Title: はらっぱ
2022.01.26

園庭にある小枝をひろってせっせと集めたり、大きな切り株を運んだり、葉っぱを集めたりしている子どもたちがいて、

なにをしてるの?ときいたら、

「はらっぱ作り」と教えてくれた。

はらっぱ作り・・・はて?と思う自分を横目に、はらっぱ作りに次々に仲間は増える。

はらっぱ作りしよう!の一言で、学年を超えたたくさんの子どもたちが、イイネ!って二つ返事で動いて、それぞれのイメージする「はらっぱ」をつくりはじめて成立するって何気ないけどすごいことだなと。

ただ、木や葉っぱを運ぶ何気ない遊びなのだけど、それを「はらっぱ作り」と呼んで、何も言わずに創りあげていくこの風景、この時期だからこそみられる成長の証。

それぞれの子どもたちの距離感やイメージや様々な歯車がうまいことかみ合ってる証拠なんだろうな。

幼稚園の良しあしは園庭の遊びをみればわかるって、昔習ったことがある、手前味噌だけどうちの園庭、年々いい遊びがひろがってきてると思う。

大人たちの中で、誰かが不意に、はらっぱ作りしよう!って言いだしたら、そもそも、はらっぱってなに?どうやってつくるの?はらっぱの定義は?なんのために?なんて言葉が先行してすぐに動けないんだろうな。

それが、はらっぱであろうとなかろうと、動きだしながらイメージをすり合わせて、その中で、そこにある発見や創造や共感できる体感を味わい、楽しむことができる心は、本当はいくつになっても大事なことだし、ここ一番で自分の心を支えるのはそういう体感の伴った心地よさだったりするのだと思う。


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Title: おにごっこ
2021.04.20

園庭で3人から始まったおにごっこ、次から次へ声がかかり、みるみるうちに参加者はふくらむ。

そこにはいってくる子たちをみていて気づいたのだけど、その多くは新学期にクラスが変わり、横の関係がまだうまくつくれていなかったり、あたらしく幼稚園にはいってきたり、まだまだ園庭で自分の居場所を見つけられず所在なげにしていた子たちが多い。

鬼である自分の周りを走り回っては、目が合うと逃げる。
何度もそれを繰り返すうちに、みるみる表情はよくなる。
そして、気づくと、逃げてたもの同士がつながっては鬼ごっこから抜けていく。

鬼ごっこの楽しさは、身体能力の確認や、スリルのような身体的な快感からくるものだけではなく、
承認欲求の充足というような精神的な部分にも作用しているのかもしれないと思った。
承認欲求は自己肯定感につながり、それは小さな自信をうむ。
その小さな力が外の世界へ目を向ける原動力になる。

まるで、僕はここにいるよと言わんばかりのアピールに、
答え続けた結果、みんな満足して去っていく。
年齢的に、朝から鬼ごっこはだいぶ身体にこたえるけれど、
でも摂取不捨の心で、最後まで目を離すことなく、骨を砕きても追いかけまわしてやろうと思う。

そして最後には園庭で独りぼっちでたたずむのだ。
それはもう佛のように。

※写真はおにごっこは関係なく、大きなアリを取り囲み巣穴をつきとめようとする子たち。この後に巣穴を見つけるには至らず、みんな途中で飽きていなくなるなか、一人の女の子だけが、遊びの終わりの時間ぎりぎりまで追いかけ続けて、なくなく部屋に戻っていった。

















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Title: あなほり。
2018.11.09

「穴」を掘っている。

今日で3日目、毎日毎日せっせと飽きもせず穴をほっていると、あちらこちらから人が集まってきて、大きな輪になり、その輪はさらに大きくなり、ブームになる。

ブームはこうして起きる。

「ただ穴を掘る」

だけなのだけど、

穴を掘るという遊びの中には、たくさんのプロセスが詰め込まれているし、
ただの穴掘りは社会の縮図だったりもする。

指示をだす、空気を読む、作業を予測する、効率を考える、輪を広げる。

年少から年長からアラフォーまでが一緒になって穴を掘る。

大きなスコップを使えばあっというまに終わるのだけど、
あえて大きなスコップを使わないことでそこから工夫が生まれたりする。

とても印象的だったのは、

普段遊びっぱなしでほったらかしにされがちな砂場道具たちが、
主体的に遊びに関わることで、明日使うときにないとこまるから
ちゃんとしまっておこうという子がいたことだ。

「遊ぶ」ということは「学ぶ」ということだ、
質の高い遊びとは、つまりは質の高い学びである。

だから、今日も穴を掘る。


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Title: 園庭
2018.10.30

この時期の園庭はとても尊い。
 
4月でも5月でも6月でも7月でもなく、この10月の運動会が終わってからの園庭の様子がとても好きだ。

不安でいっぱいな新学期、子どもたちは園庭いっぱいに広がり、自分の居場所探しをする。

そして居場所探しをする中で、少しづつ仲間を増やして、その関係性を楽しみながら、園庭いっぱいに広がっていた子どもたちは、少しづつ小さな輪になり遊びはじめる。
それでもまだその輪は、自分と自分の気の合う仲間の小さな輪、その小さな輪は、運動会の練習が始まった頃から、やがてクラスの輪になり、クラスを超えた輪、学年を超えた輪になりはじめる。そしてそのたくさんの小さな輪が、やがて大きな一つの輪になっていくような実感がある。

その心の距離はそのまま物理的な距離になって、子どもたちの間にある空間が小さくなっていく。

その変化はとても顕著で、4月からの園庭の様子をタイムラプスかなにかで撮影してたらとても面白いものになるんじゃないかと思う。ある園長先生は、そのことを「園庭の嵩が減る」とおっしゃっていた。若い頃にはその感覚がわからなかったけど、いまははっきりとその嵩の増減がわかる。その嵩の増減がそのまま、自分たちのしてきた保育の答え合わせでもある。
 
居場所ができて、気の置けない仲間の中で、遊ぶことに没頭できてはじめて生まれてくる遊びの数々、そしてそれを彩るたくさんの秋の恵み。
 
芋の弦で綱引きをして、落ち葉をあつめ、もみ殻を吹き、おままごとをして、高度な鬼ごっこが子どもたちだけで完結していく。
 
ただ繰り広げられるそんな日常の中に、本当に信じられないくらいたくさんの変化があって、なによりもその変化や空気の中で心地よさそうにしている子どもたちの表情はとても尊い。
 
いつまでもこんな顔で生活をしていけたらいいのだろうけど、そうもいかないのだろうな。
 
だからこそ、社会にでて、なにか辛いことや苦しいことがあった時に、この原体験や心地よさが、ここ一番で自分を支える何かになってほしいと心から切に願う。

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Title: と。
2018.04.19

誰かの摘んだたんぽぽが一輪、園庭に落ちていた。が
それを拾った3歳の子。

拾い上げるとしばらく眺めて、
そして黙って園庭に隅にいくと、穴を掘ってそれを埋め戻していた。

だれにみせるわけでもなく、だれに主張するわけでもなく。
そしてなにごともなかったようにそのまま遊びに戻っていった。

その一部始終をながめながら、
尊いなぁ、と思いました。



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Title: たからもの。
2018.04.16

この時期の園庭は宝物にあふれている。
 
色づいた葉っぱや木の実、だんごむし、砂の中から出てきた少し大きな丸い石、
子どもたちはそれを宝と呼ぶ。
 
自分の力で発見した喜びを誇り、共有し、そしてまた新たな宝探しを始める。
 
大人になると宝というのは、物理的に価値があるかどうかということが前提条件になるが、
子どもたちは「発見すること」そのプロセスそのものが宝物を生み出す前提条件になっている。
そのプロセスの先に見つけたものは唯一無二自分だけの特別なのだ。
 
子どもから大人へ変化するために必要なことの多くは経験を積むことで得られるものが多いけど、
経験をすることで失うものの中には、そういう小さな感動や喜びも含まれる。
 
その原始的な感動や喜びがいつまでも価値をつくる基準の根底にあってほしいと思う。
 
その根底はなににも奪われず、決して失われず、自分自身を支える大きな根っこになる。
という想いを新たに新学期がはじまっています。
 
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Title: しんか。
2017.12.07

かけっこ→おいかけっこ→おにごっこの自然進化には大体1~2年くらいかかります。強制進化ではなく、いかに自然にこの進化を見守れるかというところに保育の肝みたいなものがあるような気がします。


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Title: 一輪の。
2017.09.21

比較的穏やかな時期。

*

有象無象いろいろな悩みや、解決しなければいけないことや、片づけなければならないものが重なって、無意識にも脳のメモリーがバックグラウンドで動いている時に忘れてしまう大事なこと、例えばそれは季節の変化や、それに伴う心や体の変化、腰を据える感覚とか、楽しむ姿勢とか、丁寧な生活とか。

そういう、目には見えないものを捕まえる目が閉じてしまうような時に、焦燥のようなものを感じるし、そういう焦りがまたいろいろな歯車を狂わせる。

そういう時、いままでの自分は環境を変えようとしたり、習慣に変化を加えたりしながら、やたらと楔をうつことに執着していたように思う。

でも最近、そういう時にも感覚的なアンテナはしっかりと立っていて、なにかに追われながらも意識とは別のところで、身体のゆがみを自然に補正するかのように、内側から働きかけていて、そのちゃんと働きは自分の中に沈殿している実感があって、

例えるなら、なにかに追われていると、心の中のコップのようなものが、蓋をされてしまうような気がして、その蓋を取り除かねばならないと焦っていたのだけど、でもよくよくみたら、蓋なんかなくて、コップのほうを向いてなくても、ちゃんとこの瞬間にも水は注いできていると思えるようになったということ。

この変化はとても大きな安定につながる。

その安心が物理的に負荷の少ない時の心の柔らかさを、負荷がかかった状態でも保てる一つの要因になる。

*

そしてやっぱりロックはやさしい。

臭いものに蓋をしない姿勢を教えてくれる。

さらけだす姿勢は、さらけだされた人を包み込む姿勢だ。

*

昔、船乗りは帰る場所があるからこそどこまでも遠くにいくことができるという言葉を聞いたことがある。

その言葉の意味が実感として、40を手前に少しお腹に落ちてきた気がする。帰る場所っていうのはどんなものでもいい、それが物理的な場所や、つながりの場合もあるし、抽象的な目的や理由でもいい。

旅にでようと思うとき、やはりゴールはここではないどこかではなくて、あくまでゴールは最初に一歩を踏み出したこの場所であるのだと思う。

いつだって旅人はスタートがゴールなんだ。
そう思えた時に、また一人旅にでたくなった。

*

泣き止まない子がいたり、へそを曲げる子がいたり、大人には理解できない理由で取り乱す子がいる時、
その子が求めているのは、慰めじゃなくて、受け止めてほしいだけなのだ。
そのまんまの肯定なんだと思う。

そのまんまを受け止める心がどれだけの人を救えるか。

*

戦える体になりたい。
それは物理的に。

いまの自分は戦える体じゃない。

戦にでたらすぐにへばって、取り囲まれて斬られる。

だからまず戦える体になりたいと思った。

なにと戦うかとか、敵はどこにいるのかとか、
そんなことはわかんないけど。

今わかっているのは、いま自分は戦える体をしていないということだ。

*

例えばはじめてクロールを覚えて、25メートルを泳ぎ切れたときのクロールと、
海で泳ぎ始めて、遠泳をしたあとのクロールは、同じクロールでも別物で。

力の入れ方も息継ぎの仕方も、心の持ちようも違う。

自分のクロールもだいぶ変わったのだと思う。
でもクロールはクロールなんだ。

*

ぐるっと回って同じところに立ってるような気がしても、それは同じところではなくて。
それは物理的な問題ではなく、そこに立つ自分の感覚と視点の問題。

*

"らしさ"みたいなものは単色をではなくグラデーション。

*

波風立てづに、長生きしたいと思うようになったけど、でも何かを守るために刺し違える覚悟は忘れまい。




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Title: あたまの整理。
2016.10.24

ratoonをはじめて半年たって気づかされたこと。頭の整理。

子どもにとって「自由」というものはとても難易度の高いものであるということ、
その難易度をあげてしまっているのが「評価」であるということ。

ratoonにきた子ども達をみていて、さあ自由に好きなことをしていいよ、というと、
大抵の子は、自分の知っているもの、得意なものを手に取って挑戦をする。

それを突き詰めていえば、はじめて挑戦してもそこそこできそうなもの、
過去にいい評価を受けたことのあるものという分類ができる。

それでもはじめてみるものや、見たことがないものへの好奇心は隠しきれず、
そこから湧いてくる挑戦したい想いと同時に、
うまくできないこと、評価されないかもしれないことへの怖さみたいなものを
意識的にも、無意識的にも天秤にかけているように見える。

子どもはいつだって自由かというとそんなことはない、
子どもほど周りからの評価をきにして、
自分の分限の幅を空気の中から読み取ろうとしている、
そしてなによりも周りからの期待に一生懸命答えようとしている。

その天秤のバランスをとりながら、少しづつ好奇心の扉を開いているように見える。

そのペースは大人の思うよりもとてもゆっくりで、
その扉を大人が無理にこじ開けないようにしたい、
ゆっくりと扉を押していくペースを考えなければならない。

ratoonにきた子がはじめに口にする、
これ自分でやっていいの?うまくできないかもしれないよ?子どもがつかっていいの?という言葉。
その言葉はそのまま子どもたちの生活や置かれている状況の写し鏡なんだろうと思う。

どんなこともトライアンドエラーを繰り返して、物事は深度を深めていくことができる。
その中で想像を膨らませ、創造を楽しむことができる。

失敗してもいいんだよと大人はいうが、
子どもが安心して失敗できる環境をどれだけ整えられているのだろうか、
無意識的にも成功ばかりを評価しているのではないだろうか、
大人が率先して失敗し、トライアンドエラーをする姿勢をみせていられるだろうか。

ratoonを始めるときに、子どもたちが自由に好きなことをできる場所にしたい、
そこで想像や創造にあふれる環境をつくりたいと思った。

しかしはじめてみて、まずでばなで気づかされたのは、
いかにその環境を自分たちが奪っていたかということ。

子どもの行動は本当に写し鏡だと思う。
良くも悪くも、まったくもって写し鏡だ。

子どものすることを、子どものせいにするのではなく、
その原因を自分の中にみつけられるかどうかということが、
この仕事の面白いところで、醍醐味なんだと思う。

まずは一つづつ。

安心してトライアンドエラーすることで、やっていいことの分限をひろげ、
その経験をつながりの中で共有できる場所づくりをしていきたい。

環境をつくるということはとても難しい。

難しいというと十把一絡げだけど、どんな場面でも「いい環境」というものに定義があった時に、そこには物質的な割合よりも、そこを作る目に見えない要素、言葉や姿勢、想いや願いのベクトルの占める割合が大きくなっていなければいけないのだということを実践をもって感じる今日この頃です。

