Title: にく。
2015.02.23
 
お坊さんってのは、仏教かじってるから苦への対処方を知識として知ってるのかもしれないけど、それができてるかどうかとは全然別物で、僧衣で手を合わせてると、まわりからそこそこできるもんだと思われたり、そう扱われたりするうちに自分でも「知ってる」を「実践できてる」と混同しちゃってわかんなくなったり、そこでジレンマに悶々としたりもするのだと思う。
 
それに昨今、べつに僧侶でなくとも、聞く人の心を捉える言葉はあちらこちらで聞くことができるし、むしろその方がはるかに多い。結果そこに取って代わられてるわけだけど、そもそものお寺や僧侶の担ってた役割を。
 
でもお坊さんも一生懸命なんだ。それを自分のものにしようと。
 
あなかしこ。あなかしこ。じたばた。
 
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Title: きさらぎ。
2015.02.20

幼稚園では、発表会(俗に言うお遊戯会)も終わり、ほっと一息、子どもたちは寒空の下、外で元気に駆け回っています。

この時期の園庭では、静かに、そして着々と遊びの世代交代が行われていくのです。

年長の子どもたちは卒園式へ向けた練習がはじまりますので、自由遊びの時間の園庭では年少と年中の子どもたちだけが遊んでいるわけです、おもしろいもので、普段園内のサッカーコートは年長が独占していて、それを横目に年中や年少の子どもは遠巻きにボールを蹴ったり、時々こぼれてくるボールを拾いに行くぐらいのものなのだけど、年長がいなくなるやいなや、ここぞとばかりに年中の男の子たちがサッカーコートにはいりサッカーをやるのです、すこし誇らしげに、でもちょっと遠慮がちに。

サッカーだけでなく、ドッジボールも、お団子つくりも、砂場遊びも、お店やさんごっこも、おままごとも、電車ごっこも、長縄も、年上の子どもたちがやっている遊びを横目に見ていた子どもたちが、あこがれのお兄さんお姉さんたちの遊びを真似して自分たちのものにしていくわけです。そうして脈々と遊びが受け継がれ世代交代をしていく様がこの時期になるとよくみられます。

こうして子どもたちが着実に成長している姿を目の当たりにできることが、この仕事のおもしろさであり、醍醐味であると感じます。

「遊び」というのは、子どもの成長を見るうえでとても大切な事です。

幼稚園にきたばかりの子どもは、まだまだ1人の世界にはいりこみ1人遊びをすることが多くて、そこから友達と関わること、関わる楽しさを感じ始めると、今度はその自分の世界を少しづつまわりの子どもと共有し始めるわけです、一生懸命に言葉をつかい、みぶりてぶりを交えながら自分の世界を伝え共有しようとします。ここでうまくいかなくて喧嘩になったり、悲しい思いをしながら、心もしっかりと鍛えられていきます。

そして少しずつイメージの共有ができるようになると、自分がヒーローになるだけだった遊びは、みんなでヒーローになって敵と戦うことができるようになります。自分がお母さんになるだけだったおままごとも、家族単位で役割分担ができるようになります。

みんなでおなじイメージの中にどっぷりと入り込んで遊ぶことを覚えると、今度はそのイメージを現実の世界に落とし込んでいきます。

基地はどこなのか、基地に入るための合い言葉をどうしようか、仲間がわかるように帽子のかぶり方を変えてみようかなど。一つに遊びに自分たちでルールと決まりをつくり、またその遊びを少しでも長く楽しく続けていけるように、手加減を覚えたり、相手の立場を考えたりしながら遊びを継続させていきます。そうしてさらに遊びの幅を広げていくのです。

たかが「戦いごっこ」たかが「おままごと」ではなく子どもにとって、それはまさに目に見える成長の証だと思います。

この時期の子どもたちの遊びは本当に大人も想像もつかないような深さと幅で展開されていきます。これは大人が遊んであげている遊びの中では絶対に作り出せないものです、子どもたちが友達どうしの中で長い時間をかけることでしかつくられないものです。

遊びの中で培われるものの中には、これから子どもたちが社会にでていくときに必要であろう様々な大切なことがたくさん詰め込まれているような気がします。

遊びを通して子どもたちの成長を感じられることがとてもおもしろいです、そしてそんな子どもたちももう1ヶ月もすると1つ大きな学年になり、年長の子どもたちは卒園していきます。少し寂しいですが、また4月になれば、はじめて社会に第一歩を踏み出した子どもたちと出会えるのかと思うと楽しみにもなります。











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Title: 芒。
2015.02.15

原点にもどろうとか。初心にもどろうとか。

そもそもそれどこにあんだとかおもって考えた。

それってつまりは、どこだかわかんないいけど、結局今ではない、ここではない場所への渇望だし、それを望む自分はこの瞬間にどこか不満げだということだ。

正確に言えば、その不満は、不安でもあり、恐れでもあるし、つまりは恐怖心ともよべる感情だったりする。

結局のところ、人間は凝り固まったなにかとか、なんの疑問を持つ必要もないような習慣に、ある瞬間疑問がわいたときに、それをどうにも打破したくなるのかも知れない。

無意識に執着してる、無意識に固執してるなにかに恐れを感じるのだ。

それは自分のなかに確かな物差しをもっていないからかもしれない。

これでいいのか、これでただしいのか、もしかしたら違うのかもしれない。

それでも進まねばならぬ。

日々は、人生は恐怖だ。

その恐怖の中に光を見いだし、勇気をもって足をだすための理由付けを探し続けることを営みと呼ぶのかも知れない。

つまらない。いやつまるところおもしろいということがなんなのかわからない。

喜びというものはとても短絡的で刹那的な連続なもので、連続なのに、それをコマ送りみたいに感じる心と、その0コンマ何秒のコマのタイムラグにはかりしれない恐怖を感じるたびにわからなくなる。

