Title: と。
2018.04.19

誰かの摘んだたんぽぽが一輪、園庭に落ちていた。が
それを拾った3歳の子。

拾い上げるとしばらく眺めて、
そして黙って園庭に隅にいくと、穴を掘ってそれを埋め戻していた。

だれにみせるわけでもなく、だれに主張するわけでもなく。
そしてなにごともなかったようにそのまま遊びに戻っていった。

その一部始終をながめながら、
尊いなぁ、と思いました。



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Title: たからもの。
2018.04.16

この時期の園庭は宝物にあふれている。
 
色づいた葉っぱや木の実、だんごむし、砂の中から出てきた少し大きな丸い石、
子どもたちはそれを宝と呼ぶ。
 
自分の力で発見した喜びを誇り、共有し、そしてまた新たな宝探しを始める。
 
大人になると宝というのは、物理的に価値があるかどうかということが前提条件になるが、
子どもたちは「発見すること」そのプロセスそのものが宝物を生み出す前提条件になっている。
そのプロセスの先に見つけたものは唯一無二自分だけの特別なのだ。
 
子どもから大人へ変化するために必要なことの多くは経験を積むことで得られるものが多いけど、
経験をすることで失うものの中には、そういう小さな感動や喜びも含まれる。
 
その原始的な感動や喜びがいつまでも価値をつくる基準の根底にあってほしいと思う。
 
その根底はなににも奪われず、決して失われず、自分自身を支える大きな根っこになる。
という想いを新たに新学期がはじまっています。
 
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Title: ST
2018.04.13

その行動にどんな意味があるのだろうと考えて、そこに意味を見出すことができなかったとしても、
いざ行動をしてみると、そこに考え付かなかったような意味や効果を感じることがある。

頭で考えることというのはあくまで想像の域をでないし、経験則が必ずしも真実とは限らない。
1度2度失敗しても3度目に開けることもある。

経験域が広がれば広がるほど、言い換えれば長く生きれば生きるほどに、
頭の中で描く設計図の上でだけ遊んでいると、楽しさはどんどん色褪せていく。

手を動かし、足を動かし、首を突っ込む。
そこで自分がなにを感じるか、それはいつだって未知数。
何度繰り返しても未知数。

未知数であるということ、わからないということが、楽しさをうみ、その楽しさがまた経験値になる。
経験のメリットを最大限にいかせるとしたら、経験が裏切られる体験ができるということなのかもしれない。

*

幼児教育と仏教の類似点は、めにみえるものだけがすべてではないということ。
本当に大事なことは目に見えないことがあるということ。

そして、快というのは、不快を取り除いた状態を指すということ。

*

本来目に見えないことを感じる力は人間には備わってるが、
それを曇らせるのは経験則。

歴史もまた経験則。

感じることをいつまでも感じたままに大切にしていいのだということを、
声を大にしていえる世界はきっと今よりも少しいい世界なのだろうと思う。

*

OFFになるというのは、日常からの切り離し。
それは物理的な部分だけでなく、精神的な部分も含めて。
むしろ精神的な部分で、日常から精神が切り離されないと、
いくら物理的な切り離しをしてもその効果は半減以下。




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