Title: 一輪の。
2017.09.21

比較的穏やかな時期。

*

有象無象いろいろな悩みや、解決しなければいけないことや、片づけなければならないものが重なって、無意識にも脳のメモリーがバックグラウンドで動いている時に忘れてしまう大事なこと、例えばそれは季節の変化や、それに伴う心や体の変化、腰を据える感覚とか、楽しむ姿勢とか、丁寧な生活とか。

そういう、目には見えないものを捕まえる目が閉じてしまうような時に、焦燥のようなものを感じるし、そういう焦りがまたいろいろな歯車を狂わせる。

そういう時、いままでの自分は環境を変えようとしたり、習慣に変化を加えたりしながら、やたらと楔をうつことに執着していたように思う。

でも最近、そういう時にも感覚的なアンテナはしっかりと立っていて、なにかに追われながらも意識とは別のところで、身体のゆがみを自然に補正するかのように、内側から働きかけていて、そのちゃんと働きは自分の中に沈殿している実感があって、

例えるなら、なにかに追われていると、心の中のコップのようなものが、蓋をされてしまうような気がして、その蓋を取り除かねばならないと焦っていたのだけど、でもよくよくみたら、蓋なんかなくて、コップのほうを向いてなくても、ちゃんとこの瞬間にも水は注いできていると思えるようになったということ。

この変化はとても大きな安定につながる。

その安心が物理的に負荷の少ない時の心の柔らかさを、負荷がかかった状態でも保てる一つの要因になる。

*

そしてやっぱりロックはやさしい。

臭いものに蓋をしない姿勢を教えてくれる。

さらけだす姿勢は、さらけだされた人を包み込む姿勢だ。

*

昔、船乗りは帰る場所があるからこそどこまでも遠くにいくことができるという言葉を聞いたことがある。

その言葉の意味が実感として、40を手前に少しお腹に落ちてきた気がする。帰る場所っていうのはどんなものでもいい、それが物理的な場所や、つながりの場合もあるし、抽象的な目的や理由でもいい。

旅にでようと思うとき、やはりゴールはここではないどこかではなくて、あくまでゴールは最初に一歩を踏み出したこの場所であるのだと思う。

いつだって旅人はスタートがゴールなんだ。
そう思えた時に、また一人旅にでたくなった。

*

泣き止まない子がいたり、へそを曲げる子がいたり、大人には理解できない理由で取り乱す子がいる時、
その子が求めているのは、慰めじゃなくて、受け止めてほしいだけなのだ。
そのまんまの肯定なんだと思う。

そのまんまを受け止める心がどれだけの人を救えるか。

*

戦える体になりたい。
それは物理的に。

いまの自分は戦える体じゃない。

戦にでたらすぐにへばって、取り囲まれて斬られる。

だからまず戦える体になりたいと思った。

なにと戦うかとか、敵はどこにいるのかとか、
そんなことはわかんないけど。

今わかっているのは、いま自分は戦える体をしていないということだ。

*

例えばはじめてクロールを覚えて、25メートルを泳ぎ切れたときのクロールと、
海で泳ぎ始めて、遠泳をしたあとのクロールは、同じクロールでも別物で。

力の入れ方も息継ぎの仕方も、心の持ちようも違う。

自分のクロールもだいぶ変わったのだと思う。
でもクロールはクロールなんだ。

*

ぐるっと回って同じところに立ってるような気がしても、それは同じところではなくて。
それは物理的な問題ではなく、そこに立つ自分の感覚と視点の問題。

*

"らしさ"みたいなものは単色をではなくグラデーション。

*

波風立てづに、長生きしたいと思うようになったけど、でも何かを守るために刺し違える覚悟は忘れまい。




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Title: みたもの。
2015.04.28

青臭くありたいとおもった。

なによりも青臭くありたいと。

いつもフル稼働してる部分はびっくりするくらいに動いてないのに、そのかわりに研ぎすまされてくる部分があって、そこが研ぎすまされている時自分はとても満たされるのだ。いつまでもそこに身をゆだねていたいと思うほどに。

肌感覚といえばそれまでなのだけど。

その感覚を信じて、違和感を信じて、その感覚に身をのせる感じがたまらなく好きなのだ。

頭も身体も解放しているときには、自然といままでの経験や体験、自分の中に蓄積されたものが意識をこえて働きかけてくる。だからこそ経験は大切だし、失敗も苦しみも成功や喜びと同じくらいに大切なのだ。

自適其適に。

自分はどこでどうありたいか。それをあらためて確認できたような2日間だった。

スナフキンも言ってたな「僕は自分の目で見たものしか信じない。けどこの目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ」って。

*

無意識に働きかけてくる経験の具体例。

人が集まる場所において、例えばそれが街だとして。その街のどこに自分好みの場末な店があって、どこに宿があって、どのあたりに柄の悪い地域があって、どのあたりが安全なのかとか。どこまでが旅行者の踏み込める領域で、どこからは踏み込まない方がいいのかとか。どういう路地をすすめば自分の好きなものがありそうなのかとか。

目には見えないけど、それが東京であれ、一ノ関であれ、上海であれ、カトマンズであれ、ラサであれ、デリーであれ、バンコクであれ、それぞれ国も規模も違えと、街という一つの集合体の中には共通するものがあるようにおもう。

目に見えて線が引いてあるわけじゃないけど、それぞれブロックごとに色分けされてるみたいに感じる事がある。

それが宿を探すのに絶対に進んではいけない方向とか、この時間に踏み込まない方がいい路地とか、お腹がペコペコのときに進むべき方向だとか、すべてが予定通りに進まずに途方に暮れたときに進むべき道を、肌感覚として時にそれを違和感として自分を導いてくれるように感じることがある。

その時に、ガイドブックやスマートフォンとにらめっこをしていると、見落としてしまうことっていうのがあるような気がして、そういう時こそ目をつぶりたいと思っている。

それは、1か0か、感覚か情報かという二極化した話ではなく、どちらも大事なのに、感覚的な部分が往々にして忘れられてしまうことが多いように感じるわけです。








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Title: デフラグ。
2014.08.08

海に浮かんで、海底を見ていたら、きれいな石や、陶器の破片や、ガラスの破片が落ちているのです。どれも波と潮にもまれ、角がどれてやさしい丸みになってキラキラと。

それをひとつつまみあげて、またひとつ、またひとつと集めていくうちに、だんだん欲が出てきて、これはきれい、これはいまいちなんてことを思いながら選りすぐりの石や陶器の破片とガラスの破片をあつめながら感じたこと。

同じ形のものは一つとしてなくて、そのひとつひとつが、長い年月をかけて波や潮や、たくさんの不可抗力の影響を受けて角が削られて、沖に流されては、浅瀬に打ち寄せて、そしてたまたまこの手の中にあるわけで。それはまるで人生と同じようだと思ったわけです。

島に出る前に、テレビのニュースをみていて、つくづくこの不可抗力がひとつの結果に結びついているのだということを実感したのだけど、それが遠く離れた島の海の上で繋がったりするのです。

目に見える物は本当はすべて繋げられると思う。

目に見える物や、そこにある結果はすべて、本当は目に見えない不可抗力の上にのっかていて、その目に見えないなにかは本当に不可抗力で、生きるというのはその流れの上に浮いているだけで、その流れは凪いでるときもあればうねりを伴うこともあって、いつ変わるかわからないその満ち引きに翻弄されて、翻弄される度に自分の器を、心を、自分はそれを無理矢理にでも適応させていくしかないのだなと。

成長というのは、つまりはその流れにいかに翻弄されたかで、自分自身の力だけで積み上げていくことだけを指すのではないのだと。成長ひとつとったって、縁が熟さなきゃ実を結ばないのだと。

ぷかぷか。

夏というのはいわば脳のデフラグだな。

気づけば外はミンミンゼミ。夏も中盤。

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Title: しきね。
2014.08.06
今年も大人の夏休み。夏充電。

30も半ばのおっさん達は、蝉の声で目を覚ますと、朝から日が傾きはじめるまで、ひたすらに泳ぎ、ひたすらに潜り、ひたすらに食べては飲み続け、電池が切れたように眠るのです。

そうして5日も島タイムの中にいると、頭の先から足の先までとろりとほどけるのです。どのくらいほどけるかって、毎朝民宿のトイレに座っている時に入れ替わり立ち替わりにはいってくる人達を感じながら、なにかそこにある人間の営みのようなものに思わず感じ入ってしまうくらいです。

息子も朝日にむかって思わず手を合わせてしまうってなもんです。

そんな、ザ・日本の夏休みも今日で終わり。

東京に戻り、お腹ペコペコで船を下りたときに、目に飛び込んできた昼食の選択肢多さに一瞬迷った自分がいて。ああ、この迷いがまさに東京砂漠の入り口なのだなと思いました。そして今、家の近所を散歩してたら、こんなにも東京には一人でぼけっと座っていられる場所が少ないのだなと感じました。

さよならさんかくまたきてしかく。

ポン酢醤油はキッコーマン。

まだまだ夏ははじまったばかり、まだまだ貪欲に充電、つくつくぼうしまで走り続けるのです。

あなかしこ、あなかしこ。

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Title: 唐揚げとハイボール。49。赤い羽。
2014.01.02

想いっていうのは、とてもシンプルなものだ。

人間というのがなんなのか、なにを信じて、なにを想って死んでいくのか。それはとてもとてもシンプルなこと。

例えばそれは、暖かいご飯で結んだおにぎりなんかにほっこりするようなものなんだきっと。その程度でしかないのだ。でもその程度のことに、心から笑ったり泣いたりできるのが人間なんだ。