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Title: すくすくと。
2015.11.08

園ではこのくらいの時期になってくると、日々に目に見えて子供たちの成長というものを感じることができるわけです。しかしながら成長が子供たちにもたらすものは、明るい未来や希望だけではなく、はじめて湧いてくるぬぐい去れない負の感情であったりもするわけです。

4月に入園してきた年少の子供たち、入園当初はしゃべることのできない子なんてのはざらにいたわけですが、この半年でしっかりと自分の想いや意志を言葉で伝えられるようになり、今や、その「伝えることができるようになった自分」を存分に楽しみ、使い、日々の新しい感触を味わうように過ごしています。

はじめて友達に「イヤだ」と言えるようになり、「一緒に遊ぼう」と言えるようになり「自分が主役がいい」と言えるようになる子供たち、耳で覚えた言葉の感触を振り回すように言葉を使い、自分の発した言葉の反応や相手の表情を見ながらその影響の感触を身体で覚えていきます。

そこでは「ありがとう」や「どういたしまして」や「一緒に遊ぼう」「いいよ」のようなポジティブな感覚のつながりにわくわくするだけでなく、当然そこで想いや意見の食い違いにもぶつかります。時に「まだできないの?」「あっちいって」「今日は遊ばない」「きらい」そんな言葉に打ちのめされることもあります。

自分の言葉と感情が結びつくこと、そしてその自分の身につけた力の届く範囲を身体をつかって探っていく経験というのはこの時期の子供たちの大切な成長のひとつです。

まさに今の時期の園では、その成長が原因で様々な問題がおきます。それはいままで何となく成り立ってたものが、芽生え始めた自我と意志、そしてそれを覚えはじめの言葉と行動で表現することで自分の視野と世界を再構築しようとした結果だと思います。子供たちは毎日そこでいろいろな感情を体感して、そこに自分の意志を示し、おぼつかない言葉で落としどころを探して、そして精一杯がんばって心を順応させ強くなろうとしている最中です。

親は子供が家に帰ってくると、今日はなにしてきたの?どうだったの?お友達はできたの?なにかいやなことあったの?と根掘り葉掘りききたくもなるし、その中でたくさん心配もするし、不安になったりします。その気持ちは痛いほどわかるのだけど、でも3歳4歳の子供たちにとっては家を一歩出て、園にいき、集団の中で自分の居場所をみつけようと、意志をしっかりと示そうと、日々嵐のような日常の中で必死に戦っています。それは大人には想像できないくらいの勇気と元気を消耗します。いわんやそんな中で湧いてきた感情をすぐに言葉にすることなど実は大人でも難しかったりします。

そんな1日を過ごしてきた子供が、やっと心を休ませて安心できる家に帰ってきたんだと思えば、かける言葉もすこし変わるのかもしれないなと思ったりもします。そりゃ家ではぐずぐずしたくもなるよなと。

現場にいると子供たちががんばっていることが痛いほど伝わってきます。そして親といるときとは全然違う顔なのだということに驚かされます。

見守るってのはとても難しいことです。親になってみてその難しさがよくわかるようになった気がします。

そして成長というものがすごいスピードで渦巻く中で、そこで五感をフルに使い順応していく子供たちに取り残されないようにくらいついていきたいと、35歳のおじさんもおもうわけです。まだまだ若いもんには負けられんと。

あなかしこあなかしこ。


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Title: おばけやしき。
2015.08.28

園では夏期保育の3日間おばけやしきを開催しました。

開催にあたり、少し前にお化け屋敷プロデューサーである五味弘文さんのお話をきく機会をいただき、その話を参考にお化け屋敷をつくりました。五味さんの話の中で印象に残っていた、お化け屋敷にはストーリーがあり、ただ恐怖を感じるだけのものではなく、あたたかさ、悲しさ、優しさのような、なにかそこに人間の心を感じられるものをつくりたいという話。

その言葉を参考にストーリーを考えました。

子どもが大好きなおばけ、幼稚園でいつも子どもたちをみていました。

しかし夏休みに入り子どもたちがいなくなり、幼稚園は静かになってしまいました。
それが寂しくて、おばけは子どもに会いたくて幼稚園の部屋の隅にでてきてしまいました。
このおばけは子どもにしかみえません。声も子どもにしか聞こえません。

夏期保育にきた子どもたちは、夏休みの間一人で寂しかったおばけの友達になって、元気をあげることでおばけはお化けの世界に帰ることができるので握手をして友達になってほしい。

これが今回の背景です。

真っ暗な部屋の中の隅におばけが座っています。BGMは阿弥陀経です。さあ子どもたちはおばけと握手して元気をあげることができるでしょうか。

そして今回のお化け屋敷はそれだけでは完結しません。

お化けと握手をするとおばけから手紙がもらえます。その手紙には見たことのないおばけ文字が書いてあります。その手紙をどうやって読もうか悩んでるところに、幼稚園に古くから伝わる古文書がでてきます。その古文書をもとにおばけ文字を解読するとそこにミッションがかいてあります。それをクリアすると見事メダルをゲットです。

入念に準備をして、いよいよお化け屋敷スタート。

初日のルールは必ず一人で入らなければいけないこと。これはそうとう難易度高いです。真っ暗な部屋に一人ではいり得体の知れない者と握手をするというのは大人でも難易度がたかいのですが、ここで驚くべきことがおこりました。

みんな怖がりながら、ほとんどの子どもが入り口で引き返す中で、数人の子どもがおばけに話しかけました。「友達になろう!」と。そしてはじめてクリアをした女の子はおばけを怖がることなく、一人で寂しかったね、お友達になろう、あなた名前はなんていうの?と真っ暗な部屋の中をまっすぐ歩いてきました。目に涙をためながら、がんばって友達になってあげたいと暗い中を歩いてくる子もいました。

初日のクリア人数は全園児300人中10人です。

この10人の子どもたちとの会話を全部聞かせたいくらいです。おばけは子どもたちの想いと優しさに胸一杯になりました。

そして2日目は2人で挑戦してもいいということにしました。するといままで入り口で引き返していた子どもたちがぎゅっと友達の手を握り、時にお兄ちゃんやお姉ちゃんの手を握り挑戦します。

おばけの前までがんばってきたお兄ちゃんが、おばけに弟を紹介していました。弟のだれだれです友達になりにきましたと。自分も怖くて震えているのにしっかりとお兄ちゃんとしての任務を果たしている姿に胸があつくなりました。

そして友達同士の友情も。ときにいざこざもありましたが、一人よりも二人、友達のもつ力っていうのはすごいのだなということを目の当たりにした気がします。

それでも2日目のクリア人数は30人です。

そして最終日には3人ではいってもいいことにしました。そして少し電気も明るくして小さな子どももはいりやすくしました。

するといままで外で見て、入ることができなかった3歳の子どもたちも挑戦します。いままでお兄さんやお姉さんが挑戦してたお化け屋敷に勇気をだして踏み出します、そして一度クリアしたお兄さんお姉さんたちが小さな子どもの手を引いて連れてきます。

そこでみんな次々におばけと友達になりました。手紙をもらって帰って行く子どもたちの顔がとても誇らしげでした。

そして最終日には、一度クリアした子どもたちが、おばけが帰ってしまうときいて何度も会いに来ました。自分でお化け文字を書いておばけに返事を書いてくる子どもや、寂しいから会いに来たよとお手紙をもってきてくれた子どももいました。

お化け屋敷をクリアしたあとに、自分が命がけでもらったおばけからの手紙。どうしても読みたくて、いままでひらがなを書いたり読んだりできなかった子どもたちができる子にきき、自分でしらべて一生懸命手紙を読んでいる姿も印象的でした。

たかがお化け屋敷、されどお化け屋敷。

さらりと書いたのですが、本当にこの3日間お化け屋敷の中で繰り広げられたドラマには何度も胸が熱くなりました。そして行事やイベントを通して子どもたちになにかを伝えるためにはどうしたらいいかということの多くを学びました。

そして個人的には年長の子どもたちと間近で会話をしても正体を見破られないために、アメリカから輸入したボイスチェンジャーの効果に一番おどろきました。

あなかしこ、あなかしこ。


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Title: しんがっき。
2015.04.18

そうです今年もこの時期です。阿鼻叫喚の新学期です。

お母さんがみえなくなったとたんに腹をくくったかのようにスイッチのはいる子、先生が大嫌いだといい続ける子、頑なに着替えない子もひたすら泣き続ける子、一言もしゃべらないけどしっかりとやることをこなす子、あんな子やこんな子、いいだしたらキリはないのだけど本当にいろんな子がいる。

ここがはやくそんな子たちの安心していられる居場所になれるようにがんばるわけです。

そんなこんな日常をこなしながら、ふとここ最近自分のまわりで起きたことが一つにつながったような気もしたわけです。

小さな子どもってのは、言葉とか約束とか理路整然とした理屈だけでは安心した顔をしてくれなくて、それをつかわないで子どもたちが安心した顔ができるようになるためには、どこをつかわなければいけないのかってことで。

そこでつかわなければいけないところというのは、大人と子どもだけでなく、人と人が信頼関係を築くために大切な事の本当に根幹みたいなものだなと。大人になるとどうしても安心を得るために理路整然とした理屈をほしがっちゃうのだけど、本来安心とか信頼っていうのはそういうものだけで成り立っているのではないのだと気づかされるわけです。

この先になにがあるのか、予定調和の約束が欲しいのではなくて、この瞬間、この相手、この場所に、身を委ねられるかどうか、それは視点の問題であるのかもしれないけど、その視点の位置がとても大切なのだなと。

なんてことを、涙とかよだれにまみれながら感じたりします。

そんな日々です。



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Title: きさらぎ。
2015.02.20

幼稚園では、発表会(俗に言うお遊戯会)も終わり、ほっと一息、子どもたちは寒空の下、外で元気に駆け回っています。

この時期の園庭では、静かに、そして着々と遊びの世代交代が行われていくのです。

年長の子どもたちは卒園式へ向けた練習がはじまりますので、自由遊びの時間の園庭では年少と年中の子どもたちだけが遊んでいるわけです、おもしろいもので、普段園内のサッカーコートは年長が独占していて、それを横目に年中や年少の子どもは遠巻きにボールを蹴ったり、時々こぼれてくるボールを拾いに行くぐらいのものなのだけど、年長がいなくなるやいなや、ここぞとばかりに年中の男の子たちがサッカーコートにはいりサッカーをやるのです、すこし誇らしげに、でもちょっと遠慮がちに。

サッカーだけでなく、ドッジボールも、お団子つくりも、砂場遊びも、お店やさんごっこも、おままごとも、電車ごっこも、長縄も、年上の子どもたちがやっている遊びを横目に見ていた子どもたちが、あこがれのお兄さんお姉さんたちの遊びを真似して自分たちのものにしていくわけです。そうして脈々と遊びが受け継がれ世代交代をしていく様がこの時期になるとよくみられます。

こうして子どもたちが着実に成長している姿を目の当たりにできることが、この仕事のおもしろさであり、醍醐味であると感じます。

「遊び」というのは、子どもの成長を見るうえでとても大切な事です。

幼稚園にきたばかりの子どもは、まだまだ1人の世界にはいりこみ1人遊びをすることが多くて、そこから友達と関わること、関わる楽しさを感じ始めると、今度はその自分の世界を少しづつまわりの子どもと共有し始めるわけです、一生懸命に言葉をつかい、みぶりてぶりを交えながら自分の世界を伝え共有しようとします。ここでうまくいかなくて喧嘩になったり、悲しい思いをしながら、心もしっかりと鍛えられていきます。

そして少しずつイメージの共有ができるようになると、自分がヒーローになるだけだった遊びは、みんなでヒーローになって敵と戦うことができるようになります。自分がお母さんになるだけだったおままごとも、家族単位で役割分担ができるようになります。

みんなでおなじイメージの中にどっぷりと入り込んで遊ぶことを覚えると、今度はそのイメージを現実の世界に落とし込んでいきます。

基地はどこなのか、基地に入るための合い言葉をどうしようか、仲間がわかるように帽子のかぶり方を変えてみようかなど。一つに遊びに自分たちでルールと決まりをつくり、またその遊びを少しでも長く楽しく続けていけるように、手加減を覚えたり、相手の立場を考えたりしながら遊びを継続させていきます。そうしてさらに遊びの幅を広げていくのです。

たかが「戦いごっこ」たかが「おままごと」ではなく子どもにとって、それはまさに目に見える成長の証だと思います。

この時期の子どもたちの遊びは本当に大人も想像もつかないような深さと幅で展開されていきます。これは大人が遊んであげている遊びの中では絶対に作り出せないものです、子どもたちが友達どうしの中で長い時間をかけることでしかつくられないものです。

遊びの中で培われるものの中には、これから子どもたちが社会にでていくときに必要であろう様々な大切なことがたくさん詰め込まれているような気がします。

遊びを通して子どもたちの成長を感じられることがとてもおもしろいです、そしてそんな子どもたちももう1ヶ月もすると1つ大きな学年になり、年長の子どもたちは卒園していきます。少し寂しいですが、また4月になれば、はじめて社会に第一歩を踏み出した子どもたちと出会えるのかと思うと楽しみにもなります。











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Title: どろどろ。
2014.10.31

「どろだんご」ばかりをつくっているわけでもなく。それが自分の生業でもないのだけど、でもおそらくこんなに人生でどろだんごをつくったことのある34歳もそう多くはないと思うわけで。

最近、子どもたちのどろだんごをつくるスキルがあがってきて、もはやピカピカにするに飽きたらず、色をつけて、さらに磨きをかけて、もう泥だかなんだかわからないようなものにまで昇華させる子どもまででてくる中で感じたこと。

どろだんごをつくる手順というのは、

まず芯となる土を練る。練る練る練る。空気を抜く。

陶芸の世界ではこの土を練る作業を「菊練り」というそうだ、菊練り3年ろくろ10年だそうだ。どろだんごをつくっててもこの作業は思いの外大事だということで、ちゃんと練れてないとひび割れをしてしまったり、しっかりとした球体にならない。土の中にあるつぶつぶした塊をつぶして、空気を抜いて、練りに練った土を手の中で転がす。

転がす転がす転がす。

ここの力加減も重要。すこし乾いてくるとここで力を入れすぎると表面からひび割れてしまう。そして少し土の湿りがとれて、手に泥の痕がつかなくなるくらいまで乾いてきたら形を整えて自然乾燥させる。

