Title: 範疇。
2014.12.30

自分の範疇は、言葉や、表情や、空気や、同じ気温や同じ匂いを共有できるくらいの範囲。

そこでできることを精一杯する。

そこでできることの完成度をもっと高める。

そこから生み出せるものの完成度をもっと高める。

そこでできることは、言葉を知ることでもあるし、多面的であることで、後の先をとることでもあり、心を絶えず動かしていることでもあり、あれとこれを結びつける発想でもあるし、それを遊ぶ心でもある。

それは人を好きでいることでもあるし、自分を知りたいと願うことでもあって、結果として満たされるとか満たされないとか、そういう言葉の壁に翻弄されながらも、それを乗りこなすこと。

そんでもがいてあがいて、そのなかからがむしゃらになにかをつかみとろうとして隻手の声をきくこと。




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Title: ひと。
2014.12.30

苦しいも、悲しいも、忙しいも、つらいも、嬉しいも、人にはそれぞれに基準があって、誰かにとってのつらいは誰かにとっては屁でもないことで、誰かにとっての嬉しいも、誰かにとっては屁でもないことで。

だから、つらいや、苦しいや、悲しいも、忙しいも、嬉しいも、幸せも、誰かと誰かを比べる事なんてできないのだけど、最近は比べられないから比べることはナンセンスなんだというのではなくて、そんな雲を掴むようなことをやめられなくて、そんな雲を掴むような話に翻弄されるということが生きるということそのもので、その絶対的な基準を持っていないからこそ人は惑うのだということと、絶対的な基準がないからこそ救われる可能性があるのだと思う。

惑うというのはおもいろいもので、苦しみを苦しみだと感じているときに、そこに迷いはなくて、本当に迷っているというのは自分が迷子だということに気づいていないときだけなのだと思う。

自分は迷っていない。惑っていない。はたしてそうかと。

いやはやそう思う自分はそこに気づいているから惑わないのだと。

はたしてそうかと。

つねに自分を二重にも三重にも無明は取り巻いていて、それは地球が宇宙に浮かんでいて、太陽系の外側には、銀河系があって、その外にもその外にも真っ暗な闇が広がっているような物で。

人間は、地球を知ろうとしても、宇宙を知ろうとしても、太陽系の起源をさがしても、銀河系を目指しても、肉体の限界は80年やそこいらなのだ。人間の脳の使い方にも、肉体の使い方にも限界はある、思考の限界というのは、脳を動かせる時間の限界に比例していて、それはたかだか寿命の範囲内なのだ。

自分が脳と肉体をどこまでフル稼働できるかはわからないし、その日がいつやってくるのかわからない中で、人は惑い続けなければならなくて、それは人間に科せられたものでも、背負わされたものでもなく、それを「生きる」ということだけのことで。耳障りのいい「生きる」定義なんてものは、誰かのいう幸せと自分の幸せ、誰かの苦しみと自分の苦しみに公約数をみつけているというただそれだけのことなのだと思う。

得るも、失うも同じだ。

今日も昨日も。

大晦日も元旦も。






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