ただそれだけなのだけど。ただそれだけのことがわかるのにすごく時間がかかった。時間がかかったけどよくわかった。ぷちっとわかった。

死んでいくまでにできることや、考えられることとか、成し遂げられることというのはたかが知れていて、たかがしれている中で必死にばたつくのだけど、でもやっぱり暖かいご飯で結んだおにぎりにできることなんか超えられないんだ。

だから、だれかを言葉で頷かせたり、やりこめたり、立派になることなんかよりも、おむすびを結べるほうがきっと大切な事なんだ。

正直言えば、それは自分がずっと浅いことだと思い込んでいたところなのだけど、その浅さというものが、深さの対比ではなくて、まさに人間のそのものであると思えたことは自分にとっては大きな一歩で。

この一歩が退化なのか進化なのかとか。

そんな言葉もおにぎりの前では無力であり、不言なのだと。深く確信する。生きる意味とか、出会った意味とか、あの時のたらればとか。それもまた無力で不言だ。

自分が30数年で作り上げてきた世界のなかで、価値がないに等しい物が、ある瞬間に一番価値にある物に変わる。この感覚、この気持ちよさ。この体感こそが生きてることだ。

世界はとてもシンプルに出来ている。
シンプルという言葉も無意味なくらいに。

それをややこしく、がんじらめにしたり、ときに派手なミラーボールで着飾ったり、ヤニくらしたりしたりして、必要以上に魅力的に、そして灰だらけにしてばたつくのが娑婆ダバダ。

今年は、いまこの手の中にのった気持ちを確たるものにする。それだけに費やす。

音と空気をもっと。


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Title: 旅。
2013.03.10

備忘のために。

若者よ、旅に出なさい。まだパスポートを持ってないなら、今すぐ作りなさい。夏になったら、リュックを背負って、デリー・サイゴン・バンコク・ケニヤに行き、ショックを受け、感動しなさい。食べたことのない料理を食べ、面白い人と出会い、冒険に出て、危険から身を守りなさい。帰ってきたら自分の国が違って見えるでしょう。首相も同じ人なのに、違う人に見えているでしょう。音楽、文化、食べ物、水資源の見方が変わるでしょう。シャワーを浴びる時間も短くなっているはず。「グローバリゼーション」の本当の意味もわかってくるはずです。それはトム・フリードマンが言ったフラット化する世界ではありません。地球の気候の変化と環境破壊が決して嘘ではないこともわかるでしょう。ある人の一日は、バケツ4杯分の水のために20km歩くだけで終わります。あなたのフライトの向こうでは、どんな本も先生も教えてくれない授業が待っています。多くの人は、帰ってきた時に初めて全てがはっきりし、頭の上に電球が浮かぶのです。

ヘンリー・ロリンズ(一部改訳)


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Title: コピペ。
2012.11.09

糸井重里さんが毎日かいてるエッセイがとても共感できたので備忘の為にコピペ。

・ぼくは、わりと人に「ひとり旅」を薦めます。
 なにかの節目とか変わり目のところで、
 どうしようかわからないときには、
 「旅にでも出てみたら」と言います。
 ちょっとね、劇画のなかのセリフみたいですね。
 
 ひとりで旅をしていたら、なにをするにも、
 じぶんで考えて、じぶんでやらねばなりません。
 いくら情報を増やそうが、知識を詰めこもうが、
 判断するのも行動するのもじぶんです。
 そして、旅の間は「なれてない問題」が出されます。
 どう答える、どう考える、どうすればいい?
 じぶんの「いつもの場所」にいたら、
 考えなくてもできることばかりでしょうが、
 旅先では、いちいちが新しい問題です。

 移動のための切符や泊まるところの手配、
 食べものをどうするか、天気とどうつきあうか、
 暑さ寒さと服装との関係、
 さみしさをどうするのか、うれしさをだれと分けるのか、  
 退屈はどうする、眠る算段、洗濯やゴミのこと、
 お金の計算はどう立てる、すべてじぶんの判断です。
 つまり、旅って、アウトプットの連続なのです。

 いまの時代、たいていの人が「インプット過多」です。
 取り込むことばかりに熱心で、
 それに比して使う(出力する)ことが少ないんですよね。
 でも、「ひとり旅」をしている間は、
 ほとんどの時間がアウトプットになります。
 これが、その人の生きる力を甦らせてくれる。
 実践につぐ実践が、人を成長させると思うのです。

「今日のダーリン」
http://www.1101.com/home.html


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Title: ちゃいないっちゃいな。
2012.09.19

10年ほど前に20日ほどかけて中国を横断した。

日本から鑑真号にのって上海まで渡り、西安、西寧と途中で数日沈没しつつも、電車とバスを乗り継いでゴルムドまでいき、そこからバスでチベットのラサにはいるコースだった。

当時は小泉首相時代と言うこともあり、まさに靖国参拝をするか否かの時だったので、やはり各都市で日本人に対して露骨に嫌な顔をする人達がたくさんいた。

電車のチケットを売ってもらえなくて、3日も足止めされたり、宿でも門前払いされたり、目の前に商品があるのにメイヨー(没有)と言われてしまったりということもあったし、露骨に嫌な顔をしてくる人もいた。

中でも忘れられないのが、西安の駅で、毎日朝から切符を買いに行ってるのに売ってもらえず、1日の大半をおしりまるだしの子どもたちが闊歩する広場でぼけっとして過ごしていたら、ある中国人が話しかけてきて、おまえは靖国参拝についてどう思う?と筆談で聞いてきた。

そしてその様子をみていた周りの中国人が集まってきて、軽く人だかりができたのだ。

人だかりの中心に、紙とペンをもった自分。

それを固唾をのんでみまもる中国人達。

正直、個人的に靖国参拝に関しては大賛成だし、するべきだと思っていたが、ここで靖国万歳とか書いたらやられるな・・・という思いをリアルに感じたのを今でも覚えてる。

そこで自分は「我不望靖国参拝」と書いた。このメモは今でも持っている。

先日中国のデモでユニクロが「支持魚釣島中国固有領土」と書いた紙を貼りだして、売国奴だと言われているようだが、そういう意味は自分も売国奴だと思う。

その時中国を旅して感じたのは、中国の中にはたしかに反日の空気感というのは根強い。

でも旅の間、本当にたくさんの中国人に助けてもらった。

上海では、港に船が着くなり車で宿までおくってくれたおじちゃんや、自分のお母さんに合わせたいと家まで連れて行ってくれた日本料理屋の人もいた。駅のホームがわからなくて困っていたら必死に自分ののる電車を探してくれた人もいる。

西安で3日も切符が買えずに毎日駅にいた姿をみるにみかねて、見知らぬおばちゃんが窓口に行って、あの日本人に切符を売ってやれと言ってくれたり。

西寧では家にまで招いてくれて食事をさせてくれた公安職員の人もいたし、一緒にビリヤードをしようと誘ってくれて毎日謎のルールのビリヤードをしたり、一緒にお酒をのんだり、床屋につれていかれたり、あまりに居心地がよくて何もない西寧の街に1週間も沈没してしまったほどだ。

実際に旅をしてみて、中国の駄目なところ、悪いところは嫌というほどよくわかった。でもそれと同時に中国のいいところもたくさんわかった。

嫌な人もたくさんいたけど、同じくらいいい人もたくさんいた。

ナショナリズムというのは、とても厄介なものだ。

あのニュースをみて売国奴だという日本人も、中国で略奪をする中国人もほとんどがお互いの国に足を運んで、お互いの国の人間と深く関わったことがないのじゃないかと思う。

お互い自国から一歩も動かずに、だれかのつくったイメージだけで、愛国だ売国奴だと騒ぎ立てることで何が生まれるというのか。

それとユニクロの対応について。

もし自分があの店で働いていたとしたら、あの判断ができない責任者の下では働きたくないと思う。どういう想いで働いているのかはしらないけど、自分のつまらないプライドで、店や雇用が失われるのを何ともおもわないような経営者はきっとなにをしてもうまくいかないと思う。

とくにユニクロ贔屓でもないのだけど、今回のことに関しては、郷には入って郷に従わないことが愛国心であり、郷に従うことで売国奴だと呼ばれるのだとしたらそんなナショナリズムは間違ってる。

NOと言えない日本人、弱腰外交だといわれるし、自分でもそう感じることはたくさんある。

でも日本人は空気を読むこと、間を読むこと、言葉にしなくても感じあう心、そういう部妙なニュアンスや空気を読む力をこの狭い領土の中で育み、共に生きてきた単一民族であり、日本人としての独自性というのはむしろその柔軟性と、懐の広さだといってもいいのではないかと思う。

だから世界中に日本贔屓の国が多いんじゃないか。

大和魂だ、愛国心だというのが、それが強固な自己主張の上にあると思い込むのは、間違っていると思う。

愛国心とはそんな浅いところにあるものではない。

日本人はもっと懐が深いのだ。

万人手を取り合って平和を目指そうなんてナンセンスなことはいいたくないし、毅然たる主張をして衝突をさけられないということはあると思う。

でも靖国神社の遊就館にいくといつも感じるのだけど、日本が戦争をしてまで守りたかったもの、戦争をしなければ守り抜けなかったものは、ちっぽけなプライドや愛国心じゃない。

もっと深い部分で日本人が守りたかったものはなにかがわからなければ、愛国心なんか絶対わからないし、日本が戦争で失ったものがなんなのかわかるはずがない。

なんて。てへぺろ。

ちゃいないっちゃいな。 

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Title: ねじまきし
2012.08.08

暦では立秋を過ぎて、これからの暑さを残暑というそうだ。

島から戻ってきて、存分にいろんなものを浴びてきて、ほっと一息ついたら夏も残り香らしい。でもまだ折り返し、もう少しだけ夏っぽさを味わっておきたい。

島では毎朝、日が昇る頃には布団を這い出して、朝の散歩をしていた。近くの海岸に座ってじりじりとあがってくる太陽を眺めながら考えていたのだけど。

やっぱり自分にとって、体感することというのはすごく大事で、夏とか海とか、空とか、朝焼けとか、想像の中でこんなもんだろうと線をひくのはいくらでもできるのだけど、でもやはりそこに行って、見て、感じて、それを自分の中で反芻することで、ふと気づかされたり、頭ではないところでわかる事があったり、あたりまえにあるものの価値を再確認したりできたりして。自分はそういう足下を確認するような作業が好きなのだ。

