Title: G
2022.02.02

誰の得にもならないけど、書きたいので書きます。

最近、世の中はコロナでどたばたしており、自分の身近も例外ではなく、本当に毎日がジェットコースターに乗っているかのような日々を過ごしております。そんな心を癒すがごとく、夜な夜なゲームにのめりこんでいます。

現在PS5(Ghost of Tsushima )とNintendo Switch(ポケモンアルセウス・モンスターハンターライズ)を同時進行で進めています。

ゴーストオブツシマのグラフィックはとても素晴らしく、雄大な対馬の大地を馬でかけて、向かい来る敵をなで斬りにしながら、日本海に沈む夕日に手を合わせています。

そしてポケモンアルセウスに関しては、新しいポケモンの姿(ヒスイの姿)にわくわくするだけでなく、ポケモンGO~イーブイ・ピカチュウ~ソードシールド~のいいところを凝縮したような新しいシリーズに、作り手の苦労や、挑戦、苦悩などが垣間見えて、改めて人気シリーズを続けていくことの偉大さと、大変さそして、改めて、作り手の想いや情熱はユーザーとともにあるべきで、その間にある距離感の大切さなどを考えさせられるような素晴らしいゲームです。

そしてモンハンに関しては、夏の大型アップデート、サンブレイクに向けて、指の動きが鈍らないように、リハビリ的な意味で続けています。主に弓をメインにしていますが、最近はやることなさ過ぎてついにチャージアックスに手を出してしまいました。日に日に強くなるイベントクエストのヌシに心が折れそうになります。

そんな日々の中でどうしても言いたいことがあります。

なぜか突然、PS5のボタンの仕様が、決定がXボタン、キャンセルが〇ボタンに変更になっていました。PS4までは逆でした。
この仕様変更が地味につらいです。環境設定で変えられるのですが、その場合、ゲーム内にでてくる決定・キャンセルの表示と、ボタンの仕様が逆になりとてもややこしいので、仕方なく時代に合わせて新たな回路を脳に叩き込んでいるのですが、

無論、ファミコン、ゲームボーイ、スーファミ、DS、switchと育った僕ら(あえて僕らといいます)任天堂街道を歩いてきた脳と身体には、決定はAボタン、PS5の〇の位置、キャンセルはBボタン、PS5のXの位置が脳髄にまで叩き込まれていますし、ダッシュはBボタンなんですよ(最近はL、R捨て押し込みが多い)それはもう血肉なんです。

その長年の習慣は簡単には変えようもなく、大事な場面で、決定キャンセルを間違う自分にストレスがたまり、ダッシュが思うようにできなくて脳が軽いパニックをおこしています。

この仕様変更は本当につらい。

それと、ハードをまたいでゲームをするときに、それぞれのゲームでの仕様の違い、例えば、飛び道具を扱う場面で、照準、エイムから、発射までの一連の動作にも仕様の違いがあり、弓を使う場合、

対馬では、L2照準、RエイムのR2発射
モンハンでは、ZL照準の、ジャイロエイム、ZR発射
アルセウスでは、ZL照準の、Rエイム、ZR発射

乗り物、対馬(馬)モンハン(ガルク)アルセウス(アヤシシ)に乗る場合の、搭乗、ダッシュ、降りるに関してもそれぞれの操作が微妙に違います。なので、さっそうと馬に伸び乗り疾走しようとして飛び降りちゃうとか、その逆が起きることもしばしば。

オープンワールドの中でも、高いところや、水に落ちた場合の仕様も違います。

例えば、対馬では受け身を覚えるとそこそこ高いところからでも飛べるし、水に落ちたら泳げるのに、
モンハンはどんなに高いところから落ちても大丈夫で、水には基本はいれない。
それに対し、アルセウスではそこそこ高いところから落ちると死ぬ、水に落ちても死ぬ(溺れる様子がリアルでドキドキします、たぶんおぼれた経験のある人は胃がきゅっとなると思います。)

1時間おきにゲームを切り替える中で、この小さな仕様の違いに、一瞬の判断を誤り、死んでしまったか、どれだけ敵に見つかってしまったか、ポケモンボールと間違えてポケモンを投げてしまったかわかりません。

でも、弱音を吐いていてもしょうがないので、これは脳への挑戦状だと思って勝負することにしました。
自分の脳との戦いです、一回一回ゲームを始める前に瞑想からはじめることにしました。
そして脳をマインドセットしてから、ゲームに向き合うことで、操作ミスを減らそうともくろんでいます。

結局なにが言いたいってってこともないのですが、

PS5の仕様の変更は世界標準に合わせたからなんだろうか、海外では日本でいうYESをNOで表すからだろうかとか、海外と日本のXマークの感覚の違いをシェアに合わたからなんだろうかと、様々な仮説を思うに、日本のガラパゴスを感じたような気がしてさみしくなったのと、それでも世界シェアで戦う任天堂の偉大さと、その仕様が長年の被験者として骨の髄まで染みついている僕ら、(あえて僕らといいます)の誇りのようなものも感じるわけです。

そして、脳というのは、つねに不測の事態にも対応できるように、メモリーをフルで使わず、できるだけコスパよく省エネで動けるように、目の前にあるタスクに対して、習慣化してまとめることで、脳にかかる負荷を減らしつつも、安定したパフォーマンスをだせるようになっているといいます。しかし、日々が習慣の連続だけになってしまうと、脳は常にパフォーマンスを残した状態で、同じ個所しか使わないので、脳の認知機能が落ちるので、たまには習慣を崩すことで脳が活性化するといいます、認知症の治療にも通づるものがあるように思います。

ですので、1時間おきにハードを変えたゲームで、最高のパフォーマンスをだし続けることは、脳を鍛えることだとおもってがんばることにします。

そしてこの差が、いつか認知機能の違いとなって表れてくれることを願っています。

あなかしこあなかしこ。





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Title: まろ
2022.01.11

先日、またひとつ歳をとりました。

うつけなんぞに負けるわけがないとたかをくくって桶狭間。

雨の中、脇目もふらず進軍してきた若者に虚を突かれ討ち取られつつも、
最後の最後、組み伏せてきた毛利新介の指を噛みちぎったという逸話に歴史浪漫を感じつつ、
気づけば、自分も今川義元が桶狭間で討ち取られた時と同い年になっていたということに驚きます。

誕生日の前日には「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見直しました。
つながり薄れるこんな時だからこそとても心に染みました。
寅さんの魅力はさることながら、はしばしにでてくる食事の風景がとても好きです。
そして自身の恋の物語から、いつしか満男の相談役になっていく寅さんの姿にもまた時の流れを感じます。
満男にかける言葉の一つ一つに、じんわりと心が温かくなりました。

最近は、いつかみた背中のことを思い出すことが多くなりました。
懐古主義になったつもりもさらさらないのだけれど、
時は刻一刻と流れているのだということを、
昔よりもよりリアルに感じることができるようになると、
いやがおうにも、昔みていたあの人たちもこんな気持ちを感じていたのだろうかということを考えてしまいます。

そんな、桶狭間で昭和を懐古するような自分も嫌いじゃないのだけど、
そこに反作用するように、やったことも、やるつもりもないけど、
盗んだバイクに乗って窓ガラスは割ってまわったり、
夜通し山を駆けて、強大な敵を強襲したりするような、
血湧き肉躍るような熱いコスモを、
いつも心の中に燃やし続けていたいなんて、
気づけばそんな青臭い思いが頭をもたげてくるのです。

そんな作用反作用を抱えながら、

まずは、正月太りした身体をしぼり、
膝に負担がかからない程度の運動を続け、
うがいと手洗いと歯磨きも欠かさず
コロナにならないようにしながら、
組み伏せられたら相手の中指くらいは食いちぎってやるくらいの士気だけはつねに保って、
桶狭間に腰を降ろしたくなっても歩みをとめず。

また1年、足元を確認しながら自分のペースで進んでいけたらと思います。

とかく、西に行きましても、東に行きましても、
土地土地のお兄貴さん、お姐さんに
ご厄介かけがちになる若造です。

以後お見苦しき面体 お見知りおかれまして
向後万端ひきたってよろしくおたのみ申します。

あなかしこ、あなかしこ。

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Title: キ
2021.12.25

現実でもなく、非現実でもない、ちょうどいい塩梅の場所。
そういう場所を一つでももっている人はここ一番で粘り強くなれるのだろうな。

年々、振り返るという作業がおっくうになっきて、
足元を確認作業にめんどうくささを感じるのは、
いい傾向なのだろうか、それとも悪い傾向なのだろうか。

節目の敷居は、年々低くなる。

今日が明日になるように、1年は簡単に、その境目を飛び越える。

生きるも死ぬも。

どんなことが起きても、その敷居につまづくことはなくなった。

そんな心の動きに、反作用するかのように、
昔の記憶とか、思い出が
もっといえば昭和というものが、
心をぐっとつかんではなさい瞬間が増えた。

すごいスピードで進む世の中に、振り落とされないように、
しがみつく心のバランスをとるかのように、

今ではない場所に、こころを置いて、
一息つくかのように。

でも、本当は、スピードなんてものは、相対的なものだし、
同じ尺度で測れるようなものではないはずだもんね。

できることをひとつづつ。

ひとつひとつ。











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Title: コロなな。
2021.08.29

もう何が正解で、なにか不正解かわからなくなるような今日この頃、
コロナな日常は有無を言わさず、あれもこれも、手当たり次第にのみ込んでいく。

「夏休み」という魔法のような力をもった響きも、
今だけはどうにも光を失ったかのようだ。

どんなに前向きに現実を受け入れようとしても、比較するまいと思っても、前と後、
いくら得たものが素晴らしくたって、失ったものにしがみつきたくなるのが性分。

頭に響く蝉の声、曇った中ジョッキ、千鳥足の歩道橋、
しけった洗濯物、刺すような背中の痛み、無人のホーム・・・

どうにも夏が好きなもので。

*

最近は野菜ばかりを食べている。

面白いもので、野菜ばかりを食べていると、
野菜の味の違いが分かるようになった。

人間の身体というのは本当に面白い。

手をかけたらかけただけ、
そこにはなんの慮りもなく、
ただ素直に、そのまんまの反応をかえしてくれる。

*

あっちにこっちにとんで行ったままの自我が、
何週もしているうちに、元居た場所を忘れて、
ふわふわと所在投げにさまよっていたかとおもったら、
いい加減に飛び疲れて、
静かに高度を落として、
力尽きてついた先が、
元にあった場所でありたいと願う。

*

はがせ、
脳から自我を、
心臓から心を、
自己から意思を。



















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Title: 2021
2021.07.24

雲が変わり、風が変わって、日々がじんわりと夏に包まれ始めた頃。
こんなに心の踊らない夏はないなんてことを考えていた。

様々な思惑や、想いや、それぞれの視点からの正義に辟易として、
自分の足元がおぼついて、どこに寄りかかり、どこに手をついていいかもわからなくなるような感覚の中で、色々なものから耳をふさぎ、目を閉じたくなったりもする。

なにを信じ、なにを伝え、どのように振舞うべきか考えあぐねればあぐねるほどに、
皮肉を込めて「信じる」ということの本質を突きつけられるような気持ちになる。

人間は何百年も変わらずに、振り上げた正義、信じて疑わぬ側面、
自分自身の深度から見える世界を頑なに守ろうとして、
様々な歪を生み続けてきた。

その歪を生み出す原因が何なのかといえば、
人間のつくりあげるものに、完璧なものなんて一つもないのに、
正解は自分の信じる完璧という幻想の通りであるべきだと信じて疑わない心なのかもしれない。

だから初めから人に、期待しなければいいということではなく、理想を言えば、人間同士、すべての人たちが深いところではつながり、まったく同じ立場にあるという認識を、頭の片隅に置いておくことなのかもしれないなんて思いながら、日々心はジェットコースターのように上下左右に揺さぶられ、遠心力でほおりだされそうになるのだけどね。

ただ、コースターが大きな坂を静かにのぼり、これから大きく落下してしこうとする前の一瞬に見える入道雲に無条件に心が躍り、すべてのもちゃもちゃが、全部暑さの中に溶けていくような感覚を思い出して、とにかくこの今を、自分の心が喜ぶことを大切にし、心が悲しむことを避けていこうと、シンプルに着地したような気にもなるのだ。


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Title: kuatro
2021.05.13

意図も、思惑も、見栄も、顕示欲も、背伸びもない言葉を、
頭や心から、こそげ落とすように書き綴って、
すこし身体が軽くなって、頭がふっと解放される。
心の柔らかい部分をまとっていた膜のようなものがはじけて
中から出てきたものが、深く深く深呼吸をする。

そんな時間の大切さが、頭の片隅にこびりついたまま、
また手垢だらけの日常に埋没していく。

不惑という言葉は、惑わないということではなく、
惑っていることにすら気づかないってだけなんだと皮肉を言いたくなるほどに、
世界は簡単に自己を肯定する材料にあふれている。

大人になるということは、こういうことなのだ。
原動力を忘れ、動機もなく、動悸だけがする。

*

恐怖は力みだ。
力みは恐怖だ。

*
身体と心は結びついているということを言葉でなく、
体感の中で、理解できるようになった。

*

小さな点が、積もり積もって、線になり、流れ、うねり、大きな変化を生む。
どの段階でその流れにきづけるのか。

変化したときに、なぜ変化したのか、その流れはどこから来たものなのか。
雨が降った瞬間に、変化につながるまでの、結び目を、見落とすことなく生きていたいと思う。

*

誰かや、何かが、影響を及ぼすとき、
それは、目に見えた点の作用ではなく、
その点を包み込む、面や体積のよる作用でもあり、
その体積は、一朝一夕にふくれあがるものではない。

でも、その紐を解かねば、それは点による、魔法のような奇跡にしかみえないものだ。

*

物事には必ず、理由がある。
その理由も同じ。

点と作用。
そして、反応と反射。

*

文字を手段にしかつかえないようにはなりたくない。
言葉も同様に。

*

自分をアップデートできるのはいつだって自分だけだ。
そこに痛みを伴っても、更新ボタンを押さねば。

*





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Title: ひばり。
2021.01.31


2019年9月29日に放映されたNHKスペシャルで公開されたAIでつくられた美空ひばりの歌う「あれから」という曲がある。


生前の歌声を収集し、そこに含まれる美空ひばりの声や歌いまわしといった特徴を抽出しデータ化し、音声合成技術でどんな曲でもまるで本人が歌っているかのように再現する技術を使い、新曲としてつくりあげたもので、賛否両論物議を醸した一曲だ。


コロナのせいかどうかはわからないけど、最近、昭和ってよかったなとか思うようなことが多くなった。ふと、自分にとっての昭和とは何だったのか考えてみると、自分にとっての昭和とは、それは幼少期の記憶で、それはつまりは誰かや何かに守られていた時代といえるのかもしれない。そして自分はその時代がとても居心地がよく楽しかった。そして今、自分の行動の根本にその時の想いは生きている。


そして、昭和・平成・令和と時間を経ていくことで自分の中に訪れた変化は、守られる側から守らなければならない側になったということなのだと思う。


その変化は、ある日突然訪れるのではなく、少しづつ自分の中に浸透してきて、つまりそれは大人になったという言葉で片づくような類のものなのだけど「あれから」という曲には、気づけばそんな変化の中で、誰もが心の中で無意識にも求めているような、こころの中の柔らかい部分がじんわりと暖められるような寛容さと包容力がある。


様々な穿った思いを差し引いても、ついリピートしてしまって、車の中でも、お風呂の中でも、作業中にもひたすらに「あれから」を聴き、口ずさみながら、何かこんな時だからこそ乾いてしまっているどこかかを潤すような日々を過ごしていたのだけど、


そのリピートの合間に、ふとyoutubeが1988年4月、再起不能といわれるほど体調を壊していた美空ひばりが、東京ドームのこけら落とし公演「不死鳥コンサート」の時に歌った「愛燦燦」を再生した。


ふいに流れてきたイントロを何気なくきいていたのだけど、美空ひばりが第一声を発した瞬間に、おなかの底からこみあげてくるものがあった。ずっとリピートできいていた「あれから」で流れている声とは全く違う。生の声にしかない力、熱のこもった声に一瞬で引き込まれた。ずっと聴いていたからこそ、その違いを顕著に感じた。


言葉では言い表せない、人間の持っている目に見えない「何か」がそこに、しっかりとのっているような声に、人間にしか込めることのできない、熱のようなものはやはり違うのだなと、そしてその熱には理由もなく、無条件に人の心を大きく揺さぶる力があるのだなということを痛感した。


だから人間はおもしろい。


どんなに技術やITが進化しても、少なくとも自分の生きている時代には、この「何か」がなんなのか解き明かされなくていいし、そういう「何か」が社会や世界や、人を動かす、時に合理的ではない理由でありつづけてほしい。




 


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Title: a
2020.12.27

慌ただしいながらもふと立ち止まり、
使い古されたしょうもない話をしながら、
ただただくだらない話をした帰り道、

歩き始めた寒空に、
なんやかんやと今年もいい1年だったなと、
冷たい空気を吸い込んで深呼吸をする。

ほろ酔いの身体に流れ込んでくる、冷たい空気の心地よさの中で、
あたりまえのように1年は幕を閉じていくはずだったのに。

前と後という言い方はしたくはないけれど、
避けては通れない前と後、
そこを隔てるものが、
決して何かを奪っていっただけではない、
そう言える世界がはやく戻ってきますように。


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Title: 鬼滅
2020.10.26

広告代理店の戦略にのってなるものか、
はやりすたりなんかに流されまい。
そもそも自分はジャンプであらすじも全部すでに読んでいるのだ。
いまさら映画なんぞみるまでもない。

はずだった。

無限列車が走り出してすぐにその想いは消え去り
アニメの底力をみたような気がした。

ジャンプで育った自分の中に流れる、
友情・勝利・努力の三原則の琴線をこれでもかと揺さぶられた。

コスモを燃やし、アバンストラッシュを繰り出し、
霊丸を打ち出していたあの頃に一瞬で引き戻された。

映像も、演出も、音も、
今のアニメは本当にすごい、
霹靂一閃。

このコロナ禍において、知らぬ間に乾いて、枯れそうになっていた場所が、
ぐんぐんと水を吸い上げるように満たされたような気がした。

人が行動するときに、その原動力は、
理屈などではなく、時に説明もできないような曖昧なもので、

その曖昧で理屈を超えた何かは、
いつの時代も、どの世代にも、
人の心の奥底に流れている。

それが、
正しいのか、正しくないのかということや、
その先に目指すものが何なのかとかいうことでもなく、

目の前のその瞬間に、心の全部を乗せてしまうことがある、
その姿には人の心を打つ力がある。

よもやよもやだ。

明日から鬼、滅する。

とりあえず呼吸で止血できるようになりたい。




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Title: BNIT
2020.09.08

いい機会だったのだ、強制的に何かを選別するのには。

この数ヶ月に、失ったものと、それと引き換えに得たものと、
それは天秤にかけた時に、実は得たもののほうが多いのかもしれないと思えるようになった。

不自由な制約の中にいて、自由は何かってことの答えを見つけられたような気がする。

価値観の多様化がどんどん進むこの世の中で、
変化はするけど変わらないものを見出していけることが、
地に足をつけるということで、

この数年の過ごし方で地に足がついているかいないのかということが、
またこれからさき50代まで生きていることができたとしたら、
自分自身に大きな意味を持つものになる。

40代に感じる手ごたえは、自分自身の価値観を、
自分自身がだれよりも愛せるかということだ。

執着は忌むべきものではなく、消すべきものではなく、
それを、愛すべき隣人とできるか否かというようなもんで、

長い時間自分の中に同居してきた、様々なもの、
そのひとつひとつを、引っ張り出して、
ありがとうなってってなもんだ。

性善説でも性悪説でもない人間の心ころころ、
いいこというのは人間だけさ。






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Title: ファミコン
2020.09.07

人間の脳というものは、使えば使うほど学習し、進化していくのだということを実感する今日この頃です。

最近、switch onlineでファミコンのソフトをひたすらにクリアするチャレンジをしています。
あの頃、クリアできなかったあのゲームや、このゲームを、新しく搭載されたどこでもセーブ機能をつかってなんとかエンディングまでたどりつこうというものです。

なにげなく、マリオ3をクリアしたところから始まり、魔界村、マイティボンジャック、
そして先日グラディウスをクリアし、現在アトランチスの謎に挑んでいます。

あの頃、何十回、何百回と挑戦し、クリアできず、ストレスを解消するはずのゲームでストレスをため、奇声を発し、時に涙を流していた過去がまざまざと蘇ります。

でも、改めて言いたい。大人になってそれなりに経験も積んで、心も身体も大きくなった今だからこそ改めて言いたい。

えぐいわ。

ファミコンソフトえぐいわ。

まじで、こんなもんよく普通にやってたわ。
今の時代にこんなもの売りだしたら間違いなく苦情くる。

初見殺しに、想像すらできないゴール方法、重要なところで運で構成されるゲームバランス、
どれをとってもむちゃくちゃで、これを当時普通にクリアできていた小学生は本当にいたのだろうか。

子どもにおもねることなく、
社会に迎合することなく、
あえてプレイヤーに挑んでくる、
ある種のいやらしさすら感じるこのファミコンゲームの数々。

久々に頭のスイッチがばっちりオンになって、そっちがその気ならこっちも負けるものかと、
情熱だけは燃やすものの、とにかくリフレインするゲームオーバーの音、
ストレスもがんがんたまり、散々に巻き戻しモードを使いながら挑んでも、
心と身体の限界をすぐに迎え、平均3日以上の時間を費やしてなんとかクリアまでこぎつけるわけですが、

もう一ついいたい。

エンディングがしょぼいわ。

こんなに苦労して・・・こんなにイライラをためて、やっとクリアしてきたプレイヤーに見せるエンディング・・・
あの頃見れなかったエンディング、やっと見ることができたあの憧れのエンディング。

しょぼいわ!しかもすぐに2周目にいかそうとするその姿勢。

すがすがしい。

でも、この年になっても、何度も繰り返すことで、脳は学習し、それを目に指にスムーズに電気信号を送り、間違いなく進化するのだということを実感できた。

グラディウスに関してはそれが顕著で、
自分自身がゾーンに入った瞬間に、弾がスローに見えるし、
もっというならば、目で見る前に指が勝手に攻撃を回避するという、
神がかり的なプレーが出ることが何度かあって、
それがでた瞬間に感じる快感は長らく味わっていなかったなとしみじみしたものです。

そして、昔はその瞬間を、ポテチまみれの手で、仲間と共有し、狂喜乱舞し、興奮し高揚に包まれるような時間の中にいたのだなと、なにかセンチメンタルな気持ちにもなりました。

人生にも欲しいよ、上上下下左右左右BA。







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Title: ONMC
2020.05.10

いままで、誰かの為に何かをすることで得てきたことを、
自分の為に使いたい。

自分が「生きる」ことの為に使いたいと、
つまるところその欲求なんだろうな。


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Title: ここではない場所。
2020.05.10


自分の場合、文字を生み出す場所というのは、現実世界とは少しずれた場所にある。その場所が久しく遠くに感じる。

現実とはつまりは、税金の支払いであったり、給与の振り込みであったり、健康診断の結果であったり、締め切りの迫る書類であったり、いわば、

「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり
「生きていくためにこなさなければならないこと」の延長にあるような類のことだ。

その「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」を片づけると、それはそれなりに達成感もあり、充実感も得られるので、その充足感を得ては休息し、そしてまたその現実の問題を粛々とこなしていくというのがルーティーンになってくるのだけど、

その生活の中でどうしても満たされないものがある、それは

「どこのだれのためにもならないけど心地のいいこと」であったり、
「それがなくても誰も困らないけど、わくわくする時間」
のような類のものから得られる、自分の中にだけ生まれる小さな満足感だ。

あってもなくてもいい時間を自分のために費やすということ、そこに満足感を得るということの大切さに年をおうごとに気づかされる。

自分を自分たらしめるものは、きっとそこにある。

なぜ年をおうごとに大切なのかといえば、年をおうごとに、自分を自分たらしめるものの前提が、「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」の中から生まれてくるからだ。

昔はそこに境目なんかなかったのだけど。日に日にその間にある溝のようなものが深くなる。

そこから生まれてくる、「自分を自分たらしめるもの」というものも、間違いなくその瞬間の自分であることは間違いなのだけど、これから5年10年して、または20年30年生きられたとして、その時の自分を自分たらしめるものが、そこから生まれたものだけで満たされている自分というものに、一抹の不安をぬぐいされずに、その小さな棘が何年も心に刺さったままになっている。

自分らしさとはなんだろうと。

ここにきて、その問いが頭と心に薄い膜をはったかのようにまとわりつく。

でも、本当は答えはわかっているのだ、それは「こうあるべき」自分の世界から脱却であり、もっと世界は自由である実感を得ることなのだ。
そこに付随して自由から得られる痛みや孤独を我がものにすることなのだ。

まえにまえに。



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Title: さくらさくら。
2020.04.04

気づけば桜も見頃を過ぎて、
満開に気づけないうちに、
いつのまにか舞い散り始めた花びらを見上げ
ふと立ち止まる。

志村けんのことを思うと、
幼少期の記憶であったり、家族の記憶であったり、
大人になる中で思い返すことも少なくなってしまった
「あの頃」の記憶が次々に呼び覚まされる。

その記憶が心の奥底にある柔らかい部分に触れて
なにか温かいものが流れ込んでくるような気持ちになる。

数年前に、自分が子供の頃に腹を抱えて笑い転げていたのと同じように、
自分の子供たちが、バカ殿を見ながら腹を抱えて笑っているのをみて、
なにかとても嬉しくなったのを覚えている。

間違いなく、自分は志村けんの笑いの中に育ってきたし、
変なおじさんも、だっふんだも、アイーンも、
これからも記憶の中にずっと生き続けるのだと思うし、
「あの頃」を共有できるたくさんの同世代の仲間の中で、
いつまでもこの笑いは消えることなく続いていくのだと思う。

感謝。

*

様々な情報や想いがあちこちで交錯して、
そのひとつひとつに、脊髄反射で心揺さぶられ、
いろいろなところが疲弊する毎日なのだけど、

先日ひたすらに土いじりをしていて思った。

目に見えぬ不安や、
日々変化する情報や
様々人たちの思惑や
反射的にわいてくる感情、

そんな形のないものに日々さらされ、
なにか心が疲弊している時には、
感触とか、体感とか、感覚とか、
五感を伴って、今自分の中に感じることのできる、
確かなものをしっかりと味わうことで、
心が少し落ち着いてくるような気がする。

心がふわふわしたら、鉢植えでも植えたらいいんだ。

皮肉にも今になって、
日常がいかに砂上の楼閣、
些細なことで簡単に一変してしまうのかということを痛感して、
あたりまえこそが、かけがえのないものなのだということを再認識したり、
誰かを想い、支え合おうとすることの温かさに触れたりして、

人間のいい面も悪い面もごちゃまぜのこの世の中で、
五感と感性と愛だけはロックダウンできないぜ。
などと嘯きながらフラカンを聴き、
昼間の高速を走る日々です。

今切実に望むことは、居酒屋で笑いながら、
生中を飲むことです。

だっふんだ。



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Title: THNK
2020.01.04

惑っていることにすら自己肯定をできるほどに、いろいろなことが器用になって、
取り繕うことも、無難にこなすことも、それなりの結果で満足することにも疑問すらわかず。

踊り場まできただけなのに、そこに座って、陣取って、階段をのぼってくる人を満足げに眺めながら、
世代が変わっただの、自分も年を取っただの、なにか流れゆくものに浸りきって、
あげく一息つきたいだなんて漏らしたりする。

結局なにも成し遂げないままこの年になってしまったというだけなのに、
その現実を直視したくないからなのか行動しないことにすらうまい言い訳をみつける。
くそみたいに自己肯定ばかりしたくなる。

自分で肯定してやれなきゃ前に進めないような生き方が
この39年の集大成なのかとおもうと、
いままで生きてきた時間は何だったのだろうかと、
悲しくもなるのだけど、

それも全部ひっくるめて、人が一人生きてくるということがどういうことなのかということが肌身に染みていることだけは間違いなのだ。

根拠のない自信も、
よくわからない直感も、
死んだらその時だなんていう思い切りも、
側面的な正義感も、

今の自分の中からは失われてしまったと思っていて、
その喪失が自分にもたらすものが、大人になるということであり、
老いであるというものだと、その事実をとてもネガティブなものだと思っていたのだけど、
それはどうやら違うのかもしれない。













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Title: あれから、。
2020.01.04


最近あまりに昔のことをよく思い出すもので、
これはなにかの前触れか、または一種の走馬灯のようなものなのだろうかと、
自分の中に起きていることにすこし困惑もしていたのだけど、

でもふと気づいたのだけど最近思い出すことのほとんどは、もう失われてしまったものについてばかりなのだ。

もう取り壊されてしまったものや、
もういなくなってしまった人や、
もう二度と行くことのできない場所や、
もう感じることができないものや、

時間とともに変化し、失われてしまったものを、思い出してみると、
その時には気づけなかった重要な意味や価値に気づかされたりして、
同じ映画をもう一度見直すかのように、
自分がこの年になってみて改めてあの言葉行動のひとつひとつに灯っていたものに気づかされる。

*

真宗の教えって、子供に帰っていくような感覚に近いのかもしれない。

子供が子供でいることの安心感を知らず知らずのうちに忘れていることに、あらためて気づかされ、
大丈夫と言われることのあたたかさに包まれることなのかもしれない。

*

なにも解決できなくてもよい。
ともに笑い、ともに泣き、ともに怒り、ともにあること。
人間のできることは、たかがしれている、たかがしれているからこそ、
その「たかが」生きることにどれだけ向き合えるかということ。
自分の人生は「たかが」ではなく、特別なものであり、
「たかが」なんて言われたくないという思いが
「生活」の中で大きく膨らんでゆく。

*

小手先ではなく、1からやり直そう。
うちから紡ぐことを。
ながい助走時間だったかもしれない、
わかったような顔をして過ごしてきたかもしれない、
いろいろなことが上手になったかもしれない、
知らず知らずに傲慢になっていたかもしれない、
登り切ったような顔して、踊り場から下を見下ろしたまま、
登ってくる人たちをながめて、余裕な顔して微笑んだりなんかしてたかもしれない。

そんな自分自身を自己肯定することもとても上手になった、
書くことにも、話すことにも、読むことにも、
言い訳をみつけては、それを正義だと思い込んで、
たださぼってきていたのだ。

1からやりなおそう、
この区切りに、もう一度やり直そう。

*





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Title: ノストラダムス。
2019.12.12

1999年、その頃の自分がなにを想い、誰とどこでなにをしていたのかを鮮明に思いだすことは難しいのだけど、2000年になる瞬間に、暗い部屋の中で、パソコン向かいながら、ずっとノストラダムスのことを考えていたことだけは覚えている。

ノストラダムスを知ってからずっと、どうせ1999年に人類は滅亡するのだという、どこかふてくされたような思いがくすぶりつづけていたのだけど、そんな思いはミレニアムの幕開けとともに何事もなかったようにかき消されて、世界は終わることなくまわり続けている。

ノストラダムスの名前も、はるか深く記憶の底に沈んだまま今を生きている。

でも思うのだ、自分がもしノストラダムスと出会っていなかったら、きっと全く同じ今の自分にはなれなかったのではないかと。

そう思えること、ひとつひとつの出来事が良し悪しではなく、一つの事実として積み重なって、その一番先頭にあるものが今この瞬間であるという偶然性と必然性に、人生の意味や意義などというものは些末なことであるということを知る。

同時に、不自由な中にこそ自由があり、自由なことが不自由であるいうことの輪郭がとてもはっきりしてきたように思う。

*

また少し言葉の中に身を置いてみようかと、決して強くもなく、確固たるものもなく、ふんわりと。
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Title: 波。
2019.10.16

何度経験しても、あのほの暗い蓋の向こう側にいくことが、
終わりで、お別れであるという理解では、心が追い付かず、
やはり、あちら側への入り口で、またいつか倶会一処なのだと、
信じるしかないわが身に白旗。

涙の数だけ強くなれるというのなら、
強くなんてならなくていい、
強くないままに、どう生きねばならないのか。

それを問うのが大事なのだと思う。

*

様々な真実を、境遇を、背景を、
知るということは人を寛容にする。

知らないからこそできること、
生み出せるエネルギー、
成し遂げられること、
寛容では行き着けない場所、
そういう場所で、一歩一歩前に進んで、
不寛容を肯定する生き方の中では、
決して感じることのできない感覚があると思う。

その想いはおぼろげではなく、もはや確信に近いものになりつつある。

*

後悔しても取り返せないことというのがある。
その忸怩たる思いを、
この先自分の中で、大事な糧として、
心にささった棘をそのまま抜かずに、
大事にしていこうと思う。

そしていつか倶会一処、その時に、
改めてその後悔を伝えようと思う。

*

自分の身体の使い方を、頭の中で反芻しながら調整していく。
なんでうまく動けないのか、なんでさっきうまくいったことが今回はうまくいかないのか。

ひさしぶりに身体をおもいっきり動かして、
感覚と理屈をフル総動員しながら、同時に自分に足りない筋力にも気づかされながら、
ひとつひとつレベルアップしていく感覚を味わっている。

身体を動かすこと、できないことができるようになること、
自分自身に目を向けること、
つくづく自分はそういうことに心地よさを感じる脳みそなんだなと、
けだるい心地よさの中で幸福感に包まれる。

*

幸福感というと、

同じようなところを何周もまわって、
同じような穴に落ち、
同じような石にけ躓いて、
同じところに傷を負い、
同じじゃないところに立っている。

そんなもんなのかもしれない。

*

同じように身体を動かしていても、毎回同じ結果が出るとも限らない、
人生も同じで、その時の風や、熱量や、様々な要因が重なり、
その瞬間があるわけで、
経験は勝率を上げるけど、
経験だけで勝ち抜けるようなものではなく、

つねにその後ろにある、目に見えないなにかを感じる心を
さびつかせてはならないわけで。















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Title: |
2019.08.27

「目に光が灯る」という言葉がある。

若い時、なにかを形にしようと、何かに向かって頑張ろうと思う時には、気合いを入れて、身体のどこかに力を入れて自分自身を奮い立たせ、内側からみなぎるエネルギーを四肢に込め、全身で力を、勢いを想いをあふれんばかりに吐き出そうとしていたように思う。

それは思うに、それは自分の力でなにかを捻じ曲げてでも、ねじ伏せようという力なのだったと思う。

それから、いろいろなことを経験し、「頑張る」ということの素晴らしさも、残酷さも、喜びも怖さも感じてきて、最近思うのは、なにかを成し遂げるときに必要な力は、五体四肢に込めるだけではなくて、目に灯しておかなければならないのだということ。

全身に青あざを作り、汗流しながら必死に髪振り乱していても、目に灯る光が消えかけてしまったら何も進まない。
もう立ち上がれないと、心も身体もくたくたになったとしても、目に灯る光が消えなければ必ず先に進める。

いろいろな人を見ていて、どんなに熱く夢や希望を語っていても、なにか目に見える形を残している人でも、目に光の灯ってない人たちがいる。小手先だけで形は整えられても目の光は嘘をつけない。

逆になにをどうして始めていいのか、どうやって前に進んでいいのか迷いに迷っていても、目にしっかり光の灯っている人がいる。

その差はとても顕著なのだということをまざまざと感じた夏だった。

目に光を灯すために、自分に何が足りないのか、なにをみて、なにを感じて、なにを発して、自分自身の様々なフェーズの中で、右往左往翻弄される中で、いなし、逆らい、流され、おぼれかけながらも、目に光を灯せ続けられるように、もっと自分の取り扱いを、変わりゆくことを恐れずに、楽しんでいきたいと思う。

*

つくづく、自分の中のおぼろげな仏教が、
ことあるごとに、あぶりだしてくるのが、
「人間の分限」を知るということ。

分限というのは、限界とは違う。

分限はすなわちそれは、手を放すことなのだと思う。

そして手を放したときに、救われるしかない自分の現実というものが、
諦めや敗北とは違う意味で、すごく心の中の、
どうにも人の中から生まれてくるものだけでは埋めきれない、
重箱の隅のような部分を満たしてくれるような実感を感じている。

*

「夏にしか感じられないこと」は自分にとって特別なことなのだけど、
それはいつも同時に、冬にしか、秋にしか、春にしか、そして今日にしか、
今にしか感じられないことがあるということをまざまざと教えてくれる。





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Title: eneru
2019.08.06

エネルギーには2種類がある。

内側から湧いてくるものと、外側から流れ込んでくるものだ。

その内から外から湧いてくるエネルギーを心のどこかに貯めておきながら、
それを補充しながら、なみなみに満たされている状態がベストなのだけど。

そのタンクには、3分の1ぐらいのエネルギーしか満たされていないのに、
内側からも湧いてこず、外側からはいってくるものも十分に取り込めず、
空炊き状態で、その熱くらってやられちゃうときもある。

むしろ、年を取るということのデメリットに、省エネでも動けるということがある。
いやむしろ省エネでしか動けなくなるのだ。

なみなみに満たされた燃料はむしろその重みに燃費を悪くする。
軽い状態で省エネ運転するのが負担が少ないぜなんてことを、
頭ではなく、身体が自然とこなすのだ。

使わないものは衰える、身体も心も、感性もすべてだ。
それを使うにはエネルギーがいるのだ。

それをどうにかいれなければいけないのだ。
タンクがさび付く前に。

*

何年かぶりに、ぷちっと次のステップに上がる手ごたえを感じている。
ずっと、ここ何年か、同じ場所でずっと足踏みをしながら、なにもかもに焼き直しをしながら、
自分の今持っている技術や武器や能力を再確認しながら、
その使い方を持ち方を、衰えるなりの素振りに、姿勢に、体勢に適応させようと、
ひとつひとつの動作を所作を、丁寧に確認する作業をしてきたように思う。

自分の勝ち筋、自分のルーティーン、自分のパターン、
その中で力でねじ伏せることで、成し遂げてきたことを、
いかに力を使わずにおなじ道筋をたどるか、
そこに注力してきたように思う。

そこで気づかされたのは、
力まずとも、力をだし、
力をだしつつも、力まないコツ
のようなものであり、

そのコツの一番深い部分にあったのは、
言葉にするととても陳腐な響きなのだけど、
自分を信じ、頼り、そしてなによりも、自分の範疇を手放すことなのだなと。

そして、人は一人では生きられないけど、
でも現実は一人きりなのだという事実を、
喜びをもって受け止めることなのだということだ。

*

あれやこれや、こねくりまわして紡ぎ倒して、
結局のところでてくるのは、
あの頃と何ら変わらない、
青臭いものでしかないのだ。

でもそれをもう青臭さとは呼ばないことにした。

*

悔いはない。後悔もない。
思い残すこともない。

と、心から信じて疑わない精神状態の時こそ、
ものすごい執着が心の中には渦巻いていて、
結局のところ、人間てものはつくづく人間なのだなと、
その業の、執着の深さには、
いまさらながら、まさに救われることでしか救われないわと、
その実感が自分のものになりつつあるような気がする。

*

なかなか引きはがせなかった。
おもいっきりに力ずくでひっぺがそうとしてもはがれなかった、
日常とか、今とか、そういうものに癒着する自分を、
無理やりにでもはがしたかった。

それは旅であり、言葉であり、曲であり、海であり、夏であり、匂いであり、夜風でもあり、
愛でもあり、塀の上をあるくことでもある。

無理やりにでも時々ひっぱがしておかないと、はがれなくなって、一体化して、
自分が、今に、日常に、一体化してしまうような怖さがいつまでも拭い去れなくて、
それはもう躍起になって、べりべりと、かさぶたのようなところから血が出ても、
力ずくではがさねばという焦燥はどこからくるのだろうかと、
自問自答する。

自問自答しながらも、ありとあらゆるものに頼り、ひきはがそうと試みる。

散々そんな抗いを続けてみて、もうほとほと疲れて、
息をついて、もういいやと、このまま自分がどこに埋もれて消えていってもいいやと、
開きなおってみると、みるみる沈んでいって、
沈み始めてる最中には、焦りや、怖さや、どうにもいえない苦しさの中でもがいたりもしたのだけど、
もがく力も失って、底まで落ちてみたら、
なんてこたない。

そうかそういうことだったのかと。

結局のところ、年を取ることと、ひっぺがせないことの相関関係もよくわかって、
そこに気づかされたら、なんてこたない。

そういうことだったのかと。

おもしろいもんだな。

堂々巡りして、同じところを、同じじゃない自分が堂々とめぐるのだ。


*

身体も、心も、手も足も、頭も、
いままで共に生きてきたこの五臓六腑は、
思いのほか、自分をしっかり自分たらしめているのだなと。

いままで、それを全部使い倒してやるつもりだったけど。
決してそうじゃない。

この五体、五臓六腑は、
まぎれもなくどこまで行っても、
自分を自分たらしめるものを、
自分よりも覚えているものなのだな。







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Title: 向。
2019.07.09

大きな肉の塊を眺めながら、この中にじっくりと火が入っていく様子を想像する。

実際に目には見えない熱の流れを、頭の中でシュミレーションする。

焼き目を付けるフライパンの温度はどのくらいがいいのか、この熱さのフライパンの上に脂身の面から、お肉をのせたらどんな音がするだろうか、何秒でどんな色の焼き目がつくだろうか。

そしてオーブンに移した後に、外側から内側へ、徐々に浸透していく熱のスピードをイメージする。どのくらいの温度で焼いたら、外側が焦げるスピードと、内側に熱が向かうスピードのバランスがいいだろうか。

何度もシュミレーションをして、オーブンの余熱を始める。

一度ガスに点火をしたらもう後には戻れない、
オーブンメーターをみながら、室温を一定に保つ。

本当は音とか、匂いとか、見た目の変化や、肉の弾力をみながら状態を把握する、
とか言いたいのだけど、そんな技量は自分にはまだない。
なので、ある程度はセオリーを守り、数字を頼り、失敗を繰り返し経験値を積むしかない。

肉の表面からじりじりと肉汁があふれてくる、少し赤みがかった肉汁が透明に変わるタイミングを見逃さずにベンチタイムにはいる。
肉塊を焼き始めて思うのは、このベンチタイムの重要性だ。

肉はオーブンから出した後も余熱で中心温度は5度はあがる、アルミで包むとさらに余熱は進む。イメージした出来上がりから逆算してベンチタイムに入るタイミングを割り出す、そこで肉汁が肉の中にしっとりと落ち着いて出来上がりに大きな差を生む。

そして最大の決断はベンチタイムをどこで終わりとみるか。
その決断を下せるのは、他でもない、トランプでもない、
火入れをはじめた自分しかいないのだ。

その重圧を乗り越えて、肉塊をまな板に置く。
何度肉塊をやいてもこの一刀を入れるときには緊張がはしる。

肉を焼き始めた時にやりがちなのが、ここでびびって、いきなり大きく肉を切ることはせずに端っこの方に包丁をいれてしまう、するとたいていの場合、端の方はよく火が入っているので、その色味に火が入りすぎてしまったと思い落ち込むという「あるある」だ。

そんな経験を繰り返してるだけに、最近ではそんなことではひるまずに、端の方の色味に一喜一憂せず、ゆっくりと、そして厳かに肉をスライスしていく。

そして一番の厚みをもつ、Top of the meatを両断したときに、そこにしっとりと肉汁のベールをまとった、ピンクがかったロゼの切り口があらわれ、それは衣のように、ナイフがまな板に到達するかしないかの刹那に、ふわりと倒れる様子をみた時、

ああ、肉を焼いてよかったと思うのだ。

そしてその安堵とともに、サーブする前の切り落としに、スプーンでソースをたらし、口の中にほおりこむ。

大抵の場合、ここで冷蔵庫から冷えた缶ビールをだしてきて、一人で祝杯を挙げる。
張りつめていた緊張が一気にほどける、その一瞬のシェフタイムの至福はなににも代えがたい。

キッチンは戦場だ。

そしてそこで得る勝利とはなにか、それはいつだって五臓六腑が教えてくれるのだ。


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Title: HUMP
2019.04.18



今を、存分にそのままに表現することは、

それだけでまぶしい。

若さも老いも、全部、その時その時に、

そのままをまるっとさらけだすということは、

それだけでまぶしい。


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Title: 反布。
2019.03.15

青臭さとか、不完全さってのは、
それは若さというものをつくるうえで不可欠な要素で、
つまりはそれが完成形で。

その完成形の中からしか
響かせることのできないものがある。

そこから生まれた「響く」というものを
忘れないようにしたい。

そしたらそれは、老いることでしか完成できないなにかになるし、
そこでしか響かせることができないなにかになるのだと。

そうおもって、若さにあてられながら、
いろんなものをこそげ落とす。


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Title: じわる。
2019.01.06

じわりと。

じわりと夜風に年末感がでてきたと思っていたら、いつのまにかもうじわりと正月のあける匂いがする。

じわりと。

昨年は時間の流れというものをすごく肌で感じた1年で、10年一昔とはいうけど、10年という時間でできたこと、できなかったこと、変わってしまったこと、変えられなかったこと、その一つ一つに思いをはせながら、これから先の10年にどうありたいかなんてことを考えた。

無常といえばひとくくりなのだけど、つくづく痛感するのは、変化というのはある日突然、敷居をまたぐかのようにやってくるのかといえばそうではなくて、いつだってじわりとやってきているのだということ。

ある日突然変わってしまった光景も、まだ変わってないこの光景も、ちゃんとじわりじわりと進んでひとつの結果になっただけで。

家族でこうして食卓を囲めるのもあと何年なんだろうかとか、この人とこうして会えるのもあと何回なんだろうかとか、いつまでみんなが健康でいられるんだろうかなんてことを、他人事ではなく思うと、やっぱりこの瞬間にとどまってるものはなにもなくて、いろんなことが、あり方が、関係が、ちゃんと刻々と変化していて、

あたりまえに「今」はしっかりそのときに向けて進んでるんだなという実感と、
そこで生じる思いを自分の中でどうしょうもなく持て余したりもするのだけど、

そんなじわりとした感じを、あじわいながら、楽しみながらこれから先を過ごしていきたい。

今年もよろしくお願いいたします。

今年はいままでできなかったとても大きなことに取りかかろうとおもう。
楽しみながら、じわりじわりと。



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Title: 十年一昔。
2018.12.13

十年一昔という言葉を反芻するように味わう。

この10年の実感を言葉にするなら、まいた種が、芽をだして、試行錯誤の中で育て、すくすくと伸びて開いた花が、そろそろ鉢植えでは手狭だなと感じるくらいの時間だった。

種からひとつの花を育てるという時間、その経験のすべてが今の自分の思考や行動や、理想や夢想のすべての要素に深く絡みついて、絡みついた先からまた新たな種を落とす。

今はその種をまた蒔いて、次の10年であたらしい花を咲かせたい。

そんな作業をあと2,3回するくらいの命の時間が残っていればいいなと思う。

*

それと、十年一昔と同じくらい、サイクルという言葉を実感として感じている。

昔自分の見てた景色の先に、今自分が立っていて、そしていま自分の見ている景色は、
きっと10年前にここにいた人がみていたであろう景色なのだろうということが体感の中でつながって、

その景色がつながっていくこと、そのサイクルのようなものが、
結局のところ人生という簡単な言葉の中に集約されていくのかもしれない。

その一瞬一瞬のその場所で、様々なことを感じ、その感覚を味わい、世の中の道理のようなものが涵養するように自分の中に落ちてきた時、その大きなサイクルを前に、ただただシンプルにわいてくる感情の中に身を沈めてみると、

生きるということを表現するときに必要なものは、言葉とか、功績とか、ましてや見栄や体裁なんてものではなく
どこまでいっても、ありのままということは、その瞬間的な偶然にすぎないという、あたりまえの事実に深くうなづく姿勢のようなものなのかもしれないなと。

その表現こそが、根源的ななにか、共通項に働きかける作用みたいなものを、実践的に試すように、言葉の中や行動や視線の中に落とし込むように使ってみたいとおもう。

*

道理というものを、頭ではなく肌感覚で通せるようになりたいなと。

*

リスクだらけの中を涼しい顔で進んでいく人もいれば、何もないところで、けつまずく人もいる。
その差がなんなのか、おぼろげながら見えてきたような気がする。





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Title: mi
2018.10.09

じんわりと痛む、腰から背中、足の先までおりてきた痛みを、さも味わうようにやりすごす。

morohaを聞きながら、今は何年だったかと、自分の中の時間軸がぶれる、京都の細い通りをバイクで走っていた時の匂いがふとただよう。

昔を思い出す時にいつもその思い出は、昼下がりから夕方にかけてのことばかりで、なぜだかわからないけど、哀愁と昼下がりは自分の中でとても密接につながっているようだ。

今、自分の日常はだれかの日常をつくりだせているのだろうか。
誰かの思い出や、誰かの記憶や、誰かのくだらない日々になれているのだろうか。

自分の作り出す日常が、だれかの日常をつくり、その日常はまた誰かの日常になる。
その輪はあそことここと、そちらとあちらとどんどん大きくなってたくさんのものを飲み込んでいく。

でも

自分がだれかの日常をつくるのだなどというところに捕まらないようにしよう。

自分の日常は自分の目線で語られるものであるべきで、自分の目からみたものであるべきなのだ。
そこには俯瞰した目線も、相手からの目線もいらない。

いまここから見えたものが、自分の日常で、
その日常の集合体が、今なんだと。

その今は、決してつかまえることなんてできない。


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Title: おてんと。
2018.10.02

心の震えるインプット不足。

これにつきる。

旅でも、音でも、人でも、

言葉でも、空でも、山でも。

その震える何かに飲み込まれる不足。

小手先を動かしてばかり、それでなんとかうまく見せるようなことばかりがうまくなる。

オーバーフローするような熱量不足。

こう見せとけばいい、こうしとけばいい、このあたりでいい感じに見える、なんて生活につかまったらあかん。

おてんとさまみとるで。



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Title: しゅくしゅく。
2018.09.13

いい時も悪い時も、何かあるときも、ない時も、粛々と書けるような心持でいたいなと。

真っ白な画面に向かって、なにかを吐き出すように、組み立てるように、捨てては拾うように。

「ひろう」と「ひらう」は同じなのに温度が違う。
その小さな温度の違いみたいなものが、心に揺らぎのようなものをうむのだろうな。

「平成最後の」といいながら、いつだってこの瞬間は最後の連続だとうがったことを言いながら、
すこし肌寒くなってきた夜空に、いろいろなことの終わりをはかなむ。

捨てては拾い、ひらってはほかす。

歩くこと、走ること、前に進むこと、人生はそういうものだと、
そうおもって生きているのだけど、

それすらもほかしては、ひらう。




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Title: 夕暮れ。
2018.08.21

世間では今年の夏を平成最後の夏と呼ぶらしい。

夏に始まりも終わりもあるもんかいと思いながらも、すこしセンチな気持ちになったりもする。
昭和が終わって、平成が終わって、昭和の生き残りなんて言われる日が近づいてきてるとしたって、
いつまでも夏の匂いや、雲や、色や、風は、あの頃と呼ばれたときのまま、
かわらずに自分の心の中にあるなにかを震わせ続けるのだ。

きっと冬だったら、聴いたり、会ったり、食べたりしなきゃ補給できないような時でも、夏は無補給でどこまでも進めるような、
朝起きることも、歩くことも、汗をかくことも、雨に打たれることも、寝苦しむことも、すべてが自分の中になにかを注ぎ込んでくるかのように、いつまでもエネルギーが尽きないかのような錯覚に陥るのだ。

実際それは錯覚で、目前に40が見えてきた肉体にはじわりじわりとダメージは蓄積しているようで、
毎晩電池が切れたかのように、眠くなり、泥のように眠っては朝日とともに目が覚めるわけで。

そんな今年の夏は、本当に夏を満喫した。
まだ終わってないけど、でももう十分に満喫したといえるほどに満喫した。

陸海空すべてを五感でたらふく感じた。

そんで思ったのは、

思い出はやっぱり、感情の動きなんだ。
心の震えなんだ。

心をたくさん震わせることが、大切な思い出になり、その大切な思い出が、自分自身の芯になるんだってことで、
そんで、その芯は誰にもなににも奪われないってなことで、

そんで、その震えを忘れないことが、きっと右往左往して、あっちゃこっちゃぶらぶらとしたときに、原点に返る道しるべなんだきっと。

まだ終わらん。夏まだ終わらん。











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Title: onS
2018.08.01

北見のハッカ油が届いて、今年も夏がやってきた。

あれよというまにスケジュール帳は夏でうまっていく。
予定が埋まる度に、わくわくするような気持ちと同時に、なにか追いたてられるような焦りも生まれる。
夏が好きだからこそ、今を満喫しようという気持ちに捕まりすぎてはいけないのだと気づかされる。

あの頃から変わらない、心をつかんで離さない夏の姿は、いつまでも続くかのような膨大な時間をもて余す怠惰で気だるい日々の中にある。

いつまでも寝ていていいのだと、そう思えるその一瞬の安心感に幸せを感じながら、結局自然としなくてもよい早寝早起きに身体が順応してゆくような、身体の中にゆっくりと夏が涵養していくような速度で、すこしづつ自分の中にたまっていく何かがもたらす幸福感。

暑さで明け方に目覚めて、二度寝ができないときには、もそもそと起き出してシャワーをあびる。
水を1杯のんだら寝床に戻り扇風機の風をあびながら大の字になる。

外では新聞配達のバイクの音が聞こえる。
その音を聞きながらけだるい夏の朝にまた幸せを感じる。

そんな日々が始まるのだ。





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Title: えれ。
2018.06.06

間違ってるといわれたり、大損こいたり、理解されなかったり、先行きに漠然と不安を抱えたり、
その度に感情の渦に飲み込まれて、右往左往して、
手足をばたつかせて、疲れては沈み、沈んでは浮かぶ。

本当は不自由な人なんかいないのだ。
本当は誰だって自由になれるのだ。

お金があろうとなかろうと、愛があろうとなかろうと、才能やスキルがあろうとなかろうと。

失わないようにと、維持しようと、嫌われまいと、称賛されようと、守ろうと、闘おうと、
もっと高みへと、勤勉であろうと、怠惰であるまいと、

常識とか、あたりまえとか、目に見えない大きな枠みたいな中で、
こうあろう、こうあるべき、こうなきゃいけないと不自由になってく。

でも、本来自由は不自由の土台の上にあって、
不自由との対比の中にあるもので、
どちらかの側に立ってる時にはその構造に気づけないし、
そのどちらか側の概念に正解不正解を求めてる構造上の問題を、
客観的に見なきゃいけないのだと思う。

人間は手の付くところがないと、簡単にころぶし、簡単に傷だらけになるのだけども、

人はそんなにやわじゃない。
誰かが誰かを動かすためにつくりあげた、概念のようなものに捕まって、
捕まってることにすら気づけないような、世界の中で、

やわらかさと同時にもちあわせたしなやかさをもっと信じたい。

それは誰かのために、そしてなによりも自分のために。



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Title: と。
2018.04.19

誰かの摘んだたんぽぽが一輪、園庭に落ちていた。が
それを拾った3歳の子。

拾い上げるとしばらく眺めて、
そして黙って園庭に隅にいくと、穴を掘ってそれを埋め戻していた。

だれにみせるわけでもなく、だれに主張するわけでもなく。
そしてなにごともなかったようにそのまま遊びに戻っていった。

その一部始終をながめながら、
尊いなぁ、と思いました。



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Title: たからもの。
2018.04.16

この時期の園庭は宝物にあふれている。
 
色づいた葉っぱや木の実、だんごむし、砂の中から出てきた少し大きな丸い石、
子どもたちはそれを宝と呼ぶ。
 
自分の力で発見した喜びを誇り、共有し、そしてまた新たな宝探しを始める。
 
大人になると宝というのは、物理的に価値があるかどうかということが前提条件になるが、
子どもたちは「発見すること」そのプロセスそのものが宝物を生み出す前提条件になっている。
そのプロセスの先に見つけたものは唯一無二自分だけの特別なのだ。
 
子どもから大人へ変化するために必要なことの多くは経験を積むことで得られるものが多いけど、
経験をすることで失うものの中には、そういう小さな感動や喜びも含まれる。
 
その原始的な感動や喜びがいつまでも価値をつくる基準の根底にあってほしいと思う。
 
その根底はなににも奪われず、決して失われず、自分自身を支える大きな根っこになる。
という想いを新たに新学期がはじまっています。
 
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Title: ST
2018.04.13

その行動にどんな意味があるのだろうと考えて、そこに意味を見出すことができなかったとしても、
いざ行動をしてみると、そこに考え付かなかったような意味や効果を感じることがある。

頭で考えることというのはあくまで想像の域をでないし、経験則が必ずしも真実とは限らない。
1度2度失敗しても3度目に開けることもある。

経験域が広がれば広がるほど、言い換えれば長く生きれば生きるほどに、
頭の中で描く設計図の上でだけ遊んでいると、楽しさはどんどん色褪せていく。

手を動かし、足を動かし、首を突っ込む。
そこで自分がなにを感じるか、それはいつだって未知数。
何度繰り返しても未知数。

未知数であるということ、わからないということが、楽しさをうみ、その楽しさがまた経験値になる。
経験のメリットを最大限にいかせるとしたら、経験が裏切られる体験ができるということなのかもしれない。

*

幼児教育と仏教の類似点は、めにみえるものだけがすべてではないということ。
本当に大事なことは目に見えないことがあるということ。

そして、快というのは、不快を取り除いた状態を指すということ。

*

本来目に見えないことを感じる力は人間には備わってるが、
それを曇らせるのは経験則。

歴史もまた経験則。

感じることをいつまでも感じたままに大切にしていいのだということを、
声を大にしていえる世界はきっと今よりも少しいい世界なのだろうと思う。

*

OFFになるというのは、日常からの切り離し。
それは物理的な部分だけでなく、精神的な部分も含めて。
むしろ精神的な部分で、日常から精神が切り離されないと、
いくら物理的な切り離しをしてもその効果は半減以下。




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Title: フルスイング。
2018.02.07

昔の写真をひっぱりだしてきて、今と昔と何が違うのかを考えた。

一言でいえば、あの頃の自分の弱さと、今の自分の弱さ、
あの頃の自分の強さと、今の自分の強さは、
根底の部分では変わらないのかもしれないが、
表に出てくる形が全く変わったということだ。

それは例えるならば、自分でジャストミートだと思ってフルスイングした球を三振したときにわくわくできるかどうかということに近い。

昔はそんな球にわくわくしたし、バッターボックスに立つのはそんな瞬間を経験したかったからだし、
結果はそのあとについてくるものだから、フルスイングすることに意味があるのだと思っていた。

でも今はどちらかといえば、ホームランが打ちたい、ヒットにしたいという思いが先にあって、バッターボックスに望んでいるような気がする。

昔はフルスイングで三振していたような球をもしかしたら今は見逃してしまうのかもしれないなと。

フルスイングができないようになったにはそれなりの理由があるにせよ、
いかんせん、豪快なフルスイングの三振は、予告ホームランよりもまぶしいのだという自分の価値観は変わらないのだ。






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Title: ちょけ。
2018.01.17

気張らず、威張らず、意地張らず。

全身をまるっと脱力したときにはじめてでてくる、

その人自身みたいなものがあって。

その、なんの主張も五感で発してないときの自分自身、

ただそこにいるだけの自分の中からでてくるもので、

なにかを十分に伝えられるようにありたいと思うのだけど、

気づけばいつもそこに、気張りのような、意固地のような防衛線のようなものが張られていて、

言葉を駆使しようと、身振り手振りや、身なりで何かを語ろうとして、

それが必然であるかのように振る舞って、

そこで積み上げてきたものの損得と、評価を大事に抱えてしまうのだけど、

それをせっせとくみ出して、ほかして、

干からびさせたいと、

また力むのだ。





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Title: 向合。
2018.01.17

身体の不調をよくよく案ずるに、ただただ「今、ここ」を確認させられる。

痛みや不快感には理由があるし、その原因を生み出すものはきっと目に見える理由だけじゃなく、複雑にいろいろな理由が絡み合って一つの症状になるのだろう。

この世のほとんどのことはその理屈で片付けられるし、その絡み合ったものを紐解く方法も、きっと同じ方法にいきつくのだろう。

人間をつくったのはだれだかしらないが、本当に深く深く、その一つ一つの症状や、感情や、五感や、その原因や、そういうものの一つ一つになにかのメッセージが込められているのではないかという気にすらなる。

そのメッセージを読み解いていくと、きっと皮肉とウェットに富んだ答えになるんだ。

その答えに気づいたときに、自然とほほが緩むような、おちゃめな答えなんだきっと。

絶望と希望は実は親類なんだよとか。

喜びは苦しみの生みの親なんだよとか。

死ぬっていうのは生きてるっていう何よりの証拠なんだよとか。

あの日のこの思いがあるから、今のこの日があるんだよとか。

幾重にもはられた伏線を回収しながら、一つ一つ全貌が明らかになって、

明らかになってみればなんてことない子供じみた仕掛けの上で踊っていたのだなってね。






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Title: ばく。
2018.01.05

ぶかぶかでも、きつくもない服。

背伸びもせず、遜りもしない声。

大きくも小さくもない言葉。

優しくも厳しくもない眼。

そっちでもこっちでもない速さ。

苦しい時に笑うわけでもなく。
うれしい時に泣くわけでもなく。

晴れの日に雨宿りをして、
雨の日に走り出すわけでもない。

それでもきっとこれからも春の風に吹かれて鼻歌を歌い。

冬の寒さに歯を打ち鳴らしたりもするし、

音や、匂いや、夜風や、真っ暗な湯船に心地よく酔い、

ひだまりや、胸の奥底からわいてくるじんわりとしたぬくもりや、

夏の夕立に絶望的な気持ちになったりもするのだと思う。

でもその一つ一つの感覚に決して意味を見つけず、

理由を探さず、

捕まえようとせず、

気化するその瞬間まで目をそらさずにいようなんて思わずに、

思い出したかのように、

ポケットの中の飴玉を口の中にほりこんで、

くしゃみのひとつでもして、

鼻をすすってすすもう。






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Title: たん。
2018.01.05

冬の空気は輪郭を際立させる。

音や、匂いや、色、切れた唇の痛みや、たばこの煙、触れた手の冷たさ。

その一つ一つの感触を確かめるように、白い息を吐いては、肺いっぱいに冷たい空気を流し込む。

その色鮮やかな感触は、記憶の中の境界を曖昧にする。

ランドセル背負って霜柱を踏みしめていた通学路。

夜間学習の帰り道。

かじかむ手で握るバイクのアクセル。

あの朝、あの夜、あの日のあの言葉。

そのすべての感触が今のこの瞬間とつながっていて、記憶も思い出も、点ではなくて、一つの線の上にあるのだと。

ぽっかり浮かぶ月の下で、もう一度白い息を吐いた。

その白い息のどこまでが吐息で、どこまでがたばこの煙なのか、考えようとしたけど、それはもうどちらでもいい。

吐息と煙の境界は曖昧でも、そこにある白い呼吸の輪郭がはっきりとしていればそれはもう線の上。

きっとそういうことなんだ。

なにもかも。








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Title: 重力。
2017.12.19

重力を断ち切って宇宙へ飛び出すにはそれ相応の速度が必要だそうだ。

詳しくはわからないけど、たかだか100キロ、されど100キロ。
東京~熱海くらいまでの距離で宇宙までいけるのに宇宙が遠いのは重力があるからだそうだ。

たかがこの少しの敷居をまたげばいいのに、そのほんの少しが越えられないということは往々にしてある。
最近思うのだけど、物事にはどんなことにも重力のようなものが働いている。

場所でも、出来事でも、人間関係でも、すべてのものには重力があって、外へ飛び出そうとするときにその力が足を引っ張るのだ。もちろん普段はその力がしっかり働いているおかげで、地に足をつけていられるのだけど、その力はいざというときにはとても重い。

