Title: 加筆。
2015.12.11

自分というものを作り上げているのは、ここに至るまでの多くの縁である。多くの偶然や必然が奇跡的に重なり合った結果である。生まれた瞬間から、人間はその不可抗力とも言える縁の蓄積によって変化し続ける。刻一刻と、この瞬間でさえもその縁は蓄積される。

気温、湿度、匂い、お腹の具合、そして疲労や眠気、そういうすべての要素が今の自分の今の行動、今の思考をつくる。

自分自身というものはそういう刻一刻変化する縁の中で常に流れ続けて存在している。無常の中のその存在は唯一無二である。生まれ落ちてここ至るまでの全ての要素を持ちうる他人はいないのだ。

天上天下唯我独尊という言葉は、ただ自分だけが尊いという意味ではない、生きとし生けるもの全て、この唯一無二の縁の中で刻一刻に生きている、すべてが唯一の存在であるという事実そのもの。

自分も、他人も、草も木も、生まれた場所や、そしてそこに繋がる人、たくさんの縁の中に今日まで生きている。

そのたくさんの縁は人間の範疇をゆうに超えていて、人間の分限をはるかに超えている。それは「運」というものとも違う。「運」という言葉には良し悪しがあるが、縁に良し悪しはない。縁は一見した善悪の範疇も超えている。

人間は寿命という限られた時間の中で、この不可抗力である「縁」と呼ばれるものの存在を認めざるをえない状況に何度も出会い、直面し翻弄される。

その縁を生み出している「なにか」が「何」であるかは人間にはとても量りようがない。その量りようのないものに、人は時に畏怖し、時に崇敬し、時に翻弄される。その過程の中でその「なにか」に様々な呼び名をつけるのだ。それは時に仏であり、神である。

そして阿弥陀でもある。

自分が選ぼうとも、選ばずとも、この瞬間にふりそそいでくる縁の中に生かされている自分は、もはやその「なにか」のもたらす縁の中に奇跡的なバランスに生きているともいえる。

「南無、阿弥陀仏」つまりは阿弥陀仏に(南無)帰依するというのは、その阿弥陀という何かに身を委ねるという意識の表れであるともいえるわけだが、その縁ともよべる働きはすでにもうこの瞬間自分自身の中に流れていると考えると、南無自分自身、南無空、南無草木、南無あなた、であったとしても、その響きはそれはそのまますなわち南無阿弥陀仏なのではないだろうか。

自分の外に仏があるということは、それはつまりは同時に自分の中に仏があるというなによりの証拠になりえるのではないだろうか。

私は仏である、という言葉はとてつもない危険性をはらんでいるのだけど、でも間違いなく、自分自身の中にこそ如来があるのかもしれないと思うことがある。

もし、仏が自分自身であり、同時にすべてのものであるのだとしたら、この一瞬の価値観は大きく変容する。目にうつるすべてのものに降り注ぐ縁がこの瞬間を、まさに刹那につくりあげているのだとしたら、次の刹那にある一瞬もまた、奇跡なのだ。そして生きるというのはその奇跡の中で、人間の介在できる範疇をはるかに超えた無常の中に浮かぶことなのだ。

この瞬間こそがもうすでに救いなのだ。そして次の刹那こそがもう掬い取られている証拠なのだと。

付随して。

誰かを想う時に。

本当の意味で求め合うということは、感情を超えた縁が先に来るもので、感情はそこに付随しているにすぎないのかもしれない。


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Title: 還。
2015.12.02

一つ必死で手放すたびに、自分が原点にもどっていくような感じ。

言葉や文章がやわらかくなる感じ。

結局の所そこに帰って行くのかと思う感じ。

わすれないようにしよう。


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Title: ぱんく。
2015.12.02

怒りに対する共感には意図が含まれることが多いように思う。でも悲しみという感情には怒りほど意図を持たなくても共感できるのかもしれない。なんてことを国旗の色に染められた顔写真を見ながら感じたのです。

それがある種の人間の脆さであり、弱さであり、どうしょうもない安心感でもあったりして、人間ってとてもシンプルなのにややこしいなと。

人間意識的にも無意識的にも「意図」あるものにさらされると疲弊するんだろうな。森の音や波のおと風の音にふと癒されるのはそこになんの意図もないからかもな。

*

「トイレをいつもきれいにつかってくれてありがとうございます」の張り紙をみるといつも思うのだけど「おしっこがこぼれているととても悲しい」のほうが心に訴えるものがあるのではないかと思う。

*

自信のなさとかコンプレックスからの動機付けで何かを成したなら、その評価内容はそもそも自分には必要のないものだったと意識しておかないと自分自身をさらに見失わせる。

*

欲張りと贅沢は違う。混同するとほんとの意味を見失うのは贅沢のほう。贅沢って最後は感性がないと生みだせないと思う。


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Title: やおん。
2015.12.02

たとえば、何か大きな事をしたいときに。

それを実現させるためのロジックを綿密に建て、仕事を細分化して、適材適所人材を集め、仕事をきれいに割り振る。ということは一見もっともにみえるけど、それだけでは3年以内にほころびがくる。

ほころびが来る理由は様々だけど、それのほとんどは、どんな仕事も人間のやることだからという一言で集約する事が多い。

ほころびながらも、それをそれを継続させていくために大事なことは、そのなにか大きな事がどんなにわくわくして魅力的で、楽しいことなのか、それを語り続ける漠然とした熱量が大事と言うことで。

なによりもその熱量を継続して生み出すということは難しかったりする。

そしてなにかをなすときに大きな壁になるのは、「飽き」というやつだ。飽きをやりすごすために自分の気持ちをどうもっていくのか、それは経験によってでしか、自分自身の説明書を厚くしていくことでしか得られないものなのかもしれない。

やりすごす技術。

これが巧みになるということはとてもだいじなことなのだなと。

つくづく思います。

それが無常をわたりあるくある種のコツみたいなもんで。



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Title: こころっと。
2015.12.02

ここ一番でやはり自分をひっぱりあげてくれるのはヒロトの声だったりするわけで。

15歳の時も、20歳の時も、35歳の今もこの声と言葉に救われるということが、まぎれもない自分自身の個性であるのだ。

むきだしほど、無防備で、もろくて、怖いものはないし、

むきだしほど、どうしょもなくて、始末に負えないものはないし、

でもむきだしほど優しいものはない。

こうして、あっちとこっちの境界線あたりにぐいっとひっぱり戻されるのだ。

あっちにいくと居心地が悪くて、こっちに座ってても居心地が悪いのだ。

居心地のいいところなんかどこにもないのかもしれない。

居心地は環境がつくるものではない、何度も何度も、刻むように何度も自分に刻んでいるのに。

それでもどこかに居心地を求めてのらりくらり。

ヘンゼルとグレーテルは口減らしに森に捨てられたんだ。










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