そして最後の最後は、そういう作業を得て自分の中に残ったものがここ一番で説得力をもって背中を押してくれるのだと思う。

人生を楽しもうという姿勢はだれにも干渉されるべきものではないし、誰になんて言われようと、死ぬまでのあと数十年の間、人生楽しんで生きていきたい。

自転車にのって坂を下りながら、身体で風を感じながら、夏色を口ずさみながらそんなことを思ったりもした。

曖昧というのはわからないものをぼやかすための言葉ではなくて、白と黒の間じゃなくて、それだけでしっかりと独立した1つの答えなのだと思ってる。

答えの数は感性の数だけあっていいのだと思う。

この夏と秋の境目とか。



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Title: インド旅 ナーランダ編
2011.09.08

霊鷲山を後にした後はビンビサーラ王の幽閉跡地と竹林精舎へ。

幽閉跡地は今はもうほぼ野原のような場所で、わずかに石積みの跡があるだけで、そこに悠々と牛が闊歩しているだけの所なのだけど。ここで幽閉されていたのか、ここで阿闍世が・・・ここでお后が身体に蜂蜜を・・・とか妄想(ちなみに妄想はいつも手塚治虫のブッダのシーン)しながら思いを馳せる。そして竹林精舎へいったのだが、ここは特筆して書くこともそんなにないので割愛。


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【幽閉跡地、悠々と牛が闊歩する】

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【竹林精舎の池、仏陀が水浴びしたそうだ】

そして足早にナーランダへ向かう。

ナーランダにつくと、インドに来てから初めてではないかというくらいの快晴、ぎらぎらと照りつける太陽。そして観光客もいなくて、ほぼ貸し切り状態のナーランダ僧院は妙な静けさに包まれていて、なんかその雰囲気が、この遺跡の存在をとても印象深いものにした。

インドに行く前には、ここにそこまで感情移入するほど思い入れも知識もはなかったのだけど、ここにきた瞬間に心にぐっとくるものがあったのだ。

正直言うと、今回見た仏跡の中では一番よかったといってもいいかもしれない。


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【インド初の抜けるような青空】


ここの遺跡の造りをみながら、ここで当時何千人もの学僧が勉強していて、あちらこちらで議論をしたり、講義が行われたのだと思ったら、心の底からこみ上げてくるものがあって、その息づかいまでもが遺跡のあちらこちらから聞こえてくるような気すらしたのだ。

ここで仏陀や龍樹菩薩が講義をして、舎利佛尊者や西遊記にでてくる三蔵法師が勉強していたのだ。それだけではない、アジア中から、熱く熱を帯びた僧侶が集まってきたのだ、それを想像しただけでドキドキする。

そして当時ここの書庫には、膨大な書物と原典があり、それがしっかりとカテゴリー分けされて、部屋ごとに分けられていたそうだ。そして大きな食堂があり、寮のような部屋もある。仏教を学ぶ為の環境がすべて整っている。

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【書庫跡】


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【ここで色々な講義がされたそうだ】

遺跡を見ながら、ふと当時のことを想像していたら、いつのまにかその空気を共有した気になってきて、自分もそこの角を曲がりながら、午後の龍樹の講義だるいね・・・なんていいながら、木陰で授業をさぼったりしたかったなとか思ってしまうのだ。

しかし今、自分の目の前に広がっている風景は、破壊され、わずかに土台の残るこの姿なのだ。当時最盛を誇っていたナーランダ僧院も、歴史の中で破壊され、このような姿になってしまっていることに、まさに諸行無常を感じた。

ふと、夏草や兵どもが夢のあとなんて句を思い出す。

でも、ここがこういう姿で廃れてしまっていても、ここで説かれた教えは多かれ少なかれ形を変えてでも、間違いなく自分の所まで届いているのだ。

その事実に改めて教えとか、法とか、そういうものの持つ力の大きさを感じたのだ、外からどんなに弾圧されようと、破壊の限りをつくされようと、膨大な書物が燃やされようと、いま間違いなく仏教は生きている。それは大事に守られて生かされてきたからではないと思う。仏教の教えそのものの持つ力なのだ。

歴史の中で、必要のないものであればとうに消え去っているであろうものが、何千年たった今も、自分の手の中にあるというこの事実は、自分がこの先に進もうとするときにきっと背中を押してくれるのだろうと思う。

そして、今の自分なんて仏教の表面をなぞったぐらいにしか学んでいないし、表面をなぞっただけなのにわかったような顔をして、えらそうに法話なんかしていて、そんな自分が浮き彫りにされたような気がした。

きっと、目の前に広がる風景は、荒涼としたただの遺跡なのだけど、ここにあったであろう熱の欠片はまだ、この遺跡のあちらこちらに染みこんでいるのかもしれない、その残り香のようなものが自分をそういう気持ちにさせたのかもしれない。

この空気を感じられてよかった。

普段、当たり前のように仏教を扱っていて、教典を粗末に扱っているわけではないけど、つい大事にすることを忘れてしまったりするときもあるし、もっともらしくうまいことを言えるようになると、そこにかまけて自分自身学んだり、感じたりすることもおろそかになったりするし、なによりもたくさんの先人とか歴史があってはじめて、いま自分の手の中にこの教えがあるのだということを忘れてしまう。

それと、仏教は決して妄信的なものではない、たくさんの人が苦しみとは何であるかを突き詰めて考えて、その正体を明かして、その対処の方法を考えた結果の上にあるものなのだ。そしていつの時代でも人間の持つ根源的な苦しみは同じであるからこそ、今も仏教は死んでないのだ。

当たり前なんだけどでも、そういうことを忘れないようにしようと思った。

なんて。そんなことをこの遺跡を見ていて感じたのだった。


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Title: インド旅 ラージギル:霊鷲山編
2011.09.02

この日は朝からゲストハウスを移動。

そしてラージギルへ、朝から雨がしとしと降っていたのだが、まあそのうち止むだろうと高をくくって出発。途中いくつか村に止まり、一路ラージギルへ。

まずは霊鷲山(ブッダがたくさんの説法をした場所、法華経、無量寿教、観無量寿教もここで説かれたと言われている)霊鷲山は山の頂にあるのだけど、そこまでいく方法は2つ、山道をゆったりと登っていくか、ロープーウェイにのるか。

初めはゆったりと山道を歩こうとしていたのだけど、ロープーウェイと呼ばれるものを見た瞬間に、ドキがムネムネ。これにのるべきだなと決意したのだ。

そこにあったのは、ロープーウェイとは名ばかりの、今にも落ちそうなさび付いた、ゲレンデのリフトのようなものがぶらさがっていたのだ。そしてそれで山頂を目指すことに、なにげに、ラカンが若干びびり気味で、歩いた方がいいよ・・・と言っていたのだけど、強行突破。


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【ある意味絶叫マシン】

乗ってみるとさすがにちょっとこわい。インド人はすごいな、これでも平気な顔しているんだもんな・・・と思ったら、向かい側から下りに乗っているインド人の顔も心なしかひきつっていたので、なんか妙に安心した。

気持ちはみんな一緒なのだ。

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【不安げなインド人】

そして山頂にある日本のお寺(南無妙法蓮華経と書かれていたのでおそらく日蓮宗のものと思われる)を参拝して、いよいよ霊鷲山の頂へ。

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【ここには日本人僧が常駐しているそうだ】

舗装された道とはいえ、のらりくらりとあるくと20~30分はかかる。

のんびりと景色を眺めながら山頂へいく途中ラカンは茂みに入っていっておしっこをしていた。ラカンのおしっこのタイミングはどうにも間が悪い。

そしていよいよ山頂。

途中スリランカの巡礼の団体があちらこちらにいたので、山頂が混んでるかと思ったのだけど、ちょうどタイミングよく誰もいなくて、貸し切りでお参りをすることができた。

そこで「嘆仏偈」と「三誓偈」をあげる。


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【貸し切りの山頂で存分に声明】

なんか山の頂から、いろんなことを想いながらあげるお経はとてもすがすがしいの同時に、ここでこのお経を上げたことで、ここで説かれたものが、シルクロードを越えて、中国渡り、海を越えて日本に入り、長い時間と歴史を越えて、いま自分の中にあるというこの事実が、いままで頭ではわかっていたようだけど、その重みみたいなものがずしんとくるような気がして、本当にここにきてよかったと思った。

そしてお経を終えて頭を下げると、そこを管理してるおじさんが、これと同じものを置いてくれ、といって祭壇を指さすと、そこには茶ばんだ一万円札が置いてあったのだ・・・無論そんなお金のない自分は、ポケットの20ルピーだけおいたのだけど。

そして、ぼけっと眼下に広がる森を眺めながら、きっとこの景色はきっと何千年も変わっていないのだろうな、もしかすると仏陀もこの景色を眺めていたのかもしれないと思ったのだ。


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【眼下に広がる森】

そんな妄想に浸りながら、色々と考えているときに、なんか突然、仏陀が自分の子どもに羅睺羅 :ラーフラ(障害をなすもの)と名前をつけたエピソードが思い起こされて、なんかふともしかすると、羅睺羅というのは、自分にとっての障害という意味ではなく、生きとし生けるものすべて自分の子どもを持つという現実は、それだけで切りがたく離れがたい執着を得ることになるのだ。それを瞬時に悟った仏陀は、その目の前の子どもに羅睺羅と名付けたのかもしれないと思った。