例えば、生まれた場所や生活する場所の持つ重力、いろいろな関係性やしがらみの持つ重力、自分自身の心の問題が生み出す重力。

それは、仕事場や家庭を離れて旅に出て、物理的な距離をあけることでふと瞬間的に、ここちよい無重力の世界に行くことができることもあるし、季節の節目や、生活の変化や、自分自身の経験や出会いや成長の中で、いままでとらわれていたものがふと無重力に解き放たれることがあるかもしれない、そして月に向かっていってまた今度は月の重力に捕まって、同じことを繰り返していくのかもしれない。

人間は重力がなければ生きていけないのだけど、時にそこから生み出された重力が大きくなりすぎて、飛び出すどころか、自重で身体が押しつぶされそうになることもある。そこであらゆる方法でその重力と対峙していかなければいけないのが生きていくということなのかもしれない。

そして、この1年で痛いほど感じたのは、死というものの生み出す重力の強さだ。

死が生み出す重力はとても強い。

それがどこか遠くの誰かの死でも、身近な人の死でも、自分自身の死でも、程度は違えど、そこから生じる重力はとても強い。
その働きを断ち切って宇宙へ飛び出すということはとても大きな推進力と、とても膨大な燃料が必要になるし、ほおっておくとその自重はどんどんと重くなっていく。

その重力とどう対峙したらいいのかということを考えるほどに、その答えはやはり仏法の中にこそあるのではないかと思う。










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Title: ポ。
2017.11.20


ポケモンについて言いたい。誰得でもないのはよくわかっているが言わせてほしい。

先日小学生男子にポケモン対決を申し込まれ、仕方なくその勝負を受けることにした。

相手の手持ちは、ソルガレオ・ネクロズマ・マーシャドー・ガオガエン・マシェード・煌めきのシルヴァディというごりごりのSM王道の小学生仕様(SMというのはサンムーンの略でいかがわしい新手のプレーなどではない)

対する37歳はマンムー・エンニュート・ミロカロス・フーディン・ギルガルド・ジュナイパーという手持ち。

種族値はそこそこではあるものの、さすがに相手の伝説とレア満載の戦いに不安を感じたが、こちとら赤緑からやってるベテランで努力値もしっかり振ってるし、何よりも対人戦の経験がある。

ポッとでの伝説だかなんだかしらないが所詮SMからポケモンを始めたような小学生に負けるはずがない。種族値なんか経験でカバーしてやるぜと意気揚々と3連戦2本先取戦に望んだわけだが、

結果は、

一本目、煌めきのシルヴァディとガオガエンの猛威に一気にPTは瓦解、一本目の途中で負けが見えてからは、もうすでに2本目のことを考え相手の技をとにかくださせて、対策を考えねばならないほどに追い詰められた、最後の一匹が倒れた時には顔にはださず「うわ~負けた~」と平静を装ったものの、正直まじで震えた。おなかのそこで何かがぐつぐつと煮えたぎるのを久々に感じた。

一戦終えた時点で、大人げなくジュナイパーを何食わぬ顔でテッカグヤに入れ替える。

続く2本目は1本目での対策をすぐに織り込んで挑んだものの、煌めきのシルヴァディを崩すのに2匹を消耗、なんとかお互い最後の一匹になるまでに戦いは縺れ込む、そして最後自分のミロカロスのハイドロポンプが先手で出た瞬間に、おもわず声がでるほどに白熱した試合を制した。

ぎりぎりの辛勝である。

正直この時点でポケモンをやってるとは思えないほどの体力消耗だ。
ガムシロップをがぶ飲みしたい気分だったが、このままの流れで押し切りたいので、
すぐにそのまま3本目に突入。

3本目は相手のミスもあったが、ギルガルドの弱点保険とつるぎのまいが炸裂、せいなるつるぎの猛威の前に相手のPTは崩壊、小学生も言葉を失う展開だ、

完全勝利だ。

2勝1敗で大人のメンツとポケプライドは守られたのだが、

この話はまだ続く。

先日金曜日に発売したポケモンUSM(USMはウルトラサンムーンの略で新手のプレーではない)を息子と同時に始めたのだが、

もちろん自分は、モクローの色違い難民を1日して、結局あきらめて性格厳選だけで、いじっぱりモクローと旅に出たのだが、同時にはじめた息子(ポケモンSMからはじめたひよっこ)がストーリーを先に進めてある程度手持ちがそろってきた所で無謀なことに勝負を挑んできたのだ。

しかしながらこちらは旅を始めたばかりで、モクロー・コイル・ケーシィ(テレポートのみ)・ベトベター・イワンコ・マクノシタという弱小PTだったのだが、モクロー・イワンコはいじっぱり厳選(これだけで半日消費)コイルも特性はがんじょうということもあり、

まぁまぁひよっこが多少ストーリーを進めたところで相手にならんぜと、軽い気持ちで勝負を快諾。
またもここに3本勝負の火蓋が切られたわけだが。

1本目。

息子の一匹目、ルチャブル。

ルチャブル?XYでは多少聞いたことあったけど、対人戦では戦ったことなく、タイプもわからない。まあでもこんな小学生厨の見た目のポケモンなんかイワンコで一蹴。とおもいきや。

はやい!先手が取れないうえにバンバンにタイプ一致でばつぐんがとんでくる。すぐにスマホで情報を調べると、ひこう・かくとうタイプ・・・

相性悪すぎ。あっというまにPT半壊、ベトベターでかろうじて削ったもののはねやすめで回復されてなすすべなし。最後はテレポートしかもってないケーシィが倒される前に降参。

これではあかん・・・と何食わぬ顔でマクノシタをスリープと入れ替える。

続いて2本目。

催眠炸裂でなんとかルチャブルを削るものの、倒すまでに至らず、あと一歩で息を吹き返したルチャブルにPT崩壊。

失意の3本目もあっというまに倒されて終了。

正直言ってショックだよ。

先日の小学生といい、今日の息子といい。
いや、長いポケモン生活で完全にたるんでいた自分に自己嫌悪。

彼を知り己を知れば百戦殆からず。と孫子にも書いてあったよな。
相手も知らず、己すらも見失っていたことを突き付けられたような気がした。

そしてなによりも小手先の情報に振り回されて、ああだこうだと玄人ぶって胡坐をかいて、肝心なポケモン愛を忘れていたような気がするわけですよ。

もっとポケモンつよくなりたいわ。もう一度相性表の暗記とポケモンのタイプ暗記からはじめてやるよ。

ポケモンを知らない人にはなんの価値もないくそみたいな話だけど。
ポケモン好きには伝わると思うんだよなぁこの気持ち。

最後にいわせてもらうけど、息子に負けたおれのPTは成長を見越してつくってる旅パだからね、コイルにケーシィをいれてくるあたりに、よくもわるくも長年染みついたポケモン臭がするでしょう。

ポケモンやったことない人に言いたい。こんなに奥の深いゲームもなかなかないよ。よくできてる。
老若男女が本気でぶつかり合える一本ですよ。

あなかしこあなかしこ。
















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Title: 情熱の薔薇
2017.10.17

友達に別れを告げた帰り道、

ずっと頭の中に情熱の薔薇が流れていた。

いままで何百何千と聞いたこの曲の歌詞が、今この瞬間にまた心の中に染みわたって、
わかったようでなんにもわかってなかった自分を痛いほど思い知る。

永遠なのか本当か、時の流れは続くのか。
いつまでたっても変わらない、そんなものあるだろうか。

見てきたものや、聞いたこと、今まで覚えた全部。
でたらめだったらおもしろい、そんな気持ちわかるでしょう。
答えはきっと奥のほう、心のずっと奥のほう。

涙はそこからやってくる。
心のずっと奥のほう。

さみしい気持ちで冷たくなった心に、あたたかく火が灯るようなお通夜だった。
肩を組んだ輪の中で、あいつも一緒に歌ってるような気がした。

きっとみんなの日常はかわらずに回り続けるように見えるだろうし、変わらずに生きているように見えると思う。でもなにも変わらないように見えて、きっとこの別れの前と後では何かがきっと変わっているんだと思う。

いろいろなものの価値や重みが。

ありがとう。

またいつか一緒に飲もう。









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Title: 秋。
2017.10.10

上野の松坂屋に行った。

ここにはいつも昭和の残り香のような雰囲気が漂っている。

機械感むき出しのエレベータの重そうな真鍮の扉がガラガラと音を立てて開く。
そこに乗り合わせた老夫婦と小さな男の子をみていたら、
「百貨店に行こう」と祖父に手を引かれていたころの自分とオーバーラップする。

自分は昭和も終わりのほうに生まれ、真っ最中に昭和という時代を作ってきたわけではないけれど、
それでも自分の中では平成はまだ最近のことのように感じているし、
こうしてなにか昭和のアイデンティティのようなものに哀愁を感じる心は育っている。

きっとこれから年号が変わり、昭和も一つの時代として、自分たちが明治や大正を教科書で学んできたように一つの知識に変わっていくのだろうと思う。

そこにさみしさと、なつかしさと、清も濁も包み込むあたたかさを感じられるように生きていきたい。

*

生きるということはどこまでいっても不自由だ。
本当は生きていくことの中に自由なんてものはどこにもない。
だからこそ、いつだっても自由って響きに光があたるのだと思う。

探せば探すほど自由はみつからず。
手を伸ばせば伸ばすほどに自由は遠ざかる。

もし本当に自由というものがあるとしたら、それはもう内側から生まれてくる類のものなのだろう。

*

包丁を買った。

いままで両刃の包丁を使っていたのだけど、はじめて片刃の包丁を買ってみた。
さっそく使うと、感触も使い方も今までのようにはいかない。

まっすぐ切ったつもりでも刃は左にながれるし、慣れないと野菜をまっすぐ切ることもできない。
長年の感覚というのはそうそう拭えるものではなく、使いづらさ、違和感のようなものを感じる。

でもこの違和感や使いづらさを感じたと同時に、それは同時にこの感覚が使いやすさに変わってくる過程を味わえるということで、そうなったときに見える景色がどんなものなのかと、変化できることへの楽しみもわいてきた。

日常や習慣のの中にある些細な感覚、そしてその変化を味わうように生活できるということは、
つまりはそれは平和ということなんだと思う。

*

子どものすごいのは、
おとなのあたりまえが
大発見ってことなんだよな。


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Title: 一輪の。
2017.09.21

比較的穏やかな時期。

*

有象無象いろいろな悩みや、解決しなければいけないことや、片づけなければならないものが重なって、無意識にも脳のメモリーがバックグラウンドで動いている時に忘れてしまう大事なこと、例えばそれは季節の変化や、それに伴う心や体の変化、腰を据える感覚とか、楽しむ姿勢とか、丁寧な生活とか。

そういう、目には見えないものを捕まえる目が閉じてしまうような時に、焦燥のようなものを感じるし、そういう焦りがまたいろいろな歯車を狂わせる。

そういう時、いままでの自分は環境を変えようとしたり、習慣に変化を加えたりしながら、やたらと楔をうつことに執着していたように思う。

でも最近、そういう時にも感覚的なアンテナはしっかりと立っていて、なにかに追われながらも意識とは別のところで、身体のゆがみを自然に補正するかのように、内側から働きかけていて、そのちゃんと働きは自分の中に沈殿している実感があって、

例えるなら、なにかに追われていると、心の中のコップのようなものが、蓋をされてしまうような気がして、その蓋を取り除かねばならないと焦っていたのだけど、でもよくよくみたら、蓋なんかなくて、コップのほうを向いてなくても、ちゃんとこの瞬間にも水は注いできていると思えるようになったということ。

この変化はとても大きな安定につながる。

その安心が物理的に負荷の少ない時の心の柔らかさを、負荷がかかった状態でも保てる一つの要因になる。

*

そしてやっぱりロックはやさしい。

臭いものに蓋をしない姿勢を教えてくれる。

さらけだす姿勢は、さらけだされた人を包み込む姿勢だ。

*

昔、船乗りは帰る場所があるからこそどこまでも遠くにいくことができるという言葉を聞いたことがある。

その言葉の意味が実感として、40を手前に少しお腹に落ちてきた気がする。帰る場所っていうのはどんなものでもいい、それが物理的な場所や、つながりの場合もあるし、抽象的な目的や理由でもいい。

旅にでようと思うとき、やはりゴールはここではないどこかではなくて、あくまでゴールは最初に一歩を踏み出したこの場所であるのだと思う。

いつだって旅人はスタートがゴールなんだ。
そう思えた時に、また一人旅にでたくなった。

*

泣き止まない子がいたり、へそを曲げる子がいたり、大人には理解できない理由で取り乱す子がいる時、
その子が求めているのは、慰めじゃなくて、受け止めてほしいだけなのだ。
そのまんまの肯定なんだと思う。

そのまんまを受け止める心がどれだけの人を救えるか。

*

戦える体になりたい。
それは物理的に。

いまの自分は戦える体じゃない。

戦にでたらすぐにへばって、取り囲まれて斬られる。

だからまず戦える体になりたいと思った。

なにと戦うかとか、敵はどこにいるのかとか、
そんなことはわかんないけど。

今わかっているのは、いま自分は戦える体をしていないということだ。

*

例えばはじめてクロールを覚えて、25メートルを泳ぎ切れたときのクロールと、
海で泳ぎ始めて、遠泳をしたあとのクロールは、同じクロールでも別物で。

力の入れ方も息継ぎの仕方も、心の持ちようも違う。

自分のクロールもだいぶ変わったのだと思う。
でもクロールはクロールなんだ。

*

ぐるっと回って同じところに立ってるような気がしても、それは同じところではなくて。
それは物理的な問題ではなく、そこに立つ自分の感覚と視点の問題。

*

"らしさ"みたいなものは単色をではなくグラデーション。

*

波風立てづに、長生きしたいと思うようになったけど、でも何かを守るために刺し違える覚悟は忘れまい。




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Title: うんたらかんたら。
2017.08.21

あまくない。

あまくないあまくない。なにもかもあまくなんかない。

甘いと思ってもそれは甘くない。

月火水木金土日。

あまくない。

*

放射能がうんたらかんたら、右傾化してるなんたらかんたら、左傾化してるうんたらかんたら、煙草をすったら肺がんになるうんたらかんたら。しじゅうになったら顔に責任をもてうんたらかんたら。

結局のところどうどうめぐって正解はない。

どうでもいいってのはいい加減なことなんだろか。

あるがままありのまま、自分らしくなんて幻想。

自分の身を置く場所でうんたらかんたらはあちこちから降ってきて、

うんたらかんたらいいながら、自分もうんたらかんたら生きていく。

右に左に、上に下に、ふわふわと。

この一歩をしっかり踏みしめてるつもりで、その一歩に自分をしっかりもって流されない自分だなんて思いこみたいのもまた、ただのうんたらかんたら。

柳のようにふわふわとうんたらかんたらに流されて、最後には栄養吸わなくなって、朽ちてだけのうんたらかんたら。

どうでもいいっていってみる。

後ろ指さされてもどうでもよいといってみる。

ほんとはどうでもよくないけど、うんたらかんたらしがみつく。

そんなうんたら人生を、ありのままっていうのではなかんべ。

かっこいいは、かっこわるいの対義語じゃなかんべ。

*

成長ってのは経験が増えることで、経験なんてものは生きてるだけで嫌でも増える。
成長してないなんてことはありえなくて、息してうんこしてるだけでも、1日1日は経験だ。
長く生きるだけでそりゃ経験だ。

どうやったら成長するとか、成長するためにはフットワーク軽くだとか、成長するためにうんたらかんたらいうけれど。

そもそも成長っていうのは、得るだけじゃない、捨てることも失うことも含まれてて、ここでじっと座って、息してるだけで、いろんなこと経験しつつ、いろんなもの捨てながら、失いながら生きてるんだ。

頭じゃなくて、理屈じゃなくて、体感の中に。

んで、

おもうに、やはり、最後はなにか確固たる大人になるのではなくて、
ふわっとなんでもいいような人間になっていけたらいいなと。

結局のとこ、あらがおうともあらがわずともなるようにしかならんのだ。









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Title: 右とか左とか。
2017.08.08

5年前に書いた文章を読み直してみて、時間が流れていろいろなことを経験して、自分は変わったようでも結局根底に流れてるものは変わらないのだということを自覚させられる。

*
 
ある記事で、戦争経験者の老人がこう言っていた。
 
サイパンに新婚旅行にいったカップルが旧日本軍の戦車の残骸に腰掛けて、顔で写真をとったりしているのをみて、
 
左翼の人間は、この残骸は本当におろかな行為の証だなとかいうかもしれない、右翼の人間は、日本国軍人たちが命をかけて散っていた場所で、戦車にに腰掛けて、笑顔で写真をとるとはどういうことだ。と憤慨するかもしれない。
 
でも、私の仲間達、旧日本国軍人が守りたかったのは、日本国民の笑顔だったのです。だからきっと仲間達は新婚旅行でサイパンに来ることができて、笑顔で写真がとれるくらいに平和になった日本を嬉しく思っているんじゃないでしょうか。
 
そしてこの方は、ある時靖国神社で夜になると若者が境内で宴会をはじめるということが目に余るようになって、夜間閉鎖を検討されたときに一人で断固反対したそうだ。
 
そして、若者が笑顔で酒を飲めるなんてすばらしいことじゃないか。
きっとここにいる仲間達も笑顔でそれを眺めているよといったそうだ。
 
なんかこの記事を読んで、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうし、この話もあくまで断片的、側面的なエピソードなのだろうし、すべての戦争経験者の方がこういう受け止め方をできるわけではないのはわかっている。

でも自分は単純だからこういう想いを持ってくれている人が一人でもいるということは嬉しいし、だからこそその想いにいい意味で甘えずに答えなきゃいけないのだろうと思ってしまう。
 
世の中ほんとにこれでいいのだろうか、この方向でいいのだろうかとかなにか息苦しさを感じたり、戸惑ってしまうことだらけだけど、でもそれでもたまにこういう話を聞いて自分の中で足下を確認する。
 
いいとか悪いとか正解とか不正解とかそういうのじゃなくて、自分がどこに進みたいかということを考えた時に、立ち返れる場所としてこの足元をしっかり確認する。
 
これは右とか左とかイデオロギーとかではなく、もっとシンプルな想いの話なのだ。

* 

そのシンプルな想いはすべての根底に流れている。深いところから湧いてくるシンプルな想いには優劣も善し悪しも正解も不正解もないという気持ちはいまも5年前も同じだ。

その上でいま思うのは、それぞれの想いの違いには好きも嫌いもあるし、共感できることもできないこともあるけど、それぞれがそれぞれの背景の中に生み出した答えを統一することなんてできないし、いつだって自分の正解だけが正しいと思いこまない姿勢でいたいということと、どんなに自分と違う考えだとしてもそれは自分と同じ人間が生み出したものであるという現実に目を背けないことだ。

さて夏も折り返し。か。



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Title: N
2017.08.07

脳に血が流れている感覚。この感覚を意識的にでも忘れないように、習慣の中に残しておかなければいけない。
日常の中にこの時間を作り出せるということは、やはりそこには余裕であったり余力とよばれるものがないと難しいのかもしれない。
だからこそ力の分配を意識的に。

自分にとって大事なのは、真っ白な画面に向かって言葉を紡ぐこと。

なにもでてこず、なにも書けず、書き直しては消し、書いてはその言葉がどう見えるのだろうかというところにつかまって、やはり書き直しては消す。そのうちに言葉は自分の中にあるものとかけ離れて言って、何のために続けるのか目的を失う。

自分の中にあるものがこそげ落とされて、頭の中に血が巡って、書き終わった後のリセットされたようなすっきりした感覚、なんとかしぼりだして言葉を書き始めたら、少しずつ生み出した言葉があたらしい言葉をひっぱってきて、思考に指の動きがついてこなくなる感覚。

その積み重ねが自分の中にもたらすものはなんなのか、その効果をはっきりと言葉にするのは難しいのだけど、離れれば離れるほどに、その行為があらゆる場面で自分の中の潤滑油のような役割を果たしていることに気づかされる。何のためにといわれれば、自分のためとしか言いようがない。

足元を確認。

*

自分がここにいることを誰も知らない時間が昔よりも少なくなったこと。

自分がここにいることをどこのだれもが予想もできないような場所というのは、例えばそれはそこで大きな災害などにあったとして、自分を知る人がどんなに考えてもその場所を想像もできない場所にいるということで、それは旅でもあったりするし、旅でなくても、思い付きで入った雑居ビルの踊り場であったりもするし、それはつまりは思い付きでだれにも言わずに行動した日常から見たら突拍子もないイレギュラーな時間ということなのかもしれない。

その時間のなにが大切なのかそれもはっきりと言葉にするのは難しいのだけど、その時間の中に身をおくときに、自分の中にあるなにかがこそげ落とされて、少しづつリセットされていくような気持ちになる。それはつまりその時間の中のある種の責任を放棄するような後ろめたさの中にある背徳的な心地よさを求めているのかもしれない。

*

感覚に何かを任せようと思うとき、それは自分の感覚に対する自信が必要であるし、その感覚を信じられるようになるためには、多くの失敗をしたうえでの傾向と対策と、なによりもその一つ一つを自分の中に蓄積しようという意思が必要。







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Title: なつお
2017.07.05

湿気を含んだまとわりつくような熱気。

台風の夜のにおい。

お風呂上りにあたる扇風機の風。

ハッカの香り。

空の色、雲の形。

蝉の声。

夕焼け空。

赤提灯から赤提灯へ移動する時のけだるさ。

そのすべてが自分の中に流れ込んできて、身体の芯をゆるりとほどく。
夏には清濁あわせもってそのすべてを飲み込むくらいの力がある。

今年も夏が来る。

今年はどんな夏になるんだろうか。

ナツナツナツナツココナッツ。




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Title: 旺
2017.06.29

孤独は身体を蝕むし、それは時に人を殺しもする。

孤独とはなにを指すのかといえば、結局は清濁あわせもって、匂いまでも香るような距離感での継続した人間関係の欠如ということなんだと思う。それはつまりは、その関係を持続するうえで必要なお互いの許容とか、寛容への欠如といってもいいのかもしれない。

寛容の欠如は慢性的な自己承認の欠如を生む。

他者からの承認というのは人が生きる上で根幹にもなりうるもので、それが慢性的に不足している中で、その欠乏感を埋めようとしたときに、いまは簡単に他者とつながれるツールがあふれているけど、そこでその穴を埋めようとすることは、結局のところ海水でのどの渇きをいやそうとするようなものなのかもしれない。

手を伸ばすほどに、心は渇いていくかのように。

この焦燥はどこからくるものなのか。

自己に抱える問題の根源は、社会や世間という価値観の中から生まれてくるものではなく、あくまで自己の内面から、人間の内側の中から染みだしてくるようなものであり、その染みのような、影のような淀みを解決するには、まずはその現実を、耐え難く目を背けたくなるような現実を、ありのままに自分自身が寛容しなければならない。

寛容は理解とは違う、それは理解するかしないかは別としてその現実を腹の中に置いておくということだ。迷いながらも共存して、同居することだ。

その共存の中にこそ、今には見えないなにかが差し込むのではないだろうか。




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Title: 333,
2017.06.06

書きたいことがあったのだと、いざ白紙の紙の前に座ると、頭の中であれもこれもと、
ごてついた言葉達がぶつかりあって将棋倒しのようになる。

集中というのは意識すればするほどに難しい。集中とは力むこととは正反対にあるとはわかっていても、
気づけば身体のどこかに大なり小なりのこわばりはあるわけで、
まずはその小さなこわばりの一つ一つに心を寄せて、
こわばるのもしかたないと、自分自身への許容からはじめるのがいいのかもしれないと思うようになった。

0と1の間にあるものは、人から見たら些細な境目かもしれないけど、
こればっかりは0,1を何度も繰り返し経験しないとその隔たりの大きさと苦しみはわからない。

*

味わうということも同じなんだろう。

味わうということはいわば脱力だ。
味わいというものが自分の中に入り込んでくる余地をあけるということだ。
味わいとは、意識して生まれるものでなく、本来からそこにあるものに気づくということで、
味わうということは、能動的に行われる行為ではなく、どこまでも受動的であるということ。
味わうということは、アンテナを合わせることではなくて、アンテナにはいってきた電波に耳を澄ますということ。






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Title: 人
2017.05.08

備忘の為に。

人を想う気持ちの中には、自己肯定や、コンプレックスの裏返しや、孤独感や、様々なネガティブな感情が根底に流れていて、普段それは流れの底のほうで静かに流れているのだけど、ひとたび流れがバランスを失うと、そのネガティブな流れに一気に飲み込まれてしまう。その切っ先はとても鋭く、ときに相手を、自分を、他人に向かう、その切っ先がだれかにささっても痛みを感じることができないくらいに根底にある流れは強い。

「なにか」で自分の''穴''を埋めるとき、その「なにか」がなくなったときにはそこにはまだぽっかり穴があいていることを忘れてはいけない。その穴をあけたものはなんなのか、どうすればそれを埋めることができるのか、それは誰かや、何かで埋められるべき類のものなのかどうかも自問しなければならない。

心はころころと変わり続ける、それは不条理な真実かもしれない、それを言葉や事実や、一つの形ある事象で固めとろうとしても、それはその瞬間に幻想的なものにしかならない。

自分というものがあるとしたら、その自分というものは、自分以外のそういう流れの結果浮かび上がってくる三角州のようなものなのかもしれない。それはむしろ四角洲かもしれないし、二角洲にだってなりえるし、ときに跡形もなくなるのかもしれない。

いくら自分で足場を確保したくともそうは問屋がおろさんと。

そして一番強いのは、やはりたくさんのものを持っている人ではなく、何も持っていない人なんだろうなということ。








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Title: ふと。
2017.05.08

今年の連休は、ぽつぽつと仕事をこなしながらも、
長い休みの中でゆっくりと生活をすることができた。

久しぶりに生活することを楽しむことができたようにおもう。

朝のんびりと起きて、朝ご飯をつくったり、買い物にいったり、こまごまと掃除をしたり、なかなか手を付けることができなかった模様替えをしたり、午後には晩御飯の献立を考えながら仕込みをしたり。

当たり前のようだけど、生活するってことを疎かにしていたなということを感じて、そのひとつひとつに心を寄せながら過ごしてみると、ここ数年の自分の手の中には、抱えきれないくらいの '' 雑多なこと '' であふれていたのだなということに気づかされた。

本末転倒とはまさにこのことで、生活を豊かなものにするためにあれやこれや、自分の人生を彩るためのあれやこれや、そういうものをたくさん抱えていくうちに気づけばその自重でつぶれるみたいに、あちこちにひずみが来ていたのかもなと。

脱力こそが難しい。

フラットな心でいるときこそが色々なことを生み出せるのに、生み出せば生み出すほどに、心はフラットから遠ざかる。
遠ざかって、慢心しては、また振り出しへ、その繰り返し、繰り返しなのだけど、3歩進んで2歩戻るってなもんだと信じて、少しは前に出てるんだって言い聞かす。

べつにべつにべつにってな。







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Title: ぷちっとな。
2017.04.19

ぐるぐるまわって堂々巡りしながらも少しづつ前へ、ぷちっとな。

自分にできることの再確認、あれこれ欲張るのではなく、武器をより磨くのだ。
何度も剣を振ってみて、つかんだようで、振り出しで、
あれやこれや悩んで、体や心のバランスがちぐはぐでも、
あれやこれや横やりがはいって、世界中で自分が一人だけだと感じても、
座り込んで剣を落としても、もうこんなものを振り上げたくもないと感じても、

それでもまた落ちてるこいつをもちあげて、何事もなかったかのように、
重さを確かめながら、少しづつ振り上げるしかない。

いや、本当は振り上げることは喜びなのだ。

心はいつだって流転する、喜びは疑心を生み、疑心は不信を生む。
それは自分自身に対する不信。

その不信は、一瞬で自分を飲み込んで、いつしか喜びは恐怖であったと、
そんな錯覚につかまることもある。
それでもそのトンネルの中で手の中にあるものの重みをしっかりと感じながら進むしかない。

*
自分にしか見えない視点を獲得したい。

この視点でみた世界を、こんな世界もあるだと、自信をもって伝えたい。
その視点を維持するということは簡単なことではない。
その視点から離れるときに、自分は焦燥するし、恐怖を感じるし、
自分の立戻し方がわからなくて、ずぶずぶとなにかに飲み込まれて、足元から消化されていくような怖さを感じながら、必死でなにかにつかまろうとする。

*

それは無意識に手にした谷川俊太郎の言葉かもしれない、耳の中からでてきた砂の感触を感じたときかもしれない、もぐらの穴をみつけたときかもしれない。

0が1につながったときかもしれない。

ほしい答えはいつだって目の前に落ちているのに、それを曇らせているのは、この脳みそ一つ。

*

感性の目線を曇らせるものは、社会の中で生きていくときに必要なものなのかもしれない。
子どもに戻ることはできないし、大人で生きることしかできないけど、
でも子どもの目線を維持するために、大人に必要ななにかを失うのであれば、
それはもう取りこぼすべくして取りこぼしていくのだと、
覚悟を決めて腹をきめるのだ。

その目線は、きっと根幹で生きることに、そして念ずることに必ず結びついている。

*

味わいながら生きるとき、必要なものは意識や集中ではない。
まず自分を0にすることだ。

味わうとは、脱力だ、力まず、計らず、この今を。

*








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Title: みそっかす。
2017.04.06

こころころころころがって、ぬけてははまり、はまってはぬけて、良縁悪縁紙一重。

一見した良いことが自分にもたらす影響が必ずしもいいことだとは限らず、
一見した悪いことが自分にもたらす影響が必ずしも悪いことだとは限らず、

目の前に事実にひとつひとつ心を対応させていくことでできあがっていくものが自分自身の色になっていくのだと。

個性は単色ではなく、幾重にも塗り重ねられた、混ざり合った混合色

よきにわるきに、自分に自分以上のことはできない。
足元を確認。

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Title: 叙情的な対となるどんぶりと自己。
2017.02.28

小気味のいい湯切りの音に耳を澄ます。
単調でいて心地よいそのリズムに耳を澄ませていると、
それがまるで催眠術かのようにここではないどこかに誘われる。

それが味噌なのか、塩なのか、醤油なのか。またはそのどこにも属さないものなのか。
そんなことを考えるということはもはやここでは意味をもなさない。

それが" 何 "であるのか?
その問いに対する答えはどこかに存在するのだろうか。

目の前におかれた器の中から立ち上る湯気の向こうの景色がまるで蜃気楼のように揺らぐ。
湯切りをしていた男は、六十前後の小柄だが骨太な体躯をしていて決して人を寄せ付けないような雰囲気を漂わせている。

何が現実でなにが現実ではないのか、うつろとする意識の中で箸を割る。
乾いた音が店内にこだまする。

オアシスに飛び込むかのようにスープをすすりあげるとおもむろに麺を持ち上げた。
麺の上をスープが滴る。
その一滴が器の中に波紋をつくる。

その波紋が静けさとなって広がっていく。
昼下がりにラフマニノフを聞いているかのような涵養にただ身をゆだねる。

今、どんぶりと自分を隔てているものは何もない。
いやむしろその隔たりをつくっていたものはいつだって僕自身だったのかもしれない。

" こちら "と" あちら "の境界はいつだって突然に曖昧になる。

時折その感覚に頭の先から落ちそうになる、それは概念的にというだけではなく、
事実感覚的に落下していたのかもしれない。

やれやれ、何が言いたいかって、

そう、今無性に天一が食べたいんだ。

そして最近「騎士団長殺し」をどっぷり読んでいるということだ。

はい頭の体操終わり、仕事仕事。





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Title: みち。
2017.02.16

デッサンを始めた方が、はじめは3次元の物体を2次元にするってことがどうしても理解できなくて、2次元の動きだけで3次元のものを表現することに一種の混乱のような状態だったのだけど、

ずっと続けていくうちに、ふとその上下だけの動きの中に、物質をとらえる感触が分かってきて、奥行や、丸みや、光など、そういうものを上手に2次元に捕まえられるようになった瞬間があったという、
 
そうなるとデッサンはおもしろくなってきて、目に見えたものをついつい書いてしまうと話を、さらにデッサンの経験のある先生に話したそうだ、
 
すると先生は、それはまだまだ第一段階かもしれない、目に見えたものの形を上手にとらえられるようになると、見たまんまにかけてるようだけど、ある時それがなにか作り物の張りぼてを書いてるような感覚に陥るときがあって、
 
例えば自分のデッサンしたキャンバスの中の胸像を持ち上げたら、とても軽いんだろうなって、見た目は同じだけどなんていうか中身が違うんだよね、その違和感を払しょくするのにずいぶん時間がかかって、それをつかむには、またひたすら書くしかないねっていって笑ったそうだ。
 
そんな話をきいて、それはきっとどんなことをしてても通じる感覚なのだろうなと思った。
 
「話す」ということにも通じてくるし「つくる」「書く」「描く」「食べる」「けん玉をする」でも「焚火をする」でも「料理をする」でもなんでも、動詞で表現できることにはすべてに当てはまるのかもしれない。
 
同じように見えてもなぜか質感や重みが全然違う、つまりは「中身」が違う。その「なぜか」の答えは全部同じところからくるのだと思う。
 
それがなんなのかおぼろげながら見えてきた気がする今日この頃、とにかくやる気があろうとなかろうと"続ける"ということで得られる体感、感覚は、理屈や理論を超えていて、そういう感覚を一つでも多く増やしていきたいものだと思う。
 
本当に大事な、肝みたいな、極意みたいな、核心のようなものは、大抵目にはみえない、言葉や文字では表現しきれない小さな粒みたいなものの積み重ねの先しかわからない。
 
そしてなによりも続けるためには、それを好きになるしかない。なのだろうな。


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Title: としをとるということ。
2016.12.16

年寄りはいたわらなければいけない。

その意味に少し血が通ったような気がする。

本当に人生にはいろいろなことが起きる。
いいことも悪いことも。

1年1年と過ごす時間に比例して、
一つまた一つと、悲しみや喜びが自分の中に積もり積もる。

その中で、喜びは蒸発してしまうような類で、
自分の中に澱のように残ることは少なく、
心に沈殿することの多くは悲しみや苦しみであることが多い。

長く生きるということは、
そんな多くの不可抗力な悲しみにであわねばならず、
そこで打ちのめされなければならないということだ。

そして打ちのめされた自分の心の矛先をおさめるための経験を積んだり、
立て直す術を身につけざるを得なかったということだ。

長く生きるということは、つまりはそうして、いやがおうにも
自分自身と向き合わねばならない時間をたくさん積み上げてきたということで、

なによりもその一つ一つの戦果に敬意を払い、
いうなればその満身創痍の中で生き抜いてきた人生の重みに想いを馳せる中から湧いてくる心を
「敬意」と読んでもいいし「いたわり」と読んでもいいのかもしれない。

その経験が知恵が役に立つかどうかが問題なのではなく、
その経験と知恵を積んできたその生き様と、
いずれ自分もそうして一人の人間として満身創痍になって生きぬいていかなければならない宿命に、
自然と頭がたれる心を持つということは、

だれかやなにかのためにではなく、
何よりも自分自身の心に一本芯を通すためにとても大切で必要なものなのかもしれない。

だから「いたわる」ということは、
年老いてできることの少なくなったお年寄りを、
まだいろいろなことができる若者が、
ただたんにサポートをするという意味だけではないのだなと。

いまさらながらで遅すぎる気づきだったのかもしれないけど、
自分にとってはとても大きな気づきだったように思う。



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Title: いと。
2016.12.14

あたりまえのことを、まるではじめて聞いたかのように、はじめてみたかのように見て、感じて、話す。この繰り返しと習慣が、結局のところ一番大事な部分をつくっていくような気がしてる今日この頃です。
 
それが法話でも、幼児教育でも、人間関係でも、遊びでも。
 
今年もあと少し。平穏無事に終わりますように。


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Title: かりゆ。
2016.11.10

意識的に向き合って蓄積した経験値と、
意識をしないでも自然に蓄積してしまう経験値とを比べたら、
後者のほうがはるかに高い経験値。

今自分の身を置く場所でなにが蓄積できるのかということは、
それはすでに意識を越えて無意識にも広がっていて、
自然とそこで蓄積されたものが自分自身をつくるのだなと。

喜んでやろうが、嫌々やろうが、気持ちの持ちようなんてものは些末なもんじゃなかろうか。




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Title: 線香花火。
2016.11.10

青臭いということに対してある種の執着みたいなものがある。

青臭くいることは恰好のいいことだと思っている。

同じように泥臭くあることにも同じような感情を抱いている。

逆に腕を組んで、すかした目をして大人ぶることになにか抵抗感を持っている。

自分の行動の根っこにあるものはこの価値観なのだと思う。

自分の中の格好いいルールが、だれかの格好いいルールではないこともよくわかってる。

でも自分の中の格好いいルールのもつ縛りはとても大きいものだ。

それでも年を重ねるごとに、青臭く、泥臭くいることに費やすエネルギーの消費量に慄いたりもする。

そして現実とのギャップみたいな、現実とのズレのようなものにやきもきしたりもする。

どこかにあるゴールを目指してなにかを積み上げるのではなく、

なにかを積み上げた先にある場所をゴールとしたい。

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Title: あたまの整理。
2016.10.24

ratoonをはじめて半年たって気づかされたこと。頭の整理。

子どもにとって「自由」というものはとても難易度の高いものであるということ、
その難易度をあげてしまっているのが「評価」であるということ。

ratoonにきた子ども達をみていて、さあ自由に好きなことをしていいよ、というと、
大抵の子は、自分の知っているもの、得意なものを手に取って挑戦をする。

それを突き詰めていえば、はじめて挑戦してもそこそこできそうなもの、
過去にいい評価を受けたことのあるものという分類ができる。

それでもはじめてみるものや、見たことがないものへの好奇心は隠しきれず、
そこから湧いてくる挑戦したい想いと同時に、
うまくできないこと、評価されないかもしれないことへの怖さみたいなものを
意識的にも、無意識的にも天秤にかけているように見える。

子どもはいつだって自由かというとそんなことはない、
子どもほど周りからの評価をきにして、
自分の分限の幅を空気の中から読み取ろうとしている、
そしてなによりも周りからの期待に一生懸命答えようとしている。

その天秤のバランスをとりながら、少しづつ好奇心の扉を開いているように見える。

そのペースは大人の思うよりもとてもゆっくりで、
その扉を大人が無理にこじ開けないようにしたい、
ゆっくりと扉を押していくペースを考えなければならない。

ratoonにきた子がはじめに口にする、
これ自分でやっていいの?うまくできないかもしれないよ?子どもがつかっていいの?という言葉。
その言葉はそのまま子どもたちの生活や置かれている状況の写し鏡なんだろうと思う。

どんなこともトライアンドエラーを繰り返して、物事は深度を深めていくことができる。
その中で想像を膨らませ、創造を楽しむことができる。

失敗してもいいんだよと大人はいうが、
子どもが安心して失敗できる環境をどれだけ整えられているのだろうか、
無意識的にも成功ばかりを評価しているのではないだろうか、
大人が率先して失敗し、トライアンドエラーをする姿勢をみせていられるだろうか。

ratoonを始めるときに、子どもたちが自由に好きなことをできる場所にしたい、
そこで想像や創造にあふれる環境をつくりたいと思った。

しかしはじめてみて、まずでばなで気づかされたのは、
いかにその環境を自分たちが奪っていたかということ。

子どもの行動は本当に写し鏡だと思う。
良くも悪くも、まったくもって写し鏡だ。

子どものすることを、子どものせいにするのではなく、
その原因を自分の中にみつけられるかどうかということが、
この仕事の面白いところで、醍醐味なんだと思う。

まずは一つづつ。

安心してトライアンドエラーすることで、やっていいことの分限をひろげ、
その経験をつながりの中で共有できる場所づくりをしていきたい。

環境をつくるということはとても難しい。

難しいというと十把一絡げだけど、どんな場面でも「いい環境」というものに定義があった時に、そこには物質的な割合よりも、そこを作る目に見えない要素、言葉や姿勢、想いや願いのベクトルの占める割合が大きくなっていなければいけないのだということを実践をもって感じる今日この頃です。

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Title: おかず。
2016.10.20

浮いては沈み沈んでは浮く。

さよならバスよ。

後ろ髪を握りしめていたはずなのに、夏は振り返りもせずに去っていく。
そのいけずな感じがいつだって自分の心をひきつけてやまないのだけど。

淀川長治さんのことをふと思い出して動画をみた。
朴訥としながらもとてもテンポが良くて、なによりもほとばしる映画への想いがあふれていて、
言葉の前に、想いが先に届くようなその言葉のひとつひとつが心にしみた。

自分がどういう話し方ができるようになりたいかといえば、
やはりこういう話し方ができるような人になりたい。

映画を本当に楽しんでるからでてくる言葉。
人間にすごく興味があることが伝わってくるような言葉。

*

ひとつの言葉で喧嘩して、ひとつの言葉で仲なおり、ひとつの言葉に泣かされて、ひとつの言葉であやまった。
ひとつの言葉はそれぞれに、ひとつの心を持っている。




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Title: ぶっとん。
2016.09.20

休日の昼下がりに窓をあけ
少し涼しくなった風を感じながら布団に転がる。
遠くで夏の終わりを告げるお囃子の音がする。
それを聞きながら目を閉じる。

夏の終わりには、いつも残念な気持ちになるのだけど、
今年は季節が変わっていくことに寂しさはあまり感じない。

それがなぜなのか深く考えたら、
きっとそこに答えをあてはめることができるのだろうけど、
そんなことをしなくても、なにかこの感覚が腑に落ちていて、

それはいうなれば、変わっていくことへの白旗。
でもその白旗は敗北ではなくて、降参。

変わりゆくものと仲良くしていこうということを
身体と心が受け入れ始めているのかもしれない。

ある時に過去と今がプツリと切れた気がして、
その感覚が「今」をとても客観視させてくれている。

線に見えて、点。

無数の点。

*

夜中に目が覚めて、なにか得も言われぬ孤独感に襲われて、
それをじっくりと味わっていて感じたこと。

人は、つながりの中に生きている。

肩書を何て呼ぶかはさまざまで、
それは時に、家族・友人・恋人、
仕事仲間、近所の人と呼ばれるもので、
それはときにしがらみとも言い方を変えるもの。

その、つながりの中に、一喜一憂して、
得たり、失ったり、
喜んだり、傷ついたりする。

その一つ一つの経験の中で、
つながりに意味を持たせ、
価値を見出し、
そこにいる自分を肯定したり
否定したりしながらその結びつきは強くなっていく。

しかし、その結びつきが、
さらなる結びつきを生んで、
どんなに強固になろうとも、

一人の自分という存在は、
簡単に変化していくことの波にのまれていく。
どんなにつよく、
そのつながりに根を張り、
がんじがらめになっているようでも、

変わりゆく流れの中で簡単に根こそぎ流されていく。

3代前の家族のことを、
知ってるようでなにも知らない、
自分自身がいるように、

自分にとって特別な今日も、
特別な人も、
特別な出来事も、
想い出も、

なにげない日常の中にある、
ささやかで暖かい時間も、

砂浜の小さな砂粒のように、
海に消えていくもの。

不都合な真実のようだけど、

今日のがんばりも、
今日の怠慢も、

明日への希望も、
昨日の絶望も、

なにがどうなっても、大きな波にのまれて
大海に帰す。

その現実を真っ向からうけとめるには、
まだまだなにか真っ黒な得体のしれないものに、頭を突っ込むような怖さがあって、
それが時々首をもたげようとするんだろうなきっと。












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Title: いかろす。
2016.07.30

肌寒い夜がつづいていて、すぐそこに気配を感じつつも、なかなか会えない日々に鬱々としてたのだけど。
一通り、こなさなければならないイベントが終わって、泥のように眠ると、朝にはちゃんと夏がきていた。

寝苦しい夜と、けたたましい蝉の声に、文句をいいつつもそんな粋なタイミングに自然と心もほころぶ。

この2ヶ月、多少の不都合や不具合に立ち止まる余裕もなく、勢いのままに一気に駆け抜けてきたけど、
ここで少し立ち止まって足跡をじっくり見直ししつつ、一年の熱量を充電しようと思う。

書くことから意識的にも、無意識的にも遠ざかっていたのだけど、こうして文字にして、クールダウンしながら心を定着させていく作業を再開していかなければならないなということを実感している。

頭にあるものを記録として書き始めるのではなく、白紙の画面に文字を書くことで、頭の中になにがあるのかを確認するような作業。

*

「信頼」というものに対する意識。

信頼や信用を得ようと思ってアクションを起こして、それを勝ち得たとしても、結果、信頼も信用も水物で、その流れで得られるものは、その時、その瞬間のその誰かの求めるものにそぐうかどうかとう事実に過ぎない。

人はつねに変わり続ける、脳は刺激を受け続け、この瞬間も何か新しいものになろうとしている、でも社会の中で生きるということの多くは、変化をすることで失わなければならないことを抱えるということで、その新しいものになろうとする大きな変化を認めてしまうことで、社会性はなりたたなくなる。

つねにそのジレンマの中で、絶妙なバランスをとりながら、そこにできるだけ自分自身への傷跡の少ない大義名分をみつけながら、小さな変化で自己肯定をして、刻一刻と、この寿命を消費して生きていくしかないというこの現実を大前提として、

いままでほしかった信頼や信用というものは、「小さな変化で自己肯定」を得るための材料のようなもので、これから得たいものは大きなジレンマの中で自分の生き方を定めていくという類のことなのだと思う。

それは例えば、動いている時計に、手巻きで時間をぴったり合わせることができることが前者であるなら、
後者は、手巻きで時間を合わせなくとも、自分の今の時間は、どこかのだれかにとってはきっとぴったり同時刻だったりするのだと思えるようになったということで、それは結果だれにも合わせていないのだけど、その誰にも合わせないことで得られるものの中で、できることをしていこうと思うようになったということ。

その誤差が、数分くらいから数十分、数時間の単位で大きくなれるような経験ができる場に自分を置いておきたい。

*

そこに付随して、

現場感というものを大事にして生きたい。

理論と理屈、体系づけた考え方というものは絶対的に必要だと思う、俯瞰的な視点はそのためだけに自分を磨いていなければできないものだし、その視点が現場にもたらす影響は大きい。

一方で現場には、俯瞰的な理論や、理屈、体系づけの中では表現しきれない「感情」というものがある。

その両輪をうまくかみ合わせることというのは、経営にとっても、もっといえば、遊ぶことにも、家族をつくることでも、人間関係を構築するすべての場面において大事なことだし、どちらかに優劣をつけるようなものでもない。

優劣をつけるものではないからこそ、いまここで自分にできることはなにか、自分の得意なほうはどちらか、どうしたらその両方を扱うことがもっとうまくなることができるだろうかということを考えていたいし、欠けてる部分を補うための引き出しを少しでも増やしておきたいと思う。

どちらかといえば、自分は現場で感情を扱うほうが好きだ。
得意か不得意かという話ではなく、そこにある想いや、願いや、怒りや、悲しみや、そういう清濁を身近に感じることで、
大げさな言い方をすれば、自分が人間でいることにすごく安心感を得られるような気がしている。

人間臭く、泥臭く、という言葉を今まで何も考えずに使ってきたが、それはつまり自分が自分のまま肯定されるような安心感を得られるということなのかもしれないし、現場にはそういう要素がたくさん落ちているような気がしている。

その空気の中で、考え、言葉をつくっていけるような場所に身を置いておきたい。

*

そこに付随して、

使い古された言葉のようだけど、自分一人でできることの限界なんてものはたいしたことない。

だれかと何かをつくると、自分一人でできるものの何倍も大きなものができる。

何倍も大きなものができるからこそ、だれかを巻き込んでなにかを成すことは、自分一人やることの何倍も難しい、難しいというと抽象的だけど、そこに必要なものは、

共感する気持ち、
その共感を言葉にできること、
想いを具現化すること、
具現化されたものを可視化するときに、巻き込む人の数だけ細かい修正をいれなければならないこと、
歯車を回すための必要なエネルギーはなんなのか明確にすること、
歯車が軋んだ時にどこに問題があって、その対処に必要なものを用意できること。

あげはじめたらきりはないけど、そのどれにも共通しているのは、目に見えないものを形として、スキルとして磨かなければならないということなのだと思う。

それをスキルとして磨き続けて、その先に、「最後は技術じゃないよ、小手先のスキルでは人はついてこないよ」とか大御所っぽい言葉につながってくるのかもしれないけど、今の自分にそこまでの言葉は生み出せないから、すこしづつスキルとしての精度をあげていきたい。

ともあれ、それだけ難しいことだからこそ、得られる楽しさも、一人でできることよりも、何十倍も大きくなるのだと信じてる。

どこまでも楽しいことをしていたい。

*

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Title: くも。
2016.07.08
人は変われるのか変われないのか。ということを考えたときに、

人というくくりで考えるのであれば、変われる人はいるし、変われない人もいるということになるのだと思う。
その差は、現実をどううけとめるかという部分の違いなのだと思う。

一つのつらい出来事が起きた時に、その苦しみに対する対処をすることで終わってしまえば人は変われない、しかしながらその一つの出来事に対して感じる、苦の大きさは人それぞれで、それもまた単一化できるものではなく、誰かの「ささいなこと」で命を落とす人がいることも事実。

変わるということは、その苦の価値観自体、苦を変える構造自体を組み替えなければならない、それには苦への対処だけでなく、自分がなぜ苦を感じるのかというメカニズムにまで踏み込んでいけるかどうかがカギだし、そこを客観的に判断できるかどうかというところが一番難しい部分。

そこを客観的に判断するというのは、つまりは他社と自分の比較、自分の中のコンプレックスや至らぬ点を受け止めねばならないということになるし、それは往々にして自分自身すらも正しく見ることができない状態で凝り固まっている可能性が高いからだ。

苦への対処療法的な心の動きに加えた根治するためのアクション、ここのつなぎが変われるか、変われないかの大きな差になるのだと思う。

最近強く感じるのはその根底にるものは「自尊心」ではないかということ。
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Title: まっかな。
2016.06.06

絞りきるくらいに、数年分頭の中で熟成してたものを、一気にアウトプットをしたような気がしていて、きもちいいくらいに空っぽになったような気がしてる。

だしきってみたらみたで、それは想像を超えてかみ合ったりもして、または想像してたよりもうまく回らなかったりして、その誤差の修正にもいままでの貯金を取り崩してすっかりからっから。

立ち上げることの手際と瞬発力は経験すればうまくなるけど、継続させるための耐久力と持久力は経験だけではうまくならなくて、その理由は、世の中も人も常に変わりつづけるからで、その変化に無理な力をかけずに反応していけるかどうかは、刻一刻と変化していく自分にはどうにもならないものの、その流れにいかにぷかぷかとのれるかどうかで、そこに上手にのるために必要なものは、おそらく経験を詰めば詰むほど、その経験が邪魔になるような類のようなものなのだと思う。

経験で泳ぎはうまくなるけど、泳ぎがうまいだけじゃ海を泳ぎ切れないみたいに。

本当にからっぽかどうかは別として、一山越えてからっぽだなと感じるときのほうが実は身体も心も調子がよくて、その理由を考えてみるに、肺の中の空気を吐ききって初めて新鮮な空気が身体に満ちてくるかのようなものなのかもしれない。

しばらくはたらふくインプットしたい。

好きなものをたべて、のんで、読んで、聞いて、吐き出したくなるくらいに。









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Title: おじさけ。
2016.05.29

ふわふわ、わちゃわちゃしていた気持ちもすこしはないできた。

いろいろなことが一山越えて、やるこたやった、あとは野となれ山となれと。

できることは目の前のことに全力をだすことなのだけど、最近は全力をだせる環境を整えること、自分の心をべたっと落ち着かせて、アクセル踏んだらいつでもいけるぜと、その状態にいつも保っておくことにすごく気を遣うようになった。

*

ある瞬間、過去が急に過去になった。

例えば、小学校の思い出、中学や高校の思い出、たくさんの度の記憶や、いろいろな心にこびりついたこと。
それは過去なのだけど、その瞬間を迎えるまでの自分の中では、昔から途切れることなく、連なって今と一本線が繋がっていたのだけど、なぜかその線がプチッときれて、過去が急に過去になった気がして、

それがいいのか悪いのかはわからないのだけど、

その瞬間までのすべてが過去に思えた瞬間に、この瞬間から自分の章がかわったような、ここからまた積み上げていくような、ゲームで言えば一つの物語が終わって、続編にはいったような気持ちになったのだ。

それがなぜだかも、いいのか悪いのかもわからない。

いまはそのへんな感覚だけを味わってる。

でもいま書いていておもったのだけど、

過去は一つの執着だから、それが一つはなれたのかもしれないし、実はその線は切れたのではなく、自分のもっと奥底に溶け込んだのかもしれないし、

今から自分の考えること、つくるものは間違いなく過去の蓄積であるし、過去と未来は間違いなく繋がっているのだけど、それが必ずしも一つの線で繋がっていなければいけないことはないし、線という概念でいなければいけない理由もないと、そういうことなのかもしれない。

*

忘れてはいけないこと。

数字を追い求めることや、評価を追い求めることはとても大切なことで、仕事をするということはそういうことなのだけど。

仕事ばかりをしていると、どうやったら数字や評価がついてくるのかという方法論で頭がいっぱいになる。

でも本当はそういうものを追い求めた先にその答えがあるのではなく、本来はそんなことと結びつかないようなことを一つづつ丁寧に深めていった先にしかそれはない。

空とか、風とか、匂いとか、空気とか、

そういうものを感じる心を極めていく先にしか、自分にしかできないことはない。

結局は自分にしかできないものをしっかりと積み上げていくしかないなと。

*

書くことをおろそかにしてはいけないと、わかっているのに。

いままで積み上げてきたもののうえにあぐらをかいて、いいわけを見つけては書くことから逃げる。

いやむしろ、書きたいと思うことが少なくなってきたのかもしれない。

言葉の限界だなんて自己肯定をして逃げようとするけど。

心をもっと研ぎ澄ませて、なにかをびりびり、ひりひりと感じられる心が、少しづつ鈍ってきているのかもしれない。

それは守るもののせいでもあるし、自己防衛でもあるし、しがらみでもあるし、寿命によるものなのだけど。

もっといえば、どういきたいかという像が、変わったからなのかもしれない。


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Title: にわとりのたまご。
2016.04.17

腰を据える。一つづつに腰を据えてむかう。

人間の脳は、少しでもいいから動きはじめないと、やる気が起きないようにできてるそうだ。
最初の一皮、表面のぱりっとしたところを突き破れば、自然と前に進んでいく。

腰をすえて開き直る感覚。

それと、緊張を腹で楽しむこと。
打席に立ったのだ、せっかく立ったのならその一打席の舞台を楽しみたい。

楽しむってなにかといえば、きっと自分らしくバットをふれて、自分の好きなように振ったバットが人から少なからず認められることなのだろう。

そういうときに、脳には快楽物質がどばっとでて、それを覚えることで、少しづつ自分らしさという形のないものが明確になってくるのかもしれない。

うまくいくとき、うまくいかないとき、そのときの感覚、その違いを感じられるくらいには年をとれたということだろうか。

ほんの一瞬、ふとしたときに、自分の中のなにかが劇的にかわるということがある。はたからみたらまったくわからないようなことでも、自分にとっては劇的な変化がここ数年で2度あって、一つは話す速度がかわったこと、そしてもう一つは間の取り方にのりしろがでたということ、この2つだけは間違いなく自分の力で体得した武器であり、個性として確立できたと思っている。

そしていまここにきてもう一つその壁がぷちっといきそうなことがあって、それはまだ言葉にはうまくできないのだけど、腰を据える感覚と、そこから出てくる言葉の質、そして言葉というのは、内容や言葉尻よりも、その質をあげていくことが次のステップに昇るときに不可欠なものなんだろうと感じている。

そこに付随して、インプットもアウトプットも意識的してるうちは、それが結びつくときにまだ摩擦があって日常生活のすべてのなかに無意識にインプットアウトプットできてると、それが自然とどういう道理かわからないけど、摩擦なくむすびつくことがある。

そこに身を置いて、それを信じて勝負をするのは、いつ降るかわからない雨を待っているようなもので、きれいになにかが結びつくかわからなくて、不安になって、無理くりに何かと何かを固結びしてしまうこともまだ多々あるのだけど。

でも少しづつ、結ばずともそれが気づいたらきれいな蝶結びになるということと、そういうときに自分がどういう心持ちでいるのかとうことがおぼろげながらわかってきたきがする。

前に前に。


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Title: 潮目
2016.03.30

なにかを始めるときのスピード感は早ければいいわけでもないし、時間をかけすぎればいいってわけでもなく、ちょうどかみ合うスピード感がある。時に素早く、時にじっくり、刻々と変化する中で潮目を読むみたいに、それに乗るような感覚。

はまればどこにも力を入れずにすっと前に進むし、外れればもがいても沈むだけ。


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Title: すきるす。
2016.03.16

手放して、ふとあの頃のように身をゆだねるような、いたずらに笑えるような場所で、感じるままに、言葉を扱えるようになること。

*

理解の中から、知識の中から仏というものは決してみつからないのだろうな。

*

胃が弱っていて、スープばかりを飲んでいる。
 
スープという響きにはとても人間くさい優しさが含まれているように思う。
 
スープという響きの中には、色々な食材を煮込んでうまみを凝縮させた液体というリアルを越えて心に染みこむような温かさがある。
 
どこかでみた映画や絵本の一場面で、雪の中をさまよったり、森の中で途方にくれた誰かが、小さな山小屋に行き着いて、そこでたき火にかかった鍋の中にあるスープを、涙を流しながらがっつくというシーンを何度か見たことがあるような気がする。
 
その涙はスープのおいしさによってだけでてくるものではないような気がして、その涙の理由は、言葉では表しがたいスープを越えたスープの中にある何かによるものなのだと思う。
 
その何かは阿弥陀とて同じだと思うのだ。
 
本来は目にも見えない形すらもないアミターバ、アミターユスというものが、阿弥陀として形になっているということにとても人間くさい優しさを感じるのです。
 
スープと同じだとかいうと怒られるかもしれないけれど、一杯のスープに心が温まることと、阿弥陀の願いと言うことは一つの線の上で繋がっているのだと思う。
 
さてお彼岸。


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Title: THE T
2016.01.18

とっちらかったあれやこれ、一息ついてずらっとならべて、あっちゃこっちゃと組み替えて、なんども組み合わせては、あれやこれやとしっくりはまらず。

それなのに、ぽいってなげたそのピースがしっかりと「T」になったりもする。

あれやこれじゃない、目の前にあるもを丁寧に。深く。

The T

*

生きてるのは暇つぶし。生きてるのは趣味のようなもんだって。

霞を掴むようなものだそれは。


*

春を待つ、梅に旭の光浴び、歌舞いて開く法の花。なむなむ。


*

仕事で結果が出たときに、その結果を生み出したのは、自分の力ではない不可抗力の影響する割合がとても大きいのだと言うことを頭のどこかに刻んでおきたい。結果がでればでるほど。

その不可抗力の作用とうまくつきあっていける心持ちこそが、「働く」ということで学ぶべき一番楽しい髄みたいなものなのかもしれないと、最近つくづく感じるわけです。

*

カウント10を仰向けになりながら、両手両足広げて、ライトに目をしばたかせながら最後まできいて、耳の奥でかすかに聞こえる誰かに対する賞賛の音を聞きながら目を閉じたときに自分の中に湧いてくる感情が、喜びであり、楽しさであり、わくわくであってほしい、そういふものにわたしははなりたいと、じっと手を見る。

戦うやつのことを、戦わない奴らが笑うだろう。

ファイトってな。

*

深層心理の奥の方に、バスクリンの香りが、こびりついていて、

その香りが呼び起こすものは、それは自分がどこまでも子どもであって、だれかに守られていて、その安心感の中で、存分にその領域一杯まで手足を広げようとしていた頃の記憶と、湯船の暖かさに包まれている夢見心地な感覚で、その感覚にやわらかいところをぎゅっと捕まれた後に、とても哀愁にも似た気持ちが湧いてきて、それを全部ごちゃまぜにしたような香りなんだ、バスクリンの緑のにおいは。










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Title: 還。
2015.12.02

一つ必死で手放すたびに、自分が原点にもどっていくような感じ。

言葉や文章がやわらかくなる感じ。

結局の所そこに帰って行くのかと思う感じ。

わすれないようにしよう。


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Title: ぱんく。
2015.12.02

怒りに対する共感には意図が含まれることが多いように思う。でも悲しみという感情には怒りほど意図を持たなくても共感できるのかもしれない。なんてことを国旗の色に染められた顔写真を見ながら感じたのです。

それがある種の人間の脆さであり、弱さであり、どうしょうもない安心感でもあったりして、人間ってとてもシンプルなのにややこしいなと。

人間意識的にも無意識的にも「意図」あるものにさらされると疲弊するんだろうな。森の音や波のおと風の音にふと癒されるのはそこになんの意図もないからかもな。

*

「トイレをいつもきれいにつかってくれてありがとうございます」の張り紙をみるといつも思うのだけど「おしっこがこぼれているととても悲しい」のほうが心に訴えるものがあるのではないかと思う。

*

自信のなさとかコンプレックスからの動機付けで何かを成したなら、その評価内容はそもそも自分には必要のないものだったと意識しておかないと自分自身をさらに見失わせる。

*

欲張りと贅沢は違う。混同するとほんとの意味を見失うのは贅沢のほう。贅沢って最後は感性がないと生みだせないと思う。


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Title: やおん。
2015.12.02

たとえば、何か大きな事をしたいときに。

それを実現させるためのロジックを綿密に建て、仕事を細分化して、適材適所人材を集め、仕事をきれいに割り振る。ということは一見もっともにみえるけど、それだけでは3年以内にほころびがくる。

ほころびが来る理由は様々だけど、それのほとんどは、どんな仕事も人間のやることだからという一言で集約する事が多い。

ほころびながらも、それをそれを継続させていくために大事なことは、そのなにか大きな事がどんなにわくわくして魅力的で、楽しいことなのか、それを語り続ける漠然とした熱量が大事と言うことで。

なによりもその熱量を継続して生み出すということは難しかったりする。

そしてなにかをなすときに大きな壁になるのは、「飽き」というやつだ。飽きをやりすごすために自分の気持ちをどうもっていくのか、それは経験によってでしか、自分自身の説明書を厚くしていくことでしか得られないものなのかもしれない。

やりすごす技術。

これが巧みになるということはとてもだいじなことなのだなと。

つくづく思います。

それが無常をわたりあるくある種のコツみたいなもんで。



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Title: こころっと。
2015.12.02

ここ一番でやはり自分をひっぱりあげてくれるのはヒロトの声だったりするわけで。

15歳の時も、20歳の時も、35歳の今もこの声と言葉に救われるということが、まぎれもない自分自身の個性であるのだ。

むきだしほど、無防備で、もろくて、怖いものはないし、

むきだしほど、どうしょもなくて、始末に負えないものはないし、

でもむきだしほど優しいものはない。

こうして、あっちとこっちの境界線あたりにぐいっとひっぱり戻されるのだ。

あっちにいくと居心地が悪くて、こっちに座ってても居心地が悪いのだ。

居心地のいいところなんかどこにもないのかもしれない。

居心地は環境がつくるものではない、何度も何度も、刻むように何度も自分に刻んでいるのに。

それでもどこかに居心地を求めてのらりくらり。

ヘンゼルとグレーテルは口減らしに森に捨てられたんだ。










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Title: くま。
2015.11.17

とある小学生の宿題をみているときに、その男の子は宿題が一段落するたびに、横に置いてあるお菓子の箱を切り刻んで、四角いカードを作っていた。

はじめは集中力がきれたのかと思ってみていたのだけど、箱を切り終わると、周りで騒ぎ回る他の子供たちをものともせず、すごい集中力で宿題を進める。そしてまた一段落すると箱を切る。

何度もそれを繰り返すので、それなに作ってるの?って聞いたら

「これは宿題が一段落したら、がんばったご褒美にこれを切ってもいいって約束をしてるんだ」とその子は答えた。

なるほどと思いながら、それは誰と約束しているの?と聞くと、その子は一言、

「おれと」と答えた。

自分との約束。それを守るために集中して一枚ずつドリルをこなす彼を見てすごい格好いいなぁと。

そしてふとみるとそういうカードの束がたくさん鞄の中にはいっていて、このカードの数だけ彼は自分との約束を守ってきたのだとおもったらなんかとても響いた。

誰と約束してるの?

