Title: どろどろ。
2014.10.31

「どろだんご」ばかりをつくっているわけでもなく。それが自分の生業でもないのだけど、でもおそらくこんなに人生でどろだんごをつくったことのある34歳もそう多くはないと思うわけで。

最近、子どもたちのどろだんごをつくるスキルがあがってきて、もはやピカピカにするに飽きたらず、色をつけて、さらに磨きをかけて、もう泥だかなんだかわからないようなものにまで昇華させる子どもまででてくる中で感じたこと。

どろだんごをつくる手順というのは、

まず芯となる土を練る。練る練る練る。空気を抜く。

陶芸の世界ではこの土を練る作業を「菊練り」というそうだ、菊練り3年ろくろ10年だそうだ。どろだんごをつくっててもこの作業は思いの外大事だということで、ちゃんと練れてないとひび割れをしてしまったり、しっかりとした球体にならない。土の中にあるつぶつぶした塊をつぶして、空気を抜いて、練りに練った土を手の中で転がす。

転がす転がす転がす。

ここの力加減も重要。すこし乾いてくるとここで力を入れすぎると表面からひび割れてしまう。そして少し土の湿りがとれて、手に泥の痕がつかなくなるくらいまで乾いてきたら形を整えて自然乾燥させる。

すこし乾いたら、ここからの作業がどろだんご作り中でも核となる作業、乾いた土、通称「ふわ土」を表面にかけて、それを手ですりこむようにだんごをこする。つまりはここで研磨しながら、芯となる土のまわりに光る層をつくっていくのだけど、ここも加減が必要で、土をかけすぎると、表面からパリパリはがれてしまって、すり込みが足りないとうまく光らない。

何が言いたいかというと、その作業工程のほとんどに感覚的な要素が多くて、はじめてつくってもなかなかピカピカにはならないのだ。何度も繰り返すことで、その感覚がなんとなくわかってくるとどろだんごが光るようになるのだけど、子どもたちはそのなんとなくの感覚を自分のものにする時に、例えば土の乾いたタイミングをはかる時「つめたいか、つめたくないか」「軽いか、軽くないか」「やわらかいか、やわらかくないか」とか、嘘かほんとか「匂い」でそれを見極める子どももいる。それぞれがそれぞれの感覚でそれを判断をしていて、その感覚のとらえ方にこんなにも違いがあるのだということに驚かされるのです。

それに何度も繰り返すうちに、いま自分のもってるだんごがうまく光るかどうか、その感覚的な判断というのもうまくなってきて、もはや国宝級の陶芸家のように、いままで大事に手の中で転がしていただんごを唐突にたたきつけて、これじゃだめだ!作り直し!などということはもはや日常茶飯事となっている。

そしてかなりの確立で光らせることができるようになる子どもがチラホラ増えてくると、その子が他の子どもに指導をするのだけど、その教え方もまた千差万別でみていてとても面白い。「伝える」ときに必要なことはつくづく達者な言葉ではなく、言葉に頼らなくとも大事なことはしっかりと伝えられるもので、大事なのは教える側がいかにそれに夢中であるかどうかとか、そういう温度みたいなものが大切で、結果としてそれが教わる側に伝われば最後に目的は達成されるのだ。

そして一番響いたのは。

1つのだんごを最後までピカピカにするためには、それなりの時間と労力が必要で、1日の自由遊びの時間だけでは完成させることができなくて、何日かにわけてつくることもあるのだけど、その大事につくっただんごを不用意に落として粉々にしてしまうということがよくある。

その瞬間まわりで見ている自分とかは、あっ!泣いちゃうんじゃなかろうかとか、ショックを受けてるんじゃなかろうかと、余計な心配をしてしまうのだけど。

その時に、自分で大事に大事につくって、何度も何度も取り組んできている子どもほど、またつくればいいやってなもんで、切り替えがとてもはやくて、ショックはあるのだろうに、黙々とまた次のだんごにとりかかるのだ。

それはきっと自分はまた光らせることができるという自信からくるものなのかもしれない。その姿をとても頼もしく、そしてまぶしくも感じるのです。

たかがどろだんごなんだけど、されどどろだんご。

一つのことに五感を研ぎ澄ませて向き合うということは、本当に大人の想像する以上にいろいろなところを育むのだなと。

そんなことを感じたとかいっておかないと、どろだんごをつくって遊んでるだけだと思われるので、大義名分と自己肯定の為に書き残しておくことにする。









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Title: 鱶。
2014.10.31

最近自分の考えることは反芻であり、その精度をあげる作業が多いように思う。

あたらしく思いつくことというよりも、新しく思いついたようなことでも、前に一度考えてきたことととつながっていて、そのつながりに新たに考えていることが深まっていくような。考えるということはとてもおもしろく不思議な作業。