言うなれば、自分の邪魔になるから羅睺羅と付けたのではなく、自分に子どもができた瞬間に、人間の根源的な執着に気づいたのではないだろうか、そして羅睺羅は自分の羅睺羅ではなく、人間の羅睺羅だったのかもしれないと思ったのだ。

そう思ったら、なんかいままで、なんて身勝手な親なんだろう、というよりも自分の子どもに障害なんて名前をつける親なんてどうかしてるぜ、なんて思っていたのだけど、仏陀の見ていたものは、もっと大きなもので、自分の道や、自分の生き方というのは、同時にそれは人間の悩みであり、根源的なものであることを知っていたのかもしれないし、同時に、自分の子どもに羅睺羅と付けた行為は、反骨的なものでも苦しみの中からでてきたものでもなく、人の根源的なものに対するいい意味での諦めと、それを何とかするという強い覚悟によってなされた行為であり、そこにはもしかすると後に慈悲と呼ばれる気持ちのきっかけがあったのではなかろうかとすら思ったのだ。

これは簡単に文章にまとめてしまったけど、自分の中ではすごい思考の変化であり、それを霊鷲山の上で思いついたということは自分の中で得難い経験だったのだ。

なんでこのタイミングで、なんでここでそれを思ったのか考えたら、少し高いところからどこまでも広がる景色をみていたら、なんか鳥の目というか、大きな目で物事を捉えられたからなのかもしれない。

仏陀の修行していた所には、高いところや見晴らしの多いところが多い(苦行をしていた前正覚山なども)それはもしかすると、視覚や環境が思考に与える影響を無意識にでも感じていたからなのかもしれないと思った。

そして同時にそりゃ毎日ここにいれば、もっといろんなこと思いつくかもしれないし、雑多なるつぼでは思いもつかないような思考の広がりを感じることもできるかもしれない。

でも自分は、自分だけでない、ここに巡礼に来ている多くの人は、山を下りたら自分の国に帰り、社会の中で生きていかなければいけないのだ。いつだって山に籠もっていられるわけではない。

なんて思った瞬間に、だから真宗があるのだ。この大きな流れの先に、間違いなく真宗があるのだという気持ちがむくむくと湧いてきて、なんか仏教が自分の手の中にくるまでに通ってきたであろうものが、ただ単に時間だけではなく、間違いなくそこに生きたであろう時代や息づかいとか、苦しみとかいろんなものがしっかりと根付いているのだという気がしたのだ。

なんかここに来て、自分の中にいろんなものがどくどく流れてくるような、いままで死に体だったものに血が通うような、大げさな言い方かもしれないけど、まさに画竜点睛のような経験だったのだ。


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【物思いに耽ったり】

なんかそんなことを一人で考えながらほくほくして、いつまでもそこにいたい気持ちがしたのだけど、ちょうどスリランカからの巡礼団が山頂に到着したので、場所を譲り下山することに。

帰り際にスリランカからの巡礼者を横目にみたら、ゆうに70~80才くらいの人たちも何人かいる。その人たちが文句も言わずにこの山道を杖をつきながら登ってきたのだと思ったら、想いというものの力のすごさは強いなと想った。ここがただの日本の観光地であったなら、もしかしたら手すりをつけろだの、車いすでもいけるように自治体が動けだの声が寄せられるかもしれないななんてことを想ったりもした。

途中阿難のいたという洞穴などもあり感動しつつも、とにかく雨が上がった空からは照りつける日差しが痛いほど降り注いできたので、足早に帰路につく。

他に下山はとくに特筆して書くこともなかろうか・・・と思いきや。どうしても歩いて降りると言い張るラカン(おそらくロープウェイにびびってる)に説得されしかたなく歩いていたのだけど。

ここでプチ事件がおきたのだ。

下山途中コーラを飲みながら意気揚々と歩いていると、目の前のラカンが牛のふんを踏んづけて派手に転んだのだ。周りの子どもも大爆笑、巡礼していた人たちも大笑い。

そして自分も大笑い・・・した瞬間にラカンがきれたのだ。

むっとした顔でさっそうと降りていくラカン・・・おいおい、そんな露骨に怒らなくても・・・そのあと車にのってもむっつりしたままのラカン・・・ふとみるとウンコまみれの足から血が出てる。

そこで消毒できるウェットテッシュと絆創膏を渡すしてキレイにしといたほうがいいよというと、それを受け取って傷をキレイにしたラカンはすこし機嫌がよくなったのだけど、それでもご機嫌斜め、結局、屋台で売っていた、ラージギル名物というお菓子のようなものを買ってあげるまで機嫌嫌が直ることはなかったのだ。


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【ラージギル名物というお菓子】

まあお菓子食べたらけろっと機嫌よくなってたけどね。子どもか・・・

そんなこんなで、その後は温泉と呼ばれる場所で入浴・・・の予定だったのだけど、びびりの日本人はまさかの温泉に入ることはできず・・・写真撮影だけにとどまったのだ。

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【入れと言われても入るスペースはなし】

そして、弾丸ツアーの一行はその後、竹林精舎、ビンビサーラ王の幽閉跡地などを訪れ一路ナーランダへ向かうのだった。

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Title: インド旅 ブッダガヤ:ラカンとチャイ編
2011.09.02

こんなペースで書いてたらいつまで経ってもインドの旅書き終わらないから、ブッダガヤ編をスピードアップで。

【ブッダガヤ初日の続き】

ラカンという青年についてチャイを飲みに行くことになったブッダガヤ初日、地元民のあつまる狭小店舗の一角でチャイをすすりながら、隣り合わせに座る、日本人旅行者と日本語を巧みに操るインド人ラカン・・・らかん・・・羅漢・・・羅漢って・・・これはなにかの思し召しなのだろうか・・・という気にすらなる。


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【地元屈指のフードコート】

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【そこでほっこりチャイタイム】

ラカンはチャイをすすりながら、なんでそんなにブッダガヤにくるのを楽しみにしてたのだ?と聞いてきた。

ってか話聞いてたんだ・・・おしっこの前の会話ちゃんとメモリーされてるじゃん。じゃあなんで無言でおしっこにいったのさ。そもそもめっちゃおしっこ我慢しながら話しかけてきたのなら、おしっこしてから話しかけてこいよ・・・とかいろいろつっこみたかったのだけど。

自分の家は寺だ。これでも一応日本ではブッディストモンクだ。プリーストだよというアピールをする。どうせ小汚い髪のはえた日本人のいう僧侶アピールなんか信じないだろうけど、仏教の勉強をしてるんだ。だからここは特別な場所なんだということを伝えると、そうか、それならブッダガヤは最高の場所だね。あなたの気持ちはよくわかった、邪魔してごめんねと素直に謝るラカン。

そして、つらつらとラカンは自分の仕事のことや家族の事を話し始める。そこで得たラカンスペック(28才:結婚して5年:娘は2才:仕事はガイド:オフシーズンはブッダガヤの実家で過ごしている:日本語はかなりうまい:仏跡のガイドの知識はなかなかのもの)

そんなこんでいろんな話をしているうちに、だいぶ打ち解けてきたものの、この時点ですべてをゆだねるほど自分は素直でもないので、2杯目のチャイを飲み終わると、じゃごちそうさま、おらマハボディ寺院にお参りにいくからまたね。と立ち上がったのだけど、雲行き怪しく通り雨が降り始めようとしていたのだ。

しかたなくゲストハウスに戻るといって店をでようとすると、ラカンが、今夜一緒にご飯たべようよといってくるので、いいよじゃあまたあとでということで、チャイの店を後にして、ぽつぽつと雨の降り始めたブッダガヤの街を足早にゲストハウスに戻ったのだ。

外は雨でなにもすることないので、そのまま雨が病むまで部屋で待機。

そして夕暮れ時にゲストハウスをでてぷらぷら歩いているとラカンに遭遇そのまま一緒に食事をすることになったのだ。

その日のメニューはOMレストランのチキンバターマサラ。


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【ブッダガヤでかなりお世話になったOMレストラン、ここは安くておいしい】

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【ここのチキンバターマサラとチャパティは格別】

これたぶんインドで食べたカレーの中では一番おいしかった。お皿なめたいくらいだった。

食事の最中にラージギルへいきたいことを告げると次の日に連れて行ってくれるというラカン。

はじめは安く抑えるためにバイクでいこうという話だったのだが、途中雨が降った場合最悪なので、車をチャーターすることに。値段交渉の末3000ルピーで車1台とガイドとドライバーを確保。

はじめこの値段高いと思ったのだが、途中のガソリンスタンドでガソリンの値段を見るとリッター50ルピー近く。ラージギルまでは片道でも100キロくらいあるので、往復200キロ、車の燃費が仮にリッター8キロだとしても、ガソリン代だけで1250ルピーはかかる計算なので、そんなにむちゃな金額でもないのかもと思った。

その後その日は雨がやまず食事をした後部屋に戻り就寝。

そして明日は一路ラージギルへ。



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Title: 我等は忽然として無窮より生まれ。
2011.08.28

旅の記録を読み返しながら、せっせと書き起こしていていろいろと繋がったのだけど。

例えば、ブッダガヤからバラナシまでいこう。という大きな指針は持っていながらも、実際はブッダガヤにつくまではそのルートなんか決まっていなくて、事前に車をチャーターして仏跡を巡りながらバラナシまでいっちゃおうかとか、電車で行こうか、バスで行こうか、そもそも電車とか何時にでているんだろうかとか、どこでチケットを買おうかとか、ガイドブックや情報を仕入れながら妄想するのだけど、実際現地に行ってみればすんなりとそのルートは、いろいろなことが作用して、自然と無理なく1つに絞られるのだ。