おれと。

ハードボイルドだなぁと。





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Title: アーモンド。
2015.11.17
先日、実家で久しぶりに焼かれたケーキをほおばりながら、ふと中村勘三郎さんが亡くなったときに、坂東三津五郎さんが「肉体の芸術ってつらいね。全てが消えたよう。本当に寂しい」と言っていたことを思い出した。
 
家庭の味というのは人に説明するのは難しいのだけど、それをつくる人の感覚とかタイミングとか配合とかからうまれた無二のオリジナル料理で、それは作り手がいなくなってしまうととても再現の難しい類の一品なのだと思う。
 
それが家庭料理であれ、歌舞伎であれ、料理人の作り出す一品であれ、芸術であれ、文学であれ、もっといえばアホなあいつとの会話であれ、そのすべては作り手が消えてしまうとどれも同じように再現するにはとても難しいものなのだ。
 
つまりはそれを無常というのかもしれないのだけど。
 
無二なんだなと。
 
この瞬間も。
 
作り手が消えたら二度と味わうことができないのだなと。
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Title: すくすくと。
2015.11.08

園ではこのくらいの時期になってくると、日々に目に見えて子供たちの成長というものを感じることができるわけです。しかしながら成長が子供たちにもたらすものは、明るい未来や希望だけではなく、はじめて湧いてくるぬぐい去れない負の感情であったりもするわけです。

4月に入園してきた年少の子供たち、入園当初はしゃべることのできない子なんてのはざらにいたわけですが、この半年でしっかりと自分の想いや意志を言葉で伝えられるようになり、今や、その「伝えることができるようになった自分」を存分に楽しみ、使い、日々の新しい感触を味わうように過ごしています。

はじめて友達に「イヤだ」と言えるようになり、「一緒に遊ぼう」と言えるようになり「自分が主役がいい」と言えるようになる子供たち、耳で覚えた言葉の感触を振り回すように言葉を使い、自分の発した言葉の反応や相手の表情を見ながらその影響の感触を身体で覚えていきます。

そこでは「ありがとう」や「どういたしまして」や「一緒に遊ぼう」「いいよ」のようなポジティブな感覚のつながりにわくわくするだけでなく、当然そこで想いや意見の食い違いにもぶつかります。時に「まだできないの?」「あっちいって」「今日は遊ばない」「きらい」そんな言葉に打ちのめされることもあります。

自分の言葉と感情が結びつくこと、そしてその自分の身につけた力の届く範囲を身体をつかって探っていく経験というのはこの時期の子供たちの大切な成長のひとつです。

まさに今の時期の園では、その成長が原因で様々な問題がおきます。それはいままで何となく成り立ってたものが、芽生え始めた自我と意志、そしてそれを覚えはじめの言葉と行動で表現することで自分の視野と世界を再構築しようとした結果だと思います。子供たちは毎日そこでいろいろな感情を体感して、そこに自分の意志を示し、おぼつかない言葉で落としどころを探して、そして精一杯がんばって心を順応させ強くなろうとしている最中です。

親は子供が家に帰ってくると、今日はなにしてきたの?どうだったの?お友達はできたの?なにかいやなことあったの?と根掘り葉掘りききたくもなるし、その中でたくさん心配もするし、不安になったりします。その気持ちは痛いほどわかるのだけど、でも3歳4歳の子供たちにとっては家を一歩出て、園にいき、集団の中で自分の居場所をみつけようと、意志をしっかりと示そうと、日々嵐のような日常の中で必死に戦っています。それは大人には想像できないくらいの勇気と元気を消耗します。いわんやそんな中で湧いてきた感情をすぐに言葉にすることなど実は大人でも難しかったりします。

そんな1日を過ごしてきた子供が、やっと心を休ませて安心できる家に帰ってきたんだと思えば、かける言葉もすこし変わるのかもしれないなと思ったりもします。そりゃ家ではぐずぐずしたくもなるよなと。

現場にいると子供たちががんばっていることが痛いほど伝わってきます。そして親といるときとは全然違う顔なのだということに驚かされます。

見守るってのはとても難しいことです。親になってみてその難しさがよくわかるようになった気がします。

そして成長というものがすごいスピードで渦巻く中で、そこで五感をフルに使い順応していく子供たちに取り残されないようにくらいついていきたいと、35歳のおじさんもおもうわけです。まだまだ若いもんには負けられんと。

あなかしこあなかしこ。


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Title: 何周も。
2015.11.08

想いなんてもので飯が食えるのかと。青臭いことを吐きそうになる自分自身に言い聞かせるような、そんな想いにとらわれていた時期もある。

しかしながらここにきて思うのは、想いで飯は食えるということだ。それは願えば叶うとか、思い続けたら想いは通じるとかそういう類の話ではなく。想いをカタチに結びつけていくことで想いは現実になる。その手順が少しわかってきたような気がするということ。

目に見える現実の多くは想いの上に成り立っていて、想いのない現実のカタチには力がない。

しかしながらその想いというもは水物で、外にあふれ出した瞬間から霧散していく。人間はその瞬間の想いを消えることなく凝固させたくて、あの手この手でそれをカタチにしようとするのかもしれない。絵に、行動に、歌に、建物に、それぞれの仕事に。

人は本来生きているだけでいろいろな想いを抱えていて、瞬間瞬間に心の奥底から吹き出さんばかりの想いがあふれているのだと思う。でもその多くは、揮発性の高いガスみたいに生まれた瞬間に消えていく。

その消えゆく想いの何%かを自分の人生の中にカタチとして完成させて、積み上げていく。

その積み上がったものが自分というものをつくるのだということが頭ではなく、お腹あたりのところでわかってきた気がする。

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Title: でば。
2015.11.03

ハダカデバネズミのことは何度もみているし、いつも気持ち悪いなぁと思いながら素通りしていたのに、こないだふとハダカデバネズミの生態がかかれたプレートの前で足を止めて読んでみた。

哺乳類には珍しい「真社会性」な生活を送っていて、女王がいて子供は女王しかうまない。交尾ができるのは数匹の雄だけ、そしてその下には兵隊係、子供を温める係、糞を掃除する係、巣を拡張する係、などなど細部にわたり専門の係が社会を形成している。中でも上下関係があり鳴き声も違う。そんで女王はひがな巣の中を走り回っていて、サボってるやつをどつくそうだ。

それにも一つハダカデバネズミは絶対に癌にならない。それがなぜなのか研究がされているそうだ。

それを知ってしまうと、いままです通りしてたハダカデバネズミの巣がとても興味深くみえてきて、しばらくハダカデバネズミを眺めていた。

でもいくらみても、まだハダカデバネズミをかわいいとは思えそうにない。

動物をみているといつも思うのだけど、首を長くしたり、鼻を長くしたり、キリンの祖先なのに足がシマウマみたいだったり、環境に合わせてこんなにパンチのきいた進化と個性を放つことはとても奇跡的なことで、それは宇宙の神秘と同じくらい謎だらけなのだなと。

生きるために、エサを得るために身体を変化させることもそうだけど、とても興味深いのは、身を守る方法の多様性とその進化の仕方だ。全身を針で覆ってみたり、堅い皮で覆ってみたり、くっさい液体を飛ばしてみたり、擬態してみたり、するどい牙を身につけたり、

それぞれの動物がそれぞれの方法で身を守り、時に身を守るために戦うわけなのだけど、たとえば核兵器みたいにどんな相手にも有効な一発すげぇ進化しちゃったり、チョバムプレートみたいな防御力を身につけちゃうってことがないってことの不思議。

全部の動物に他の種を一瞬で死に至らしめるトゲがついてれば話は早そうなのに、でもそうなると生態系のバランスは著しくおかしくなって、結果自身の種の保存すらも難しくなってしまうのだろうか。結局のところ、動物というのは自分の種の保存にきわめて有害な相手だけに適度な有効な手段を持っていることで絶妙なバランスを維持しているのかもしれないなと。

そのなんていうのだろうか、よくわからないけど間違いなくそこにある、絶妙なバランスみたいなもので維持されているこの世界はとても奇跡的なことなのだなと。

そしてそのバランスを著しく壊しているのはこの人間というほ乳類だけなのだろうなと。

そんなことをつらつらと思うわけです。










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Title: げしゅ
2015.10.16

つくづく欲はつきないもので。

ここまでやったら満足だとおもって、ここいらでもう打ち止めだって思っていたことが、そこで打ち止まったことなんかありゃしない。少欲知足だなんてもっともらしく説きながら、足を知るなんてことできやしない。そんな自分をまるまる掬いとるっていわれたって、その言葉すらも自己肯定の材料にしかすることのできないこのどうしょうもない殻っぽの器。

なにかを与えるって事は、その与えたもので、同時にそこからなにかを奪うことでもあるのだなと。自由を与えられた瞬間に失うものがあるように。

それと必ずどこかにくるしわ寄せをどうやって処理するのか、覆い隠すのか、時々しわを伸ばすのか、やぶって捨てるのか。その方法に辟易しながら年齢分の1年を、ただ淡々と消費する中でいかに最小単位を細かくするか。そんで最後の最後は単位なんて言葉すらも薄れ消えゆくように。

佛にあったら佛を殺せってなもんで。

最小単位まで細かくする作業の途中で、その作業が習慣化して、そこに意識を向いたとたんに、それはすぐにゲシュタルト崩壊したかのように疑問符に捕まって本来の機能を失う。

その繰り返し。

人は対比の中にしか答えを見つけられないのだとしたら、宗教というものの役割はまさにそこにあるのだろうな。いやむしろ宗教というものがここに存在し続けていることこそが、その答えに他ならない。

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Title: 二人参客。
2015.09.20

大学の友人から唐突にCDが届いた。おもむろに「ゆず」のliveベスト。いまそれを聞いている。

その音を聞きながらしみじみと、それはもうずいぶん遠くにいってしまったのだなぁと。いつだって手を伸ばせばすぐに届きそうなところにあるように思ってたのに、いまやもう「あの頃」ってか。

お彼岸が終わればまたすぐにふらっと京都に戻りそうな錯覚すら覚えるけどなぁ、遠いんだなぁ。あの頃。

あの頃の自分と比べて今の自分は、くらべものにならないくらいに、しなやかになったと思えるし、視野も経験も踏んだ場数も段違いだ。それになによりも安定してる。

あんな不安定でアンバランスな自分に戻りたくなんかないのに、今に何の不満もないはずなのに、それでもあの頃を思い出すと「そこ」がとても色鮮やかに感じるのはなぜなんだろうか。

明日の朝、目が覚めてあの小さな下宿先の、物置みたいな部屋で今の自分の生活をまるで夢をみていたかのように目が覚めたとしたら、そこから先の自分は今と同じ道を歩んでここまでくるんだろうかな。

なんて。





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Title: しんかでもたいかでも。
2015.09.13

つくづく自分はなにかをつくることがすきなんだなぁと。

昔と今と比べて変わったと思うのは、昔はなにか一つのものを完成させたらそれで完結してしまって、また0から組み立てることに興味をもっていたのだけど、最近では、今目の前にできあがったものを起点にいままでつくってきたものや、これからつくるものに結びつけていいくことにおもしろさを感じていて、それを結びつけていくことで、いままでのやり方ではつくれなかったような一つの形をみることができるのだと思えるようになったということ。

そして、何かをつくるときに、たとえそれが陶芸であれ、絵であれ、組織であれ、料理であれ、気をつけなければならないところは同じようなところにあって、同じようなところに落とし穴があるのだなと。

その同じようなところにあるものがなんなのかといえば、それはつくりての数だけ答えがあるようななもので、自分自身の通ってきた道や、経験や、背景とかそんな目に見えない不可抗力の積み重ねのようなもの。その何かは自分自身をよく知ることで輪郭がはっきりしてくるような類のもの。

自分のつくろうとしてるもののなかには、いままでの自分がつまっていて、それはこれからの自分につながってて、点と点が線になって球になって、その変化が生み出す熱量とか質量とか、じんわりと身体にかかるその負荷に心地よさを感じる。

そして、最近0から新しいことをはじめることと、旅にでることが自分の中で同じ動機付けから起きることと、そこから生じる高揚感と不安がとても似ているこことに気づかされた。

前に前に。

*

ひさしぶりに長い時間をかけて書いた文章がぶち消えて。逃がした魚の大きさに泣きたくなるような気持ちを味わって。そんでもって記憶の断片をつなげて再現した言葉の羅列に、そこから逃げた熱量はもう戻らないのだとさとって二度悲しくなった。

*


のこぎりざめのような思い切った進化をする生き物と、はらわって話してみたい。


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Title: サマーメメントモリ
2015.08.11

でっかい入道雲ながめながら竜の巣や。というのもこれまた夏の風物詩。

毎年毎年、夏がくると幸せだなと思いながら、あと何回夏を味わえるのかという気持ちにもなるわけです、ある種のメメントモリ。今年も島に行って朝から夕暮れまで死ぬほど潜ってごはんをたべたら即ばたんして、そして明け方にセミうるっせぇ!といいながら布団から這い出して、また昨日のデジャブかのようにひたすらに潜るのです。気が狂ったように。

からっからっになった身体になにかを詰め込むかのように、これでもかというほどに夏を浴びるつづけて、あてられてのぼせて鼻血が出るまでやめないのです。ツクツクボーシよまだ鳴くな!と言い続けるのです。

写真を見ていて、写真に写っているものに目を奪われるのと同じくらいに、そこでシャッターを切ろうと思った心にも同じくらい心奪われるのです。ここが撮りたいという一瞬にあったであろう想いは、目には見えないけどちゃんと写ってる。だから写真っていうのはとても特別なものになりえるのだろうな。それがちゃんとのってるものはきっとピンぼけでも手ぶれでも、特別な1枚になるんだろうなと。

真っ暗な空で満天の星空をみているときにふと、そこに闇があるのではなくてただ光がないだけとも言えるという言葉を思い出して、それがすごく体感として腑に落ちたわけです。光がないだけ。

島から帰ってきて、扁桃腺が3倍くらいに腫れて、気道を圧迫してる上に鼻が詰まってるので、いまとても呼吸ということのありがたみを感じながらこの文章を書いていて思ったのだけど、夏に感じる格別な気持ちも、好きなことをゆったりと考える時間も、平和も、きっと健康で、すくなくとも痛い苦しみのない肉体の上にあって成り立つものなんだろうな。

でもそれは永遠に続くものではなくて、やがて衰えて、それに伴って気力も衰えて、生きることにわくわくすることもなく枯れて死んでいくのだろうなと。

いつか自分が蝉の声にも、波の音にも、浜辺の缶ビールにも、まぶしさを感じなくなる日がくるのだろうかと、メメントモリしてみるのだけど、でもそれを考えてもしかたないから、今は今年の夏を存分に味わうだけなのさと言い聞かせるだけですねん。

まだおわらんぞ。

ガガガが勇気をくれるな。

青臭くありたい。













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Title: ハロラ。
2015.07.24

ブルーハワイってなにをもってハワイなんだろうか。

そもそもだれがつけたか知らないが、そしておいしいかどうかは別として、この毒々しいまでの青色にはなぜか胸躍るし、イチゴでもレモンでもなく、その得体の知れない響きになにか大人な感じがしたりして。それはそれはとても夏い食べ物だなと思うのです。そしてそれをたべて真っ青になった舌をだし合いながら笑い転げる風景はもはや日本の伝統的な風物詩にまで昇華してるのではないかと。

夏が好きな自分からすると、夏は日本の風物詩的風景のオンパレードで、いちいち日々の一瞬が惜しい。

ラジオ体操も、蝉の声も、赤提灯も、スイカも、カルピスをつくる音も、夕立の匂いも、遠くで聞こえる花火やお囃子や、御輿を担ぐ声も、浴衣女子も。

明日はじめると30回もいえば夏休みももう終わりという言葉がどこかのお寺の境内に書いてあったそうな、まさにほんとに、今年の夏も最高だぜってあと40回もいえるかどうかはわからない。

惜しい惜しいといいながら着実に旅の準備を進めるのです。ほくそ笑みながら。

旅の準備の第一段階は、暑さへの順応だということで毎日エアコンかけずに生活をするところから夏い日々を味わうわけです。ありがたや。ありがたや。

きっと夏に一人旅をしたくなるのは、夏なら一人旅の孤独感をあまり感じないで済むからなのかもしれない。

あゝ酩酊状態の日々。

*

暇はつぶさないほうがよい。と思うことが増えた。

何もすることがない状態にすぐになにかに手を伸ばさずに、それをしばらくじっと味わうことで、その時間はいままで自分の見えていなかった景色や習慣を生んだりもすることもある。

ただこのご時世「すぐになにかに手を伸ばさない」というこの小さなカベは低いようで高かったりするのだけど。

世界はもっと疑問にあふれていて、疑問をみつけること、答えに思いをはせること、その答えに自分なりの感情がわくことを体感として蓄積していくことは、このつぶされて消えていく時間の中にこそあって然りではないかと思うのです。

そして時に正確な情報よりも、不確かな想像の方が人を豊かにするともあるし、つまりはそれはGoogle先生や、ウィキペディアもいいけど、年寄りのほら話のほうが時に子どもに夢を与えるのだと思うということだ。などと老害みたいなこともいいたくなるようになった今日この頃です。


*

運転席に座ってるのか、助手席に座っているのか。それはフロントガラスに映る同じ景色を見ながらでも、そこに向ける意識も感覚も全く持って別なわけで。

ハンドルを握ってる人にしかわからないスピード感や、そこに感じるプレッシャー、ハンドルを握ってない人にしか感じられない車の揺れや不安。

そのどちらも大事なことなのだけど、ハンドルを握ってる人が優雅にナビを眺めていたり、ハンドルを握ってない人がおもむろにアクセルを踏み込もうとしたりする場面というのはどこにでもある光景で。

最近、まずこの人は今どこに座っているんだろうなんてことを考えたりするわけです。

それは1か0ではなくて、時に運転席で、時に助手席ではないかとも考えたのだけど、一つの場面において、やはり運転席は一つであるべきで、運転席の隣に助手席があるべきなのだと、そこを曖昧にするということは、大局をみたときにやはりどこかに歪みを生じるのだということをこの何年かの体感としても強く感じるわけです。

*

ハロラロラ。






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Title: 生きること。
2015.07.21 備忘のために、ほぼ日からの転載

かつて、アントニオ猪木が、
 「もし敗けることがあったら?」と
 マイクを向けたアナウンサーに、
 「やる前から敗けること考えてるバカがいるかよ!」
 と、張り手を浴びせ「出て行け!」と言ったそうだ。
 確率だとか、可能性だとかを語ることは、
 まだ迷っていられるとき、もどればもどれるとき、
 当事者じゃなく見物席にいられる場合だけなのだ。

 「だめかもしれないなぁ」なんて打った球が、
 ホームランになるはずはない。
 ぼくらは、確率に合わせて生きるのではなくて、
 生きることそのものを、生きているのである。
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Title: ブラックフライデー
2015.07.17

朦朧とする頭と熱のこもった身体で、残りのライフを振り絞り帰宅する。そんで泥のように眠って目覚めたら、ここから夏がはじまるわけです。銭湯行って、カブ乗り回して、夜道を徘徊して、島って、旅って、浴びるほど夏って。酩酊状態の毎日を、しっかり味わうように惜しむように過ごすのです。

まずは赤提灯に挨拶回り。

あと何回経験できるかわからないけど、この夏がはじまる感じ、いくつになっても忘れたくないものです。

なつなつなつなつここなっつ。


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Title: りんご。
2015.07.09

近しい人がぱたぱたといなくなって、そのたびに人は死ぬんだと至極あたりまえの現実を思いしるわけで。お骨の前で、いつかあの人も、いつかこの人も、いつか自分もと心に刻んでいるつもりなのに、それでも何度も何度も釜前に立っていざはっとさせられるわけで。
 
人って死ぬんだよなぁ。ほんとに。あたりまえのことのようにすっと。
 
「近しい」って会った回数や距離だけじゃなくて、自分の中にこびりついている言葉や出来事、それを思い出す回数だって近しさの中にはあるわけで、いつも顔を合わせていれば必ずしも近しいと呼べるわけではなく、
 
近しいというととても抽象的だけど自分の感じる近しいの中には、そこに一瞬でも「本質的なこと」が含まれていているかどうかなのかもしれないなと。
 
今日思いました。
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Title: 備忘。
2015.07.01

備忘のために。ほぼ日の一文

「打席に立てることをよろこぼう」

怖かったり、緊張したりするような場面に、「君が立っていい」と認められている。それは、すばらしいことだと思うだろう。

緊張感があることは、実は「いいこと」なのだと思うのだ。生きていて、チャレンジしているからこそ、そんなふうな場に立っているということなのだ。失敗したらどうしようなんて考えるような時間には、機会(チャンス)というやつが隠れているのだ。

だから、おもしろいのだ。

そういうわけだから、「たのしめ」って言えるわけだ。


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Title: Nice to meat you
2015.06.12

一銭にもならないことを考えたい気分なので。
  
第二回 ガス?炭火?
 
焼肉とは、読んで字の如く、肉を焼くことで完成するわけです。
 
そこで今回は「焼き」について考えてみました。
 
前回はいい焼肉店とはなにかということついて考えたわけですが、では前回お話をさせていただいたような心打たれる名店と一期一会の出逢いを果たした時、最後にその店主の想い、願いののった一枚のお肉に命を吹き込む最終工程、画竜点睛とどめの一点を打つのは己の両手であるという現実に直面せねばならないのです。
 
そこに店主のお肉に対する愛情、ひいては全国の畜産農家さんたちの想いや願いを感じ入ればこそ自らに課せられた「焼く」という行為にかかってくる責任は重みを増すのです。
 
「焼く」ということについて、いままで幾度となく様々な議論が交わされてきました。多くの場合その論点はガスで焼くのか?炭火で焼くのか?どちらがうまいのだ!?ということです。
 
最近では様々なロースターがあるので、細かい違いはあるにせよ、大きな議論の両軸であるガス焼きVS炭火焼き、それについて思うところを書きたいと思います。
 
まずは、そもそもガスと炭火となにが違うのかということです。これはGoogle先生に尋ねればすぐに答えは返ってきます、一部ネットからの引用をふまえその違いを比べてみたいと思います。
 
俗に言う炭火焼がなぜうまいのかということですが、この理由のほとんどは炭火は強い遠赤外線を発しているからだそうです。この赤外線の輻射熱は表面を均一に素早く焼き上げて食材を硬化させるため、内部のうま味を閉じこめてしまう働きがあるそうです。
 
それだけではわかりにくいということで、一つわかりやすい例えを見つけました。
 
ガスの火と炭火の火、これを団扇であおぐとします。
 
するとガスの火はあおぐことで風をおこすと、熱をあおいだ側に流すことができますが、炭火の場合、風の有無にかかわらず、団扇、またはそれをもつ手に至るまでに直接熱を伝えます。赤外線は紫外線や可視光線などと同じ電磁波ですから、風などの影響を受けずに熱を伝えるわけです。この赤外線が食材の外をカリッと中をふわっとさせ、さまざまな「うまい」の要素を生み出すそうです。
 
それと、焼肉の場合は脂が炭に落ちることで煙をだします、その煙がまた肉にもつくことで、よりうまみと深みを増すそうです。
 
しかしながらデメリットとして、炭の善し悪し(安い比較的安価な安い炭は炎が上がりやすく火が直接 肉に触れるので肉がすすけた感じになる場合もあります)にもよるかとおもいますが、火の強弱の調整ができず火力が安定しづらい、炭の置き方によっては焼きムラができやすく、焼き加減の調整に神経をつかわないとベストな状態で焼けない。
 
一方ガスは、火力の調整がしやすく、焼きムラがでにくい。焼きムラがでにくいことによって均等に火を通しやすい。
 
デメリットとしてはガスの直火は燃えるとき水蒸気が発生するためじっくり火をとおそうとすると肉の表面がパリッと香ばしく焼けないなどがあげられます。(そのあたりを考慮してガスの上に岩盤などをおいて水蒸気対策や遠赤効果を付加しているロースターなどもあります)
 
結果からいえば、炭火には旨みを増すという効果がいくつも付加されています。ですので肉は炭火で焼いた方がうまくなる可能性が高い。といわざるを得ないのかも知れません。
 
しかしながら問題はここからです。
 
~炭火とガスの違いをふまえた上で、実例にそって双方の違いを検証してみたいと思います~
 
・炭火七厘の場合
 
とある厚切り牛タン、サシのしっかりのったカルビ、肉本来の味を楽しめる薄切りのロースが有名な焼肉店にいくとします。そこは七厘でお肉を焼くスタイルです。お腹がペコペコで、尚且つ仕事の打ち合わせもしなければいけない状況です。
 
生で乾杯をしつつ厚切り牛タンを先にもってきてもらいます。
 
お腹ペコペコのおじさんたちは、おもむろに牛タンを網の上一杯に並べます。すると空気の入るスペースが少なくなり、炭火の火力が安定しません。生を飲みながらキムチなんぞをつまみに、マクラ的な会話をしてしばしの歓談、しかし牛タンは焼けません。
 
おかしいな、火力が弱いのかな、まだあったまってないのかな・・・なんてことをいいながら肉をこねくり回します。そのうちに炭の火力も上がってきます、そこでお皿のレモンを搾りながら、会話は最近の景気と、身体の不調について盛り上がります。
 
そこでどうも最近尿酸値が高くて・・・となってきたころに、肉の変化に気づいた一人が牛タンを裏返すと、真ん中においてあった牛タンは真っ黒、端にあった牛タンはまだ生焼け、それをいけるいける!もういけるレアで大丈夫だよなどといいながらそれをみんなの皿に配る上司、肉は生焼けなのにはらわたは煮えくりかえりそうです。
 
そして次にサシのしっかりとのったカルビがきます。
 
すっげぇサシ!うひょ~と懲りないおじさんたちは、いきなり高温の網の上にカルビをずらっとならべます、すると脂が一気に落ちて、火柱が上がります。、やばいよやばいよなどといいながら、あわてて肉を避難すると、じりじりと脂が煮えたぎるカルビの端は堅く焦げています。
 
最後に薄切りロースです。店主おすすめの一押しお肉です。軽くあぶってお召し上がりくださいと言い残して店主は去っていきます。
 
軽くね軽く、といいながら過去を顧みないおじさんたちは、そのロースをひらりともちあげると、網の上にバサッと置きます。置いた瞬間に網とロースがくっつきます。やばい剥がれない剥がれないと、無理矢理にひっぺがしたロースは無残にもちぎれただけでなく、所々生焼けの、通称まだら焼きの状態です。
 
これが負の炭焼きスパイラル。あげくの果てに会話にも集中できません。
 
・ガス、ロースターの場合
 
お腹ペコペコのおじさんたちは、おもむろに、その牛タンを網の上一杯に並べるとします。空気の入るスペースなどはガスには関係ありません、生を飲みながらキムチなんぞをつまみに、マクラ的な会話をしてしばらくします。するとほどなく肉の端が褐色に色づき始めます。
 
ここで肉の変化に気づいた一人が牛タンを返すと、おいた場所にかかわらず(ロースターの形によって多少の誤差はあります)お肉がいい感じの褐色です。そのまま景気と身体の不調にはいるか否かのあたりですべての肉を返し終えて、尿酸値の話をしながらお皿のレモンを搾り始めます。そのあたりで牛タンは見事、外は褐色、中は少しレアの状態で食することができます。更にしっかり焼きたいときはここでガスの火を弱めて様子をみます。その作業も片手間でOK。
 
歯ごたえのよさを感じながら牛タンを完食です。
 
ここで一度鉄板を替えます。そのタイミングでサシのしっかりとのったカルビが運ばれてきます。
 
これもとくに難しいことを考える必要はありません、カルビをささっと並べて、表面のサシがじりじりと音を立てて褐色に変化したら、裏面にかるく火をとおせば、それはそれはめくるめく脂の甘みで口の中が満たされます。肉汁の玉手箱です。
 
そして最後に薄焼きロースです。
 
かるくあぶってお召し上がりくださいと言い残して去っていく店主の後ろ姿がのれんの向こうに消えた刹那に、お肉の端をつまみあげると、お肉が折れて重ならないように、鉄板の上を優しくなぜるようにあぶります、我が子にそっと布団をかけてあげるかのようなタッチです。
 
その間やく2秒。片面をあぶったら反対側も2秒。ここに卵黄なんぞがあればそこにドボンして、ご飯を包んでたべたらこの世の極楽、会話に花も咲きます。
 
これが本来の焼肉パラダイスです。
 
さて、ここではあえて極端な書き方をしましたがここでなにがいいたいのかということです。
 
それは、炭火というのはたしかにお肉の未知なる力を引き出す可能性に満ちあふれていますが、実はハードルが高いということなのです。実は炭火を売りにしているお店というのは、食べ手にその技術を要求しているわけです。
 
炭火をガスと同じように焼いていると必ず失敗します。炭火>ガスだから炭火がおいしいのだ!という先入観にとらわれてはならないのです。よほどの肉質に問題がない限り、ガス焼きと炭火焼きの味を食べ分けられるほどの舌をもっている人は多くないと思います。
 
誰とどういう目的で行くのか、どんなサイズで、どの部位の、どんな肉質なのかということによって焼き方というのは変わってきます。
 
その刻一刻と変わる肉との対話、火との対話を楽しめるくらいのスキルと余裕があるのであれば炭火の一択、しかしながら、肉を食べること自体を楽しめればいい、手軽においしいお肉を味わいたいというのであればほぼ十中八九ガスで問題ないと思います。
 
それは車に例えるなら、走りを追求したMT車なのか、手軽にドライビングを楽しみたいAT車なのかの違いのようなものかもしれません。
 
無論炭火を制することができればそれに勝るものはありません。しかしながらどんなに上質なお肉も一旦焦がしてしまえば元も子もないのです。「炭火」という響きにだけ価値を見いだし、あたかも炭火>ガスのような構図ができがちですが、それぞれの特色を理解した上で焼肉にのぞむという心構えが必要なのかも知れません。
 
Nice to meat you 
 
見渡す限りに広がる明日に、おいしいお肉があらんことを。
 
ビバ、チファジャ。
 
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Title: Meat meets me。
2015.05.26

一銭にもならないことを考えたい気分なので焼肉について。

第一回 いい焼肉屋ってなに?

お肉好きを公言していると、いい焼肉屋知らない?ということをよく聞かれます。その度におよそハズレのないお店をお伝えすることは晩飯前なんですが、そこをもう一歩踏み込んで「焼肉」というものについて考えてみたくなりました。

最近つくづく感じるのは、いいお肉をだす店=いい焼肉屋でもないということです。

国産和牛A~ランクとか、なんちゃらブランド牛、~熟成肉、牝牛のみ、などなど。たしかに肉そのものの品質の差というはありますし、肉質も全然違います。おいしいお肉をつくってくださる全国の畜産農家の皆様いつもありがとうございます。

いい肉を提供できるということは、肉の目利きやパイプなどがしっかりしているということですので、(このパイプというのはとても重要で、希少な部位や新鮮な肉が定期的にはいってくるパイプというのはどこの焼肉屋にもあるわけではなくそれもお店の力の一つでもあると思います、ハラミとタンだけはいくらお金を積んでもこのパイプがしっかりしてないといいものが仕入れられないそうです)無論そのお店はおいしいお肉を提供してくれる点では間違いなくいい店なわけですが、

あちこちのお店を食べ歩く中で、肉質的にはとてもいいものをだしているのにインパクトに残らない、またここのお肉がたべたい!と思えない店があったり、肉質だけでいえば、おそらくもっといいところがあるだろうに、がつんとインパクトがあって、またこのお店でたべたい!と思える店があるわけです。

その違いは何かということです。

結果からいうと、部位によって特徴が異なる肉を、食べ手にどういう形で食べて欲しいか。そこに作り手である店主の想いのようなものがのっているか否かだと思うのです。想いとかいうと目に見えない非科学的な熱量的な問題だと思われそうですがそうではなくて、その想いは様々なところに見てとれます。

その一つは肉の切り方です。肉は切り方一つでうまさが格段に変わると思います。

例えば、焼肉屋でカルビ1人前を注文した時に、どれくらいの量が、どのくらいの厚みで、どのような形でくるのかというのはお店によって全く異なります。最近では1人前という形ではなく、店側の食べて欲しい形、サイズで部位別に提供してくれる店も増えてきましたが、ここの違いに作り手の意図があるかどうかということですが、作り手の意図というのはつまりは食べ手の顔を想像しているか否かだと思うわけです。

いい肉質だからといって、スライスしてそこそこの大きさで一辺倒にだせばいいかといえばそうではないわけで、それだけで肉のパフォーマンスを台無しにしてしまう場合もあります。

筋切りなんて当然だと思うかもしれないけど、普通に筋を落とし切れてないものや、余分な脂を落とし切れていないものがそこそこの値段ででてくることもあるし、厚切りでインパクト大なのだけど解凍を含めた下処理が不十分な状態のタンがでてくることもある。

逆に、カルビとしてはだいぶインパクトあるサイズでだしてきてるのにかかわらず、絶妙なサシ加減と切り口、余分な脂が一切無く、そのサイズをぺろりと食べても胸一杯にならないものもある。また食べやすく火が通りやすいように、隠し包丁がいれられていたり、ロースの同じ部位を切り方やサイズを変えてより肉質を楽しめるように提供している店もある。

それはただでかい塊でだしとけば喜ぶだろうという話ではなく、その肉の部位にあった食べ方で、その肉の魅力を存分に伝えているかどうかだと思うのです。そういう工夫にであうと作り手の肉に対する愛を感じるわけです。

個人的にはイチボというメニューを頼むとその仕事の差がとても顕著にでるように思います。肉質によって繊維を断ちきるのか、繊維にそってきるのかそれだけで"うまい"も全然変わります。(繊維を断ちきったほうがサシの見た目がいいからといってすべて断ち切ってしまうと焼いて肉が縮んでしまうという残念な場合もあります)

きっとベストな形でベストな部分を提供しようとすると様々な無駄がでてしまうのだろうと思うのだけど、そこに無駄をださずに、どうベストな状態を保つかということに取り組む姿勢、その葛藤、苦悩が1人前の皿の中に見てとれることもあるわけです。

(どうしても肉の切り方によってでてしまう半端な部分を裏メニューとして提供してくれる店もあります)

「焼肉」というものは、もはや「カレー」や「ラーメン」と同じレベルで日本独自の進化を遂げている食べ物だと思います。

肉を焼いて喰らう。その人間が本来持ちうる原始的な欲求はもはや一つの文化にまで昇華しかけている。といっては過言だと思いますが、間違いなく独自の進化を遂げています。そこに伴って昨今の焼肉業界は様々な特色を打ちだして他店との差をつけようとしていますが、そこで我々消費者が忘れてはならないのは、そこに作り手の想いを感じられるかどうかではないかと思うのです。店のネームバリューにつられ、値段につられ、ブランドにつられ飛びつくような肉人であってはならないのです。それはひいては牛に対して、命に対しての感謝の念でもあるのです。

そしてそれは焼肉というものに関わるすべての底上げ、そして独自の進化を遂げる中で息づく日本の心を守ることでもあると思うのです。一口に焼肉といっても、それはとても奥が深いものだと思うのです。

いい焼肉屋とはなにか?そこに答えを見いだすのであれば、それは一枚のカルビ、一枚のロースの中に、そこにつながる全ての縁、願いが、心地よいサシとともにのっている店であるということです。

そんな焼肉に出会えることを今日も願って。

Meat meets me

見渡す限りに広がる明日に、おいしいお肉があらんことを。

ビバ、ヒコバンバン。

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Title: こころころころ。
2015.05.23

こころころころ。さだまらぬ。

さだまらぬ。



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Title: 点。。。。
2015.05.23

結果がでることや、評価されることを目指してなにかを積み上げているつもりなのに、結果がでたり、評価されるたびに、一体自分はなにがしたいのだろうかとか、一体どこへいきたくて人からどう思われたいのだろうかなんてことをもちゃもちゃっと考えたりなんかして、えもいわれぬ焦燥感にかられたりもする。

評価とか結果というのは、誰かに求められてるものを、求められてる形で提供できるということで、その評価結果というのは、千差万別、十人十色、とても流動動的な点にすぎないのだなと。

その点を積み重ねていくために必要なものが見えれば見えるほど、所詮点なんてものは点に過ぎなくて、もっとそういうものを離れたところにいきたいとおもうのだけど、それにはとても勇気と覚悟がいるのだなと。二の足踏んでるわけでもうずっと。

くっそとか思うのだけど。

そのくっそもきっと、頭で考えた筋書きとのズレに対する一種の驕り。

自分がどの状態でいれば一番のパフォーマンスを発揮できるのか、朧気ながらにつかみかけているのに、それを維持するために埋めなければいけないところの底が深くてみえないわけで。

いや底がみえないと思っているけど、それは素数をたどってぐるぐるとキューブの中を回っていくのだけど、結局最初の部屋に戻ってきて、外への道が開けるようなものなのかもしれないと。

言葉言葉言葉。

すべてが後付け。

世界の事象なんてものはほとんど後付け。

根っこにあるのは。埋めたいなにかと、埋められないなにか。その堂々巡り。

前に前にとおもっていたって前はどっちだよ。








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Title: 七厘
2015.05.18


心が震える理由なんてのはきっといくつになってもかわらないのだろうと思う。

*

肌感覚とか空気とか。

そんな揺らぎみたいなもの。

目に見えるものの、目に見えないところに流れているその揺らぎのようなものにもっと鋭敏になりたい。

飲み込んだ言葉も、深いため息も、苦笑いも、投げつけられた言葉も、思惑も、算段も、謀も、切っ先の尖ったあれやこれも、その根底にあるものは血の通った暖かいもので、そこに温度があることに安心して生きていきたい。それが自分の資本となって、自分の元本になるのだとしんじて。

そんで打ちのめされたら両手両足を投げ出して、大の字にひっくりかえって、空でもあおいで、いぶりがっこでもかじって、また挑むのだ。

*

切っ先丸くして、竹光褒めあって。自分がぶら下げてるものだけは真剣だと疑わず。ときにでたらめにそれを振り回して、重さを感じることで安心して。たたかうこと自体を疑って、正義とはなんだとかかんだとかのたまって。

大人ってやさしいけど。

こわいな。

子どもはむきだしでこわいけど。

やさしいな。

*

自分の言葉を使えるようになるためには、普段から自分の言葉の精度をあげておかなければいけないなと。

それは「てにをは」とかそういう話ではなしに。

体裁の良さとか、通念とか、ルールとか、誰かの為に使う言葉ではない、自分の言葉の精度を。それがなんなのか、考えて、思い出して、使って、失敗して、言葉は自分のものになっていくのだと思う。

頭と心の呻吟する声を、摩擦なく柔和に吐き出すかのような言葉をつかえるようになりたい。


*

旅人はみんな泣いているって言われて、すごく腑に落ちたのだけど、でもいつかそうじゃない旅をしたい。



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Title: 縁。
2015.04.28

幸せだなと思うことが頭のどこかでこわいのは今も昔も変わってないのだな。

うららかに、おだやかに、笑えれば笑えるほど、心の奥底にある違和感が大きくなってきて、足下がぐらぐらとするような感じがするわけです。

最終電車で小さな駅について、すぐにみつかるだろうと思っていた宿がどこも満室で、途方に暮れた挙げ句に、やっと見つかった小さな部屋の中で、ビーフジャーキーをかじりながら、ハイボールのんで、やることもないから真っ暗な部屋の中でじっと明るくなるのを待ってるときに感じる寂しさとか孤独感なんか、すすんで味わいたくもないし、避けて通るために全力を尽くすのに、それでもいやがおうにもそれを避けて通れずにそんな気持ちを味わうと、心のどこかですごく安心したりする。それを安心と呼んでいいのかわからないけど、とても生きている感じがして、それがとても自分に充足感をくれる気がして。その充足感が自分にとってはとても甘露で、ほしくないのにほしくなる。

幸せだと感じることがこわいのは、もしかするとそれがずっとつづかないのがわかっているからで、同時に失うことを想像してしまうからかも知れないし、孤独感に安心を覚えるのは、きっとその先に安堵を感じることがわかっているからなのかもな。

だとしたらつくづくへそまがりだな。

*

旅にでたい理由の一つは泣くほどの孤独感を味わいたいからかもな。Mなのか。


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Title: みたもの。
2015.04.28

青臭くありたいとおもった。

なによりも青臭くありたいと。

いつもフル稼働してる部分はびっくりするくらいに動いてないのに、そのかわりに研ぎすまされてくる部分があって、そこが研ぎすまされている時自分はとても満たされるのだ。いつまでもそこに身をゆだねていたいと思うほどに。

肌感覚といえばそれまでなのだけど。

その感覚を信じて、違和感を信じて、その感覚に身をのせる感じがたまらなく好きなのだ。

頭も身体も解放しているときには、自然といままでの経験や体験、自分の中に蓄積されたものが意識をこえて働きかけてくる。だからこそ経験は大切だし、失敗も苦しみも成功や喜びと同じくらいに大切なのだ。

自適其適に。

自分はどこでどうありたいか。それをあらためて確認できたような2日間だった。

スナフキンも言ってたな「僕は自分の目で見たものしか信じない。けどこの目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ」って。

*

無意識に働きかけてくる経験の具体例。

人が集まる場所において、例えばそれが街だとして。その街のどこに自分好みの場末な店があって、どこに宿があって、どのあたりに柄の悪い地域があって、どのあたりが安全なのかとか。どこまでが旅行者の踏み込める領域で、どこからは踏み込まない方がいいのかとか。どういう路地をすすめば自分の好きなものがありそうなのかとか。

目には見えないけど、それが東京であれ、一ノ関であれ、上海であれ、カトマンズであれ、ラサであれ、デリーであれ、バンコクであれ、それぞれ国も規模も違えと、街という一つの集合体の中には共通するものがあるようにおもう。

目に見えて線が引いてあるわけじゃないけど、それぞれブロックごとに色分けされてるみたいに感じる事がある。

それが宿を探すのに絶対に進んではいけない方向とか、この時間に踏み込まない方がいい路地とか、お腹がペコペコのときに進むべき方向だとか、すべてが予定通りに進まずに途方に暮れたときに進むべき道を、肌感覚として時にそれを違和感として自分を導いてくれるように感じることがある。

その時に、ガイドブックやスマートフォンとにらめっこをしていると、見落としてしまうことっていうのがあるような気がして、そういう時こそ目をつぶりたいと思っている。

それは、1か0か、感覚か情報かという二極化した話ではなく、どちらも大事なのに、感覚的な部分が往々にして忘れられてしまうことが多いように感じるわけです。








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Title: ださ
2015.04.03

鼻水たらして、泣き笑い。そんなかんじでいいのだ。なにかのきっかけですぐに盛り上がりも盛り下がりもする、このどうしょうもないこの心ころころ。辛気くさいのなんかつまんでぽいや。


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Title: 116
2015.03.28

夜中にふと目が覚めて、眠れないので身体を起こそうと思ったら、眼鏡の上に手をついて、フレームの先が手のひらに刺さった。暗い部屋で、じんじんとする手のひらの痛みを味わうように感じながら、消えたノートにかかれた言葉を思いだそうとしたのだけど、3割くらい思いだしたところでまた眠りに落ちた。

朝起きたら、手のひらが赤く腫れていた。

たかが-2時間なのに。そこには大きな隔たりがあるように感じた。

*

平成というのは、まちがいなく昭和の上にのっかてるんだ。きっと昭和も大正の上に、大正も明治の上にのっかてるんだろうな。

その「時代」を包む空気感、そこで誰かが痛烈に感じたことは、間違いなく次の時代の中にも残り香のように漂っていて、その残り香がまた次の時代の子どもたちの中にも繋がっていくのだろうと思う。

ものをつくるってそういうことなんだきっと。

*

目の前に自分の弱さが可視化されたときに。

それにどういう感情を感じるのか、忌むのか、愛でるのか。媚びるのか。

逃げるのか、共存するのか、打ち負かすのか。

狡猾に自分に嘘をつくのか。

*

からっぽだな。

からっぽだから詰めたくなるんだろうな。

からっぽをからっぽのままにしておけないわけですよ。

それはほんとはただの空洞を埋めるだけの作業なのに、

その作業がいつのまにか自分そのものであるかのように錯覚して。

いつのまにかからっぽだったことすら忘れるんだ。






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Title: めじな。
2015.03.16

死というものを考え、想うときに、それはいつもこちら側、つまりは生の側から発せらるるものだとばかり思っていたのだけど、そうでもないようだ。死とはこちら側からコンタクトするものではなく、唐突に、前触れもなく瞬間的に向こう側からコンタクトしてくるものなのかもしれない。生の側から想う死とは、生の対極にある死に対する像であって、それは死そのものではないし、本来あるべき死とは別物であると考えてもいいのかもしれない。

本来あるべきはずの死にはきっと脳内再生するときに付随するような温度も表情も、ドラマチックな効果音もなくふとそこにいるんだ。よおってなもんで。

と。こないだ最終電車を乗り過ごしてあるく帰り道で、うっすらと春の匂いのする夜風にふかれながら考えてたわけで。

*

急激な温度差なんてものは表面的なもので、それは表層を焦がしたり、低温やけどにするかも知れないけど、芯の部分にはなんの影響もないのだ。喜びも悲しみも、苦しみも、ありとあらゆる心を動かす要素も感動も。ちぇっ。

*

人がなぜ思い出に執着するのかといえば、その思い出の中にいる自分を許し、慈しみ、拾い上げたいからで、なぜそんなことを思うのかって、人間は自分の中に流れる時間軸を点で考えるとバラバラになってしまうような錯覚におちいりやすくて、どこに手をついていいかわからなくなるような感覚に捕まることがあって、脳が意識的に、無意識的にそれをさけるからではないかと思う。

*

例えば、一流のスポーツ選手が誰もいないところだしたパスがつながるような。F1ドライバーがオーバーテイクをするときに、意識が先にコースをとるような。それはきっと予測とも違うようなもので、なんていうか実際に視覚的に見えているのではないだろうか。

現実に可能性は無限にあるかというとそうでもなくて、イレギュラーな不測の事態を除けば、経験を積むことで、その先にあるであろう光景を視覚的に脳内再生する時の選択肢は絞られてくるのではないかと思う。

視えるとか、読めるとか、極めたとか。

それをどう表現するかは別として、なにをしていても、突き詰めていくと近いことが起きているのではないだろうかと思う。つまりは、どこまでも細かい単位の今に目を凝らしたさきには未来すらも見えるのかも知れないなんて。


*

種としての安全が確保された中で、優位性を誇示しようとする働きは、動物として至極自然だ。いじめでもなんでも。

根底にあるのは、生き物としての本能。

メジナでさえ優位性を誇示しようとするのだ。

*

からっぽでまっすぐ。






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Title: にく。
2015.02.23
 
お坊さんってのは、仏教かじってるから苦への対処方を知識として知ってるのかもしれないけど、それができてるかどうかとは全然別物で、僧衣で手を合わせてると、まわりからそこそこできるもんだと思われたり、そう扱われたりするうちに自分でも「知ってる」を「実践できてる」と混同しちゃってわかんなくなったり、そこでジレンマに悶々としたりもするのだと思う。
 
それに昨今、べつに僧侶でなくとも、聞く人の心を捉える言葉はあちらこちらで聞くことができるし、むしろその方がはるかに多い。結果そこに取って代わられてるわけだけど、そもそものお寺や僧侶の担ってた役割を。
 
でもお坊さんも一生懸命なんだ。それを自分のものにしようと。
 
あなかしこ。あなかしこ。じたばた。
 
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Title: 芒。
2015.02.15

原点にもどろうとか。初心にもどろうとか。

そもそもそれどこにあんだとかおもって考えた。

それってつまりは、どこだかわかんないいけど、結局今ではない、ここではない場所への渇望だし、それを望む自分はこの瞬間にどこか不満げだということだ。

正確に言えば、その不満は、不安でもあり、恐れでもあるし、つまりは恐怖心ともよべる感情だったりする。

結局のところ、人間は凝り固まったなにかとか、なんの疑問を持つ必要もないような習慣に、ある瞬間疑問がわいたときに、それをどうにも打破したくなるのかも知れない。

無意識に執着してる、無意識に固執してるなにかに恐れを感じるのだ。

それは自分のなかに確かな物差しをもっていないからかもしれない。

これでいいのか、これでただしいのか、もしかしたら違うのかもしれない。

それでも進まねばならぬ。

日々は、人生は恐怖だ。

その恐怖の中に光を見いだし、勇気をもって足をだすための理由付けを探し続けることを営みと呼ぶのかも知れない。

つまらない。いやつまるところおもしろいということがなんなのかわからない。

喜びというものはとても短絡的で刹那的な連続なもので、連続なのに、それをコマ送りみたいに感じる心と、その0コンマ何秒のコマのタイムラグにはかりしれない恐怖を感じるたびにわからなくなる。

どこへいこうと、なにをしていようと、いくら満ち足りていても。

いつだって寝首かかれるみたいにやってくるそれをもう身体は本能的に回避しようとするのだけど、その回避をするための方法ですら執着と固執の中にある。

ぐるぐるまき。

0はどこだ。

0も。

1も。

あうんも。












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Title: なんちゃら国。
2015.02.05
 
ここのところのニュースをみていて思うのは、

結局の所、なにが正しくて、なにが間違っていて、自分はなにをすればいいのか、それをじっくりと立ち止まって向き合うにはあまりにも世界のスピードが速すぎる。
 
そのスピード感についていくためにはどうしたって表面をなでるようにわかった振りをして、飽和した情報の中から自分の主観や主張に近い物をみつけてむりくりつなぎ合わせて、それがさも自分の姿勢であるように振る舞うしかない。
 
そこには震えるような怒りも、悲しみもない。それはたかだか数ヶ月もすれば、何事もなかったようにビールで流し込めるようなくらいの感情でしかない。
 
そうやって感情に直結しないような自己表現を疑いもせずに習慣にしていたら、いつかなにをしたってつまらなくなるし、心の震えない人間が何をしたって熱量なんて持たない。
  
どうやったら一つの事実に自分の気持ちをしっかりと寄り添えるか。それを足を動かして考えて言葉にすることは、あたりまえなようでこのスピード感の中でそれを行うのはとても難しい。
 
経済をまわすためにはスピード感は失うわけにはいかないのだろうけど、その速度に心や体をついていかそうとしたら必ずどこかに無理が生じる、無理が生じないために、そこに付随するはずの感情を受け流していると「感じる」ってことがどういうことなのか、その機能が人間のなにを補っているのかがわからなくなってしまうように思う。
  
ブルースリーも言うんだ。
  
ドントシンクフィールって。
 
 
*
 
 
僧侶として感じる事。
 
ここの所のニュースをみていて、自分がどうありたいかを思うに、浮かんできたのは、「安心決定鈔」の中の「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」という言葉。
 
次々に報道される情報をみて、その事実の一つ一つに自分が感じる事をつなぎ合わせていくと、本当になにが正しくて間違っていて、なにをどう断ち切ったら負の連鎖が消えるのか「命」というものの価値観すら自分がいまこの日本にいる感覚だけで善悪を決められることなのかどうかわからなくなってきて立ち止まる。
 
歎異抄の4章には
 
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。かれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。
 
と書かれている。
 
聖道・浄土のかわりめありがあるとしたら、いまこの瞬間、それがいつであれ「この今」にこそ、そのかはりめがあるのだと思う。
 
この平和な日本で画面に流れる情報をみているだけの人間が考える極めて側面的な事実は、自分の人生をかけて世界を変えようとするモチベーションになるには薄すぎるし、かといって世界の隅々まで足を運び、拘束される危険も顧みずに自分の手と足と目で情報を得ようとするだけの動機付けは自分にはもてない。
 
せめて自分にできるのは表面をなぜてわかった振りをして心を痛めたふりを数ヶ月して、その合間に手の中にある幸せを愛でるくらいのものだ。
 
また真宗の僧侶はそうやって自虐的にも自分がなにかを発すること、そして自らが働きかけることに消極的で、結局なにもしないのだといわれるかもしれないが、いま「いそぎ仏になりて」という言葉の中にある、ふつふつとした静かで、そして確かな強さのようなものを感じる。
 
「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」
 
はげしい怒り、憤り、悲しみ、そこに捕まれば捕まるほどに、自分と彼らを隔てるものはなにもない。
 
目の前の事実がどこからきて、なにが起きて、どこへ向かうのか。そんな無限の可能性と方法論を考えることの中に答えはみつけられないのだと思う。みつけられたとしてもその答えにはいつかまたほころびがでる。もし完璧な答えがあるのだとしたらそれはもう歴史が証明しているはずだ。
 
自分の考える答えがどこにあるのかと考えたときに、自分の身近にはたまたま仏教があり、そこにあるものを指針として確かな手応えを感じているので、いまの自分にできることは、強く確かに「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」ことではないかと感じている。
 
急激な温度変化は持続しない、持続しない感情で事をなしたところでその行動のもつ熱量はなにかをかえるには低すぎるのかもしれない。煮えたぎるような感情を腹の底にマグマのようにたたえている時だからこそ、いま自分のすべきことをもう一度立ち止まって確認したいと思った。
 
救えるのか、救われるのか、自分の役割はなんなのか、命とはなんなのか、その迷い、それすらも丸ごと人間の生み出すものすべてが、慈しみ悲しみの対象であるということは、真理だとか、教えだとかいう言葉に後ろ盾を得るまでもなく、まぎれもない事実だということをここ数日改めて深く感じた。
 
強く深く静かに。


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Title: 無用の長物。
2015.01.09

「自己とは何ぞや。これ人世の根本的問題なり」臘扇記の中の一文。

今日清沢満之が臘扇記を書いた年と同い年になった。

34歳の1年間はいつにもまして色々な縁とそれを取り巻く様々な業みたいなものに翻弄された1年だった。頭の中にあることを残らず言葉に変換して隅々まではきだせるほどの変換力がないので言葉足らずになるかもしれないけど、今の自分が感じていること。

自己とは、無数の縁の最前線の点みたいなもので、それはつねに変化しつづけているということ。

今の自分を作りあげているのは、ここに至るまでの多くの縁、多くの偶然や必然が奇跡的に重なり合った結果で、生まれた瞬間からその不可抗力とも言える縁の蓄積によって変化し続ける。刻一刻と、この瞬間もその縁は蓄積される。気温、湿度、匂い、お腹の具合、そして疲労や眠気、そういうすべての要素が今の自分の今の行動、今の思考をつくる。自分自身というものはそういう刻一刻変化する縁の中で常に流れ続けて存在しているということ。

その縁というものは人間の影響できる範疇をゆうに超えていて、人間の分限をはるかに超えている。それは「運」というものとも違う。「運」という言葉には良し悪しがあるが、縁は一見した善悪の範疇も超えている。人間は寿命という限られた時間の中で、この不可抗力である「縁」と呼ばれるものの存在を認めざるをえない状況に何度も出会い、直面し翻弄される。

その縁を生み出している「なにか」が「何」であるかは人間にはとても量りようがない。その量りようのないものを、時に畏怖し、時に崇敬し、時に翻弄され、その過程の中でその「なにか」に様々な呼び名をつける。それは時に神であり仏でもあり、時に悪魔とも呼ばれるものかも知れない。それが自分にとっては阿弥陀であるということ。

自分が選ぼうとも、選ばずとも、固執しようともしまいとも、抗おうとも抗うまいとも。この瞬間にふりそそいでくる縁の中に生かされている自分は、もはやその「なにか」のもたらす流れの中に奇跡的なバランスに生きているともいえる。生きるというのは人間の介在できる範疇をはるかに超えた無常の中に浮かぶということ。

人間の本質はその不可抗力の流れの中で何千年も前からなにも変わらない。

人間の創るもの、社会も、共同体も、イデオロギーも、大概は大きなリサイクルの中にあって、その本質はなにも変わっていない、そこにあるメリットやデメリット、生まれ落ちる苦悩には古代も現代も大差ない。技術や科学がいかに進歩したとしても、それは人間の本質を変えるには至らないということ。

その事実の前では、粛々とただただ1日を過ごしていくこと自体にもう大きな意味があるような気がしていて、そこに大きな目標やりっぱ生き様を掲げようとも、掲げまいとも大差ないように思う。ようは「ただただ」であることがいかなることかを認識できる心持ちの問題。

それはすべてを受け入れて、なすがままされるがままに、自分から作用をすることにたいして価値を見いだしていないとか、さじを投げているわけでもなく、今に受動的であるということは、すなわちそれ自体はとても能動的であると感じていて、そこを研ぎ澄ませていくことでつながるものもあるのではないかと思っているのです。

朝な朝な仏とともに起き夕な夕な仏をいだきて臥す。

その言葉の響きには、ただの枯れた諦めではない、強い姿勢を感じるのです。

いつかそんな人生を悠々と生きていきたいものです。

いざ35歳。



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Title: 天目山
2015.01.04

突拍子もないことをいいますが。

時代劇にでたいです。

歴史物にはまって読んでいる影響で、あの時代、主に戦国時代といわれている時代の人達の生き様や、想いや、一期一会の心には本当に心が震えます。だからというのもなんですが一度でいいから甲冑をつけてみたい。いや甲冑でなくともいいです、あの時代の空気感を感じてみたいのです。

だから時代劇にでてみたいです。

願わくば、小谷城の戦いの時の浅井長政とかやってみたいです。お市の方を見据えて「落ちよ」とか言ってみたいんですけど、顔的に浅井長政って顔でもないので、

一言坂の戦いの時の本多忠勝とかもやってみたいです。馬上で槍を振り回しながら、しんがりを努めながら、踵を返し、単騎武田軍に向かい、「殿を城へ!」とか叫んでみたいです。

もしくは、武田信玄の息子として生まれ、家督を継いだ武田勝頼の苦悩みたいなものを3夜連続のスペシャルとかでやってみたいです。長篠の戦いからの、最後は天目山で悲壮な面持ちで「朧なる、月もほのかに・・・」と言い終えるシーンで幕引きです。

自分で書いていながら興奮気味です。

ほかにも言いだしたらきりがないんですけど、自分が心動かされるエピソードというのは、往々にして大勝して覇権を獲る。という華々しい部分ではなく、必死に生きようとしつつも、そこで家督であったり、誇りであったり、一分みたいなものを胸に散っていく、又、散る覚悟ができる姿であったり、時に家督を守る為に、その誇りや一分を捨ててでも何かを守ろうとする想いであったり、そういう極限の苦悩や揺らぎに翻弄されつつもしっかりと腹を決めて前を見据える人間の生き様です。

それと時代物に一貫して言える一期一会の重さと、重いが故にそこに翻弄される人間の強さと脆さの中から生まれる人間ドラマを演じてみたいのです。

突拍子もないことをいいますが。時代劇にでてみたいです。

だれかだしてください。たぶん落武者の姿とかそこそこ似合うんじゃないかと思います。

しかし、恥ずかしながら、本当は天下に手がかかるような大物を演じられるほどの知識も見聞もなく、所詮付け焼き刃の小兵なので、だれかおもしろ戦国話をしながら一緒にのんでくれたらそれだけで幸せです。



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Title: 2015。
2015.01.02
あけましておめでとうございます。ビバ2015年。
 
なぜか今年は元旦から、さだまさしの案山子が頭の中でリフレインしています。
 
昨年は色々なことがありました、毎年のことながら、ゆくとしくるとし、去る人来る人、着々と時間は流れていくのだなと。
 
先日あるお坊さんが、
 
「8歳の子が感じる1年は8年生きたうちの1年なので8分の1年。60歳の人は60年生きたので1年も60分の1年を過ごしたことになる。だから大人は1年を短く感じるんですよ」
 
と言っていました。ああ、なるほどうまいことをいう。今度どこかでパクって使おうとおもいつつも、時間を長く感じるかどうかは最後は自分の気持ち次第だと思うのです。そして短く感じるからこそ生じる価値もあると思うのです。
 
昨年を通して一番深く刻まれたことは、今の自分をつくっているもの、思考も思想も、動機付けも言い訳も、好きも嫌いも、いままでの自分の人生の蓄積で、生まれた場所や、偶然とか必然とか、出会いや別れとか、弱さとか、守りたいものとか、それを取り巻く気温や湿度や匂いとか、お腹の具合とか、疲労や眠気とか、そんな類の結果であって、そこには自分の意識や想像もはるかに及ばないたくさんの縁の集大成で、それは同時にこの瞬間も刻一刻と変化していていてまさに無常なのだなと。それはきっと抗っても抗いきれない途方もないものなのだなと。
 
それは自分に限ったことでなくて、みんながみんなそれぞれの人生の蓄積の中で、色々な事を考えて、思って生きていて。それはつねに変化し続けていて、唯一無二で、だれかと同じ自分なんてものはあり得ないのだなと。そんなあたりまえのことに深く心が動いたのです。
 
だからこそ、生きてることも、人と出会うことも面白くて。2015年は人との縁をもっと楽しんでいきたいなと。顔をあわせて話がしたいなと。そんでもって、最近は何かになろうとするのではなく、この流れの先にある何かが何であれそれでいいのかもとか思います。
 
とりあえず、2015年もお酒とおもしろい話があればそれで十分満足だと思える人生でいたいです。苦しみは味付けに少々ってなもんで。
 
今年もどうぞ宜しくお願いします。
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Title: 範疇。
2014.12.30

自分の範疇は、言葉や、表情や、空気や、同じ気温や同じ匂いを共有できるくらいの範囲。

そこでできることを精一杯する。

そこでできることの完成度をもっと高める。

そこから生み出せるものの完成度をもっと高める。

そこでできることは、言葉を知ることでもあるし、多面的であることで、後の先をとることでもあり、心を絶えず動かしていることでもあり、あれとこれを結びつける発想でもあるし、それを遊ぶ心でもある。

それは人を好きでいることでもあるし、自分を知りたいと願うことでもあって、結果として満たされるとか満たされないとか、そういう言葉の壁に翻弄されながらも、それを乗りこなすこと。

そんでもがいてあがいて、そのなかからがむしゃらになにかをつかみとろうとして隻手の声をきくこと。




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Title: ひと。
2014.12.30

苦しいも、悲しいも、忙しいも、つらいも、嬉しいも、人にはそれぞれに基準があって、誰かにとってのつらいは誰かにとっては屁でもないことで、誰かにとっての嬉しいも、誰かにとっては屁でもないことで。

だから、つらいや、苦しいや、悲しいも、忙しいも、嬉しいも、幸せも、誰かと誰かを比べる事なんてできないのだけど、最近は比べられないから比べることはナンセンスなんだというのではなくて、そんな雲を掴むようなことをやめられなくて、そんな雲を掴むような話に翻弄されるということが生きるということそのもので、その絶対的な基準を持っていないからこそ人は惑うのだということと、絶対的な基準がないからこそ救われる可能性があるのだと思う。

惑うというのはおもいろいもので、苦しみを苦しみだと感じているときに、そこに迷いはなくて、本当に迷っているというのは自分が迷子だということに気づいていないときだけなのだと思う。

自分は迷っていない。惑っていない。はたしてそうかと。

いやはやそう思う自分はそこに気づいているから惑わないのだと。

はたしてそうかと。

つねに自分を二重にも三重にも無明は取り巻いていて、それは地球が宇宙に浮かんでいて、太陽系の外側には、銀河系があって、その外にもその外にも真っ暗な闇が広がっているような物で。

人間は、地球を知ろうとしても、宇宙を知ろうとしても、太陽系の起源をさがしても、銀河系を目指しても、肉体の限界は80年やそこいらなのだ。人間の脳の使い方にも、肉体の使い方にも限界はある、思考の限界というのは、脳を動かせる時間の限界に比例していて、それはたかだか寿命の範囲内なのだ。

自分が脳と肉体をどこまでフル稼働できるかはわからないし、その日がいつやってくるのかわからない中で、人は惑い続けなければならなくて、それは人間に科せられたものでも、背負わされたものでもなく、それを「生きる」ということだけのことで。耳障りのいい「生きる」定義なんてものは、誰かのいう幸せと自分の幸せ、誰かの苦しみと自分の苦しみに公約数をみつけているというただそれだけのことなのだと思う。

