Title: うんたらかんたら。
2017.08.21

あまくない。

あまくないあまくない。なにもかもあまくなんかない。

甘いと思ってもそれは甘くない。

月火水木金土日。

あまくない。

*

放射能がうんたらかんたら、右傾化してるなんたらかんたら、左傾化してるうんたらかんたら、煙草をすったら肺がんになるうんたらかんたら。しじゅうになったら顔に責任をもてうんたらかんたら。

結局のところどうどうめぐって正解はない。

どうでもいいってのはいい加減なことなんだろか。

あるがままありのまま、自分らしくなんて幻想。

自分の身を置く場所でうんたらかんたらはあちこちから降ってきて、

うんたらかんたらいいながら、自分もうんたらかんたら生きていく。

右に左に、上に下に、ふわふわと。

この一歩をしっかり踏みしめてるつもりで、その一歩に自分をしっかりもって流されない自分だなんて思いこみたいのもまた、ただのうんたらかんたら。

柳のようにふわふわとうんたらかんたらに流されて、最後には栄養吸わなくなって、朽ちてだけのうんたらかんたら。

どうでもいいっていってみる。

後ろ指さされてもどうでもよいといってみる。

ほんとはどうでもよくないけど、うんたらかんたらしがみつく。

そんなうんたら人生を、ありのままっていうのではなかんべ。

かっこいいは、かっこわるいの対義語じゃなかんべ。

*

成長ってのは経験が増えることで、経験なんてものは生きてるだけで嫌でも増える。
成長してないなんてことはありえなくて、息してうんこしてるだけでも、1日1日は経験だ。
長く生きるだけでそりゃ経験だ。

どうやったら成長するとか、成長するためにはフットワーク軽くだとか、成長するためにうんたらかんたらいうけれど。

そもそも成長っていうのは、得るだけじゃない、捨てることも失うことも含まれてて、ここでじっと座って、息してるだけで、いろんなこと経験しつつ、いろんなもの捨てながら、失いながら生きてるんだ。

頭じゃなくて、理屈じゃなくて、体感の中に。

んで、

おもうに、やはり、最後はなにか確固たる大人になるのではなくて、
ふわっとなんでもいいような人間になっていけたらいいなと。

結局のとこ、あらがおうともあらがわずともなるようにしかならんのだ。









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Title: 右とか左とか。
2017.08.08

5年前に書いた文章を読み直してみて、時間が流れていろいろなことを経験して、自分は変わったようでも結局根底に流れてるものは変わらないのだということを自覚させられる。

*
 
ある記事で、戦争経験者の老人がこう言っていた。
 
サイパンに新婚旅行にいったカップルが旧日本軍の戦車の残骸に腰掛けて、顔で写真をとったりしているのをみて、
 
左翼の人間は、この残骸は本当におろかな行為の証だなとかいうかもしれない、右翼の人間は、日本国軍人たちが命をかけて散っていた場所で、戦車にに腰掛けて、笑顔で写真をとるとはどういうことだ。と憤慨するかもしれない。
 
でも、私の仲間達、旧日本国軍人が守りたかったのは、日本国民の笑顔だったのです。だからきっと仲間達は新婚旅行でサイパンに来ることができて、笑顔で写真がとれるくらいに平和になった日本を嬉しく思っているんじゃないでしょうか。
 
そしてこの方は、ある時靖国神社で夜になると若者が境内で宴会をはじめるということが目に余るようになって、夜間閉鎖を検討されたときに一人で断固反対したそうだ。
 
そして、若者が笑顔で酒を飲めるなんてすばらしいことじゃないか。
きっとここにいる仲間達も笑顔でそれを眺めているよといったそうだ。
 
なんかこの記事を読んで、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうし、この話もあくまで断片的、側面的なエピソードなのだろうし、すべての戦争経験者の方がこういう受け止め方をできるわけではないのはわかっている。

でも自分は単純だからこういう想いを持ってくれている人が一人でもいるということは嬉しいし、だからこそその想いにいい意味で甘えずに答えなきゃいけないのだろうと思ってしまう。
 
世の中ほんとにこれでいいのだろうか、この方向でいいのだろうかとかなにか息苦しさを感じたり、戸惑ってしまうことだらけだけど、でもそれでもたまにこういう話を聞いて自分の中で足下を確認する。
 
いいとか悪いとか正解とか不正解とかそういうのじゃなくて、自分がどこに進みたいかということを考えた時に、立ち返れる場所としてこの足元をしっかり確認する。
 
これは右とか左とかイデオロギーとかではなく、もっとシンプルな想いの話なのだ。

* 

そのシンプルな想いはすべての根底に流れている。深いところから湧いてくるシンプルな想いには優劣も善し悪しも正解も不正解もないという気持ちはいまも5年前も同じだ。

その上でいま思うのは、それぞれの想いの違いには好きも嫌いもあるし、共感できることもできないこともあるけど、それぞれがそれぞれの背景の中に生み出した答えを統一することなんてできないし、いつだって自分の正解だけが正しいと思いこまない姿勢でいたいということと、どんなに自分と違う考えだとしてもそれは自分と同じ人間が生み出したものであるという現実に目を背けないことだ。

さて夏も折り返し。か。



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Title: N
2017.08.07

脳に血が流れている感覚。この感覚を意識的にでも忘れないように、習慣の中に残しておかなければいけない。
日常の中にこの時間を作り出せるということは、やはりそこには余裕であったり余力とよばれるものがないと難しいのかもしれない。
だからこそ力の分配を意識的に。

自分にとって大事なのは、真っ白な画面に向かって言葉を紡ぐこと。

なにもでてこず、なにも書けず、書き直しては消し、書いてはその言葉がどう見えるのだろうかというところにつかまって、やはり書き直しては消す。そのうちに言葉は自分の中にあるものとかけ離れて言って、何のために続けるのか目的を失う。

自分の中にあるものがこそげ落とされて、頭の中に血が巡って、書き終わった後のリセットされたようなすっきりした感覚、なんとかしぼりだして言葉を書き始めたら、少しずつ生み出した言葉があたらしい言葉をひっぱってきて、思考に指の動きがついてこなくなる感覚。

その積み重ねが自分の中にもたらすものはなんなのか、その効果をはっきりと言葉にするのは難しいのだけど、離れれば離れるほどに、その行為があらゆる場面で自分の中の潤滑油のような役割を果たしていることに気づかされる。何のためにといわれれば、自分のためとしか言いようがない。

足元を確認。

*

自分がここにいることを誰も知らない時間が昔よりも少なくなったこと。

自分がここにいることをどこのだれもが予想もできないような場所というのは、例えばそれはそこで大きな災害などにあったとして、自分を知る人がどんなに考えてもその場所を想像もできない場所にいるということで、それは旅でもあったりするし、旅でなくても、思い付きで入った雑居ビルの踊り場であったりもするし、それはつまりは思い付きでだれにも言わずに行動した日常から見たら突拍子もないイレギュラーな時間ということなのかもしれない。

その時間のなにが大切なのかそれもはっきりと言葉にするのは難しいのだけど、その時間の中に身をおくときに、自分の中にあるなにかがこそげ落とされて、少しづつリセットされていくような気持ちになる。それはつまりその時間の中のある種の責任を放棄するような後ろめたさの中にある背徳的な心地よさを求めているのかもしれない。

*

感覚に何かを任せようと思うとき、それは自分の感覚に対する自信が必要であるし、その感覚を信じられるようになるためには、多くの失敗をしたうえでの傾向と対策と、なによりもその一つ一つを自分の中に蓄積しようという意思が必要。







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