Title: 無用の長物。

「自己とは何ぞや。これ人世の根本的問題なり」臘扇記の中の一文。

今日清沢満之が臘扇記を書いた年と同い年になった。

34歳の1年間はいつにもまして色々な縁とそれを取り巻く様々な業みたいなものに翻弄された1年だった。頭の中にあることを残らず言葉に変換して隅々まではきだせるほどの変換力がないので言葉足らずになるかもしれないけど、今の自分が感じていること。

自己とは、無数の縁の最前線の点みたいなもので、それはつねに変化しつづけているということ。

今の自分を作りあげているのは、ここに至るまでの多くの縁、多くの偶然や必然が奇跡的に重なり合った結果で、生まれた瞬間からその不可抗力とも言える縁の蓄積によって変化し続ける。刻一刻と、この瞬間もその縁は蓄積される。気温、湿度、匂い、お腹の具合、そして疲労や眠気、そういうすべての要素が今の自分の今の行動、今の思考をつくる。自分自身というものはそういう刻一刻変化する縁の中で常に流れ続けて存在しているということ。

その縁というものは人間の影響できる範疇をゆうに超えていて、人間の分限をはるかに超えている。それは「運」というものとも違う。「運」という言葉には良し悪しがあるが、縁は一見した善悪の範疇も超えている。人間は寿命という限られた時間の中で、この不可抗力である「縁」と呼ばれるものの存在を認めざるをえない状況に何度も出会い、直面し翻弄される。

その縁を生み出している「なにか」が「何」であるかは人間にはとても量りようがない。その量りようのないものを、時に畏怖し、時に崇敬し、時に翻弄され、その過程の中でその「なにか」に様々な呼び名をつける。それは時に神であり仏でもあり、時に悪魔とも呼ばれるものかも知れない。それが自分にとっては阿弥陀であるということ。

自分が選ぼうとも、選ばずとも、固執しようともしまいとも、抗おうとも抗うまいとも。この瞬間にふりそそいでくる縁の中に生かされている自分は、もはやその「なにか」のもたらす流れの中に奇跡的なバランスに生きているともいえる。生きるというのは人間の介在できる範疇をはるかに超えた無常の中に浮かぶということ。

人間の本質はその不可抗力の流れの中で何千年も前からなにも変わらない。

人間の創るもの、社会も、共同体も、イデオロギーも、大概は大きなリサイクルの中にあって、その本質はなにも変わっていない、そこにあるメリットやデメリット、生まれ落ちる苦悩には古代も現代も大差ない。技術や科学がいかに進歩したとしても、それは人間の本質を変えるには至らないということ。

その事実の前では、粛々とただただ1日を過ごしていくこと自体にもう大きな意味があるような気がしていて、そこに大きな目標やりっぱ生き様を掲げようとも、掲げまいとも大差ないように思う。ようは「ただただ」であることがいかなることかを認識できる心持ちの問題。

それはすべてを受け入れて、なすがままされるがままに、自分から作用をすることにたいして価値を見いだしていないとか、さじを投げているわけでもなく、今に受動的であるということは、すなわちそれ自体はとても能動的であると感じていて、そこを研ぎ澄ませていくことでつながるものもあるのではないかと思っているのです。

朝な朝な仏とともに起き夕な夕な仏をいだきて臥す。

その言葉の響きには、ただの枯れた諦めではない、強い姿勢を感じるのです。

いつかそんな人生を悠々と生きていきたいものです。

いざ35歳。



POSTED @ 2015.01.09 | Comment (0) | Trackback (0)

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