すこし乾いたら、ここからの作業がどろだんご作り中でも核となる作業、乾いた土、通称「ふわ土」を表面にかけて、それを手ですりこむようにだんごをこする。つまりはここで研磨しながら、芯となる土のまわりに光る層をつくっていくのだけど、ここも加減が必要で、土をかけすぎると、表面からパリパリはがれてしまって、すり込みが足りないとうまく光らない。

何が言いたいかというと、その作業工程のほとんどに感覚的な要素が多くて、はじめてつくってもなかなかピカピカにはならないのだ。何度も繰り返すことで、その感覚がなんとなくわかってくるとどろだんごが光るようになるのだけど、子どもたちはそのなんとなくの感覚を自分のものにする時に、例えば土の乾いたタイミングをはかる時「つめたいか、つめたくないか」「軽いか、軽くないか」「やわらかいか、やわらかくないか」とか、嘘かほんとか「匂い」でそれを見極める子どももいる。それぞれがそれぞれの感覚でそれを判断をしていて、その感覚のとらえ方にこんなにも違いがあるのだということに驚かされるのです。

それに何度も繰り返すうちに、いま自分のもってるだんごがうまく光るかどうか、その感覚的な判断というのもうまくなってきて、もはや国宝級の陶芸家のように、いままで大事に手の中で転がしていただんごを唐突にたたきつけて、これじゃだめだ!作り直し!などということはもはや日常茶飯事となっている。

そしてかなりの確立で光らせることができるようになる子どもがチラホラ増えてくると、その子が他の子どもに指導をするのだけど、その教え方もまた千差万別でみていてとても面白い。「伝える」ときに必要なことはつくづく達者な言葉ではなく、言葉に頼らなくとも大事なことはしっかりと伝えられるもので、大事なのは教える側がいかにそれに夢中であるかどうかとか、そういう温度みたいなものが大切で、結果としてそれが教わる側に伝われば最後に目的は達成されるのだ。

そして一番響いたのは。

1つのだんごを最後までピカピカにするためには、それなりの時間と労力が必要で、1日の自由遊びの時間だけでは完成させることができなくて、何日かにわけてつくることもあるのだけど、その大事につくっただんごを不用意に落として粉々にしてしまうということがよくある。

その瞬間まわりで見ている自分とかは、あっ!泣いちゃうんじゃなかろうかとか、ショックを受けてるんじゃなかろうかと、余計な心配をしてしまうのだけど。

その時に、自分で大事に大事につくって、何度も何度も取り組んできている子どもほど、またつくればいいやってなもんで、切り替えがとてもはやくて、ショックはあるのだろうに、黙々とまた次のだんごにとりかかるのだ。

それはきっと自分はまた光らせることができるという自信からくるものなのかもしれない。その姿をとても頼もしく、そしてまぶしくも感じるのです。

たかがどろだんごなんだけど、されどどろだんご。

一つのことに五感を研ぎ澄ませて向き合うということは、本当に大人の想像する以上にいろいろなところを育むのだなと。

そんなことを感じたとかいっておかないと、どろだんごをつくって遊んでるだけだと思われるので、大義名分と自己肯定の為に書き残しておくことにする。









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Title: くも。
2014.10.07

蜘蛛の巣というのは、本当に絶妙なところにあるものだなと。

トンボとかみてて思うのだけど" けものみち "というのがあるように、虫にも虫の通りたくなるところ、飛びたくなるところ、おもわず留まりたくなるような所があって、その絶妙にトンボが飛びたく、留まりたくなるようなところに蜘蛛は巣を張っているように思うのだ。

蜘蛛自体のスペックというのは、自分でトンボや蝶に飛びついて捕食するということはできなくて、巣にかかって弱った虫を喰らうくらいのものなのだけど、だからこそ巣をどこに張るのかそういう戦略的なものを研ぎすまして本能に刻んであるように思う。

蜘蛛にも色んな種類がいて、それぞれ捕食対象も違うわけで、それぞれの捕食対象に癖や好き嫌いがあるわけで、それによって巣の張り方も違うわけだ、それを蜘蛛というやつは、それぞれの虫がひっかかりそうなところを本能的に熟知して巣をはるわけで。

いうなれば、酔っ払いがとおりそうな所に空き缶を転がしておくような。

公園に1つだけあるベンチをいつもペンキ塗り立てにしておくような。

絶対に押してはダメですとかいてあるボタンに瞬間接着剤を塗っておくような。

そんな狡猾な空恐ろしさを感じるのです。その研ぎすまされた戦略をもっといいことにつかえないものだろうかとかなんてことを蜘蛛のやつに思ったのだけど。

相手の落ち込みやすいところ、はまりやすいところ、道を外れそうな所に、先回りして、罠を張るのか、セーフティネットをはるのか。その違いには雲泥の差があるのだけど。でも共通しているのは、相手を熟知しているということだ。

相手を熟知する力というのは、何をする上でも重要な能力で、相手がどういう時にどういう道を選ぶのか、どういう所を好んで、どういう行動をするのか。ビオトープというものに関わっているとその相互関係はとても興味深い。

そして思うにそれはそのまま人間社会にも活用できることだらけのような気もするのだ。

相手の落ち込みやすいところに狡猾に罠を張り、高齢者に「オレオレ」って電話をかける。これだけ注意をされていても年間何億円もの被害をだすということに、人間の本能的なもの、高齢者の抗いきれないなにかを熟知している「オレ達」にある種、蜘蛛に感じるような空恐ろしさを感じるわけで。

その才能をなにか別のことに使えばいいのにとか思うのです。

いま思ったけど、お坊さんって本気だしたらそんじょそこらのオレオレに負けてるようじゃダメだと思うのです。オレオレが先回りして罠を張るところにセーフティネットを張れなきゃだめで、むしろ時にオレオレを罠にかけてひっぱりあげるくらいの狡猾さも必要なのかもしれないと。

人間の業によるだまくらかしあいに勝てないようじゃまだまだなのかもしれないっす。まさに紙一重なのかもしれないっす。

それを方便だとか、待機説法だとかいうところにこじつける気はないのですけど。

今日蜘蛛を眺めながらそんなことを考えていたのです。



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Title: 妖怪ウオッチ
2014.09.03

妖怪ウォッチが空前のブームのおかげで、最近身の回りで起きる不可解な出来事はたいていは妖怪のせいということで丸く収まることが多い。

保育室の蛍光灯がチカチカしても妖怪のしわざ。さっきまで使ってたおもちゃが見当たらなくなったのも妖怪のしわざ。降りたあとのブランコがしばらく揺れていているのも妖怪のしわざ。

それはただ電球が切れて、おもちゃを置き忘れて、慣性の法則だけの話なのだけど、子どもたちにとっては妖怪のしわざだそうだ。

なに妖怪なんだろう?なんてやつだろう?口々に言い合う姿をみていて、やれやれ、なんでも妖怪のせいにすればいいってものでもないと思いながらも、見えないものに思いを馳せるということは大切なことだなと感じます。

おもうに、ただ電球が切れただけ、おもちゃを置き忘れただけ、慣性の法則なだけ、ということは事実なんだけど、ただそれだけでは味がないというか、なんというか"のりしろ"がない気がします。

最近、その味とか"のりしろ"みたいな、"目に見えないけどそこにある"ものの重要性を昔よりも感じるようになりました。それは俗に年をとったということなのかもしれませんが。

例えば、昔は祈ることにどんな意味があるんだ。祈る暇があるならお金をだしたほうがよほど世の中の役に立つだろうなんてことを思ったりもしたのだけど、祈りも、願いも、約束も、指切りもげんまんも。お天道様が見ているよも。

質量はないし目には見えないし、確証も確約もないけど、でも人間というのはいいとか悪いとか、意味があるとかないとかではなくて、そういうところにすがりたくなる心や、そういうものに思いを馳せることで力が湧いてくるということが既存設定になっている生き物で、それを理屈でねじ伏せようとしてもどうしょうもないのだということがよくわかった気がします。

どうしょうもなく八方塞がりの時に、逃げ場にもなり、立ち上がるきっかけにもなり、自分を根底で支えてくれるのは、そういう目に見えないものに思いを馳せる力ではないかと思います。

子どもたちの中には既存設定でそういう心が根付いているように感じます。それはあの小さな子どもたちが親元を離れて社会に漕ぎ出すということは、大人の想像するよりも何十倍もいろいろなものを消耗していていて、それを根底で支えるためなのかもしれません。

それが成長とともに、そして教育の中で失われいくことはとても残念なことだと思います。「生きる力」というのは一言でいうと漠然としているけど、つまりはそういうことなんじゃないかと思います。



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Title: 大人の子守歌。
2014.07.29

何か一つの事件が起きたときに、加害者にも被害者にも、必ず意志だけではない何かが大きく作用しているように思えて、その意志の外にある背景や環境や状況や、その全てが一つの結果に繋がっているのだということをつくづく感じる。ましてやそれが子どもであればあるほどその影響は大きい。

心がまだ柔軟で柔らかい時期、身体がたくさんのものを吸収しようとしている時期に、人間は自然と感受性を高めて、少しでも多くのものを吸収しようとする、それは生きる為の脳の本能みたいなもので。

そのときに一番怖いのは失うってことなんだろうと思う。身体が得よう得ようとするときに何かを失うことはおそろしいことだ。簡単に手放せない、簡単に捨てられない。大人は簡単に諦めればいい、逃げればいい、気にしなければいいっていうけど、子どもは大人ほど簡単に捨てられない。大人からしたらちっぽけなようなことにずっと縛られている。その捨てられない物が澱のように沈殿して、様々な形になって表に出てくるのだろうと思う。それはとても自然なことなのかもしれない。

その表に出てきた切っ先が、誰かに刺さらないように、自分を傷つけないように、時に理不尽にそれをへし折ったとしてもその切っ先の行く末を見守るのが親の役目なのかもしれないなと。それが例え理不尽で力尽くに見えても、へし折らなきゃいけないときもあるんだきっと。

なつなつなつなつここなっつ。

夏に聞こう。夏に。

さてプール行こ。

ttps://www.youtube.com/watch?v=GOI6iHCiaD8

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Title: 唐揚げとハイボール。49。赤い羽。
2014.01.02

想いっていうのは、とてもシンプルなものだ。

人間というのがなんなのか、なにを信じて、なにを想って死んでいくのか。それはとてもとてもシンプルなこと。

例えばそれは、暖かいご飯で結んだおにぎりなんかにほっこりするようなものなんだきっと。その程度でしかないのだ。でもその程度のことに、心から笑ったり泣いたりできるのが人間なんだ。

ただそれだけなのだけど。ただそれだけのことがわかるのにすごく時間がかかった。時間がかかったけどよくわかった。ぷちっとわかった。

死んでいくまでにできることや、考えられることとか、成し遂げられることというのはたかが知れていて、たかがしれている中で必死にばたつくのだけど、でもやっぱり暖かいご飯で結んだおにぎりにできることなんか超えられないんだ。

だから、だれかを言葉で頷かせたり、やりこめたり、立派になることなんかよりも、おむすびを結べるほうがきっと大切な事なんだ。

正直言えば、それは自分がずっと浅いことだと思い込んでいたところなのだけど、その浅さというものが、深さの対比ではなくて、まさに人間のそのものであると思えたことは自分にとっては大きな一歩で。

この一歩が退化なのか進化なのかとか。

そんな言葉もおにぎりの前では無力であり、不言なのだと。深く確信する。生きる意味とか、出会った意味とか、あの時のたらればとか。それもまた無力で不言だ。

自分が30数年で作り上げてきた世界のなかで、価値がないに等しい物が、ある瞬間に一番価値にある物に変わる。この感覚、この気持ちよさ。この体感こそが生きてることだ。

世界はとてもシンプルに出来ている。
シンプルという言葉も無意味なくらいに。

それをややこしく、がんじらめにしたり、ときに派手なミラーボールで着飾ったり、ヤニくらしたりしたりして、必要以上に魅力的に、そして灰だらけにしてばたつくのが娑婆ダバダ。

今年は、いまこの手の中にのった気持ちを確たるものにする。それだけに費やす。

音と空気をもっと。


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Title: 鉛玉。
2013.11.05

来年はいってくる子どもたちの面接をする。たくさんの子どもの中で何人か、いまの園の体制では受け入れが難しいという判断をせざるを得ない子がいる。

その子はそこで人生で初めて、いわゆる普通の子とは線を引かれてしまう。なにが普通でなにが普通じゃないかということはとても深い問題なのでここではそれに言及せずにおくけれど、両親と子どもを目の前に、その線を引かねばならない決断を迫られた時の、このお腹の底に鉛のボールをぶちこまれるような感覚、なんど味わっても重く苦しい。そして同時に自分の子どもが目の前で線を引かれた親の気持ちを思うと苦しみをこえて吐き気すらする。

その線を隔てるものは優劣でもなければ上下でもないのだ。

日本は世界で一番天才の出にくい国だそうだ。

でもその理由の一端はまさに今日自分の引いたこの線なのだと思う。多くの人が興味を持たないようなところに興味を持ち、その興味の為にはほかの全てを遮断できたり、極度のこだわりからうまく他者と関われなかったり、その子たちの中にきっと天才の欠片あるのだと思う。本当に紙一重なのだ。しかしそれを育てられる土壌は今の日本には極めて少ない。それを理解して育てられる人材も少ない。

親も、自分の子どもがずば抜けて天才であってほしいとか、秘めたる才能があってほしいなんていいながらも、本当はそんなことを望んでいなくて、当たり前に話ができて、あたりまえに友達と関われて、あたりまえに食事が出来て、あたりまえに集団生活がおくれることに安堵する。そうでないと不安になり発達センターに通い、隣の子と比べて、子どもの本来持ちうるものを、とてもおおきな物差しにくくりつけて矯正しようとする。それがいいか悪いかではなく、それが多くの親というものなのだと思う。自分も含めて。線を引かれてもなお我が子を心から信じられる親がどれだけいるのだろうか。

それにもし、仮に幼稚園で理想を、個性をぶちぬいても、子どもたちは小学校にあがらねばならない。

そこでピカピカの泥団子を、集合時間も無視して作りつづけるような子どもの居場所は確保されない。

その現実に、昔は小さなトゲのようだったものが今ふつふつと大きくなってきて、それがジレンマになってのしかかる。なにを教えて、なにを育てればいいのか。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光

今日阿弥陀経をあげながら、その一文がいつもよりも深く心に突き刺さった。

そんな世界は娑婆には一つもないからこそ教典に記されているのではないかという気にすらなる。

力及ばずに、様々な要因をねじ伏せるだけの力もなく、自らもその一端で、くそみたいな線を引かねばならないこの悔しさをいつか払拭するために、今日の想いを書き残しておく。

