Title: 縁。
2015.04.28

幸せだなと思うことが頭のどこかでこわいのは今も昔も変わってないのだな。

うららかに、おだやかに、笑えれば笑えるほど、心の奥底にある違和感が大きくなってきて、足下がぐらぐらとするような感じがするわけです。

最終電車で小さな駅について、すぐにみつかるだろうと思っていた宿がどこも満室で、途方に暮れた挙げ句に、やっと見つかった小さな部屋の中で、ビーフジャーキーをかじりながら、ハイボールのんで、やることもないから真っ暗な部屋の中でじっと明るくなるのを待ってるときに感じる寂しさとか孤独感なんか、すすんで味わいたくもないし、避けて通るために全力を尽くすのに、それでもいやがおうにもそれを避けて通れずにそんな気持ちを味わうと、心のどこかですごく安心したりする。それを安心と呼んでいいのかわからないけど、とても生きている感じがして、それがとても自分に充足感をくれる気がして。その充足感が自分にとってはとても甘露で、ほしくないのにほしくなる。

幸せだと感じることがこわいのは、もしかするとそれがずっとつづかないのがわかっているからで、同時に失うことを想像してしまうからかも知れないし、孤独感に安心を覚えるのは、きっとその先に安堵を感じることがわかっているからなのかもな。

だとしたらつくづくへそまがりだな。

*

旅にでたい理由の一つは泣くほどの孤独感を味わいたいからかもな。Mなのか。


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Title: みたもの。
2015.04.28

青臭くありたいとおもった。

なによりも青臭くありたいと。

いつもフル稼働してる部分はびっくりするくらいに動いてないのに、そのかわりに研ぎすまされてくる部分があって、そこが研ぎすまされている時自分はとても満たされるのだ。いつまでもそこに身をゆだねていたいと思うほどに。

肌感覚といえばそれまでなのだけど。

その感覚を信じて、違和感を信じて、その感覚に身をのせる感じがたまらなく好きなのだ。

頭も身体も解放しているときには、自然といままでの経験や体験、自分の中に蓄積されたものが意識をこえて働きかけてくる。だからこそ経験は大切だし、失敗も苦しみも成功や喜びと同じくらいに大切なのだ。

自適其適に。

自分はどこでどうありたいか。それをあらためて確認できたような2日間だった。

スナフキンも言ってたな「僕は自分の目で見たものしか信じない。けどこの目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ」って。

*

無意識に働きかけてくる経験の具体例。

人が集まる場所において、例えばそれが街だとして。その街のどこに自分好みの場末な店があって、どこに宿があって、どのあたりに柄の悪い地域があって、どのあたりが安全なのかとか。どこまでが旅行者の踏み込める領域で、どこからは踏み込まない方がいいのかとか。どういう路地をすすめば自分の好きなものがありそうなのかとか。

目には見えないけど、それが東京であれ、一ノ関であれ、上海であれ、カトマンズであれ、ラサであれ、デリーであれ、バンコクであれ、それぞれ国も規模も違えと、街という一つの集合体の中には共通するものがあるようにおもう。

目に見えて線が引いてあるわけじゃないけど、それぞれブロックごとに色分けされてるみたいに感じる事がある。

それが宿を探すのに絶対に進んではいけない方向とか、この時間に踏み込まない方がいい路地とか、お腹がペコペコのときに進むべき方向だとか、すべてが予定通りに進まずに途方に暮れたときに進むべき道を、肌感覚として時にそれを違和感として自分を導いてくれるように感じることがある。

その時に、ガイドブックやスマートフォンとにらめっこをしていると、見落としてしまうことっていうのがあるような気がして、そういう時こそ目をつぶりたいと思っている。

それは、1か0か、感覚か情報かという二極化した話ではなく、どちらも大事なのに、感覚的な部分が往々にして忘れられてしまうことが多いように感じるわけです。








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Title: じゃき。
2015.04.18

最近邪気みたいなものにすごく敏感になったように思う。

それを邪気と呼んでいいのかわからないけど、

例えば、もっと自分を認めてよ的なものだったり、おれおまえより頑張ってるよ感だったり、お前にはおれの気持ちなんかわからないよだったり、おれはこれできるけど君にはこれできないよねだったり、おれ友達がたくさんいるんだよアピールだったり。みんな気付いてないところに自分は気づいているよだったり、それは言い換えれば、自分の優位性だったり、自分と他者の区別だったり、自己弁護だったり、自己肯定ともいえるのだけど。

それは意識的にも無意識的にも、いくら平身低頭それを見せまいとしても振る舞いや、言葉には醸されてしまうもので、その漏れてきたものの中に、その人が人からどうおもわれたいのかとか、逆にどうおもわれたくないのかとかそういうものが見え隠れして、そういうものが見え隠れする度に、人間とはどういう生き物なのかということが見えてきて、それが確固たるものになっていくような気がするのです。

そして同時に自分の言葉にはどんな邪気がでているのだろうかと自己観察したりするのです。

それと自分が邪気と呼んでるものが、もう近づいただけでぷんぷんしていて、しばらくそばにいると自分もその匂いに燻されてしまいそうな人をみつけたり、もしくは自分のした行動や、言葉からそういうものがふわっと漂ってくると、なんだかとても嬉しくなるのです。

どうして嬉しくなるのか、はっきりした理由はまだわからないのだけど、おそらくそれは人間ってほんとつくづく慈悲の対象なんだなと思うからかもしれないなと。

人間は、どこまでも救いようがなくて、だからこそ安心できるのだと思いたいということなのかもしれないなと。


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Title: しんがっき。
2015.04.18

そうです今年もこの時期です。阿鼻叫喚の新学期です。

お母さんがみえなくなったとたんに腹をくくったかのようにスイッチのはいる子、先生が大嫌いだといい続ける子、頑なに着替えない子もひたすら泣き続ける子、一言もしゃべらないけどしっかりとやることをこなす子、あんな子やこんな子、いいだしたらキリはないのだけど本当にいろんな子がいる。

ここがはやくそんな子たちの安心していられる居場所になれるようにがんばるわけです。

そんなこんな日常をこなしながら、ふとここ最近自分のまわりで起きたことが一つにつながったような気もしたわけです。

小さな子どもってのは、言葉とか約束とか理路整然とした理屈だけでは安心した顔をしてくれなくて、それをつかわないで子どもたちが安心した顔ができるようになるためには、どこをつかわなければいけないのかってことで。

そこでつかわなければいけないところというのは、大人と子どもだけでなく、人と人が信頼関係を築くために大切な事の本当に根幹みたいなものだなと。大人になるとどうしても安心を得るために理路整然とした理屈をほしがっちゃうのだけど、本来安心とか信頼っていうのはそういうものだけで成り立っているのではないのだと気づかされるわけです。

この先になにがあるのか、予定調和の約束が欲しいのではなくて、この瞬間、この相手、この場所に、身を委ねられるかどうか、それは視点の問題であるのかもしれないけど、その視点の位置がとても大切なのだなと。

なんてことを、涙とかよだれにまみれながら感じたりします。

そんな日々です。



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Title: ださ
2015.04.03

鼻水たらして、泣き笑い。そんなかんじでいいのだ。なにかのきっかけですぐに盛り上がりも盛り下がりもする、このどうしょうもないこの心ころころ。辛気くさいのなんかつまんでぽいや。


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