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2019.08.27

「目に光が灯る」という言葉がある。

若い時、なにかを形にしようと、何かに向かって頑張ろうと思う時には、気合いを入れて、身体のどこかに力を入れて自分自身を奮い立たせ、内側からみなぎるエネルギーを四肢に込め、全身で力を、勢いを想いをあふれんばかりに吐き出そうとしていたように思う。

それは思うに、それは自分の力でなにかを捻じ曲げてでも、ねじ伏せようという力なのだったと思う。

それから、いろいろなことを経験し、「頑張る」ということの素晴らしさも、残酷さも、喜びも怖さも感じてきて、最近思うのは、なにかを成し遂げるときに必要な力は、五体四肢に込めるだけではなくて、目に灯しておかなければならないのだということ。

全身に青あざを作り、汗流しながら必死に髪振り乱していても、目に灯る光が消えかけてしまったら何も進まない。
もう立ち上がれないと、心も身体もくたくたになったとしても、目に灯る光が消えなければ必ず先に進める。

いろいろな人を見ていて、どんなに熱く夢や希望を語っていても、なにか目に見える形を残している人でも、目に光の灯ってない人たちがいる。小手先だけで形は整えられても目の光は嘘をつけない。

逆になにをどうして始めていいのか、どうやって前に進んでいいのか迷いに迷っていても、目にしっかり光の灯っている人がいる。

その差はとても顕著なのだということをまざまざと感じた夏だった。

目に光を灯すために、自分に何が足りないのか、なにをみて、なにを感じて、なにを発して、自分自身の様々なフェーズの中で、右往左往翻弄される中で、いなし、逆らい、流され、おぼれかけながらも、目に光を灯せ続けられるように、もっと自分の取り扱いを、変わりゆくことを恐れずに、楽しんでいきたいと思う。

*

つくづく、自分の中のおぼろげな仏教が、
ことあるごとに、あぶりだしてくるのが、
「人間の分限」を知るということ。

分限というのは、限界とは違う。

分限はすなわちそれは、手を放すことなのだと思う。

そして手を放したときに、救われるしかない自分の現実というものが、
諦めや敗北とは違う意味で、すごく心の中の、
どうにも人の中から生まれてくるものだけでは埋めきれない、
重箱の隅のような部分を満たしてくれるような実感を感じている。

*

「夏にしか感じられないこと」は自分にとって特別なことなのだけど、
それはいつも同時に、冬にしか、秋にしか、春にしか、そして今日にしか、
今にしか感じられないことがあるということをまざまざと教えてくれる。





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Title: eneru
2019.08.06

エネルギーには2種類がある。

内側から湧いてくるものと、外側から流れ込んでくるものだ。

その内から外から湧いてくるエネルギーを心のどこかに貯めておきながら、
それを補充しながら、なみなみに満たされている状態がベストなのだけど。

そのタンクには、3分の1ぐらいのエネルギーしか満たされていないのに、
内側からも湧いてこず、外側からはいってくるものも十分に取り込めず、
空炊き状態で、その熱くらってやられちゃうときもある。

むしろ、年を取るということのデメリットに、省エネでも動けるということがある。
いやむしろ省エネでしか動けなくなるのだ。

なみなみに満たされた燃料はむしろその重みに燃費を悪くする。
軽い状態で省エネ運転するのが負担が少ないぜなんてことを、
頭ではなく、身体が自然とこなすのだ。

使わないものは衰える、身体も心も、感性もすべてだ。
それを使うにはエネルギーがいるのだ。

それをどうにかいれなければいけないのだ。
タンクがさび付く前に。

*

何年かぶりに、ぷちっと次のステップに上がる手ごたえを感じている。
ずっと、ここ何年か、同じ場所でずっと足踏みをしながら、なにもかもに焼き直しをしながら、
自分の今持っている技術や武器や能力を再確認しながら、
その使い方を持ち方を、衰えるなりの素振りに、姿勢に、体勢に適応させようと、
ひとつひとつの動作を所作を、丁寧に確認する作業をしてきたように思う。

自分の勝ち筋、自分のルーティーン、自分のパターン、
その中で力でねじ伏せることで、成し遂げてきたことを、
いかに力を使わずにおなじ道筋をたどるか、
そこに注力してきたように思う。

そこで気づかされたのは、
力まずとも、力をだし、
力をだしつつも、力まないコツ
のようなものであり、

そのコツの一番深い部分にあったのは、
言葉にするととても陳腐な響きなのだけど、
自分を信じ、頼り、そしてなによりも、自分の範疇を手放すことなのだなと。

そして、人は一人では生きられないけど、
でも現実は一人きりなのだという事実を、
喜びをもって受け止めることなのだということだ。

*

あれやこれや、こねくりまわして紡ぎ倒して、
結局のところでてくるのは、
あの頃と何ら変わらない、
青臭いものでしかないのだ。

でもそれをもう青臭さとは呼ばないことにした。

*

悔いはない。後悔もない。
思い残すこともない。

と、心から信じて疑わない精神状態の時こそ、
ものすごい執着が心の中には渦巻いていて、
結局のところ、人間てものはつくづく人間なのだなと、
その業の、執着の深さには、
いまさらながら、まさに救われることでしか救われないわと、
その実感が自分のものになりつつあるような気がする。

*

なかなか引きはがせなかった。
おもいっきりに力ずくでひっぺがそうとしてもはがれなかった、
日常とか、今とか、そういうものに癒着する自分を、
無理やりにでもはがしたかった。

それは旅であり、言葉であり、曲であり、海であり、夏であり、匂いであり、夜風でもあり、
愛でもあり、塀の上をあるくことでもある。

無理やりにでも時々ひっぱがしておかないと、はがれなくなって、一体化して、
自分が、今に、日常に、一体化してしまうような怖さがいつまでも拭い去れなくて、
それはもう躍起になって、べりべりと、かさぶたのようなところから血が出ても、
力ずくではがさねばという焦燥はどこからくるのだろうかと、
自問自答する。

自問自答しながらも、ありとあらゆるものに頼り、ひきはがそうと試みる。

散々そんな抗いを続けてみて、もうほとほと疲れて、
息をついて、もういいやと、このまま自分がどこに埋もれて消えていってもいいやと、
開きなおってみると、みるみる沈んでいって、
沈み始めてる最中には、焦りや、怖さや、どうにもいえない苦しさの中でもがいたりもしたのだけど、
もがく力も失って、底まで落ちてみたら、
なんてこたない。

そうかそういうことだったのかと。

結局のところ、年を取ることと、ひっぺがせないことの相関関係もよくわかって、
そこに気づかされたら、なんてこたない。

そういうことだったのかと。

おもしろいもんだな。

堂々巡りして、同じところを、同じじゃない自分が堂々とめぐるのだ。


*

身体も、心も、手も足も、頭も、
いままで共に生きてきたこの五臓六腑は、
思いのほか、自分をしっかり自分たらしめているのだなと。

いままで、それを全部使い倒してやるつもりだったけど。
決してそうじゃない。

この五体、五臓六腑は、
まぎれもなくどこまで行っても、
自分を自分たらしめるものを、
自分よりも覚えているものなのだな。







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