得るも、失うも同じだ。

今日も昨日も。

大晦日も元旦も。






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Title: はやま。
2014.11.20

「観たまま、感じたまま、知ったまま」とは、ものを視覚でとらえた観たままを描き出すだけでなく、そこに自己感動があらわれ、またそのものが最も美しく見える状態を知るということであり、このような素描が出来るようなるまでには、相当に永い訓練が必要になる。

山口蓬春氏の言葉、響いた。
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Title: つかっえぼう。
2014.11.10

生きていれば、時々ふらっと倒れそうになったり、地べたに座り込んで立ち上がらなければならないときに、どこかにつっかえぼうをついて、身体を支えたいと思うようなことに出会わなければならないわけで。

紙一重とはよくいう。

そのつっかえぼうは諸刃であればあるほどに効力を発揮するのかもしれない。自分を支えるものは、誰かや何かではなく、手の内においておきたいのだけど、なかなかそうは問屋が卸さないわけで。

強さと弱さは紙一重という考え方もそもそもが執着でなのかもしれないのだけど、右往左往と不可抗力に翻弄されている自分にあと何年もつきあわねばならないかと思うとただ漠然と強くありたいと願いたくもなる。

まわりのすべてが追い風に感じる感覚と、まわりのすべてが向かい風に感じる感覚のどちらも忘れたくない。その中で右往左往して落ち込んで、またそれを糧に歩を進めて、結局の所同じところをぐるぐると歩き続けることを繰り返していくのだろうな。

1周目と2周目は同じ所を回ってるとしても、それが同じかどうかは自分次第ってなもんか。

いち抜けない。いつまでたってもいち抜けない。

抜けたと思っても気づいてみればいつだって振りだし。



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Title: どろどろ。
2014.10.31

「どろだんご」ばかりをつくっているわけでもなく。それが自分の生業でもないのだけど、でもおそらくこんなに人生でどろだんごをつくったことのある34歳もそう多くはないと思うわけで。

最近、子どもたちのどろだんごをつくるスキルがあがってきて、もはやピカピカにするに飽きたらず、色をつけて、さらに磨きをかけて、もう泥だかなんだかわからないようなものにまで昇華させる子どもまででてくる中で感じたこと。

どろだんごをつくる手順というのは、

まず芯となる土を練る。練る練る練る。空気を抜く。

陶芸の世界ではこの土を練る作業を「菊練り」というそうだ、菊練り3年ろくろ10年だそうだ。どろだんごをつくっててもこの作業は思いの外大事だということで、ちゃんと練れてないとひび割れをしてしまったり、しっかりとした球体にならない。土の中にあるつぶつぶした塊をつぶして、空気を抜いて、練りに練った土を手の中で転がす。

転がす転がす転がす。

ここの力加減も重要。すこし乾いてくるとここで力を入れすぎると表面からひび割れてしまう。そして少し土の湿りがとれて、手に泥の痕がつかなくなるくらいまで乾いてきたら形を整えて自然乾燥させる。

すこし乾いたら、ここからの作業がどろだんご作り中でも核となる作業、乾いた土、通称「ふわ土」を表面にかけて、それを手ですりこむようにだんごをこする。つまりはここで研磨しながら、芯となる土のまわりに光る層をつくっていくのだけど、ここも加減が必要で、土をかけすぎると、表面からパリパリはがれてしまって、すり込みが足りないとうまく光らない。

何が言いたいかというと、その作業工程のほとんどに感覚的な要素が多くて、はじめてつくってもなかなかピカピカにはならないのだ。何度も繰り返すことで、その感覚がなんとなくわかってくるとどろだんごが光るようになるのだけど、子どもたちはそのなんとなくの感覚を自分のものにする時に、例えば土の乾いたタイミングをはかる時「つめたいか、つめたくないか」「軽いか、軽くないか」「やわらかいか、やわらかくないか」とか、嘘かほんとか「匂い」でそれを見極める子どももいる。それぞれがそれぞれの感覚でそれを判断をしていて、その感覚のとらえ方にこんなにも違いがあるのだということに驚かされるのです。

それに何度も繰り返すうちに、いま自分のもってるだんごがうまく光るかどうか、その感覚的な判断というのもうまくなってきて、もはや国宝級の陶芸家のように、いままで大事に手の中で転がしていただんごを唐突にたたきつけて、これじゃだめだ!作り直し!などということはもはや日常茶飯事となっている。

そしてかなりの確立で光らせることができるようになる子どもがチラホラ増えてくると、その子が他の子どもに指導をするのだけど、その教え方もまた千差万別でみていてとても面白い。「伝える」ときに必要なことはつくづく達者な言葉ではなく、言葉に頼らなくとも大事なことはしっかりと伝えられるもので、大事なのは教える側がいかにそれに夢中であるかどうかとか、そういう温度みたいなものが大切で、結果としてそれが教わる側に伝われば最後に目的は達成されるのだ。

そして一番響いたのは。

1つのだんごを最後までピカピカにするためには、それなりの時間と労力が必要で、1日の自由遊びの時間だけでは完成させることができなくて、何日かにわけてつくることもあるのだけど、その大事につくっただんごを不用意に落として粉々にしてしまうということがよくある。

その瞬間まわりで見ている自分とかは、あっ!泣いちゃうんじゃなかろうかとか、ショックを受けてるんじゃなかろうかと、余計な心配をしてしまうのだけど。

その時に、自分で大事に大事につくって、何度も何度も取り組んできている子どもほど、またつくればいいやってなもんで、切り替えがとてもはやくて、ショックはあるのだろうに、黙々とまた次のだんごにとりかかるのだ。

それはきっと自分はまた光らせることができるという自信からくるものなのかもしれない。その姿をとても頼もしく、そしてまぶしくも感じるのです。

たかがどろだんごなんだけど、されどどろだんご。

一つのことに五感を研ぎ澄ませて向き合うということは、本当に大人の想像する以上にいろいろなところを育むのだなと。

そんなことを感じたとかいっておかないと、どろだんごをつくって遊んでるだけだと思われるので、大義名分と自己肯定の為に書き残しておくことにする。









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Title: 鱶。
2014.10.31

最近自分の考えることは反芻であり、その精度をあげる作業が多いように思う。

あたらしく思いつくことというよりも、新しく思いついたようなことでも、前に一度考えてきたことととつながっていて、そのつながりに新たに考えていることが深まっていくような。考えるということはとてもおもしろく不思議な作業。

考えて考えた挙げ句の果ては、考えているということには限界があって、最後の最後は身体にきくしかないのだという。

日常にも、どこもかしこも紐が繋がっていて、苦しみも喜びも、すべてがすべて紐が繋がって、断ち切れているものなんてのは一つもない。

引けば張る。たわめば緩む。

言葉や文字はいつか消える。

脳への蓄積。

経験の習慣化。

最後はこの身、この脳ミソ一つが生きることの証明であり、自分自身の財産であり。不可侵な領域。

そいつ一つで勝負するのさ。

積みあげたもので勝負するのではなく、積みあげたものと勝負するって歌が、脳裏にこびりつきました。







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Title: 絵本。
2014.10.07

たまに絵本を読んでいて思うことがあったのです。

この絵本のなにが面白いのだろうと。ただ、豚が餌を食べてるだけの話じゃないか。ただうんこをしたというだけの話じゃないかと。

そんで自分の選ぶ本はどうしても道徳がましい、蘊蓄がましい本ばかりを選んでしまうのです、例えば、喧嘩をして仲直りをする話だとか、心の優しい赤鬼が泣いちゃう話だとか。

そういう、これを読ませたい、ここから教訓を得て欲しいなどと思って買い与えた本は、少なくとも、3歳から5歳くらいの子どもたちには不評だ。

例えば、本を読んであげるからなんでもいいから持っておいでというと、大抵は「この絵本のなにが面白いのだろう」がくる。そしてその本を読んだときの子どもの反応はものすごくいい。

なぜだろうかと思って考えたのだけど。

おそらく幼少期3~5歳の子どもは絵本を読んでいるときに、それは絵本の内容を聞いているのではなく、うまくいえないけど、絵本の中にはいっているような気がするのだ。

絵本を読んでいるときの反応をみていると、例えば、次のページで大きな魚が迫ってくるであろうシーンのページをめくろうとすると、多くの子どもは目を閉じたり、きゃーといったり、あぶな~いといったりする。(むろん絵本を読むのがうまいという前提のもとだけど)

それをみていて、ああ子どもたちはこの本の中にいるのだなと。

大人が本を読むときは、それを第三者として読むことが多いと思うのだけど、子どもは絵本を読むときに案外当事者なのだなと。そう考えて子どもの好きな絵本を並べてみると、たしかに、子どもの感情移入しやすい言葉選び、場面選び、そして感情移入しやすい工夫がされていたりする。絵本を作る人というのはすごいものだ。そういうものを巧に織り交ぜているのだ。

そこで自分がその世界に入り込むことでイメージの世界を広げ「想像する」という力を育んでいくのだなと。人間は想像できないことは実現できないし、想像できることは必ず実現できるなんてことを誰かがいってたななんて。

そんなことを考えている時に、ふと阿弥陀経をあげていて。

舎利佛~というところにはいってみようと思ったのです。いつもは第三者として、仏陀が舎利佛に話しかけている場面を眺めているだけだったのだけど、実際にインドでみた祇園精舎を思い出して、そこに座って、自分が舎利佛だとして、これを自分に言われているのだと思って読んだのです。

ってか聞いてるし。他に1250人も人いるのに、名指しされすぎて逆に集中できないわ!恥ずかしいわ!って思いました。


*

子どもに、一番好きな遊びをしようとか、一番好きなものの絵を書こうとかいう声かけをたまに聞くのだけど、黙ってたら二番目に好きなもので遊び、三番目に好きな絵をかくってこたないし、そもそも一番ってなにっていうひねくれたことをおもっちゃうのさ。

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Title: くも。
2014.10.07

蜘蛛の巣というのは、本当に絶妙なところにあるものだなと。

トンボとかみてて思うのだけど" けものみち "というのがあるように、虫にも虫の通りたくなるところ、飛びたくなるところ、おもわず留まりたくなるような所があって、その絶妙にトンボが飛びたく、留まりたくなるようなところに蜘蛛は巣を張っているように思うのだ。

蜘蛛自体のスペックというのは、自分でトンボや蝶に飛びついて捕食するということはできなくて、巣にかかって弱った虫を喰らうくらいのものなのだけど、だからこそ巣をどこに張るのかそういう戦略的なものを研ぎすまして本能に刻んであるように思う。

蜘蛛にも色んな種類がいて、それぞれ捕食対象も違うわけで、それぞれの捕食対象に癖や好き嫌いがあるわけで、それによって巣の張り方も違うわけだ、それを蜘蛛というやつは、それぞれの虫がひっかかりそうなところを本能的に熟知して巣をはるわけで。

いうなれば、酔っ払いがとおりそうな所に空き缶を転がしておくような。

公園に1つだけあるベンチをいつもペンキ塗り立てにしておくような。

絶対に押してはダメですとかいてあるボタンに瞬間接着剤を塗っておくような。

そんな狡猾な空恐ろしさを感じるのです。その研ぎすまされた戦略をもっといいことにつかえないものだろうかとかなんてことを蜘蛛のやつに思ったのだけど。

相手の落ち込みやすいところ、はまりやすいところ、道を外れそうな所に、先回りして、罠を張るのか、セーフティネットをはるのか。その違いには雲泥の差があるのだけど。でも共通しているのは、相手を熟知しているということだ。

相手を熟知する力というのは、何をする上でも重要な能力で、相手がどういう時にどういう道を選ぶのか、どういう所を好んで、どういう行動をするのか。ビオトープというものに関わっているとその相互関係はとても興味深い。

そして思うにそれはそのまま人間社会にも活用できることだらけのような気もするのだ。

相手の落ち込みやすいところに狡猾に罠を張り、高齢者に「オレオレ」って電話をかける。これだけ注意をされていても年間何億円もの被害をだすということに、人間の本能的なもの、高齢者の抗いきれないなにかを熟知している「オレ達」にある種、蜘蛛に感じるような空恐ろしさを感じるわけで。

その才能をなにか別のことに使えばいいのにとか思うのです。

いま思ったけど、お坊さんって本気だしたらそんじょそこらのオレオレに負けてるようじゃダメだと思うのです。オレオレが先回りして罠を張るところにセーフティネットを張れなきゃだめで、むしろ時にオレオレを罠にかけてひっぱりあげるくらいの狡猾さも必要なのかもしれないと。

人間の業によるだまくらかしあいに勝てないようじゃまだまだなのかもしれないっす。まさに紙一重なのかもしれないっす。

それを方便だとか、待機説法だとかいうところにこじつける気はないのですけど。

今日蜘蛛を眺めながらそんなことを考えていたのです。



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Title: 妖怪ウオッチ
2014.09.03

妖怪ウォッチが空前のブームのおかげで、最近身の回りで起きる不可解な出来事はたいていは妖怪のせいということで丸く収まることが多い。

保育室の蛍光灯がチカチカしても妖怪のしわざ。さっきまで使ってたおもちゃが見当たらなくなったのも妖怪のしわざ。降りたあとのブランコがしばらく揺れていているのも妖怪のしわざ。

それはただ電球が切れて、おもちゃを置き忘れて、慣性の法則だけの話なのだけど、子どもたちにとっては妖怪のしわざだそうだ。

なに妖怪なんだろう?なんてやつだろう?口々に言い合う姿をみていて、やれやれ、なんでも妖怪のせいにすればいいってものでもないと思いながらも、見えないものに思いを馳せるということは大切なことだなと感じます。

おもうに、ただ電球が切れただけ、おもちゃを置き忘れただけ、慣性の法則なだけ、ということは事実なんだけど、ただそれだけでは味がないというか、なんというか"のりしろ"がない気がします。

最近、その味とか"のりしろ"みたいな、"目に見えないけどそこにある"ものの重要性を昔よりも感じるようになりました。それは俗に年をとったということなのかもしれませんが。

例えば、昔は祈ることにどんな意味があるんだ。祈る暇があるならお金をだしたほうがよほど世の中の役に立つだろうなんてことを思ったりもしたのだけど、祈りも、願いも、約束も、指切りもげんまんも。お天道様が見ているよも。

質量はないし目には見えないし、確証も確約もないけど、でも人間というのはいいとか悪いとか、意味があるとかないとかではなくて、そういうところにすがりたくなる心や、そういうものに思いを馳せることで力が湧いてくるということが既存設定になっている生き物で、それを理屈でねじ伏せようとしてもどうしょうもないのだということがよくわかった気がします。

どうしょうもなく八方塞がりの時に、逃げ場にもなり、立ち上がるきっかけにもなり、自分を根底で支えてくれるのは、そういう目に見えないものに思いを馳せる力ではないかと思います。

子どもたちの中には既存設定でそういう心が根付いているように感じます。それはあの小さな子どもたちが親元を離れて社会に漕ぎ出すということは、大人の想像するよりも何十倍もいろいろなものを消耗していていて、それを根底で支えるためなのかもしれません。

それが成長とともに、そして教育の中で失われいくことはとても残念なことだと思います。「生きる力」というのは一言でいうと漠然としているけど、つまりはそういうことなんじゃないかと思います。



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Title: つくつくぼうし。
2014.08.31

気づけばミンミンゼミももう力なく、ツクツクボウシがなくやいなや、赤とんぼがとんでます。暑さ寒さもなんとやらといいますが、彼岸を待たずして秋のかぜ。

今年の夏は、いや今年の夏も存分に満喫充電できた。

今年の夏に感じたこと。

人間って迷うと、やっぱり理屈や理論や、規範や道徳や、そういうガイドラインにそって迷いをねじ伏せようとするのだけど、最後の最後で迷いを振り払うのは、理屈やガイドラインじゃなくて、祈りや、願いや、暖かさや、優しさや、愛や、感謝とか、そういう類のものなんだということで。年をとったからなのか、ますます人生は数式ではなくて、文章問題なんだと感じる。

文章問題を解くために必要なものは、行間を読む力なのかもしれなくて、大事なものはいつだって行間にあるのかもしれなくて、そういう余白みたいなものの不確かさと曖昧さが絶妙に絡み合っているのが人生で、それはとても歪で、左右不対称なのだけど。だからこそ唯一無二で、味があって、愛すべきものなんだろうと思う。

1+1=2じゃなくて、いろんな可能性があって、むしろ2が正解だと思い込むことで、人生が全然見えてなくて、人生の中では、1+1=3にも4にもなって、でも、3になるにはちゃんと理由があって、その理由に作用してるのは、公式では表せないもので、それは不正解じゃない。

正解か不正解かじゃないところにあるもの。それが人の心をつかむものだ。

旅先で写真を撮っていても感じた。だれがあの場所で同じようにシャッターを切っても同じ写真は撮れない。そこにあるものは1+1=2じゃなくて、3にも4にもなっててその理由は、言葉にするなら「想い」としかいえないようなもので、そういう目に見えないなにかみたいなものが間違いなくそこにはある。

質量だけが存在だけじゃない。

視界にはいらないものがすべて見えないわけじゃない。そして"見えない"ものはわからないと片付けてしまえばいいわけではない。見えないものが見えていないのは、自分の問題であることがほとんどだと思う。

15歳の時の自分が何もかもわかったような顔で、人生に悪態ついていたのを思い出して、その頃からここに来るまでの道程に自分が通っていた道や、かけてきた時間や、得てきたものや、失ってきたものや、いろいろなものが熟成して、いい感じに臭くなってきた。鼻をつくスメル。

くさくてなんぼ。くさや並。





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Title: 悪人正機。
2014.08.22

ほぼ日の引用。備忘のために。

袋小路に追いつめた状態で、なにかをするというのは、なんでも、だいたい、よろしくないことです。それをやりがちなのは、ほとんどが、じぶんが「善いこと」をしていると思っている人です。じぶんがやっていることが「善いこと」でないと、人を動かしにくいから、じぶんのしていることを、どんどん「善いこと」だと思いこむように、じぶんをも「追いつめて」いってるのかもしれません。「善いことをしているときは、悪いことをしていると思っているくらいで、ちょうどいいんだよ」とは、吉本隆明さんのことばです。正義のお面をかぶりたがる人は、かないまへんな。
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Title: ロビンウィリアムス。
2014.08.12

ロビンウィリアムスのでている映画が好きだった。

トイズ・ミセスダウト・ジュマンジ・ジャック・グッドウィルハンティング・パッチアダムス・奇跡の輝き・最高のともだち・ナイトミュージアム
どれも好きだけど。中でも、

「グッドモーニング, ベトナム」の中の「ぐっ~~~~もにんベトナム!!」のセリフと、ベトナムの状況を背景にルイ・アームストロングのWhat a Wonderful Worldが流れるシーンは今でも脳裏にこびついてはなれない。

「今を生きる」は何度もみた。全寮制男子校という当時の自分と同じ境遇の映画ということもありとても感情移入しながら。あの最後のシーン、みんなで机の上に立ち上がるシーン「おぉキャプテン、マイキャプテン!というシーン、今みても鳥肌が立つ。当時机にseize the dayと書いた紙を貼っていたのを思い出した。

この2つの映画はおそらく今の自分をつくる要素の一つになっていると思う。
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Title: デフラグ。
2014.08.08

海に浮かんで、海底を見ていたら、きれいな石や、陶器の破片や、ガラスの破片が落ちているのです。どれも波と潮にもまれ、角がどれてやさしい丸みになってキラキラと。

それをひとつつまみあげて、またひとつ、またひとつと集めていくうちに、だんだん欲が出てきて、これはきれい、これはいまいちなんてことを思いながら選りすぐりの石や陶器の破片とガラスの破片をあつめながら感じたこと。

同じ形のものは一つとしてなくて、そのひとつひとつが、長い年月をかけて波や潮や、たくさんの不可抗力の影響を受けて角が削られて、沖に流されては、浅瀬に打ち寄せて、そしてたまたまこの手の中にあるわけで。それはまるで人生と同じようだと思ったわけです。

島に出る前に、テレビのニュースをみていて、つくづくこの不可抗力がひとつの結果に結びついているのだということを実感したのだけど、それが遠く離れた島の海の上で繋がったりするのです。

目に見える物は本当はすべて繋げられると思う。

目に見える物や、そこにある結果はすべて、本当は目に見えない不可抗力の上にのっかていて、その目に見えないなにかは本当に不可抗力で、生きるというのはその流れの上に浮いているだけで、その流れは凪いでるときもあればうねりを伴うこともあって、いつ変わるかわからないその満ち引きに翻弄されて、翻弄される度に自分の器を、心を、自分はそれを無理矢理にでも適応させていくしかないのだなと。

成長というのは、つまりはその流れにいかに翻弄されたかで、自分自身の力だけで積み上げていくことだけを指すのではないのだと。成長ひとつとったって、縁が熟さなきゃ実を結ばないのだと。

ぷかぷか。

夏というのはいわば脳のデフラグだな。

気づけば外はミンミンゼミ。夏も中盤。

IMGw.jpg

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Title: しきね。
2014.08.06
今年も大人の夏休み。夏充電。

30も半ばのおっさん達は、蝉の声で目を覚ますと、朝から日が傾きはじめるまで、ひたすらに泳ぎ、ひたすらに潜り、ひたすらに食べては飲み続け、電池が切れたように眠るのです。

そうして5日も島タイムの中にいると、頭の先から足の先までとろりとほどけるのです。どのくらいほどけるかって、毎朝民宿のトイレに座っている時に入れ替わり立ち替わりにはいってくる人達を感じながら、なにかそこにある人間の営みのようなものに思わず感じ入ってしまうくらいです。

息子も朝日にむかって思わず手を合わせてしまうってなもんです。

そんな、ザ・日本の夏休みも今日で終わり。

東京に戻り、お腹ペコペコで船を下りたときに、目に飛び込んできた昼食の選択肢多さに一瞬迷った自分がいて。ああ、この迷いがまさに東京砂漠の入り口なのだなと思いました。そして今、家の近所を散歩してたら、こんなにも東京には一人でぼけっと座っていられる場所が少ないのだなと感じました。

さよならさんかくまたきてしかく。

ポン酢醤油はキッコーマン。

まだまだ夏ははじまったばかり、まだまだ貪欲に充電、つくつくぼうしまで走り続けるのです。

あなかしこ、あなかしこ。

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Title: 大人の子守歌。
2014.07.29

何か一つの事件が起きたときに、加害者にも被害者にも、必ず意志だけではない何かが大きく作用しているように思えて、その意志の外にある背景や環境や状況や、その全てが一つの結果に繋がっているのだということをつくづく感じる。ましてやそれが子どもであればあるほどその影響は大きい。

心がまだ柔軟で柔らかい時期、身体がたくさんのものを吸収しようとしている時期に、人間は自然と感受性を高めて、少しでも多くのものを吸収しようとする、それは生きる為の脳の本能みたいなもので。

そのときに一番怖いのは失うってことなんだろうと思う。身体が得よう得ようとするときに何かを失うことはおそろしいことだ。簡単に手放せない、簡単に捨てられない。大人は簡単に諦めればいい、逃げればいい、気にしなければいいっていうけど、子どもは大人ほど簡単に捨てられない。大人からしたらちっぽけなようなことにずっと縛られている。その捨てられない物が澱のように沈殿して、様々な形になって表に出てくるのだろうと思う。それはとても自然なことなのかもしれない。

その表に出てきた切っ先が、誰かに刺さらないように、自分を傷つけないように、時に理不尽にそれをへし折ったとしてもその切っ先の行く末を見守るのが親の役目なのかもしれないなと。それが例え理不尽で力尽くに見えても、へし折らなきゃいけないときもあるんだきっと。

なつなつなつなつここなっつ。

夏に聞こう。夏に。

さてプール行こ。

ttps://www.youtube.com/watch?v=GOI6iHCiaD8

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Title: ろっく。
2014.07.28

さび入りのお寿司を、平気な顔で食べられる大人よりも、いくつになっても、平気で玉子さび抜きって言える大人のほうがかっこいいと思うんだ。

ださいのはかっこいいんだ。泥まみれで、鼻水まみれでも、かっこいいんだ。

いくら、まぐろ、カッパ巻きってなもんだ。

もっと強くなりたいと思うことがある。でも、強さってのはもしかすると漠然と追い続けるためだけにあるのかもしれない。そんでいつか強さなんかどっこにもないじゃない!って笑えたときに、自然と身についているようなものなのかも知れない。

どこもかしこもロックだな。





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Title: なつ。
2014.07.18

1年間もちゃもちゃもちゃもちゃいろんなことを考えてぐるっと回ってまた夏になって、ああもっと青臭くありたいなぁというところに立ち返ってきて、また1年をすごすのです。

夏がはじまるのです。


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Title: 陥。
2014.07.15

時々陥るところ。

書きたいという気持ちよりも、書かなきゃっていう想いが先行すればするほどに、何も湧いてこなくなる自分に焦りつつも、でも湧くまでまてばいいのだと言い聞かせながら、時間だけが過ぎて、このままずっとなにも湧かなくなってしまったらどうしようという気持ちになってきて。

そうだそれをそのまま吐露するところからはじめればいいのだという、長いスパンのスパイラル。

書くということは本当に面白い。

書くのは文字だけど、文字は一つの表現の手段で、大事なのはなにを表現するのかということで、それはとても至極当たり前のことなのだけど、書けば書くほど、それがわからなくなることがある。

なんでもそうだ。

本当に大事な事はなにか。

その行動はどこからくるものなのか。

伝えるとはなにか。

全部同じ所からくる。

芸術でも、仏教でも、わびでもさびでも。

真ん中があってはじめて枝葉がでるのだ。

枝葉をのばすことばかりに気をとられたらいけんのです。

いちどニュートラルにならないと、真ん中がどこかもわからんくなるとですよ。


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Title: ネバーランド。
2014.06.19

ネバーランドに行ったら幸せになれるかどうか。

ある人がピーターパンになれたらいいのに、それが無理でも、せめてネバーランドに住んでいれたらいいのにと言っていた。

それを聞きながら、果たして来週ネバーランドに家でも借りることができて、引っ越しもとんとん拍子で進んだとしたら、自分は幸せになれるのだろうかと考えてみた。

否、自分はきっとネバーランドに行って、年をとらなくなって、妖精たちと空を飛び回って、毎日をおもしろおかしく過ごしても、いいところ1ヶ月くらいしたら日本の東京の自分の部屋で悶々としているときと同じような気持ちに舞い戻るに違いない。例えウェンデイが一緒だとしても。

ネバーランドで心から楽しんでいられるかどうかということは、いうなれば今を生きられるかどうかということなのではないかと思うのです。「今を生きる」というととても素敵な響きに聞こえるのだけど、それはそれは勇気も根性も覚悟も必要な事だと思うわけです。詰まるところ、自分にはその強さを貫き通せるかといわれたらその自信はない。

「今を生きている」ということは、今目の前にあることや、出来事や、感覚に100%を注ぎ込むこと。

ピーターパンに置き換えるのであれば、ネバーランドにむけて外に飛び上がるときに、上空は寒いのではないだろうか、航空機の経路を横切ってしまったりしないだろうか、飛んでるところを人にみられないだろうか、飛ぶ前にトイレにいっておいたほうがいいのではないだろうか、明日までに戻れないのだとしたら職場にメールでもいれておいたほうがいいのではないだろうかとか。

そんなことを考えたりしない、いや考えつきもしないということだ。考えつきもしないから空を飛べるのだ。

今の自分にはなにも考えずに空に飛び上がることができるのだろうか。ネバーランドに行く前にこんなことを考える人間がネバーランドにいったところで心から楽しめるはずなどない。

子どもが遊んでいるときに、目の前に水と泥があったとして、泥遊びしたいなぁ、でも着替えがないしやめとくかとか、爪の間が泥だらけになると困るからやめようとか、まだ月曜日だし、ここで出し切ると1週間持たないし今日は日陰で本でも読んでいようとか、そんなことは考えない。ネバーランドに子どもしかいないのはきっとそういう理由なんだろう。

転ばぬ先に杖はない。だから転ぶ。だから傷だらけの泥だらけ。

「今を生きる」というのは、転んで傷だらけになる恐怖との同居でもある。しかしながらそれでも子どもは毎日今を生きてる、それはなぜかといえば、そんな恐怖よりも世界はキラキラとした好奇心と刺激に満ちあふれているからで、池に氷が張ったという現実だけで界はバラ色に見えるからだ。

その世界がキラキラと見えるということは、経験の少ない子どもが一寸先は闇の大海原に踏み出すなによりの原動力であるということ。そしてネバーランドがとても素晴らしい世界に感じられるのは、その世界を作る人達の原動力があってこそなのだと思う。

転ばぬ先の杖があるから、安全に安定して人生を歩くことができるのだけど、その杖があるからこそ、時に自分でも気づかないうちに杖をうまくつけないと歩くことすらできなくなってることもある。

つまりは経験をすることで、かえって原動力を失っているという場合もあるということだ。その原動力がなければ、ネバーランドにいても東京砂漠にいても大差ないのだ。

それに、転ばぬ先に杖をついても思い通りにいかず、杖をつきたいのに現実はうまく杖がつけないこともあれば、うまくついていたはずの杖が他人に簡単にへし折られるなんてこともあるわけで、杖がそのまま苦に変わることもしばしば、それなのにまた同じ杖を迷いなく同じようにつこうとする。

大人になって経験をすることで、転ぶことも、傷だらけになることもすくなくなるし、そうしないと守るものもまもれないし、社会の中ではいきてはいけないので、転ばぬ先の杖をうまくつくことはとても大切のだけど、それは絶対的に正しいことではなく、ましてやそれが成長なのだと思い込んでしまうことで成長が止まってしまうということもある。経験して見える深度が深くなって、先を見通せるようになって、できることが増えるようになることで失っているものもある。

できないことが、できるようになることが成長なのであれば、できるようになることで、できなくなることが増えるということに気づくこともまた成長と呼べるのだと思う。

今ふと、思い出したのだけど、ジブリ美術館に行って、案内図もパンフレットもなくて、どこになにがあるかわかんないなぁと思っていたら、「迷子になろうよ。いっしょに。」と書かれていたのを思い出した。地図に頼っていると、迷子になることができなくなっちゃう、迷子にならないと見えないものもあるよってなことね。

付随して、人を惹きつける人の多くの人は、ネバーランドと現実世界をいったりきてるしているような人で、大人と子どもの視点の両方を熟知している人であることが多い。それをカリスマ性と呼ぶのであれば、カリスマ性というのは、いかに幼児性を内包しているかということになるのかもしれない。幼児性の中には、ほっとけないとか、力になりたいとか、そういう気持ちを呼び起こすものも含まれるわけで、なにかを大きく変えるときには、その力はとても重要になるということだ。

しかしながら、いつだってこの瞬間に命をかけてやるぜくらいの熱さを持っていたいという気持ちは健在だし、ここぞとばかりにそういうある種の熱量に心を奪われる姿勢は忘れまいぞ。








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Title: 太陽族。
2014.06.06

自分は、理屈っぽくてめんどくさい人間のようだけど。

でも本当はすごく単純でシンプルで、理にかなってなくて、ちぐはぐで、支離滅裂なのに、それなのにまっすぐで前を見据える目とか、姿勢とか、そういうものに対峙したときに、もうそこに全部賭けてもいいって思ってしまうくらいに単純で。

でもそこに踏み出せない自分の脆さや弱さが、自己防衛として理屈や言葉に頼っているのかも知れないなと。

*

ロックも仏教も、保育も誰かを想うことも。

そういう自分の中に落としたことを、一つに結べること、つながんないものはないと自信を持てるのが自分のいいところだった。そんでそれが自分の好きなことだった。それを結べるときにすごく幸せを感じるんだった。

おもいだした。

ありがとう。

よし、抜けた。

飄々。


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Title: ことば。
2014.05.28

言葉を見ること、言葉を読むこと、言葉味わうこと。

そしてそのひとつひとつの形をイメージすること。

言葉の手応えを感じること。

言葉の質量を軽んじないこと。

言葉を過信しないこと。

言葉にのまれないこと。

言葉にしがみつかないこと。

言葉をこえたものは言葉ではないこと。

ことばは、思っているより力があるんだけど、思うほど力もない。


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Title: 両手。
2014.05.28

両手で白旗。

誰かにとっての白は誰かにとっての黒。赤。青。自分の決めたことでないことに心の折り合いをつけるのに時間を消耗するなら、その時間を今に存分に注ぎたい。

結局の所、派手な投げ技よりも、しっかりとした受け身。これにつきる。そんでもってなんだかんだ、世界は無常につきるのに、その無常をいつまでもとどめておこうとする心がとまらなくって、人はつくづつ欲張りで孤独なのだということを思い知る。

ミスチルの「放たれる」を聞きながら岳を読み始めたら、いろんなものがこそげ落ちて、心がからっとしたときに、真っ先に思ったのは、フライパンを買いに行ってパスタをつくろうということだった。はじめて挑戦したパスタソースは思い通りにはできなかったけど、でも満たされたのはお腹だけではない。

指切りげんまんなんて、ナンセンスだなんて思ってたんだけど、人間は、指切りげんまんに寄りかかれるから心が震えるんだ。生きることも死ぬことも同じだ。

つまるところ、人は弱い。そしていつか死ぬという事実が心にかけてくる負荷は想像以上に重い。それを無意識の奥に追いやることが生きると言うことで、それでも何度押し込んでも首をもたげてきて、そこに必要以上の意味をつけないと受けとめられない程に人は弱い。

弱いからこそ強く。そして大概その強さと呼ばれるものにここ一番で苦しめられる。

目が前についているからといって、いつも前を見据えていなければいけないわけじゃない。閉じてはじめてみえるものもあるよってなもんで。信じるということは、どこまでいっても言葉を追い越せなくて、言葉を追い越したところにあるものはもう、信じるじゃなくて、信じるというのは帰着点でなくて過程をさすのかも。

神様佛様に何かを願うときに、欲しいのは、背中を押してくれる大義名分。そして自己防衛。

ぶっこわれるからつくれるのだけど、ぶっこわれないとつくれないとおもいこむことは、それもまたまもろうとするこころ。



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Title: 削。
2014.05.07

ここ数ヶ月で感じたこと。

結局の所、好きも嫌いも愛も恋も、執着で、その執着は欠けたピースの穴埋めなのだろうということで。欠けたピースをいつもどこかに求めることが、人の脆さで、その脆さを補い合えるということは人の強みなのかもしれないって。堂々と堂々巡り。

*

伝えるということ。

いままで自分の中にある想いや思想や願いを相手にぶつけて、そこに変化を求めていたのだとしたら、いまは、伝えたいという気持ちはあるのだけど、伝えようと強く思うのじゃなくて、伝わって欲しいと強く願うみたいなところに、微妙に変化をしたように思う。些細な感覚の違いだけど、そこが自分の立ち位置にもたらした影響は大きい。

*

「水は流れていないとそのうち腐りはじめる。ひとつのことにとどまっていると、水はどんどん腐っていく。だからこそ、わたしは意味のあることをする。水と水を壺から壺へ移すのには、そういった訳があるのだ。との心も同じように。流れ続けていなければならない。ひとつの物事、人物、などにとどまるというのは、腐るのと同じだ」とある人がいう。

それを反芻して、いま湧いてくる気持ちは、腐ることを怖がるのはもうやめたいということと、腐りたくないと思うことに捕まることが一番苦しいのだということ。

腐りたいわけじゃない。いつも清く澄んだ水のようでありたい。でも、腐るという言葉に捕まると、清く澄んでいよう、清く澄むためにはどうしたらいいかってことにばかり自分を消費してしまうような気がして、目的と手段がごちゃまぜになってしまうように思う。

それもまた執着でこだわりで、言葉に捕まってるのだけど、結局の所それでいいし、これでいい。

つまるところ自己満足なんだ。それは自己正当化とは違う意味での。最後に信じるのは感覚的なズレや違和感でいいのだ。計算がいくらあってても、目で見える、本来は正確でない世界が人間のつくる世界のすべて。

*

見えるものが増えると言うことは、見えなくてよかったものが増えるということを抱え込むことで、それを成長と呼ぶのであれば、そこに伴う苦もまた成長していく。

結局の所、成長したり、視野が広がったり、前に進んでも、いつだって自分の立っているところから反比例して働くデメリットがなくなるということはないし成長っていう言葉を、まるまるポジティブな言葉だと鵜呑みしないことも大事なことなのかもしれない。

どこまでいっても、見えるものが増えれば、見えなくていいものが増えるんだ。

*

感情をだすことに安心していきていたい。

*

その人の視点はどのへんの距離にあるかということは、その人を知る上でとても有効で、同じ距離をもった人はそうそういない。

その距離感は互いに惹かれあうときも、拒絶しあうときも無関係ではないと思う。

そして、その生まれ持った距離感のメリットはその人の個性や独自性であり、そこにあるデメリットを補おうとする行動や自己防衛がその人の生き様や言葉をつくるのだと思う。

*
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Title: きりまんじゃろ。
2014.04.25

結局の所、こ数ヶ月の自分の中の不燃感はきっと、世界はまだまだひろいし、わくわくするぜ、たのしいな!を感じる不足からくるものなのだ。

自分をぎりぎりまで引っ張りあげなくても、大抵をこなせるとこに腰をすえて、そこそこの評価に自己満足して、人生こんなもんか、幸せだなーとかわかったようなことをいうくそみたいなこの症状を、今後、井の中の蛙症候群と呼ぼうと思う。

つける薬はどこかに売ってるだろうか、インド辺りの薬局にいけば見つかるのだろうか。つまるところ、自分がつまんなくしてくるせに、そのつまんないが毒になってるんだ。でもつまらない原因は、身体にも心にも余力を残そうとすることを、もういい大人なんだとかいう理由に当てはめてこれでいいんだなんて安心してるちっさい器にあるんだ。

なんだ、結局いつものことで、ぐるぐるしてただけかと思ったらすっきりした。

日常がつまんないから非日常をもとめるのではなく、日常も非日常も同じようなラインにあるところで生きていたいと思いつつも、そんな勇気もないのだけど。

安穏とすると不安になって、不安になると安穏としたがるというこのせめぎ合いにはもういい加減疲れた。

まえにまえに。






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Title: マイナス。
2014.04.16

泣いている子どもを見ていて思うのだけど、この時期幼稚園の中で子どもの泣いている理由は、大抵は、寂しいか、不安か、もしくは痛いとか、眠いとか、暑いとか、お腹が空いたとか、おしっこをもらしたとか。そのくらいの範囲の中にある。

いわばその不快な要素を取り除いてあげれば、子どもは満足して表情もぐっとよくなるし笑顔になる。

子どもにとっての笑顔の条件というのは、いかに不快要素を取り除けるかと言うことであると思うし、その不快な要素の深度もそんなに深いものでもない。

でも、それが大人になると、不快要素の根っこも少し深くなる。でもそれが何で深くなるのかといえば、寂しいとか、不安だとか、そういう気持ちを気づかないふりをして、心の奥底に押し込むからじゃないかと思う。

押し込んで気づかない振りをしているうちに、いつのまにか根っこを深く張り巡らせてしまうのかもしれない。

それと、もう一つ決定的に大人と子どもで違うのは、大人というのは、仮に目に見える不快要素を取り除けたとしても、それだけでは飽きたらずに、もうそんなに不快でもないのに、より快楽を、より快適を、得なければ笑顔になれないときがあるということだ。

今の自分の苦をマイナスするだけでは飽きたらず、いかにプラスして、いかに自分になにかをのっけるのか、そんなことばかり考えてしまうのだ。

幸せっていうのは、なにも苦のないことをいうのだきっと。そしてその苦というもののほとんどは、自分がより何かを得たいと思う心が産んでいるんだろうな。

そしてなによりも厄介なのは、それがわかっているのにもかかわらず、もっともっとというこの心と、心を生み出す脳。






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Title: 箍。
2014.04.09

人をつくるものが環境だという事実は、ときにアドバンテージにもなるのだけど、それはここ一番で自分を縛り付けるタガにもなる。

そのタガは人としての魅力にもなりえれば、払拭できない苦しみにもなる。人が人に惹かれるときに、このタガの関係性というのはとても大きいように思う。自分のタガが誰かのタガをはずすことではずれるときに、人は強く人を想うことができるのかもしれない。自分がそこで必要とされることが。相手にとって必要なことであるときに、その利害は、意識的にも又は無意識的にも言葉や行動に表れるのかも知れない。

自分のタガがなんであるのかということは、どこまで認識して捕まえることができるのだろうか、そのひとつひとつを紐解いて掘り下げることはできるのかもしれないけど、それは果たして自分の都合のいい紐の解き方でないかといえばそれすらも疑わしい。

つまるところ。

環境によるタガという概念を思いつくということすらも、もう自分のタガの一つであるし、概念や規格にしばられずに、感じたままを心のままに自分の心にとどめて、表にだす、その繰り返しでできあがる世界こそが自分の生きる世界であるのだと、いわば諦め、そして明らめるしかできないのだな。

正しいか正しくないか。善か悪かなんていうものは、後付けでいい。

受けとめるしかないのだ。今を。


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Title: しょうろんぶん。
2014.04.07

物置の整理をしたのです。結構大がかりに。

そしたらでるわでるわ、おもひでぽろぽろ。

手書きで曲名の書いてあるカセットテープに、なんか変なサイズのシングルCDに、夜な夜なこっそり再生したVHSに、BOYSBE全巻など言い始めたらきりがない、ゴミみたいな、でもいまだ輝きを失わないがらくた達が次々に発掘されたのです。

傑作なのは写真です。ここにとても載せることのできないようなものから、自分だけではなく間違いなくここに写ってるあいつやこいつにとっても黒歴史に違いないであろうものがざくざくです。

そんな中、今回の大発掘でひときわ自分の心にささったのは、1枚の小論文の原稿用紙の中の、担任の国語の先生(辻先生)が添削欄に書いてくれていた言葉です。

「気軽に書いているいるようで、けっこうな小論文になってしまうのはすばらしい所だ。だが、つきつめて緊張感をもって考えつめないと小手先の小論文になってしまうことも事実だ。よく読み返して、よりよい文にしようという努力を怠っていることは、あいまいな句読点の打ち方をみてもわかってしまう。気をつけよう。内容は悪くない。」

頭をがつんとトンカチで殴られたような気持ちになりました。

これを読んで、この小論文を書いたことも、こういう言葉をかけてもらっていたこともすっかり記憶から消えていたのだけど、この言葉がいままさに自分の悪いところをそのまま指摘されたようで、17年を経て自分の心にささったきたわけです。まああの頃から悪いところが全然変わっていないということでもあるのだけど・・・

あの時の自分には、これを指摘されることがどれだけありがたいことなのかということは全然わかっていなかったけど、今になってこういう言葉をかけてくれる人がいたということはとてもありがたいことなのだと思った。

きっとあの頃の自分に言葉をかけられるとして、おい!ちゃんと話はきいとけよ!なんていったところで、うるせえ大きなお世話だくそおやじ。おれはお前みたいにはならないとかいわれてしまうのだろうな。

でもこうしてその言葉が時間をこえてささってくることもあるわけですね。

人生とはおもしろいものです。

句読点の打ち方が気になっちゃうぜ。



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Title: even
2014.04.03

「答えがない」と「全部が答えになりうる」「正解がない」と「全部が正解」は似てるようで全くの別物なんだきっと。

そんでもって、側にいてくれてありがとう。と側にいさせてくれてありがとう。はあくまでevenであることが理想なんだろうな。

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Title: さくら。
2014.03.30

つくづく桜というのは、こんなにも感情に直結してくる花なのだな。

今年の桜は、あっという間に咲いて、あっという間に散っていくのだろうな。

桜が我は是桜でござる、梅が我は是梅でござると名乗って出はせぬぞってな。






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Title: ぶれいぶ。
2014.03.28

感性を先行させて生きるということは、死に対する防衛でもあるのかもしれない。感性や感覚の優先順位を上に持ってくれば来るほど、「今」の重みは増して、「過去」や「未来」への視野は狭まるのかも知れない。それはきっと社会とは正反対のところにあるのだろうな。

このギャップがジレンマになって息が詰まりそうになって、言葉もただの音にしかならなくなる。" のせる "時に一番大事なものは体感なのだけど、その体感を得ることを突き詰めていくことは、言い換えれば真綿で自分の首を絞めていくようなものなのかもしれないなと。

それがぎりぎりまで張り詰めたときに、ぷちっとなって、また同じ所に立ってるか、今とは違うところに立っているかはわかんなけど。この繰り返しなんだろうな。

わかったつもりになると、頭からたたきのめされて、もちなおしたら、また叩かれる。もはや賽の河原の石みたいなものだ。あの石は無駄な努力なんかじゃない。

これが自分だと思えるような自分なんかどこにもいやしない。

めぐりめぐって自分の欲しいものもきっと同じなんだ。欲しいものなんて初めからありゃしない。









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Title: こんや。
2014.03.21

ほんと。どんなに掴んだと思ってもなんにも掴んでなくて、安穏としたかと思えば、取りつかれたかのようにどうしょうもない事があたまを駆け巡る。

あげくのはてに、そのどうしょうもないことに、平気でこれが自分なんだっていって胡座をかこうとする。こんちくしょう。

えらそうに、何事にも答えがあるわけではないし、何事にも答えをださなければいけないなんて思わない方がいいなんていいながら、結局の所白黒つけないと前にすすめないのだ。

それが白でも、黒でも、結局同じとこにいきつくのにね。







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Title: 境界。
2014.03.17

想いとか願いとか、慈しむ気持ちとか、祈りとか、目に見えないけれど、でも確実にそこにあるというものがあって、その場にいる人達の気持ちが一つになにかを紡ぎ出したときにしかでない空気というものがある。

先日、園の卒園式があった。

目に見えないたくさんの想いが、渦巻いて一つになって、ぴんとはりつめているように感じた。人間はそういう空気の中にいると性根が凜とする。そしてその節目でその空気に背中を押され、今一歩を踏み出す力を得るのだ。

式典も儀式もそうだけど、そういう空気を醸し出すための室礼や、進行や、作法というのは、その全てがかみ合ったときに、間違いなく荘厳な空気がでるように工夫されているのだろう。その空気、その空間を意識して、醸し出せる能力ももっともっと磨きたいと思った。

ほんの少しの間やずれの"のりしろ"はあるにせよ、それを大きく外れると、間延びして、ほんの少しのことで張り詰めていたものがかき消えてしまうということはよくある。

目に見えないけれど、そこに存在するもの、そのひとつひとつをつかみ取りたい。つかみとって掌握したい。掌握したと慢心して、打ちひしがれたい。それを死ぬまで繰り返していたい。



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Title: メリット。
2014.03.16

何事も上手な人と上手でない人の差は、そこに明確なメリットを見いだせているかどうかだと思う。何をするにおいても自分自身にとってのメリットを明確にすると必ずうまくなると思う。

そして、善と悪とか、正と誤とか、前と後とか、成長と退化とか、メリットとかデメリットとか、そういうものの境界線をしっかり引いているうちは成長曲線も、教科書通りに、弓なりにしなって、やがて緩やかに劣ろうるだけなのかもしれない。できるだけ境界を曖昧にしておくということは、どこまでも成長を妨げないということに繋がるのではないだろうか。




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Title: ジロリアン。
2014.03.14

先日、ラーメン二郎を食べました。知る人ぞ知る神保町店に10時半から並びました。

二郎神保町店は、生粋のジロリアンの中でも一目おかれる名店だそうです。そんな玄人店にこんなど初心者が行くというのはとても勇気のいることです。

しかも注文の仕方が特殊で、マシマシなんとかだとか、残すと怒られるとか、初心者がいくと玄人に舌打ちされるとか、こわい噂ばかりを聞いていたので、戦々恐々だったのですが、歴戦のジロリアンの友人(平原)と、中級ジロリアンの友人(川村)が一緒だったので、泥舟にのったくらいの心持ちでいざ向かったわけです。

並んでいると、先頭から注文を聞きにきます、マシマシはここでは言ってはいけないそうです。ここではあくまで麺の量を聞きに来るのだそうです。迷わず小です。ちなみに小で普通の麺の2,5倍だそうです。

ちなみに中級ジロリアンの友人がとちくるって、中といったら、店の人に失笑されたあげく、刺さるような声で、大か小しかありませんと言われてました。あの時の店員の顔と言ったらプーチン大統領のようでした。

そしていよいよ入店です。

食券を買うまえに、その横の自動販売機で、黒烏龍茶を買います。これもなにか暗黙の儀式かのように厳かに、かつ速やかに執り行います。1000円札で買うと後ろの人に気を遣うので、小銭を用意しておくといいようです。

そして次に食券です。歴戦ジロリアンに続き、小豚と書かれたプレートを購入します。「こぶた」ではありません「しょうぶた」です。

そして席に着くと、カウンターの向こうで、ザ・ラーメン職人、というような親方風の人が麺をゆでています。その間はずっと目を伏せて待ちます。

しばらくするとおもむろに、次の小豚の方は?どうしますか?と聞かれます。

ここで、あれです。いよいよ例のマシマシです。

でもマシマシは食べきれないので、今回はびびって、事前に予習しておいた、ニンニク、油!を待ってましたと言わんばかりに、若干くいぎみで伝えます。少し声がうわずりましたがちゃんと伝えられました。すると一瞥をくれたあとに、厳かにラーメンが目の前におかれます。

ここからが戦です。脳内にゴングが鳴り響きます。いやホラ貝が鳴り響きます。

正直衝撃です、一目で食べきれないのがわかります。噛んだらダメだ、流し込むんだと譫言のようにつぶやきながら、まずもやしを飲み込みます。そして麺。

隣をみると歴戦ジロリアンはすごい勢いで麺をかき込んでいます。

それをみていて、このまま店内に取り残されたらやばい、孤独と不安に押しつぶされてしまうと思って一生懸命食べました。たべきれなそうなチャーシューは左の中級ジロリアンのどんぶりに横流しします。

ぶっちゃけ。うまいです。

すごいうまかったです。個人的にツボでした。

貪るようにどんぶりに顔をつっこめます。

しかし中盤からは自分との戦いです。満腹を超えたところで、残したら怒られる・・・という情報が頭をちらちらかすめるのです。しかし胃袋は限界です。ちらりと歴戦のジロウをみると、無言で箸をふります。長いつきあいなので、瞬時にそれが、「貸せ、あとはおれにまかせろ」だということがわかりました。

こんなに彼を頼もしいと思ったことはありません、迷わず残りの麺を彼のどんぶりにいれます。しかし彼は、全部食べてくれるわけではなく、ふたすくいくらいしたところで、「あとは自分でけりをつけろ」と無言で伝えてきます。

しかたなく、また残りの麺と格闘です。

人間満腹が限度を超えると、震えがくるということを初めてしりました。小刻みに右手が震えます。それをみたジロウは、残すんなら、麺が見つからないようにスープに隠せ、せめてそこまでは食え。と小声で教えてくれました。

希望の光でした。せっせとスープの中に麺を隠します。

心のなかでごめんなさい、ごめんなさいと唱えながら。

それでも怒られるのではないかとおもいビクビクしながらどんぶりを返し、ごちさまをいうと同時に逃げるようにお店を後にしました。店を一歩でたときには、なにかへんな開放感と、高揚感、そして満腹感に、いままで味わったことのないような気持ちになりました。

立っているのもつらく、こんなに暴力的な食べ物を食べたあとなのに、なぜかあたたかい、愛の鉄拳をくらったような気分です。

昔、本間学級の時に、竹村と喧嘩をして、美術室に呼び出されて、なぜか自分はなにも悪くないのに、喧嘩両成敗だといって、本間先生に辞書でぶん殴られたのを思い出しました。

とても苦い想い出です。

そして今、この文章を書いていて、また二郎が食べたくなっています。

店から一歩出た瞬間、もう無理だ、もう食えない、これはきつい、思わずそんな感想しかでなかった自分が、2日経ってまたあの味に会いたいと思ってる。

人生はおもしろいものです。

Life Is Beautiful。
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Title: 流川。
2014.03.04

加減、距離感、空気。

ちょうどいい加減に、適度な距離感で、絶妙な空気を楽しむってのは、一朝一夕にできることではなくって、ここにくるまでの、あんなこととか、こんなこととか、怒りとか、喜びとか、悲しみとか、そういう堆積したものの上澄みを掬うようなもので、水から煮出さないといい出汁がとれないようなものだ。

味の素をぶちこんだって真似できないのだ。

おもうに、人と人が熟成するにはなによりも時間が大事だと思うのだけど、その時間というのはそれだけ長い時間一緒にいたかではなくて、一緒にいる一瞬にどれだけむき出せたかだし、どれだけ感情が振れたかだし、どれだけ大事に思えたかなんだろうと思う。

言葉にするととてもきれいに聞こえるけど。

ようは、どんだけダメな自分たちをさらけだしたのかってことなんだきっと。








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Title: 風。
2014.02.23

気の抜けないことが次々におこるものだ。おもうに、それをさばくために心の置き所をみつけることを成長というのかも知れないと。

歴史物の小説を読んでいて、主に忍びのでてくる話を読んでいると、多少自分の心の置き所に苦しんでも、当時の人間の無常に対する心の置き方に比べたら屁でもないなと思えてしまう。

決定的な不条理の中で己が信条なんて物はゴミにもならない。なにがなんでも生き延びようと、思えるからこそに人は成長するのかもしれない、己が信条己がプライドなんていうのは、平和ボケの戯れ言なのかもな。




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Title: まわるまわる。
2014.02.18


「先日よく当たると評判の占い師に見てもらったんですよ」

「なんていってました?」

「なんか私の前世はすごい徳の高い高僧だったらしいんですよ」

「そうなんだ、でもたぶんそのお坊さんそんなにすごくないと思うよ」

「なんでそんなことわかるんですか?!」

「だって輪廻してるし」

っていう小話を、うきうきしながら友達に話したのにくすりとも笑いやがらない。

無宗教か。

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Title: 。。。
2014.02.13

自分の中で根拠がとれないと本気で向き合えない性格とそこにいたるまでのごちゃごちゃとした理屈っぽいこの自分のことは嫌いでもないのだけど、でもそろそろ次の段階へいかなきゃ、まだ自分はこんなところなのかというという気持ちとその狭間でなんか悶々する。

つまりは今の自分は、理由や答えがわからないままとにかく手を動かす、足を動かすということが極端に苦手なのだ。だからそこで見えるものしか見えていないのだ。

ちっさっ。


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Title: 錆巻依。
2014.02.05

ほんとつくづく、としをとればとるほど、ちやほやしてくれる人の言葉にしか耳を傾けたくなくなるものです。

それは自分を奮い立たせるためのエネルギー不足によるものもあるかもしれないけど。

世の中には、そのエネルギー不足を巧みに利用してくる人もいるもんです。

負けるもんかです。

錆びまい巻かれまい依るまい。

なんて青臭いことがいいたい気分です。ここ数日。



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Title: 唐揚げとハイボール。49。赤い羽。
2014.01.02

想いっていうのは、とてもシンプルなものだ。

人間というのがなんなのか、なにを信じて、なにを想って死んでいくのか。それはとてもとてもシンプルなこと。

例えばそれは、暖かいご飯で結んだおにぎりなんかにほっこりするようなものなんだきっと。その程度でしかないのだ。でもその程度のことに、心から笑ったり泣いたりできるのが人間なんだ。

ただそれだけなのだけど。ただそれだけのことがわかるのにすごく時間がかかった。時間がかかったけどよくわかった。ぷちっとわかった。

死んでいくまでにできることや、考えられることとか、成し遂げられることというのはたかが知れていて、たかがしれている中で必死にばたつくのだけど、でもやっぱり暖かいご飯で結んだおにぎりにできることなんか超えられないんだ。

だから、だれかを言葉で頷かせたり、やりこめたり、立派になることなんかよりも、おむすびを結べるほうがきっと大切な事なんだ。

正直言えば、それは自分がずっと浅いことだと思い込んでいたところなのだけど、その浅さというものが、深さの対比ではなくて、まさに人間のそのものであると思えたことは自分にとっては大きな一歩で。

この一歩が退化なのか進化なのかとか。

そんな言葉もおにぎりの前では無力であり、不言なのだと。深く確信する。生きる意味とか、出会った意味とか、あの時のたらればとか。それもまた無力で不言だ。

自分が30数年で作り上げてきた世界のなかで、価値がないに等しい物が、ある瞬間に一番価値にある物に変わる。この感覚、この気持ちよさ。この体感こそが生きてることだ。

世界はとてもシンプルに出来ている。
シンプルという言葉も無意味なくらいに。

それをややこしく、がんじらめにしたり、ときに派手なミラーボールで着飾ったり、ヤニくらしたりしたりして、必要以上に魅力的に、そして灰だらけにしてばたつくのが娑婆ダバダ。

今年は、いまこの手の中にのった気持ちを確たるものにする。それだけに費やす。

音と空気をもっと。


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Title: いえない。
2013.12.31

迷っていると思えるうちはまだましなのかもしれない。迷ってることにすら気づかないで、いつのまにか理由ばかりつけて前に進めなくなっていることがなによりも怖い。


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Title: 人言
2013.12.29

自分が何かを想ったり、考えたり、言葉を書いたり、誰かになにかを伝えようとしたり。

そのきっかけはいつも自分の外からもらっている。

それは出会いでもあるし、誰かの言葉や、すすめられた本や、動画や、生き様でもあるのだけど。

自分が前に進むのに、自分一人では決して前にはすすめないなと。

そんなことを感じる1年でした。


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Title: どんぶらこ。
2013.12.20

こびりついてぬぐい去れないのは。

それが真実だからだ。

ずるいだろう。

今は、昔よりも現実と非現実の間に立つことが難しくなったな。
意識しないとそこにはいれないし、境界線になにか柵でもできたのかね。

まあそんなもんは飛び越えればいいのだけど。



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Title: ともゆき。
2013.12.20

ちとはやいけど。

今年をずずずっと振り返ってみるに、ずいぶんといろいろなものを手放すのが上手になったものだと思う。むろんそこにもメリットと同じくらいのデメリットもあるのだけど、でもその表裏一体もぐるりと裏返し。

今、あたりまえにあるもの。

日常とか、家族とか、友達とか、明日が普通に来ることとか、疎むこととか、浮かれることとか、酔うこととか。

歩けることとか、腰が痛くないこととか。

そういうものは、ホントニ突然、敷居をまたぐかのようにすっと、その時がきたらかき消えていくのだなと。

世界はほんとに世知辛いけど、世知辛くて喉が渇くくらいのこの娑婆も、いつか敷居をまたげばたちどころに消えていく。その時がきたときに、いくら水をがぶ飲みしたくても、垂れ流し。

ひりひりするような感覚も、どきどきするような瞬間も、ぎすぎすするような夜も。

実感の伴うものはすべがすべて、点、点、点。

点を繋げば線になるなんていうのはきっと嘘だな。

点はいつまでも点で、点と点を結びつけようとする心の作用は、つまりはここが間違っていてほしくないと願うこころの作用なんだきっと。

「粛々と」

今年はこの言葉にたくさん背中を押されたような気がする。

粛々といま目の前にあることに取り組むしかないのだ。

粛々と積み上げては、粛々と荷を下ろすしかないのだ。

時に酔いどれて、時に大風呂敷をひろげて、時にさげすんで、時に落ち込んで。

粛々といきていくしかないのだ。

そしたらきっとしかるべきところに立ってて、しかるべき人たちと、しかるべきことをやりとげられるような気がしてる。

なんて年の瀬。師走だけど走るまい。





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Title: イメージ。
2013.12.10

イメージということについて。備忘。

*

日常の6割はイメージの中にあるものなのかもしれないと思った。

通い慣れた道を走っていたり、夜中にめがさめて真っ暗な家の中を台所まで水を飲みに行くときとか、そういう習慣の導線の中にいるときに、人間は目や、もっといえば五感で得る情報を頼りに身体を動かしているのではなくて、頭の中にできているイメージ先行で身体を動かしているのかもしれない。

そう考えると、例えば、日常の導線に大きなイレギュラーがあると対応出来ずにそこに足をぶつけたりすることにも、身体が疲れていて、イメージ通りに足が上がらなくて階段で躓くことにも納得がいく。目で見て身体を動かしているのであればそういうことはそうそうないのではないかと思う。

*

五感からの情報を全て処理するということは、脳にとってメモリーをたくさん使う作業だから、日常のルーティーンはできるだけ省エネで無駄なく動くために、イメージの力を使うのかも知れない。

この「イメージ」ということについてのメリットとデメリットを考えるに、イメージを優先させることのメリットは省エネで動けるし、脳にかかる負担が少ない分、余ったメモリーを別のことに使える可能性がある。デメリットは、五感からの情報でない分、細かい変化や小さなイレギュラーは切り捨ててしまうので、目を凝らさないと見えない類の変化に気づきにくくなるということかもしれない。

*

新しい町や国や、道や、人と関わるときに、まずイメージができなければ、人間は五感を使ってそれを処理しようとする、すると脳に血が流れるし、だからこそ「しばし旅立ちたること目のさめるきもちすれ」みたいなことも起きるのかも知れない。

日常でいかに脳に血を流すか考えると、五感をいかに動かすかということは大事で、ただその状態は脳をフル活動させているようなものだから、イメージの力に頼って、脳を休眠させることでみえてくるものとのバランスというのは大事なのかも知れない。

*

イメージの力というのはすごいもので、どんなこともイメージできなければ身体は動かすことができないし、そのイメージが強くなればなるほどに人間の身体は無駄を省き、とっさの行動にも対応出来るようになるのだと思う。だから基礎も、訓練も、練習も、なんでもそうだけど、あれは繰り返し頭の中にイメージを植え付ける作業なのだろう。

ベストキッドの「ワックスかけるワックス拭く」もその原理なんだろう。

*

イメージ優先の時に紅葉は秋なのだけど、五感で感じるとそれは木々であり葉々になるような感じ。

*

このイメージで身体が動くというのは、人と人の関わりの中でも同じ事が言える。イメージ優先で人に関わるときと、五感優先で人と関わるときに自分にもたらす心の変化と影響は全く違うものになる。

現実は目の前に質感のある物なのだけど、実際にその中で生活する自分は、イメージの中の世界で生きていることがほとんどであるのかもしれない。


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Title: 25年目のこんにちは。
2013.12.04

小学校5年生の頃に「25年目のこんにちは」という文集を書いた。

当時10歳だった自分が25年後の自分を想像して書くというものだったのだけど、その「25年目のこんにちは」が、今実際に目前に迫ってきていて、ふとそれを思い出しては、あの頃に思い描いてた未来は間違いなく今なのだなということをひしひしと実感するのです。

そんな中、最近その文集を書いた友人達とあう機会も増えて、当時の話をする度に、これが「リアル25年目のこんにちは」なのだなということに感慨深くなるのです。

まさかあの当時同じ教室にいた友人がフランスに嫁いで、その餞に日本酒を送ることになろうとは予想できなかったし、学級委員長は部長になるし、だれが一緒にどろけいしてた仲間と、銀座で熱燗のみながら鴨鍋をつつくなんてことを想定できただろうか。だれが朝から吉幾三の「おら東京さいくだの」動画を共有して笑うなんてこと思い描けただろうか。

その頃自分が文集に書いた内容はうるおぼえなのだけど、今の自分の人生はあの頃には想像もしなかったようなもので、きっとこの先10年後、20年後の未来も、今想像も出来ないようなものなのだろうけど、どこでどうなれ、少なくとも今の自分を25年後にまた酒の肴にできるような人生がいいです。

しかし吉幾三天才だな。




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Title: むみょう。
2013.11.14

わからないものしかすきになれない。という言葉の中には、自分にはわかるんだという傲慢が見え隠れしているんだよ。勘違いだぜそれは10年前の自分よ。

遊んであげるのと一緒に遊ぶのは違うわけで。それはいわんやお念仏も同じかもしれない。

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Title: 「自分」と「なにか」
2013.11.14