そしてなんだかんだと目的地は中継地点になり、その先へと、あれよあれよという間に進んでいくのだ。

自分の期待を存分に裏切りながら。

旅をしているとこういうことがよくある。

もちゃもちゃといろいろ考えて悩んでいても、足を動かすと、出会いがあり、縁があり、運があり、トラブルがあり、いろんなことが作用して、自ずと自分の進むべき道へ押し出されるのだ。

その度に、自分の意志や想いが現実へ及ぼす影響なんてものはこの程度なんだなと感じる。

これを自分では、想像の限界、意志の限界というのだけど、それを感じる度に、世界は自分の手の内にないことにあふれていて、自分というものをしっかりと1つの方向に自分を押し出してくれるのだということを実感する。

話は飛ぶが、今年の8月末をもって5年前に起業した会社も9月からは6年目になるのだ。立ち上げた当初にはいまの形は想像もしてなかったし、この5年間いろいろなことがあった。幼稚園やお寺の傍らということもあり、いろんな形で多くの人に迷惑をかけたし、わがままもいわせてもらった。本当にいいことも悪いことも、たくさんの一期一会もあった。それでもなんとか5年間会社を存続しながら、それなりに結果も出しつつここまできて、その経験がなんか今旅の記録をまとめていて妙にシンクロしたのだ。

なんか。

ああでもないこうでもない、こうなったらどうしよう、こういう方法があるのではないかとか、いろいろと考えるということは大事なのだが、そういう時は大抵自分が立ち止まっているときなのだ。

自分の意志や想像なんてものの見通しはいいとこ数分後か数時間後、へたすりゃ明日のことすらままならないのが人間なのだ。目標というのは大事だと思う。でもそれはあまり厳密でなくていい、旅の目的地を漠然と掲げるみたいに。

プロセスなんてものは、そちらの方角に足を踏み出した瞬間に、自ずと決まってくるのだ。自分の意志に関係なく、できることはできる、できないことはできないのだ。

こりゃ思うになんでもそうなんだ、何事もなにか踏ん切りが付かない、踏み出せないことがある時というのは自分の足が止まっている時なのだ。

人生は旅であるなんてニュアンスの言葉を数多くの人が残しているが、なんかふとそれがわかる気がしたのだ。

人生は旅のようであり、旅は人生のようなのだ。そしてそれを思えば、生きるということを意識したときに、人生に例えられないものなんてないのかもしれないとも思う。

それはなぜかと言えば、世界のすべては自分の脳みその想像できることを遙かに超えているからなのだ。そして人生楽しむということはその流れにのるか否かなのかもしれない。

怖じ気気づいたらいつまでも世界は変わらない。足を出すのだ。

たぶん。

今自分は自分の意志で足を出していると思っているし、まだまだその感覚を持っている、でもこの先いつか、この足を出す感覚でさえも自分の意識ではままならないのだと思える日が来るのかもしれない。

その時にはきっと立ち止まっても歩いても同じなのだ。

世界は常に流れているのだ。そして止まることなどはじめからできなかったのだなんてことを言うのかもしれない。

紹興酒が効いたのか、中華料理の帰り道、ふとそんなこと考えていたのだ。

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Title: インド旅 ブッダガヤ:ラカン出会い編
2011.08.27

【ブッダガヤ初日】

ガヤの駅について、早速オートリキシャをみつけて、マハボディ寺院を目指す。

空港→コンノート→車中のルートでは正直インドらしいインドを実感できていなかったのだが、ガヤ駅からオートリキシャに乗った瞬間に、インドが自分の中にがつんと流れ込んできて、インドとの温度差がフラットになっていくような気がした。そこにはデリーにはない、人間のるつぼ感が広がっていて、イメージをしていたままのインドが広がっていたのだ。

マハボディ寺院につくと同時に、感慨にふけるまもなく日本語を話せる何人かのインド人がついてくる、ある人はバイクで、ある人は歩いて、ある人はリキシャで。

どこからきたの?ゲストハウスあるよ?どこいくの?いつまでいるの?インドは初めて?を浴びせかけてくる。

ブッダガヤにくることをずっと楽しみにしていたので、ここはゆっくりとお寺を眺めながら、一人静かに浸りたかったのに、一気に興をそがれてしまって、もうすこし落ち着いた気持ちでお参りをしようと思い、遠目に手を合わせて、長旅の疲れを癒すべくとにかくホットシャワーを浴びて、ゆっくり足を伸ばせる場所を探した。

とりあえずガイドブックを開いて、よさげなゲストハウスをみつけてチェックイン。

しかし、ゲストハウスに着くまで、横をずっとついてくるインド人、フロントにまで着いてきて、でてくるまで待ってるからといっているインド人。

初めは、やっとマニュアル通りに絡んできてくれたインド人ちょっとウキウキしながら、軽くいなしていたのだが、徐々にその煩わしさにめんどくささを覚える。

寝不足なのもあったけど、最後は今ついたばかりで、疲れているから頼むから一人にしてくれと懇願。それでも笑顔で、そうだね、ところで昼飯でもどうだ?といってくるインド人。

この感じにだんだん笑えてきたのと同時になんかもう、まじめに答えるのにも疲れてきて、とりあえずさようなら、おら寝るといって彼らを置き去りにして部屋に入り、ホットシャワーをあびて、ベッドに横になる。

気づけばそのまま眠りに落ちていた。

そして空腹とACで身体が冷えすぎて目が覚めるともう昼下がりになっていた。

さすがにもう、フロントのインド人もいなくなっていたので、安心してまったりマハボディ寺院をお参りしようとしようと思ってゲストハウスをでたとたんに一人のインド人が近づいてきた。

日本人?どこいくの?いつきたの?

さすがにもう興をそがれたくないので、しばらく軽くいなしていたのだが、あまりにしつこいので、頼むから一人にしてくれ、ブッダガヤにくるのはずっと楽しみにしていて、一人で静かにお参りをしたいんだ、ここに来てからずっといろんなインド人がついてきて、ゆっくりお参りができなくて悲しい。だからわかったから向こうにいってくれと伝えたのだ。

するとそのインド人は、悲しそうな顔をすると、すこし黙って、わかったちょっとまっててと言って、自分のもとを離れていったので、なんだ話せばわかるインド人もいるのだなと思ったら、彼は、向こうの畑でとつぜん立ちションをして、何食わぬ顔で戻ってきて、まあとりあえずチャイでも飲むか?と聞いてきた。

その間の外し方に、完全に気が抜けてしまったのか、肩の力が抜けて、わかったチャイの店は近いのか?と聞いてチャイの店につきあうことになった。

これがラカンとのファーストコンタクトだったのだ。


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【おもむろに用を足すラカン】




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Title: インド旅 深夜特急編
2011.08.22

ニューデリー発ブッダガヤ行きの夜行列車の中。

とにかく寒すぎる車内で備え付けのブランケットをかぶりひたすら窓の外を眺め倒す。

世界の車窓からのテーマソングを口ずさみながら、どこまでも広がる田園風景に、世界は広いぜ、そして自分はなんてちっぽけなんだ。なんてスナフキン気取りで想いを馳せるわけだけど、なにせ20時間近くものってると、景色にもすぐ飽きてやることないので、隣のインド人の観察をしたりするのだけど、それにもすぐ飽きて、どうしょうもなくなってくだらない妄想ばかりをメモに綴る。

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【ただひたすらにこんな景色】

その時のメモを順不同に羅列。


*

電車の窓からみえるのは、あちらこちらでのぐそをする老若男女。じいちゃんばあちゃん、にいちゃんねえちゃん、子どもに牛に犬。一面の緑の田んぼに転々とおしりを出して座り込んでいるインド人をみて、それが肥料になり大地をつくり、その恵みを口にして、また大地へ戻すのだ、これぞ究極のエコ。

*

電車の中にはいろんなインド人がいるのだが、結局のところ信用できそうか、心を開けそうかどうかなんていうのは、ファーストコンタクトの印象であり、おおかた人間が信頼関係をつくるときに表情というのはとても需要なのだ。そこに意識をもっていけるかどうかというのがうまく生きていく為のミソみたいなものなのかもしれない。

*

インドの田園風景もはじめは新鮮なのだが、ふと気付けば、千葉県の佐倉のあたりにはここに近い風景はけっこうあったりするのだ。

*

旅に出て自分の視野が広がったり、いろんなことを許せるようになったり、自分の駄目っぷりを知ったりすることができて、自分の世界すこし変わったかもなんていう実感を感じたとしても、そのメリットを人に伝えたり説明することなんてできないのだ。

自分の世界が変わる感覚は変わったことがある人にしか共有できない体感の世界なのかも。

*

インドにきて、スティーブマッカリーの撮った写真のすごさをふつふつと感じた。そう、この目なのだよ。

*

途中停車している駅で、おそらくサドゥ(修行僧)と目があったら、そのサドゥが満面の笑みで手に持った杖らしきものをこっちに振り上げてくれた。なんかそんなたわいもない一瞬のやりとりで、インドのいままでの嫌な想いが吹き飛ぶような気がした。

*

自分の分限はどこまでなのか。日本にいると自分の分限がどこまでなのかわからなくなる。

でもインドいると自分の分限がよくみえるような気がする。インドだけじゃない、チベットでも感じたのだけど、どこまでもでかい空とか大地とかそういうもののコントラストにさらされると、自分の分限がどこまでで、どこから先にいけば自分の力の及ばないところか、その線引きがはっきりされているような気がするのだ。