考えて考えた挙げ句の果ては、考えているということには限界があって、最後の最後は身体にきくしかないのだという。

日常にも、どこもかしこも紐が繋がっていて、苦しみも喜びも、すべてがすべて紐が繋がって、断ち切れているものなんてのは一つもない。

引けば張る。たわめば緩む。

言葉や文字はいつか消える。

脳への蓄積。

経験の習慣化。

最後はこの身、この脳ミソ一つが生きることの証明であり、自分自身の財産であり。不可侵な領域。

そいつ一つで勝負するのさ。

積みあげたもので勝負するのではなく、積みあげたものと勝負するって歌が、脳裏にこびりつきました。







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Title: すにーか。
2014.10.27

人間というのはつくづく、不確かで脆く、理解している以上に、様々な不可抗力の影響を受けていて。

それは夜風が気持ちいいことでもあるし、夕立が降ることかも知れないし、夕方にどこかの家から夕飯の匂いが漂ってくることかも知れないし、月がきれいだなんてことでもある。

自分というものは、そういう刻々と変わる一瞬の変化をぐんぐんと吸収して、自分の意識の及ばないようなレベルで心に作用する。

そのレベルでの変化はつねに身体の中を渦巻いていて、自分で想う、自分で決める、自分で歩く、自分で生きるなんてことは、あくまで刹那的な経過にしか過ぎない。

だからこそ自分の身をおく環境に心を巡らせることは大事なのかも知れないし、戒というのは、その場所に身をおくことで、心におこる作用をある程度制限するということなのかも知れない。

その粒子のような縁とよばれる類のものがつねに自分を取り巻いていて、それがまとわりついてつねに変化して、有象無象の混沌としたような作用の中で、自分はつねに変わり続けていて、つねに影響を受け続けていて、流れ流れて、同じ瞬間なんてものは一瞬もない。

それを無常というのであれば、やはり実体するすべてのものは如しにすぎなくて、空であることが紛れもない実相。

だからなんだってなはなしで。

だから拠り所なんてものにたいさ意味はなくて、変化して然りなことが人間の本来のどこにも負荷のかからない自然なことなのだ。

どう生きるかということを考えたときに。どうありたいかということは状態や実体によってのみ理解することができるのだけど、でも本来の自分がどうありたいかという問題の答えというのは、本来状態や実体の中に見つけることができないはずだ。

しかしながら、答えのないところに答えを求め続けようとすることを課せられて、そこを回り続けることを強要され、そこで生まれる苦しみを、対処療法で回避していくことしかできないという、それでいてそこに大きな疑問をもつことすらできないという縁を生まれながらに備えているのが人間で、その故は寿命というものをもって動物として生まれたということで、種としての共存共栄をすることが、保存の第一であるという前提であれ、そのぬぐい去ることができない事実によってもたらされる。

だからこそ、意識的に、そして無意識的にも、その不確かで朧気な存在そのものが根底から揺さぶりをかけてくることがあって、そのゆさぶりはなにかその人間という存在の枠組みを超えた「なにかに」拠り所を生み出そうとする働きであり、それはつまりは祈りや願いを生みだす。

宗教というのは人間の本質が必然的にうみだしたものである。

どうして人がすがるのか、それは人間そのものの存在がある故で、だからこそ信仰において、人が救われるということにおいて、宗教においてその方法がなにであるのか、その解決策がなにであるかということは最も重要視されねばならない。

それが宗教としての柱であり、宗教の意義でもある。



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Title: 絵本。
2014.10.07

たまに絵本を読んでいて思うことがあったのです。

この絵本のなにが面白いのだろうと。ただ、豚が餌を食べてるだけの話じゃないか。ただうんこをしたというだけの話じゃないかと。

そんで自分の選ぶ本はどうしても道徳がましい、蘊蓄がましい本ばかりを選んでしまうのです、例えば、喧嘩をして仲直りをする話だとか、心の優しい赤鬼が泣いちゃう話だとか。

そういう、これを読ませたい、ここから教訓を得て欲しいなどと思って買い与えた本は、少なくとも、3歳から5歳くらいの子どもたちには不評だ。

例えば、本を読んであげるからなんでもいいから持っておいでというと、大抵は「この絵本のなにが面白いのだろう」がくる。そしてその本を読んだときの子どもの反応はものすごくいい。

なぜだろうかと思って考えたのだけど。

おそらく幼少期3~5歳の子どもは絵本を読んでいるときに、それは絵本の内容を聞いているのではなく、うまくいえないけど、絵本の中にはいっているような気がするのだ。

絵本を読んでいるときの反応をみていると、例えば、次のページで大きな魚が迫ってくるであろうシーンのページをめくろうとすると、多くの子どもは目を閉じたり、きゃーといったり、あぶな~いといったりする。(むろん絵本を読むのがうまいという前提のもとだけど)