「自分」と「なにか」

そのなにかは、白紙の紙でも、季節でも、日本酒でも、人でも、時間でも、空気でも雨でも、それはなんでもいいのだけど。そのなにかと自分の間になにもない、なにも隔てない時にだけわき上がってくるものというのがあって、なんていうか余計な雑音もなく、「自分」と「なにか」だけになった時に自分の中で感じる事のできる感覚を持っているかどうかというのは、人と人がわかり合うときにとても大事なる。

その感覚はなんていうか、眉唾なものなどではなく、たとえばそれは、学校を休んで昼間に家の布団の中にもぐっている時のような感覚や、運動会の徒競走で負けたときの感覚や、富士山の頂上で日が昇るのを見た時の感覚とか、そういう類のもので、同じ所にいるときに同じように感じるであろう、とても感覚的なものだ。

その感覚の中にすとんと落ちたときに、自分となにかの境目がぼやけて、自分ではないその何かと自分がとけこむような感じ。その感じの中にいると、世界はどこまでも広く遠いのだけど、でもそれは間違いなくこの自分の手の中に繋がっているような気持ちがして、どこまでも言葉は言葉で、自分となにかを隔ててるこの身体すらも、またただの身体なのだなとすら感じる。

しばらくそこに浮かんでいて、ふとこの心地よさをずっと保ちたいなとか、捕まえておきたいなと思った瞬間に、それがかき消える。かき消えてはまたそこに出会って、出会ってはまたかき消える。

それを何度も何度も繰り返してきて、やっと最近すこし、その心地よさを自分の手の届くくらいのところにとどめておけるようになって、正確にはとどめているかどうかはわからないけど、離れてしまったときにはわかるようになってきたように思う。

なんかこう書くと、とても正気な人間の言葉とは思えないかもしれないけど、ようは、自分の取扱説明書がとても効率よく書けるようになってきたということかもしれない。

答えは一つもないとかいいながらも、その言葉は結局のところ一つの答えに帰着するんだきっと。

つまるところ、1も2も。3も4も。5も6も。春も夏も秋も冬も。雨の日も晴れの日も。好きも嫌いも。ぜんぶ一緒で。現実には匂いも色もなくて、色も匂いもないからこそどこまでも広く深く、自由で寛容で非情なんだ。

生きてる事とか現実を0だとして、そこには本当は匂いも色も影も形もない。ただの0で。

人が生きていくということは、そこに1や2やπや√をプラスして生きているのかもしれない。ある人は0+1+π+√かもしれない。ある人は0+5×35(2+1)かもしれない。

みんな自分なりの数式をくみ上げて、その中で共通項をみつけて、時に一緒にいる相手の数式に公約数をみつけたりしながら生きてるんだ。

でもそれは結局のところ計算上の話で、夢うつつみたいなもので、あくまで0になにかをプラスしているにすぎないんだなと。

その数式をうまく華麗にくみ上げることよりも、一つでもとっぱらって、0に近づいてみたい。そもそも数式は自分でくみ上げるというよりは、それはほっておいても周りが数字を当てはめてくみ上げられてしまったものにすぎないのだし。

ぶっこわして0に。0に。

それはきっと前に前にと同じ意味なのだと思う。

そんなことをおもいますた。



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Title: かみさま。
2013.10.20

1から10を数えるときに、階段を昇るように数えるのではなく、ぐるっと丸く考えると1と10は隣り合わせになるわけで、1から10を数えるときに、いつでも1の隣は10でありたいと思っていて。

真実はきっとそこにあると信じていたりする。

ごちゃごちゃもちゃもちゃした先には、きっと初めて数を数えるときのような気持ちがあるんだきっと。

ある人がいったそうだ。

台風という言葉がなかったとき人はこの現象を神様と結びつけていたのだろうか、神様という言葉がなかったときにひとはひとつひとつの現象をどのように受け止めていたのだろうか、物事や現象に言葉を介さないで向き合いたい。

この感性のひとかけらでも自分の中に落とし込みたいし、それが決して瞬間的なものでなく、確実に自分の中に落ち込むような生き方をしていきたいとそう思って生きているのです。

しかしひさびさにずかんとくる言葉だ。






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Title: ふらかん。
2013.10.20

文字を紡ぐのに必要なのは、感情のぶれとか、迷いとか、葛藤とかそういう類のもので、つまりはそれは安穏だと思い込んでいる足下がぐらりとくる経験なのだ。

幸せも、安穏も、安心も、安全も、いつだってぐらりと揺らぎかねないものの上にあるのに、それを忘れて自力で得られる幸せの多くは手に出来ているなんて思えるようなくそったれな自分に冷や水浴びせて、金槌で頭をぶったたいてくれるものが必要なのだ。

旅もきっとそうなんだ。

旅をする理由は旅人の数だけあるのだと思うけど、自分の場合は、いつもどこかにいきたいといいながらも、毎度毎度、やっぱり家が一番だと思うし、帰ってきて思うのは、これでもうしばらく旅に出なくてもいいのだということだ。

それはどこからくるものなのかといえば、きっと安穏としすぎて、霞をくって生きているような自分に対するアンチテーゼでもあるし、そこに甘んじている自分への喝なのかもしれない。

青春ごっこを今も 続けながら旅の途中
ヘッドライトの光は 手前しか照らさない
真暗な道を走る 胸を高ぶらせ走る
目的地はないんだ 帰り道も忘れたよ

こんな夜にはフラカンだ。

生きていてよかった。


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Title: ペンタトニック。
2013.10.02

現実と非現実のちょうど境目のあたりで思いついたことは、イロがあって柔軟で、とてもいいあんばいだったりする。脳は何かを意識すると、何かを遮断するのかもしれない。そうであるならばできるだけ何かを遮断しないでものを考えられるようになりたい。

先に進もうと思った時に。

それがなにであれ、話すことであれ、考えることであれ、人と関わることであれ、体重を落とすことであれ、絵を描くことであれ。もう一つ前へ、もう一つ上へ押し上げるときには、ものごとを分解する能力が必要になってくるのだと思う。

なにかをバラバラにして、もう一度組み立てるには、頭の色んなところを使わなければならない。抜いたネジを忘れずに同じ所に戻す慎重さも、時に大胆に大胆にカバーをはずさねばならないときもある。

いかんせんバラバラにしなければ、どこに油が足りていないのか、どこに汚れが溜まっているのか、どこがかみ合っていないのかわからない。

きれいにバラスことは、あたらしいものを組み直すこと。

5音のペンタトニックみたいに。



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Title: きけんてば。
2013.09.21

バイクはあぶないあぶない言われるのだけどね。そうなのよ。ほんと危ないのです。実際怖いなぁとか思うのです。全然安全な乗り物ではないですよ。

バイクに乗ってる人はみんなそう思ってるはずなのですよ。

でもね、なんで尾崎は、自動車や自転車ではなく、バイクを盗んで走り出したのかということなんですよ。言いたいのは。

旅も同じなんだよな。この話。

沢木耕太郎はなんでまた深夜に特急になんか飛び乗るのかと。

そういうことなんですよ。言いたいのは。


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Title: カラー。
2013.09.18

やっぱ人にはカラーみたいのがあって、友達とか友達の友達とか、コミュニティを構成する人間は似通ったカラーを纏ってて、反対色に対する嫌悪感も含めて、同じ系統であることは多いのだと思う。

たまにそのカラーが合っていないコミュニティにぽこっと座ってる人とかがいて、往々にしてその人の抱える悩みは同じような傾向であることが多い。

たとえば、職場に人をいれるときには、その人が何をしてきたかとか、なにができるかとか、そんなことよりも、なんだろう、そのカラーが何色なのかがとても大事なのだと思う。ざっくりした話だが、最近そのカラーが昔よりも細かく見えるようになってきた気がする。

そしてその色の混ざり合いもまた楽しめるようになってきたようにも思う。その混ざり合いが絶妙にいい色を醸し出したときに、その場の空気というのがいいものになるのだろうな。

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Title: たふる。
2013.08.30

歳をとるということは、決して成熟することではないし、決して立派なものになるようなものでもない。

未熟なままの自分を肯定することであるし、そこにこそ自分があると自分自身を認められることなのかもしれない。

歳をとるというのは、積み重ねた人生と経験の混沌が身体一つの中でかろうじて形を保っているような状態のようなものかもしれないと。

堪る限りにたたかっている人をみて思ったのです。




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Title: いわんや。
2013.08.21

どんなに着飾っても、取り繕っても、すました顔でも、必ずどこかにちらっと我執とか我欲が綻んできて、実はそれがいつもどこかでくすぶっているということが人間の最大のメリットであり最大のデメリットなんだろうな。まさに一如。

仏教はそのぽろりと綻んだ我執とか、我欲とかに遠慮なく、そして重箱の隅をほじくり返す並につっこんできて、ほじくりだした挙げ句、それを目の前にぶら下げて突きつけてくる。目を背けようものならあの手このてで顔を向けさせるとか。

まるでどS。

だからやはりある意味うっかり踏み込むには危険な世界であるのかも知れない。

そこに癒しを感じられるようになるとか、救いをみいだせるようになるには、ある種玄人的な感覚の変化が伴ってこなければいけなくて、五反田に例えるなら、スタンプカード1枚は一杯にするくらいには向き合わなければいけないのかもしれない。

変態を感覚的なマイノリティと定義するのであれば、いわんや僧侶もそこにはいらねばならないのかもしれない。

私は一体朝からなにをいってるのでしょうか。

今日から園には子どもたちがやってきます。



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Title: 生楽。
2013.08.18

生活を楽しむということはとても大切な事なのではないかと感じている。そこでの楽しみは、人生における彩りであり、幅でもあり、余力でもあり、地力でもあるのだと思う。

生活と楽しみを切り離して考えるのではなく、生活自体を楽しむという姿勢は簡単なようでとても難しくセンスの試されることだと思う。こと現代においては、ただ時間を過ごすということ、時間をつぶすということが難しい事ではない、テレビを眺めてればいいし、スマホをいじっていればいい、ゲームをしていればいい、そうやって1日の中の何時間を簡単に消費することが出来るし、それはとても合理的でメリットもたくさんある。それに対して昔の人は合理的に時間をつぶす術が今よりも極端に少なかったっからこそ、いまよりもずっといかにして時間を過ごすかということを考えるのに時間を費やしてきたのかもしれない。

その中で、ただ単に時間を消耗するのではなく、時間そのものを楽しみに変えることで、時間という概念を、「つぶすもの」「消費するもの」から、一つ価値を押し上げたのだと思う。それができるのが日本人の独自性、素晴らしい民族性なのだと思う。こういう意識のコンバージョンができたからこそ、「風流」や「わびさび」なんていう概念が出来たのではないかと思う。

「時間をつぶす」「消費する」ときに、それを方法論で解決するか、抜本的なコンバージョンをするかということはとても大事な事で、これは仏教における意識の変革にも似ている。

でも言いたいのはそんな難しい話ではなくて、生活自体を楽しめるという心持ちは、とても大事な事で、その心持ちを維持すると言うことは心の安穏にもすごく結びついていて、ありのままをありのまま受け止めるという仏教的な心持ちにも通じていて、現代においてはそれが著しく薄れているのだと感じるわけです。

部屋に風鈴一つぶらさげて、風の通り道を捜したり、その音に、目には見えないはずの夏を捕まえるという作業するだけで、なにかくさくさした気持ちが晴れるということもあるよということがいいたいわけです。そしてそういう感性をいつも生活の中にぶらさげておけるくらいの余裕をもっていたいなと。


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Title: 啓示とか。
2013.07.27

昔はよく自分探しに旅に出ちゃったり、インドにいってしまうような人たちに対して、自分なんてものはそもそもどこにもいないし、捜したところで見つかるはずもない、青い鳥みたいなものでしょ、なんてわかったようなことを得意げにいっていたのだけど、そんな自分は言葉に捕まって大事な事の欠片もわかっていなかったのかもしれない。

たしかに自分なんてものはどこにもないのだけど、そのどこにもないものが、日々の習慣とか日常とかの中で凝り固まって、むしろ幻想的に作り上げられてしまって、その自分像が凝り固まれば凝り固まるほどに、そこから抜け出せなくなってがんじがらめになってしまうということは往々にある話で、むしろその凝り固まってしまっている概念をどう打ち崩すかということがとても大事なことなのだと思う。

それをぶちこわすという意味では、あながち旅にでることで、凝り固まったものから解放されるということはあるのかも知れない。

そこで色々なことに忙殺されて、影を潜めた自我や、むき身のゆで卵のような自分がつるっと顔をだしてきて、こんな感情や感覚がまだ生きていたんだとか思ったり、こんな事を言える自分がまだ残っていたんだとか、そういう自分と鉢合わせることで、自分を自分たらしめるものがなんなのかの本質が見えてくるのかも知れない。

瓶ビールを2本ほど飲んで、フワッとしたところに、すこし粘りのある温泉につかる。頭の芯からとろりとほどけて、臓腑のひとつひとつにまでお湯が染み渡るような感覚の中でそんなことを思っていたら、唐突に目の前の山に虹が架かった。

それを見て、啓示や予言なんてくだらないなんていつも思っているし、そんな非科学的なものと仏教を一緒にしないでほしいとすら思うこともあるのだけど、なんか自分がなにかを決意したり、なにかに気づかされた時に、ふと目の前の山に虹が架かる。そんなことはただの偶然なのだけど、そんなただの偶然に、すごく背中を押されるような、まるで光がさしたような気になるなんてこともあるのだなと。自分の中に湧いてきたこの感覚がまさにそれなんだなと。

それが例え偶然でも奇跡でも、そんなささいなことでどこまでも希望を持てるのも、どこまでも絶望するのも人間。それがわかってはじめてみえてくるものもあるのかもしれない。くわばらくわばら。今しばらくはへそが沸かしたお茶でものんで一服。

まえにまえに。

痛みに屈せず。



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Title: いんぷっとあうとぷっと。
2013.07.21

ここ数ヶ月で、自分にとってのアウトプットはあくまで、インプットの飽和なんだということがよくよくわかった気がする。

なにかに追われているような気になって、インプット不足を環境や状況のせいにしてただけなのだ。本でも映画でも、舞台でも酒をのむでも、なんでもいいけど、誰かの頭の中や、誰かのアウトプットが自分のインプットになって、それをまた自分がアウトプットする。

その歯車の1つに自分が組み込まれているということが生きるということであり、そこから得られる居場所感のもたらしてくれる安穏はとても大きい。それはきっと何かに近づいていく感覚というか、山を登っているような感覚にも近いのかも知れない。

何回も何回も、何年も何十年も何百年も、形のないままに誰かの頭から頭へこねくり回され、練りまわされて表現されている何かが何なのかはわからないけど、いつの時代にもこねくり回されているアウトプットも、そこに至るインプットも、芯の芯にある部分というのは変わっていなくて、この手垢がついたアウトプットの根源も、多様なインプットの根源も、どこか1つの所につながっているような気がして、その1つとはきっと人間の根源的な何かなのだと思う。

表現とは結局の所は、その芯というか、共通項というか、すべての表現の中に脈々と流れている1つの答えに少しでも近づくということなのかもしれない。それが陶芸でも、文章でも、写真でも、文字でも、言葉でも。

きっと自分というものも同じなのかも知れない、この自分、この心をつくるものは、ひょっとすると人間の歴史そのものなのかもしれないし、自分に繋がるまでの何千人、何万人の中に沈殿してきたものから絞り落ちてきた一滴なのかも知れなくて、その一滴が結局は自分というものであって、それは同時に人間そのものといっても過言じゃないのかもしれない。

なんて。

ほんと、世界は心持ちでどこまでも広くもなるし、どこまでも窮屈になるし、どこまでも非情になるし、どこまでも寛容になる。自分がいまところの人生の中で体得したことの中で一番重要だったのは、その事実に気づかさせてもらえたことだと思う。




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Title: ここなっつ。
2013.07.10

まいにちなつい。

まさにバケツをひっくり返したような夕立が降って、ばしばし雷が落ちてきて、朝顔が咲いて、縁日にいって、我が家に風鈴がきて、島へ行く船を予約した。雨上がりに立ち上る熱気と洗い流された埃の匂い、あちこちで唸る室外機の音。

その空気に恍惚としながら自転車ではしっていると、性懲りもなくこのままどこまでも一人でいけるような気になってくる。寒くなってくるとすぐに一人ではどこにもいけないと思う癖に。

思うに、今と昔で大きく違うのは、昔は夏の先なんて見えてなかったのだけど、今は夏の先もしっかり見えているということかもしれない。昔は夏は一過性のものではなくて必ず完結していたのだけど、今はこの夏が一過性のものだということも痛いほどにわかっている。

それをなんだか悲しいような、否定したくなるような時があったのだけど、いまはそれが痛いほどわかるようになったからこそ、その価値が格段に増したし、その感覚をしっかりと味わうことに意識的になれてるような気がする。

なついぜ。




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Title: 旅
2013.06.16

弾丸ツアーでアジアのどこかに旅にでる夢をみた。

思い立って飛行機に飛び乗って、深夜の空港につくとそこからすぐに車を乗り継いでどこかの遺跡に向かった。とてもリアルな夢で、目がさめたときにバスで揺られて痛かった腰がまだ痛かったし、ふわっとした高揚感がお腹の底でくすぶっていた。

みたことのない景色がみたいとか、したことないことをしたいとか、まだまだ世界には知らないことがたくさんあるとか。そういう気持ちはいつだって心のどこかにあって、ほおっておけばマンネリ化する日常の中にいつだってそれを求めているのかもしれない。

昔はそれを外に外に求めていたのだけど、最近では自分が旅をしているときとしていないときの心の置き方の違いがよくわかったし、旅はどこにいてもできることもよくわかった。

「人生は旅である」という格言を耳にしたことがあるが、人生は旅だというのは字面だけにその深さがあるのではないのだと思う、人生を旅だというには、まず旅がなんたるかを知らなければならないのだと思うし、そもそも旅がなにをもたらすものなのかをしらなければならないのだと思う。

旅において目的地は1つの手段で、手段に至る過程に自分が何を得て、どう動機付けをして足をだすかということは、本当に人生と似ていると思う。

雨を、忌むも、詫びるも、尊ぶも、同じ心から繰り出される。

*

人と関わる時に大事なのは「素をむき出す作業」だなと思った。

一枚一枚皮をむいていくように、言葉と姿勢と行動をつかって、相手の表皮をむいていく、簡単にむけるときもあればむけないときもある。それをむくのがうまい人が、つまりは人との距離の詰め方の得意な人なのだろうと思う。

最近は会話にはいくつか段階と種類かあるように感じていて、その段階のギャップをどのタイミングで、どの言葉を使って超えるかということを考えたり、相手の使う言葉や姿勢の変化を感じ取ることでコミュニケーションは格段に面白くなるし、自分自身の中でもコミュニケーションが楽しみとして確立されてきたように思う。

意識しないで言葉を使うのであれば、意識して使う方が何倍も楽しめる。楽しまなければなにもうまくはならないと思ってる。

*

この間とある場所のエレベーターで乗り合わせた貴婦人達の会話。

「先日○○さん、車をぽんとプレゼントしてくれたのよ~」

「すごいわね、私はこの間旦那に銀座に連れて行かれてバーキンを現金で買ってもらったわ」

「すごいわね~うちなんか息子が海外に留学してるからお金がかかってしかたがないわ~」

それを聞いていてなにか気持ちが悪いというか違和感が残った。エレベーターを降りてから、どうして自分の中でその会話に違和感を感じるのか、どうしてなにか嫌な気分がするのかを考えた。

朧気ながら、その理由はきっと、会話に顔が見えないからだろうと思った。例えるなら、顔を両手で覆い隠しているのに、それでも自分はこんな顔をしているのよと、CGで作られた自分の顔のパネルを見せ合っているような類の違和感なのだと思う。

情報の伝達というのであれば、それが会話であれ文章であれ顔は見えなくてもいいし、むしろ顔を見せない方が効率はいい、しかし会話の種類がお互いを知ることであったり、例えそれが雑談なのだとしても、たわいもなければたわいもないほどに、そこに顔を見せなければ会話は本来の力を発揮できていないし、そこに違和感しか残さないし、その違和感は疲れを生むし、その疲れは次へのコミュニケーションにつながらない。

世間には顔の見えない言葉や行動や姿勢があふれていて、むしろ今やそれがあたりまえなんだという慢性的な思い込みも蔓延している。それは世の中にある問題の切っ先なのかも知れない。

閉塞感や孤独感というのは、人とうまく繋がれないことから生まれるのだと思っている。人が人とうまく繋がれない要因の1つは、世の中が顔が見えないことを問題視するどころか、それを助長していくような科学や、生活の進歩を加速化させているからだと思う。

その加速にブレーキをかけたり、そこに反比例させる力で行動をしていくのは、これから自分が大切にしていかなければいけないことの1つだと思う。

*

1人の人が体験できる人生は一種類だけ。

当たり前なのだけど、先日ふと自分が成し遂げられる人生は1つだけなのだというごく当たり前のことが腑に落ちた。

自分は変身もできないし、悪の組織と闘うこともない。世界の為に、社会の為に身を粉にする気もない。では残りわずかな時間で、自分の1つの人生を芯のある形で、楽しんで終えるためにしなければならないことはなにか、何を得て、何を捨て、何を残していくのか。

きっと昔の自分であれば、得るために何をして、いらないものを選別して切り捨てて、そして残したいものから逆算で今の行動を決めていたかも知れないが、今思うのは、どこにいても得れるし、なにも捨てるものはないし、その結果に残るものが残すべきものなのだと思えるようになったことだ。

それがいいのか悪いのかはまだわからない。でも昔よりもずっと生きやすい。

*

湯圧のすさまじいシャワーで頭の先から湯を浴びる。

なにか自分の中の悪いものまで一緒にこそがれて、流されていくような錯覚を覚える瞬間の、逃避と自己肯定の入り交じったような生々しい感じが生きているということなんだろうと思う。



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Title: 鐘。
2013.06.10

わからないことがわかると、また1つわからないことが増える。この連鎖はいつかどこかで終わるのだろうかと思っていたのだけど、最近わかったのは、旅は歩き続けているうちは終わらないし、歩くのをやめたときに終わるだけなのだ。それ以上も以下もない。

そしても1つわかったのは、歩き続けている限りは見たことのない景色を見ることは出来るのは間違いないのだけど、歩くのをやめたら新しい景色が見えないかといえばそうでもないということ。

歩くのをやめたときに見える景色は、歩くのをやめたときにしか見えないものでもある。

世界には1つも0か1で証明できるものはない。

諸行無常であるこの現実はとても慈悲に満ちていると思う。



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Title: kon.
2013.06.05

先が見えないと不安だというが、そもそも見えてると思ってる先なんてなんの根拠もない妄想なのだし、先が見えないからこそ、しっかりに今に目を向けることができるのだし、今に目を向けないから不安がいつまでたってもなくならないのだろうか。

先のことばかりみてる人の言葉なんか信じない方がいい。十中八九その通りにならない。

つくづく今の話をしっかりできる人って思ってるほど多くないのだな、まだ来てない未来の話にわくわくすることもあるのだけど、できることなら今の話をわくわく話せるような人になりたい。



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Title: 動機付け
2013.06.05

ここ最近感じていること。

改めて再認識したのだけど、やはり人間がなにか行動するときの理由、動機付けというのは、自分の中の欠損した部分を埋める為なのだと思う。もしかしたらとかではなく、最近は確信に近くそう思うようになった。

自分のしてる活動、人に対する姿勢、使う言葉も、誰かを嫌いになるのも、好きになるのも、誰かを批判したくなるのも、わくわくするのも、目を背けたくなるのも、もっといえば、原発に反対するのも、歌を歌うのも、炊き出しをするのも、サッカーをみて興奮するのも、ツイッターでつぶやくことも、FBに写真を載せることも。必ず自分の中にある何かを満たすか、もしくは守る為なのだと思う。

その何かというのは、自分自身の存在であって、存在とは何かといえば自分を自分たらしめる概念だ。

自分の思う自分、友達の思う自分、他人の思う自分、家族の思う自分、自分というものは本来概念に過ぎないし、目に見えないし、本当はどこにあるかもわからないようなものなのだけど、そのどこにあるかもわからないようなものに、時に揺さぶられ、振り回されて、苦悩して、幸福を感じたりする。

そのなんだかわからないけど、間違いなくそこにある自分という概念を、ある程度の大きさの範囲にとどめておくために、つねに自己肯定をしてとどめておかないと不安になるのが既存設定なので、つまりは人間はつねに自己肯定されたい生き物だと断言してもいい。

覚りでも開いていない限り、娑婆に生きてる人は僧侶だろうと在家だろうとみんな自分のことを認められたくてしかたがない。表面的にそれを否定したとしても、その否定すらも自分の中にあるなにかを満たすか守るための行動なのだと思う。

これは思い込みでもなんでもない事実だと思う。

そしてその自己肯定をするという作業はとても厄介で、それは他者との比較によってしかできないので、つねに人と自分を見比べているし、人からの評価を自分の存在価値として結びつけたりする。

自分はその大前提を信じているので、自分の中では「誰かの為に」とか「何かの為に」という動機付けがあまり好きではない。きっと表面的な部分では、誰かの為や何かの為に見えるようなことでも、本質はそうではないと思ってる。本質はそうでないのに、そう思い込むことで、そこに生まれるギャップは時に誰かを傷つけるし、自分自身の足をひっぱるのだとも思ってる。

それを自分で認識している人としていない人がいたら、認識している人の言葉のほうを信用しているし、自分の為になにかをしている人と、誰かの為になにかをしている人がいたら、自分の為に何かをしている人を信用する。

それはきっと自分はきっとここ一番で人間自体を信用してないからだと思う。なんで信用できないかといえば、それはきっと自分自身がろくでもない人間だからだきっと。

なもなも。

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Title: 境界。
2013.05.16

自分がどこにいるのだろうかなんてことを思うことがあるのだけど。

でも自分はどこにでもいるのだ。

花を愛でるも、下世話に馬鹿笑いするのも、嘘をつくのも、事実に憤慨するのも、シンプルに笑うのも。

自分が自分でない瞬間なんかない。本当の自分を捜すのは、今の自分をしっかりと捕まえていない証拠だ。

言葉、身体、環境、自分と世界を隔てているのは、物理的な境界ではない。

世界は境界によって隔てられているのではない、心によってのみ隔たりをうむのだ。




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Title: いっぽふぉう。
2013.05.15

twitterをやるようになってから、思いついたことをさくさくつぶやくので、熟成させる時間が著しく減って、悶々とする時間も著しく減った。それが良いのか悪いのかわからないのだけど、そういう時間が減ってみると、改めて真っ白な画面に向かって、頭の中にあることを文字に変換して、こそげ落とす作業は、自分にとっては自分と向き合う大事な時間で、頭を整理する上でもとても大事で、なによりも熟成させるということはとてもここちがよい時間だったのだということに気づかされる。

twitterのいいところは無駄なものをそぎ落として、端的に自分の想いを伝えられることなのだけど、きっとtwitterで省かれてしまう無駄な部分というものは味とも呼べるし、個性とも呼べるし、独自性でもあるのかもしれない。

それがあることで生きてくるものというものもあるのかもしれない。肉も熟成するとやわらかくなるし。

でもそう考えると、茶道のお手前というのは無駄なものがそぎ落とされているのだけど、そこにはちゃんと味も個性も独自性もあるのだよな。きっとそれはいま自分の見えているものの数段上の境地だからなのだきっと。

型に血が流れて初めて形になるというやつですかね。

書きたいことが明確にあって、それをわかりやすく文章化して書く文章と、今のようになにも考えずに、思いつくままに文字をくりだすような文章では書くときに使ってる部分が違うような気がする、前者は頭のスイッチのいれないと書けないのだけど、後者は頭のスイッチが入ってると絶対に書けない。

このスイッチがはいってるとできないという感覚には書くときだけでなくて、話をするときや、コミュニケーションをとるときにも時々であうことがあるのだけど、スイッチを入れるという意識は同時に頭や心にリミッターをかけるのだ、スイッチなんてものはそもそもどこにもない。

やる気スイッチはさがしたってみつからないし、さがしてみつかるスイッチではよくて自分の身体の大きさくらいの力しかだせないのだと思う。

自分の身体は1つの目安で、そのラインが限界値にみえるのだけど、頭も身体も入れ物に過ぎなくて、その中にある心や思いは、身体の稜線をはるかにこえてしかるべきものなのだ。

書いてて思ったが、やはりこちらで書いている文章からtwitterへ切り出すことの方が、twitterで切り出されてきたことをこっちでまとめるよりも格段におもしろい。

自分にとって散歩をするのと書くのはとても似ている。書き始めるときにはどんな言葉がでてくるかわからない、歩いているときはどこにつくのかわからない。書いてるうちに歩いているうちに、スタート地点では想像も出来なかったものに出合う可能性を秘めている。

そういえば、今日絵本を読んでいて思ったのだ。

どうしてあんなに狼は嫌われるのだ、いつも目の敵にして痛い目にあうのだ。見た目が怖いのは仕方ないが、いつも森の仲間からはつまはじきにされて、まともな人格形成が出来るはずがないし、森の仲間が助け合い、分け合い和気藹々と暮らしているコミュニティにはいれないのだから、奪うしかない、脅すしかない、つまはじきの狼も家族や子どもを守る為なら、豚だって赤頭巾だって喰らうかも知れない。

なんだろうか善と悪の概念を子どもの頃に教えるのはとても大事。だけどわかりやすい形で善悪を色分けしてしまうと、その先を考えることをしなくなってしまうし、実際世界には明確な善も悪も1つもないのに、明確にわかりやすい善悪の構図を鵜呑みにするようになってしまうのではないかと心配になってしまった。

自分の目からみた善しか信じられないと、平気でまた人身事故かよ、まじ勘弁とか言ってもなにも感じなくなってしまうのだ。本当にまじ勘弁なのは人身起こした張本人だ。迷惑者の狼のことはしらないってか。その口で世界平和とか、思いやりだとかを声高に叫んだところで違和感しか感じない。

それと備忘の為に。

本当に美味しいものはよく噛まなきゃわかんないのにな。かきこむように食事をしてると絶対にわからない味があるのだということが少しわかったきがした。










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Title: ハンモックチェア。
2013.05.10

遊んであげるのと一緒に遊ぶということの違いが頭じゃなく体感としてわかると子どもと関わるのはぐぐっと面白くなるし、いままで見えなかったものがずずっと見えてくるように思う。

ハンモックチェア買うた。

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Title: 餅
2013.05.01

はるうららかな日、桜の下でもちをつく。臼に落ちる花片こそがわびさび。そんな心穏やかな時間と陸に打ち上げられた船とのコントラストがとても印象に残った。

感じたことをそのままに。

とてもいい餅つきだった。日差しも風も時間も。すべてがとてもかみ合っていて、意図的には決して作れない時間、いつまでも続いて欲しいと思うけれど終わることでこそ完結する時間。

一期一会という言葉をじわじわとお腹で感じることができた。やっぱり自分は人と関わっていることが好きなのだと思う。楽しかったしありがたかった。

被災者という言葉ができてから、意識的にもしくは無意識的にも被災者と、被災者じゃない人という線引きがしっかりとされてしまって、知らず知らずのうちにそのカテゴリーわけが、それぞれの立場の中にバイアスをかけてしまっているように感じた。

時に共通意識のバイアスをかけないと人はまとまらないから、それは絶対に必要。家族、友人、恋人、夫。被災者。親子。大人。子ども。日本人。なんでもそうだ、バイアスかけないと人は自分すら認識できない。でもバイアスをかけた時点で、世界は最大公約数にくくられてしまって、自分と他者は分断されてしまって、その壁や枠や、境界線を越えることを忘れてしまう。

その超えられない境界やカテゴリーこそが人間の深い部分で苦しみに変わる。だからこそ、そこに楔をうてなきゃいけないし、そのバイアスを意識してぶっ壊さなきゃ苦しみの根源は見えないし、根源が見えなければ戦えない、前に進めない。

苦を生み出した直接の原因はいつだって不可抗力な外的な要因だし、そこにまちがいなく大小もあるのだけど、多かれ少なかれそれを抱えずに生涯を終える人なんていない。悲しみから立ち上がるのも、苦しみをかみしめるのも既存設定、削除できないプリインストールされたくそアプリケーションみたいなもの。

気仙沼から戻ってきて、東京の朝の通勤ラッシュの人たちをみてると、ここもまた東京砂漠なのだなと感じるし、家に戻って悲しみに打ち震えてたり、どうしょうもない不安に押しつぶされそうになる要因はなにも震災だけが運んでくるわけではないのだと思う。

今回宿泊した気仙沼の宿の壁に毛筆されていた言葉「311、海はすべてを奪っていった。しかし今、海はまた何もなかったように穏やかな顔をしている。いったい海は何を伝えたかったのだろうか」というようなことが書かれていた。

その言葉に、そこにいる人達の心のあり方、生き方が凝縮されているように感じた。

もしかすると人間には大きすぎる苦は自己防衛的に小さく、逆に小さな苦は自己肯定のために大きくして、ある一定の質量の幅に自己調整する機能が備わっているのかもしれないということを感じた。時々癌のように、その機能が過剰動作してしまうと心のバランスを崩してしまうのかも知れない。

ともあれ、そんなことを思いながら改めて、これからも自分の取り扱い説明書をしっかり書き込む作業に邁進しようと思った。たぶん自分にできることはそれなのだと思う。最近になってやっとその作業の意味や、それがどこに繋がっていくのか、道筋が少し見えてきた気がする。まえにまえに。

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Title: 無糖。
2013.04.16

中学高校の同級生とばか騒ぎをして、いろいろなものに気づかされて、心がほっこりした矢先、為替で大損こいて、夜眠るときに全てが夢ならいいのにと思いながら眠りにつくのだけど、無常にも訪れたいつもの朝に、子どもからたんぽぽの花をもらう。絶望も希望もふすまの敷居をまたぐようにやってくる。それはとても怖いことなのだけど、とても幸せなことでもある。生きてるってこういうことだ。

きっと過去を褒められることよりも、未来を期待されることよりも、今を認めてもらえることこそが生きていく上で一番力になる。「今」とどう向き合うか、「今」をどれだけ意識するか、これはたぶん自分の人生においてとても大きな、そして大切な命題だ。

それに付随して、例えば、晴れていても雨が降ってもそこそこ楽しいことよりも、雨が降ると残念だけど、晴れたらとびきり楽しいことの方が、きっと心には栄養になる気がする。


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Title: 空喰う。
2013.04.06

備忘の為に。

仏教というのは、空を知ること、だから深めていけば深めていくほどに仏教すらも空なのだ。

僧侶という呼び方も、教典も。そこにあるのは、ただの空を知る道だということにつきるのかもしれない。

空とは、すべてがすべて絡み合って、支え合って、こんがらがって、一見ぐちゃぐちゃにみえるけど、よくみりゃみんなバラバラで、何一つ実体なんかないということだ。

言葉も匂いも、想いも願いも、すべてがすべて、この自分の脳ミソが自分に絡みついている様々な要因から生み出した、自分の色の自分にしか見えない、自分だけの世界なのだ。

そんなものははなからうそっぱちだ。でもみんな自分の見えてる世界だけはうそぱちじゃないとおもってるだけのことなのだ。

自分はいままで、仏教があれば幸せになれると思っていたし、少なくとも苦しみが軽くなると思ってたし、実際に何度も救われてきたのだけど。でもよくよく考えれば、救われたのは、その方法が自分の中で意識的に、もしくは無意識的に、実践されたからであって決して仏教という概念に救われたのではないし、阿弥陀によってでもない。でも仏教という概念と阿弥陀がいなければそこには自力では絶対に辿り着けないというパラドックスこそが仏教のミソなのだ。

あえて言うのであれば、仏教では人は救えないし、ましてや僧侶なんて呼び名は大切な事を曇らせ真実から遠ざかる要因だ。

僧侶であればこそ僧侶を離れ、仏教を実践するからこそ仏教を離れることが出来なければいけないし、この「離れる」という感覚を実感として体験していくことが、仏教を深めていく過程における1つの目安なのかも知れない。

僧侶が仏教を広めて人を救うなんて言うのは、私は仏教のことがなんにもわかってませんと言っているのと同じなんだきっと。

それともう1つ。目の前にいるのが誰であれ本当はフラットなのだ。その人がいくつであれなにものであれ。人間が人間である以上はフラットなのだ。みんな飯食ってうんこして、セックスして、死んでいくだけ。その中でおいしいものを食べる自分、隠れてうんこする自分、セックスする自分にきれいに理由付けをして、自分自身、人間自身を少し高い所へ押し上げることで、限られた時間に生きていることをごまかすのだ。

そしてごまかしが生み出す歪みこそを苦悩と呼ぶのだ。

まえにまえに。


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Title: いつか。
2013.04.06

いつかね、といって思ったのだけど。

昔、いつか、というのは、すごく先のまだまだ来ることのない遠い未来のことを指していたのだけど。それはきっと自分にはまだまだ先にたくさん時間があって、当たり前に大人になって、当たり前に年をとることを信じて疑わなかったからなんだろうと思う。

最近、いつかという言葉のもつ時間の尺の長さが昔より短くなったというか、いつかが昔よりも近くなったような気がする。

いつかは、本当はいつかじゃないのだ。

いつかなんてものは、はじめからないんだ。

こういうのをきっと空というんだ。


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Title: 欠ける。
2013.04.06


ずっと続けられるものというのは、続けていないと気持ちの悪くなるものだ。

続けていないと気持ちが悪くなるということは、それが自分のなかの欠けている部分を満たすからだ。

人は欠けているこそ、なにかをずっと想い続けられるのだ。

だから、欠けていることはすばらしいことだと思う。




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Title: えにし。
2013.03.31

つくづく人と人の縁というのは不思議なものだな。出来た縁、繋がるも切れるもそれまた縁。自然に繋がったものを、意図してしまうは人の欲ってか。



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Title: さくらなみき。
2013.03.26

子どもの時、テレビのいうことは真実で、大人のいうことは社会の道理で、世界はどこまでもひろく繋がっているのだと思っていた。少しづつ大人になって自分の了見が広がってくると、世界はどこまでも繋がってなくて、社会の道理はひんまがっていて、テレビのいうことにはたくさんの利害が絡んでいるのだということが見えてくる。

その現実と心のギャップに心の置き所がわからなくて感情がうまく処理できないことを思春期と呼んだり、反抗期と呼んだりするのだろう。いくら思い悩んでも世界の現実は何も変わらないし、なによりも本当は自分だって特別な存在でもなくて、そのひんまがった社会の一要因に過ぎない。

その現実とどう向き合っていくのかということで、生き方というのは変わってくるのだと思う。気づけば気づくほどに、見えれば見えるほどに社会はひんまがって、世界ははハリボテのようなものなのだ。でもその世界に生きていくということこそがのが人生そのもの。

白も黒もいわば執着なのだ。

*

何かを輝かせる為の光は、誰かを日陰に引きずり込むのだ。

*

予想より早い開花にあちらこちらで大わらわな様子だけど、そもそも花見というのは人間が花の予定に合わせるからこそ風情があるのだろうに。どこまでいっても人は人間の物差し。花の時間に合わせようという心意気がなければ花見酒もただの酒。

*

自分の中にある思いや考えを過去の文献や、古い書物の中の言葉に見つけることで、自分の型というのは明確になってくるのかもしれない、時に反証する言葉に襟を正しつつも、その作業を繰り返し繰り返し行うことで身につくものを自信と呼ぶのかも知れない。

仏教は絡まりあって、もうどこが結び目かもわからなくて、がんじがらめの塊をばらばらにしていくための作業行程みたいなものなのだと思ってる。

*

「語りかけてくる」という言葉を使うときに自分の中に響いてる言葉は誰でもない自分自身の中にある声であり、声なき声を聞くと言うことは自分自身にしっかりと向き合うという事なんだろうな。





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Title: あお。
2013.03.13

事実はかならずしも真実ではなくて、空が青いという事実は、真実ではないし、自分の見えている青とあの人の見えている青が同じだと思うのは正解ではない。

自分よりもずっと青臭いであろう人に、わかったようなわかんないような理屈を振り回して、飄々と、そして腹を据えてみられようとしたりする。

青臭いのはどっちだ。

どうしょうもない。


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Title: 風化。
2013.03.10


とくに深く考察したわけではないので、いろいろな意見があるだろうし、側面的な想いであることはよくわかっているのだけど。

311でつらい経験した子ども達をみていると、いろいろなことがはやく風化すればいいのにとか思ってしまう。風化ってなんなんだろう。風化させないことは本当に大切なことなんだろうか。子ども達に必要なのは過去を忘れないことではなく未来に目を向ける力なのではないのだろうか。

おとなと子どものみている目の高さは決して同じではないし、おとなと子どもでは秘めてる力ののりしろも全然違う。おとなはいつも世界に、未来に、子どもにリミッターをかけたがる。

そもそも人間が本来持っている機能には必ず意味があって、それを否定することによって苦が生まれるのではないだろうか。諸行無常の中には忘却ということまでもしっかり含まれているのではないだろうか。

なんてことを感じたのです。ごめんなさい。


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Title: 旅。
2013.03.10

備忘のために。

若者よ、旅に出なさい。まだパスポートを持ってないなら、今すぐ作りなさい。夏になったら、リュックを背負って、デリー・サイゴン・バンコク・ケニヤに行き、ショックを受け、感動しなさい。食べたことのない料理を食べ、面白い人と出会い、冒険に出て、危険から身を守りなさい。帰ってきたら自分の国が違って見えるでしょう。首相も同じ人なのに、違う人に見えているでしょう。音楽、文化、食べ物、水資源の見方が変わるでしょう。シャワーを浴びる時間も短くなっているはず。「グローバリゼーション」の本当の意味もわかってくるはずです。それはトム・フリードマンが言ったフラット化する世界ではありません。地球の気候の変化と環境破壊が決して嘘ではないこともわかるでしょう。ある人の一日は、バケツ4杯分の水のために20km歩くだけで終わります。あなたのフライトの向こうでは、どんな本も先生も教えてくれない授業が待っています。多くの人は、帰ってきた時に初めて全てがはっきりし、頭の上に電球が浮かぶのです。

ヘンリー・ロリンズ(一部改訳)


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Title: されどコーヒー。
2013.03.05

誇大妄想なのだけど。

例えば、スターバックスのラテと出合ったことで、コーヒーが飲めるようになったのだけど、コーヒーが飲めるようになり、色々なところでコーヒーを飲むようになると世の中にはおいしいコーヒーというのがたくさんあるのだなということを知るわけです。

いわば、いままではスターバックスのラテが自分のコーヒーの全てだったのだけど、もっとおいしいコーヒーを知ることで、むしろスタバのラテを飲みながらコーヒーを知ったような顔していた自分の器の小ささを目の当たりにするのです。

そんなこんなでふと感じたわけです。

少しおいしいコーヒーを知ったり、いままで知らなかったようないれかたや器具を教えてもらったりして、少しづつコーヒーが自分のものになっていく中で、自分のコーヒーの入り口であるスタバのラテの存在に対して自分がどういう気持ちを払うべきか。

もっともっとコーヒーが自分のものになって、コーヒーのなんたるかが今よりも少し感じられるようになったら、きっと自分はスタバのコーヒーをのんでおいしいおいしいといっている人をみて、もっとおいしいコーヒーがあるよとか能書きを垂れてしまうのではないだろうか。えらそうにコーヒーの講釈をたれたりするのではないだろうか。そうはなるまいと思っていても心の中でどこかそういう奢りというか、わかったような顔する自分が頭をあげてくるのではないだろうか。

いやむしろそうなって当然だし、それが人間の既存設定なのかもしれない。つくづく原点とか、自分の関わってきた点とか、そういうものにどう気持ちを向けるかというのは生きていく上でも大きな命題だと思う。

自分の視点が変わることで、そのもの自体の価値が変わってしまったり、それが今の自分にとって必要か不要かとか、そういう都合のうんぬんにかかわらず、自分の通ってきた道の中で関わった点を抜きに今の自分はないのだ。人生は点ではなく線なのだ。それを認めることは自分を認めることであるし、それを認めることで今一度謙虚な姿勢を取り戻せるのかも知れない。

ほっておけば自分はどこまでも傲慢になる。どこまでもえらそうに、どこまでもわかったような気になる。そうなるまいと心に誓い、そういうときはスタバのラテをのみながらそれじゃいかんぜよと自分に言い聞かせようと思ったのです。

ちなみにスタバのラテがおいしくないというわけでもなく、日々のんでいるのですけどね。ようはわかったような顔でイキるような大人にはなりたくないとそういうことです。


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Title: こころ。
2013.03.05

久々に夏目漱石の「こころ」を読み終えたのだけど、昔と今と自分の中でこの物語に共感できる部分と感情移入できる部分が全く変わっていておどろいた。おもにKに対して。しかし改めて読み直して再認識したが、この本はすさまじい本だ。考えさせられポイントが多すぎて鼻血がでそう。

「明治の精神」だけで数時間はつばとばしながら話せそうだ。

昔は時代背景もわからないまま読んでいたから思い入れもいまほど深くなかったのかもな。特に夏目漱石の空気感や文脈でわかることは読者に任せる的なスタンスは読み手によって作品の印象を大きく変えるのだろう。

Kや先生の死と藤村操の死となにか通ずるものがあるのではないだろうか。そう思えば思うほどその時代に清沢満之の残した言葉に触れることで改めて浄土教の深さを感じる。


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Title: 合。
2013.02.22

ふと思いだしたんだけ。インドやチベットにいったときに、ご遺体ってまさに亡骸なのよ。ああ亡骸なんだなっていうのをすごく感じた。だからなんだよって話なんだけど、慣れるのとは違うし、軽く扱うのともちがうのだけど、肉体は亡骸になるのだよな。

尊厳というのは、おもにご遺体に対するものではなく死に対してあるべきものなのかもしれないな、同じようだけど、その違いによって手を合わせるべきがどこなのかには大きな違いが出てくるのかもしれない。


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Title: 金助
2013.02.22

「好き」を持っているいるということはとても幸せなことだと思うし、「好き」はその人の魅力でもあるし、味でもあるし、生き様でもあるし、力でもある。

それが仏教でも、三味線でも、尺八でも、陶芸でも、勉強でも、彼女でも、家族でも、なんでもいいのだけど、好きなものは自分というものに、彩りとのりしろをくれる。この彩りとのりしろがここ一番で自分を支えるモチベーションや原動力になる。

最後の最後で疑いようのないものは、理屈ではなく好きなのだという自分の感覚なのかも知れないし、もしかすると自信というのはそういうところから生まれてくるのかも知れない。

きっと「好き」という中には、もう見たくもないとか、大嫌いとか、もううんざりとか、飽きたとか、そういう感情が既存設定で含まれているもので、そう感じたことがないものはきっと本当は「好き」ではないのかもしれない。

それと、「好き」と「楽しい」はすごく密接に関わっていて、楽しいというのは、自分がその場所を、その空気を、その時間を、目の前の人達をどれだけ好きなのかということに比例してくるものなのだと思う。


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Title: たからもの。
2013.02.22

今日一人の女の子が池に張った氷を嬉しそうに持ってきた。まるで宝物でもみつけたかのようにきらきらとした目で。

その子をみながら、この子がいつか大きくなったら池の氷には目もくれず、ティファニーのオープンハートの方に目をきらきらさせてしまうのだろうかなんてことを思ってしまってすこしせつなくなった。

感動は案外身近にあるのだということをいつまでも忘れないようにしてほしいものだ。


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Title: こーひー。
2013.02.22

実はと言うほどのこともないのだけど。

少し前からコーヒーを飲むようになったのです、というよりも飲めるようになったのです。きっかけなんてものは特にないのだけど、少しづつ飲めるようになっていまやブラックでもどんとこいです。

なんかやっと大人の仲間入りをした気分です。

でも長いこと"コーヒーの飲めない人"をしてきていたので、よくいく場所や、よく会う人は黙って一人だけ紅茶やお茶に変えてくれたり、コーヒーをくださいというと驚かれたりするのですが、何度かそういう経験をしているうちに「変化」というものはこういう感じなんだなということを実感をもって感じられたような気がします。

自分の変化は、少なくとも人にも影響を及ぼすし、例えそれが小さな変化でも、人から人へめぐりめぐっていくのだなと。それが悪い変化であれば悪い流れになって、いい変化であればいい流れになって、それはいつかおおきなうねりになるのかもしれない。なんて大げさなことを考えたりするのです。

それと、たかだかコーヒーが飲めるようになったという小さな変化なのだけど、その変化によって、自分には行きたい場所が増えたし、使いたい道具もみつかったし、腰を落ち着けられる居場所ができたし、その小さな変化がもたらしてくれたものが数珠玉のように自分の知らなかったことや、見えなかった視野につながっていくのがとても心地よいのです。

好きなものや、好きなことが増えるというのはとても楽しいことで、幸せなことなのだ。という手垢のついたような表現なのだけど、でもその手垢のついた表現に、いままさに血がかよってきて、じんわりと身体の中をめぐってくるような心地よい温かさにほんのりとほうけている今日この頃なのです。


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Title: 豆まき。
2013.02.01

今日は豆まき。鬼は己にこそ巣くうものぞ、福は人に施すものぞ。鬼は内、福は外。なまんだぶつ。


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Title: 金の卵
2013.01.31

今日、子どもたちの演じるジャックと豆の木を見ていて 金の卵を産む鳥がいたとして、ふと自分だったらその鳥を無条件にも欲しい!と考えるだろうかと思った。

たぶん、自分は、その鳥は何を喰うのだ?金の卵はどのくらいの大きさで中は空洞か?夜中に鳴いたりしないか?冬は外に出してても大丈夫なのか?匂いは?寿命は?卵は換金したらいくらになるだろうか。なんてことにひっかかって、自分なりに情報を整理して、考察をして、それを飼うことででるマイナスを消してからではないと手にしたいとは思わないし、どうしても不明瞭な部分があれば、それが最悪な方に転んだとしても対応できる策を思いついて初めて手にしたいと考えるのだろうと思う。

なんてめんどくさいのだろうか。自力の極み。

それでも最近は、自分の想像はあくまで想像の域をでないし、自分の想像の中で動いているうちは、いつまで経っても自分の枠を超えてはいけないし、おもしろい科学反応は起きない、その化学反応がないと人生は色味を失うことがある。ということも経験してきたので、ある程度出たとこ勝負でフルスイングすればいいのだと思いつつも、やはりめんどくさい自分がしっかりといるわけです。

しかしそのめんどくさい自分の習慣がもたらしてくれた嗅覚みたいなものが、自分を守ってくれているということも間違いないのです。なので、いままで培った嗅覚を大切に、その感覚を頼りつつも情報や想像に振り回されないようにしなければいけないなと思うのです。

兎にも角にも、子ども向けの童話やお話というのは、つっこみどころが満載で、なんでそんな安易に家に狼を入れるのだろうか、なんで鬼とか狼というのはみんな詰めが甘いのだろうか、それは何らかの過信からくるものなのだろうか。そこさえ直せば簡単に猿や犬やキジなんて小動物にやられる事なんてないだろうし、子ヤギなんか食べ放題なのに、そもそも鬼や狼にだって生きる糧や手段が必要なのだ。なんてことばかり考えてしまうのだけど、

結局の所、幼少期における子どもの心には、本当はよく考えたらどちらが善か悪かわからないようなことでも、理屈ではなく、とりあえず目に見えるわかりやすい絶対善、絶対悪の良識を持つということが大事なのだのだろうな、と思いつつも、やはり頭の片隅でその絶対善や悪をどこかで疑う心や視点もちゃんと持っているような人に育って欲しいとか思ってしまうのです。

光が差せば必ず影ができる。陰を生まない光はどこにもないのだ。

なんて。

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Title: こころもち。
2013.01.22

知らない色や、空や、匂いや、空気や音にさらされて、心に血がかよってくるような感覚はいつ味わっても心地がいい。

心というものが一体どんなものなのかわからないのだけど、そこにはきっと心臓や腕や足や、頭みたいに血が通っているのだと思う。血流がよくなって身体が温まるように心もじわりと熱を帯びてくる。

人生は些細なことの繰り返しだし、積み重ねだし、時にその意味を問いて、その問いに飲み込まれたりもするのだけど、それでも同じ笑顔で笑う。

決して無くならないものなんてなのだけど、それでもこうして笑うということ、それを思い出すことはできる。

そんな確約もない不確かなものにこそ、永遠の営みが凝縮されているのだと思う。

*

世界は心持ちで変えるのだ。



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Title: 30代よ何かを抱け。
2013.01.16

MISAWAホームの広告にどきどきした。

*

30歳、坂本龍馬は薩長同盟のために奔走した。

31歳、ガウディはサグラダ・ファミリアの設計に着手した。

32歳、ゴッホは浮世絵に出会いインスピレーションを得た。

33歳、与謝野晶子は愛する夫を追いかけてパリをめざした。

34歳、ナイチンゲールは看護婦として戦場に向かった。

35歳、リンカーンは家を買って新生活をはじめた。

36歳、シェイクスピアは「ハムレット」に情熱を注いだ。

37歳、夏目漱石は、作家デビューを果たした。

38歳、ベートーベンは難聴を乗りこえて「運命」を発表した。

39歳、マゼランは世界一周の航海に出発した。

30代よ、何かを抱け。

*

30代の残り7年がすごく楽しみになる。


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Title: 嘘をつくこと。
2013.01.10

嘘をつくということ。

子どもたちがあからさまに嘘をつくということはよくある。

叩かれてもいないのに叩かれたとか、本当は自分にできないことをできるとか、悪いことをしてしまったのにしてないとか。

子どもと関わる上で、このような嘘にどう向き合うかということはとても大切な事で、現場にいて感じるのは、子どもが嘘をつくときというのは、その子を知る上でとてもチャンスだということ。

あからさまに嘘をついている子どもをみると、ついどうしてそんな嘘をつくのか、平気で嘘をついていると嘘つきの子どもになってしまうから、それだけは厳しく注意しなければ、親であれば、どうしてこんな子になってしまったのか、育て方を間違ったかなどと思ってしまったり、つい嘘をついたということにばかり目がいってしまうのだけど、幼少期につく嘘のほとんどはここで直さなければ平気で嘘をつくようになってしまうなどと思うまでもないようなものだし、、ずるがしこく、人を陥れるような類のものではないので、たいして心配するようなことではないと思う。それよりもそこで大事なのは、なぜそんな嘘をついたのかということにしっかりと目を向けることだと思う。

なぜ叩かれてもいないのに叩かれたというのか、なんでできないことをできるというのか、どうして目の前で悪いことをしたのに、平気でしらをきるのか。

そこにはたくさんの子どもからの想いがこめられていて、それは「もっと自分をみてほしい」とか「さみしい」とか「ほめられたい」とか「おこられたくない」「認めてほしい」の裏返しであることがほとんどで、その原因をつくっているものはなんなのかということを考えなければならない。

その原因は親にあるかも知れない、友達関係の中にあるかもしれない、弟や妹が生まれたことかも知れない。いづれにせよ子どものつく嘘はその子のおかれてる状況や環境を映し出す鏡であるし、むしろ嘘という形で、表にサインがでてくるほうがありがたいことなのだと思う。

そのサインを見落とさずに、しっかりとひろうということが「育てる」ということなのだと思う。これは子育てに限らず「育てる」ということはすべて、サインを見落とさずにしっかりとそれをひろって紐解いていくということなのだと思う。

幼児教育と仏教がとても似ているなと感じるのはこういう部分で、仏教のいう因果とはまさにこういうことなのだと思う。因果を考えるということの矢印を子どもではなく自分自身に向ければそれはそのまま仏教になる。

なぜ苦しいのか、なぜ妬むのか、なぜ嘘をつくのか。

自分を自分たらしめるものはなんなのか、それを紐解いて、そしてその自分とどう向き合っていったらいいのかということが「教え」ということになるわけで、そのための方法論が教典にかいてあるわけで。

その中で、最近、教典というのは教科書のように、教典を読んで自分の生活に照らし合わせるのではなくて、まず自分の生活を見直してみて、そこから湧いてきた疑問や苦しみをしっかりと認めた上で、教典の中にその解決策を探すいう順序ではなければならないのだということを強く感じるようになった。

微妙な違いなのだけど、教典はマニュアルじゃないし、漠然とその通りにしたら何かが変わるかといえばそういう類のものではなくて、それはあくまで過去の先人達の生き様や思考の集大成であり、例題集であるわけで、自分の中の問題点はなんなのか、いま自分をとりまく環境はどうであるのか、それを考えるということが前提になければなんの意味もなさないのだと思う。そこから自分はどの教えを選択していくのかということにも繋がっていくのだろうと思う。

独楽を回して窓を割ったり、朝からけん玉をしながらもたまにはちゃんと考えているのです。

遊んでいるばかりではないのです。

というサイン。




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Title: けん玉。
2013.01.09

32歳最後の日はとても楽しくお酒を飲めて、意気揚々と家路についたわけです。

帰り道で、幸せっていうのはこういうことだなと思ったわけです、こういうことというのがどういうことかといわれれば、それは言葉で捕まえておくには儚く脆すぎるし、それがどういう感触で、どういう匂いで、どういう形をしているのかも定かではないのだけど、でも間違いなく今お腹の中に渦巻いている感覚を幸せというのだろうという手応えをしっかりと感じたわけです。

縁というのはとても不思議で、とても温かく、ときに無情であるのだけど、その中で生きていくことをお腹で受け止めて、その現実の中に腰を据えることがすなわち幸せを捕まえることなのではないかと思います。

昨年の誕生日には、スコップとガイガーカウンターを片手に、園庭の数値をはかっては、数値の高めなところの土を掘り返していたわけですが、33歳になった今日は、朝から子どもたちとけん玉をしていたわけです。

たいした技も出来ないのに、大人特権で皿の上に球をのせるだけで、喝采と羨望のまなざしを受けられるという、このアドバンテージを存分に享受して、朝から気分よくなっているわけです。昨日は新年早々、子どもたちと駒をまわしていて、窓ガラスを割るという失態をおかしてしまい、とても落ち込んでいたのだけどそんなことも忘れるくらいです。

さて今年はどんな1年になって、どんな縁があるのかとても楽しみです。


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Title: 8日。
2013.01.08

明日には33歳の誕生日がやってくる。

坂本龍馬は33歳の誕生日に凶刃に倒れたそうです。幸い自分は命を狙われることもなく平穏無事に誕生日を迎えるのだろう。

例年のごとく32歳分のブログを読み直してみると、昨年は「幸せ」とはなにかということを強く考えさせられた1年だったように思う。

おじさんたちがみんな亡くなってしまって、今年のお正月ははじめて、おじさんたちの独りも居ない正月を迎えたこともあるのだけど、最近いままでにもまして無常ということを強く感じる。

昨年の暮れ、中村勘三郎さんが亡くなった時に、坂東三津五郎さんが弔辞の中で、「肉体の芸術って、つらいね。すべてが消えちゃうんだもの。本当にさみしい」といっていた言葉が妙に心の中にこびりついた。

その言葉を何度も反芻する。

今、自分の考えていることや、人生をかけて積み上げてきたことや、誰かと共有してきた時間とか、自分と誰かにしかわからないようなちっぽけな約束とか言葉とか、その瞬間に間違いなくあった安心感とか、まとわりつくような温かさとか、誰かにとったら既製品と代わり映えしないがらくたのようなものでも、それはまさに「自分」をつくる要素であって、その要素が渦巻いてひとつになって「自分」そのものになる。

その自分もいつか跡形もなくなる。今も遠い過去になるし、たわいもない今日は、そこに1日があったという事実すら跡形もなく忘れ去られる。

あとどれくらい生きていられるかわからないけど、これから先、何年か何十年かたって自分の人生を振り返った時に、「今思えば32歳の頃の自分が全盛だったのかもしれない」と思えるくらいにこの1年を十分に過ごせたと思ってる。

そして、充実していると思えば思うほどに、今は「幸せ」なのだけど、刻々と今が過去になっていくことに漠然と不安になったり、いつまで続くかわからない自分自身に怖さを感じたりする。そう思えば思うほどに、「幸せ」というものの本質が浮き彫りになってきて、「幸せ」にとっては何が必要で何が不必要なのかということがはっきりとわかったし、色々な場面での選択に迷いが少なくなったように思う。

自分がそういう心境になってきて、改めて仏教の役割や宗教の役割ということもよくみえてきた。

こういうのをメメント・モリというのだろうか。

ありきたりなのだけど、今は、いつ来るのかわからないその日までの時間を丁寧に過ごしたいと思ってる。強烈に今を、1年ではなく、1ヶ月を、1週間を、1日を、1時間を、1分を、1秒を。その感触を手に、目に、心に感じて過ごしていきたいと思っている。

この32年間もっちゃもっちゃと、いろんなことをこねくり回して、抹香臭く、理屈っぽく、どうしょうもない堂々巡りをしてきた結果に、行き着いた帰着点が、「日々を丁寧に」なんて、あまりにありきたりで、手垢のついたシンプルな表現なのだけど、今その言葉に重さと質感を感じている。

そんな32歳最後の日。

まえにまえに。

さて。33歳。

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Title: 2013。
2013.01.03

近所の公園であそぶ子どもらをぼんやりとながめてたら。

生きることは食べる事で。生きることは泣くことで、怒ることで、笑うことで。生きることはおしっこもらすことで、はしゃぎつかれることで、変な替え歌歌うことで。生きることは朝起きて、夜ぐっすり眠ることなんだなと。

そこになんの意味も意義もない。そして生きていない瞬間もない。

生きるというのは本来そういうことなんだよなとか思った2013年のはじまり。

今年も足下を再確認、前に前に。

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Title: 2012〆。
2013.01.01

2012年の最後に、新幹線の中で幸せってなんだろうかということを考えた。

そこで思ったこと。

どこかの国では、銃が乱射されて多くの人が犠牲になり、どこかの国では、なにが本当でなにが嘘なのかもわからない政治がまかり通ってるかと思えば、世界が滅亡するということがまことしやかに広まっては、たくさんの人が簡単に振り回されるようなそんな世界のなのだけど。

幸せというのはいつだって、どんな過酷な状況の中にですら見つけることは出来る類のものだ。

幸せは認識の中にこそ生まれる極めて流動的なもので、その不確かな連続性こそをまさに幸せと呼ぶ。

幸せは決して状況や環境によってもたらされるものではなくて、幸せは今への強烈な認識だ。そしていつだって結果論であって、決して予期して訪れるものではない。

今日もどこかで誰かが死んで、今日もどこかで誰かが生まれている。その事実こそが幸せであり、そのまっただ中にいる自分を掴むことこそがまさに幸せを掴むことなのだ。

そして、人はつながりの中でしか生きられないけれど、そのつながりによってこそ死んでいくのだという現実に立ち向かうということこそが幸せなのだ。

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Title: ほどく。
2012.12.25

ここ数日「ほどける」という感覚をすごく感じている。

やっぱ凝り固まっていていては、見える物も見えないし、こだわればこだわるほど、力めば力むほどに世界は色を失って、狭まっていくのだろうと思う。

力がはいっただけ世界は窮屈になっていくし、がんばればがんばるほど、手の届かなくなるものがあると信じている。

でもそれは楽をして、不抜けていればいいというわけではなくて。いかに「しなやか」でいることが大切かということで、「しなやか」でいるということは、つまりは意識の置き方をしっかりと捕まえておくということだと思う。

どうしてもその過程の中で「ほどく」という作業が不可欠になってくるのだ。


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Title: 承認。
2012.12.14

今年は承認ということについてよく考えた。

他人からの承認、社会からの承認、親からの承認、家族からの承認、そして自己承認。

「承認を得る」ということが人に与える影響や、自分に与える影響のメリットとデメリットを自分なりに考えて、実践してきて、いままで見えなかったことやわからなかったことにだいぶ整理がついたし、いままで何となくこなしてきた自分の中のルールみたいなものがはっきりと体系化できたことで、より考え方に厚みがでたような気がする。

承認の持つ力は大きい、人間は人から承認されることではじめて、自己承認できる生き物なのだということがつくづくわかった。

そこに付随して、「居場所」というのも一種の承認で、自分がいてもいい場所があるとか、誰かが必要としてくれる場所というものが与えてくれる力は大きい。

「お寺」ということを考えたときに、この承認ということはとても重要な役割を果たしていて、承認の扱いに長けるということは僧侶の資質としても1つ大切な事のような気がしている。

