Title: ハロラ。
2015.07.24

ブルーハワイってなにをもってハワイなんだろうか。

そもそもだれがつけたか知らないが、そしておいしいかどうかは別として、この毒々しいまでの青色にはなぜか胸躍るし、イチゴでもレモンでもなく、その得体の知れない響きになにか大人な感じがしたりして。それはそれはとても夏い食べ物だなと思うのです。そしてそれをたべて真っ青になった舌をだし合いながら笑い転げる風景はもはや日本の伝統的な風物詩にまで昇華してるのではないかと。

夏が好きな自分からすると、夏は日本の風物詩的風景のオンパレードで、いちいち日々の一瞬が惜しい。

ラジオ体操も、蝉の声も、赤提灯も、スイカも、カルピスをつくる音も、夕立の匂いも、遠くで聞こえる花火やお囃子や、御輿を担ぐ声も、浴衣女子も。

明日はじめると30回もいえば夏休みももう終わりという言葉がどこかのお寺の境内に書いてあったそうな、まさにほんとに、今年の夏も最高だぜってあと40回もいえるかどうかはわからない。

惜しい惜しいといいながら着実に旅の準備を進めるのです。ほくそ笑みながら。

旅の準備の第一段階は、暑さへの順応だということで毎日エアコンかけずに生活をするところから夏い日々を味わうわけです。ありがたや。ありがたや。

きっと夏に一人旅をしたくなるのは、夏なら一人旅の孤独感をあまり感じないで済むからなのかもしれない。

あゝ酩酊状態の日々。

*

暇はつぶさないほうがよい。と思うことが増えた。

何もすることがない状態にすぐになにかに手を伸ばさずに、それをしばらくじっと味わうことで、その時間はいままで自分の見えていなかった景色や習慣を生んだりもすることもある。

ただこのご時世「すぐになにかに手を伸ばさない」というこの小さなカベは低いようで高かったりするのだけど。

世界はもっと疑問にあふれていて、疑問をみつけること、答えに思いをはせること、その答えに自分なりの感情がわくことを体感として蓄積していくことは、このつぶされて消えていく時間の中にこそあって然りではないかと思うのです。

そして時に正確な情報よりも、不確かな想像の方が人を豊かにするともあるし、つまりはそれはGoogle先生や、ウィキペディアもいいけど、年寄りのほら話のほうが時に子どもに夢を与えるのだと思うということだ。などと老害みたいなこともいいたくなるようになった今日この頃です。


*

運転席に座ってるのか、助手席に座っているのか。それはフロントガラスに映る同じ景色を見ながらでも、そこに向ける意識も感覚も全く持って別なわけで。

ハンドルを握ってる人にしかわからないスピード感や、そこに感じるプレッシャー、ハンドルを握ってない人にしか感じられない車の揺れや不安。

そのどちらも大事なことなのだけど、ハンドルを握ってる人が優雅にナビを眺めていたり、ハンドルを握ってない人がおもむろにアクセルを踏み込もうとしたりする場面というのはどこにでもある光景で。

最近、まずこの人は今どこに座っているんだろうなんてことを考えたりするわけです。

それは1か0ではなくて、時に運転席で、時に助手席ではないかとも考えたのだけど、一つの場面において、やはり運転席は一つであるべきで、運転席の隣に助手席があるべきなのだと、そこを曖昧にするということは、大局をみたときにやはりどこかに歪みを生じるのだということをこの何年かの体感としても強く感じるわけです。

*

ハロラロラ。






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Title: 生きること。
2015.07.21 備忘のために、ほぼ日からの転載

かつて、アントニオ猪木が、
 「もし敗けることがあったら?」と
 マイクを向けたアナウンサーに、
 「やる前から敗けること考えてるバカがいるかよ!」
 と、張り手を浴びせ「出て行け!」と言ったそうだ。
 確率だとか、可能性だとかを語ることは、
 まだ迷っていられるとき、もどればもどれるとき、
 当事者じゃなく見物席にいられる場合だけなのだ。

 「だめかもしれないなぁ」なんて打った球が、
 ホームランになるはずはない。
 ぼくらは、確率に合わせて生きるのではなくて、
 生きることそのものを、生きているのである。
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Title: ブラックフライデー
2015.07.17

朦朧とする頭と熱のこもった身体で、残りのライフを振り絞り帰宅する。そんで泥のように眠って目覚めたら、ここから夏がはじまるわけです。銭湯行って、カブ乗り回して、夜道を徘徊して、島って、旅って、浴びるほど夏って。酩酊状態の毎日を、しっかり味わうように惜しむように過ごすのです。

まずは赤提灯に挨拶回り。

あと何回経験できるかわからないけど、この夏がはじまる感じ、いくつになっても忘れたくないものです。

なつなつなつなつここなっつ。


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Title: りんご。
2015.07.09

近しい人がぱたぱたといなくなって、そのたびに人は死ぬんだと至極あたりまえの現実を思いしるわけで。お骨の前で、いつかあの人も、いつかこの人も、いつか自分もと心に刻んでいるつもりなのに、それでも何度も何度も釜前に立っていざはっとさせられるわけで。
 
人って死ぬんだよなぁ。ほんとに。あたりまえのことのようにすっと。
 
「近しい」って会った回数や距離だけじゃなくて、自分の中にこびりついている言葉や出来事、それを思い出す回数だって近しさの中にはあるわけで、いつも顔を合わせていれば必ずしも近しいと呼べるわけではなく、
 
近しいというととても抽象的だけど自分の感じる近しいの中には、そこに一瞬でも「本質的なこと」が含まれていているかどうかなのかもしれないなと。
 
今日思いました。
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Title: 備忘。
2015.07.01

備忘のために。ほぼ日の一文

「打席に立てることをよろこぼう」

怖かったり、緊張したりするような場面に、「君が立っていい」と認められている。それは、すばらしいことだと思うだろう。

緊張感があることは、実は「いいこと」なのだと思うのだ。生きていて、チャレンジしているからこそ、そんなふうな場に立っているということなのだ。失敗したらどうしようなんて考えるような時間には、機会(チャンス)というやつが隠れているのだ。

だから、おもしろいのだ。

そういうわけだから、「たのしめ」って言えるわけだ。


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