人間は自分の分限を知って、自分の足りないものを自覚することで、そこではじめて足りないものを何かで補うことができるのだと思う。

日本では自分の分限は見えにくい。だから足りないものにも気づきにくい。自分の足りないものに気づけないということは、いつまでたってもそこを補完できないということなのだ。

*

喜ぶことも、悲しむことも、笑うことも、自分もインド人も同じなのだ。何千キロ離れて生きていても、どんなに生活や風習が違うとしても同じなのだ。そいつが何人かなんていうカテゴライズは時に便利で、代名詞として大きな意味を持つのだけど、本当の所、つかみどころのない霞みたいなものなんだ。人種や国家間の抱える問題のほとんどは、そのぼんやりとした霞をつかむような話なのだ。

*

インドにはレンガの家が多い。どんな家かって言えば、3匹の子豚の絵本にでてくるレンガのうちみたいなの。

*

途中の停車駅でお祭りの準備をしている人たちがいた。なんかその人たちの顔を見てて、娯楽や生き方の選択肢の多さとお祭りの価値観は反比例しているのだと思った。


*

インドでもしビジネスをするとしたら、市場の創造という言葉を頭の中にいれて動いたら案外道が開けるのではないだろうかとか浅はかにも思ったりした。今あるもののクオリティをあげて売るよりも、今はないけど、それがあれば少し生活が楽になるとか、新しい習慣に結びつくようなものを導入することに主眼を置いてなにを売るか考え得るのは面白い気がする。

日本で同じことをしようとして全国民が1円を出しても1億2千万くらいにしかならないけど、ここなら8億なのだ。それにこの国にはまだまだ不便があふれているし、それは言い換えればそのままビジネスチャンスなのだろうと思ったのだ。それとデリーにはまだまだ土地が余ってる、日本人企業向けの貸しテナントや賃貸をつくれば、結構需要があるのではないかと思う。

*

いろんな国にいったけど、結局国境なんて線は見えたことはないのだ。

*

それがいいのか悪いのかとか、そこに戻るべきだとかナンセンスなことを言うつもりはないけど、でも自然と共生している時に育まれる感性みたいなものは、どんなに国が発展しても身体のどこかに置いておきたい感覚だと思った。

*

そんなこんなで、気づけば自分の席にも、見も知らずのインド人が入れ替わり立ち替わり座ってきて、ああでもないこうでもないと、話をしては去っていく。

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【手前の席は自分の席なのだがおかまいなしにだれでも座ってくるのだ】

そんな中ずっと隣の席にいたインド人(自称31才、決して同い年には見えないのだが・・・こちらをなめるようにみてくるのが特徴)の彼が降りがけに車内販売のスナックを買ってくれた。

若干怪しんでいたのだけど、同い年だということと、スナックを買ってくれたということで打ち解けて、しばし談笑し、固い握手を交わした。

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【お米をフライしてあるものに、野菜とスパイスをお好みでまぜたスナック、ぴりっとしているけどなかなかうまい 】

そして長い長い列車の旅は終わりいよいよガヤ駅に到着したのだ。


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いざ聖地へ。



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Title: インド旅 ニューデリー駅編
2011.08.20

ニューデリー駅22時発の寝台特急でブッダガヤに向かう。

ニューデリー駅に20時に到着。夜のニューデリー駅に旅行者は全くいない。右を見ても左を見てもインド人、薄暗い駅はごった返していて、構内の床にはあちこちに寝転がっている人がいる。その人たちを踏まないようにホームに向かおうと試みるのだが、その人たちの白くぎょろりとした目が一斉にこちらに向けられるたびにおどおどしながら、頭の中で地球の歩き方のトラブル集をおさらいする。

何度も譫言のようにNoProblem、NoProblemとつぶやき自分を鼓舞する。

この時点でまだ旅人モードにスイッチが入っていないので、おどおどっぷりも焦点のあわなさっぷりも半端ない。うっかりインド人に腕をつかまれ時には腰を抜かす勢いだ。

しかしなんと実は、今回電車に乗るまでサポートしてくれるという強力な助っ人ダブド君と知り合っていたので、若干びびりながらもいつもダブド君の顔色をみつつ助けを請うていたのだ。

(ダブド基本スペック:23才:彼女無し:Tシャツには「男山」と記載:日本の御徒町で親戚がカレーショップを営み、かなりの日本贔屓:日本語は片言だけど簡単な意思疎通は可能:本名はめちゃくちゃ長いので通称ダブちゃん)

そして今回のまずファーストアドベンチャーがここで訪れるのだが、実は日本から手配した寝台列車の切符はWL(ウェイティングリスト)といって、いわばキャンセル待ち状態だったのだ。まあ当日までにはいけるだろうと高をくくって駅まできたものの、実際この時点で電車に乗れるかどうかはわからなかったのでかなりの不安を抱えていたのだ。

「ダブちゃんこれ電車のれるかね?」

「うん、ちょっとまってね・・・あれ掲示板に書いてないね・・・いま調べてくるね」

そういってダブちゃんは駅の窓口に消えていって、数分後に肩を落として戻ってくる。

「う~ん、まだ乗れるかわからない、とりあえずホームへ行こう、ホームは9番だ」

「おお・・・まだわかんないのか・・・OKとりあえずいっちまうか」

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【男山のTシャツを着ているのがダブちゃん】

ってなわけで、ダブちゃんについて、駅構内を奥へ奥へすすむ、数々のインド人をかき分け、踏まないように乗り越えて、9番ホームにたどり着く。

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【ごったがえすニューデリー駅】

「もしこれ電車に乗れる場合にはSLクラスというクラスだからここにいればたぶん大丈夫だ」とダブちゃんはいう。

その言葉を信じて、一緒に談笑しつつ電車を待つ。笑ってられるのがここまでだったということは、このときの二人は微塵も気づいていないのだった。

待つこと数分、隣のインド人が口をもごもごさせながら話しかけてくる。

「へいジャポーネおまえどこいくんだ?」

「ん。おらブッダガヤだ」

「そうか、気をつけろよあそこには悪い奴もたくさんいるからだまされるんじゃないぞ!」

「お・・・そうなのか・・・サンクスきをつけるよ」

「ところでおまえ電車はSLクラスなのか?」

「おお、そうだ」

「じゃここじゃないぞ」

「え・・・そうなの?」

それを聞いていたダブちゃんの顔色が変わる。そしてダブちゃんとそのインド人がヒンドゥー語でなにやら話し合っている。しばし会議をした後ダブちゃんが一言。

「うん。ここじゃないわ。なんかホームに乗客名簿が張り出されていて、そこに名前と乗る車両と番号が書いてあるそうだ」

「ダブちゃん・・・OKじゃそれを見に行こう」

そしてホーム中央まで行くと案の定の人だかり、みんな自分の座席を確認している。さっきまでそれを知らなかった癖にダブちゃん、自信満々であれだあれだ!おれに着いてこいというジェスチャーをする。

そしてその座席表を確認。

座席表を確認。

座席表を確認。

座席表を確認。

ん・・・なんど確認しても名前無し。

外国人らしき名前なんか1つもなし。


ここでダブちゃんの顔をみて、もしかしたらこれは非常事態なんじゃないかという空気がふつふつ湧いてくる。もしかしたら今日電車に乗るのは無理かもしれない・・・このあとこの時間に宿を探せるのだろうか・・・なんてことが頭をよぎる。

「ダ・・・ダブちゃん、これここであってるのかな・・・他のところにもあるかもしれないね・・・」と遠慮気味に言うと、ダブちゃんさっきまでは日本語で話していたのに、ぶっきらぼうに、just moment no problemと言い放ってひたすら乗車表を見ている、そしてしまいには、ちょっと自分でも見て!と怒られる始末。

自分でも何度も確認するが名前無し。そして、このあとダブちゃんの一言で自分の中の旅人スイッチが完全にオンになったのだ。

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【ホーム中央の座席表】

「ダブちゃん、いつも電車に乗るときはここに必ず名前が載ってるの?」

すると、ダブちゃん、すこしうつむいて間を置いたあとにこう言った。

「僕はいままで電車に乗ったことがない」

「おい!乗ったことねぇのかよ!」

あんた自信満々にNoProblemっていったじゃない・・・あんた目をキラキラさせながらここで待ってれば間違いないっていったじゃない・・・あんたこの期に及んでジュースを買いに行ったままこの孤独な日本人を10分も放置したじゃない・・・

(この時にはインド人の特性がいまいちつかみ切れていなかったので、ダブちゃんなんていい加減な奴なんだと思ったけど、でもこれがダブちゃんの精一杯の優しさであり、誠意だというのは後になってから感じることができたのだ)

しかしこの瞬間、頭の中でなにかが確実に切り替わったのがわかった。

日本人モードは解除され完全に旅人モードにはいったのだ。

(旅人モードとは基本的に、もう自分でやるしかないという開き直りにちかい境地、アジアを旅する上でこの境地にならないとなにも前に進まない時がある。しかし副作用としては日本人特有のモラルやルールなどという言葉がふっとび、列に並ばなくなる、信号を守らなくなる、わけのわからない理由を怯まずに自信をもって押し通すことができるようになる。車の行き交う交差点で手で車を制してずんずん歩いて行けるようになる、屋台のものとか平気で食べられるようになる、どこでもうんこできるようになり、どこでも眠れるようになる。そして胡散臭い奴のさばき方が日本でキャッチを振り払うベテランキャバ嬢みたいに見事になる)

ここまできたら、、ダブちゃんには頼らずに、最悪どこかに適当に潜り込んでしまおうという気持ちで固まったのだ。もし車掌に怒られても旅行者特権でとぼけて下ろされるところまでいってしまおうと決めていたのだ。それに最後の最後は賄賂でも握らせればなんとかなるだろうと腹をくくったのだ。