承認を制するものはすべてを制す、といっても過言ではないと思えるくらい、自分にとっては大きな命題の1つになった。これからもそれについては考察を重ねていきたい。

*

承認の中でも、自己承認というのは厄介なもので、他人からの承認によってしか自己承認できないようでは、それは本当の意味での安穏、安住には結びつかないということだ。その流れをどこで断ち切るかということはすごく大きな課題であるように思う。

特に、ここ最近、あちらこちらでコミュニティが希薄になって、ネットが既存設定になった世の中においては、絶対的に承認が枯渇しているように感じる。

SNSを通じて評価を得れば得るほど、安心する自分がいる反面、そこで評価されている自分と現実との些細なギャップがうまれ、その歪みはさらなる承認欲求へと繋がる。まるで中毒症状みたいに。

本来、承認というのは、イイネ!とか、共感だけを差すわけでなくて、時に同じ土俵で意見をぶつけあったり、口うるさい人の言葉に耳をふさいだり、へこんだり落ち込んだり、そういう関わりの中で相手の存在を認めたり、認めてもらったりしながら育まれてくるようなものなんだろうと思う。好敵手だって大切な承認の1つでもある。

そういうつながりの中で得る承認は、体感の伴うものであり、体感が伴った承認を得ることではじめて自信というものが生まれるのではないかと思う。

ただ大前提として、注意しておかなければならないのは、完璧な承認なんてものははなから存在しないということ。

他人が自分が100%理解するなんてことは不可能だし、それが親であれ子であれ、大好きな人であれ親友であれ、承認というのは、自分にとって都合のいい事実をすっぱぬいているにすぎなくて、そもそもがそういうものであるという自覚は大切なのだと思う。

承認は間違いなく動力になる。今年を振り返ってみて、今年は自分自身、承認よってすごく力をもらったし、承認をエネルギーにしなければ人生の荒波を乗り越えられないときというのは間違いなくある。

でもそれはあくまでカンフル的な要素であって、カンフルとはあくまで+αであって、普段歩くときの動力までも承認によって得なければならないような所に陥ってしまっては駄目なのだ。

自戒を込めて。

つくづく。

結局人生に目的なんかなくて、全部手段なんだよな。

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Title: 選挙
2012.12.14

乙武さんがTwitter上でフォロワーに向け「選挙に行かない理由」の意見を求めて、そこにたくさんの意見が寄せられているようだ。

自分は選挙に行くし、選挙権をもらってから一度も欠かさずに投票にいっている。どちらかというと選挙が好きだ。軽率な言い方かも知れないけど、あの非日常的なお祭り的なノリにわくわくするのだ。

という前提をした上で、今回の選挙について政見放送を聞いたり候補者のことを調べたりしていて、選挙に行かない理由として、「僧侶だから」ということは、浄土真宗の僧侶としてすごく筋の通った大義名分であるのかもしれないと思った。

政見放送をみたり、マニフェストを吟味したり、候補者の言葉に耳を傾けたりしながら思ったのだけど、結局の所、どの候補者にいれたら日本がよくなるだろうかということは、どの候補者にいれたら幸せになるだろうかということであるし、それは突き詰めていけば、どの候補者にいれたら自分にとってより都合のよい社会ができるのだろうかということなのではないかと思う。

こうなったら幸せであるという価値観で物事を判断すると言うことは、同時に、そうならなければ不幸であるという価値観を抱え込むことになるのではないかと思う。

仏教というのは、「幸せ」というものがあくまで自分の都合の上に成り立っていて、その都合をいかに小さくしていくかと言うことを、実践をとおして体現していくものだと思っている。

浄土真宗においていえば、自分の都合や、想像や、もっといえば予定や計画も、いつどこでどんな要因によって変わってしまうかも知れないし、いつだって一寸先は闇であるという現実、事実、それがあくまで既存設定であるということををしっかりと自覚することが大切で。

同時に、その現実の中で、自分の都合や、想像や予定というのは、あくまでその瞬間の自分の都合に過ぎなくて、例えその通りに進んだら必ず幸せになるかといえばそうではないし、その通りに進まなかったら不幸になるかといえばそうでない。幸せか不幸かというものは、自分一人の脳みそで想像できる範疇を超えた、たくさんの縁によってなりたっている。

そんな無常でいてたくさんの不確定な流れの中で生きて行かざるを得ないのが人生なのだということに気づいて、その現実をしっかりと受け止めていくという覚悟と姿勢を持って生きていくということこそが、浄土真宗の根幹ではないかと思っている。

あえてエッジの効いた言い方をするのであれば、表面的にそこそこ幸せに生きていくために、社会というのは切っても切り離せないものなので、真剣に自分の一票の行き先を考えると言うことは大切なことだと思う。

でもその一票で得られる幸せよりももう一歩踏み込んだところに、そういう執着に左右されない、人間の本来得るべきである安穏とか、充足というのがある。

ということを僧侶として胸を張って言えるということは、とても格好いいし、選挙にいかない大義名分としてとても筋の通ったことなのではないかと思う。真宗僧侶はそもそも出家してないけど、そもそも出社会、出世間をするということが、出家であるわけで、出家した僧侶が選挙にいくなんてことは本来は根本的な矛盾を抱えているだろうな。

とはいえ、今の自分にはまだ、その言葉に行動を伴わせるなんてことはできないし、とりあえず目の前のそこそこの幸せのほうが大事なので選挙にいく。

でもいつかそういう老僧になりたい。という志だけは高く掲げておこうと思う。


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Title: 満月とスカイツリー。
2012.11.29

今年もあと1枚。

毎朝の通る道にあった大きなビルが取り壊されて、新しく基礎工事が始まった。

壊しては建てて、建てては壊す。その繰り返し。

どっちが先かはわかんない。

結局生きていくことは、建てては壊すことの繰り返しで、その行為を不毛と呼ぶか、意義があると呼ぶかは気分次第みたいなもんだ。ほんとはそんなことはどちらでもいい、人類が誕生してこのかたずっとその繰り返しなのだということがただの事実。

*

幸せはいつだってねばっこくて、なまあたたかい。

幸せというのは1つの状態なのだと思う、それは心の体感温度として、寒い冬にこたつにはいっている状態に近いようなもので、そこに包まれていると心地よくて、いつまでもそこにいたくなるような、ちょうどいい温度で、ぬくぬく感がたまらない状態なのだろうと思う。

よくもわるくも、本当によくもわるくも。

ただそれだけのことなのだと思う。

*

この間。

ある人が「あの先生はきさくでいい人だよ」と言った。

そしてその後、その先生と話したのだけど、きさくはきさくなのだが、全然いい人だと思えなかった。

「あの先生はきさくでいい人だよ」も「あそこの店のからあげおいしいいよ」も自分にとっては真実ではないということはよくある。同時に自分の言う「あの映画おもしろいよ」も「あの店のサービスは最高だぜ」も真実ではない。

そう考えたら真実なんてものは1つもなくなるのだけど、真実が本当は1つもないということだけは真実なのだと思う。だからこそ世界はバラバラで、人と人がわかり合うと言うことはほぼ不可能に近いということを認識するということが、相手を知ることであるし、理解することであるし、歩み寄ることであるし、思いやることでもあるのだと思う。

だからこそおもしろい。

*

「慣れる」ということは、選択肢が増えるということ。

なにをするにも、はじめは通り一辺倒のことしかできなかったものが、洒落や遊びやを効かせたりできるようになるし、経験の浅いときには対処できなかったことに、その時には思いつきもしなかった方法で対処できるようになるということ。

その反面、小手先で対応できるようになる分、通り一辺倒にやっていた自分を支えていたモチベーションや動機を忘れがちになる。

「慣れる」メリットとても大きいので、デメリットの部分をしっかりと消しておきたいと切に感じる。自分は通り一辺倒なにをしていたのか思い出さないと。

*

人は承認されるということで得る充実感や快感にはめっぽう弱いのだな。

今の自分にとって"承認"とどう向き合っていくかということは大きな課題。

薬はただしく服用しなければいけないというけど、"承認"は用法用量をまもらないと本末転倒、自分を見失う大きな要因になる。







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Title: Q
2012.11.20

この時期の昼下がりの空気とか色とか匂いとか、そういうものが、時間の流れを緩やかにしているような錯覚を覚えることがある。

時間が、ねばっこく、なまあたたかくまとわりついたみたいに。

それがあまりにも心地よくて、その中にずっと包まれていたいのに、いつだってすぐに夜が来て、いつだってすぐに冬が来る。

365日の中で数日しかなくて、1日の中でわずかしかない時間。

なにかが変わりゆくほんの少しの間にだけある狭間みたいなところにしかない場所。

昔はそういう場所を見つけるのが今よりもすこし上手だったのだけど。

今は目を凝らしてないとすぐに見落としてしまう。

本当は見えているのに、それがなんでもないことのようにやりすごしたりもする。

夢とか希望とか、未来とか願いとか。

そういうものは時に目を曇らせる。

自分の分限や、限界や、世界や、社会や、そういうものにくぐもったフィルターをかける。

でもくぐもっているからこそただの雨粒はきらきらと輝いて、世界を彩ったりもする。

なにもかもがはっきりみえればいいわけじゃない。

でもなにもかもがぼやけていてもいいわけじゃない。

あの心地よい温度を探している時の自分は、いつもそういう逆説を抱えてるのだ。



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Title: コピペ。
2012.11.09

糸井重里さんが毎日かいてるエッセイがとても共感できたので備忘の為にコピペ。

・ぼくは、わりと人に「ひとり旅」を薦めます。
 なにかの節目とか変わり目のところで、
 どうしようかわからないときには、
 「旅にでも出てみたら」と言います。
 ちょっとね、劇画のなかのセリフみたいですね。
 
 ひとりで旅をしていたら、なにをするにも、
 じぶんで考えて、じぶんでやらねばなりません。
 いくら情報を増やそうが、知識を詰めこもうが、
 判断するのも行動するのもじぶんです。
 そして、旅の間は「なれてない問題」が出されます。
 どう答える、どう考える、どうすればいい?
 じぶんの「いつもの場所」にいたら、
 考えなくてもできることばかりでしょうが、
 旅先では、いちいちが新しい問題です。

 移動のための切符や泊まるところの手配、
 食べものをどうするか、天気とどうつきあうか、
 暑さ寒さと服装との関係、
 さみしさをどうするのか、うれしさをだれと分けるのか、  
 退屈はどうする、眠る算段、洗濯やゴミのこと、
 お金の計算はどう立てる、すべてじぶんの判断です。
 つまり、旅って、アウトプットの連続なのです。

 いまの時代、たいていの人が「インプット過多」です。
 取り込むことばかりに熱心で、
 それに比して使う(出力する)ことが少ないんですよね。
 でも、「ひとり旅」をしている間は、
 ほとんどの時間がアウトプットになります。
 これが、その人の生きる力を甦らせてくれる。
 実践につぐ実践が、人を成長させると思うのです。

「今日のダーリン」
http://www.1101.com/home.html


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Title: 見。
2012.11.08

人生大概のことは、考えても考えなくても結果に大きな影響はないし、良くも悪くもだけど、がんばったら報われるというのも嘘だし、がんばらなかったら報われないというのも嘘で。 

ただ目の前にボールが来たら、自分が一番いいとおもうスイングでバットを振れればそれでいいのだと思う。

その結果がヒットになるか凡打になるか三振するかは、しったこっちゃない。

最近なにかに臨むときや、心がざわついているときに、自分に言い聞かせるように心の中で「きた球を打てばいい」と思うようにしている。

例えば、昔はバッターボックスに立つときに、どんな球が来るんだろうか、ピッチャーはどんな奴なんだろうか、いままでどんな経歴で、何キロくらいの球を投げてくるんだろうか、変化球は何種類くらいあるんだろうか、傾向と対策を立てなくてはいけないのではないだろうかとか。

みんなが注目してるのに、空振り三振したらどうしよう。かっこわるい転び方したらどうしよう。それならせめて空振りしたときにも格好よく見えるような転び方でも練習しておこうかなんてことまで考えたりして、すぐに空気にのまれてしまっていたし、バッターボックスをでたあとも、もっといいスイングあったんじゃないか、もっといい空振りがあったんじゃないかとかばかり考えていた。

でも最近は「きた球を打てばいい」のだと思うことで、昔よりも少し気楽にバッターボックスに立てるようになった。

自信に充ち満ちてどんな球でも打ってやるぜという気負いがあるわけでもなく、かといって自信がないわけでもなくて、ホームランは打てなくても、飛んできたボールにある程度バットを合わせていけるくらいの年の取り方はできてると思えてる。

そして一番大きいのは、空振りが怖くなくなったということ。

むしろ、今待ってるのは絶好球を芯で捕らえるホームランよりも、完璧に捕らえたと思ったのに、ボールがミットの中にあって、完全に空振り三振をとられるような経験であるということで、尚且つ、昔はそういう経験をしたら、バットをホームベースにたたきつけて悔しがったと思うのだけど、今がきっとそれが嬉しくてしょうがないと感じるのだろうし、そういう球を投げるピッチャーがいるということに、わくわくできるような気がするということ。

無論ふつふつとお腹の底で、次は必ず打つという思いが煮えたぎっている点では変わらないのだけど。

今の自分は昔よりも少し嫌なバッターになれたと思う。

でもそれでは、まだ野球というルールの中で、自分がどう見えるかとか、どういうバッターなのかとか、そういう所に捕らわれていて、ただの打者に過ぎないのだということも何となく感じていて。

願わくば。

遠いいつかには。バットを持っていなくても、バッターボックスに立っていなくともピッチャーに恐れられるようなバッターになりたいと思っている。

野球とか全然やったことないんだけど。

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Title: 所詮。
2012.11.07

所詮僧侶でも、所詮サラリーマンでも、所詮医者でも、所詮大工でも。

なんでもいいのだけど。

所詮と思えて初めてもう一歩前に進めて、その一歩がプロフェッショナルになっていくということなのではないかと思う。

中2みたいなへんな全能感を払拭できなくて、分限を越えてあちらにもこちらにも口を出して、あっちからもこっちからも褒めてほしくて、自分でも自分が何者かわからないうちは決して到達できない場所っていうのがあるのだと思う。

所詮だからこそできることや見えることがある。

恋人とか夫婦とか家族も同じだと思う。

所詮恋人で、所詮夫婦で、所詮家族なんだって思えてやっと俯瞰してみることができて、俯瞰できて初めて相手のいいところにも、悪いところにも目が向くのだと思う。自分の執着を美化したり、過度な愛情から生まれる幻想や妄想が大きくなればなるほど、期待もするし求めるものも大きくなるのだけど、そこに捕まれば捕まるほど目は曇る。

向き合うということは美化することじゃない。

所詮だと思えてはじめて本当の意味で向き合えることもある。

自虐とか謙遜とかではなく、腰と腹を据えて分限を知っている人はやはり強い。所詮というのは使い方によってはそういう強さを秘めた言葉になるのだと思う。

自分は自分。

人間は人間。

所詮。

だからこそ譲れないものが見えて。

なにをすべきなのか見えるのかもしれない。

所詮。

死ぬときにはなにももっていけない。

所詮。

最後は一人で死に向き合わなきゃいけない。

所詮。

所詮。

ああ、所詮がゲシュタルト崩壊しそうだ。

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Title: 冬蝉。
2012.11.07

兵士でも。子どもでも。博士でも。宇宙飛行士でも。大社長でも。赤道直下に住む人でも。大好きなあの子でも。

食べることと、寝ることだけは毎日していて。

魚を捕る合間とか、鉄砲を担ぎながらとか、難しい本を読みながらとか、携帯をいじりながらとか。

朝起きて、何かを食べて、生きて、そして寝ているわけで。

1日のうちの数時間、数分は、お腹が空いたなとか、なにを食べようかなとか、眠いなとか、考えているのだというあたりまえのことに、今更思いを巡らせてみると、それがなんかとても嬉しかったりする。

世界とつながってる感じがして。

*

自分が平和だなと感じて、隣にいる人も平和だなと感じて、どこかにいる人も平和だなと感じて、そういう粒みたいな平和が地球の過半数を覆ったら世界は平和であると言うことになるのだろうか。

だとしたら世界を平和にすることは不可能ではないような気がする。

*

好きだとか、ツボだとか。

そういう言葉を使わずに感情を表現する方法をもっと練習したい。

*

大丈夫。これでいい。の力は大きい。

前に進むときにはこれが絶対に必要になる。

今をしっかりと認める力。

*

布教教化について、耳障りのいい話、1つ2つをもっていてもしょうがない。

求道が先にあり、そのプロセスの産物として布教教化がある。

布教教化が先に来て話術や、小ネタばかり磨いていてもしょうがないし、それが賞賛されると、そこに甘んじていたくなるから気を付けなきゃいけないと思う。

本末転倒になる。

*

人によって使い方や向き合い方は様々なのだけど、自分にとってtwitterが心の声だとしたらフェイスブックは表情。

その使い分けが最近やっとしっくりくるようになった。

表情はできるだけ豊かでありたいし、格好いい顔も悪い顔もくったくなくだせる自分でありたいとは思っているのだけど、そんな簡単そうに見えることが本当に難しいのだ。

結局の所、人間は意識的には人に見せても問題ない顔しか作れないのだ。


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Title: ふくわらい。
2012.11.03

「ふくわらい:西加奈子」を読み終えた。

咀嚼するみたいにじっくりと読んだ。

そこで感じたこと。

例えば、絵を描かない自分が、何十種類もある絵の具を買うとする。絵を描かないのに絵の具を買うことは必要のないことのように見えるのだけど、でもそのなかにセルリアンと書かれた青を見つけることで世界の色が一変するということがある。

新しく彩られた世界が開けるときに、なにとなにがつながって、なにとなにがつながらないなんてことは誰にもわからない。

世界は自分が考えるよりももっと、繊細に細く複雑に絡み合っていて、それを丁寧にたぐよせて、つないだり、結んだり、時にちぎれたり、そういう感覚を指先で感じるということが味わうということであるし、生きていくということなのかもしれないと思う。

言葉もそうだ。感覚もそうだ。

感覚と言葉を結びつけるということは、自分が思っているよりももっと自由に、広く、言葉が文字として、ただそれだけで独立していてもいいのではないかと思う。

それと。

天才と凡人の努力はきっと根本的に質の違うものなのではないかと感じた。

天才と呼ばれている人の努力の根底にあるものは、飽くなき探求心であり、自己への探訪でもあり、その才能がさびていくことへの予防であるし、それはいわば恐れでもあるのかも知れない。それはあくまで動機が自分の中にとどまっているように感じるのだ。

しかし凡人の努力の根源にあるものは、顕示欲であったり、執着であったり、天才のものに比べて、息をするようになくてはならないものではなくて、動機付けがどうにも自分の外にある欲求であることが多いように感じる。

そこに付随して秀才と呼ばれる人間は、外においた動機付けでも努力を放棄することなく、天才にはなれないが、少なくとも凡人を越えた結果をだせる人のことをさすのだろうと思う。

この根本的な動機の違いはとても大きい。

それと。

自分の中に湧いてきた、定という主人公への想いは、紛れもなく、その本の中にいる人格への興味であり、自分が好きになるだけの要素を凝縮して詰め込んだような女性への思慕であったのだと思う。

その感情は定が守口に想いを寄せるのに近いのかも知れない。

だから本を読み終わることで、もう会えなくなってしまうことに対する寂しさのようなものを感じた。

それと同時に現実に定のような人がいたときに、間違いなく自分は一瞬で心を奪われるのだけど、定は間違いなく自分に心を奪われることがないということもはっきりわかる。

それがはっきりわかるということが、現実での自分の立ち位置であるし、自分が認識する自分の分限であり、それこそがまさに自分のいままでの生き方の全てであるような気がして、そんな自分が薄っぺらく思えて嫌気がさしたりもした。

そしていままでの自分を振り返ってみて。

きっと自分は特に異性に対してどこに惹かれるのかと言えば、自分自身に意識が向きすぎてない人が好きなのだ。

自分を多少犠牲にしてでも、ベクトルを向けられる何かがあるかどうか。それがあるかないかが自分の中で惹かれるか惹かれないかの間にしっかりとひかれた線のように感じる。

それと。

私の中の「すべて」が広がるという言葉が、いままで自分の中にあったけど、言葉をつけかねていた感覚にしっくりとくるような気がした。

この本を自分に勧めてくれた人がいるのだけど。

思いの外他人の目というのは、自分を正確に射貫いてくることがあるのだということに、妙な心地よさと安心感を覚えると同時に、自分の事は誰にもわからないと思い込んでいる現実とそうでない可能性の乖離に若干の戸惑いのようなものと、立ち位置がふらつくような感覚を覚えた。

ともあれこの本とであえてよかったと思える一冊だった。

こういう出遭いがあるから、おもしろい。


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Title: 水鳥。
2012.10.30

思考が凝り固まって、初動とか処理が行き詰まりを迎えて、内圧が限界にきているときに、読んだ本や、聞いた言葉や、体験したことが、ばちっと繋がって、頭の中ではぜて、一気に脳の外殻が押し広げられるような感覚がする時がある。

がらくたが無二に輝くように、プロセスが意味を持って結果になる。

真っ最中にいるときは、そこがどこなのか、どのくらいの広さで、どのくらいの深さで、どのくらい音の響く場所なのかなんてことはわからない。

自分の立っているところから、一回り外にでるときに感じる、耳たぶの裏を突き破る時のような圧力を体感として味わうと、今自分の立っているところははいつだって内膜の中にいるのだという気がしてくる。

突き破っては、内圧に耐えて、また突き破る。

その繰り返し。

耳たぶを突き破った瞬間の開放感は、なににも代え難いのだが、そこもまたすぐに窮屈になるのだ。

そしてこのなんだかわからないけど、内側から押し広げられた外殻みたいなものが縮まることはもうないのだと確信してる。

生きてることとか、考えることとか、感じることとか。

本当におもしろい。

生まれることも、死ぬことも。

おもしろい。

久々に少し前にでた。

まえにまえに。


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Title: ホトトサヤ。
2012.10.29

夜布団の中で、なにかとなにかが繋がったりして、それを言葉にしたときに、とてもいいフレーズが思いついたり、これは書き残しておきたいなと思うようなことが次から次にわいてくるのだけど、でも寒いし、眠いし、布団から出てパソコンの前にもいきたくないし、近くに紙やペンもないし、頭の中でこの記憶をHDDに書き込むみたいに、残しておいて明日の朝にまた読み込みたいと思うことがよくある。

でも大抵は次の朝には、なにかを考えていたことは覚えているのに、それが何だったのかすっかり思い出せなくて、そういう時に限って逃がした魚がとても大きく、まるで世紀の大発明を不意にしてしまったような、どうしょうもないような敗北感を感じる。

でも最近はそれは忘れるべくして忘れたのだと思うようにしている。

*

昨日一杯のんだ帰り道、駅のホームに大きなカバンが落ちていた。

カバンの口は半開きになっていたので、ちょいとのぞき込んだら、その中に遺影が入っていた。

遺影の顔までは見えなかったけど、この遺影は忘れていかれたのだろうか、それとも置き去りにされたのだろうかと考えたのだけど、でも少し考えて、そのどちらだったにせよ、このいま自分の感じているせつない気持ちの対象は、この遺影の故人ではなく、今どこかで生きているこれを置いていった人に向けてなのだと思った。

忘れていったのであれば今頃困っているだろうし、置き去りにしたのだとしたら、ここに遺影を置き去りにしなければならない事情を抱えていたのだろうし、どちらにせよ、その人の心の中にあるものを想像するとせつないような気持ちになる。

そんで、ホームにぽつんと取り残されている遺影というその滑稽なこの状況に、こういういう状況に立ち会うことがあるからこそ。人生というのは面白いし、生きているということはますます興味深いなと思った。


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Title: mun。
2012.10.25

心にひっかかってた案件が片付いたと言うだけで背中に羽が生えたようになるシンプルな構造なのだけど、でもずっと羽が生えたようなところにいると、真っ逆さまに落ちたくなる衝動に駆られるめんどくさい自分。

今日帰り道で考えていたこと。

昔、それがどれだけ昔は忘れたのだけど、タイムマシンがあったら過去に戻りたいと思うことが多々あったような気がするのだけど、今はもしタイムマシンがあったとしても1秒たりとも過去には戻りたくないと思っている。

それがいつからそう思い始めたのかどうかは定かじゃないけど、今の自分になるまでに、またこれだけの時間を費やさなければならないのかと思うと気が遠くなる。

きっと戻ったところで今以上の自分になれることはないような気がする。

*

今日、自分で話していて改めて思ったのだけど、学ぶということは知らないことを増やすことであるし、わからないということを認識することであるし、世界の広さを体感して、自分のサイズを正しく感じると言うことだ。

学べば学ぶほどに、自分のサイズをミリ単位で知ることが出来るのだと思う。

喉の渇いていない馬は水を飲まない。

どうやったらいつだって喉を渇かせていられるのかなのだきっと。

*

匂いとか温度を感じられる写真が撮りたい。

最近写真を撮っていないわけじゃないのだけど、撮れば撮るほど自分の感性の乏しさに悲しくなる。心がぶるぶる震えるような時間にそんなにあえていないというのも大きいのだろうと思うけど、なんていうか、最近自分の撮る写真は、機械に頼って自分に頼らなくなってしまったようなものばかりだ。

もっと感性を。選択肢を。引き出しを。

*

無理をしないと、そういうサイズになっちゃう。まだまだぶかぶだの靴をはいてるのに、さもぴったりなサイズのように大見得きっていたい。

*

感性は今を感じる力だ。

ありのままをありのままにうけとめる心だ。

思惑や算段や、自分の思い込みや過去の経験や、まだきてない未来への妄想ではなく、今をしっかりと感じる為のアンテナだ。

感性が鈍ると体感が鈍る。

心が震えなくなる。

文字や知識を血肉だと勘違いする。

一歩も動かず汗もかいてないのに、たくさん身体を動かしたような気になる。

そんなのくそくらえだと思ってる。

だから感性がほしい。

ぞっとするぐらいの感性が。

もっと。

*

無常の足跡を聞けなければ、切なる求道心は起きず、切なる求道心なくば聞く耳持たず。聞く耳もたば自分を知らず。

*

最近、ふざけてるのかまじめなのかわかんないときがあると言われることがあるのだけど、最高の褒め言葉だとおもっているし、ついに自分もそういうところまできたかと喜んでる。

*

星が見えないことに苦情をいうようなナンセンスなことはしなさんな。

*

最近偽僧侶があちこちで托鉢してるので気をつけましょうっていう呼びかけを見るのだけど、極論、お布施をするのに相手が本物か偽物かなんて関係ないんじゃないかと思う。

本物じゃなきゃお布施や托鉢しても意味がないと考えるのはそもそも、本来の意味をはき違えてるわ。

*

mun



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Title: composition
2012.10.23

自己顕示欲を存分に満たせるほどの評価を、正当にもしくは過剰に受けられるほどの人間なんてのはほんの一握りで、ほとんどの人が思い描くものについてこない現実の中で、その現実と自分に理由付けをして動機付けをして生きているのだろうと思う。

あっちの水はにがいぞ。こっちの水は甘いぞって。

昇華というのはあまりにも稚拙な論理展開で。

その理由付けと動機付けの中で、一生懸命に自己保身して、時に嘘ついてでも虚栄心をはろうとして、そんな自分に悶々としながらも、自己肯定と自己否定を繰り返して、時にそれを投げだす理由を探したりもする。

怪我をしてもう闘わなくていいんだって思うように。

幸せっていう言葉を逃げ道にすることさえある。

でも、思い描くものに現実がついてきた一握りの人間と、思い描くものに現実のついてこない多くの人達を比べたときに、そこにある幸せと苦悩の比重はほぼ同比なんだろと思う。

幸せってなんなのかって考えたときに、昔ある人が、夜中にラーメン食べて散歩するとか、セックスした後そのまま疲れ果てて寝ちゃうとかそういうことだと言っていたのを思いだした。

例えば幸せになろうとしてなにか行動するのではなく、行動したことが幸せであると考えられることは大切な事だと思う。

結果はプロセスであるし、プロセスはもうそのまま結果でもある。

全く仏教って意地悪だな。



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Title: bibo
2012.10.21

「苦しみから救われる」のではなく「苦しみが私を救う」ってすごい言葉だ。

バチカンにいた尻枝正行神父の言葉だそうだ。

死の宣告も仏の慈悲か。

そんな境地にはほとほと遠いし、微塵もわからん。でもわからないからこそ本願も頼もしいってか。

仏教に限らず宗教ってほんとおもしろいんだけどな。なんでこんなに宗教という言葉にアレルギー反応するような社会になってしまったのだろうか。

*

最近ぱっとみ格好いいと思えるようなことが格好悪く思えるようになったから始末が悪い。それを親父化というのだろうか。

例えば「かわらないこと」よりも「かわれること」のほうがぐっとくることとか「腹を切る」ことよりも「生き恥さらしても生き延びる」ことを選びたいとか、そういうことも含め。

*

30年ぶりに会ったのに、会った瞬間にその時のことが鮮明に呼び起こされるってこともあるんだな。三つ子の魂なんとやらじゃないけど、あの時の体験や記憶は自分の中に確実に残ってる。


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Title: 犀。
2012.10.17

金木犀をいい香りだと感じるのも、トイレの芳香剤みたいだと感じるのも、結局は自分の心持ちの問題。

匂いはなんら変わらない。

世界は淡々と過ぎていくだけで、誰かにとっての素晴らしい今日も、誰かの絶望的な昨日であるし、誰かの生きられなかった明日でもある。

ニュートラルなものを脂っこく時に淡泊に。

塀の上に登ったり、木の上に登ったりするのが好きなのは、それを克服した充実感よりも、そこから落ちるかも知れない焦燥感を得たいからなのだ。きっと自分にとってはそれが生きた心地なんだと思う。そんでそれはすりむいた傷跡をなめて鉄の味を感じるようなもので、その味に自分を認識して安心するようなものなのかもしれない。

子どもの時はそういう経験をどんどんすべきだといって育てられるのに、大人になったとたんに体験を経験値に変えようとすると、いろいろな制約や責任がまとわりついてくる。

本音とか建て前とか、体裁とか見栄とか、そういうのは時に大切なのだけど、本当はそういうものだけでは取り繕えなくなってからが人間関係はおもしろいのに。

でもそういうものがぶつかり合うのは結局最後の最後だったりする。

大人になって許容範囲が狭くなるのは、きっと自分の築き上げたものを守りたいという自己保存が働くからなんだろうな。守らなきゃ保っておけないようなものなんか本当はそんなたいしたもんじゃないのに。

犀の角のように。

犀の角のように。

犀の角のように。


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Title: いじめ。
2012.10.16

先日森口尚史氏が連日マスコミで叩かれているということを書いて、

それを許容して、追い詰めないということがいじめをなくすということだ。そういう奴もいるよね、そういう時もあるよね、そういう自分って誰の中にもあるよねと言えることがいじめをなくすことだ。それにそういう心持ちが結局は自分自身の首を絞めないと言うことであるし、もうすこし住みやすい社会をつくるということに繋がるのだと思う。

とか書いたのだけど。

夜中にふと目覚めて、そういうことを書くと多くの人が賛同してくれたり、共感してくれるのになんで世界は変わらないのだろうかとか思い始めて考えていたのだけど。

例えば、森口氏程度の事であれば、追い詰めたんなや。と言えるのかも知れないが。

仮に、本当に仮にイメージだけど、それがどこかの電力会社の社長だとしても、献金問題に揺れる大物政治家だろうと、森口氏の時と同じように、賛同して共感するのだろうか。

本当のことをいえば、相手が森口氏だろうとだれだろうと、追い詰めたんなや。といえなければいじめはなくならないと思う。

どの程度の悪いことまでなら追い詰めてもよくて、どの程度の悪いことなら追い詰めてはだめなんて線引きは曖昧だし、結局許せる許せないは自分に実害があるかどうかであるかもしれないし、その尺度は人の数だけある。

電力会社の社長や大物政治家は許せないけど、森口氏だけ許せるというのもあくまで自分の尺度だし、そんな関係ない人間はどうでもいけど、同じクラスのあいつだけは許せないというのも大差ない。

いじめを本気でなくすと言うことはそういうことだ。しかしそんな社会は必ずしもいい社会かといえばそんなことはない。

汚職も利権もはびこって、ばれても追い詰められないなら、正直者が馬鹿を見る世界だ。

そんな社会にしてはいけない!という想いがあるとするなら、マスコミが森口氏に執拗に質問をすることもそうなのだけど、やめたれや。と思っていても、ああいう姿はそういう意味では何らかの抑止力になっているのかもしれないし、一方的になくしたほうがいい!とも言い切れないのかも知れない。

それに、実際、震災後の政治家の対応や、電力会社の対応に対しても、同じようにやめたれやと思ったかといえば、今回ほど思ってない自分がいるわけで、ここで許したら何も変わらないし、国民は馬鹿じゃないぞ!謝って済むなら警察いらねぇんだ。なんて思ってたようななかったような。

そう考えると、いじめは大罪の抑止力という考え方もできるのかもしれない。

何が言いたいかって。

いじめのない社会は、ただいじめがない社会にすぎないという程度だし、もっとつっこんでいえば、そんな社会は今よりもいいかといえばそんなことはわからない。もっと根深い問題がでてくるだけのことだろう。

それにマザーテレサやガンジーなら別だけど、そもそもいじめをなくすことなんてできないのだろうな。

だからせめて、そういう時に命を絶たなくてすむにはどうしたらいいか、そういう時にどういう自分でいたらいいか、どう打破するか、ということを考える方が大事なのかも知れない。

生きると言うことは清濁併せ持ってて、正義も悪も、光も影も、どちらかだけが存在することは出来ないし、切っても切り離すことはできない。それをちゃんと自覚しなくちゃいけないのだろうな。

表だけをすっぱ抜いてみんなで拍手するのなんてそもそも絵に描いた餅であって、それもまた視野の狭さなのだろうな。

どんなことでも自分の尺度で物事判断してるのは紛れもない自分で、森口氏の事で、そうだそうだ!いじめはやめろ!と言ったところで、自分もいつ手のひら返すかもわからないし、一貫してないのは同じなのだ。

そういう自分をわかってないとすぐに天狗になって傲慢になって、自分だけは違うしわかってる見たいな顔しちゃうからな。そしたら、結局みんな同じところに陥る。

なんて。

深夜の手紙は読み直せというが、読み直さないでUPして寝る。

凡夫凡夫。

しかし仏教ってすごいよな。こういうことがもう何千年前にも考えられていて、すでに教典に書かれているのだから。


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Title: おかみさん。
2012.10.15

 iPS細胞を使った世界初の治療をおこなったと言っていた、森口尚史氏が連日マスコミで叩かれている。

大部分が嘘だったのか間違いだったのかはわからないけど、記者会見での記者の質問やマスコミでの叩かれようをみてると、本当にこれが今の日本社会の根底に流れてる暗部だとすら感じる。

これと同じ事が学校で起きたら、いじめと呼ばないのだろうか。

自己顕示欲なのか功名心なのかプライドなのかはわからないけど、つまらない見栄を張って嘘をついた奴がクラスにいたとして、そいつがそうしょうもない弁解をしたり、しどろもどろになりながらも、ヘラヘラしながら曖昧な受け答えをしていたとしたら、その姿にイラッとしたから、嘘を認めないからという理由があれば、毎日問い詰め続けて、嘘を認めるまで追い込んでもそれは正義なのだろうか。

いじめのきっかけなんてものは、本当に些細なもので、ちょっとした受け答えが気に入らないとか、受け答えがきもいとか、つまらない嘘をついたとか、そんなことが発端でいじめがはじまる。

よくいじめられる側にも理由があると言うが、理由があるとしたら、そういうつまらない間違いや嘘であるかもしれないし、時に自分でも気づかないような些細な癖とかそういうレベルのものかも知れない。それでも十分に相手にとってはいじめる理由になる。

いづれにせよ、今回の森口氏のようなことの縮小版のようなものなんだろうと思う。

それを許容して、追い詰めないということがいじめをなくすということだ。

そういう奴もいるよね、そういう時もあるよね、そういう自分って誰の中にもあるよねと言えることがいじめをなくすことだ。

それに結局そういう心持ちが結局は自分自身の首を絞めないと言うことであるし、もうすこし住みやすい社会をつくるということに繋がるのだと思う。

いじめ問題がとりあげている時は、マスコミもコメンテーターも、どうやったらいじめをなくせるか、どうしてなくならないのだろうか、まじめな顔で議論してる癖に、こういう時には手のひらを返したように誰かを追い詰める。

いじめがなくならない原因はまさにそういう自分自身の中にあるとなんで気づかないのだろうか。

ただ自分は森口氏を擁護してるわけでもないし、弱いものイジメする人を批判してるわけでもない、実際森口氏には、叩かれるだけの要素がぷんぷんしてると思うし、つまんない嘘ついてんなと思う。しかもどうしょうもない弁解すんなと思う。

でも好きでも嫌いでもないし、以上も以下もない。知らない人だしどうなっても知ったことない。

ただどうしても引っかかるのが、普段いじめをなくしたいといってる奴がこういう時に自分を棚に上げて、その原因が自分の中にあることにも気づかないで、手のひらを返したような矛盾した発言するのだけは見ていてモヤモヤがとまらない。

毎日こんなことがテレビで平然と流されて、多くの人が弱いものイジメをみながら、朝飯くってんだ。

いじめなんかなくなるわけない。

世界が平和にならないのは誰かのせいじゃない。



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Title: えんぴつ。
2012.10.10

つくづく人生というのは、不可抗力の連続にどう向き合うかということなのだと思い知らされる。

理屈で片付くことは、所詮理屈で片付くことなのだ。

この不可抗力をどう処理するかを考えていくということが生きていくということなんだろうと思う。結局のところ生きるというのは、幸せになるためにあるのではなく、生きていれば時々幸せなこともあるかもしれないよってくらいのものなんだきっと。

小児病棟には、いろんな管に繋がれて、病室に横たわっている子どもたちがたくさんいて、あっちこっちでアラームが鳴ってて、泣いてるこがいて、そこにいる親たちや、そこで働いている人たちを他人事のように眺めながら、生死を語るには自分はまだまだ生死を知らなすぎると思った。

そして、あたりまえの日常をあたりまえに感じて、なにか物足りないと思うということは、つまりはそれを幸せと呼んでいいのだきっと。

もっと頭ではないところで知らなきゃならないことがたくさんある。

学ばされることばかりだ。

世界は善知識そのものだ。

しかし年をとればとるほど、自分の中に仏教がなかったらと思うと空恐ろしくなる。


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Title: 静かな爆弾。
2012.10.10

子どもって誰かに伝えたいと思って、木に登るわけじゃない。木に登ったらどんな景色が見えるのか、ただ、それだけが知りたくて登るだけなんだよ。でもさ、年取ってくると、木に登らなくなる。万が一、登ったとしても、それを誰かに伝えたいって気持ちが先に立つ。

吉田修一の本の中にあったこの言葉が今の自分には、痛いほど染みる。


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Title: しろいはな。
2012.10.07

先日「感謝」とか「おかげさま」とか「誰かの為に」とかそういう事について自分の思うことを書いたのだけど、言葉たらずで、うまくまとめきれなくて、嫌な想いをした人ごめんなさい。

決して「感謝」や「おかげさま」や「誰かの為」を否定してるわけではない。

そんで昨日今日と、自分がなんでそんな小さなことにひっかかって、あんなことを書いたのかを考えたのだけど。

少し前に被災地である人の話を聞いたときに。

一族みんな津波で家を流されてしまって、唯一長男の家だけが流されずに残ったので、次男の家族と三男の家族みんなが、長男の家に暮らしている家があって、「家族のおかげさま」「こうやって助け合えることに感謝」と震災以後家族で手を取り合いながら、助け合いながら暮らしていた家があったそうだ。

きっと被災地ではこういうことはたくさんあるのだと思う。

でもそこの長男の家のお嫁さんは、心を病んでしまうほど苦しみを抱えていて、その苦しみを誰にも打ち明けられずに震災以降過ごしてきたそうだ。

ある日を境に、家族だから、一族だからという理由だけで、みんなの世話をしなければならないだけでも、大変なのに、「ありがたい」「おかげさま」という言葉をかけられ、ましてや震災でみんなが苦しんでいるときに、自分の苦しみや不平不満などいえるはずもなく、その想いを抱えてきた結果心を病んでしまったのだろうと思う。

「感謝」とか「おかげさま」とか「誰かの為」とか、そういう言葉はとても大事だし、そういう想いはなくてはならないと思う。

でもその反面、その言葉は時に凶器にだってなる。

それが家族だろうと友達だろうと。

そういう自覚って大事なんじゃないかと思う。

それと。

例えば、友達に感謝、友達のおかげさま、親の為に、子どもの為にとか、そういう想いも同じで、それはあくまで自分にとって今の状況が都合がいいからそういう言葉がでてくるのだという可能性を忘れてはいけないのだと思う。

お寺にいて色々な家族や、色々な状況を見るから感じる事なのかも知れないけど。

友達の状況や環境が変わって、急につきあいが悪くなったり、自分よりもいい仕事をするようになったり、大金を稼ぐようになったりして、自分の思ってた状況と変わってきても、羨んだり、妬んだりせずに、それでも「感謝」とか「おかげさま」と言い続けることはできるのだろうか。

親の為とか子どもの為って一生懸命なにかに打ち込むことも大事だと思うのだけど、親孝行とか言っていてももし、親がが呆けてどうしょうもなくなって、自分に悪態ついて、排泄物をなげつけてきても、それでも親の為にと思い続けることができるのだろうか。

できる人もきっとたくさんいると思う。

でも正直言えば自分にはそんな自信はない。

いま色んな事に感謝してるけど、それは状況が変われば手のひら返したように憎くなるかもしれない。かもしれないというかきっとなる。

だからいま感謝をしないとかそういうわけではなくて。

いま自分のいう「感謝」とか「おかげさま」とか「誰かの為」とかっていうのは、その程度のものだという認識をもっていたいと思ってるし、同時に他人が自分に向けてくれている「感謝」や「おかげさま」や「お前のため」もその程度のものだと思ってる。

だからこそ相手が気持ちが変わろうと、手のひらを返してきたとしても、それは既存設定だと思うし、それを許容して共感できる自分でいたいし、そういう言葉の1つにほだされて右往左往するような自分ではいたくないと思ってる。

「感謝」とか「おかげさま」とか「誰かの為」とか。もっと言えば、「大好き」とか「愛してる」とか。

そういう類の言葉は全部、いま自分が思っているよりももっと深くて、自分の都合のいいときだけに振りかざせばいいようなものではなくて、ましてやキャッチコピーのように、印籠のような使い方をしてると、どんどん価値が下がっていって、言葉の価値が下がると、そこに引きずられて、心とか想いとか、そういうものまで表面をなぜたような所までしか感じられなくなってしまうそうな気がするし、自分自身への戒めとしても、そういう気持ちを忘れないようにしたいと思ってる。

「慈悲」の「悲」は、きっとそういう人間の既存設定に向けられたものであるし、それを自らが既存設定として受け入れられないことへの悲しみなんではないかと思った。

なんかあれを書いてから、なんで自分はあんなにムキになってそんな所に引っかかったのだろうかと思ったのだけど、結局のところ、自分は苦しいの嫌で、苦しみの原因みたいなものがなんであるかもおぼろげながら見えてきた中で、それを肯定してしまうことが、なにか相手に対して、そして自分に対して妥協みたいな感じがして嫌だったのだということで一件落着、自己解決したような気がする。




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Title: あんぐら。
2012.10.05

昨日感じたこと。

自分がまだ未熟なのだという前置きをしたうえで。

真宗的にどうなのっていうことも全部無視するという前置きもしたうえで。

最近「感謝」とか「おかげさま」とか「誰々の為にがんばる」とかそういうことを口にする友達が増えたような気がする。たぶん一言で言えば、年をとってきて、いろんな経験や苦労をして丸くなったということであり、実際に視野が広がって、人間1人じゃなにもできないってことに気付かされたのかも知れないし、そういう気持ちになることは大切な事だと思う。

でもなんか違和感を感じるのは、年をとって大人になったら、それを言っておけばしっくりくるし、真っ向から否定されないみたいな、御守り的な使い方してやしないかいということで、それこそそれを盾にして、怠惰の言い訳にしたり、自己保身の大義名分にしてしまったら、成長も鈍るし、なによりも、その御守りを掲げておけば正義みたいな価値観に凝り固まってしまうと、自分が昔なりたくないと思ってたような、余力を常に残して、7割くらいの力をだしたら疲れちゃうような大人になっていってしまいそうな気がするのだ。

別に大人がいやだとか子どもがいいとか中2みたいなことが言いたいのではないのだけど。

例えば、だれかをぶっ殺しても自分1人だけが助かりたいとか思うことは忌むべきことではないと思うし、そういう感情がほとばしって、先走ってたような頃の気持ちは大人になると自然消滅するわけじゃない、ただ大人になるとそういう気持ちが、さもなくなったかのように振る舞うし、そういう感情を「感謝」とか「おかげさま」とか「誰かの為に生きる」みたいな言葉で蓋をして奥底に押し込めるようなのってなんか違うと思う。

そういうことが習慣づいて、そういう感情を臭いもののように蓋して、知らん顔して過ごしてると、本当の部分で人の心がわかんなくなっちゃうのじゃないかと思う。

大人になるとなかなか親友ができずらいのはそれが理由だと思ってる。

表にでる部分をいくら取り繕ってたって、人間は心の中に混沌としたものが渦巻いていて、そういう混沌としたものと共存して、右往左往するからはじめて、人のことを許せるし、許容できるし、袖を振り合わせて、共感しあいながら、その中で自己認識して互いに生きていけるんじゃないか。

そもそも時に殴り合わなきゃ他人との距離をとれないのが人間なのだと思う。

話が飛躍してとっちらかりそうなので、なにがいいたいかって、とどのつまり。

昔自分の中にほとばしってた混沌とした想いだったり、熱さだったり、意欲だったり、好奇心だったり、そういうあふれださんばかりの気持ちみたいなものが、社会の荒波の中で、現実にもまれて、角が取れて丸くなってきたこの30代。

もう叩かれたくないし、現実も痛いほどわかったぜ、とりあえず今手の中にあるものをこれ以上傷つけたくないし疲れちゃったから、甲板に大きく「おかげさま」とか「感謝」とか「誰かの為に生きてる」とか掲げておけば、敵意ある海賊とも闘わなくてすむし、あわよくば大きな船にも助けてもらえるかも知れないしっていって、ぬくぬくと航海してる横で、未だに甲板に「ぶっ殺す」「かかってこいや」とか掲げて経験値積んでるルーキーを指さして、

あいつら子どもだな視野が狭いな、航海できるのは海の神様や、風が吹いてるから航海できてるのにまだそれに気付かずに旅してるけど、おれらはそれに気付いているからえらいよなぁ。それに省エネだし「感謝感謝」っていって自分を肯定しながら進んでたら、

知らぬ間に、お腹がぷよんぷよんしてきて、いざ目の前に大きなクラーケンがあらわれたときに、結局、誰も守れず、自分も守れず、いざその時になって、じたばたあがいたところで、何一つ守れないまま死んでいくだけだ。

「ぶっころす」とか「かかってこいや」とか掲げておけばいいとは思わないけど、「その気になったら刺し違えるぞ」くらいの旗印は掲げてなんぼだろうと思ってる。

自力の極み。どうしょうもない。しかも例えたことでよけいわかりずらくなった。

それがほとばしってた頃を知ってる友達であればあるほど、「ありがたい」とかいって手を合わせて、きれいに取り繕うとする姿勢はふぬけて見えるし、くそくらえと思う。

そもそも「感謝」とか「おかげさま」とかいう言葉の本当の意味がわかるにはにはまだまだ早いのではないかと思う。

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Title: 101
2012.09.25

朝家の近くの道で猫が死んでた。そんでまた違う場所では小動物が死んでた。そんで帰り道では首都高ですごいでかい犬が轢かれて死んでた。今日3回も生き物が無残に死んでる姿をまじまじと見てたら鳥葬を思い出した。死んだらみんな肉塊なんだよな。生き物を生き物たらしめるのは一体なんなんだろうか。

なんてことを思いながら天一でスープライスセットをもしゃもしゃとたべて、「明日もお待ちしています」って書かれてるどんぶりみながら、いつまでも明日があると思うなばかやろうと思った。

*

アトピーの子がいる。かゆくてかきむしって日常生活ができないくらいなのだ。

毎日何回も薬をつけてくれと言いにくる。

最近毎朝それを塗ってあげるのだけど。

首と目の周りとお腹と背中で、全部違う薬を塗り分けるので、なかなか覚えられなかったのだけど。

違う!と言われながらもやっと覚えることができた。

目の周りを塗って、首に塗って、手と足にゆっくりと塗り込んでいく。

なんか今日、薬を塗っていて思ったんだけど。

スキンシップって大事な事だと思う。

言葉を何百回も交わしてもわかり合えないことはあるのだけど、1日数回でもこうやって薬を塗ってあげることでお互いの中に、黙っていてもわかるような安心感が芽生えると言うことはあるのだと思う。

いつも、ぶっきらぼうに、ありがとっていって去っていくのだけど。

園庭のどこにいたって、遠くから手を振ると、手を振り返してくるのだから、目線の端でこっちをとらえてくれてるんだなと思う。

アトピーは治ってほしいけど、アトピーだからこうやって人とわかり合えることがあったのだということを、頭のどこかに忘れずにいてくれたらいいなと思う。






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Title: 半々。
2012.09.24


朝から映画一本見て、ブルーハーツききながら、カラムーチョたべながら、ジャンプ読む。

そんで一通りぼけっとしたらゴッドタンみて、また漫画読む。

合間に金子大栄の本をつまんだりもする。

そんでおしりをぽりぽりかきながら、散歩する。

コンビニまでアイスを買いに。

点数をつけるなら、そんな今日は70点。

どうでもいいような文章がかきたくてしかたないので、背中をかくように文章をかく。

しかし生きているいうことはお金がかかるものだ。

息をしてるのだってただじゃない。

さんきゅーべりまっち。

インドという国は、1度いくともう2度と行きたくないか、もしくは熱病のようにはまるかのどちらかだという。

どうやら自分は後者だったようだ。

というよりも、インドじゃなくてもよい。

今年海外に一歩もでていないので、旅熱がうちにこもって、発熱しはじめたのかもしれない。

冷えピタはらなきゃ。脇の下とおでこに。

部屋を掃除したら、空き箱がたくさんでてきた。

なにもはいってないのっだから捨てればいいのだけど、すてられないのは、いつかなにかをつめこむつもりだから。

できれば夢とか希望とかをつめたいけど、もう中二じゃないから、どうせこの箱は財布に入り切らなくなったカード類や、頂いた名刺などをしまっておくことになるに違いない。

夢でも希望でもないものを詰めるのにツカワレルノダ。

一人ぼっちじゃないぜウインクするぜ。

夕暮れが僕のドアのノックする頃に。

今何に一番乗りたいですかと聞かれたら、

メーヴェ。

そんで家の上をひたすらに旋回したい。

本当は大きな声で、聞いてほしいのに。

ため息だとか、舌打ちだとか、独り言の中に隠してる。

昔はできれば南の方に行きたいと思うことが多かったのだけど。

最近は北の方にも心を奪われるのだ。

フィヨルドなんていう響きに。

氷河が海の底のママンに会いに行くシーンっていうのがなぜか自分の中にはこびりついているのだ。

西日の差すドライブインで冷えたビール飲みながら話をしよう。

わかんないものはわかんない。

わかんないのは、わかるのはんたいでもないし、わかるも、わかんないのはんたいじゃない。

ブルーハーツのDUGOUT久々に聞いたけど、改めてほんといいアルバムだな。

ブルーハーツの良さは30を越えるとさらに味が染みた角煮みたいにがつんとくる。

たぶん。

こうやって好きな音楽をききながら、どうでもいいことを書き続けていたら、いくらでも書いていられるような気がする。

そんでいまの自分の状態を幸せとよぶのだろうなということがよくわかる。

結局こんなもんだ。

こんなもんだこんなもんだ。

幸せなんてこんなもんだね。

はははん。

さて缶ビールでもあけよう。



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Title: Φ。
2012.09.24

しばらく身体を動かしていないと、身体がなまってくる感じがする。

それがどうにも気持ち悪いのですこし身体を動かすと、全身に血流がまわって、身体がほぐれてすっきりする。

頭も同じなんだろうと思う。

なにかを考えている時に、頭の中を血流が回って、ほぐれてすっきりするような感じが心地よかったりする。「脳は大食いだから」と3月のライオンの中の台詞、身体の疲労は休めば回復するけど、脳の疲労はブトウ糖でしか補給できないそうだ。

考えるっていうのは、言い換えると、自分の経験の中から、様々な例を目の前の事例に重ね合わせて、自分の中でカテゴリーわけして、納得する理由、もしくは大義名分であったり、動機付けを探すことなんだろうと思う。

だからきっとある程度まで来たときには、そのスパイラルをぶっ壊さないと思考の幅って広がらないのかも知れない。

つまりはわからないということに気持ち悪さを感じるのではなく、わからないことをにわくわくできるような感覚を取り戻すことができて初めて次のステップに進むのかも知れない。

最近なんでもその繰り返しなんだということを痛いほど感じる。

長年できた常識とか習慣に埋もれたところで成長はおしまいだ。

*

めんどくさいやつだと思われたくないという気持ちと、めんどくさいと思われてもいいやという気持ちと、そのバランスが自分の心のバランスそのものなんだろうと思う。

*

どんなことでも、いくらでも難しく伝えられるし、いくらでも簡単に伝えることはできるのだと思う。
ただ後者の方が極めて難易度が高いという話で。

どうで挑むなら難易度の高い方に挑みたいっていう気概だけは忘れないようにしたい。

*

言葉ではなく、文字でなく、仏教を伝えることができる方法が必ずあるはずだと思う。

今の自分にそれができないのは、まだまだ言葉や、文字や、小手先でしか仏教をいじくりたおしてないからだと思う。

*

仏法って、丸太の上に立ってバランスをとるようなものだと思う。それがなんでなのか昨晩夢うつつの中でだいぶ説得力のあるところまで検証できていたのに、目がさめたらその肝心な部分が思い出せない。

*

世界はΦでできているのだ。

*








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Title: しかみ像。
2012.09.21

実は、すこし前に資金運用に失敗して多額の損失をだした。

書こうか迷ったのだけど、その一件のできごとの中で感じたことや、わかったことはとても大切なことであると同時に、この教訓を忘れないために書き残しておこうと思う。

昨年くらいから、仕事に関しても、プライベートにおいても、色々なことがうまく回っていて、大きな仕事を任されてもしっかりと結果も数字もだせていたし、なによりも人前で話すことや、人と関わるという仕事の中で、おもしろいようにいい結果がでて、それにともなって自信もついてきたし、自分の成長に自分ですごく納得をしていた。

でもそれが間違いなく過信だったのだと思うし、自分の力で大概のことはなんとかできるとか思って天狗になっていたのだと思う。

自分のやりたいことや、思い描いてるものが大きくなってきた時に、心の中でもっともっとという欲が先走って、足下おろそかになっていたのだと思う。

身の丈に合わない金額を運用して、為替が一銭が動く度に、一喜一憂している自分を客観的にみて思ったのだけど、うかれてる真っ最中にいる時は、すべてが追い風で、どんな風でも順風満帆に感じるのだけど、ひとたび状況が変わるとすべてが向かい風になって、どんなに帆を張っても面白いように風は船を避けて吹くのだということをすごく実感した。

まさにこの世は無常の世で、一寸先は闇なのだと言うことが、どういうこのとなのか頭ではなくお腹の底から感じたような気がする。


それを実感する中で感じたのだけど。

なにかに迷っているときや、人生において大きな決断をするときに、様々な情報や、過去の例や、色々な人の経験を元に、自分なりの予測をして、ベストだと思う答えを選択して進んでいくのだけど、それは結局の所、いい結果に結びついていると信じたい自分の背中をおすための口実がほしいだけなのだ。

冷静に情報や状況を分析しているように思えても、自分の心に追い風が吹いているか、向かい風が吹いているか、それによって、最後に背中を押してくれる材料を探しているにすぎないのだ。

追い風の時は足をだす勇気になる情報を、向かい風の時は、あきらめる勇気になる情報を、無意識に選択しているにすぎない。

この世の中で情報はとても大切だ、情報に勝るものはないと言っても過言ではないくらい。情報をもっているかもっていないかということで人生に大きな影響を与える可能性すらある。でも情報自体もいつも動いていて、24時間刻々と変わる情報を捕まえ続けるということはとても難しいし、とても消耗する。

そして情報は、仕事でも恋愛でもなんでもいいけど、結果の善し悪しの確立を左右するものではあるが、人生が確立で成り立つのであれば、大抵の事は思い通りに進むはずだし、運命は手中におさめられる。でも現実をみれば、確立の及ぼす影響なんてものは人生においてたかが知れていると思っていた方がいいのだと思う。

その確立以外の何かをなんて呼ぶかは自由だけど、それは、運とか、運命とか、本願とか呼ばれている類のものであることは間違いないと思う。今回の事で、そういうものの影響を頭じゃなくて身体で受け止める体験、経験というのは、なんであれ大事な事だなと思った。

それと、含み損が大きくなってきた時に、それを取り返そうとしている時の自分の心の状況は本当に、ひどいもので修羅の心というか、普段平気な顔で、心穏やかになんていって、自分もそんな気になって、充実してすごしていたつもりなのに、一銭が動く度に、心がざわついて、損失が出る度に、誰かを妬んだり、怒ったりしたくなったり、逆に利益がでているときは、もっもっともうちょいいけるなどと思って欲望丸出しで、自分で自分の嫌なところが包み隠せないくらいに凡夫丸出しで、そういう自分に目を覆いたくなりつつも、そこにどっぷりと足を突っ込んでいるときは、そういう自分ですら肯定するための材料を探そうとするから始末が悪い。

なんかある程度の損失をだして、これはもういよいよだめだと思って損切りをして、損失が確定して、もう取り返す事への気持ちも折れてた時に、しばらくどうしょうもない気持ちと、損失がなければ何ができたのだろうか、なんとか取り返す方法はないかとか、そんなことばかり考えていて、その間に法事や葬儀をして、色々な話をしなければいけない時にも、話をしていて、自分の心の中がこんな状況なのに、人になにかを説いてる自分のギャップに、またどうしょうもなく落ち込んだりもしたのだけど。

でも何日か悶々として、全ての取引を終わらせて、もうチャートを気にしなくていいのだと思ったら、すごく心が軽くなったのと、当たり前にいままであったものの大切さとか、すでに手の中にあるものがすごくありがたいことなのだと再認識した気がする。

布施という言葉があるけど、手放してみると楽になるということが布施ということなんだろうと思う。お金をあげて損だとか、ものをあげて見返りを求めるとかそういうことではなく、手を離すことで楽になるのは間違いなく自分自身であるのだと感じた。

お金やものなど、財産はなければ困るし、あった方がいいのだけど、でもそれを手放すとか、不相応の中で満足することで、心がかき乱されないということがあって、それをまさに布施行というのだと思う。

為替のチャートをみていて、数字の上下に極楽の心にも地獄の心にもなり、最後は手放すことでそのどちらかも解放されたような気持ちになって、そんで今になっては今ここでこういう経験をして、もう二度と同じ轍はふまないし、自分にとってお金がどういうものであるかも嫌と言うほどわかったし、いくら悟ったような顔してても、数秒後には簡単に心がぶらんぶらんする自分にも出会えて本当によかったと思う。

むしろそういう自分に出会えないと浄土教は意義を失ってしまうのかもしれない。

為替もまた善知識だとすら思う。

そしてチャートの中にも聖道浄土のかわりめがあった。

恥ずかしながらお金にまつわることで、欲望を丸出しにして痛い目にあったという今回のことは1ミリも無駄にしない。

徳川家康は、武田信玄率いる騎馬隊に惨敗した時、敗走後の自分の情けない姿の肖像画を絵師に描かせ生涯教訓にしたという。そういう意味でも今回の教訓は忘れないように書き記しておいて、たまに思い出して今後の糧にしようと思う。

なむさん。

幸いにも家族や仕事で路頭に迷うような金額ではないのでご心配なく。








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Title: 明日は我が身。
2012.09.19


状況に応じて自分を守ろうと行動したこと1つをやり玉にあげて批判する風潮が何よりも日本人が失った大切なもののような気がする。

人間は状況や環境が変わればなにするかわかんないのだし、そういうことを許す心とか、相手の立場に立ったり、相手の状況をくみ取って追い詰めないとか、そういうグレーな部分が許容されない世の中だからいつも誰かがどこかで追い詰められていくんだ。

権利とか、自分の主張ばかりを振りまわして、善だ悪だと決めつけながら白黒つけたり右だ左だ極端な思考に流れていくのはなんとかしたほうがいいと思う。

この狭い国で袖ふれあわせて住んでるのだから、グレーを許容して、相手の非を許容できなきゃどんどん住みにくくなるだけだし、自分で自分の首を絞めているだけなのに。

明日は我が身だと思えないくらいにぬくぬくと豊かに平和になりすぎたんだろうな。



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Title: ちゃいないっちゃいな。
2012.09.19

10年ほど前に20日ほどかけて中国を横断した。

日本から鑑真号にのって上海まで渡り、西安、西寧と途中で数日沈没しつつも、電車とバスを乗り継いでゴルムドまでいき、そこからバスでチベットのラサにはいるコースだった。

当時は小泉首相時代と言うこともあり、まさに靖国参拝をするか否かの時だったので、やはり各都市で日本人に対して露骨に嫌な顔をする人達がたくさんいた。

電車のチケットを売ってもらえなくて、3日も足止めされたり、宿でも門前払いされたり、目の前に商品があるのにメイヨー(没有)と言われてしまったりということもあったし、露骨に嫌な顔をしてくる人もいた。

中でも忘れられないのが、西安の駅で、毎日朝から切符を買いに行ってるのに売ってもらえず、1日の大半をおしりまるだしの子どもたちが闊歩する広場でぼけっとして過ごしていたら、ある中国人が話しかけてきて、おまえは靖国参拝についてどう思う?と筆談で聞いてきた。

そしてその様子をみていた周りの中国人が集まってきて、軽く人だかりができたのだ。

人だかりの中心に、紙とペンをもった自分。

それを固唾をのんでみまもる中国人達。

正直、個人的に靖国参拝に関しては大賛成だし、するべきだと思っていたが、ここで靖国万歳とか書いたらやられるな・・・という思いをリアルに感じたのを今でも覚えてる。

そこで自分は「我不望靖国参拝」と書いた。このメモは今でも持っている。

先日中国のデモでユニクロが「支持魚釣島中国固有領土」と書いた紙を貼りだして、売国奴だと言われているようだが、そういう意味は自分も売国奴だと思う。

その時中国を旅して感じたのは、中国の中にはたしかに反日の空気感というのは根強い。

でも旅の間、本当にたくさんの中国人に助けてもらった。

上海では、港に船が着くなり車で宿までおくってくれたおじちゃんや、自分のお母さんに合わせたいと家まで連れて行ってくれた日本料理屋の人もいた。駅のホームがわからなくて困っていたら必死に自分ののる電車を探してくれた人もいる。

西安で3日も切符が買えずに毎日駅にいた姿をみるにみかねて、見知らぬおばちゃんが窓口に行って、あの日本人に切符を売ってやれと言ってくれたり。

西寧では家にまで招いてくれて食事をさせてくれた公安職員の人もいたし、一緒にビリヤードをしようと誘ってくれて毎日謎のルールのビリヤードをしたり、一緒にお酒をのんだり、床屋につれていかれたり、あまりに居心地がよくて何もない西寧の街に1週間も沈没してしまったほどだ。

