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Title: 116
2015.03.28 夜中にふと目が覚めて、眠れないので身体を起こそうと思ったら、眼鏡の上に手をついて、フレームの先が手のひらに刺さった。暗い部屋で、じんじんとする手のひらの痛みを味わうように感じながら、消えたノートにかかれた言葉を思いだそうとしたのだけど、3割くらい思いだしたところでまた眠りに落ちた。 朝起きたら、手のひらが赤く腫れていた。 たかが-2時間なのに。そこには大きな隔たりがあるように感じた。 * 平成というのは、まちがいなく昭和の上にのっかてるんだ。きっと昭和も大正の上に、大正も明治の上にのっかてるんだろうな。 その「時代」を包む空気感、そこで誰かが痛烈に感じたことは、間違いなく次の時代の中にも残り香のように漂っていて、その残り香がまた次の時代の子どもたちの中にも繋がっていくのだろうと思う。 ものをつくるってそういうことなんだきっと。 * 目の前に自分の弱さが可視化されたときに。 それにどういう感情を感じるのか、忌むのか、愛でるのか。媚びるのか。 逃げるのか、共存するのか、打ち負かすのか。 狡猾に自分に嘘をつくのか。 * からっぽだな。 からっぽだから詰めたくなるんだろうな。 からっぽをからっぽのままにしておけないわけですよ。 それはほんとはただの空洞を埋めるだけの作業なのに、 その作業がいつのまにか自分そのものであるかのように錯覚して。 いつのまにかからっぽだったことすら忘れるんだ。 Title: めじな。
2015.03.16 死というものを考え、想うときに、それはいつもこちら側、つまりは生の側から発せらるるものだとばかり思っていたのだけど、そうでもないようだ。死とはこちら側からコンタクトするものではなく、唐突に、前触れもなく瞬間的に向こう側からコンタクトしてくるものなのかもしれない。生の側から想う死とは、生の対極にある死に対する像であって、それは死そのものではないし、本来あるべき死とは別物であると考えてもいいのかもしれない。 本来あるべきはずの死にはきっと脳内再生するときに付随するような温度も表情も、ドラマチックな効果音もなくふとそこにいるんだ。よおってなもんで。 と。こないだ最終電車を乗り過ごしてあるく帰り道で、うっすらと春の匂いのする夜風にふかれながら考えてたわけで。 * 急激な温度差なんてものは表面的なもので、それは表層を焦がしたり、低温やけどにするかも知れないけど、芯の部分にはなんの影響もないのだ。喜びも悲しみも、苦しみも、ありとあらゆる心を動かす要素も感動も。ちぇっ。 * 人がなぜ思い出に執着するのかといえば、その思い出の中にいる自分を許し、慈しみ、拾い上げたいからで、なぜそんなことを思うのかって、人間は自分の中に流れる時間軸を点で考えるとバラバラになってしまうような錯覚におちいりやすくて、どこに手をついていいかわからなくなるような感覚に捕まることがあって、脳が意識的に、無意識的にそれをさけるからではないかと思う。 * 例えば、一流のスポーツ選手が誰もいないところだしたパスがつながるような。F1ドライバーがオーバーテイクをするときに、意識が先にコースをとるような。それはきっと予測とも違うようなもので、なんていうか実際に視覚的に見えているのではないだろうか。 現実に可能性は無限にあるかというとそうでもなくて、イレギュラーな不測の事態を除けば、経験を積むことで、その先にあるであろう光景を視覚的に脳内再生する時の選択肢は絞られてくるのではないかと思う。 視えるとか、読めるとか、極めたとか。 それをどう表現するかは別として、なにをしていても、突き詰めていくと近いことが起きているのではないだろうかと思う。つまりは、どこまでも細かい単位の今に目を凝らしたさきには未来すらも見えるのかも知れないなんて。 * 種としての安全が確保された中で、優位性を誇示しようとする働きは、動物として至極自然だ。いじめでもなんでも。 根底にあるのは、生き物としての本能。 メジナでさえ優位性を誇示しようとするのだ。 * からっぽでまっすぐ。 Title: いそぎ。
2015.03.05 少年の殺害のニュースも、どこかの家具屋の話も、昨日の自分の愚痴も、ひいてはなんちゃら国だって。 つきつめていくと、人間ってほんと、環境とか育ってきた背景とか、そういうものの影響で、意図してまた意図せずとも、どんなことでもするし何色にでも染まる。そこにある壁をぶちやぶるのはなまじっか簡単なことではない。 信念というと聞こえはいいが、頭で考えて行動すること発言すること全て、なんらかの思惑や動機付けがあって、その思惑や動機付けはもう意志をこえて、様々な縁に左右され翻弄され、時に都合良く歪曲される。 人間はその影響を決して無視できないし、その影響に簡単に飲み込まれるくらいからっぽな生き物なんだなぁと。そのうえ厄介なのは、それに気づきもしないで、自分の分限をどこまでも主張したくなるし、時にそれをしないと喪失感すら感じることもある。 そんな存在そのものを、悲しむ心、慈しみ哀れむ心を大慈悲と呼ぶのだとしたら、いそぎ仏になりての言葉にとても深く頷ける。 お念仏しかないわほんと。 なむなむ。 そして粛々と、淡々と前に。 |
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