Title: 鳥をね。
2015.01.18 鍋にぶちこんだ。

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Title: 無用の長物。
2015.01.09

「自己とは何ぞや。これ人世の根本的問題なり」臘扇記の中の一文。

今日清沢満之が臘扇記を書いた年と同い年になった。

34歳の1年間はいつにもまして色々な縁とそれを取り巻く様々な業みたいなものに翻弄された1年だった。頭の中にあることを残らず言葉に変換して隅々まではきだせるほどの変換力がないので言葉足らずになるかもしれないけど、今の自分が感じていること。

自己とは、無数の縁の最前線の点みたいなもので、それはつねに変化しつづけているということ。

今の自分を作りあげているのは、ここに至るまでの多くの縁、多くの偶然や必然が奇跡的に重なり合った結果で、生まれた瞬間からその不可抗力とも言える縁の蓄積によって変化し続ける。刻一刻と、この瞬間もその縁は蓄積される。気温、湿度、匂い、お腹の具合、そして疲労や眠気、そういうすべての要素が今の自分の今の行動、今の思考をつくる。自分自身というものはそういう刻一刻変化する縁の中で常に流れ続けて存在しているということ。

その縁というものは人間の影響できる範疇をゆうに超えていて、人間の分限をはるかに超えている。それは「運」というものとも違う。「運」という言葉には良し悪しがあるが、縁は一見した善悪の範疇も超えている。人間は寿命という限られた時間の中で、この不可抗力である「縁」と呼ばれるものの存在を認めざるをえない状況に何度も出会い、直面し翻弄される。

その縁を生み出している「なにか」が「何」であるかは人間にはとても量りようがない。その量りようのないものを、時に畏怖し、時に崇敬し、時に翻弄され、その過程の中でその「なにか」に様々な呼び名をつける。それは時に神であり仏でもあり、時に悪魔とも呼ばれるものかも知れない。それが自分にとっては阿弥陀であるということ。

自分が選ぼうとも、選ばずとも、固執しようともしまいとも、抗おうとも抗うまいとも。この瞬間にふりそそいでくる縁の中に生かされている自分は、もはやその「なにか」のもたらす流れの中に奇跡的なバランスに生きているともいえる。生きるというのは人間の介在できる範疇をはるかに超えた無常の中に浮かぶということ。

人間の本質はその不可抗力の流れの中で何千年も前からなにも変わらない。

人間の創るもの、社会も、共同体も、イデオロギーも、大概は大きなリサイクルの中にあって、その本質はなにも変わっていない、そこにあるメリットやデメリット、生まれ落ちる苦悩には古代も現代も大差ない。技術や科学がいかに進歩したとしても、それは人間の本質を変えるには至らないということ。

その事実の前では、粛々とただただ1日を過ごしていくこと自体にもう大きな意味があるような気がしていて、そこに大きな目標やりっぱ生き様を掲げようとも、掲げまいとも大差ないように思う。ようは「ただただ」であることがいかなることかを認識できる心持ちの問題。

それはすべてを受け入れて、なすがままされるがままに、自分から作用をすることにたいして価値を見いだしていないとか、さじを投げているわけでもなく、今に受動的であるということは、すなわちそれ自体はとても能動的であると感じていて、そこを研ぎ澄ませていくことでつながるものもあるのではないかと思っているのです。

朝な朝な仏とともに起き夕な夕な仏をいだきて臥す。

その言葉の響きには、ただの枯れた諦めではない、強い姿勢を感じるのです。

いつかそんな人生を悠々と生きていきたいものです。

いざ35歳。



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Title: 天目山
2015.01.04

突拍子もないことをいいますが。

時代劇にでたいです。

歴史物にはまって読んでいる影響で、あの時代、主に戦国時代といわれている時代の人達の生き様や、想いや、一期一会の心には本当に心が震えます。だからというのもなんですが一度でいいから甲冑をつけてみたい。いや甲冑でなくともいいです、あの時代の空気感を感じてみたいのです。