いまにみてやがれ。

もっともっと力が欲しい。



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Title: 拈華微笑。
2013.09.11

志村けんのだいじょぶだぁをみながら、子どもが大爆笑している。抱腹絶倒とはまさにこの状態をいうのだろうなというくらいに転げ回っている。

思えば自分もそのくらいの頃、カトちゃんケンちゃんやバカ殿、ドリフをみては抱腹絶倒していたのだけど、今改めて、ドリフやバカ殿をみて、面白いことは面白いのだけど、こんなに床を転げ回るほどに笑えないし、むしろ悲しいかなこれの何がこんなにツボにはまるのだろうかとか思ってしまうこともある。

それは自分が大人になったということで片付けてしまうことができるのだけど、その変化は、一体いままで自分が心から笑えていた感性をどこにやってしまったのだろうか。そしてそこで失ってしまったものは一体何なんだろうか。

そんなことを考えていたら、子どもの感性に直接響く笑いを、意図として今も変わらず作り続ける志村けんは本当にすごい人なのだなと思った。目に見えないその感性をさびさせることなく、意識して維持するだけでもきっと常人には想像できないくらいの努力をしているに違いないと。

そしてその感覚は子どもと関わる時にはとても大切なことのように感じる。

昔、園で子どもが自分の目の前におもむろに花を差し出してきたことがあった。

その時、自分は、ありがとう、くれるの?と聞いたら、その子どもは首を横に振った。そしてまたおもむろに自分のほうに花を差し出してくる。

はて、くれるのではないとしたら何なんだろうか、一体どうしたいのだろうか。なにか袋にいれて持ち帰りたいのだろうかなんてことを考えていたら、その子どもは走り去ってしまった。

その後、その子どもは近くにいた友達に、同じように花を差し出した。するとその差し出された子どもは一言、きれいだね、といった。そうしたら花を差し出した子どもは嬉しそうに園庭にかけだしていった。

その出来事をふと思い出したのです。

志村けんを笑えなくなったことと、きれいだねの一言が即座に出てこなかったことはきっとどこかで繋がっているのだと思う。そしてそれがきっと大人になる過程でどこかに置き忘れてしまった感覚であり、感性なのだろうと思う。

その感性や感覚が何なのかは、朧気すぎるのだけど、でもきっとそれは人間を根底で支える類のものではないかと思ってる。


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Title: ほいく。
2013.09.05

唐突に話をはじめるけれど。

子どもと関わる仕事をしていて感じる事。

保育という仕事において、またそれは子育てをする上でも一番大切なことは、見えないものをどれだけ読み取るか。見えない部分をどれだけ慮ることができるか。そのアンテナをはりめぐらせて、研ぎすましておくことだと思ってる。

長いこと現場にいると、それがいかに大切な事か、それがいかに子どもに影響を及ぼすのかということを痛感する。

例えば、朝子どもが園に登園してきて、顔色を見て、なにかいつもと違うな、調子が悪いのかな、それとも朝でがけに怒られたのかな、それともなにか友達と喧嘩したのかなと、想いを巡らせてその子をみるだけで、意識しなければ見えなかったはずのものが見えてくる。それが見えてはじめて「見守る」ということもできるのだ。

このアンテナの広さと精度はそのまま保育者のレベルであり、質なのだと思う。

子どもは自分の想いを大人のように言葉にしてうまく表現することもできないし、受け流すこともできない。そういう時は無意識のうちにたくさんのサインを出している。その小さなサインを見落とさないこと、そのサインは大人の思う以上に大切であること、これは子どもと関わる上でつねに頭に入れておかなければいけないことなのだと思う。

なんでそういうこと言うのか。なんでそういうことするのか。なんで言うことをきかないのか。

それもまたサイン、それが子どもの心の何を表しているのか、1度立ち止まって考えると、その時には見えてこなかったことが見えてくるかも知れない。

それを汲み取ることができる能力を磨いて、備えているからこそ、親は幼稚園に安心して子どもを預けてくれるのだと思うし、見えないものを見る訓練をしっかりと積んでいるからこそ先生というのは一目おかれる存在なのではないかと思う。

もちろん、目に見えることにしっかりと対処する能力も大切なのだけど、それと同じくらい、目に見えない部分にどれだけ自分が作用できるかと言うこと考えることは大切な事だ。

これは保育だけではないのだと思う。

昔、火を消すのがうまいだけの消防士はまだ2流だという話を聞いたことがある。火をださないために自分は何をしたらいいのか、むしろ消防士なんか1年に1度も出動しないにこしたことはないのだ、いうなれば、たくさん出動するということは、それだけ日々の消防に意識ができていないとも考えられるのだよという話を聞いたことがある。

僧侶も然り、道に迷って苦しんで宗教を頼らなくてもいいように、身近な人達に普段から作用しておくこともまた大事な事なのかも知れない。

どんな仕事をしていても、ある程度の経験を積めば、目にはうつらない部分に自分の力をいかに作用させるか考えるということが必要になるし、超えなければならない壁のように感じる。





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Title: ハンモックチェア。
2013.05.10

遊んであげるのと一緒に遊ぶということの違いが頭じゃなく体感としてわかると子どもと関わるのはぐぐっと面白くなるし、いままで見えなかったものがずずっと見えてくるように思う。

ハンモックチェア買うた。

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Title: 転ばぬ。
2013.04.09

子どもというのは、何回同じ事を注意しても同じ事を繰り返すし、何度も同じ失敗を繰り返す。今言ったことも3歩歩いたら忘れてしまう。ニワトリもびっくり。

子どもたちに小言をいいながら気づかされたのだけど、自分の注意することは、いつもまだきてない未来の為の事ばかりなのだ。いつか大人になったときにそんな食べ方では恥ずかしいよ。後ろ前の服をきてたら気づいた人に笑われるよ、目を見て歩いていないと電柱にぶつかるよ。

どれも先の心配していう小言であって、それはいわば転ばぬ先の杖。自分は大人だから、いままでの経験の中で、おそらくそうなるであろう予測をして、そうならないようにと杖をだしているのだけど、子どもからしたら、今目の前にあることや、この世界は新鮮な刺激ばかりで、まだきてないことなんかに心を巡らせてる暇なんてないのかもしれない。

だからなにをしてもいいというわけではないのだけど、この大人と子どもの視点の深度の違いの中には、それぞれメリットとデメリットがある。

大人になると、数時間先、数日先、数年先のことを考えるようになる、実際最近友人と話していても、何年後かの自分を想定して、結婚するなり、家を買うなり、引っ越しをするなり、転職をするなり、自分の身の置き方を考えながら今を行動しているし、一杯飲んでいたってそんな話題で持ちきりになることも少なくない。

無論30も超えれば、刹那に生きるなんてことにあこがれはするものの、一か八かで生きることが出来る人なんて一握りで、先のことを考えて行動しないと、困る事も失うものもたくさんある。

でも最近思うのは、苦しみや悩みのほとんどは、そのまだ来てない先の自分の身の置き方や、ありもしない自分のあるべき姿のことだったり、もしくはそこから生まれてくるギャップによるものばかりだ。先を見据えた目のスパンが長くなればなるほど、苦しみや苦悩の種もふえていくように感じる。

それに対して子どもの視点の深度はとても浅い。どんなに長く見積もっても明日か、明後日、来週のことまで考えて行動できればりっぱなもんだと思う。その分今をしっかり受け止めて、今の幸せ、今の楽しさや、今の心地よさを見つけて、感じる心は大人の何十杯も敏感だし上手だと思う。

そしてそのメリットがあるからこそ、小さな身体で、この社会の荒波にこぎ出すことが出来るのだと思う。経験や知識がないまま航海に出ることは大人の思うよりもずっとエネルギーを使うし心も消耗する。だからこそ視点を浅く、今のすばらしさを感じる感受性が豊かなのだと思う。なによりも世界が眼にキラキラとうつらなければ足をだせないのだ。

この大人と子どもの視点の深さにはそれぞれにメリットとデメリットがあって、社会でいきていく以上、いつまでも子どもの視点のままでもいられない。でも大人の視点で物事を考えることの方が優れているかといえばそうでもない。

子どもの心がしっかりと育つ前から、はやくに先を先を考えて、数年先の事を見据えるような視線をみにつけてしまうと、それはぱっとみれば、良くできた優等生なのかも知れないが、それでは見落としてしまうことがたくさんあることを忘れてはいけないし、先を見据えたスパンが長くなればなるほど抱える苦しみが増えているのだということを忘れてはいけないのだと思う。いつだって苦しみや苦悩は、過ぎ去った過去かまだ来ていない未来からくるのだ。

いつかの幸せの為に今の幸せを犠牲にしないというのは教育に関わるすべてにおいて忘れていけないことで、この瞬間から学べることはたくさんあるということをわからないまま未来を見据えることだけを教えるのは教育ではないと思う。

子どもは子どもでいられるだけ子どもでいさせてあげたいものだ。いつかその時が来れば必ず未来を見据えなければ生きていけなくなるのだし、あまり急いで大人にならなくていいし、大人の仕事は子どもに世界をキラキラと輝かせて見せることなのかも知れない。

なんてことを小言をいいながら考える自分が、すごく大人になってしまったような気がして、すこし悲しくなったりもするのです。


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Title: 嘘をつくこと。
2013.01.10

嘘をつくということ。

子どもたちがあからさまに嘘をつくということはよくある。

叩かれてもいないのに叩かれたとか、本当は自分にできないことをできるとか、悪いことをしてしまったのにしてないとか。

子どもと関わる上で、このような嘘にどう向き合うかということはとても大切な事で、現場にいて感じるのは、子どもが嘘をつくときというのは、その子を知る上でとてもチャンスだということ。

あからさまに嘘をついている子どもをみると、ついどうしてそんな嘘をつくのか、平気で嘘をついていると嘘つきの子どもになってしまうから、それだけは厳しく注意しなければ、親であれば、どうしてこんな子になってしまったのか、育て方を間違ったかなどと思ってしまったり、つい嘘をついたということにばかり目がいってしまうのだけど、幼少期につく嘘のほとんどはここで直さなければ平気で嘘をつくようになってしまうなどと思うまでもないようなものだし、、ずるがしこく、人を陥れるような類のものではないので、たいして心配するようなことではないと思う。それよりもそこで大事なのは、なぜそんな嘘をついたのかということにしっかりと目を向けることだと思う。

なぜ叩かれてもいないのに叩かれたというのか、なんでできないことをできるというのか、どうして目の前で悪いことをしたのに、平気でしらをきるのか。

そこにはたくさんの子どもからの想いがこめられていて、それは「もっと自分をみてほしい」とか「さみしい」とか「ほめられたい」とか「おこられたくない」「認めてほしい」の裏返しであることがほとんどで、その原因をつくっているものはなんなのかということを考えなければならない。

その原因は親にあるかも知れない、友達関係の中にあるかもしれない、弟や妹が生まれたことかも知れない。いづれにせよ子どものつく嘘はその子のおかれてる状況や環境を映し出す鏡であるし、むしろ嘘という形で、表にサインがでてくるほうがありがたいことなのだと思う。

そのサインを見落とさずに、しっかりとひろうということが「育てる」ということなのだと思う。これは子育てに限らず「育てる」ということはすべて、サインを見落とさずにしっかりとそれをひろって紐解いていくということなのだと思う。

幼児教育と仏教がとても似ているなと感じるのはこういう部分で、仏教のいう因果とはまさにこういうことなのだと思う。因果を考えるということの矢印を子どもではなく自分自身に向ければそれはそのまま仏教になる。

なぜ苦しいのか、なぜ妬むのか、なぜ嘘をつくのか。

自分を自分たらしめるものはなんなのか、それを紐解いて、そしてその自分とどう向き合っていったらいいのかということが「教え」ということになるわけで、そのための方法論が教典にかいてあるわけで。

その中で、最近、教典というのは教科書のように、教典を読んで自分の生活に照らし合わせるのではなくて、まず自分の生活を見直してみて、そこから湧いてきた疑問や苦しみをしっかりと認めた上で、教典の中にその解決策を探すいう順序ではなければならないのだということを強く感じるようになった。

微妙な違いなのだけど、教典はマニュアルじゃないし、漠然とその通りにしたら何かが変わるかといえばそういう類のものではなくて、それはあくまで過去の先人達の生き様や思考の集大成であり、例題集であるわけで、自分の中の問題点はなんなのか、いま自分をとりまく環境はどうであるのか、それを考えるということが前提になければなんの意味もなさないのだと思う。そこから自分はどの教えを選択していくのかということにも繋がっていくのだろうと思う。

独楽を回して窓を割ったり、朝からけん玉をしながらもたまにはちゃんと考えているのです。

遊んでいるばかりではないのです。

というサイン。




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Title: だだ。
2012.11.29

こないだ、大きなおもちゃ屋さんにいったら、なにか新しく発売したおもちゃのイベントがやっていて、たくさんの子どもたちがいた。その中で、あちらこちらで、だだこねて泣いている子達がいて、それをしかり飛ばす親がいて、まるで修羅場のような状況だったのだけど。

たった1つのおもちゃが買ってもらえなくて、この世の終わりに近いような泣き方をする子どもを眺めていて、大人になると、どうしてだだこねて泣いたりしなくなるのだろうかと思って、大人になるというのはどういうことなのだろうかということを考えた。

大人になるということは" どうして自分だけがこんな思いを するのだ"って思うことが少なくなるということがあると思う。

経験を重ねることで、いま自分の置かれている状況が希有な状況ではなくて、世界にはごろごろしてるようなことなのだ、だから自分だけが感情にのみ込めれてしまうのは違うなという判断ができるようになるということなのだと思う。

そしてその幅を広げていくということはとても大切な事で、その幅を広げることを成長するということなのだと思う。

だから"だだ"をこねる子どもにそれをやめさせるのであれば、しかりとばすことではなくて、子どもの世界を広げてあげられるような経験をさせてあげることで、自分を客観的にみられるような声かけをしてあげることなのだと思う。

それと。

大人になるというとは、"できなくても困らないこと"に比べて"できなくては困る"ことというのが増える。

それは、いままでは誰かがやってくれていたり、だれかにぶら下がっていたりすればよかったものを、自分でやらなければならなくなる。そしてその時に自分が"やらなければならないこと"と"できること"と"やりたいこと"そういうことに折り合いをつけながら、カドをとりながら前に進んでいかなければならないということなのだけど"できなくては困る"から"できるようになる"ということは案外おろそかにしてしまいがちだったりもする。