それをみていて、ああ子どもたちはこの本の中にいるのだなと。

大人が本を読むときは、それを第三者として読むことが多いと思うのだけど、子どもは絵本を読むときに案外当事者なのだなと。そう考えて子どもの好きな絵本を並べてみると、たしかに、子どもの感情移入しやすい言葉選び、場面選び、そして感情移入しやすい工夫がされていたりする。絵本を作る人というのはすごいものだ。そういうものを巧に織り交ぜているのだ。

そこで自分がその世界に入り込むことでイメージの世界を広げ「想像する」という力を育んでいくのだなと。人間は想像できないことは実現できないし、想像できることは必ず実現できるなんてことを誰かがいってたななんて。

そんなことを考えている時に、ふと阿弥陀経をあげていて。

舎利佛~というところにはいってみようと思ったのです。いつもは第三者として、仏陀が舎利佛に話しかけている場面を眺めているだけだったのだけど、実際にインドでみた祇園精舎を思い出して、そこに座って、自分が舎利佛だとして、これを自分に言われているのだと思って読んだのです。

ってか聞いてるし。他に1250人も人いるのに、名指しされすぎて逆に集中できないわ!恥ずかしいわ!って思いました。


*

子どもに、一番好きな遊びをしようとか、一番好きなものの絵を書こうとかいう声かけをたまに聞くのだけど、黙ってたら二番目に好きなもので遊び、三番目に好きな絵をかくってこたないし、そもそも一番ってなにっていうひねくれたことをおもっちゃうのさ。

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Title: くも。
2014.10.07

蜘蛛の巣というのは、本当に絶妙なところにあるものだなと。

トンボとかみてて思うのだけど" けものみち "というのがあるように、虫にも虫の通りたくなるところ、飛びたくなるところ、おもわず留まりたくなるような所があって、その絶妙にトンボが飛びたく、留まりたくなるようなところに蜘蛛は巣を張っているように思うのだ。

蜘蛛自体のスペックというのは、自分でトンボや蝶に飛びついて捕食するということはできなくて、巣にかかって弱った虫を喰らうくらいのものなのだけど、だからこそ巣をどこに張るのかそういう戦略的なものを研ぎすまして本能に刻んであるように思う。

蜘蛛にも色んな種類がいて、それぞれ捕食対象も違うわけで、それぞれの捕食対象に癖や好き嫌いがあるわけで、それによって巣の張り方も違うわけだ、それを蜘蛛というやつは、それぞれの虫がひっかかりそうなところを本能的に熟知して巣をはるわけで。

いうなれば、酔っ払いがとおりそうな所に空き缶を転がしておくような。

公園に1つだけあるベンチをいつもペンキ塗り立てにしておくような。

絶対に押してはダメですとかいてあるボタンに瞬間接着剤を塗っておくような。

そんな狡猾な空恐ろしさを感じるのです。その研ぎすまされた戦略をもっといいことにつかえないものだろうかとかなんてことを蜘蛛のやつに思ったのだけど。

相手の落ち込みやすいところ、はまりやすいところ、道を外れそうな所に、先回りして、罠を張るのか、セーフティネットをはるのか。その違いには雲泥の差があるのだけど。でも共通しているのは、相手を熟知しているということだ。

相手を熟知する力というのは、何をする上でも重要な能力で、相手がどういう時にどういう道を選ぶのか、どういう所を好んで、どういう行動をするのか。ビオトープというものに関わっているとその相互関係はとても興味深い。

そして思うにそれはそのまま人間社会にも活用できることだらけのような気もするのだ。

相手の落ち込みやすいところに狡猾に罠を張り、高齢者に「オレオレ」って電話をかける。これだけ注意をされていても年間何億円もの被害をだすということに、人間の本能的なもの、高齢者の抗いきれないなにかを熟知している「オレ達」にある種、蜘蛛に感じるような空恐ろしさを感じるわけで。

その才能をなにか別のことに使えばいいのにとか思うのです。

いま思ったけど、お坊さんって本気だしたらそんじょそこらのオレオレに負けてるようじゃダメだと思うのです。オレオレが先回りして罠を張るところにセーフティネットを張れなきゃだめで、むしろ時にオレオレを罠にかけてひっぱりあげるくらいの狡猾さも必要なのかもしれないと。

人間の業によるだまくらかしあいに勝てないようじゃまだまだなのかもしれないっす。まさに紙一重なのかもしれないっす。

それを方便だとか、待機説法だとかいうところにこじつける気はないのですけど。

今日蜘蛛を眺めながらそんなことを考えていたのです。



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