどその影響は大きい。

心がまだ柔軟で柔らかい時期、身体がたくさんのものを吸収しようとしている時期に、人間は自然と感受性を高めて、少しでも多くのものを吸収しようとする、それは生きる為の脳の本能みたいなもので。

そのときに一番怖いのは失うってことなんだろうと思う。身体が得よう得ようとするときに何かを失うことはおそろしいことだ。簡単に手放せない、簡単に捨てられない。大人は簡単に諦めればいい、逃げればいい、気にしなければいいっていうけど、子どもは大人ほど簡単に捨てられない。大人からしたらちっぽけなようなことにずっと縛られている。その捨てられない物が澱のように沈殿して、様々な形になって表に出てくるのだろうと思う。それはとても自然なことなのかもしれない。

その表に出てきた切っ先が、誰かに刺さらないように、自分を傷つけないように、時に理不尽にそれをへし折ったとしてもその切っ先の行く末を見守るのが親の役目なのかもしれないなと。それが例え理不尽で力尽くに見えても、へし折らなきゃいけないときもあるんだきっと。

なつなつなつなつここなっつ。

夏に聞こう。夏に。

さてプール行こ。

ttps://www.youtube.com/watch?v=GOI6iHCiaD8

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: ろっく。
2014.07.28

さび入りのお寿司を、平気な顔で食べられる大人よりも、いくつになっても、平気で玉子さび抜きって言える大人のほうがかっこいいと思うんだ。

ださいのはかっこいいんだ。泥まみれで、鼻水まみれでも、かっこいいんだ。

いくら、まぐろ、カッパ巻きってなもんだ。

もっと強くなりたいと思うことがある。でも、強さってのはもしかすると漠然と追い続けるためだけにあるのかもしれない。そんでいつか強さなんかどっこにもないじゃない!って笑えたときに、自然と身についているようなものなのかも知れない。

どこもかしこもロックだな。





| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: なつ。
2014.07.18

1年間もちゃもちゃもちゃもちゃいろんなことを考えてぐるっと回ってまた夏になって、ああもっと青臭くありたいなぁというところに立ち返ってきて、また1年をすごすのです。

夏がはじまるのです。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 陥。
2014.07.15

時々陥るところ。

書きたいという気持ちよりも、書かなきゃっていう想いが先行すればするほどに、何も湧いてこなくなる自分に焦りつつも、でも湧くまでまてばいいのだと言い聞かせながら、時間だけが過ぎて、このままずっとなにも湧かなくなってしまったらどうしようという気持ちになってきて。

そうだそれをそのまま吐露するところからはじめればいいのだという、長いスパンのスパイラル。

書くということは本当に面白い。

書くのは文字だけど、文字は一つの表現の手段で、大事なのはなにを表現するのかということで、それはとても至極当たり前のことなのだけど、書けば書くほど、それがわからなくなることがある。

なんでもそうだ。

本当に大事な事はなにか。

その行動はどこからくるものなのか。

伝えるとはなにか。

全部同じ所からくる。

芸術でも、仏教でも、わびでもさびでも。

真ん中があってはじめて枝葉がでるのだ。

枝葉をのばすことばかりに気をとられたらいけんのです。

いちどニュートラルにならないと、真ん中がどこかもわからんくなるとですよ。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: おぼうさん。
2014.07.15

お坊さんという仕事には、長距離ランナー的なスタミナ配分が求められるのだなということを、毎年お盆やお彼岸を迎えると感じるのです。100m走りきれば終わり!というような境目がなく、お盆が終わったら終わり!かといえばそういうわけでもなく、そのままお通夜や葬儀が重なってはいることもあるわけで、一区切りを出し尽くして寝込むなんてことはなかなかできないわけです。

いい意味で余力を残しつつ、長いレースの途中でエネルギー切れにならないようなペース配分をしなければならないわけで。

そうおもって、お寺に生まれ、お寺に育った人たちを思い浮かべてみるに、その長距離ランナー的スタミナ配分が自然に身についている人が多いように感じる。大きなイベントや行事のあとにそのままお通夜にいく姿や、自分なら座り込んでしまいそうな時にも顔色一つ変えず月参りにいく姿や、どんなにプライベートに大事な予定があっても、通夜葬儀の為になんのためらいもなくキャンセルできる姿に幾度となく頭が下がる思いを覚えるわけです。

それは言い換えれば、いつもどこか、体力と心に余力と残しているともいえるのだけど、つまりはお坊さんっていい意味で手の抜き方もうまいんだろうと思う。がんばりすぎず、出し切りすぎず、思いつめすぎない、休みどころにはしっかりさぼるという特性があるように思うのです。

なので、普通に社会で生きている人から見たときに、なにかのらりくらりしているような、出し切っていないような、だらしないように見える部分があるのも事実なんだろうと思う。どこか飄々としていて調子がいいような。具体的にいえば、自分の印象だけど、お坊さんってどこかゆるい所がある、一緒に仕事をしていると、時間や、〆切や、効率や時間配分など、ちょっとゆるい。

でも、そういうデメリットはしっかりと、お坊さんとしてのメリットに繋がっていて、ここまでしっかり働いたら週末は休み!とかここまでがんばったら座ってられる!とか、ここまでがんばれは電話にはでなくていい!とかそういう公私の切り替えができない中で、自分の気持ちと体力を持たせて、いつ何時不測の事態が起きても動けないということがないように、無意識に余力をのこしている結果なのかもしれない。

お寺に育ったか、育っていないかという部分でも変わってくるだろうし一口には言えないけど、お坊さんのそういうどこかちょいとゆるいところや、だらしなくみえるところをさしおいても、淡々とどんなときにもお参りに向かう姿や、だれかのために立ち上がる姿をみると格好いいなと思うのです。




| コメントを書く (0) | Trackback (0)