それと。

大人になるということは、白でも黒でもないものというのが、存在していることに気づかされて、それを許容して受け入れていかねばならない場面に直面する機会が多くなると言うこと。昔は、一区切り、一段落、きっちりと線を引いて前に進めるようなことばかりだったのだけど、年をとればとるほどにそうはいかなくなる。

でもそれこそが「生きる」ということの醍醐味で、いわばそういうことを味として受け止めることができるようになることが、上手に、そして楽しく生きるということなのではないかと思う。

とにもかくにも。

"大人"であることは、やることがたくさんあって、とてものりしろがあって、どこまでも自由なんだと思う。

物理的な制約の中で、時間や想いなど、そういうものが失われることがあるのは事実だけど、自由になれる可能性は、断然子どもよりも大人の中にある。

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Title: おかみさん。
2012.10.15

 iPS細胞を使った世界初の治療をおこなったと言っていた、森口尚史氏が連日マスコミで叩かれている。

大部分が嘘だったのか間違いだったのかはわからないけど、記者会見での記者の質問やマスコミでの叩かれようをみてると、本当にこれが今の日本社会の根底に流れてる暗部だとすら感じる。

これと同じ事が学校で起きたら、いじめと呼ばないのだろうか。

自己顕示欲なのか功名心なのかプライドなのかはわからないけど、つまらない見栄を張って嘘をついた奴がクラスにいたとして、そいつがそうしょうもない弁解をしたり、しどろもどろになりながらも、ヘラヘラしながら曖昧な受け答えをしていたとしたら、その姿にイラッとしたから、嘘を認めないからという理由があれば、毎日問い詰め続けて、嘘を認めるまで追い込んでもそれは正義なのだろうか。

いじめのきっかけなんてものは、本当に些細なもので、ちょっとした受け答えが気に入らないとか、受け答えがきもいとか、つまらない嘘をついたとか、そんなことが発端でいじめがはじまる。

よくいじめられる側にも理由があると言うが、理由があるとしたら、そういうつまらない間違いや嘘であるかもしれないし、時に自分でも気づかないような些細な癖とかそういうレベルのものかも知れない。それでも十分に相手にとってはいじめる理由になる。

いづれにせよ、今回の森口氏のようなことの縮小版のようなものなんだろうと思う。

それを許容して、追い詰めないということがいじめをなくすということだ。

そういう奴もいるよね、そういう時もあるよね、そういう自分って誰の中にもあるよねと言えることがいじめをなくすことだ。

それに結局そういう心持ちが結局は自分自身の首を絞めないと言うことであるし、もうすこし住みやすい社会をつくるということに繋がるのだと思う。

いじめ問題がとりあげている時は、マスコミもコメンテーターも、どうやったらいじめをなくせるか、どうしてなくならないのだろうか、まじめな顔で議論してる癖に、こういう時には手のひらを返したように誰かを追い詰める。

いじめがなくならない原因はまさにそういう自分自身の中にあるとなんで気づかないのだろうか。

ただ自分は森口氏を擁護してるわけでもないし、弱いものイジメする人を批判してるわけでもない、実際森口氏には、叩かれるだけの要素がぷんぷんしてると思うし、つまんない嘘ついてんなと思う。しかもどうしょうもない弁解すんなと思う。

でも好きでも嫌いでもないし、以上も以下もない。知らない人だしどうなっても知ったことない。

ただどうしても引っかかるのが、普段いじめをなくしたいといってる奴がこういう時に自分を棚に上げて、その原因が自分の中にあることにも気づかないで、手のひらを返したような矛盾した発言するのだけは見ていてモヤモヤがとまらない。

毎日こんなことがテレビで平然と流されて、多くの人が弱いものイジメをみながら、朝飯くってんだ。

いじめなんかなくなるわけない。

世界が平和にならないのは誰かのせいじゃない。



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Title: 101
2012.09.25

朝家の近くの道で猫が死んでた。そんでまた違う場所では小動物が死んでた。そんで帰り道では首都高ですごいでかい犬が轢かれて死んでた。今日3回も生き物が無残に死んでる姿をまじまじと見てたら鳥葬を思い出した。死んだらみんな肉塊なんだよな。生き物を生き物たらしめるのは一体なんなんだろうか。

なんてことを思いながら天一でスープライスセットをもしゃもしゃとたべて、「明日もお待ちしています」って書かれてるどんぶりみながら、いつまでも明日があると思うなばかやろうと思った。

*

アトピーの子がいる。かゆくてかきむしって日常生活ができないくらいなのだ。

毎日何回も薬をつけてくれと言いにくる。

最近毎朝それを塗ってあげるのだけど。

首と目の周りとお腹と背中で、全部違う薬を塗り分けるので、なかなか覚えられなかったのだけど。

違う!と言われながらもやっと覚えることができた。

目の周りを塗って、首に塗って、手と足にゆっくりと塗り込んでいく。

なんか今日、薬を塗っていて思ったんだけど。

スキンシップって大事な事だと思う。

言葉を何百回も交わしてもわかり合えないことはあるのだけど、1日数回でもこうやって薬を塗ってあげることでお互いの中に、黙っていてもわかるような安心感が芽生えると言うことはあるのだと思う。

いつも、ぶっきらぼうに、ありがとっていって去っていくのだけど。

園庭のどこにいたって、遠くから手を振ると、手を振り返してくるのだから、目線の端でこっちをとらえてくれてるんだなと思う。

アトピーは治ってほしいけど、アトピーだからこうやって人とわかり合えることがあったのだということを、頭のどこかに忘れずにいてくれたらいいなと思う。






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Title: ねっこ。
2012.09.16

いじめの問題、自殺の問題、虐待の問題、また人を人と思わないような事件、そんなニュースをみていて本当に、想像力の欠如というのを感じる。

想像力を生み出すのは感性だと思う。

花をみてきれいだと感じたり、空をみて広いと感じたり、土を触って暖かいと感じたり。

どんなことでもいい、その自分の中に湧くふとした感情を大切にすることは本当に大切な事だと思う。

あたりまえのようだけど、今子どもたちを取り巻く環境はこの当たり前のことすらできない状況なのだと思う。

花をきれいだねと言っても褒められないのに、その花が何科の植物でいつに花をつけるのかを知っていれば、周りの大人は褒めてくれるし、いい点数だってとれる。そうやって情報や知識が先行することで、子どもの感性の芽は摘まれてしまう。

感性がしっかり育まれると、そこから好奇心を生まれる。

好奇心をもって初めて学ぶ意欲、欲求が湧いてくる、そこで初めて、知識と情報が自分のものになって、褒められるから、点数がとれるから学ぶのではないと言うことがどういうものなのかを感じることができるのではないかと思う。

喉も渇いていないのに水を飲み続けることはできない。

そしてその好奇心が、想像力を育む。

そしてその想像力が、相手の立場にたって考える、自分の事として受け止める思いやりを生み出すと同時に、自分の行動の影響力を考えられるようになるのだと思う。

すべての源は感性だと思う。

そして人間はここ一番で大きな壁にぶつかって、どうしょうもなくなったときに、救われるのは情報や知識ではないくて、道に咲いている花だったり、近所の犬だったり、顔に当たる風だったり、空だったり、海だったり。そういうささいなところで、肩の力が抜けてまた歩き出す勇気をもらったりする。

小さなことに幸せや、喜びを感じられる心、折れない心をつくるのも感性だ。

現代の抱える問題の多くはこの感性をしっかりと育むことで、少しは緩和できるのではないかと思う。

そして幼少期においてこの心を育み、心にしっかりと太い根っこをはることではじめて、これから社会に出て大きな木になっていくことができるのではないだろうか。

ということを先日説明会で話したのだけど。

考えれば考えるほどに、この感性を育む教育の難しさと、問題点課題が浮き彫りになる。

まずは自分にできることから1つづつとは思いながらも、その途方もない作業と、同時に絡み合ってくる様々な問題とのギャップに悶々としたりもする。

まえにまえに。




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Title: 向日葵。
2012.09.16

ものすごい嫌のことがああったり、とりかえしがつかないことをしてしまって、ああ時間を戻すことができたら絶対にこの状況は避けたかった・・・などと悶々とするということが人生には時々ある。

そういう時には大抵今手の内のあるもののありがたさに気づかされたりする。

昨日まではなんてことないあたりまえのことが、実はありがたいことだったと気づかされるような経験をすると、自分にとっての悪いことは、おい調子にのって、悟ったような顔してると痛い目見るし、満ち足りたような顔して勘違いして生きていると、大切な事を見失うぞといわれてるのじゃないかとすら感じる。

なんてポジティブシンキング。

いいのかわるいのかわからないけど、いいことも悪いことも、マイナスなことは1つもないと思ってる。

たまには冷や水浴びせられないと木に登っちゃうこの愚鈍な我が身。

どうしょうもないことをどうにかしようとおもってもどうしょうもないのだ。

またたんたんと歩いて、また調子にのって、またこけて、そんでまた歩けばいいだろう。

*

アメリカにいるいけすかない友人とこないだ話していて、そのアメリカ人は小学校からのつきあいなのだけど、その友達が、「最近思うのだけど、おれら公園に恵まれてたよね」と言っていた。

小学生の頃そいつは日本にいて、近所に住んでいてよく遊んでいたのだけど、たしかに住んでいた所の周りには恵まれた公園がたくさんあったし、大学の時に、そいつが留学してきて京都で一緒に遊んでいたときにも、自分の下宿先の前の公園でよく遊んだ。

言われてみれば、いつも自分の住んでいる場所の近くにはいい感じの公園があって、うかれてるときも、落ち込んでるときも、どんなときでも公園でその思いを消化したりしていて、公園での思い出というのは自分の中に多いかも知れない。

なんか言われておもったのだけど、自分の今していることや、やりたいと思っていることというのは、そういう小さな記憶や体験の蓄積が影響を及ぼしているのだろうな。

*

遅ればせながら、夏にもらって、子どもたちと蒔いたひまわりが花をつけた。

夏真っ盛りに咲かなかったので心配していたのだけど、このお彼岸前に小ぶりなんだけど、ものすごく生き生きとした花を咲かせてくれた。

みんなの期待を一心にうけつつもいつまでも花をつけずに、じらしにじらして、しらっとこの後に及んで花をつけたとおもったら、すぐに種をのこして枯れていく。

なんかすごく粋なひまわりだった。

*

小学校にあがってできることは小学校でやればいい。幼少期にしかできないこと、その時期にしか学べないことはなんなのかを真剣に考えて実践することと、園児を確保するためになにを打ち出すのかということは時に相反する部分があって、そのギャップを埋められるようなカリスマ性は自分にはまだない。

*

himawariii.jpg








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Title: いじめとか。
2012.09.06

いじめをなくそうということがよく取り上げられるけど、そうそういじめなんてなくならないと思う。

大人が議論して解決するほど、子どもも馬鹿じゃないし、そんなのはいたちごっこだ。それより大事なのはいじめられた時に命を絶たないためにはどうしたらいいかであって、そういうときにどうやって逃げ道を確保するかでもあるし、そこで行き詰まらないためにどうしたらいいかを考えることだと思う。

子どもが狭い世界に閉じ込められないようにするのが親と教育の仕事であって、親や先生や学校が、いじめてるやつが、いじめなんかしてても時間がもったいないなと思えるような、視野と経験を提供しろってなもんだ。

なにかにわくわくして眼をキラキラしてる人間はいじめもしないし、いじめられもしない。

子どもにそれを提供できるのは親であり、先生であり、周りにいる大人であり、その可能性を示すことを子育てといい、教育というのではないか。


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Title: 想像力。
2012.09.06

最近テレビやニュースをみていて、あまりにも想像力の欠如したような事件が多くて悲しくなる。

いじめの問題然り、自殺の問題然り、虐待の問題然り、簡単に子どもをさらうような事件然り。

幼児教育に関わっていて最近思うのは、想像力というものは、感性が生み出すものだということ。

例えば、一輪の花を見て、その花がなんていう種類で、いつに咲く花で、なんて名前なのか、それが先にでてくるような子どもを育てては駄目だと思う。

自分が幼児教育に関わる中で、そこを一番大切にしたいと思っている。

花だけではなくて、風鈴の音をきいて心地いいとか、風を感じて気持ちがいいとか、汗をかいて遊ぶことで満たされることとか、土にふれてあたたかいとか、知識や情報だけでなく、理屈ではなく素直にわいてくる感情を大切にしてほしいし、そういう感情がわいてくるような経験をいかにたくさんさせてあげられるかということが、親であり、教育に関わることの使命だと思ってる。

そしてその感情、感性が、好奇心を生み、想像力を育てる。

幼児期にそういう経験を通して、育まれた感性というものがこれから生きていく上での心の根っこになるのではないかと思う。

根っこの弱い木は大きくは育たない。

感性が好奇心を生み、想像力をそだてる、想像力の中で人は思いやりを育んでいく。

人間が壁にぶつかってどうしょうもなくなっうたときに、肩の力を抜いて、背中を押してくれるのは、ふと吹いた風であったり、道に咲いている花であったり、時に知らない人と交わす些細な挨拶であったり、そんな些細なことではないかと思う。そしてそうやって救われる度に1人で生きているのではないという実感をもつことができるのではないかと思う。

その実感こそが、人が生きる上で一番大切なことだと思う。

そういう感性がしなやかで、しっかりとした心をつくる、その上にしか知識も経験ものっていかないのだ、心がおいついていないのに、そこになにかをのせようと思うと、なにかどこかで折れてしまうのではないかと思う。

最近のニュースをみていて、自分のしている仕事や関わっていることの責任や、やるべき事への意欲が改めて強くなったように感じる。








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Title: おばけやしき。
2012.08.26

たかがおばけやしきだと言われるかも知れないけど、されどおばけやしきなのだ。

先週園で期間限定で2日間だけ、特設おばけやしきができることになった。なぜかちょっとお手伝いのつもりが、がっつりとど真ん中でやることになってしまって、夏休みの数日間をおばけやしき作りに費やしたのだけど。

このおばけやしき作りで、想像以上にいろんなことを学んだし、子どもの持っている可能性や、それを育むと言うことがどういうことかということを再認識させられたような気がする。

まずおばけやしきを作るときに、怖さの難易度の話し合いが行われたのだけど、多くの先生達は、子どもたちがその部屋に入れなくなったり、トラウマになったらこまるから、そんなに怖くしなくてもいいんじゃないかという意見が大半だった。

そりゃ3,4,5歳の子ども相手なのだし、ある程度の配慮は必要だとは思うのだけど、怖くないおばけやしきならやる必要はないと思っていたので、難易度のさじ加減は自分にまかせてくれということで、全面的に引き受けて、悩みに悩んでおばけやしきをつくりあげた。