そこでダブちゃんにもその旨を告げる。

「ダブちゃん、ありがとう。もう大丈夫、ここにくる電車がブッダガヤまでいくことがわかっただけでも十分だよ、こんなに遅い時間までありがとう、あとはなんとかするぜ、というかこのままきた電車に乗り込んでやろうと思う」

するとダブちゃん。ここは意外にまじめに。

「いやそれはまずいよ。みつかったら大変だよ」

というので、ちょっとめんどいなとおもいつつも。

「まだ乗れないと決まったわけじゃないし、さっき車掌がいたからこっちはそいつに聞いてみる、ダブちゃんはもう一回ポーターにきいてきて」

といって二手に分かれて、電車にのれる方法を探し始めた矢先。

ホームに電車が入ってきたのだ。

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【自分の乗る電車が入線】

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【それでも汗だくで座席を探してくれているダブちゃん】

確かに乗るはずの電車。さすがにここまでくると自分の中でもちょっと焦りがでてくる。一瞬でどこに潜り込むかを考えたのだが、自由席は信じられないくらいの隊列を組んだインド人が並んでいて、まさに紙一枚挟むスキマもないくらいにぴったりとならんでいる。

(後から聞いた話では、ずる込み防止の為に前の人の肩をしっかりもって、一列になるのは自由席をとるための基本らしい)

予約席には、入り口に車掌が立っていてチケットを確認している。そいつがいなくなった瞬間に潜り込んでやろうと、機をうかがってそのドアのあたりをうろうろとする。

するとさすがに大きなバックパックを背負った日本人が、うろうろしていれば、車掌も気になるようで、こちらにチケットを見せろといってくるので仕方なく、自分のキャンセル待ちのままのeチケットを見せると、車掌は案の定首を振ってチケットを突き返す。

そこで間髪入れずに、なんとしても乗りたいのだがなんとかならないかと懇願する。

すると車掌、ちょっとここで待ってなさいといいどこかへ去っていく。

すると車掌と入れ違いで満面の笑みのダブちゃんが戻ってくる。

「なんか聞いてきたら、発車の10分前に最後のキャンセル待ちを確認して、WLの中で繰り上げになった人を張り出すらしい、だからここで待ってればいいって」

ここで最後の望みが繋がったのだ。

そしてほとんどの人が荷物を積み込み、ホームの人もまばらになって。こちらの我慢と焦りも限界に近づいたときに車掌が1枚の紙をドアに貼りだしたのだ。

そしてそれをむさぼるように確認しようと身を乗り出したら、なぜか自分を押しのけてダブちゃんがそれを見に行ったのが気に入らなかったのだけど、ダブちゃんはすぐに満面の笑みで振り向き「あったよぉ!!」と声を上げた。

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【名前を発見 上から6行目にしっかりと】

そこにはしっかりと自分の名前が。ちゃんと座席をあてがわれていたのだ。

なんかそのダブちゃんのその汗だくっぷりと満面の笑顔をみたら、なんかちょっとイライラしてた自分が馬鹿らしくなってきて、ダブちゃんと堅く握手をして、ダブちゃん本当にありがとう、助かったよと告げると電車に乗り込んだ。

今思えば、これがインド人の魅力なのだ。汗だくになって、見も知らずの日本人の為にホームを何往復も走ってくれたのだ。ちょっといい加減で、その適当加減にいらっとすることもあるけど、ここまで誰かの為にできるってやっぱりすごいことなのだ。ダブちゃん本当にありがとう。

なぜかその後車掌とダブちゃんが堅い握手をしていたのが謎なのだが、それはもうあえて突っ込みもせずに、別れをしっかりと惜しむまもなくそこでダブちゃんに別れを告げて、重いバックパックを背負い、寝台列車の中に乗り込むのであった。

そして乗り込むと同時に列車は発車のベルをならしてブッダガヤに向けてゆっくりと走り出す。

夢にまでみた深夜特急だ。

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Title: インド旅2011 総括
2011.08.17

今回の旅が終わって。

家に帰ってきて、あっという間に日常が戻ってきて、街を歩く速さも時間も食欲も、身体の隅々のたるみきった感覚があっというまに既存設定に順応し始めようとする。

それがいいのかわるいのかはわからないのだけど・・・

インドを旅して。

正直言えば、旅の締めくくりに際して、自然と共に生き、たゆたう聖なる川に抱かれて生きる彼らには、足りないけど何かがある。それは日本人の忘れてしまった何かなのかもしれない。とかなんとか言ってキレイにまとめようと思えばまとめられると思うのだけど、けど今回、そんな頭の芯から酔うような感覚を味わったかというと、そんなことなくて、今回ほど冷静にいろんなことを考えながら旅をしたのは初めてかもしれない。

それがなんでか考えた。

たぶん、それはインドの現状はどこまでも現実だからなのだと思う。なんかすごくリアルなんだ、人が生きているということが。

すべてがすべてではないにしても、どんなに表向きには共生しているように見えても、旅行者にわかるくらいにカーストの壁はあるし、貧富の差も激しいなんてものではなくて、それはギャップなんて呼べるほどかわいいものではない。それなのにそれぞれがその自分の置かれた現状にふてるわけでも、腐るわけでもなく、言い方は悪いが、おこがましく、ずぶとく、それぞれがあたりまえのようにそこに生きているのだ。

決して覆ることのない絶対的な壁をどてっぱらで受け止めて生きているというのが、インドの根底にある力強さであり、その空気がインドという国を醸し出しているような気がしたのだ。

(それがプライドの高さにも通じてくるし、間違った道を平気で教えることにも繋がるのだけどその話はまたあとでまとめる)

デリーの街でバラモン階級のインド人の家に案内され食事を振る舞われる、豪華な一軒家で次から次に料理が運ばれてくる。子どもたちは、キレイな服を着て、芝生のキレイに整えられた高級住宅地の公園で遊び、おもちゃもたくさん持ってる。その彼と車で街に出れば、信号待ちでとまる度に、そこの家の子どもと同じくらいの年の子どもたちが、車の行き交う交差点のど真ん中で、真っ黒になりながら、花を売り、時に大道芸まがいのことをして、バクシーシを求める。

バラナシの街では家に住んでいるインド人が小屋に住んでいるインド人を使い、齢60も越えているであろう老人が町中に散乱した糞尿を掃除をしていて、旅行者にやせこけた腕をさしだしてバクシーシを求める。それを若いレストランのオーナーは怖い顔で追い払う。

それがインドなのだ。

(そしてその現実は宗教心や信仰心にも直結している)

そんな現実を旅するうちに、日に日にこの国での旅行者の立ち位置というのはとても面白く興味深いなと感じた。

どこにも属さず、カーストを超越した自分たちは、彼らにとってはある意味、治外法権なのだ。お金になる可能性があるなら挑戦してしかりなのだ。

だからこそ旅行者は気をつけなければいけないし、そのあたりを頭に入れておかなければいけないと思う。そういう点で他の国に比べて、この国ではすごく体力と気力を消耗するから、それが嫌な人はもうインドには行きたくないと思うのだろうと思う。

でもそのデメリットの反対側にあるものは、カーストを超越した立場の自分たちだからこそ、相手にとってはフラットになりえる存在なのだ。そしてインド人にとってフラットという関係で結ばれることこそが強い絆なのだ。

そしてその絆ができた相手に対してインド人の心のひらきっぷりは日本人のフレンドリーさを遙かに凌駕する。インドにはまったという人の多くは、インド人の人柄であり、人間そのものに取り込まれているのだろうと思う。それはつまりはそういうことなのだと思う。

インドで仲良くなったインド人は自分をガイドと呼ばれるのを嫌う。そこに主従関係のようなものができることを嫌がるのだ。それを聞いたときに、インド人がすごく理解できた気がしたのだ。

その根底にあるフラット信仰のようなものが、インドの空気と人間を醸し出していているのだ。

つまりは根深いデメリットの反比例にあるものが、この国の最大の魅力をつくっているいっても過言ではない気がしたのだ。

なんとなくそんなことを考えながら、インドを旅していたので。

ガイドブックを鵜呑みにして、インド人の差し出すものには一切手をつけず、鞄を大事そうに抱えて、何どもチャックが開けられてないか確認したり、なにからなんでも1Rp単位までまけさせようとごねていたり、インド人との約束を簡単にすっぽかしたり、なにを話しかけられても無視して目すらも合わせない旅行者をみていて、すごくもったいないし、そんなんじゃインドの魅力のこれっぽっちも見えないんじゃないかとすら感じたし、そんなことを助長するガイドブックの書き方にも疑問を覚えた。

(それでも書かなきゃいけない気持ちもよくわかる、いうなればこの国での旅行者の立ち位置を言葉で伝えることはそもそも難しいのだ)

だまされる前提は仕方がないのだ。それは先にも述べたが、自分たちは旅行者であり、相手からしたら治外法権なのだ、その前提を頭に入れた上で、ここから先は旅行者の問題なのだ。

そこで相手との立ち位置を自分で変えない限りインドの魅力は絶対にわからない。

忘れちゃいけないのは。そのさじ加減なのだ、そのさじ加減がとても難しい。心を開くというのは簡単なようで難しく、距離を詰める、フラットを結ぶというのは、一長一短でできるこではないし、時間の少ない旅行者にとって短い時間でそれを得るというのはかなりハイレベルのことなのだと思うし、すべてにオープンマインドで、こちらから距離をつめていけばいいと言うものでもない、むしろそういう一方的にフラットを築けていると思い込んでいる人ほどカモになりやすいとも言えると思う。

(インドの危険な体験を語る多くの人は、なにも聞いていないのに自分からそれを語るくらいのスピードで距離を詰めてこようとしたりする人が多い)