どこへいこうと、なにをしていようと、いくら満ち足りていても。

いつだって寝首かかれるみたいにやってくるそれをもう身体は本能的に回避しようとするのだけど、その回避をするための方法ですら執着と固執の中にある。

ぐるぐるまき。

0はどこだ。

0も。

1も。

あうんも。












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Title: なんちゃら国。
2015.02.05
 
ここのところのニュースをみていて思うのは、

結局の所、なにが正しくて、なにが間違っていて、自分はなにをすればいいのか、それをじっくりと立ち止まって向き合うにはあまりにも世界のスピードが速すぎる。
 
そのスピード感についていくためにはどうしたって表面をなでるようにわかった振りをして、飽和した情報の中から自分の主観や主張に近い物をみつけてむりくりつなぎ合わせて、それがさも自分の姿勢であるように振る舞うしかない。
 
そこには震えるような怒りも、悲しみもない。それはたかだか数ヶ月もすれば、何事もなかったようにビールで流し込めるようなくらいの感情でしかない。
 
そうやって感情に直結しないような自己表現を疑いもせずに習慣にしていたら、いつかなにをしたってつまらなくなるし、心の震えない人間が何をしたって熱量なんて持たない。
  
どうやったら一つの事実に自分の気持ちをしっかりと寄り添えるか。それを足を動かして考えて言葉にすることは、あたりまえなようでこのスピード感の中でそれを行うのはとても難しい。
 
経済をまわすためにはスピード感は失うわけにはいかないのだろうけど、その速度に心や体をついていかそうとしたら必ずどこかに無理が生じる、無理が生じないために、そこに付随するはずの感情を受け流していると「感じる」ってことがどういうことなのか、その機能が人間のなにを補っているのかがわからなくなってしまうように思う。
  
ブルースリーも言うんだ。
  
ドントシンクフィールって。
 
 
*
 
 
僧侶として感じる事。
 
ここの所のニュースをみていて、自分がどうありたいかを思うに、浮かんできたのは、「安心決定鈔」の中の「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」という言葉。
 
次々に報道される情報をみて、その事実の一つ一つに自分が感じる事をつなぎ合わせていくと、本当になにが正しくて間違っていて、なにをどう断ち切ったら負の連鎖が消えるのか「命」というものの価値観すら自分がいまこの日本にいる感覚だけで善悪を決められることなのかどうかわからなくなってきて立ち止まる。
 
歎異抄の4章には
 
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。かれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。
 
と書かれている。
 
聖道・浄土のかわりめありがあるとしたら、いまこの瞬間、それがいつであれ「この今」にこそ、そのかはりめがあるのだと思う。
 
この平和な日本で画面に流れる情報をみているだけの人間が考える極めて側面的な事実は、自分の人生をかけて世界を変えようとするモチベーションになるには薄すぎるし、かといって世界の隅々まで足を運び、拘束される危険も顧みずに自分の手と足と目で情報を得ようとするだけの動機付けは自分にはもてない。
 
せめて自分にできるのは表面をなぜてわかった振りをして心を痛めたふりを数ヶ月して、その合間に手の中にある幸せを愛でるくらいのものだ。
 
また真宗の僧侶はそうやって自虐的にも自分がなにかを発すること、そして自らが働きかけることに消極的で、結局なにもしないのだといわれるかもしれないが、いま「いそぎ仏になりて」という言葉の中にある、ふつふつとした静かで、そして確かな強さのようなものを感じる。
 
「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」
 
はげしい怒り、憤り、悲しみ、そこに捕まれば捕まるほどに、自分と彼らを隔てるものはなにもない。
 
目の前の事実がどこからきて、なにが起きて、どこへ向かうのか。そんな無限の可能性と方法論を考えることの中に答えはみつけられないのだと思う。みつけられたとしてもその答えにはいつかまたほころびがでる。もし完璧な答えがあるのだとしたらそれはもう歴史が証明しているはずだ。
 
自分の考える答えがどこにあるのかと考えたときに、自分の身近にはたまたま仏教があり、そこにあるものを指針として確かな手応えを感じているので、いまの自分にできることは、強く確かに「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」ことではないかと感じている。
 
急激な温度変化は持続しない、持続しない感情で事をなしたところでその行動のもつ熱量はなにかをかえるには低すぎるのかもしれない。煮えたぎるような感情を腹の底にマグマのようにたたえている時だからこそ、いま自分のすべきことをもう一度立ち止まって確認したいと思った。
 
救えるのか、救われるのか、自分の役割はなんなのか、命とはなんなのか、その迷い、それすらも丸ごと人間の生み出すものすべてが、慈しみ悲しみの対象であるということは、真理だとか、教えだとかいう言葉に後ろ盾を得るまでもなく、まぎれもない事実だということをここ数日改めて深く感じた。
 
強く深く静かに。


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