案の定子どもたちも、おばけやしきの噂を聞きつけて偵察にきたりしながらも、どうせ怖いって言うか楽しいくらいなんでしょ、どうせ先生達が中にいるんでしょなんてなまいきなことを言っていたので、俄然やる気がでてきてついつい力を入れてしまった感があり、正直当日までやりすぎたかなとか・・・親から苦情来ないかなとか、どきどきしていたのだけど、そこは腹をくくってオープン。

当日おばけやしきの前には長蛇の列ができて、次から次に挑戦者があらわれるのだけど、オープンして1時間しても最後までクリアした子どもが一人もでず、部屋にすら入れない子も続出で、やはり難易度を下げるべきかと思った矢先、おばけやしきの入り口で一人じっと暗闇を見据えていた男の子が、おもむろに暗闇に向かって歩き始めたのだ。

お調子者で、クラスのムードメーカーで、それに加えて女の子にも優しいというなかなかよくできた男の子なのだけど、その子がじりじりとおばけやしきを進み始めたのだ。

正直、大人でも先頭ではいるのはちょっと勇気がいるくらいの暗闇だっただけに、その勇気には本当に感動した。1つ1つびっくりポイントを通過して、ついに最後までクリアしたのだ。

たった一人で。

暗闇を見据えて、覚悟を決めた瞬間のあの顔、怖いのを我慢して勇気を振り絞ってじりじりと暗闇を進んでいる姿、本当に親にみせてあげたかった。

そしてクリアしたその子は、大声でよっしゃ~!と叫びながら教室に走っていき、ヒーロになった。

あの時の誇らしげな、やりとげたような顔は本当にキラキラしてて、本当にかっこよかった。

そしておばけやしきはここから面白くなってきたのだ。

その男の子が、女の子達や、周りの友達に、すごいすごいともてはやされているのを目の当たりにしていた、男子数人が、おれだっていけるぜと言わんばかりに、押し寄せてきたのだ。

女の子を引き連れて。

それでも入り口で、先頭を譲り合い、しまいには、おいあいへしあいもめはじめる始末。口だけは、おばけなんかいないよと言いながら腰が引けている子、女の子の手前、おずおずとはいるのだけど、結局はしって逃げ出した子、大声で歌を歌いながらはいったまではいいけど、歩き始めて数秒で蚊の鳴くような声になってしまいには泣き出した子。

そんな中でも、おれがいるから大丈夫といって、弟の手を取って果敢に挑戦する子がいたり、弟がお姉ちゃんをひっぱっていたり、入り口でおばけを追い出すための儀式?的なものをはじめる集団があらわれたり。女の子同士、はげましあいながら最後までクリアする子達もではじめたのだ。

本当に大人の想像を超えたドラマみたいなのがたくさんあって、その想像力とか、小さな身体の中に秘めた可能性みたいなものにぐっとさせられっぱなしだった。

そして初日は挑戦者100名近くで、クリアしたのは10人。半分までクリアできたのも数名。その大半は入り口もしくは、部屋にすら入れなくて断念したのだ。

初日この結果を見て、次の日から難易度を落とそうという話になったのだけど、自分の中でこのラインは絶妙だったと確信したので、そのままの難易度で次の日も開くことにした。

自分の中では、もちろんクリアして自信をもつことも大事だけど、クリアすることだけ目標じゃなくて、怖さを体験して、そこに立ち向かおうと勇気を振り絞ることや、怖くて立ち向かえなかったり、クリアできなかったとしても、そういう自分をしっかりと受け止めると言うことも大事な事だと思うし、この経験においてはプロセスを通して自分をしっかりとみつめてほしかった。

それとこれが過半数がクリアできる難易度であれば、できない子が少数派になってしまうのでそのライン崩したくなかったというのもある。そしてそのラインなのかでみんなが何を感じて、どう影響するかを見たかった。

そして次の日、初日にもまして子どもたちには驚かされることになったのだけど。

朝子どもを送ってきたお母さん達が、口々に昨日家に帰ってきてずっとおばけやしきの話をしていました、クリアできなかったのが悔しかったようです、でも怖くて勇気が出ないと話してくれましたといって声をかけてきてくれた人が何人かいた。

そしておばけやしきオープンの時間にはまた長蛇の列ができた。

するとどうもみんな昨日と様子が違うのだ。

一晩家で考えて、今日こそクリアするという決意と強い思いできているのだ。明らかに昨日とは全然違う顔で、おばけやしきに望んできているのだ。

それでもやはり入り口で少したじろぐのだけど、それでも昨日の二の舞はごめんだといわんばかりに、お互いを鼓舞し合い、次から次へと暗いトンネルにはいっていく。

これには正直驚いた。一体一晩でこの子達のなかに何がわいたのだろうか、たかがおばけやしきと思っているのは大人ばかりで、子どもたちはこのおばけやしきに望むと言うことに、顔が変わるくらい真剣に向き合っていると同時に、子どもにも子どもなりのプライドというものがあるのだということを思い知らされたような気がした。

中には初日にクリアした子どもたちと一緒に、おばけやしきの対策の作戦を立ててきている子もいたり、中には後ろ向きで進めばこわくない作戦を編みだしてきて、クリアをした子どももいた。

本当に初日の経験をそれぞれが自分の中で処理をして、向き合って、自分の中で昇華させているのだ。素直にこういう場に立ちあえていることに感動したし、人間が成長していくということが今目の前にあって、それを目でみて、肌で感じることができているということにわくわくした。

この姿を本当にこの子たちの親に見せてあげたかったのだけど、でも親がいないからこそ、ここ一番でこうやって踏ん張って、こういう姿を見せてくれるのだよな。本当に子どもたちの秘めている可能性やのりしろというのは大人のそれを遙かに凌駕する。

そしてこの日のクリア人数は先日を大きく上回って30人を越えたのだ。

そして2日間をトータルすると挑戦者150名強でクリアすることができたのは、40名ほど。

クリア人数は少ないようだけど、クリアできた子もできなかった子も、朝から帰るまで、おばけやしきおばけやしき、外でも部屋でもおばけごっこに、口を開けばおばけなんてないさを歌ってるくらいだから、きっとそれなりに印象に残ったのだろうな。泥団子ブームに続きしばらくおばけブームがきそうな今日この頃。

たかがおばけやしきなんだけど、されどおばけやしきなのだ。

きっかけをつくったら、大人があれやこれや心配しなくても、子どもは自分でしっかり大きくなっていく、これからもたくさんのきっかけを作ってこういう場面に立ち会っていきたいし、なによりも今回の事で一番学ばされたのは他でもない自分であるような気がしている。

来年はもっと怖くしよう。むふ。



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Title: どろ。
2012.06.08

梅雨の季節がやってくる。

じめじめむしむし。けどそれも夏への布石。梅雨がすぎればまた今年も充電期間がやってくるわけで。

ここのところ毎日ひたすらに泥団子をつくり、田植えをしたり、木に登ったり、戯れ三昧なのだけど。

こんな穏やかに見える幼稚園というほのぼのとした日常の中にも、たくさんの苦とかがあって。大人とは違うもっとシンプルだけど根源的な悩みや苦しみと共に子どもたちも生きているのだなとつくづく思う。

取り繕ったり、我慢したり、上辺だけでつきあえるほど器用じゃない分、子どもの世界は時に冷酷だし、好奇心を理性で押さえ込めない分、時に残虐だったりもする。

そんなひとつひとつの出来事や、ひとつひとつの子どもの表情は、そのまま人間そのものなんだと思う。そこに向き合うことはきっとそのまま自分への戒めであり、鏡であって、大人というものに対する警鐘ですらあるのかもしれない。

昔みたいに、だから子どもがいいとか、子どもの頃に戻りたいとか、子どもの心が素晴らしいのだ!とかナンセンスで暑苦しいことをいうつもりなんてもうさらさらなくて、むしろ子どもと関わることすらも自分の糧にしてやろうと思っている。自分のことだからこそ本気でやれるし覚悟ももって望めるのかもしれない。

なんて。

ただ毎日遊んでいるような毎日だという後ろめたさに対する大義名分をこじつけただけなのだけど。

けど昨日泥団子つくってて、僧侶っていうのは、僧侶っていう言葉に捕まっていると、何をしていてもそれは僧侶っぽいものでしかなくて、僧侶という言葉を離れてこそ、結果として僧侶になっていくのではなかろうか。

僧侶だけじゃない、どんな道でもそうだけど。言葉のもつ自分の作り上げたイメージとか、枠に捕らわれてるうちは、なんかそれっぽいもの止まりで、実はそれは本質ではないような気がしている。

自分のなりたい僧侶像が昔よりもはっきりしてくるに比例して、他者に対する許容の幅が断然広がったような気がするのは、きっと他人はどうでもよくなったからなのかもしれない。

なんて。

*

竹原ピストルの感性はすごい。すごいというかすげぇ。すげぇというか、すんげぇ。

がつんと直球を投げ込まれたような気がした。

*

たぶん自分は、例えば死んだ時に、悲しいとか寂しいとか言ってくれる人が100人いるよりも、自分がいなくなることで、楽しくないとか、つまんないって思ってくれる人が1人でもいるほうが嬉しい人間なんだと思う。


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Title: きのぼり。
2012.05.30

木の上で、どうして木の上から見える景色は格別なのだろうか考えた。

きっと木の上には自分の力でしかたどりつけないからで、それは筋力とかそういうものだけでなく、だんだん高くなってくることや、枝が折れるのではないだろうかとか、そういう恐怖心とか、またここを降りなければならないという覚悟とかそういうものも含まれていて。

木登りとはそういうものを全部よじ登っているのだと思う。

木の上で見える景色にはそういうたくさんの要素が含まれているからキラキラしてみえるのだ。

それと昨日木に登ってて思ったのだけど、この枝は自分の体重を支えられるだろうか・・・とその場で考えて判断をしていくというのはとても大事な事なのではないかと思う。

自然の木は、つくられた遊具とは違って絶対的な安全はなくて、枝を引き寄せた瞬間に折れるということもある。だからこそ真剣に自分に目を向けることができるのだと思う。

そうやって自分と対話しながら上へ上へあがっていくのだ。

つまりは木登りは人生と同じなのだ。なんて、誇大妄想をしながら昨日は半日庭仕事をして過ごした。

自然の中にいるということは結局の所自分との対話なんだと思う。比較対象がでかければでかいほどに、人間は身の程をすることができるし、身の程をしらないと本当の意味で遠くにはいけないのかもしれない。

なんて。

ただの木登りの話。








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Title: 保育。
2012.04.12

保育における経験の差は、子どもとどれだけ短時間で信頼関係を結べるかと言うことと、いかに早く自分の空気に子どもを引き込めるかというところにあると思う。


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Title: 新学期。
2012.04.12

ぶつぶつ文句を言いながら来る子。バスにのるときから号泣してる子。縦横無尽に走り回る子。無言で仏頂面をする子。

それぞれがそれぞれに想いを抱えながら、生まれて初めて社会にでてくる今日、着替えを済ませて、靴を履いた子どもの背中をおしてヨーイドンと声をかけると、みんな一目散に園庭へ駆けていく。

桜舞い散り、空には悠々と泳ぐこいのぼり。

走り出したその小さな背中を見ながら、ここからがスタートなのだ。これから人生の荒波にもまれていくその第一歩が、ここなのだといつも思う。

その背中を見送るのはこのうえなく楽しく、このうえなく嬉しかったりする。

今日は朝からばたばたなんてもんじゃないくらいの状況だったのだけど、でもこの時期の幼稚園の空気はとても好きだ。

春休みに子どものいなかった幼稚園はどうにも活気がなくて、建物までも肩を落としているように見えるのだけど、今日ばかりは、幼稚園が全身でプチプチと音を立てるくらいに活気があるように見える。

あるべきものがあるべきところにあるということは、当たり前のようでとても大切な事なんだと思う。やはりなにかおかしいときは、そんな当たり前のことを忘れているときなのかもしれないと思う。

今日、園庭で、桜の花びらを集めて、ひたすら泥と混ぜて遊んでいる子がいて、隣に座って一緒に遊んでいて思ったのだけど、この花びらを泥と混ぜるという行為は、きっと大人から見たら意味のない行為なんだろうと思う。それに本当にそこに意味なんてない。

でも意味があるとか意味がないとかそんなことにこだわって行動する自分が、ここにいる子どもたちよりいい顔のできている瞬間はどれだけあるというのだろうか。人生における意味なんてそんなもんなのかもしれないと思う。

今年は桜がここまでもってくれて本当によかった。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光。

さてこれから1年どんなことがおこるやら。

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Title: 育。
2012.03.01

いままでずっと水面下で進めてきた仕事がやっと形になってきた。今度新しく託児施設を立ち上げることになった。土地の取得が完了し、予算の見通しも申請の見通しもついた。

正直言うと、幼少期の子どもを幼稚園という施設で長時間預かるということは、年齢的な負担を考えると反対だったし、今でも家に入れるならいたほうがいいと思ってる。

しかし時代の流れや世の中の風潮に逆らって頑固に理想だけ貫くということも時に大事だとは思うが、やるなら理想を貫いた上で、今の時代にあう形を模索して、実現させるのが生きた経営だと思っているし、変化のできないものは死んだものだけだと思っている。

今回新しく託児施設を立ち上げるにあたって、会議の中で「家にいるような」というキャッチフレーズがあがってきたが、それではぬるいと思っている、やるからには「家にいるよりも」安心できて安らげるような場所をつくるくらいのつもりでやりたい。

いままで思い描いてきた理想の託児施設を年内にOPENさせる、本当に0からのスタートで、ここに来るまでにも相当の壁があったのだけど、こうして新しいプロジェクトがスタートしてくるときのわくわく感は結構好きだったりする。

4年前にたちあげた、ビオトープも今年コンクールで賞をもらい、あの時、まったくの更地からこれだけのものができるとは思っていなかった、それも軌道に乗りいまでは、うちの園の保育の柱、経営上でも大事な武器になってきた。

こうして一歩一歩やりたいことを実現させていくのだ。

一目見て、誰もがここに子どもを預けたいと思うものをつくるぜよ。

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Title: 教育理念。
2012.03.01

教育ということに対してお宅の幼稚園は、どういう教育理念ですかとか、どういう教育方針なの?と聞かれることがたまにあるのだけど、理念とか理想とかありきたりな言葉を並べ立てるとかえって漠然としてよくわからなくなってしまうのだけど。

自分の理想は、いつか子どもの幸せに繋がるからといって、今の幸せをないがしろにするような教育は絶対にするまいと思っている。子どもが毎日を楽しい、そして幸せだと感じられないようで何が教育か、と思っている。幼少期に遊ぶことや人と関わることに、幸せや楽しさを感じられないようでは、いい大人にはなれないよと思ってる。