実際に旅をしてみて、中国の駄目なところ、悪いところは嫌というほどよくわかった。でもそれと同時に中国のいいところもたくさんわかった。

嫌な人もたくさんいたけど、同じくらいいい人もたくさんいた。

ナショナリズムというのは、とても厄介なものだ。

あのニュースをみて売国奴だという日本人も、中国で略奪をする中国人もほとんどがお互いの国に足を運んで、お互いの国の人間と深く関わったことがないのじゃないかと思う。

お互い自国から一歩も動かずに、だれかのつくったイメージだけで、愛国だ売国奴だと騒ぎ立てることで何が生まれるというのか。

それとユニクロの対応について。

もし自分があの店で働いていたとしたら、あの判断ができない責任者の下では働きたくないと思う。どういう想いで働いているのかはしらないけど、自分のつまらないプライドで、店や雇用が失われるのを何ともおもわないような経営者はきっとなにをしてもうまくいかないと思う。

とくにユニクロ贔屓でもないのだけど、今回のことに関しては、郷には入って郷に従わないことが愛国心であり、郷に従うことで売国奴だと呼ばれるのだとしたらそんなナショナリズムは間違ってる。

NOと言えない日本人、弱腰外交だといわれるし、自分でもそう感じることはたくさんある。

でも日本人は空気を読むこと、間を読むこと、言葉にしなくても感じあう心、そういう部妙なニュアンスや空気を読む力をこの狭い領土の中で育み、共に生きてきた単一民族であり、日本人としての独自性というのはむしろその柔軟性と、懐の広さだといってもいいのではないかと思う。

だから世界中に日本贔屓の国が多いんじゃないか。

大和魂だ、愛国心だというのが、それが強固な自己主張の上にあると思い込むのは、間違っていると思う。

愛国心とはそんな浅いところにあるものではない。

日本人はもっと懐が深いのだ。

万人手を取り合って平和を目指そうなんてナンセンスなことはいいたくないし、毅然たる主張をして衝突をさけられないということはあると思う。

でも靖国神社の遊就館にいくといつも感じるのだけど、日本が戦争をしてまで守りたかったもの、戦争をしなければ守り抜けなかったものは、ちっぽけなプライドや愛国心じゃない。

もっと深い部分で日本人が守りたかったものはなにかがわからなければ、愛国心なんか絶対わからないし、日本が戦争で失ったものがなんなのかわかるはずがない。

なんて。てへぺろ。

ちゃいないっちゃいな。 

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Title: 向日葵。
2012.09.16

ものすごい嫌のことがああったり、とりかえしがつかないことをしてしまって、ああ時間を戻すことができたら絶対にこの状況は避けたかった・・・などと悶々とするということが人生には時々ある。

そういう時には大抵今手の内のあるもののありがたさに気づかされたりする。

昨日まではなんてことないあたりまえのことが、実はありがたいことだったと気づかされるような経験をすると、自分にとっての悪いことは、おい調子にのって、悟ったような顔してると痛い目見るし、満ち足りたような顔して勘違いして生きていると、大切な事を見失うぞといわれてるのじゃないかとすら感じる。

なんてポジティブシンキング。

いいのかわるいのかわからないけど、いいことも悪いことも、マイナスなことは1つもないと思ってる。

たまには冷や水浴びせられないと木に登っちゃうこの愚鈍な我が身。

どうしょうもないことをどうにかしようとおもってもどうしょうもないのだ。

またたんたんと歩いて、また調子にのって、またこけて、そんでまた歩けばいいだろう。

*

アメリカにいるいけすかない友人とこないだ話していて、そのアメリカ人は小学校からのつきあいなのだけど、その友達が、「最近思うのだけど、おれら公園に恵まれてたよね」と言っていた。

小学生の頃そいつは日本にいて、近所に住んでいてよく遊んでいたのだけど、たしかに住んでいた所の周りには恵まれた公園がたくさんあったし、大学の時に、そいつが留学してきて京都で一緒に遊んでいたときにも、自分の下宿先の前の公園でよく遊んだ。

言われてみれば、いつも自分の住んでいる場所の近くにはいい感じの公園があって、うかれてるときも、落ち込んでるときも、どんなときでも公園でその思いを消化したりしていて、公園での思い出というのは自分の中に多いかも知れない。

なんか言われておもったのだけど、自分の今していることや、やりたいと思っていることというのは、そういう小さな記憶や体験の蓄積が影響を及ぼしているのだろうな。

*

遅ればせながら、夏にもらって、子どもたちと蒔いたひまわりが花をつけた。

夏真っ盛りに咲かなかったので心配していたのだけど、このお彼岸前に小ぶりなんだけど、ものすごく生き生きとした花を咲かせてくれた。

みんなの期待を一心にうけつつもいつまでも花をつけずに、じらしにじらして、しらっとこの後に及んで花をつけたとおもったら、すぐに種をのこして枯れていく。

なんかすごく粋なひまわりだった。

*

小学校にあがってできることは小学校でやればいい。幼少期にしかできないこと、その時期にしか学べないことはなんなのかを真剣に考えて実践することと、園児を確保するためになにを打ち出すのかということは時に相反する部分があって、そのギャップを埋められるようなカリスマ性は自分にはまだない。

*

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Title: 國権
2012.09.12

自分の中ですっきりとしたこと。

正直にいうと、そもそもカウンセリングとか傾聴とかそういう類の人の関わり方を懐疑的に感じていた。

自分が昔カウンセリングを受けた時に感じた違和感がぬぐい去れなかったというのもあるのだろうけど、それだけでは片付けられない違和感みたいなものをいつも感じていた。

なにか自分の手の内をさらさないで相手に両手をだせというようなスタンスで人に関わっているように感じてしまって、性に合わないというのが正直な気持ちかもしれない。

しかし明確になんで違和感を感じるのかということにはずっと答えをだせずにいたのだけど、昨日ある精神科医の先生の話を聞いて、その喉につかえたような違和感がすっきりした。

その先生は、ひきこもりをはじめPTSDや心に傷を抱えた人達へのケアの方法を学術的にお話してくださったのだけど、一番印象的だったのは「人薬」という言葉だ。

喪失感によって心を痛めた人達をどう癒していくかという話の中で、その先生は喪失感は自己愛の欠落であると表現された、何かを喪失したことで、自らの自己愛も欠落し、そこから自信失い、自分を見失い判断力すら失っている状態を心の病の状態であるという。

その状態を正常な状態にもっていく時に、まず人と関わる中で、相手からの共感、承認を得ることで、しっかりと自己愛を取り戻し、そして自信を取り戻していくという。そしてプロセスにおいて人は癒されていく、人と関わることで人は癒されていく、もちろん通常の薬を使うこともあるけれど、それは万能なわけではなく、最後は人でしか人は治していけないというニュアンスの話をされていた。

そしてそれは決してバーチャルでは代替えできないと強く断言されていたのが印象的だった。

実はこの喪失感を自己愛と表現されたことが自分の中ですごく安心したというか、自分の中でのどのつかえのとれる一番の要因になったと思う。

正直にいうと、例えば葬儀の時や火葬場で家族を失って、泣き崩れている人を見ているときに、ふとその涙は誰のための涙なんだろうかということを感じることがよくあった。

そういうことをいうと引かれそうだから、あまり口にはできなかったのだけど、泣くということは、何かを失ったかわいそうな自分に流す涙であって、寂しいとか悲しいも、すべて主観的な感情であって、結局の所人間というのは、最後の最後も自分の為に涙を流しているのだなと感じることがよくあって、むしろ浄土真宗である自分は、だからこそそこに本願の頼もしさを感じたりするのだけど、そういう思いをうまく言葉にすることもできず、誰かに伝えることもできずに、いつも自分の中でその答えを探していたように思う。

仏教においてもまさに、喪失感や苦しみに対して、その要因となるものは何かといえばそれは自己愛であり、執着によるものであるといえる。

その点で、精神科医の視点と、僧侶と視点というのは、同じベクトルを向いているといえると思う。

しかしここからが自分の中でなぜ違和感を感じていたのかという部分なのだけど。

「人薬」というのは、人の作り出したものであり、むしろ言い方を変えれば、その薬は普遍なものではない。他人からの承認や共感によって傷が癒されていくというプロセスは間違いないと思うのだけど、そこで癒された人がまた何かを喪失したときには、きっとまた「人薬」を求めるのではないかと思う。

しかしそれはそこに人がいなければ成り立たないとも言い換えられるのではないかと思う。

それと同時に必ずしも人は薬になるとも限らない。人薬を頼って、だれかに寄りかかったときに、さらに深く傷つくということもありえる。それは癒してくれる対象が不完全な人間だからだといえると思う。

精神科医の先生達は異論をとなえるだろうし、カウンセリングや傾聴をしている人達からしたら納得してもらえないと思うけど、どんなに訓練をしても、どんなに人と向き合おうと、人間は所詮不完全だ。だから必ずしもいつまでも薬で居続けられるかどうかはわからない。

苦しみや喪失感がある程度のレベルまで来たときに、「人薬」には限界がくると思う。

しかしこれもフェーズの問題であり、「人薬」できれいに回復する人達がいることも間違いなく、それを否定する訳ではなく、その範囲の中で掬える人を救っていくということは絶対になくてはならないと思う。そこで1人でも多くの人が立ち上がり歩きだせるようになってほしいと思う。

それを踏まえた上で、僧侶の立ち位置というのが、精神科医の観点と違うのは、僧侶はその治療を仏法で行う、仏法をその人の中に落とし込むことで、その人が人薬を自己精製できるようにすることが大切といえばいいのかもしれない。

うまく言葉にできないけど、心理的な治療というのは、有限対有限の対比であるのに対して、宗教というのは、有限と無限の対比であるということではないかと思う。

もっと例えるなら、心理的な治療が外科治療だとしたら、宗教的な治療は、外科治療であるのと同時に、習慣予防みたいなものまでが含まれるのだと思う。そして最終的には自分で外科手術ができるようになるようになることなのだけど、それを代わりにやってしまうのではなくて、自分でできるように良くできたマニュアルを渡してあげることなのだと思う。

僧侶の仕事はそのマニュアルをいかにわかりやすく、現代語に訳してあげるかということであり、そのうまさこそ僧侶の資質なのだと思う。

仏法による救いは、いくつになっても、どこにいても、だれかがいようといまいと、絶対に変わらないし、個別の苦に対してしか対応できないわけではなく、あらゆる場面での苦に対応できるもので、仏教を自分の中に落とし込むというのはそういうことなのだと思う。

仏法に限ったことではなく、宗教というのはそういうものだと思う。

逆にいえば宗教はそうでなくてはならないと思う。だから救いを与えてくれる対象が有限である宗教は、カルトと呼んでいいと思ってる。

仏教には「自灯明・法灯明」という言葉がある。自らを灯火とし、法を灯火としなさいと書いてある。法というのは普遍的な教えということになると思う。普遍的な教えというのは、何百年も前から同じ事を繰り返し、かわらない人間の取り扱い説明書みたいなもので、それを紐解きながら、自分と照らし合わせて自分の扱いにもっとうまくなりなさいとうことなのではないかと思ってる。

これは自分の中では、自分の心の主導権を自分の外に置いてはいけないといっているのだと思っている。

なんか一言にしてしまうととてもシンプルになってしまうのだけど、

「自灯明・法灯明」

僧侶が自分で誰かを救ったら、それは仏法ではない。

これがいままでカウンセリングや傾聴、心理学的なアプローチ全般に対して、自分の感じていた違和感の答えであり帰着点なのだと思う。

その違和感は自分が僧侶であるがゆえであるのだと思う。

文章にすると難しいし誤解も招きそうな書き方をしたのだけど、僧侶である以上、仏法に根拠を求める姿勢を忘れてはいけないということで、仏法に根拠を求めて変えるべきは、誰かではなくまず自分であるということも忘れてはいけないことであるように思う。

なんか昨日の今日でまだ頭の中がちらかっているし、うまくまとめきれないのだけど、備忘の為に残しておこうと思う。




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Title: どうどうとどうどうめぐり。
2012.09.01

最近の自分の書いたものを読み返したり、言ってることややってることを改めて見直してみると。

なにかにとらわれたり、固執したり、捕まったりする類の感覚や状況に陥らないようになりたい。

ということに捕まっているように思えた。

捕まるまいと思えば、捕まらないということに捕まる。

このどうどうめぐりの鎖はどこかで断ちきれるのだろうか。

きっとたちきろうと思ったらそれももう堂々巡りのひとかけらなのだきっと。

非想非非想処ってか。

しばらくはこうやって、どうどうとどうどうめぐりするばい。


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Title: こきたの。
2012.09.01

もう返事の届かないメールを読み返していて。

その時には気づかなかったけど、今になってそこにのってるものや、そこに込められたものに気づかされてはっとすることもある。その言葉に、今ならはっきりと答えられるということがたくさんあって、そういう思いをする度に、人間というのはつくづくせつない生き物だと思う。


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Title: やさい。
2012.08.31

8月の最後の日。

おじさんからもらったかなりの年季の入った望遠レンズをひっぱりだしてきて月を撮る。

マニュアル操作だから、シャッタースピードを少しづつ変えながら明るさを調整する。そうやってしばらく月と向き合いながら、べたながらも、今どれだけの人がこの月を眺めているのだろうかと思う。

絶望に打ちひしがれてこれを眺めてる人も、有頂天でこれを眺めてる人も、誰かと一緒に眺めてる人も、一人で見ている人も、職場の窓から眺めている人も、海岸で防波堤に座って眺めている人もいるかも知れない。

だからなんだって話だけど。

世界は広くて人の数だけ生き方があって、そのどれも正解かもしれないし、そのどれも不正解かもしれないから、誰かに自分の想いや意見を押し売りするのはやめようと思った。

ここでこうやって少し酒気を帯びながら、おじさんのレンズを引っ張り出してきて、色んな事を思い出したりしながら、夜風に吹かれて月を撮っているこの時間は、誰かにとったらどうでもいいような時間だけど、自分にとっては至福の時なのだ。

こういう時間を少しでもたくさんみつけて、あと何十時間、何百時間あるかわかんない残された時間を、少しでもこういう時間にあてて過ごしていきたい。

もうそれだけで十分だ。

こんな日は心の深いところで約束をおもいだす。

なんだろう。夏が終わるのが全然嫌じゃない。

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Title: むじつのつみ。
2012.08.29

なつおわっちゃうのかね。

もう秋はそこまできてるのかね。

足音に聞こえないふりをできる時間はあとどのくらいあるのだろうか。

年をとると時が過ぎるのが早く感じると言うが、最近1日がながくてしかたねぇ。

*

出生前診断で99%ダウン症がわかるようになったそうだ。

しかも検査方法が簡単であれば、これからこの検査は一気に普及するだろうし、その結果によっては、生まれるべきはずだった命が間引かれることになっていくのだろう。

こういう技術が進歩して、実用レベルになってきたときに必ずぶつかるのが倫理感というもので、こういう問題が持ち上がると必ず一部の僧侶が倫理感に反する、命の選別はやめろ的なことをいうことがあるのだけど。

自分が僧侶として思うことは、この検査をして、自分の子どもがダウン症であることがわかった時に、堕胎するか、それでも生むかということはその人の置かれた環境や、立場や、それこそたくさんの縁によって判断されることであり、その判断自体に是も非もないと思ってる。無論堕胎をすること、命を間引くことに対して、肯定はしないし、むしろそういうことが起きなくていいなら根絶したいと思う。

でも自分だって、その状況になったらどちらを選択するかもわからない。

選択というものには、いろいろな想像を超えた様々なものが作用する、それは一人の人間の脳みそのはじきだせる限界をこえていて、考えたって答えの出るようなものではない。

いづれにせよ、どちらの選択をしたところで、いづれにも苦しみが生じる。その生じた苦しみにいかに向き合うかが僧侶の仕事だと思っているし、その答えと解答を1つでもおおく教典の中に学んでおきたいと思っている。

苦しみを生み出す元を絶たなければ意味がないという意見もあるかも知れない、焼け石に水みたいな作業かも知れないけど、目の前にいる袖ふれあうところにいるところの人達の中に生まれた苦をとりあえず、船底の水を掻き出すみたいに対処していくことが自分のできることであり、やるべきことだと思ってる。

*

つらいときとか、悲しいときに、昔の良かったときや、楽しかったことを思い出して、そこにすがりたくなったり、さもそれがまだそのまま残ってるかのような幻想に癒されて、そこで背中を押されてまた歩き出せると言うことはよくある。

自分自身いままで何度もそれでまた歩き始めることができたし、何度も救われたのだけど、そういう自分は好きじゃない。

過去に癒されるほど今に絶望するまえになんとか立て直す術くらい身につけていたいし、今よりも過去が素晴らしいと思うのは自分の努力不足だと思ってる。

環境や状況や、その他諸々の諸事情を自分の力で変えたくても変えられないし、どうしょうもなく今に絶望しているとしても、やはり自分を変えられるのは自分しかいないと信じてる。

*

年をとればとるほどに遊ぶということの価値は重要性を増すし、遊ぶにもうまいとへたの差が顕著になってくる。

周りを見渡せば、世の中には本当に遊ぶのがうまい人が多いなぁと思う。どんな遊びでもいいけど、時間もお金も錬金術のようにつくりだして遊んでいる人をみていると自分もまだまだ遊び足りないなと思う。遊ぶのがうまいっていうのは才能だな。

遊ぶということは好奇心と想像力を研ぎ澄ませることだと思う。自分からしたらどうでもいいようなことを夢中になっているおじさんとか見てると、そんな感性をもって年をとれたら幸せなんだろうなと思う。

時間がない、お金がない、だから遊びは二の次だというのはよくわかるけど、でも二の次になっても遊ばなくていいということではないと思う。遊ぶと言うことは、無理に時間を作っても、無理にお金をかけてもするべきだと思うし、若いうちにそこにお金をかけることは自分への投資だ。

無駄遣いかどうかは目先の損得だけがバロメータじゃない。

本当の豊かさは無駄の中からしかうまれないのだと思う。

何をしてたって人間最後はおもしろいかおもしろくないかで、人間関係だって年をとればとるほど、おもしろいかおもしろくないかで人を判断するようになってくると思う。

おもしろいことをしてない人が、おもしろいことを語れるはずもない。もし少し長く生きることができたとしたら、いくつになっても、おもしろいことを追いかけ回して楽しんでいたいし、おもしろいことの1つや2つくらい、子どもや孫に語れるような大人になりたいと思っているから、無駄遣いもするし、たくさん遊ぶことにする。

というただの自己肯定と、自己鼓舞。

*

昔はもやっとしてる状態で、なんとか文章に書き出して、そこから自分の中にあるものを俯瞰的に見て、自分の中にあるものを整理することが多かったと思う。今でも最後はそうやって考えるのだけど。

最近書き出す前の状態のもやっとした状態を頭の中でねかせてこねて、熟成させるという過程を楽しめるようになったかもしれない。

まだ書かない。まだ選別しないと。

書くということは結局どこかに無理矢理ねじ込んで、そこに後付けで意味をのせるようなものだから、それはそれで大事なのだけど、もう一つ頭の中でちゅうぶらりんのまま、思い出したように手垢をつけていくことではじめて見えてくるものがあるのかもしれないと思えるようになったら、感情や想いや願いとか、そういう抽象的なものに幅を持って、少しのりしろを多くとれるようになったような気がする。

*

あっちゃん(前田敦子)は顔から表情が読みづらい、感情を想定しづらいというところが最大の武器なのではないだろうか、人間はわからないもの予想できないものには無条件に畏怖するの法則であり、往々にして男子は追い続けてもわからないものを追いかけ続ける習性がある故にアイドルは天職だと思う。

*

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Title: おばけやしき。
2012.08.26

たかがおばけやしきだと言われるかも知れないけど、されどおばけやしきなのだ。

先週園で期間限定で2日間だけ、特設おばけやしきができることになった。なぜかちょっとお手伝いのつもりが、がっつりとど真ん中でやることになってしまって、夏休みの数日間をおばけやしき作りに費やしたのだけど。

このおばけやしき作りで、想像以上にいろんなことを学んだし、子どもの持っている可能性や、それを育むと言うことがどういうことかということを再認識させられたような気がする。

まずおばけやしきを作るときに、怖さの難易度の話し合いが行われたのだけど、多くの先生達は、子どもたちがその部屋に入れなくなったり、トラウマになったらこまるから、そんなに怖くしなくてもいいんじゃないかという意見が大半だった。

そりゃ3,4,5歳の子ども相手なのだし、ある程度の配慮は必要だとは思うのだけど、怖くないおばけやしきならやる必要はないと思っていたので、難易度のさじ加減は自分にまかせてくれということで、全面的に引き受けて、悩みに悩んでおばけやしきをつくりあげた。

案の定子どもたちも、おばけやしきの噂を聞きつけて偵察にきたりしながらも、どうせ怖いって言うか楽しいくらいなんでしょ、どうせ先生達が中にいるんでしょなんてなまいきなことを言っていたので、俄然やる気がでてきてついつい力を入れてしまった感があり、正直当日までやりすぎたかなとか・・・親から苦情来ないかなとか、どきどきしていたのだけど、そこは腹をくくってオープン。

当日おばけやしきの前には長蛇の列ができて、次から次に挑戦者があらわれるのだけど、オープンして1時間しても最後までクリアした子どもが一人もでず、部屋にすら入れない子も続出で、やはり難易度を下げるべきかと思った矢先、おばけやしきの入り口で一人じっと暗闇を見据えていた男の子が、おもむろに暗闇に向かって歩き始めたのだ。

お調子者で、クラスのムードメーカーで、それに加えて女の子にも優しいというなかなかよくできた男の子なのだけど、その子がじりじりとおばけやしきを進み始めたのだ。

正直、大人でも先頭ではいるのはちょっと勇気がいるくらいの暗闇だっただけに、その勇気には本当に感動した。1つ1つびっくりポイントを通過して、ついに最後までクリアしたのだ。

たった一人で。

暗闇を見据えて、覚悟を決めた瞬間のあの顔、怖いのを我慢して勇気を振り絞ってじりじりと暗闇を進んでいる姿、本当に親にみせてあげたかった。

そしてクリアしたその子は、大声でよっしゃ~!と叫びながら教室に走っていき、ヒーロになった。

あの時の誇らしげな、やりとげたような顔は本当にキラキラしてて、本当にかっこよかった。

そしておばけやしきはここから面白くなってきたのだ。

その男の子が、女の子達や、周りの友達に、すごいすごいともてはやされているのを目の当たりにしていた、男子数人が、おれだっていけるぜと言わんばかりに、押し寄せてきたのだ。

女の子を引き連れて。

それでも入り口で、先頭を譲り合い、しまいには、おいあいへしあいもめはじめる始末。口だけは、おばけなんかいないよと言いながら腰が引けている子、女の子の手前、おずおずとはいるのだけど、結局はしって逃げ出した子、大声で歌を歌いながらはいったまではいいけど、歩き始めて数秒で蚊の鳴くような声になってしまいには泣き出した子。

そんな中でも、おれがいるから大丈夫といって、弟の手を取って果敢に挑戦する子がいたり、弟がお姉ちゃんをひっぱっていたり、入り口でおばけを追い出すための儀式?的なものをはじめる集団があらわれたり。女の子同士、はげましあいながら最後までクリアする子達もではじめたのだ。

本当に大人の想像を超えたドラマみたいなのがたくさんあって、その想像力とか、小さな身体の中に秘めた可能性みたいなものにぐっとさせられっぱなしだった。

そして初日は挑戦者100名近くで、クリアしたのは10人。半分までクリアできたのも数名。その大半は入り口もしくは、部屋にすら入れなくて断念したのだ。

初日この結果を見て、次の日から難易度を落とそうという話になったのだけど、自分の中でこのラインは絶妙だったと確信したので、そのままの難易度で次の日も開くことにした。

自分の中では、もちろんクリアして自信をもつことも大事だけど、クリアすることだけ目標じゃなくて、怖さを体験して、そこに立ち向かおうと勇気を振り絞ることや、怖くて立ち向かえなかったり、クリアできなかったとしても、そういう自分をしっかりと受け止めると言うことも大事な事だと思うし、この経験においてはプロセスを通して自分をしっかりとみつめてほしかった。

それとこれが過半数がクリアできる難易度であれば、できない子が少数派になってしまうのでそのライン崩したくなかったというのもある。そしてそのラインなのかでみんなが何を感じて、どう影響するかを見たかった。

そして次の日、初日にもまして子どもたちには驚かされることになったのだけど。

朝子どもを送ってきたお母さん達が、口々に昨日家に帰ってきてずっとおばけやしきの話をしていました、クリアできなかったのが悔しかったようです、でも怖くて勇気が出ないと話してくれましたといって声をかけてきてくれた人が何人かいた。

そしておばけやしきオープンの時間にはまた長蛇の列ができた。

するとどうもみんな昨日と様子が違うのだ。

一晩家で考えて、今日こそクリアするという決意と強い思いできているのだ。明らかに昨日とは全然違う顔で、おばけやしきに望んできているのだ。

それでもやはり入り口で少したじろぐのだけど、それでも昨日の二の舞はごめんだといわんばかりに、お互いを鼓舞し合い、次から次へと暗いトンネルにはいっていく。

これには正直驚いた。一体一晩でこの子達のなかに何がわいたのだろうか、たかがおばけやしきと思っているのは大人ばかりで、子どもたちはこのおばけやしきに望むと言うことに、顔が変わるくらい真剣に向き合っていると同時に、子どもにも子どもなりのプライドというものがあるのだということを思い知らされたような気がした。

中には初日にクリアした子どもたちと一緒に、おばけやしきの対策の作戦を立ててきている子もいたり、中には後ろ向きで進めばこわくない作戦を編みだしてきて、クリアをした子どももいた。

本当に初日の経験をそれぞれが自分の中で処理をして、向き合って、自分の中で昇華させているのだ。素直にこういう場に立ちあえていることに感動したし、人間が成長していくということが今目の前にあって、それを目でみて、肌で感じることができているということにわくわくした。

この姿を本当にこの子たちの親に見せてあげたかったのだけど、でも親がいないからこそ、ここ一番でこうやって踏ん張って、こういう姿を見せてくれるのだよな。本当に子どもたちの秘めている可能性やのりしろというのは大人のそれを遙かに凌駕する。

そしてこの日のクリア人数は先日を大きく上回って30人を越えたのだ。

そして2日間をトータルすると挑戦者150名強でクリアすることができたのは、40名ほど。

クリア人数は少ないようだけど、クリアできた子もできなかった子も、朝から帰るまで、おばけやしきおばけやしき、外でも部屋でもおばけごっこに、口を開けばおばけなんてないさを歌ってるくらいだから、きっとそれなりに印象に残ったのだろうな。泥団子ブームに続きしばらくおばけブームがきそうな今日この頃。

たかがおばけやしきなんだけど、されどおばけやしきなのだ。

きっかけをつくったら、大人があれやこれや心配しなくても、子どもは自分でしっかり大きくなっていく、これからもたくさんのきっかけを作ってこういう場面に立ち会っていきたいし、なによりも今回の事で一番学ばされたのは他でもない自分であるような気がしている。

来年はもっと怖くしよう。むふ。



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Title: 掘。
2012.08.25

昔自分の書いたものにはっとすることがある。

書いたことすら忘れているようなその文章に、ここにくるまでの時間は間違いなく繋がっているのだなと思った。

備忘の為に掘りだしておこう。




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Title: ほ。
2012.08.24

振り絞るような蝉の鳴き声が夏の終わりを告げているように聞こえる。

でもそれはきっと気持ちの問題なんだろう。蝉はきっと夏の初めから同じ声で鳴いているに違いない。それが精一杯に聞こえるということは、自分の中で夏が終わりかけてきたということなのかもしれない。

この夏を振り返ってみると、泳いで、食べて、照らされて、笑って、怒って、悲しんで、懐かしんで、出会って、別れて。

ほんとこの1ヶ月の間に、色んなものが流れ込んできて、それに押し出されるように手の中にあったものがこぼれた。

この夏を迎える前と、今では自分はきっと少し違うと思う。

1つのことに意識が向いたときに、頭が自動思考モードみたいのにはいって、身の回りに起きることや、得たものや、失うものや、そういう現実が、1つの答えを導き出すように繋がって、大きな流れに押し出されているようにしか思えないくらいに、道が開けるということがある。

そういう時は往々にして、変えられない人生なんかないんじゃないかという気になる。

自分の考えていることや、あたりまえにもっていた持論が少しづつ変化して、その小さな変化が、習慣に影響してきて、その習慣が自分の行動や言動に作用してきて、そういう自分の生き方が、周りにいる人間すらも変えてくる、そういうつながりと影響が、はっきりと目や耳や肌で感じることができると、本当に人生というのは面白いものだと思う。

*

例えば100人の人がいて、100通りの人生があって、100通りの家族がいて、100通りの想いがある。

あたりまえなんだけど。

あたりまえだからこそ、もう一度その事実を腹で受け止めないといけないのだろう。

それがわかるということは、いわばここ一番で人と人はわかり合えないということだし、同時に最後は人間1人であるという現実をも受け止めるということなんだろうと思う。

それを寂しいこととか、悲しいこととか、そういう感情に当てはめることがもう、自分の勝手な仕分けで、そんな仕分けを越えたところに生きるということがあるのではないだろうか。

むしろ、わかりあえないからこそ、自己はどこまでも愛おしいし、自分が自分を信じれなくて誰が信じるのだと思えるし、そう思えることで、初めて他人もみんなそうであることに気づけるのではないか。

*

最近の自分は、想いや主張や、まげられない気持ちとか、そういう類のものを誰か他人に理解してもらおうと努力するのをやめたいと思っている。

それは視野を広げる努力を怠って、井の中の蛙で、独りよがりでいればいいというわけではなくて。

昔は意見を相手に認めさせようと、バチバチとぶつけて、そこから調和して、自分の世界がこじ開けられて、視野が広げられると信じていたが、ここにきてそれだけでは得られないものがあることがわかったような気がしている。

そうやって広げられるところの限界というのは、いわば人の思考の限界で、人が何かを考えて深めていくときに、想定と想定をぶつけ合っても、想定以上のものにはなりにくいのではないかと思うのだ。

まだ自分の中にあるものがうまく言葉にまとめられないのだけど。

例えば、絵をうまく描きたいと思って、いろんな人の絵を見て、書いて、真似をして、たくさん練習して、うまく絵が描けるようになっても、それは「うまい絵」にしかならないような気がするのだ。

プロセスとしてそれは避けて通ってはいけないところだと思う。

でも描くと言うことはそれで完成ではないし、自分が書きたいのはただのうまい絵の類のものじゃない。

言葉にすると目線がおかしくなってしまうのだけど。

いま自分の思考や立ち位置や他人に対する距離感の取り方というのは、いいか悪いかは別として、自分の中で信じるに値すると思ってる。いままでは、自分の中にあるそういうものに、確固たる信頼というのがなくて、ぶらぶらしたり、ふらふらしてる自分にいつだって自分自身が危うさを感じていたのだけど、今は不思議とそれがなくなったように思う。

もちろん同時に、井の中の蛙で、独りよがりになるような危うさもないし、他人を認める事や自分が変わることや、そこに付随して誤解されたりすることにある種の怖さみたいなものもなくなった。

とどのつまり。

うまい絵よりも先に行くときに避けて通れないのは、自分とどう向き合うかということじゃないかと思うということで。

昔よりも少し、変わることや、失うことや、誤解されることや、傷つけられることや、だれかと比較して悶々とすることや、理想と現実のギャップとか、そういうものは、自分勝手な仕分けだと思えるようになって、そういうことに右往左往しなくなった自分がいて、そんな自分ができてきたからしばらく、そんな自分と二人だけで、じっくり脳内対話をして過ごしてみようかと思っているということがいいたいのだと思う。


*

FBやtwitterでいろんな情報にさらされて、色々思わされたことが、ここにきて自分を変化させる要因の1つになってくれたのは間違いないし、フォローしてくれたり友達認証してくれた人達へ向けて、自分がいかにあちらこちらで自分を使い分けていたかも知らされたし、でももうシステム上切り分けたりはできないからいたしかたないと腹括ったことで、自分の中でふっきれたものもあるよってこと。

*

それでもまだまだ首をもたげてくる、自己顕示欲とか、優位性の主張とか、そういうどうしょうもないものが見え隠れすればするほど、いよいよ自分の中で、修養がすすむってなもんで。

*

どえりゃあねむい。

*

ほ。


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Title: 道半ば。
2012.08.19

今日はいい空だった。

一見夏らしい雲がでているのだけど、どこか秋の匂いもするような高い空。

このあいだ高速道路を走ってるときに、こちらに気づかずに車線変更してきた車と接触しそうになったということがあって、たぐいまれなドライビングテクで回避したのだけど。

その後にふと思ったこと。

もしあそこで大事故になってたとして、自分が死んじゃったとして、残された人が自分に対して、まだまだやりたいこともあったろうに、道半ばで・・・っていわれたくないなと。

そりゃあ、やりたいことも、見たいものも、経験したいことも、言いそびれてることも、もう一回会いたい人も、行きたい場所も、ほしいものも、言い出したらきりはないし、自分の人生がこれで満足だなんて思えるほど人間できてないし、もっともっととどん欲に生きているのだけど。

道半ばと言われることで、なんか自分の人生が未完成なままって残された人が感じてしまうのがとても残念だと思った。

なんかうまく言葉にできないのだけど。

いままでしてきたことも、出会った人も、家族も、友達も、自分を取り巻く環境やそこにいる人とか、そういう自分の関わったすべての縁に対していいたいのは、十分満足してるし、不満足じゃないし、やりのこしたことや、未練はあるけど、うらめしやなんていわないし、結構やりたいことはやらせてもらってるし、してきてるし、わがままいっぱいいってるし。だから道半ばだったとか思わないでほしいし、不完全なんじゃなくて、ここで完成なんだって思ってほしいなって。

なんだろうか。

よくわからないし、うまく伝えられないのだけど。

結局の所、どこで死んでも道半ばじゃないと、そう思える自分でいたいってことなのかもしれない。



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Title: ちんこん。
2012.08.15

葉っぱが緑色なこととか。空が青いこととか。雲が白いこととか。

それっていつだって目に入っているのだけど、でもそれは目に入ってるだけで、時々それをちゃんと見てみると、その1つ1つが纏っているものが本当に素晴らしく愛おしいことなのだと思う。

そうおもうと世界は限りなく広い。

なんて妄想を、耳障りよく言葉に紡いだところで、そんなものはウニ1つ踏んづけたら立ち所にかき消えてしまうのだ。

足の裏がズキズキして、なんで自分がこんな目にとか思うのだ。

たった1つのウニで、有頂天から真っ逆さま。

それが人生なのだな。

もやっとのほほんと、夢見心地でいる時に、顔に水をかけてくれる存在こそが善知識なのかもしれない。

そう思えばウニも善知識なのだ。

そういうきっかけがあちらこちらに落ちているからこそ人生は面白い。

足の裏のトゲをさすりながら、やるなウニめ。とかのたまわってみる。

そんな終戦記念日。

目を覚ますのはまず自分だな。


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Title: もこきい。
2012.08.14

寝苦しくて夜中に目がさめたら、外には風が吹き荒れている。その風で身体を冷ましながら、季節が少し進んだことを感じた。

こうやって夏が終わっていって、秋が来て、冬が来て、春が来て、夏が来る。

このサイクルを生まれてこの方32回経験してきているわけで、あと何回ほどこのサイクルを経験できるのだろうかなんてことを思いながら、このあいだウニを踏んで、まだズキズキする踵をさすりながら、こうやって身体に季節の残り香を残しておくのもわるくないような気がした。

成長を柱に記しておくみたいに。

今年の夏は、今の時点で、はしゃいで、笑って、語って、飲んで、飲まれて、わくわくして、淡いものももれなく。なんの申し分もない夏で、なんの申し分もない分、こういう夏があと何回味わえるのかというところに捕まりそうになるのだ。

でもそこに捕まって、躍起になってこういう夏に固執した瞬間に、もう同じような時間が過ごせなくなることは十分にわかってる。

そんでこれからどうしていったらいいかも。

すべては水物、思い出も、季節も、語らいも、淡いものも。喜びも悲しみも。

人生は水物だ。

*

いい思い出は、背中を押すけど、後ろ髪も引っ張るのだ。

いつか秒速11キロに達したい。

*

この1ヶ月に得たものと失ったものを比べてみると。

物理的に失ったものはすごく大きいのだけど、精神的に得たものはそれよりも大きい。

まえにまえに。




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Title: ねじまきし
2012.08.08

暦では立秋を過ぎて、これからの暑さを残暑というそうだ。

島から戻ってきて、存分にいろんなものを浴びてきて、ほっと一息ついたら夏も残り香らしい。でもまだ折り返し、もう少しだけ夏っぽさを味わっておきたい。

島では毎朝、日が昇る頃には布団を這い出して、朝の散歩をしていた。近くの海岸に座ってじりじりとあがってくる太陽を眺めながら考えていたのだけど。

やっぱり自分にとって、体感することというのはすごく大事で、夏とか海とか、空とか、朝焼けとか、想像の中でこんなもんだろうと線をひくのはいくらでもできるのだけど、でもやはりそこに行って、見て、感じて、それを自分の中で反芻することで、ふと気づかされたり、頭ではないところでわかる事があったり、あたりまえにあるものの価値を再確認したりできたりして。自分はそういう足下を確認するような作業が好きなのだ。

そして最後の最後は、そういう作業を得て自分の中に残ったものがここ一番で説得力をもって背中を押してくれるのだと思う。

人生を楽しもうという姿勢はだれにも干渉されるべきものではないし、誰になんて言われようと、死ぬまでのあと数十年の間、人生楽しんで生きていきたい。

自転車にのって坂を下りながら、身体で風を感じながら、夏色を口ずさみながらそんなことを思ったりもした。

曖昧というのはわからないものをぼやかすための言葉ではなくて、白と黒の間じゃなくて、それだけでしっかりと独立した1つの答えなのだと思ってる。

答えの数は感性の数だけあっていいのだと思う。

この夏と秋の境目とか。



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Title: 用心深く。
2012.07.31

例えば、一杯の水が超貴重品で、コップ一杯で数千円もするくらいに希少価値があったとしたら、蝉の声をききながら、うだるような暑さの中で飲む一杯の水に対する気持ちは今よりもきっと特別なものになるのだろうな、そのたった一杯の水を飲むというだけのことだけで、その瞬間は至福の時にすらなるのかもしれない。

それはきっと今日が最後だと思えばどんな日でも色鮮やかに見えるようになるのと同じなのかも知れない。

結局そんな程度のものなんだ。

この人生が色鮮やかかどうかなんてのは、そんな畳の敷居くらいの境目で隔てられている。

夏の空気とか、匂いとか、風とか、そういうものを一粒も無駄にしたくなくて、無駄に深呼吸してみたりして、身体の中にはいってくる生ぬるい空気が自分の境界線を曖昧にしていくような感じを存分に味わう。

1年分。

無駄なくよどみなくしなやかに。

どうしょうもなく嫌なこととか、全部投げ出して逃げ出したいこととか、そういうものはいくらでもあるのだけど。

そういうくそみたいなものがちりばめられているからこそ、この一服の夏が最高に輝きを増すのだと、昨日の赤提灯の帰り道にふつふつと思った。

神楽坂のとある坂道の電柱の下にお花が供えられている所があって、もう神楽坂に通い始めてからずっとそこに花は供えられていて、そこには、「すみません気持ちの整理がつくまで花を供えさせてください」と書かれていて、いつも新しいものに差し替えられている。もう何年も。

神楽坂で飲んだ帰り道はできるだけその坂を下るようにしている。

そんでそこの花が新しいものに替えられているのをみて、手を合わせると、なんかほろっとしている自分の中にぴりっとなにかが走るような気がして、そこにある想いと自分の中にある想いの温度差がぐるりと身体の中で一回転するような気がして、生きているというのは一体どこからを指すのだろうかなんてことを考えながらとぼとぼと歩いたりする。

そんなことに答えはないのだけどね。

さて明日から存分に夏を浴びにいく。

びば夏やすみ。





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Title: 五厘。
2012.07.26

なつなつなつなつココナッツ。

日差し満開、セミ満開、心満開、夏全開。

でもまだまだ登り調子の真っ最中。

そんなアラサー真っ盛りな今日この頃。

カートぶっ飛ばして、森の中をクラーネして、露天風呂でのほほんとして、眠り猫を横目に、見ざる言わざる聞かざるなわけで、気温と水温の合計が50度を越えれば、あらかわ遊園のプールにぷかぷかと浮かんでは、帰りにたこせん食べて、駄菓子でかちわり氷買って帰ってきては昼寝をしたりするわけです。

んでもって赤提灯に吸い寄せられては、雪駄で街を闊歩するのです。

これでもかこのやろうと言いながら。

でも今年まだまだ全開になれていない原因は、とても重要な場で発言を求められ、わけのわからないことを口走ったあげくに、リカバリーもできないまま、どうしょうもない締め方で話を終わらせてしまわねばならないことになってしまった自分のふがいなさと、頭の回転のにぶさに嫌気がさして、その気持ちを立て直すのに時間がかかっているからです。

もう二度と同じような失敗はしないぞこのやろう。

なつなつなつなつココナッツ。

こんな気持ちはつまんでぽいだこのやろう。

がんばれにっぽん。




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Title: 草野球。
2012.07.22

外野に立って遠巻きにグラウンドを眺めていると妙に安心する。

きっと、昔から出席番号順で席が決まっていたので、中高6年間大抵後ろのほうから教室を眺めていたことと、ラグビーもウイングのポジションが多かったので、いつだってこの位置から見える全体像に安心するのかもしれないと思った。

試合は投手戦だったので、なかなか外野までボールが飛んでくることはなくて、遠くから聞こえてくる盆踊りの音に耳を澄ましながら、時折吹いてくる風の心地よさに、気を抜いたら試合中であることを忘れそうなくらいに初夏の空気に陶酔していた。

そんなぼけっとしたのセンターの前に、フライが上がってきたが、グローブをかすめることもなく落球したのはいうまでもない。

自分の中では紙一重で落としたのだけど、レフトが言うのは数メートルは離れていたそうだ。

それと、バッターボックスというのはこんなに緊張感のあるものだったんだということを久々に感じた。相手ピッチャーは草野球にはあるまじきスピードの球を投げてくるので、大概はフルスイングの三振か見送り三振だったのだけど。

でもネクストバッターサークルから、軽く素振りなんかしながら、打席に向かうときの気持ちが最高に気持ちよくて、やっぱ真剣勝負というのはひりひりしてどきどきする。

胸をえぐるようなボールにのけぞらされて、むかっとしてフルスイングしたバットは心地よく空を切るばかりなのだけど、それでも派手に振り切ったバットの潔さをすこし誇らしくも感じたりするどうしょうもない自分も嫌いじゃなかったりするのだ。

この年になると力の差を歴然と感じたり、それを詰めようと努力する意欲に火が付いたり、ひりひりどきどきする経験は少なくなる。

だから、たかが草野球だけど、されど草野球だと思うのです。





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Title: がんのん。
2012.07.10

夕暮れ時にぷらっと縁日に出かけて、ふらりと歩いていたら、顔見知りをみつけて、一緒にビールを飲んで、飲み終わったら、また顔見知りを見つけてまた飲む。

そんなことを3回も繰り返して、ほんのりと酔いが回った頃にはちょうちんにも灯が灯る。

帰り道に今日が人生最後の日でも別にいいやとか思いながら家路につく。

のーてんきでいいねというのは、最高の褒め言葉だよ。

人間だから生きてればしがらみとかあって、嫌なこと言われたり、嫌なこと思ったり、ずるいことしたりもするし、そんな自分に悶々して、夜眠れなかったり、そんな自分を立て直そうとしてなんだかんだと理屈をこねたりすることもあるのだけど。

でもそんなこんなをひっくるめて自分の人生が幸せかどうかなんていうことは、結局の所、風が吹いたり、日が暮れたり、どこかの家の晩ご飯の匂いがしたり、風鈴が聞こえたり、大きな雲がでたり、そんなことで帳消しになるくらいのもんで。

いつもそのくらいの深度ところで生きていたいと思うのです。

そのくらいが自分の身の丈で、一番いごこちのいいところ。

犀のように歩んじゃいたいさ、そこをまっすぐに。

そういえば昨日みた観音様の顔は、おいおまえしっかりしろやと言っているように見えた。

お見通しかね。


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Title: 無常。
2012.07.04

仏教の根本的な思想として「無常」というものがある。

よく聞く言葉だし、それを言葉ではわかっているような気になるのだけど「無常」というのは、理解するだけでなく、自分の中に落とし込めたときに初めて行動としてそれが表れるようなものだと思う。

「無常」というのは言い換えれば、明日が必ずくるとは限らないとうことであり、今がずっと続くということはないということだし、今目の前の人との関係は、この瞬間の積み重ねであるということであり、いつまでも惰性で永遠に続くものなんてないということである。

それを体感として感じることができたらそこで「幸せ」の価値観は一変するし、そもそもの「苦」とはなにかということは必然的に浮き彫りになってくるのではないかと思う。

よりよい社会や未来の地球の為になにかを変えようとしたって、原発がなくなっても、極端なことを言えば、温暖化が進めばいずれ地球を捨てるときがくるかもしれないし、隕石でもかすめれば地球も終わりかもしれない。そんな大きな話じゃなくたって、隣の家が火事になって自分の家も丸焼けになるかも知れないし、地震や洪水に巻き込まれるかもしれないし、いつ戦争がおきるかだってわからない。

今は平和だからこそ、余計な苦しみを自分から生み出して、それを憂うことで自らの首を絞めてしまいがちなのだと思う。

自分の生活や、生きると言うことはそういう何時起きるかわからない不可抗力の上にあるのだということが、いわば「無常」の中に生きているということなのだと思う。そして「無常」というのはなにも特別な事ではなく、既存設定名あたりまえのルールなのだ。そのあたりまえのルールすら自分の都合でなんとかしようとするのが人間なのだ。

その「無常」に生きる自分たちがいかに幸せに生きるかということを説くのが仏教であると思う。

それはつまり、例えるならば、朝起きて一杯お茶を入れて静かにお茶を飲むときに安らぐ気持ちや、ここちよい風に吹かれて幸せだなと思う心、お風呂にはいっておもわず声をもらす気持ち。目の前にいる大切な人と顔を合わせてたわいもない話をするときの気持ち。

幸せは、その積み重ねであり、今この瞬間にあるものをしっかりと認識して生きると言うことではないかと思う。

人間というのはそこしかないのだと思う。

その点の積み重ねが人生であり、幸せの形なのではないかと思う。過去は過ぎ去って、未来はまだ来ていない、自分の手の中にあるものは今しかないのだ。

状況や環境を変えることで幸せが得れるというのだとしたら、仏教は、もっといえば宗教というものは意義を失う。

それがわからなければ決して救いはないのだと思う。

仏陀は貧乏な人にお金持ちになれとはいわない。お金持ちに平民になれともいわない。仕事のない人に仕事をしろとはいわないし、仕事で苦しんでいる人にやめればいいともいわない。

置かれた状況の中でそれぞれにそれぞれが苦を抱えている、その苦を生み出しているものはなにかしっかりと智慧の目を開いてみろといっているのだ。

環境を変えることがたやすいのなら、みんながみんな苦を遠ざけていきればいい、それができないからこそ宗教があるのだ。そして仏教おける救い、特に浄土教においては、そこがわからなければ、決して救いは見えてこないのだと思う。

ここでじゃあ救いってなにさとか、そういうことを数珠玉のように話しながら、考えられる環境があったら幸せだ・・・なんて思った自分もまた明日ありと思って生きているわけで、どんなに意識をしようと思っても難しいからこそ、それをまるっと救ってくれる存在が必要になってくるわけで。

それを阿弥陀というわけです。


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Title: ツイート備忘(デモについて)
2012.07.03

デモの中継見てるのだけど。少なくとも画面に映るこの人達が冷静だとはとても思えない。ちょっと落ち着けよとか思ってしまう。ここまでくると宗教ににた熱の帯び方をしてる。いくら正しいことをしていてもこれでは駄目だ。相手と温度差を生むのではなく融和できるくらいの温度差のほうが効果あるだろ。

デモってプロセスをはしょって結果だけを求めるように見えるから違和感だし、温度差を招いてしまうんだよな。それをちゃんと埋めることができればこれだけのマンパワーはすごい力があるのに。

自分の中でデモに対して思うことと右翼団体に対して思うことというのはすごく似ている。日本が好きだからこそ周りと温度差を生みかえって孤立するような国粋的な行動はやめてほしいし、原発に頼らないエネルギー社会を望むからこそ、賛否両論生むような熱を帯びた主張で問題を対局化させないで欲しい。

ツイートや世論をみてると反原発活動(デモを含)とその行動の問題点を指摘する人達との対局化と温度差が目立ってきているように感じるが、そこで対立構図ができたらそれこそ思うつぼでしょ。原発に変わる代替エネルギーが必要なのはほぼ大半の人間の中でコンセンサスはとれている。

そのコンセンサスを主張する方法論でぶつかり合わせることで本題をぼやかせるのは大きな問題を煙に巻くときの常套手段じゃないか。

大規模なデモが行われ、デモの温度が高まれば高まるほど、あんなに熱くならなくてもねという人が増えてるのだと思う。人間ってそういうものなんだ。必ず大きなムーブメントには反比例の力が動き出す。だから極端によらないで、冷静に問題を考えてしっかりと着実に遂行していくことが重要ではないか。

怒ったらそれだけで負けだ。目が曇る。目が曇ったままでは必ず共感性を失う。


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Title: 土(ツイート備忘)
2012.06.16

もちゃもちゃもちゃ。小手先で土を練る。土は大地で大地は地球なのに。もちゃもちゃ。

よりよい未来を思い描くと言うことも、土こねるようなものなのかもな。土は大地で大地は地球なのに。

人間の脳みそがすくなくとも1日先のことまでしか考えられないようになったとしたら、世界はもうすこし平和になるのかも知れない。まだ来ていない未来をよりよくしようと思う気持ちがいつだって争いや諍いの火種なのだ。

いま自分が描くよりよい未来の為に怒り、憤り、悲しんでいることこそが、世界が平和にならないなによりの証拠なのかもしれない。

未来をよりよくしよう、明るい未来の為に動こうというのは素晴らしいことだと思うし自分もそうありたい。ただ明日までしか時間がないとしたときに自分のとる行動がなによりも一番大切なことなのじゃないかと思う。





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Title: 32
2012.06.16

笑うって事は、表情を作ることではなくて、笑う気持ちになるということなのだ。

だから笑う気持ちになれれば笑顔でなくてもそれは笑っているのだ。怒りも悲しみも喜びもきっとそうだ。

目に見えるということはとても大切だ、目に見える部分を意識すると言うこともとても大切だ。

でもそれがすべてではない、それが終着点でもない。

目に見えるところを大切にすると言うことは他者と自分の距離を測ると言うことだ。

他者と自分の距離を測ると言うことは、自分のサイズを知ることだ。

そして自分のサイズを知ることとは、つまりは世界の広さを、有限のもっと先があると言うことを知ることだ。

笑わずに笑い、怒らずとも怒り、悲しまずとも泣く。

それを慈悲というのかも知れない。

言葉の先のもっと先。

体感によって得ることができないもの。

前後もきっかけもなにもない。

朝起きて布団の中で天井を見上げながら唐突にそんなことを思った。



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Title: どろ。
2012.06.08

梅雨の季節がやってくる。

じめじめむしむし。けどそれも夏への布石。梅雨がすぎればまた今年も充電期間がやってくるわけで。

ここのところ毎日ひたすらに泥団子をつくり、田植えをしたり、木に登ったり、戯れ三昧なのだけど。

こんな穏やかに見える幼稚園というほのぼのとした日常の中にも、たくさんの苦とかがあって。大人とは違うもっとシンプルだけど根源的な悩みや苦しみと共に子どもたちも生きているのだなとつくづく思う。

取り繕ったり、我慢したり、上辺だけでつきあえるほど器用じゃない分、子どもの世界は時に冷酷だし、好奇心を理性で押さえ込めない分、時に残虐だったりもする。

そんなひとつひとつの出来事や、ひとつひとつの子どもの表情は、そのまま人間そのものなんだと思う。そこに向き合うことはきっとそのまま自分への戒めであり、鏡であって、大人というものに対する警鐘ですらあるのかもしれない。

昔みたいに、だから子どもがいいとか、子どもの頃に戻りたいとか、子どもの心が素晴らしいのだ!とかナンセンスで暑苦しいことをいうつもりなんてもうさらさらなくて、むしろ子どもと関わることすらも自分の糧にしてやろうと思っている。自分のことだからこそ本気でやれるし覚悟ももって望めるのかもしれない。

なんて。

ただ毎日遊んでいるような毎日だという後ろめたさに対する大義名分をこじつけただけなのだけど。

けど昨日泥団子つくってて、僧侶っていうのは、僧侶っていう言葉に捕まっていると、何をしていてもそれは僧侶っぽいものでしかなくて、僧侶という言葉を離れてこそ、結果として僧侶になっていくのではなかろうか。

僧侶だけじゃない、どんな道でもそうだけど。言葉のもつ自分の作り上げたイメージとか、枠に捕らわれてるうちは、なんかそれっぽいもの止まりで、実はそれは本質ではないような気がしている。

自分のなりたい僧侶像が昔よりもはっきりしてくるに比例して、他者に対する許容の幅が断然広がったような気がするのは、きっと他人はどうでもよくなったからなのかもしれない。

なんて。

*

竹原ピストルの感性はすごい。すごいというかすげぇ。すげぇというか、すんげぇ。

がつんと直球を投げ込まれたような気がした。

*

たぶん自分は、例えば死んだ時に、悲しいとか寂しいとか言ってくれる人が100人いるよりも、自分がいなくなることで、楽しくないとか、つまんないって思ってくれる人が1人でもいるほうが嬉しい人間なんだと思う。


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Title: きのぼり。
2012.05.30

木の上で、どうして木の上から見える景色は格別なのだろうか考えた。

きっと木の上には自分の力でしかたどりつけないからで、それは筋力とかそういうものだけでなく、だんだん高くなってくることや、枝が折れるのではないだろうかとか、そういう恐怖心とか、またここを降りなければならないという覚悟とかそういうものも含まれていて。

木登りとはそういうものを全部よじ登っているのだと思う。

木の上で見える景色にはそういうたくさんの要素が含まれているからキラキラしてみえるのだ。

それと昨日木に登ってて思ったのだけど、この枝は自分の体重を支えられるだろうか・・・とその場で考えて判断をしていくというのはとても大事な事なのではないかと思う。

自然の木は、つくられた遊具とは違って絶対的な安全はなくて、枝を引き寄せた瞬間に折れるということもある。だからこそ真剣に自分に目を向けることができるのだと思う。

そうやって自分と対話しながら上へ上へあがっていくのだ。

つまりは木登りは人生と同じなのだ。なんて、誇大妄想をしながら昨日は半日庭仕事をして過ごした。

自然の中にいるということは結局の所自分との対話なんだと思う。比較対象がでかければでかいほどに、人間は身の程をすることができるし、身の程をしらないと本当の意味で遠くにはいけないのかもしれない。

なんて。

ただの木登りの話。








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Title: べいべ。
2012.05.30

金環日食自体もとてもドキドキしたのだけど、自分の中では、みんなが同じ時間に同じように空を見上げてるかと思うとその事実のほうによっぽどドキドキした。

*

高速道路脇の看板に、Don't Worry Be Happyと書いてあるのを横目で見ながら。

Happyがなんなのかわかりもしないのに、心配すんなとかいうのって無責任だぜべいべーと思いながらも、それがわかってて、何の根拠も確証もないくせに、眼をキラキラさせながら面と向かってこの言葉をはき出せる人だけにしか変えられないものがあるのだろうなと思う。

*

結局の所、他者と自分を、もっといえば自分と自分以外を隔ててるものは自我でしかなくて、自我によってすべてをカテゴリー分けしているわけで、世界の広さも狭さも、それはそのまま自分の狭さであり広さである。

それを突き詰めていくと、生きてることも死んでることも結局の所、それを隔てているものは自分の自我なのだと思う。

自分にとって、生きてるのに死んでるのと変わらないような人もたくさんいるし、死んでるのに生きてる人と変わらないような人もいる。物理的な隔たりなんて、畳縁くらいのもんなんだと思う。

*

例えば、できたばかりの誰もすんでいない、新築のマンションのベランダはなんてことないただのベランダなのだけど、例えばそこに人が住み始めて、そのベランダに、色とりどりの布団や洗濯物が干されて、それを眺めると言うことは、それはきっとアートとして成り立つのではないかと思った。

なんかそれが、芸術か芸術じゃないかの差なんてそんなもので。

もっといえば、もしかするとそれは人間の共通意識に対する、深度の問題で、断片的なものにどれだけの深度を込められるかと言うことなのかもしれない。


*


最近基本というものの大切さを痛感する。

ざっくりと視野を広げたいとか、人間の幅を広げたいとか、人間として大きくなりたいとか思った時にも同様で、基礎の上にしか+αは乗っからないのだと思う。

人間的な基本って、挨拶とか、感謝とか、思いやりとか、そういうことをただの美談として語るだけでなく、自分の中で実践されているかどうかなのだろうと思う。

それができなくて、人間がわかるもんかい。

*

思春期真っ盛りの人の言葉を聞きながら、今の自分と比較をする。

自分がその人と同じくらいの年に見えていた世界なんてちっぽけなもんで、側面的で、世界の広さも知らなかったし、自分の狭さもしらなかった。

でもだからこそ学べることがたくさんあったのだ。

そんなことを考えながら、やはり年をとっていくという過程の中で、その年には、その年にしか学べないことがあるし、その年にしか感じられないことがあって、それを少しづつ自分の上に積み重ねていくようなものが人生で、それが結局の所、幅にも功みたいなものにもなっていくのだろうな。

人生はプロセスの連続で、最終的にもプロセスの途中で終わってしまうのだろうと思う。

ゴールも結果もない。

だからこそおもしろいのだ。

年をとるのはしぼんでいくのでも枯れていくのでもない、いままで見えなかったものがどんどんみえるようになることだいべいべー。

*

旅をしていて、夜眠れなくて、窓もない狭い部屋で真っ暗な中で、何をするでもなく座って夜が明けるのを待っている時がある。外の音に耳を澄ませながら、ただ何時間も、ごろごろしたり、座ったりしながら部屋の中で過ごす。

そういう時間を過ごしていると、真っ暗で自分の身体も見えないから、ふと自分の境界と、世界の境界が曖昧になるような感覚に陥るときがある。

昨日夜眠れなくて、真っ暗なリビングで座ってたら、ふとそんな感覚を思い出した。

境界なんてそんなもんで、目に見えるものだけに絶対的な価値観があるかというとそうじゃない、もしかすると本当に大事な事は目をつぶらないと見えないのかもしれないとすら思う。

*

自分は、いきたここちがするときに幸せを感じるのだ。

そう考えるといろんなことにつじつまが合うのだ。

旅にでたくなるのもなにもかも。

だからもしかすると自分にとっての幸せは決して満たされることではないのかもしれない。

*

ずばぬけられる人は、何かを非情にも切り捨てられる勇気と覚悟を兼ね備えている人なのだとか言い放った後に、そう思うこと自体がもう自分のサイズなのだと知る。

その人達はなにかを切り捨ててる感覚も、勇気を持って足を出してる感覚も、覚悟すらない場合もあるのだ。

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Title: ツイート備忘。
2012.05.14

アミターバが無限だと言うことが、なによりも親鸞が為一人なりけりけりということを裏付けしていて、それは言い換えれば、衆生の数だけの阿弥陀があるのだということであり、つまりはその確信が法然上人の信心も、親鸞の信心も全く異なったところはないと言い切れた所以でもあるのだろうな。

阿弥陀という概念を絵像や偶像化をするということはとても大事だし、その概念を物語の中に落とし込むと言うこともとても大事な事だと思う。でもそれは同時にそれはそうでもしなければ表せないと言うことを指しているわけであり、本質はそこにはないということでもあるのだろうな。

「たらふく」っていう言葉はさ、ただお腹いっぱい食べたということだけを指すわけではなく、「たらふく」食べられるくらいおいしいものだったということも含まれているんだよな。むりむりお腹にぶち込んだものを「たらふく」とはいわないもんな。


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Title: 昆布×梅干し。
2012.05.12

ここのところの総括。

この3週間で一番感じたのは、人の死は間違いなく縁であって、その一つの死によって残された人の中にはなにかを残していくのだということ。

その縁は近い遠いに関係なく、意識するもしないも関係なく、人が死ぬということは、きっとめぐりめぐって自分に何らかの影響を及ぼしているのだと思う。

そう考えれば、日々自分はいろんな影響を受けているし、日々自分の周りは縁に満たされている。

自分の想いや思想や心は、環境の投影であり、環境が変わればいくらでもかわりうるものであり、変わらないなんてことは幻想だ。無常という言葉は、なにか特別な真理でもなんでもない、ただのあたりまえ体操だ。

それと変化しないものは死んだものだけだっていままで思っていたのだけど。

この3週間少しずつ朽ちていく亡骸をみていて、死んでも人はつねに変化をしているし、それはお骨になっておしまいかと言えばそうでもなくて、実存がなくなっても変化をしていて、その変化は間違いなく世界に影響を及ぼし続けているということを、まざまざと感じた気がする。

それとなんとなくだけど、ざっくり括れば「すごい人」というものの持っているオーラというものが何なのか少しわかった気がする。

それは自分のやるべき事をしっかりわかっていることであり、その責任を果たすためにまっすぐであることであるし、それは言い換えれば腰を据えて自分のやるべきことをやっているという姿勢なんだろう。

正直言えば、自分のやるべきことや、進むべき道、そして自分の責任を果たすという事へしっかりと腰を据えている人ってたぶんそんなに多くないんだろうと思う。自分に関して言えば、いつもここ一番で言い訳しているし、まだ自分にできることはなんなのか、自分がどこへいきたいのかつかみ損ねているし、そのつかみ損ねているということを、なによりも自分の言い訳にしている。

しかし世にいうなんかオーラあるよね、と言われる人には、環境的に腰を据えるしかないところで生きていて、そこに覚悟と責任を背負ってて、その顔こそが力を生み出すのだろうと思う。そのデメリットはその過程において、自分の道の外にあることには、恐ろしく冷静で、無関心にも冷酷にもなれるということなんだろう。

なんかそれがよくわかった。

あと。ひたすら毎日昆布と梅干しのおにぎりをたべていて。

いままで昆布のおにぎりなんて嫌いだ。好き好んで食べるもんかい。と思ってたのだけど、選択肢が2つしかないと嫌でも食べないとしかたないので食べていたら、この3週間で昆布のうまさに気づかされた。

現代は選択肢が多いし、自由度が高いから、自分の好きなものを自由に選べるのが当たり前だけど、きっとだからこそ幅も世界も広がりにくいのだな。

入り口ぐらいではあまり好きになれないものこそ、本当は心の底から好きになる可能性っていうのを秘めてるかもしれないのだ。

そう昆布が教えてくれたのだ。






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Title: ドラクエ。
2012.05.04

ドラクエⅩについて。

ドラクエⅩはオンラインゲームだという。ここにきてドラクエシリーズがオンラインになったということについて、正直いうと初めはなんてこった、オンラインじゃ購入すらも悩むし、オンラインゲームにさける時間もとれないだろうし、なんだよもう働いているおじさんたちは切り捨てかよ。なんて気分になったし、ここにきてオンラインで課金って、なんか時代に迎合してるみたいで嫌だなぁと思ったのだけど。

でもすこし立ち止まって考えてみると、ドラゴンクエストが好きであればあるほど、その名前とブランドを守ろうと思った時にあぐらをかいたら駄目なのだと思うし、時代の流れの中で変化してきたものは最大限につかって、その中で冒険の世界が広がる可能性が1%でもあるなら挑戦するべきなのかもしれない。

ここまで確立されたブランドをあげて挑戦する事への怖さとか、ある程度のものでも売れるだろう、あえて挑戦しなくてもいいんじゃないかという気持ちとの葛藤とか、そういうものに負けずにこういう形でドラクエを展開してくれた事、自分なんかのちっぽけな気持ちを裏切るような形でドラクエを創ってくれていることってやはりすごいと思う。

