Title: いかろす。
2016.07.30

肌寒い夜がつづいていて、すぐそこに気配を感じつつも、なかなか会えない日々に鬱々としてたのだけど。
一通り、こなさなければならないイベントが終わって、泥のように眠ると、朝にはちゃんと夏がきていた。

寝苦しい夜と、けたたましい蝉の声に、文句をいいつつもそんな粋なタイミングに自然と心もほころぶ。

この2ヶ月、多少の不都合や不具合に立ち止まる余裕もなく、勢いのままに一気に駆け抜けてきたけど、
ここで少し立ち止まって足跡をじっくり見直ししつつ、一年の熱量を充電しようと思う。

書くことから意識的にも、無意識的にも遠ざかっていたのだけど、こうして文字にして、クールダウンしながら心を定着させていく作業を再開していかなければならないなということを実感している。

頭にあるものを記録として書き始めるのではなく、白紙の画面に文字を書くことで、頭の中になにがあるのかを確認するような作業。

*

「信頼」というものに対する意識。

信頼や信用を得ようと思ってアクションを起こして、それを勝ち得たとしても、結果、信頼も信用も水物で、その流れで得られるものは、その時、その瞬間のその誰かの求めるものにそぐうかどうかとう事実に過ぎない。

人はつねに変わり続ける、脳は刺激を受け続け、この瞬間も何か新しいものになろうとしている、でも社会の中で生きるということの多くは、変化をすることで失わなければならないことを抱えるということで、その新しいものになろうとする大きな変化を認めてしまうことで、社会性はなりたたなくなる。

つねにそのジレンマの中で、絶妙なバランスをとりながら、そこにできるだけ自分自身への傷跡の少ない大義名分をみつけながら、小さな変化で自己肯定をして、刻一刻と、この寿命を消費して生きていくしかないというこの現実を大前提として、

いままでほしかった信頼や信用というものは、「小さな変化で自己肯定」を得るための材料のようなもので、これから得たいものは大きなジレンマの中で自分の生き方を定めていくという類のことなのだと思う。

それは例えば、動いている時計に、手巻きで時間をぴったり合わせることができることが前者であるなら、
後者は、手巻きで時間を合わせなくとも、自分の今の時間は、どこかのだれかにとってはきっとぴったり同時刻だったりするのだと思えるようになったということで、それは結果だれにも合わせていないのだけど、その誰にも合わせないことで得られるものの中で、できることをしていこうと思うようになったということ。

その誤差が、数分くらいから数十分、数時間の単位で大きくなれるような経験ができる場に自分を置いておきたい。

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そこに付随して、

現場感というものを大事にして生きたい。

理論と理屈、体系づけた考え方というものは絶対的に必要だと思う、俯瞰的な視点はそのためだけに自分を磨いていなければできないものだし、その視点が現場にもたらす影響は大きい。

一方で現場には、俯瞰的な理論や、理屈、体系づけの中では表現しきれない「感情」というものがある。

その両輪をうまくかみ合わせることというのは、経営にとっても、もっといえば、遊ぶことにも、家族をつくることでも、人間関係を構築するすべての場面において大事なことだし、どちらかに優劣をつけるようなものでもない。

優劣をつけるものではないからこそ、いまここで自分にできることはなにか、自分の得意なほうはどちらか、どうしたらその両方を扱うことがもっとうまくなることができるだろうかということを考えていたいし、欠けてる部分を補うための引き出しを少しでも増やしておきたいと思う。

どちらかといえば、自分は現場で感情を扱うほうが好きだ。
得意か不得意かという話ではなく、そこにある想いや、願いや、怒りや、悲しみや、そういう清濁を身近に感じることで、
大げさな言い方をすれば、自分が人間でいることにすごく安心感を得られるような気がしている。

人間臭く、泥臭く、という言葉を今まで何も考えずに使ってきたが、それはつまり自分が自分のまま肯定されるような安心感を得られるということなのかもしれないし、現場にはそういう要素がたくさん落ちているような気がしている。

その空気の中で、考え、言葉をつくっていけるような場所に身を置いておきたい。

*

そこに付随して、

使い古された言葉のようだけど、自分一人でできることの限界なんてものはたいしたことない。

だれかと何かをつくると、自分一人でできるものの何倍も大きなものができる。

何倍も大きなものができるからこそ、だれかを巻き込んでなにかを成すことは、自分一人やることの何倍も難しい、難しいというと抽象的だけど、そこに必要なものは、

共感する気持ち、
その共感を言葉にできること、
想いを具現化すること、
具現化されたものを可視化するときに、巻き込む人の数だけ細かい修正をいれなければならないこと、
歯車を回すための必要なエネルギーはなんなのか明確にすること、
歯車が軋んだ時にどこに問題があって、その対処に必要なものを用意できること。

あげはじめたらきりはないけど、そのどれにも共通しているのは、目に見えないものを形として、スキルとして磨かなければならないということなのだと思う。

それをスキルとして磨き続けて、その先に、「最後は技術じゃないよ、小手先のスキルでは人はついてこないよ」とか大御所っぽい言葉につながってくるのかもしれないけど、今の自分にそこまでの言葉は生み出せないから、すこしづつスキルとしての精度をあげていきたい。

ともあれ、それだけ難しいことだからこそ、得られる楽しさも、一人でできることよりも、何十倍も大きくなるのだと信じてる。

どこまでも楽しいことをしていたい。

*

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Title: くも。
2016.07.08
人は変われるのか変われないのか。ということを考えたときに、

人というくくりで考えるのであれば、変われる人はいるし、変われない人もいるということになるのだと思う。
その差は、現実をどううけとめるかという部分の違いなのだと思う。

一つのつらい出来事が起きた時に、その苦しみに対する対処をすることで終わってしまえば人は変われない、しかしながらその一つの出来事に対して感じる、苦の大きさは人それぞれで、それもまた単一化できるものではなく、誰かの「ささいなこと」で命を落とす人がいることも事実。

変わるということは、その苦の価値観自体、苦を変える構造自体を組み替えなければならない、それには苦への対処だけでなく、自分がなぜ苦を感じるのかというメカニズムにまで踏み込んでいけるかどうかがカギだし、そこを客観的に判断できるかどうかというところが一番難しい部分。

そこを客観的に判断するというのは、つまりは他社と自分の比較、自分の中のコンプレックスや至らぬ点を受け止めねばならないということになるし、それは往々にして自分自身すらも正しく見ることができない状態で凝り固まっている可能性が高いからだ。

苦への対処療法的な心の動きに加えた根治するためのアクション、ここのつなぎが変われるか、変われないかの大きな差になるのだと思う。

最近強く感じるのはその根底にるものは「自尊心」ではないかということ。
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