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Title: 1195-1
2012.01.17

朝から、せっせと蓮鉢に砂と水をいれて、新しいメダカの住処をつくるのです。なんせ水が冷たくて、手の感覚もなくなるってなもんです。昨年から、試行錯誤してあの手この手を試しているのに、どうしてもメダカの繁殖だけがうまくいかないのです。

命が育まれるということには、本当に小さな要素がたくさん作用していて、なにか1つのバランスが悪くてもそのサイクルは鈍るのだな。

どうしたもんだろか。くそう。

そんなこの大寒。

たまには仕事の話。

思惑の違いによって、しばらく思うように進まなかった大きな仕事がここにきて急展開して動き出す。大きな仕事にはたくさんの人が関わる、たくさんの人が関わると、そこにはたくさんの打算と思惑が交錯する。

それを、時にじっくりと話し合い、時に時間をかけて、時になにもなかったようにやりすごして、少しづつ紐といていって、飛び上がり、そしてちゃんと着地させるところまで持っていくという作業はけっこう好きだったりする。

ただいつも思うのだけど、基本小心者なので、大きな金額を自分の判断1つで動かすという時のこわさみたいなものは、何度経験してもぬぐい去れない。

これが怖くなくなるときはあるのだろうか。

それと、こういうときに、税務署やお役所の対応の悪さや、たらい回し感にはいつも憤りを感じる。

少子化対策だ、待機児童を減らせ、保育所をふやせと、いってるくせに、こちらがいざ新しいことに挑戦しようとしたり、前例のないことをやろうとすると、どうしてこんなに動きをにぶらされるのだろうか。決定権のない現場レベルの担当者をたらい回しにされて、煙に巻かれたような対応にはもううんざりだ。

この状況でどうやってそのシステムをつくるのだ。

私立の幼稚園が私利私欲のために新しいプロジェクトを立ち上げたのならいいけど、待機児童解消や、共働きの家庭のサポートをメインに考えているのに、どうしてこうも決まった形でしか対応ができないのだ。

個人的に民間に共同事業としてサポートを頼むほうがいい気がする。

でもそうなるとまた思惑や算段が交錯するのももうめんどいし・・・とか考えて、最終的にいつも現場は身銭をきって、血を流してやるしかないのだ。

これは持論なのだけど。

30代になって、最低限の仕事のスキルは必要だけど、なによりも大事なのは、話す力と聞く力、そして人と繋がる力だと思う。どんな仕事でも、どんなプロジェクトでも、最後は人と人なのだ。

だからこそ人と人の間にはいる力はなによりも重要なのだと思う。話すこと、聞くこと、伝えること、誰でも簡単にできると思われがちだけど決してそうじゃないと思う。

この力はなによりも重要であり武器になりうるものなのだと思う。

人と人だからこそ、そこにはノリシロもあるし、幅もあるし、その余裕がよりよいサービスやアイディアを生み出すのじゃないか。その流れやその熱をもっともっとあげていけば、世の中はもっと楽しく、そしてよりよいサービスが充実するのに。

いいよいいよ。

こうなったら自力でやって結果出してやるから。

ふんだ。






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Title: 天上大風
2011.11.18

外で子どもたちが遊んでいるのをみていて。

子どもたちの遊びを大人におき換えたら、ほぼ間違いなく、おいおまえ大丈夫か?いっぺん医者に診てもらった方がいいんじゃないか?きっと疲れているのだよ。と言われるようなことばかりなのだ。サラリーマンならなにか心に問題を抱えてしまったか、老人であれば完全に呆けたと思われてもおかしくないようなものばかりなのだ。

例えば、ひたすらに穴を掘るとか、三輪車を爆走するとか、ひたすら線の上をぐるぐるまわるとか、網もって虫をおいかけたり、それこそ一心不乱に逆上がりをしたり、ぼけっとブランコにのるのでさえ、大人に置き換えると少しおかしな事になるのだ。

それはなんでだろうか考えたのだけど、思うにきっとそれは自分でそれが似合わなくなるように成長してきた結果だと思う。

子どもから大人になる過程で、背伸びしたり、一人前に見られたいが故に、子どもの似合うことを、似合わないように似合わないようにと、遠ざけてきたのは紛れもない自分自身なのだ。だからおかしな風に見えるのは当然であり、おかしな風に見えるということが、大人になれたなによりの証拠なのだと思う。

なのにそんな過程を忘れてしまって、子どもって無邪気でイイネ!あの頃に戻りたいねなんていうのだ。

でも本当にあの頃に戻りたい、もしくはあの頃の感性を取り戻したいのであれば、あくまで今の自分は自分自身がつくりあげたのだということを認めるところから始めなければならないのだろうと思う。

その過程でなんで自分は大人になりたかったのか、なんで背伸びをしたかったのか、背伸びしてまでなにがほしかったのだ。子どもにみられなくなることで得たものはなんなのだ。そこに答えをだせて初めて、大人のバイアスを取り払うことができるのだと思う。

大人のバイアスを取り払うということは、つまりはとらわれずに生きると言うことなのだ。

きっとそうやって生きていくと、いつのまにか、いくつになっても、穴を掘っていたり、ブランコに乗ったり、虫をおいかけてても、ひたすらに走り回ったり、逆上がりをしていたって、周りから見てなんの違和感もなくなって、なにして遊んでいたっておかしいと思われることもなく、それがその人らしさになっていくのだろうと思う。

良寛さんみたいに。

そうやって生きていけたらいいなと思う。










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Title: かぞえうた。
2011.06.06

今日、園で小鳥が亡くなって、子どもが呼びに来たので、一緒にシャベルをもっていってドングリの木の下にせっせと穴を掘って、小鳥を埋めた。そして、今日だけは花壇から花を摘んできていいよといったら、子どもたちが何人か花を摘んできて、いま小鳥を埋めたところに花を敷き詰めた。

そして自分が目を閉じて手を合わせたら、みんながそれを真似て手を合わせると、それをみていた3歳の子どもが、なんでそうやって手を合わせるの?と聞いてきた。それはシンプルだけどとても深い質問で、一瞬なんて答えようか迷ったのだけど。

こう答えた。

例えばさ。

ピースしたまま、ごめんなさいっていうのはちょっとおかしいよね。

朝起きて万歳しながらおはようっていうのもおかしいよね。

あとさ、おうちに帰るときに変な顔したまま、さようならっていうのもおかしいよね。

こうやって手を合わせるのはね。

ありがとうを伝えるときのポーズみたいなものだよ。

いままでありがとうっていうときにはこうやって手を合わせるんだよって。

きっと教義とか、教えとかそういうものを厳密に突き詰めていったり、手を合わせる意味とかをちゃんと説明しようとしたら不十分だし、いい加減なように聞こえるかもしれないけど、それを聞いた子どもたちは、ふ~んといいながら、目を閉じて手を合わせて、いままでありがとういった。

3歳の子どもにそれを伝えているときに。

こういうのを方便というのかもしれないと思いながら、これから先の人生でその言葉の意味の何十分の一でもいいし、自分のいった言葉がどこかにつながって、その言葉に体感が伴ってくれたらいいなと思った。

なんか改めて、子どもたちの中に湧いてきた、本人すらもまだそれがなんなのかわからないような気持ちとか、そういうものにそっと手を添えて、その気持ちにベクトルを向けるということはとても大事な事で、とても責任の重いことなのだということを感じた。

でも。

こういう場面や、こういう日常に立ち会える仕事でよかったなと思った。

幼児教育は、宗教にも通ずるところがたくさんある。頭でっかちになって、言葉遊びばかりする自分をいつもはっとさせてくれるのは、だれでもない子どもたちだったりする。







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Title: ことり。
2011.06.06


mtha.jpg

今日園で小鳥が亡くなっていた。 

子どもたちと穴を掘ってお墓をつくった。 

みんなで花をつんできて供えた。 

子どもたちが、いままでありがとうだね。といって手を合わせていた。 

なんかそんな光景をみていて、ああこういう場面に立ち会える仕事をしていてよかったなと思った。 


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Title: 見える化。
2011.05.16

期限の決まっている仕事を2,3抱えると、頭のメモリーが一杯になるくらいの性能の脳みそをそろそろアップグレードしたい。

インテルはいってない。

でもそんな仕事の合間に、去年子どもたちと植えた、サヤエンドウとほうれんそうが収穫を迎えた。サヤエンドウの花を見て、サヤエンドウってこんな不思議な花をつけるんだということをはじめて知った。

収穫したサヤエンドウとほうれん草をどうやってたべようかと、子どもたちに聞いたところ圧倒的な多数決で味噌汁に決まったので、みんなでお弁当のときに味噌汁をつくってのみましたとさ。

自分たちで育てて収穫した野菜はうまいだろう。

スーパーでパックにはいってるサヤエンドウからはこれだけのことを学べないんだぞ。

そしてじゃがいもがもうすぐ収穫を迎える。

なにして食べてやろうか、フライドポテトにでもしてやろうか。こういうときに食材を調理するレパートリーをたくさん持っている人がうらやましい。

ただ1つだけ、サヤエンドウもほうれん草も、じゃがいもも自分で収穫したものを、ビールと一緒につまんだら最高だろうなと思いながらも、さすがに幼稚園でそれはかなわず、それだけが心残りなのだけど・・・でもそれはいつか自分の農園を持った時にかなえることにする。

さて、この次は子どもたちと相談して、夏に向けてスイカとひまわり畑をつくることにした。

さんさんとした太陽の下、背丈をこえるひまわり畑で、スイカをたべる。なんて絵を妄想して楽しみにしているわけです。

最近では幼保一元化ということで、保育園と幼稚園の統合を図ったり、国の政策で保育所がたくさんできていたりして、正直私立の幼稚園からしたら死活問題だし、実際幼稚園をやめようかという人の話を聞くと、これからは明確に保育園と幼稚園の棲み分けをしていかなければ生き残れないし、きっと今まで以上にビジョンを定めて周知していかないと駄目なんだろうと思う。今は今後の園としての姿勢と方向性をきめる岐路なんだろうと思う。

いま自分のつくりたい幼稚園は、実感と体感の伴う保育ができる幼稚園。

例えば、それは夏に泥だらけになって遊んで、木陰でみんなで育てたひまわり畑をみながら、みんなで育てたスイカを食べたいと言うことであって、その体験を通して「夏」ということを強烈に身体に刻んでほしいし、一つ一つの季節や空気やにおいを、ちゃんと心に直結させられるような保育がしたいということである。

実体験といえば保育の基礎かもしれないけど、これを現場で実践していくということは本当に大変なことだということを実感する。

たかが、「ひまわり畑で、スイカをたべる」を叶えるために、実際に自分の思い描いた絵まで結びつける為にはどれだけの準備と時間が必要か、そしてそれを現場で気持ちをきらさずに継続させることがいかに大変か。

保育者だって、現場にいればつい楽な方に流れるし、子どもたちの自発的な発想を待つよりも、ある程度の選択肢を与えなければ時間内に保育を終わらせることが難しいときもあるし、つい大人の選択肢の中でまわしてしまうなんてことはよくある。でもそれをできるだけしないように、子どもたちが自分たちで発想して、実感と体感に結びつけて、自信をつけていけるような環境を整えたい。

簡単なようだけどこれが実際できてる幼稚園は全国でも数えるほどしかないんだろうと思う。

ビジョンを定めたら、そこに具体的に農業やビオトープだけでなく、園内環境の設定や、行事のありかたまでを目に見える形で保育に落とし込んで今まであったものを再構築する。

ビジョンだけを掲げるのがうまくても、具体的に現場に見える化しなければ絵に描いた餅だし、見える化していくときに、現場での気持ちをくみ取りつつ意思統一ができなければ一人空回りするだけで決して成功しなわけで、どれが欠けても自分の思い描くものはつくれないのだということを、言葉ではなく空気と肌で実感する。

なんか本当に、一つのことをやろうと思ったら、小さな歯車がたくさん。ほんとうにたくさん繋がっていて、それが全部うまく回っているか見ていかなければいけないし、動きが悪くなれば油をささなければいけないし、歯が欠けたら、修理するのか、新しいものに変えるのか考えなければいけないし、本当にひとつひとつの歯車が、自分の想像もしないところでかみ合っていたりするのだなと思う。

なんか時々ため息とかでるし、自分の能力のなさにとほほとなるけど。

でもなんか、なにもしなくても園児がきて、ぬるっと幼稚園を運営していた時よりも、いろいろと考えて動いて、いろんなことが見える化されてきて、きっとこういう状況のほうが自分には向いているのだろうなと思う。

やらなきゃいけないことは山ほどある。

でも、環境を整えることばかりに躍起になって、大人の事情にばかり詳しくならないようにしようと思う。いつまでも発想と実体験で子どもに負けたくはない。いくつになっても自分の引き出しで子どもたちをわくわくさせられるような大人でありたいものだ。

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Title: あしたも。たぶんあさっても。
2011.04.22

昔、総武線でエレカシを聞きながら、川面の夕焼けをみながらせつない思いをしたので、いまだに総武線+エレカシという組み合わせは、どうにも心の奥底にある柔らかい部分に、これでもかとゆさぶりをかけてくる。

上野動物園では2月にカピパラのソクがなくなって、今月にはカバのサツキがなくなった。サツキが地震で足を痛めたと聞いたので心配してたけど願い届かす残念だ。

これといって上野動物園が三度の飯よりも好きなわけでも、動物が大好きだ!とか言うわけではないのだけど、いつも池之端門から入るので、サツキの前は必ず通るし、そのたびにカバってすごいなぁと思っていただけに、もういないのかと思うとせつない。

さて、4月に入り、幼稚園もだいぶ落ち着いてきて、泣き叫ぶ子どもも少なくなって、子どもたちの遊びにもすこし余裕と幅もでてきた。いつも子どもたちの遊びの想像力には驚かされるのだけど、さすがに10年もここにいるとさすがにこちらも負けていないわけで、自分なりにも遊びの幅を広げる術や、継続性をもたせる導入もできるようになってきて、うまくきっかけを仕掛けることができるようになってきたと思う。

そしてそこから今度は、子どもたちが自分の想像を超えた遊びに展開していく様に感心しながら自分もまたそこに仕掛けていく。そんな日常の一コマが楽しかったりする。

遊ぶってのは簡単なようで難しい、遊ぶという過程の中で育まれるプロセスは、生きていく上で大事な根っこの部分をつくると思う。そしてその大事な根っここそ、大人になって道を見失わずにいるために必要なものであるような気がする。

