Title: 叙情的な対となるどんぶりと自己。
2017.02.28

小気味のいい湯切りの音に耳を澄ます。
単調でいて心地よいそのリズムに耳を澄ませていると、
それがまるで催眠術かのようにここではないどこかに誘われる。

それが味噌なのか、塩なのか、醤油なのか。またはそのどこにも属さないものなのか。
そんなことを考えるということはもはやここでは意味をもなさない。

それが" 何 "であるのか?
その問いに対する答えはどこかに存在するのだろうか。

目の前におかれた器の中から立ち上る湯気の向こうの景色がまるで蜃気楼のように揺らぐ。
湯切りをしていた男は、六十前後の小柄だが骨太な体躯をしていて決して人を寄せ付けないような雰囲気を漂わせている。

何が現実でなにが現実ではないのか、うつろとする意識の中で箸を割る。
乾いた音が店内にこだまする。

オアシスに飛び込むかのようにスープをすすりあげるとおもむろに麺を持ち上げた。
麺の上をスープが滴る。
その一滴が器の中に波紋をつくる。

その波紋が静けさとなって広がっていく。
昼下がりにラフマニノフを聞いているかのような涵養にただ身をゆだねる。

今、どんぶりと自分を隔てているものは何もない。
いやむしろその隔たりをつくっていたものはいつだって僕自身だったのかもしれない。

" こちら "と" あちら "の境界はいつだって突然に曖昧になる。

時折その感覚に頭の先から落ちそうになる、それは概念的にというだけではなく、
事実感覚的に落下していたのかもしれない。

やれやれ、何が言いたいかって、

そう、今無性に天一が食べたいんだ。

そして最近「騎士団長殺し」をどっぷり読んでいるということだ。

はい頭の体操終わり、仕事仕事。





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Title: みち。
2017.02.16

デッサンを始めた方が、はじめは3次元の物体を2次元にするってことがどうしても理解できなくて、2次元の動きだけで3次元のものを表現することに一種の混乱のような状態だったのだけど、

ずっと続けていくうちに、ふとその上下だけの動きの中に、物質をとらえる感触が分かってきて、奥行や、丸みや、光など、そういうものを上手に2次元に捕まえられるようになった瞬間があったという、
 
そうなるとデッサンはおもしろくなってきて、目に見えたものをついつい書いてしまうと話を、さらにデッサンの経験のある先生に話したそうだ、
 
すると先生は、それはまだまだ第一段階かもしれない、目に見えたものの形を上手にとらえられるようになると、見たまんまにかけてるようだけど、ある時それがなにか作り物の張りぼてを書いてるような感覚に陥るときがあって、
 
例えば自分のデッサンしたキャンバスの中の胸像を持ち上げたら、とても軽いんだろうなって、見た目は同じだけどなんていうか中身が違うんだよね、その違和感を払しょくするのにずいぶん時間がかかって、それをつかむには、またひたすら書くしかないねっていって笑ったそうだ。
 
そんな話をきいて、それはきっとどんなことをしてても通じる感覚なのだろうなと思った。
 
「話す」ということにも通じてくるし「つくる」「書く」「描く」「食べる」「けん玉をする」でも「焚火をする」でも「料理をする」でもなんでも、動詞で表現できることにはすべてに当てはまるのかもしれない。
 
同じように見えてもなぜか質感や重みが全然違う、つまりは「中身」が違う。その「なぜか」の答えは全部同じところからくるのだと思う。
 
それがなんなのかおぼろげながら見えてきた気がする今日この頃、とにかくやる気があろうとなかろうと"続ける"ということで得られる体感、感覚は、理屈や理論を超えていて、そういう感覚を一つでも多く増やしていきたいものだと思う。
 
本当に大事な、肝みたいな、極意みたいな、核心のようなものは、大抵目にはみえない、言葉や文字では表現しきれない小さな粒みたいなものの積み重ねの先しかわからない。
 
そしてなによりも続けるためには、それを好きになるしかない。なのだろうな。


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