どこで誰にどうやって心を開いていくかいう判断と、その判断を実践に移せるだけの技量が言うなれば、旅人の資質みたいなものなのだろうと思う。インドには目を見張るくらい旅のうまい人も、イガイガするくらい下手な人もいる。それが顕著に見えたし、自分の小ささも駄目さもよく見えて、本当に勉強になった。

これはもう言葉では説明できないのだけど、郷には入っては郷に従えという例えになぞらえるのなら、インドの郷に従うのなら、そこに住む人間をよく見て、よくよく見て感じて、目を見て話をすることなのだと思う。

(目を見て話していれば薬でとんでるかどうかくらいの判別もつくし)

今回、本当にその距離感と言うことを自分の中で実感を伴って学んだ気がした。

インドという国の人間は本当に面白い。

インドという国は、清濁併せ持った実に人間くさい、むきだしの国なのだ。

だからすごく好きにもなれるし、すごく嫌いにもなれるのだ。

今回はめずらしく結構感情的にインド人に怒ったりとかしちゃって自分もまだまだだなと反省。

ビバナマステ。

これから少しづつ旅のメモをまとめて、時間軸にそって感じたことをまとめていこうと思う。でもこの経験や体験は、文章にするより口伝で伝えたほうがエキサイトで楽しいような気もするのだけどね。

さて。

まだ夏が終わったわけではないので、まだまだいきますよ。夏満喫月間ですよ。

とりあえず神楽坂に帰ってきたよっていいにいかなきゃ。


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Title: ぢ。
2011.08.05

自分の家が寺だからとか、そういうのが無意識にあったのかなかったのかは今となってはわからないのだけど、でもなぜだか昔からチベットとインドだけには行かねばならないと思っていたのだ。

何事も空気感を肌で感じないとわかんないこともあるかもしれないと思っているので、できれば35才までになんて、ちょっと洒落たことをいってみたりして。

別に自分を探しにいくわけでもなし、なにか逃避したいものがあるわけでもなし、なにか高尚な動機付けがあるかといえば、そんなことは全然ない。むしろインドについてから、ずっとビール飲みっぱなしで、いろんなもんが緩みっぱなしの、垂れ流しで、いきあたりばったりの旅になるのだろうし、りっぱなことなんて1つもしてこないのだ。

それに自分の好きなことを周りに迷惑をかけてまで押し通すのに、高尚な理由を付けるのもなにか後ろめたい気がするので。

なんか。

ただなんとなくインドへいくのだ。

そしていつかインドに行く前に、どうしても言いたいことがあったのだ。

なんとなく、なんとなく、インドへ行きたい気分なんで。ちょっとの間、消えます。

アイアムソーリーヒゲソーリー。

んだば。いってきます。






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Title: はかたもん。
2011.05.30

スナフキンが「僕は自分の目で見たものしか信じない。けどこの目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ」と言っていて、昔旅をしている時には、この言葉をふと思い出すことがあったのだけど、それを久しく忘れていた。

今回2日ほど博多をふらふらとしていて、ふとこの言葉を思い出した。

結婚式とぐぐったところで、20年来の友達が結婚する時の気持ちはわからないし、誓いのキスを失敗した時のぐだぐだな感じも、両親への手紙で涙する気持ちも書いてない。

博多とかぐぐっても、屋台で隣のおじさんと乾杯するときの気持ちも、中州のとんでもない店でだまされて苦笑いする気持ちも、雨に打たれながらラーメンを食べるために並ぶときのわくわくも、博多弁に骨抜きになるどきどきも、お腹をかかえて笑うときの気持ちも載ってない。

この2日間を一言でいえば、友達の結婚式の為に博多に行ったということなのだけど。

その中には、自分の目で見て感じた時にしかわからないたくさんの気持ちが詰まっているのだ。

なんか。

年を追うごとに、友達っていいなとか、旅っていいなとか、あたりまえの言葉に血が通ってくるような気がして、結局はぐるっとまわって同じところへ立っているのだけど。

やっぱり、言葉とか知識とか情報とか、そういうものに長くさらされればさらされるほど、改めて行動とか、経験とか、痛い思いとか、笑えることとか、泣けることとか、感情の伴う生き方ということの大切さを感じるわけで、その感情の一つ一つに意識的なればなるほどに、人生の楽しみはこんなところにあるのだろうと思う。

そしてそれを伴に共有できる人がいるということはありがたいことなのだと思う。

昔はわからなかったけど、結婚式のよさってでればでるほどにわかってくる気がする。

いい結婚式だった。

なんか飛行機は嫌いなのだけど、飛行機から見える景色は大好きで、昼間のフライトの時は、いつも窓側の席をとってひたすら雲海をながめながらいろんな事を考えるのだけど。

離陸をして、どんよりと厚い雲の中を、ひたすらに揺れながら飛び上がり、ふと雲をつきけたら、いままでの天気が嘘みたいに晴れ渡って、あんなに揺れていた機体が安定して、そこにはどこまでも広がる雲海があって。

なんか、人生とかもこんなものなのかもしれないなと思った。

そして、この2日で一番笑ったのは、帰りの飛行機で隣で爆睡する友人の腕に、週刊誌の袋とじを開いて、全開にしたまま抱えさせておいて、その友人が目を覚ましてもそれに気づかず、大事そうにその袋とじを抱えたまま、笑顔でスチュワーデスさんと談笑している姿を横から眺めているときだったのである。

いいおっさんがエロ本抱えて、笑顔でジュースをもらっている姿のシュールなことシュールなこと。

そしてその光景が今回の旅のすべてを集約しているような気がしたのです。

いい旅だった。

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Title: 太陽黄経45度
2011.05.07

自分の周りにあたりまえにあったものが刻々と変わっていく様を感じたここ数日、それが色恋の話だったり、仕事の事だったり、メールアドレスを変えた友達のことだったり、最近は会わなくなった友達のことだったり、その一つ一つは小さな歯車の一つなのかもしれないけど、そんな小さな変化が積み重なって大きなうねりになり、そのうねりは知らぬ間に自分をのみこんでいるんだろう。

昨日話してた友達が、あの地震の前と後では、やっぱりなにか意識の奥底の部分で変わった気がすると言った。

きっと直接支援に関われなかったり、積極的に動けているわけでもないけど、心の奥底で小さな変化をした人が日本中にたくさんいて、その小さな意識の変化は大きなうねりになり、これから先の日本に大きな変化をもたらしたんだと思う。

そんでもって、いつだってこの目に見えないおおきなうねりみたいなものの中に、人は流されて生きていているのだろう。

あらがってもさからっても、結局のところどこかでは力尽きるのだ。

それなら、前だけみながら、必死の形相で力尽きる寸前まで泳ぎ続けるよりも、流れに逆らわず、うまいことぷかぷかと浮かびながら空を見上げていたい。

だからいま自分の身につけたいことは、うまく泳ぐことよりも、うまく浮かぶこと。

*

【武田三代】を読み終えて感じたこと。

最後まで鉄砲を導入せずに、騎馬にこだわって戦い滅びていった武田家は、本当に敗者なのだろうか。

やはり歴史物を読んで、時代錯誤で野蛮だと言われるかもしれないし、世界的に見ても理解されない風習(切腹も含め)の一つ一つをみても、古き日本にあった命以上に大切にされていたもの、命以上に重んじられていたものの価値観と、その文化を構築させた日本人は底知れない。もちろんそこで日に当たらない黒歴史がたくさんあるし、実際美談だけではないのは容易に想像されるけど、その影までも含めて日本人の個性なのだと思う。

どんなときだって個性というのは表側だけで構築されるものではない。

そして、死を劇的に意識することが生にはげしく光をあてることで、光の当たっていない生はときに軽んじられるのだと思う。

*

雑居ビルというのが結構好きだったりする。

歯医者が入ってるかと思いきや、司法書士が入ってたり、法律事務所がはいってるかと思いきや、いかがわしい店がはいっていたり、そんないろんなものが、雑多につめこまれているじがたまらなく心地よかったりする。

そういうビルに飛び込むときに感じる、あの例えようもなく自分の中に湧いてくる感じはある種の中毒性があるのではないかとすら思う。それとそんなビルの踊り場にある空気感は、そこでしか感じることができないものの一つだと思う。

雑多な中にある、ぽっかりあいたような自由みたいな、いうなれば制限付きの開放感みたいなものが、自分の中にあるなにかを満たしてくれて、その満たされた感じが脳みそに記憶されているのだろう。

今思えば香港を旅したときの記憶が、少なからずいまの自分のそういう部分の核になっているのかもしれないと思った。

*

ツイートのまとめ

感情的になれなくなったらなにも生めないのかもしれないと思うと同時に、感情的になっていると生めないものも確実にあって、その間でそれぞれの価値観に判断を迷うし、苦しむということが往々にしてある。なんかこの数年ずっとその間にいるような感じがする。

プロになるのがゴールなんじゃない。なってからの方が気が遠くなる程長いんだ。進めば進む程、道はけわしく、まわりに人はいなくなる。自分で自分を調整・修理できる人間しか、どのみち先へは進めなくなるんだよ。という幸田棋士の言葉がブッダの犀の角のようにただ独り歩め。という言葉とリンクした。

例えば、深度を深めようと思えば、着眼点は少なくなりがちになる。どちらもとれる超人ならいいが、自分はそうではないので、意識的にそのバランスの比重を考えなきゃいけないと思う。人生におけるフェーズと、その時の選択にもっと意識的にならねばと思う。

結局のところ、人生を楽しむということは、自分の着地点をどれだけ明確にイメージできるかということなんだと思った。イメージのないものは、計ることもできないし、取捨択一もできない。それがなにかもわからずに幸せという響きだけを追いかけるのは本末転倒だ。

*



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2000.08.18

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1999年~2011年

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