もっともっと子どもたちが質のいい遊びができる工夫や、引き出しや仕掛けを学びたい。そしてもっともっと遊ぶことをどん欲に突き詰めていきたいと思う。

今月から被災児の受け入れをはじめる。

今、自分にできることは、物理的な支援と同時に、いま抱えているものの精度をもっともっと高めていくことだ思う。

まえにまえに。

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Title: 311
2011.03.18

自分では意識してるつもりはないけど、自分の発言は完全に「思想、哲学、宗教クラスタ」というところに分類されるそうだ。自分のツイートを見ている人からそういわれて、改めて自分の考えることを客観的に分類すればたしかにそうかもしれないと思った。

そういう前提の上で、ここ最近自分の中に散らばっていたことや、様々なツイートを見る中で感じたことを時系列に沿ってまとめておこうと思う。リアルに自分の感じたこのなので感情的な部分も含まれてて、きっと不謹慎だと思う人も、腹の立つ人もいるだろうけど、できるだけリアルなまま残しておきたいので、そのまま書き留めておもうと思う。備忘のために。

地震の起きたときは幼稚園にいて、ほとんどの子どもは降園していたけど、子どもたちとご父母の方々をあわせて50名近くの人と、職員が園内にいて、その子どもたち全員を無事に避難させて、帰宅させることができた時の安堵感は一生忘れないだろうと思う。それから家に8時間かけて戻り家族の無事も確認できたのだけど、、その時に自分でもびっくりしたのは、地震がおさまって、幼稚園の子どもたちを送り届けたときも、家族の無事が確認されたときも、家族に会えたときも、安堵もしたし本当に安心したのだけど、でも気持ちはしっかり保てていたのに、本堂に入って、少しはがれ落ちた壁にまみれたご本尊を見たときにはじめて、緊張の糸がきれて、いろんなものがこみ上げてきて、本堂でしばらく座り込んだ。

そこで自分の中で想像以上に阿弥陀さんの占めるウェイトは大きかったのだなとしみじみ感じた。同時に、きっと自分は何があっても、本堂さえあればいつでもお寺も自分も立て直すことはできるなと思った。

*

夜が明けて、被害の状況が報道され、テレビに映し出される被害状況を見て、はじめに感じたのは、人間の非力さとか無力さとか、一夜にして、こんな状況になってしまって、一瞬で日常がこんなに一変するなんて、人間はいつもこの世の支配者のような顔をしているけど、本当はこんなに無力なんだということを痛感した。

でもそれから、被災した方々の状況をみていて、はじめに無力だと感じた人間の中にある、底力とか、強さとか、そういうものをまざまざとみせられた気がした、各方面からの支援に関しても同様にそう感じた。この一夜で、人間の無力さと強さと、その両面を一気に見せられた気がした。

人間は儚くも強い。

*

その後の世の中の流れをみていて、支援の為の義援金を募ったり、現地に足を運ぶ人たちがいるのをみて、自分はここでテレビを見てることしかできないのかと思ってすごく自分の無力さを感じた。

それと、義援金を送ろうと思った時に、なんか暖かい部屋で、テレビをみながらクレジットカードで義援金を送る自分の中にある矛盾とか、後ろめたさとか、なんかそういうジレンマを感じていてもたってもいられなくなるような感じがした。

それでもそれは大事な事だと思うし、理屈ではなく被災地を復興するのにはお金が必要で、そこにある思いや背景なんかよりもどんな形でもお金を集めることは急務だと思うし、自分がもちゃもちゃしてるうちに、そういう行動をすばやくできる人たちは本当にすごいなと思った。

*

そんな中不謹慎狩りみたいのが始まって、自粛自粛、不謹慎狩りムードの中で、なにか物資を送ったり、お金を寄付したり、有益な情報を拡散することだけがそんなにえらいのかと思った。

アニメを流したテレ東が不謹慎だといわれたけど、あれに救われた子どももたくさんいる。

なにもしなくてもただこの数日を笑顔でいることだっていまできることの大切なことだとも思う。

東北に比べて状況は切迫してないけど、それでもこの首都圏でもはじめての大きな地震を経験して、その中で、自分の親や子どもを安心させることに一生懸命な人もいるし、なにかしたくても願うことしかできない人もいるし、それでも十分にいまこの状況でしかできない大切なことだろうと思ったし、こういうときだからこそ普通に生活する、そのあたりまえに全力を注ぐことを忘れちゃいけないと思った。

そういう人が普通のツイートをするのを批判している人をみて、自分の価値観でいいたい放題いいやがって、そういう人がいつも正義を振りかざして、何食わぬ顔で人を踏んづけてることにも気づかないんだとすら思った。

*

スーパーのレジや駅とかで駅員や店員とかに怒ってる人とかみてて、ニュースはあくまで自分の生活とはかけ離れたところで起きているものだと思っているからそういうことができるわけで、もしかしたら目の前の店員さんや駅員さんが東北出身とか、親戚が東北にいるとか、そういうこともっと想像したらいいのにとか思った。ただの想像かもしれないけど、そういうことをすこし頭に入れて行動するのを「思いやる」ということであり、自分の中に落とし込むということなんじゃないかと思う。

自分の中に落とし込まないところで、表面的なところだけいい人っぽいのはすごい嫌だから、自分はできるだけそういう人にならないようにしようと思う。

なんか他にも、みんなが自分の事として受け止めていれば、そんなこと言えないだろうな・・・と思うような発言をする人が多いように感じた。なにか行動をする時、目の前の状況に、しっかりと自分を置き据えて考えれば理屈じゃなく、おのずと答えが出てくるし、行動できるんじゃないかと思う。目の前の人を我が身と同じように考えるというのは簡単なようでむずかしいのだと思った。

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支援とか心配とか祈りとか、こういうときこそ、目に見えるアクションが必要なのは誰でもわかる。だからこそそこで大事なのは、アクションにだけにスポットをあてるのではなく、そのアクションを通して、その先にいる人にまでスポットがあたるようでなければならないんだろうと思う。

目的と手段はいつだってごちゃごちゃになりやすい。

義援金も物資の支援も、それだけが目的はなく、あくまでそれで一人でも多くの被災者の方が笑顔になれるかどうかであって、その目的から逆算して考えれば、支援の方法にも幅をもたせることができるのだろうと思う。

ただ状況をよめない勘違いした支援だけには気をつけなければいけない。ものには順序とタイミングというものがあるから。

*

ツイートを見ていて、ツイッターのすごいのは、世の中の空気みたいなものを感じられることだと思った。

それに、この短い文章を何度も発信することで、その人の人柄みたいなものがほんとによく浮き彫りになっている気がする。積極的に発言する人(拡散やデマも含め)、周りの様子をうかがいながら最低限の発言する人、正論に反証する人、一歩引いてる人、開き直ってる人、身内の心配をする人、ひたすら共感する人、テレビに文句ばっかいってる人。

こういうときこそその人の人間性がよく見えた気がした。

口ではりっぱなこといってても他人事な人がいるなと思うこともたくさんあって、自分も自分目線になってることすら気づかない他人事のような発言には気をつけようと強く思った。

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買いだめ騒動で思い出した逸話。

極楽も地獄も、食事の時には1mもある長い箸を使っていて、自分の箸で自分の口に食べ物を入れることができない。極楽では、テーブルを囲んでいる人が、お互いに食べさせ合っている。地獄では、お互い争っていて、食べることができず空腹のままであるという逸話がある。

いま被災地では、少ない食べ物をお年寄りや、子どもたちに先にと譲り合い、みんなが協力をして、みんなでがんばろうとしている。あの地獄ような状況において、佛の心のようなものがみえた気がした。 

一方この首都圏においては、我先に必要以上のものを買い占めるということが起こっていて、水にも食べ物も切迫しているわけではないところでこのようなことが起こる。

被災地と首都圏どっちが地獄の様相だと思った。

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支援が日本レベルから世界レベルに広がってきて、いろいろな思惑があるだろうこともふまえても、はじめに日本人って本当にすごいな、日本人でよかったなと感じた気持ちが、だんだんと人間っていいなと思うようになった。

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物理的なケアだけでなく、メンタルの部分のケアがこれから必要になるんだろうと思う。メンタルがしっかり保てれば人間は大概のことががんばれるんだと思う。逆にメンタルが保たれなければ何億円あろうと、物資が整おうと、本当の意味での復興には時間がかかってしまうんだろうと思う。

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地震のあと白骨の御文を読んで、いままでにないくらい自分の中に腑に落ちた。

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誤解を招きそうな表現なんだけど、災害に遭うのが不運なんじゃなくて、何事もなく生きていることが奇跡なのかもしれないと思う。

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昨日幼稚園で、朝子どもを迎えるときに、お母さんたちから子どもを宜しくお願いします。といわれたり、地震の時に園にいた子どものお母さんから涙ながらに、子どもを守ってくれてありがとうございますといわれて、改めて人の命を預かるというのはこういうことなんだと思って、その重さになんかいろんなものがこみ上げてきた。

昨日の卒園式も今日の終業式も、全員を家に帰すまで、気が抜けなくて、胃が痛いくらいで、もう全部放棄して正直逃げ出したいくらいの気持ちのときもあるのだけど、そんな一言をかけてもらえてありがたいし、たいしたことはできないけど、これから先も自分ができることは精一杯やろうと思えた。

被災にあった地域の幼稚園や保育園でも、たくさんの保育者たちが全力で子どもたちを守ろうとして奮闘したんだろうと思う。きっと救いきれなかった命とかもあったんだろうと思うと、本当にやりきれない気持ちになる。

きっとこれから被災地でも保育者の力が絶対に必要になるときがくる。その時にその人たちが顔を上げて子どもたちに向き合ってくれることを切に願う。

*

なんかいまだ不安も心配も続く毎日だけど、今回の地震の件で、はじめは被災地に向けてなにかしなきゃとか、なにができるかとかいろいろ考えて、無力を感じたり、その中でも自分にできることをしたりしながら、今日まで過ごしてきて、ここにきてなんか自分の中でばらばらになっていた行動原理みたいなものが、やっと1つに集約されてきた気がする。

なんかまだうまく言葉にはできないけど、こういうときだからこそ、あたりまえのことをあたりまえに精一杯やろうと思う。

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Title: 保育について
2011.03.10

幼児教育関わる中で学んだことの1つ。

あたりまえのことのようだけど、目の前の人と信頼関係を築くときに一番大事なのは、「気づき」だと思う。誰だって、自分の事によく気づいてくれる人には自然と信頼をできるようになる。その根底には、人間の自分を見てほしいという欲求があって、それを満たしてくれる相手に安心感を覚えるというものだろうと思う。

これは保育に限ったことではないけど、とくに幼少期において身近な大人との信頼関係を築くということは本当に大切なことで、そこでうまく信頼関係を結べるようにしてあげるということは、今後の人生に関わってくる根幹だと思う。

保育をする上で、どんなに理想を掲げても、たとえばいろんな引き出しやアイディア(遊びの展開の方法や、声かけや手遊び)そういう技術的な部分は研ぎ澄まされているのに、いざ保育にそれを取り込んだときに、うまく活用できず活動の中で空回りをさせる保育者がいると思いきや、そういう技術的な部分はまだまだ未熟なのに、早い段階で、例えば夏頃までには保育者と子どもたちの信頼が揺るぎない物になって余裕すらでてくる保育者もいる。

その差というのがそのまま保育者の差で、その差が生まれる根本的な部分には、「気づき」の力の差があると思う。

例えば、朝子どもが来たときに、顔色や普段の様子の違いに声をかけられるか、髪型の違いや、服装の違いに声をかけられるか、そういうのは教えてできることではないし、教えて業務としてやらされると、そうとうの時間と労力を割かなければできるようにはならない分野だと思うけど、その積み重ねの上でしかなしえない保育というのがあると思う。むろんそれができる保育者は保護者に対しても同様に信頼関係を築くことができる。

声をかけたり、なにげないコミュニケーションの数(それが的確であるという前提の上で)は=信頼に結びつく鍵であると思う。

そのベースが築けて初めて、次のステップに進めるんだろうと思う。実践的な引き出しや物理的な引き出しばかりを広げようとして、大事な部分をおろそかにしてしまっては、どんどん思い通りの保育とは遠ざかるのではないかと思う。

なんでもそうだけど、その道を突き詰めようと思ったら、技術やスキルにこだわるだけではなく、まず自分が一番ベストな状態でたてる舞台作りにも着目していかないといけないということだろうと思う。

保育においても、そのベースが築けて初めて、声かけにも保育の導入にもつながりと幅がでるんだろうと思う。保育を「点」で考えるのではなく「線」で考えることのできる保育者の多くは「気づき」の力に優れていると言えると思う。

来年度から入る新卒の保育者の研修をみていて、気づきたくともまだ余裕のない状態だから、すこしでもはやく流れを身につけて、気づける余裕を持てるようになっていってほしいと思う。

そこがまずはじめのステップだろうと思う。

そんななことを思いながらも、でもこの新人だからこそあるパワーというか、勢いというもののもたらす「風」みたいなものがすごく心地よかったりする。

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Title: アリス
2011.02.08

「教えていただきたいのですが、ここからどっちへ行けばいいのですか?」アリスが問う。

「それは、君がどこへ行きたいかでほぼ決まるな」とその猫は言った。

「わたしはどこでもかまわないの、ただ・・・」アリスが言う。

「それならどっちでもかまわないな」猫は答える。

「どこかへ辿り着きさえすればね」とアリスは言葉を補った。

「そりゃあ、辿り着くとも」と猫、「辿り着くまで歩き続けさえすればね」

不思議の国のアリスの一場面。いま幼稚園では子どもたちが発表会に向けて練習をしている。それをみていて、まっすぐにこの台詞をいう子どもたちの言葉がずどんと響いた。

きっと役者さんがこれをいっても今の自分には届かなかったかもしれない。一生懸命に台詞を覚えて、ここにくるまでに何日も何日も練習して、舞台に立って、日に日に成長してくる姿をみていて、その時間と成長の過程が一気に押し寄せてきて、それがこの台詞に集約されてぐっとこみ上げてくるものがあった。

そういう過程を間近で目の当たりにすると、この短い時間にこの子どもたちはこれだけのことができるようになったんだ。自分だってまだまだまけてられないとか思う。

きっとこの子たちがこの言葉の意味に質感を感じられるようになるまでまだまだ時間はかかるんだろうし、これから先の人生つらいこともたくさんあるけど、でもこのまま歩いて行けばきっとどこかへたどり着けるよと思った。

長い人生のうちのわずか3年間だけど、この過程をこんなに身近で感じられるというのは本当にありがたいことだと思う。

 

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Title: 過去のブログはコチラ
2000.08.18

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1999年~2011年

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