だから時代劇にでてみたいです。

願わくば、小谷城の戦いの時の浅井長政とかやってみたいです。お市の方を見据えて「落ちよ」とか言ってみたいんですけど、顔的に浅井長政って顔でもないので、

一言坂の戦いの時の本多忠勝とかもやってみたいです。馬上で槍を振り回しながら、しんがりを努めながら、踵を返し、単騎武田軍に向かい、「殿を城へ!」とか叫んでみたいです。

もしくは、武田信玄の息子として生まれ、家督を継いだ武田勝頼の苦悩みたいなものを3夜連続のスペシャルとかでやってみたいです。長篠の戦いからの、最後は天目山で悲壮な面持ちで「朧なる、月もほのかに・・・」と言い終えるシーンで幕引きです。

自分で書いていながら興奮気味です。

ほかにも言いだしたらきりがないんですけど、自分が心動かされるエピソードというのは、往々にして大勝して覇権を獲る。という華々しい部分ではなく、必死に生きようとしつつも、そこで家督であったり、誇りであったり、一分みたいなものを胸に散っていく、又、散る覚悟ができる姿であったり、時に家督を守る為に、その誇りや一分を捨ててでも何かを守ろうとする想いであったり、そういう極限の苦悩や揺らぎに翻弄されつつもしっかりと腹を決めて前を見据える人間の生き様です。

それと時代物に一貫して言える一期一会の重さと、重いが故にそこに翻弄される人間の強さと脆さの中から生まれる人間ドラマを演じてみたいのです。

突拍子もないことをいいますが。時代劇にでてみたいです。

だれかだしてください。たぶん落武者の姿とかそこそこ似合うんじゃないかと思います。

しかし、恥ずかしながら、本当は天下に手がかかるような大物を演じられるほどの知識も見聞もなく、所詮付け焼き刃の小兵なので、だれかおもしろ戦国話をしながら一緒にのんでくれたらそれだけで幸せです。



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Title: 2015。
2015.01.02
あけましておめでとうございます。ビバ2015年。
 
なぜか今年は元旦から、さだまさしの案山子が頭の中でリフレインしています。
 
昨年は色々なことがありました、毎年のことながら、ゆくとしくるとし、去る人来る人、着々と時間は流れていくのだなと。
 
先日あるお坊さんが、
 
「8歳の子が感じる1年は8年生きたうちの1年なので8分の1年。60歳の人は60年生きたので1年も60分の1年を過ごしたことになる。だから大人は1年を短く感じるんですよ」
 
と言っていました。ああ、なるほどうまいことをいう。今度どこかでパクって使おうとおもいつつも、時間を長く感じるかどうかは最後は自分の気持ち次第だと思うのです。そして短く感じるからこそ生じる価値もあると思うのです。
 
昨年を通して一番深く刻まれたことは、今の自分をつくっているもの、思考も思想も、動機付けも言い訳も、好きも嫌いも、いままでの自分の人生の蓄積で、生まれた場所や、偶然とか必然とか、出会いや別れとか、弱さとか、守りたいものとか、それを取り巻く気温や湿度や匂いとか、お腹の具合とか、疲労や眠気とか、そんな類の結果であって、そこには自分の意識や想像もはるかに及ばないたくさんの縁の集大成で、それは同時にこの瞬間も刻一刻と変化していていてまさに無常なのだなと。それはきっと抗っても抗いきれない途方もないものなのだなと。
 
それは自分に限ったことでなくて、みんながみんなそれぞれの人生の蓄積の中で、色々な事を考えて、思って生きていて。それはつねに変化し続けていて、唯一無二で、だれかと同じ自分なんてものはあり得ないのだなと。そんなあたりまえのことに深く心が動いたのです。
 
だからこそ、生きてることも、人と出会うことも面白くて。2015年は人との縁をもっと楽しんでいきたいなと。顔をあわせて話がしたいなと。そんでもって、最近は何かになろうとするのではなく、この流れの先にある何かが何であれそれでいいのかもとか思います。
 
とりあえず、2015年もお酒とおもしろい話があればそれで十分満足だと思える人生でいたいです。苦しみは味付けに少々ってなもんで。
 
今年もどうぞ宜しくお願いします。
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