ブランドのうえにあぐらをかいて精彩を欠いてしまったブランドというのは山ほどある。この流れであまり口にしたくはないけどSONY然り。

堀井雄二×鳥山明×すぎやまこういち

自分たちの世代でこの3人の組み合わせにドキドキしない人は少ないと信じてる。

そしてこの3人が時代遅れのおじさん達なのではなく、今も子どもたちの、そして男子の心を冒険の世界へ誘う為に全力でゲームを創ってくれてるのかと思うとなんだか嬉しくなるし、自分もそういう気持ちでがんばらねばとすら思う。

堀井雄二さんがなにかのインタビューでこう言っていた。

「やっぱりゲームハードにソフトを入れてゲームを起動するってめんどくさいんです。据え置き機なら尚更だよね。だからね、これからのコンシューマー業界というのは、そういうめんどくささを乗り越えてでも遊びたいって思わせるようなゲームを作ることが、僕みたいなゲームクリエイターの仕事かなと思ってる」

いつだって自分の範疇で、なんだよ、なんでポータブルででないんだよ、しかもオンライン課金かよ、ドラクエも終わったな。なんていって自分の視野でしかものを判断できなくなった自分はもう冒険心の欠片もない大人になってしまっていたのかもしれない。

くそう。

でも、オープニングファンファーレが鳴ったときに胸の高鳴りと、冒険の世界に引きずり込まれるような感覚はいまでも自分の中で消えていないんだ、そんでいつだってまだまだ自分は勇者になれると思ってるだ。

竜王でもバラモスでもゾーマでも、デスピサロでもなんでもかかってこいってなもんだ。






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Title: UDGODIE十勝。
2012.05.03

ここ数日に感じたことはこれから先の自分の思考にもきっと少なからず影響を与えるようなことばかりだった。

たぶん話しても信じてもらえないような不思議な体験をして、そこで自分の中にわいてきた気持ちがあまりにも生々しく人間臭くて、なんか自分の底が見えたような気がした。なんか色んなもので覆われてない、自分の元素みたいなところが垣間見えた気がした。

そしてやはり何事も経験が大事だということ。年をとると自分の手の中にあるものだけで行動し、手の中にあるものだけで判断し、思考し、そしてそれに伴う感情を使いまわしていても十分に生きていけるようになる。

それにはそれでメリットはあるのかもしれないけど、でもやはりいつまでも、自分にはまだ感じたことのない感情があって、感じたこともないような気持ちになりうることがたくさんあるのだと言うことを信じていたいし、同じような日常の使い回しだけじゃつまんないし、新しい世界も開けなければ自分自身にも出会えない。

それと意識というのはおもしろいもので、同じように行動していても、同じように生活をしているつもりでも、意識や心の持ちようの与える影響は大きい。そしてその小さな目に見えない意識や心の持ちようが人に与える影響も計り知れない。

平常心っていうのは簡単に口にすることはできるけど、それを保つというのは難しい、難しいということばですらなんか形骸化した言い回しのようにきこえるのだけど、でも難しいけど、それはそんなに難しくないのだということもよくわかった。

なんかここのところ自分に起きた3つの経験が、全部繋がって思ったのは、結局の所何かを分け隔ててるものなんてたかだか1cmくらいのものなんだということ。

この1cmを高いと見るか低いと見るかということを心の持ちようというんだろうと思う。生きてることも死んでることも、戦争も平和も、誰かを好きになるもならないも、誰かを尊敬できるのもできないのも、安心できるのもできないのも、たかだが1cmの境目で隔てられてるだけ。

そして人生の大事な部分はこの1cm程度のことなんだろうということ。

そんでもっと突っ込んで言えば、本当はこの1cmの敷居を作り出しているのは他でもない自分だということで、その1cmの敷居をものともしなくなるための鍵がきっとオフバランスということなんだろう。

数日の間に別々に体験したり、聞いたり浮かんだりしたことが、ふらっと繋がって朧気ながらも一つの答えに結びつく。

まだここで一区切りでもないくらいに色んなものに追われているのだけど。でもこの想いや経験や気持ちを風化させたくないし、これをもっともっと熟成させて自分のものにしたい。

そんなここ数日なのです。


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Title: 人間模様哀愁交差点。
2012.04.18

桜が散って、ツバメが来て、桃が咲く。

季節は巡り巡る。

巡り巡って堂々巡り。どうせ巡るのなら堂々と巡りたい。

人生は結局はただの暇つぶしみたいなものなんだ。どうせいつか終わる時間を過ごすなら自分の為に、もっともっとわがままに楽しんで、自分の舞台の主役はあくまで自分なのだ、誰にも主演を譲る気はないぜってなもんで生きていってなにが悪い。

誰かの為とか、社会の為とか、あの人の為とか、そうやってがんばってる人よりも、自分の行動が自分の何を満たしていて、満たされるからこそやめられないのだと開き直れる方がよほど信用できる。

自分の問題をなにかにすり替えかえたとしても、昇華させたとしても、あくまで自分の中にある問題がなんであるのか問い続けてなんぼだと思ってる。

はてさて。

昨日は自分のVAIOを忘れて仕事場に来てしまった、たぶん初めてだと思う。さて仕事仕事と思って愕然として、さてどうしたもんかと思ったのだけど、でも結局他のパソコンを借りて予定してた仕事を終えることができたのだけど。

でもなにげに自分のパソコンがない方がものすごく仕事がはかどったし頭が活性化された気がする。

自分のパソコンで仕事すると、合間にメールをチェックして横やりが入ったり、SNSをのぞき見したり、こうやって文章を書きたくなってしまったりして仕事が中断するのだけど、でもそれもできないってなもんで、案外集中できるということに気づいたのですな。

てもちぶさたとか、暇とか。そういう時間は大事なのだと言うことを久しぶりに感じた。てもちぶさたと暇は、無駄ではなく、それにはそれのちゃんとした意義があるのだな。

それと「てもちぶさた」の使い方にこそ個性ってでるのだろうなと思った。

はてさて。

ヒーローっていうものがマイノリティを黙殺した象徴であるとしても、ヒーロになりたいという気持ちがどこかにある自分は好きだし、でもヒーローであり続けたいとは思わない自分も好きだ。

こないだ原発職員の人と話をした。自分とさほど年もかわらない中で、地元に残り原発に勤めて、子どもと家族を支えている彼の目を見て、それでも原発は不要です。根絶すべきです、自分は人生をかけて再稼働を阻止しますと言える人とは友達にはなれないと思った。

いいかわるいかじゃない。ただ自分は友達にはなりたくない。ただそれだけのこと。

それとそういう僧侶には絶対になりたくないし、本音と建て前を使い分けるなんてまっぴらごめんだとも思う。

はてさて。

はてさて。

いいかわるいかまえがどこかわからなくてもはしるしかない。

哀愁交差点。


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Title: 捕まる。
2012.04.14


好きこそものの上手なれなんてこたいうけど。

最近なんか腑に落ちたのは

継続ということを考えたときに、自分が上手くなれるのは、継続することができるものだけなんだろうと思う。

書くことも、話すことも、人に関わることも、考えることも、なんでもいいけど継続できないものは上手くはならない、それと無理に継続を続けてもそれはいつか無理がくる。

結局の所自分が継続できるものがなにかということを、はやく見つけることが大事なんだろうと思う。結局の所やめるにやめられないものが何なのか。

それを見つけることは「捕まる」と言い換えてもいいのだと思う。

自分がなにかを捕まえて上手くなるのではなく、自分がなにかに捕まってはじめて上手くなっていくのだろうと思う。

努力で捕まえているだけでは、6合目まで、7合目から先は捕まらないと進めないのかもしれないと思う。

どうやったら捕まるかといえば、自分の弱さとずるさと、くそ嫌らしいところから目を背けないと言うことなんだと思う。きれいな意味なんかつけないで。





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Title: 白銀
2012.04.14

栄華を誇った満開の桜が、葉桜になってきて、歩く人もわざわざ足を止めて見上げることもなくなった今の桜もけっこう好きだったりする。完全に花片のなくなるこの少しの間にある、祭りの後感。

ここにこそ人生を重ねるべきだとすら思う。

そんな葉桜を眺めながらぼけっとしてたら、小さな子どもが蛇口の水を出しっぱなしにして逃げた。そしたらそこにやってきた親が、もったいなからやめなさいとその蛇口の水を止めた。

いつもならなんてことない光景なのだけど。

桜にあてられていたのか、だしっぱなしの蛇口の水と、自分が死ぬまでの時間はとても似ていると思った。

だしっぱなし、垂れ流され続ける水をもったいないと思うのと同じように、今この瞬間も自分の時間も、楽しい時間も、幸せな時間も、あの人との時間も、垂れ流され続けているしその流れは蛇口を閉めてもとめることができない。

なんて。



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Title: サクラサクラサクラサク。
2012.04.09

満天の桜はまるで宇宙みたいで、じっとみてるとふとのみこまれそうになる。

毎年同じ事をいうようだけど、今年もやっぱり死ぬならこの時期にしたいと思った。これから自分の進むべき道が、どんなに苦しくてどうしょうもない人生になったとしても、最後にこの時期に死ぬことができたらそれだけで自分の人生は100点で終われると思う。

でも今年言われて思ったんだけど、それって1年のうちに10日くらいしかないのだな。そこを狙って命尽きる確立ってばそうとうひくいか。でもそこを狙うんだ。きっとそこで死ぬ。

毎年口に出してたらそのうち叶うだろう。

ここのとこ桜の写真を撮りながら思ったのだけど、自分の撮りたいものは、空気で、光で、その時の自分の気持ちのすべてなのだ。自分にとっての写真というものの位置づけはそこなんだということがよくわかった気がする。

そこでもFBシンドロームが首をもたげてくるのだけど。イイネ!がほしいが為に撮り始めるときっとおもしろくなくなる。もっとわがままに、自由に自分の中の湧いてきた心や、気持ちよさをそのまま凝固させて、それを見ればいつでもそこに帰れるようなものを残しておきたいと思った。

結局の所、ここでも自分ってのはつくづく自分勝手なもんだと思う。

誰かに評価される枠に収まったら絶対にそこ止まりだ。だれにもわかんないような、誰にも理解されないような、どうせわかりっこないぜ、わかられたってたまんねぇもん、みたいなところで生きていきたい。そしてそこで生きるためのタフさもっともっとほしい。

誰かの為に生きてるような人間にはなりたくないとか青臭いこと言って、誰かの為になろうと思ってる奴にはたいしたことなんかできやしないとか、とげとげしいことを言いたくなる自分に手を焼きながらも、そういうざらついた部分が自分の中にあってよかったし、なくなってほしくないとも思ってる。

サクラサクラ。

サクラサク。



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Title: 桜。
2012.04.07

「桜が我は是桜でござる、梅が我は是梅でござると名乗って出はせぬぞ」

安心法門の中の言葉。

桜はおれ桜だぜ、おれをみろよ。キレイだろなんていわないだろって。

今日桜を撮っててすごくその言葉を思い出した。

そんでなんかほっとした。

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Title: 台風一過。
2012.04.04

昨日は暴風雨のさなかに眠ってしまって、夜中にふと目が覚めたら、雨はもう止んでいて、雲だけがすごい勢いで流れていた。ベランダに出てみると、暴風の残り香みたいな風が生暖かくて心地よかった。

しばらくすごい勢いで流れていく雲をみていて、なにかが変わりそうな瞬間っていうのはこういうことなのかもしれないと思った。

暴風の残り香が自分の中のモヤモヤしたものもこのままどこか遠くまで飛ばしていくような、今まさになにかが変わっていきそうな狭間にいるような気がして、身体がすっとかるくなる気がした。

季節の変わり目や、新しい仕事の責任とか、環境の変化を自分の中で処理するのに少し時間のかかる自分のめんどうくさい所も、こうやってこういう気持ちを味わえるための1つの要素なのだと思ったら、ざわついてころころするのもそう悪くないのかもと思える。

結局の所

悪い奴になりたいとも思わないけど、優しい人になりたいとも思わない。

平気で1人でいられるようになりたくないけど、人とかかわることにいつも喜びを感じていたいとも思わない。

めんどくさいことをごちゃごちゃいいたくないけど、だまって波風立てずにいたいとも思わない。

台風一過みたいな空の下で、桜っていう花は、たくさんの渦巻く思いを全部吸い込んで、二酸化炭素を酸素に変えるみたいに、幸せな気持ちをはき出してくれる。

そんで役目を終えたら潔く後はおまえ次第だぜって、背中を押して散っていくのだ。

かっこいいな。


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Title: 平成ブルース。
2012.04.01

今日はエイプリールだけど。

嘘って愛があるよね、真実の何十倍も。嘘は真実みたいになにかをぶった切らないもんね。思うにいままで自分は嘘よりも真実で人を傷つけたことの方が多いのじゃないかと思う。

*

あの頃となにが変わったのかといえば。

きっとわかりやすく一言で言えば責任とか環境とかで。

その責任や環境が変わって見えてきたことが、あの頃見えてた頃よりも数段に広い視野なのは間違いないのだけど。

でも視野が広がることがいいことだと思い込んでるところに、そもそもの間違いがあるのだきっと。

視野が広がってたくさんのものが見えるようになるということは、自分の中では、昨日まで悪だと思ったものが善なんだといわれるようなもので、この人がお母さんだよって知らない人が現れるようなもので、学歴がすべてだといわれてぶちきれた自分が誰かに学歴がすべてなんだよといわされてるみたいな気持ちになるのだ。

そのギャップをどう処理するかということに何年も取り組んできている気がする。

でも結局の所、その特効薬はみつからなくて、たまにブルーハーツを聞いて発作を抑えるくらいのことしかできないのだ。

*

馬鹿が上ばっかみて、手元がおろそかになってんだ。

まず今やるべきことを。

*

こないだのフットサルが本当に気持ちよくて、やっぱ自分はスポーツが好きなんだな、それと誰かと何かを共有しながら1つの目的を達成するのとかもつくづく好きなんだろうなと思った。ルールの中で競い合うのとか、その中で必死になるのとか、好きなんだよな。

もっとスポーツしたいなぁ。

*

0ってどこだ。

*

タマネギをみじん切りしてて思った。

人生もタマネギみたいなもんだな。

皮むいて、涙を流しながらみじん切りしたら、跡形もなくなるんだ。

*

「酸っぱいブドウ」の寓話は結構好きだ。人間ってそういうもんだ。あれが否定されたら自分を否定されるのと同じなんだって。

*

いろんなことが。思い通りになったらいいのにな。

*

2008年くらいの自分が酔っぱらって帰ってきて書いた言葉は2012年のしらふの自分の背中を押すのです。

*

あの頃から一度だって、一瞬だって「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という感性に手が届くと思えたこともないし、勘違いすらしたことない。自分が間違っても手が届くとか勘違いしてなくて本当によかったと思う。それだけは自分を褒めたい。

*

ビーンボール投げられた時に、にやりと笑える自分だけはいつも保っていたいものだ。

こいこい頭かすめるくらいの球。

*

いつだって今の状況とか状態に自己満足できる人にはかなわない。

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Title: エイプリール。
2012.04.01

エイプリールフールまとめ。

旅にでるという類の嘘はもう風物詩みたいなもので、ほとんどの人は、「はいはいいってらっしゃい」「季語だな」「また同じネタか」「今年もあいかわらずいまいちだな」という評価を頂いてまず春が来たことを実感。

ただ本気でメールしてきてくれた方々ごめんなさい。ありがとうございます。恒例行事だと思って許してください。治療法のない発作というか持病みたいなもんなんで。

北極にはいません。家にいます。

どこにもいきませんし、明日からちゃんと幼稚園に行きますし、ビオトープもやりますし、聞法会もいきますし、サイトのほうもちゃんと責任もってやりますんで。

先日返した本にお礼を挟んどいたのだけど・・・とか、後輩にいま京都駅なのだけど迎えに来てとか・・・午前中に要冷蔵の荷物送ったから楽しみにしてて!・・・とか今日は男子19時池袋集合です!のメールを友人複数に送信したりとか・・・あとは結婚ネタと離婚ネタを毎年のようにメールしたのだけど。

正直だめだ。ほぼ完敗。

3月31日の時点で身構えてる奴に、自分の嘘以上におもしろい返しをしてくる奴とか、嘘とわかってて上乗せてくる奴とか、みんな返し技が巧妙になってきて、正直言うと、実は1つ「おれ結婚することになって、来週親に挨拶なんだよね」とはいってきた水野のメールの真偽だけが判断できずにいるのとそれを今日確認するのが悔しい自分がいるんですよ。

まあいまこの文章を書いてる最中に、「今日本当に飲み会あるの?」とのこのこメールしてきた某てつやがいてくれただけで今年は満足だ。うん。

エイプリールフールっていい日だな。


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Title: 恥部。
2012.03.31

やっぱり自分にとって書くことは、反省でもあるし、内省であるし、鼓舞でもあるし、慰めでも癒しでもあるし、自慰でも、たんつぼでもある。

それって自分にとっては一種の恥部だったりもする。

旅の恥はかき捨てられても、同じ事が日常でかき捨てられないことはたくさんある。

でもかき捨てるような恥をかく経験が日常の中に生きてくるということはよくあるのだ。

その境界線をしっかり引こうと思う。

書くことや表現することはイイネとかほしいから始めた訳じゃない。だれかに認めてほしくて仕事をしているわけでも行動してるわけでもない。

でもイイネをもらうことが日常化すると、またほしくなるような弱くてだっさい自分に嫌気がさすのにはうんざりだ。

強くあればいい。

強くあればなにを持っていても、どんな環境でもそれを貫けるのかもしれないけど、でも自分はまだまだその器じゃない。

だからもう一度書く理由を見直して、書く環境を整えて、自分にとって最もいいたいことや、やりたいことができると思えるところに立ち直ってみようと思ったという。

なんとも自分らしくもめんどくさい今日この頃なのだ。

でもこれでいい。

さて、前に前に。




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Title: デブ。
2012.03.31

5年前に桜の木を植えた。

次の年もその次の年も桜は花を付けなかった。原因は水も光も栄養も十分すぎるからだそうだ。それから肥料をやめて、枝をばさばさと切り落としたら、こりゃまずいと思ったのかどうかは定かじゃないけど、その年から桜は花を付けるようになった。

最近この時のことをよく思い出す。

思いっきり自分にあてはめて。

欠乏や渇望のくれるものは大きい。

白紙の画面にいくらでも文章を紡げて、時間さえあれば本を貪るように読んで、吸収してははき出して、カラカラになったらまた吸収する。そんなことを繰り返していたのは遠い昔。

今自分に欠けてるのは渇望なんだろうな。

喉の渇いていない馬を水飲み場につれていっても意味はないんだ。

自分の喉を適度に渇かせて、ただの水をおいしそうにのどを鳴らしながら飲む快感をいつまでも味わっていたいのだ。

自分で自分を修復して、メンテナンスできる人間しかどのみち先には進めなくなるのだという言葉の中には、自分で自分をいつも飢餓状態にしておけるかどうかということも含まれているのだろうな。

きっとそれができない人間がデブになる。

デブには、もっといえばデブの思考回路では越えられない一線があるのかもしれない。

デブにはなるまい。

身も心も。

いやむしろ心くらいは・・・








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Title: ra
2012.03.30

昨日の夜なかなか眠れなくて、暗い部屋でぼけっとしながら思ったこと。

昔、腐るほど時間があって、でもその時間の使い方をもてあましていたときには、初めて旅という文字を作った人は誰なんだろうかとか、人間が音楽にドキドキわくわくするようになったのはいつからだろうかとか、そんなくだらない無駄なことを考えては、その妄想になにかを満たされていたような気がする。

今、自分の思うことには無駄なことが少なくなった。一文にもならないようなことではなく、考えることでそれが何文にもなると思えるようなことばかりだ。

憚らずにいえば、いろんなことが見えるようになって、視野が広がって、いろんなことを経験してきて、今の自分はどこか何かをあきらめている。でもそれをあきらめるというのは、明らかに見ることだなんてことを大義名分にして、お守りのようにして、そんな自分を正当化して生きているし、その生き方になんの疑問もないとか思う。

でも昨日、夜風に吹かれていたら、何の前触れもなく唐突に、今の自分が浮き彫りになって、プチッとなんかにとらわれすぎてたなと思えて反省した。

なんか、例えるなら、どこでもドアがなくて本当によかったと思えるような所に幸せがあるんだと思える自分と、がむしゃらにどこでもドアをほしがる自分と、その両方が共存していていいんだし、その両方がいてはじめてどちらにも光があたるのだろうなということだ。

自分の心や感性のグラフがあるとしたら、ここから弧を書くように大きくカーブしていけるのだろうか。

自分の「ラ」がどこにあるのかをしっかりと聞き分けるにはまだまだなのだな。

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Title: 補完。
2012.03.28

第三京浜をはしっていて、道路脇に見える煙突から垂れ流される煙とか、吹きだす炎とかをみてて、こういう人工的な構造物に惹かれる自分がいるのはなぜだろうかなんてことをぼんやりと考える。

自然の中でのびのびと育って、一度もビルを見たことない人が、生まれて初めてスカイツリーをみたらきっとその構造物に心奪われるんじゃないだろうか。逆にビルの谷間で育った子どもたちが、深い森の中の巨木や、どこまでも深い湖や、向こうからやってくる雨を目の当たりにしたら、一瞬で心を奪われるのかもしれない。

惹かれるいうことはきっとそういう事なのかもしれない。そしてそれは補完とも、バランスをとるとも言い換えられるのかもしれない。

その人が何に惹かれるのか考えたときに、その人の中にあるものはその対局にあるものなんだろうと思う。それを補完してバランスをとろうとする行為を総称して心が奪われるとか、補完すると言っていいのかもしれない。

そう考えると、心が奪われ続けるということはある種のパラドックスなのかもしれない。

そして心が奪われるということは反作用でもあるのだと思う。

人間の心にはいつだって反作用の力が働いていているのだと思う。

平和な国の人間だからこそ、簡単に人の命を奪って、自分の子どもを餓死させるようなことが起こるのかもしれない。平和は破壊への渇望を生むし、破壊は平和への渇望を生む。ブームが巡り巡ってくるのも同じ理由なのかもしれない。

目に見えるものは100%本質ではない。目に見えるものは本質とはかけ離れたところにある。だからその人を本当に知りたいのであれば、目に見える部分の対極を掘り下げなければいけないのだろうと思う。

優しい言葉や、だれかを思う行動の根底にあるものが、必ずしも愛や慈悲であるかといえばそれは違う。暴力や破壊の根底にあるものが中にあるものが、必ずしも無慈悲で非人道的であるかといえばそれも違うと思う。

目に見えるものだけを、自分の解釈で、自分の中でカテゴリー分けしてるうちには絶対に見えないものがあると思う。つまりは、面と向かって好きだという人間が味方で、ビンタをしてくる人間が敵だとは限らないということなのかもしれない。

そこに気づくことと、気づくだけでなく、それに伴った行動をしていくということはとても難しい、でもそう意識することで開けてくるものがあるのだと思う。

人間ってのはめんどくさいくせにとてもシンプルだ。




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Title: 経営。
2012.03.22

経営者は結果をだすためにいるのであって、結果のだせない経営者は必要ないと自分に言い聞かせてここまでやってきて、結果とはなにかと考えたときに、頭で考えれば、もっともらしいことをたくさん並べられるようになったけど、結局のところそれはすなわち数字だと思ってるし、数字をあげつづけられない仕事には継続性も進展性もないと思ってる。

特に幼稚園経営においては、数字上の問題を「教育だから」という言い訳をしたら負けだと思ってやってきていて、UNIPHにおいても、収支のバランスが悪い部分に関しては、気持ちや感情を抜きにこだわってきていて、その考え方を貫くのに迷ったこともあったのだけど、ちょっと背中押された気がした。

この考えは今後自分がお寺をやっていく上でも変わらないと思う。

収益のバランスの悪い健全な組織なんてたぶんないし、そのバランスをとるための仕事が経営者という仕事なのだろうな。

原田さんの言葉の中の、社長は職種だという言葉にはすごく共感できる。

経営者が外的要因を言い訳にしてあきらめるなら職種を変えたほうがいいのだろうと思う。

前に数字にこだわるといったら、扱っているものが扱っているものだけに、数字さえとれればいいのか的なことをいわれたことがあるが、どんな業態であるとしても、明確に数字をあげるために努力をすることの中に、その業態としての1番大事なことがあると自分は信じている。

経営者としても、もっともっと見える世界を広げたいものだ。


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Title: 居場所
2012.03.20

昨日話してて思った、「友達」ってものを意識し始めた頃の自分をを思い返すと、それは「居場所」という風に置き換えられたと思う。

幼稚園や小学校中学校や高校において「友達」の存在は自分の居場所でありシェルターであったのだろうな。

そう思えば「居場所」を自分で見つけられれば「友達」というくくりに縛られなくなる「恋人」も「家族」しかり。自分の「居場所」をどこにでもみつけられる人と、そうでない人を縛るものの差はとても大きい。

「友達」「家族」「恋人」「家」「社会」「仕事」どこに自分の「居場所」があるかということこそがその人のアイデンティティであるともいえる。

結局人間にとって「居場所」というのは、自分を保持する為に必要不可欠な要素であり、「居場所」にいることによって、自分を認識して、意識することができるのだろうな。

「居場所」が人生に与える影響は大きい。

結局の所自我とか、アイデンティティなんていうものは、今いる自分の「居場所」の投影であり、外側からじんわりと浸透してきたようなものなんだろうな。

「居場所」についてもっと深く考えていったらおもしろいことができそうな気がしてくる。






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Title: 坊や。
2012.03.18

いくつになっても、檀家のおじいちゃん、おばあちゃんからしたら、自分は坊やみたいなものなんだろうな。と思って思い出したのだけど、

昔あるお寺の先輩が、ちょっとやさぐれてたときに、特攻服きて単車をおして家をでると、近所のあばあちゃんたちに、「あれあんたまたお出かけかいね、どこいくね?」といつも声をかけられるもんで、その度に「ちょっとそこまで・・・」とかいって苦笑いをしながら家をでていたという、さすがにそれが続いて、決まり悪くなって最終的には暴走やめたという話を思い出したのだけど、そうやって声をかけてくれる人がいることは時に煩わしいのだけど、でもやはり今になって、自分の成長やなりゆきを見守ってくれる人が多いにこしたことないなと思う。

いまはそういう煩わしさには蓋をしがちだけど、そこにも必ずメリットはある。そのメリットがこれから先の社会形成に大きな力になると思う。

お寺という場所が誰にとっても、そういう関係を築くための媒体になれればいいと思っている。


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Title: 悲願彼岸。
2012.03.17

ガガガSP、ジャパハリネットを聞きながら考える法話の内容はかなりロックだ。

しかし最近、伝えたいという想いがなきゃどんな耳障りのいいことばや、理路整然と論拠をたてても伝わらない。うまく話すなんてことはそれさえわかってれば難しくないのだと思うのです。これ絶対。

きっと何事も技術でカバーできるのはいいとこ6合目くらいまでなんだよなきっと。

そんで今日は甲本ヒロトの誕生日だそうだ。


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Title: 311から1年。
2012.03.11

あの日から1年が過ぎて、いろんなことを考えさせられて、自分の無力さを感じて、今、もっともっと力をつけたいと思ってる。不測の事態に何もできなくて、指くわえてるのなんかもうたくさんだ。

自分がもっと力をつける為には、思いや意志や心や、声を、言葉を、しぼりだしてでももっともっと吐き出さなきゃ駄目なんだと思う。それで嫌な想いをすることがあったとしても、なにも主張しないで、一歩引いたところから、結果論にああでもないこうでもいうよりよっぽどましだと思ってる。

結果だ。

結果だ。

ご託並べる前に結果だ。

結果のだせない奴はこの10年でごぼう抜きにしてやろうと思ってる。

口だけりっぱなことをいうような大人にはなるもんかと思ってる。

311だとか、記号みたいな呼び方で、ひとくくりにした悲しみや苦しみや孤独を、絆とかいう耳障りのいい言葉で包んで、わかったつもりになるのなんかくそくらえだと思ってる。

自分なら、耳障りのいい言葉しか言わないやつとは絆は結べない。

絆っていうのはそんな簡単なものじゃないと思う。

今はもどかしさで苦しいことがたくさんあるけど、復興はここ数年で終わるわけでない。しっかり力をつけて、10年で今の10倍の力をつけて、この1年分のもどかしさを全部はらすんだい。


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Title: 311
2012.03.11

震災の後と前で自分の中で決定的に変わったものがあるとしたら、それはきっとこの「今」の重みだ。


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Title: ふつふつ。
2012.03.09

なんか昨日はいい酔い方をして、夜道を歩いていたら、お腹の底からふつふつといろんなものが湧いてきて。

そのふつふつが朝になってもまだぐつぐつしてて。

なぜか世の中に悪態つきたい気分なので野狐禅を聞きながらぐちぐち。

# Facebookについて

Facebookをはじめて、なんかひっかかっていた違和感が最近自分の中で確かなものになってきた。

初めに断っておきたいのは、決してFacebook批判をしたいわけじゃなくて、使い方と、心の置き方の問題に対して思うことがあるというだけの話なのだけど。

はじめに、Facebookに違和感を感じたのは、リアルな友達の反応をみていて、Facebookの上でのコメントやイイネ!とかそういうものが、面と向かって飲んでいるときの反応とはあまりにもかけ離れているからだ。

いつからみんなそんな大人になっちまったんだと思って寂しく思ってたら、一緒に飲むと全然そんなことなくて、なんだよそう思ってるならそう言えばいいのに。みたいなのが多くて、結局の所Facebook上の人格は、建前と体裁であることが多いということだ。

それをみんな平気でもう大人だしねという言葉で片付けたりすると言うことがどうにも腑に落ちない。

無論みんながみんなそうではないし、なかにはこんなことを言われても「??」と思う人がいることも事実なのだけど。それは割合の問題。

それとある人がFacebookは鬱を助長してるといっていたのだけど。

思うにFacebookで発信することは、言い換えればそれはそのまま、自分が他人からどうみられたいかなのだし、それを真に受けて、みんなあんなに充実してるのに、自分は・・・なんて思う必要もなければ、更新の頻度や内容なんて、寂しさや孤独感でもあるし、自己顕示欲と、承認欲の強さみたいなものなんだから、決してきれいなもんじゃないと思えばいいのだと思う。

それと、しばらくFacebookに記事を書いていると、なんとなくどんな記事を書くと、イイネ!がもらえて、どういう記事を書くと反応が悪いかとか、そういうことがわかってくる気がする。

というよりも言い方を変えれば、どういう記事をかくとみんながイイネを押さざるを得ないかということがわかるような気がするのだ。

それが顕著なのは、ちょっといい話やがんばってる話や、被災地に関わることや、自分にはそれがわかるよ!みたいなことで自分のアイデンティティを誇示できるような記事など、そういう記事を書いたときに、それにイイネを押さないと自分が浮いているような錯覚をおこさせられるということだ。

それに、例えば今書いているこの文章をFacebookにのせたときに、イイネを押す人と押さない人と、コメントを残す人と残さない人で、ある程度カテゴリーがわかれると思うし、つまりはそれも自分がどのカテゴリーにいると見られたいかによって反応が変わるのだろうと思う。

それと、イイネ!機能について、自戒を込めて言うのなら、一方的に記事を書いて、その内容が平面的でたいしたことを言ってないのに、たくさんの人からイイネ!をもらうと、さも自分の意見が正しいかのように錯覚してしまうのだ、面と向かって話してれば、それは違うよというニュアンスをお互いに感じ取れるのに、SNS上ではそれができないので、そうして自分の思考が変な形で凝り固まってしまう可能性というのを頭に入れておかなきゃいけないのだと思う。そしてイイネの数は決して正しいか間違っているかのバロメーターではない。

特に、宗教に関していえば、イイネ!をたくさんもらえるようなことしか言えないような宗教者なんてたかがしれているのだと思う。

Facebookが生み出された背景というのは、おそらく人間が人間を知りたい、身近な人と簡単につながりたいという欲求から生まれたものなのだろうけど、こうしてこのシステムが普及してくる中で、本来の意図は消え去り、よく見えるようになったことで、いままでよりも見えなくなったようにしか思えないのだ。

その大きな原因はやはり原則実名での登録ということなのだろうけど、Facebookをやっていて、人間というのは、自分を見られれば見られるほど、手を後ろ手に隠すのだと言うことがよくわかった気がする。

その中で、強い人間というのはそれだけ見られても、手を後ろ手に隠さない人間であり、そういう人間だけがもっている力というものが存在するのだということもよくわかった。

なんか書き始めたらとまらないのだけど。

なにがいいたいかと言えば、やっぱり人間に関わる問題において、本質は目に見えるところよりも、目に見えないところにこそたくさんあるのだということなのだと思う。

こんなことを言いながらもきっと自分はこれからもFacebookを使うし、イイネ!とかコメントとか書いたり書かれたりしながら人との距離を測っていくのだろうなと思う。

この世の中は、家にいながら直接顔を見ないでも、簡単に人の心をかき乱すことができるツールがあふれている。だからこそそのつきあい方や心の置き方を自分で学んで、ある種の自衛能力と、心構えをしっかりしておかないと、ツールを使っているようで使われてるのに、それにすら気づかないという状況に陥ってしまうような気がする。

ご用心ご用心。

蓮は泥の中にしか咲かないのだよ。

# 被災地のこと #

少し前に、被災地で見つかった携帯に、娘から父親にあてたメッセージが残っていたという記事を見た。

それをシェアしながら、多くの人がいろいろなことを言っていたのだけど、もし自分が最後の最後に誰か大切な人に向けてメッセージを残したとしたら、それをネットにさらされて、全然関係ない人に色々なことを言われたくない。そんなのわかったふりされたってたまんないもんと思う。

なんか、きっとそれを読むことで、いろいろな想いや行動が生まれたりすることもあると思うし、いいとか悪いとかではとても判断できることではないけど。

自分としては、人の手紙をみんなで回し読みしてるみたいで、あんまり気分良くないし、なによりもそういうのって無粋だと思う。

それともうすぐ震災から1年だけど、美談やちょっといい話をひたすら流すのだけはもうやめてほしい。それが一体なんだというのだ。

熱に中てられたような曇った目では現実はなにも変わらないのだ。

# お金の話 #

どこかに所属してサラリーをもらうということ以外に、お金を得る方法をいくつ知っているかということは大事な事だと思う。金額の問題ではない、肩もんで100円もらうでもいい。なんでもいいけど、その方法を考えると言うことが大事なのだと思う。

いまの世の中は、お金はある一定のところでぐるぐると循環させられてるにすぎないと思う。その循環の流れをつくっている人間が確実にいて、その循環はちょっと考えれば抜け出せるのだということに気づかないといつまでたっても浮き上がることはできないのだと思う。

ある本に、民という字は、目がつぶされていることを表しているということが書いてあった。

自分の目がしっかり開いてるかどうか、たまに確認をすることを怠らないようにしようと思う。

# 足知 #

iphoneやipadをみてて思うのだけど、appleのすごいのは、ほんとはなくてもいいものを、いつのまにかなくては困るものに変えてしまうということなのだな。

正直iphoneなんてなくても、仕事にも遊びのも大きな支障はきたさない、でもあるとより便利でより楽しくなるだけなのだ。どんな大義名分をつけても、なくても困らないものは、なくても困らない、それなのにないと困ると誰も疑わなくなるのだ。

これって、なににでも応用できるテクニックなのだと思う。

このテクニックをちゃんと使える人だけが、それに気づかない人達を魔法にかけて、思い通りに動かすことができるのだろうなと思う。

たまにそういうことを確認して、自分はそういうものにはまかれまいという想いを強くするのです。

思い通りになんてならないぞ。

自分は性格が悪いのだ。

ちなみに、このテクニックは探せば探すほどにあらゆる所に潜んでいる気がしてならない。

くわばらくわばら。

#

なにもそんな難しい事じゃないのだ。

もっと世界はシンプルでいいのだと思う。

でもシンプルな世界をシンプルに受け止めることができるようになるには、もっとしっかりと目を開けないといけないのだと思ってる。


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Title: ビオトープ
2012.03.06

虫や生き物の保護活動をする時に、まずどんな生き物を呼ぶか、そしてその生き物がどのような環境が好きか、暗いところが好きなのか、明るいところが好きなのか、草があったほうがいいのか、ないほうがいいのか、それぞれの習性を考えて、敵から隠れる場所、そして安全に産卵できる場所、そしてその生き物の餌までも自然にかつまる環境を整え、あとはそこに自然と生き物が集まって、食物連鎖を含めその環境の中で新たなつながりができてくる。

その自然と生き物があつまる環境をビオトープという。

つまり自分はそれを人間でやりたいのだと思う。


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Title: 総幸福量
2012.03.04

国や制度や社会や、もっといえば家族でも友達でも、そもそも自分以外の誰かに幸せにしてもらおうなんて考えはどこかで捨てた方がいいのだと思う。自分にとっていいことも悪いことも淡々と起きるのが現実で、自分が干渉することで変えられる現実なんてものはたかがしれている。その中で幸せかどうかというのは、あくまで超個人的な問題であり、物理的な状態を越えた上に幸せを乗せるしかないのだと思う。

まもなく震災から1年が経つ。ここにくるまでの復興や世論の流れをみていて、個人レベルでの絆であったり、人と人のつながりであったり、本当に人間というものの強さをみたような気がする、そしていつも自分に何ができるのだろうかということを考えさせられている。

しかしその反面、結局のところこれから数年の間に、復興に乗じて新たな、そしてとても大きな利権が作られる、そしてきっと国内の原発も何事もなかったように再稼働をすると思う。

そこにあるのは、避けようのない人間の根底に関わる問題であり、人類が生まれてこの方一度も変わったことのない事実なのだと思う。

国家という組織の中で生きている以上、国家レベルの幸せと、個人レベルの幸せというのは決して同じベクトルを向くことはないのだろうと思う。

ブータンの国民が本当に幸せかどうかはわからないけど、少なからず国家としては裕福でもないし、人々の暮らしも日本とは比べものにならなければ、日本で治るべき病気で簡単に人が死んでいくのが現状だ。

しかし総幸福量というやつはとても高いらしい。

いいねブータンなんて簡単にいってる人をみると、まずは自分がその水準で生活をしてみてから言えと思う。それでも幸せだというのがどれだけ至難なことか。

結局の所、今の自分の幸せは誰かによって保たれていて、普段そこに甘んじて生きているのに、それを簡単に棚に上げて、棚に上げてる自分に気づかないうちは本当に幸せになんてなれない、死ぬ間際になっても、なにかに怒り、不安におびえ、生活に追われ死んでくのだろう。

幸せとはいったいなんのか。

幸せを作るのは誰なのだ。

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Title: 13人の刺客
2012.02.27

13人の刺客をみて感じたこと。

時に正義はなんであるのか、義とは何なのかを考えさせられた。

13人の刺客は正義であったのか悪であったのか。残虐な悪行を尽くす斉韶を討つということは、はたして本当に万人の大願だったのか。

斉韶の最後の言葉「いままで生きていて今日ほど楽しかったことはない」この言葉は、彼の中にある淀み、そして言動行動のすべてに一貫性を持たせたと同時に、斉韶は狂人であり、自分とは違う悪しき人間なのかといえばそうじゃない、現代に於いて、斉韶はいくらでも生まれうるのだろうとも感じさせられた。

歪みや淀みには必ずしも理由がある。世の中の正義とは、目に見えるわかりやすい形の対立のうわっつらをさらうようなところにあるのだろう。歴史の中で繰り返されてきた、こうした戦いの中心にあった各々の義。

斉韶にも強い義があったと思う。そして斉韶を守り抜こうとした鬼頭半兵衛もしかり。

義とはつまり信念であり、動機付けである。

そこには本当は善悪も優劣もないのかもしれない。

それぞれの義が強ければ強いほどにそれは時にぶつかりあう。しかしそのぶつかりあいの中にこそ、「生きる」ということが凝縮されていたのかもしれない、侍はそのぶつかり合いの中にこそ、命を実感として掴み、その実感こそを灯火としていたのだろう。

そしてその中で、侍は命を落とすときに死ぬのではない、義を失ったときに死ぬのだということを体感として持っていたのだろう。

この映画を通して、生きると言うことは義を貫き、決してそれが側面的であろうと、人にどう見られようと、己の信念を貫いたときに本物になるのだということを見せられたような気がした。

現代を生きる自分にどれだけの義があるのだろうか。どれだけの信念をもっているのだろうか、義を、信念を持つ人間はそれを守る為に強くなるのかもしれない。

正しいことをするのではない、自分の信念をまっすぐに、どこまでも強く貫いたときに、それは必ず本物になるのだ。侍というのはそれを自分の生き様で証明し続けてきた人達なのだろうと思う。

いわば侍とは、そういう生き方の呼称でもあるのかもしれない。

この映画について語るだけで、しばらくは肴に困らなそうなほどに、自分の中に多くを残したと同時に、背中を押されたような作品だった。







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Title: 妄想。
2012.02.25

一杯飲んだ帰り道、夜風の中に春を感じたら、いてもたってもいられなくなって、千鳥足で歩いて帰る。

帰り道で、靖国神社の桜のことを考えて、今年こそは知覧にいくのだということを繰り返し自分に言い聞かせる。そんでできるなら静岡あたりから寝台列車にのって湯布院あたりでのんべんだらりとして、おいしいものでもつついて、焼酎をのんで、切り子の工房なんかに立ち寄ってお気に入りのグラスをさがせたら幸せだ。

なんてことを夢想しながら気分は最高潮に達するわけで。

そんで妄想は春を通り越して、夏にいく島のことにまで及ぶのです。

今年はまた式根島にいく。前回泊まれなかった民宿「げんべい」に泊まるのだ。そんで一週間くらいぼけぼけと過ごすのだ。一日ビールをあびるように飲んで、泳いで、温泉はいって、今年はできれば釣りもしたい。

暖かくなるとともにいろんな部分がほぐれて、フットワークも軽くなり、多少の嫌なことも受け流せるし、だんだんと無敵になっていくわけで。

お彼岸までもう少し、日も延びてきたし確実に匂いも春になってきたし、嬉しいなぁ。

楽しいことを考えながら夜道をあるくという至福。


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Title: 楔。
2012.02.25

世界は自分の見方次第でキラキラもするし、鬱々ともする。

世界がどこにあるかっていつだって自分の手の中にあるってなもんで、世界は自分次第でどこまでも開放的にも、どこまでも閉塞的にもなる。

1つの言葉に体感が伴ったり、自分の中のスタンダードが音を立てて崩れる瞬間をどれだけ感じられるかということが、成長をするということなんだろうと思う。冷や水を浴びせられるような、骨がどくどくして、脳がぐらりとするような体感や経験をもっとしたい。

自分のスタンダードができあがってくると、意識してないと頭も体も心も同じ所しかつかわなくなってしまうし、そうなっている自分にすら気づかなくなってしまう。

突拍子もない頭や体や心の使い方をしていかなきゃなのはわかっているのだけど、人間というのはよくできたもので、日常というペースができてくるとその中でいかに効率よく、いかに負担を少なく日々を過ごすかということを無意識にでも調整してくるのだ。

頭も体も心も、心地よい筋肉痛を疲労を味わうには、意識していつだって日常に楔を打ち込むことなんだろうな。

まえにまえに。



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Title: インフル。
2012.02.17

インフルエンザになって、久しぶりに明けない夜を味わった。

夜ってのはこんなに長かったのか。

ここにくるまで、体調管理に細心の注意を払い、仕事に1つも穴明けることなく来ていたのに、この一瞬の気の緩みにつけ込まれたのだ。まあ休めってことだね、はははん。ということで久しぶりに完全隔離されて部屋に引きこもり、ひたすらにゲーム、本、ご飯、ゲーム、本、パソコン、本、ゲーム。この繰り返し。

リビングにでることすら許されないバイキンマンは、寝室のドアのスキマからそっと差し出されるにゅうめんをひたすらにすするのです。まるで独居房。

特にやることがないから暇さえあれば妄想と空想に耽るわけなのだけど、こういう時におもいつくことって、どうして過去に失敗したこととか、ああしておけばよかったとか、やり直したいな、くそう、みたいなことばかりなのだろうか。

次に同じ場面なんか絶対にこないのに、自分の中で何度もその場面をやり直す。夜な夜なそんな自虐的な妄想シュミレーションループ。心技体とはよく言ったもので、体が弱れば心もネガティブになり、そんな状態で最高のパフォーマンスを出せるはずがないのだな。この連鎖を身をもって実感。

インフル発症前に愛機のバイオが修理に行ってストレスを感じてたのも免疫力低下に関わりあるって絶対。

さて。

始動始動。




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Title: 追記。
2012.02.16

質の高いコミュニティについて、布団の中にはいっていたら言いたいことが少しまとまってきた。

例えばだけど、お朝事(毎朝あがる朝のお勤め)の時に毎日できたてのパンが境内で焼き上がるという計画を立てるとする。それは別にお朝事に出た人が食べれるとかどうこうとかいうわけでなく、ただ単純にパンだけで勝負できるくらいのものを提供して、パンから派生してコミュニティを作っていこうという狙いがあるとする。例えばだけどね。

その時に、じゃあそれを実行に移して、客単価をいくらにして、毎朝いくつ売れば、月にどのくらいで元が取れるのだろうか、土地の賃借料は法人から借りる形にする場合は、別法人を立ち上げなければならない、無論その会社を維持するだけでもランニングコストはかかる。

また人件費や経費、工事費用だけでなく、それを役員会で承認させる為には、それなりのプレゼンが必要になるし、お寺から費用を動かす場合であればそれなりの手続きが必要になるし、どういうリスクや問題点があるのかも考えなければならない。細かいこと言えば、お寺にいなきゃわからない部分でも考えねばならないことはたくさんある。通夜葬儀がかぶってる場合でも問題ない場所が確保できるかとかと

ざっとだけど、そういう諸々の条件をクリアして、何ヶ月で機動に乗せて、その効果はどれくらいあるのか、リスクは許容範囲に収まるのか、収支はどうなるのか、ということをしっかりとビジョンとしてして立てて、中期長期的にその目標をクリアしていく。

その責任をなによりも、寺の人間が自分の肩に背負うということが大事だということが言いたいのだ。

いままでお寺発信で行われるイベントや、社会への開かれ方というのは、ノーリスクに近く高リターンを狙っているものが多いような気がする。たぶん、お寺という付加価値をつけていれば、それなりに評価されるからそこに甘んじてしまうのではないだろうか。

それとさっき考えて思ったのだけど、たぶん自分はお寺という媒体を社会の為とか、開かれた視点でというのが第一なのではなくて、今後永代に渡って自分の寺が生き残れるための要因や種を自分の代にいかに蒔けるかということが最重要であり、なによりも自防の繁栄が一番だと考えている節がある。

でも、それが結果として誰かの為になるのだという大義名分のもとに動くからこそ、多少のリスクと勝負をしなければいけないのだろうと思うのかもしれない。

リスクなき繁栄はない。ただリスクは自分の努力次第で限りなく0にできるということを学ぶのが今だということがいいたかったのだ。

すっきり。







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Title: 質の高いコミュニティについて。
2012.02.16

自分への備忘と戒めの為にざっくばらんにまとめておこうと思う。

このご時世、あらゆるどん詰まりの風潮の中で、「絆」という言葉が合い言葉のようにあれだけ広まることを見ていても、みんな潜在的に人との関わりやつながりに飢えているし、求めていることがもう飽和しているような時代にはいってきたと思う。

フェイスブックがこれだけ広まり、あらゆるSNSで毎日イイネ!をつけて、コメントを書き合う、画面の上でのそのつながりでさえも、安心につながる時代なのだ。自殺者が年間3万人を越えると言うこともそうなのだ。3万人が自殺できてしまうこの世の中に蔓延しているのはきっと孤独と寂しさのような類であるし、なによりもそれを止める人間と、死にたいことに気づく人間、ガス抜きさせてあげられる人間が必要なのだと思う。

時代は回ると言うが、「家の時代」、「家」という縛りは絶対的な力があって、その中では「個」は「家」の下にあった、そういう時代の中では、今よりも個の自由度はきわめて低かったが、その分危機的状況に陥る確立もきわめて低かったのだろうと思う。なんだかんだ色々なしがらみがうっとおしく、どろどろとした暗部を抱えながらも、それなりに守られながら「家」というコミュニティの中で庇護されてきたのだ。

そして時代は高度経済成長に入り「家」から「個」になってきた、息子が親父を平気で軽々追い抜いて行く時代の中で、家の縛りを越えて「個」はどこまでも自由になった。そして自由と引き替えに、守るべき後ろ盾も失ったのだ。どちらがいいかはわからない、でも昔から思うのだけど、みんな「自由」という響きには無条件で憧れ、無条件で目指そうとするけど、自由ほど怖いものはないし、自由ほど実力がなきゃ生き残れないものはないということを見落としがちなのだ。

今の時代は、なんだかんだと数十年前にくらべて、家や出身にとらわれず、だれでも学校にいけるし、言い方は極端かもしれないけど、平民であっても官僚になれる時代だ。その自由の暗部がそのまま今の時代の暗部であり問題なんだろうと思う。

ここにきてそれも変わろうとしていると思う。

勝ち組や負け組なんて言葉があるが、これは何を指すかとよくよく考えたときに、はじめ、これは収入や仕事のことばかりが先行しているように感じたのだけど、最近はちょっと見方が変わって、ようは収入や仕事が安定すると、より質のたかいコミュニティがそこに付随してくるのだ。

それがあるかないかということが、勝ち組やリア充という言葉の根底には流れているような気がする。人とのつながりをみんな潜在的に欲していて、その価値が今高まってきているのではないかと、はっきりいって最近そう思い込んでいる。

人間は他者との関わり中で、許容されて、認められて、否定されてはじめて自分の存在を認知できる生き物なのだと思ってる、反応されないということが一番堪えるのだ。ぶつかりあうことを避ける風潮が最近蔓延しているけど、ぶつかり合わなくなるからこそなにか大事なものを失ってしまうのだとすら思ってる。

そう考えたときに、自分は道を歩いてすれ違ったやつがなにを言ってても反応しないだろうし、そもそも何かんがえてるかわからない。そもそも毎日顔合わせて、気を抜いて会話してなきゃそんな関係を築けるはずがないと思う。

だからまずはそういう場が必要なのだろうと思う。

でも、それはなにか「お話しましょう会」とか「悩みを話そう会」のような類ではなくて、「歎異抄の会」とかそういうポイントにしぼったものであっては駄目なのだろうと思う。もっといえば「ヨガ」とか「写経会」「フリーマーケット」のようなイベント的なソフトのような、気の合う人だけ、興味ある人だけがあつまる、SNSのコミュニティ的なつながりだけでは不十分で、

もっと社会的、一般的にサービスとして価値があり、またそこに入るのにハードルはきわめて低く、出入りの自由があり、それでいて、そこにいくことにある付加価値が、一見してコミュニケーションの価値を二の次にするような絶妙な位置づけを醸し出せるようなコミュニティがあればおもしろいと思ってる。

伝わりにくいかもしれないが、それは例えば駄菓子屋的なコミュニティであり、シェアハウスのようなコミュニティでもいいし、カフェ的なコミュニティでもいいのだけど、それならどこにでもある発想なのだけど、ここで大事なのは、それを1つのサービスとして0から100まで独立採算をとって運営できるぐらいの、もしくは赤字をださない中で運営し、決定的な継続性をもたせることなのだと思う。

継続性という点ではお寺というハードにはそうとうなアドバンテージがあるので、それを活用するのはありだけど、決してぶら下がったものではなく、両立させて平行線をたどれる立ち位置でないとだめなんだろうと思う。

そしてなによりも大事なのが、画竜点睛とはよくいうもので、目が入らなければ質の高いコミュニティは完成しないのだと思う。

簡単に言えば、それはつまりはすべて更地から建物を建てて、駄菓子やであれば、店に座り、シェアハウスなら自分がそこに住み、カフェであるならばそこにいつでもいるくらいの覚悟があるかということで、もっといえば自分自身がソフトになった時に大概の問題を自分で解決できるだけの力をもっているかどうかということで、

つまりは自分が龍の目になれるかどうかであり、それは言い換えれば、企画をした人間がそれをライフワークとして生きて、そこで死ねる覚悟を持てるかどうかと言い換えてもいいかもしれない。

そして、力というのは、資金力や、人間関係を円滑にするための技術だけでなく、社会的に最低限必要な知識と、経験まで含めてだと思う。

いざというときになって土地の売買もできなければ、仕入れもできない、利益をだすこともできない、決算の見方もわからなければ、人の使い方もわからないようじゃ、空中分解して終わりだ。それに一度失敗した企画をまた0から持ち直させるような経験もしておくべきだと思う。

そうじゃないと話にならない。

あと資金面に関して言えば、こう書くと誤解されそうだけど、40、50になっても自分の権限で4桁のお金を自由に動かせないような実力ではとても難しいのだと思う。それはお金だけの問題ではなくて、口だけでなく本当になにかを実行しようと思ったら、人生折り返す前に、4桁くらいのお金を自由に動かせるようになるのに要なくらいの信頼や地位を自分で確立できなきゃ、大きなことなんてできるはずない。

そして自分が僧侶という立場として、こういうことがしたいということを打ち出したときに、二つ返事で周りを納得させられるだけの僧侶としての説得力も。

以上のことを身につけなければ本当の意味で質の高いコミュニティはつくれないと思う。なんとなくお遊びならできるかもしれないけど、継続性の高い何十年も独立採算のとれる形のコミュニティはつくれないと思う。

民間にはない、お寺というアドバンテージがあるのだから、そのアドバンテージを生かしつつ、もういっぽ踏み込んだお寺つくりをしていきたいと思う今日この頃、この30代には、そういうものをつくる為に必要な経験と知識を身につけて、とにかくレベルアップしておくのだということを忘れないために、少々でかいことを書き残しておく。

これを数十年後に読んで恥ずかしい思いをするか、想像の上をいくかは自分次第。




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Title: 1195-1
2012.01.17

朝から、せっせと蓮鉢に砂と水をいれて、新しいメダカの住処をつくるのです。なんせ水が冷たくて、手の感覚もなくなるってなもんです。昨年から、試行錯誤してあの手この手を試しているのに、どうしてもメダカの繁殖だけがうまくいかないのです。

命が育まれるということには、本当に小さな要素がたくさん作用していて、なにか1つのバランスが悪くてもそのサイクルは鈍るのだな。

どうしたもんだろか。くそう。

そんなこの大寒。

たまには仕事の話。

思惑の違いによって、しばらく思うように進まなかった大きな仕事がここにきて急展開して動き出す。大きな仕事にはたくさんの人が関わる、たくさんの人が関わると、そこにはたくさんの打算と思惑が交錯する。

それを、時にじっくりと話し合い、時に時間をかけて、時になにもなかったようにやりすごして、少しづつ紐といていって、飛び上がり、そしてちゃんと着地させるところまで持っていくという作業はけっこう好きだったりする。

ただいつも思うのだけど、基本小心者なので、大きな金額を自分の判断1つで動かすという時のこわさみたいなものは、何度経験してもぬぐい去れない。

これが怖くなくなるときはあるのだろうか。

それと、こういうときに、税務署やお役所の対応の悪さや、たらい回し感にはいつも憤りを感じる。

少子化対策だ、待機児童を減らせ、保育所をふやせと、いってるくせに、こちらがいざ新しいことに挑戦しようとしたり、前例のないことをやろうとすると、どうしてこんなに動きをにぶらされるのだろうか。決定権のない現場レベルの担当者をたらい回しにされて、煙に巻かれたような対応にはもううんざりだ。

この状況でどうやってそのシステムをつくるのだ。

私立の幼稚園が私利私欲のために新しいプロジェクトを立ち上げたのならいいけど、待機児童解消や、共働きの家庭のサポートをメインに考えているのに、どうしてこうも決まった形でしか対応ができないのだ。

個人的に民間に共同事業としてサポートを頼むほうがいい気がする。

でもそうなるとまた思惑や算段が交錯するのももうめんどいし・・・とか考えて、最終的にいつも現場は身銭をきって、血を流してやるしかないのだ。

これは持論なのだけど。

30代になって、最低限の仕事のスキルは必要だけど、なによりも大事なのは、話す力と聞く力、そして人と繋がる力だと思う。どんな仕事でも、どんなプロジェクトでも、最後は人と人なのだ。

だからこそ人と人の間にはいる力はなによりも重要なのだと思う。話すこと、聞くこと、伝えること、誰でも簡単にできると思われがちだけど決してそうじゃないと思う。

この力はなによりも重要であり武器になりうるものなのだと思う。

人と人だからこそ、そこにはノリシロもあるし、幅もあるし、その余裕がよりよいサービスやアイディアを生み出すのじゃないか。その流れやその熱をもっともっとあげていけば、世の中はもっと楽しく、そしてよりよいサービスが充実するのに。

いいよいいよ。

こうなったら自力でやって結果出してやるから。

ふんだ。






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Title: 備忘。
2012.01.11

人生於いて、年齢なんて記号みたいなもので、同じフェーズの人間なんて存在しなない。だからこそ、1つの行動や発言は、賞賛にも批判にも値するし、年寄りと若者はわかりあえないのだ。

方便を使うと言うことは、お互いのフェーズをよくよく知り、よく見るだけの観察力が必要だし、僧侶というのは、そういう能力と思考法を身につけなければいけないのかもしれない。

なんてふと。

誤解がないように。年長者を敬わないということではない。わかり合うとため必要なのは、まずお互いの立ち位置がはっきりと違うのだという認識をしっかりと持つところから始まるということがいいたいのです。

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Title: とんちのひ。
2012.01.09


32才になった今日。何をしていたかというと。

スコップとガイガーカウンターを片手に、園庭の数値をはかっては、数値の高めなところの土を掘り返していたのです。挙げ句の果てに、砂場の砂をすべて入れ替えることになったので、職員総出スコップで砂場の砂をとにかく掘り出しては、砂袋に詰め、掘っては砂袋に詰めてを繰り返していたのです。

しかしまぁ、いまだ肋骨も完治せず、正月の呆けの身体にはちときついのです。

しかも、砂場って、掘っても掘っても底が見えなくて、掻き出しても掻き出しても、終わりが見える気がしないのです。そういう作業はそうとうメンタルに来るのですよ。終わりのない重労働。

なんの因果で生誕の日に砂まみれになって、こんなことをしなければならないのだと、ぶつぶついいながら、心の中でなんども安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」を唱えながらひたすらにスコップを振っていたのです。

んで、数時間かけてなんとかやりとげましたとさ。

なんて、なんの落ちもないこの誕生日。

そんでもって。

ひたすらに穴を掘り、ひたすらに終わりの見えない作業をしていたら、ふと、自分がここ数年ですこし上手になったことの1つに「やりすごす技術」があるな、なんてことを思ったのです。

なんか若いときは、勢いやノリでなにかを押し切ったり、短期集中でなにかを片付けたがるし、すぐに結果を求めたがる傾向が強かった自分が、最近は長いスパンで物事を考えられるようになったり、抱えている仕事が「育む」という分野に属するすぐに結果のでないものばかりで、焦ってもしょうがないという状況の中で過ごしてきて、

例えば、1つのプロジェクトや計画、もっといえば、思い描いているものを実現させようとするときに、自分のモチベーションの波が最高潮になってそこでつっぱしって、でもなかなかうまくいかったり、障害にぶつかりながら、数ヶ月、もしくは1,2年もしたら、初心にあったモチベーションもさがって、つまりは飽きちゃって、これは自分の本当にやりたいことじゃなかったとか、こんなことに意味はあるのだろうか、なんてもっともらしい理由と言い訳をつけては投げだそうとしたり、周りの人を振り回してきたのだけど。

きっと、そんな程度自分にできることなんてたかがしれているのだ。

本当に思い描いているものを実現させようとしたり、組織の中で働いたりするときには、どんな形であれ、「続けていく」ということがなによりも大事なのだと思う。

でも心の温度を一定に保ちながら、何かを続けていくということは至難の業で、むしろムリなのだと思う。

にんげんだもの。

モチベーションなんていつも沸騰寸前にしておくなんてこたできない。

でもそのテンションのさがった自分を、いかにやりすごして、また自分でぽこぽこと温度をあげていけるかどうかということが、何かを続けていくこと、そして思い描いているものを実現させるときにはなによりも大事なのだと思う。

それは初心忘れずということでもあるのだけど、初心なんて簡単に忘れちゃうのが既存設定なのだよ。

だって。

にんげんだもの。

なんか。

ここ数年農業、とはいっても幼稚園の庭レベルのものだけど、野菜を作ったり、稲作をやってみると、「続けていく」ということから学ぶことは本当に多いと思うのです。

「続ける」とは一言で言うものの、「続ける」っていうことのなかには、きっと「手を抜く」も、「やり過ごす」も、「自家発電」も、「許す」も、「あまえる」も「よりかかる」も。そういう類のものがたくさん含まれているのだ。そこに含まれたものの一つ一つを上手にして、磨いていくことが何かを「続ける」ということに繋がってくるし、「続ける」ことが上手になれば、きっと思い描いているものをもっと明確に自分のものにしていくことができるのではないかと思う。

そう信じてる。

そんで、帰りは首都高をぶっとばしながら、モンパチのスコールをひたすらに聴ききながら帰りましたとさ。

ちゃんちゃん。

そんなとんちの日。

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Title: 感情の墓場。
2012.01.07

32才になる。

サイトをリニューアルして丸一年。

誕生日を迎える前には、かならず1年分の日記をすべて読み直すのだけど、昨年30才の最後に自分は、

論語の中には「三十にして立つ」という言葉があるけど、自分はまだ一人で立ってるかというと全然そうじゃなくて、わがまま三昧なのに、自分を自分でいさせてもらえてるのは周りの人たちの理解とか、温かい目があるからだと思う。でも誤解を恐れずに言うなら、ここから先に進むのにその温かさや理解を維持しようとすることでいっぱいいっぱいになったり、失うのが怖くなったりしないようにしなきゃと思う。それじゃ本末転倒だから。

と書いたようだ。

そんなことを思い出しながら1年を振り返ると、たしかに失うことに対する恐怖というのがだいぶ薄れたように思う。こうみえて、自分は結構手の中にあるものに執着をしてしまうほうなのだけど、年々その執着もなくなってきたように思う。

それがなんでか考えてみると、いい意味で自信がついてきたからなのだろうと思う。

自信といっても、自分はできるんだとか、自分はすごいのだとかそういう類のものではなくて、この1年は、ほんとにいろいろな場所で場数を踏ませてもらえて、自分の実力には過分な仕事を任せてもらえて、正直いえば、求められてるものを100%だせたかといえば、反省点ばかりでむしろ今の自分の実力不足を痛感して、自分の実力がどの程度のものか思い知らされたのだけど。

でもだからこそ課題がみえたり、自分の武器がわかったり、進みたい方向や、やりたいことが明確になってきて、今やるべきことが具体的になってきて、今やるべきことが具体的になればなるほど迷うことが少なくなったような気がするのだ。

なんか遠くに遠くに合わせようとして、手元のピントがあっていなかったのが、ぐぐっと手元にピントがあってきたような感じだ。

なんでもそうだと思うのだけど、持論を持って初めて見えてくることというのがあるのだと思う。正しいか正しくないかは別として、自分の中でああでもない、こうでもない、これもいいし、あれもいい、なんてことをこねくり回したあげくに、自分はこれでいく。という持論を持つということが大事で、その持論ができたら、あとは腹括ってそれを研ぎ澄まして、ぶつけあって、たたきあって、昇華させていく作業にシフトしていくのだろうと思う。そこではじめていろんなことが極まってくるのかもしれないと思う。

そういう意味で、この1年で僧侶としても、保育に関わる人間としても、自分の中にある持論もぐぐっと形になってきた気がするし、それを武器として誰かとぶつけ合ったり、腰にぶら下げて歩けるくらいにはなってきたのだと思う。

これからはその持論をもっと研ぎ澄ませるためには、何が何が必要で何が必要じゃないかというところで取捨択一をすればいいのだ。きっとそういう意味で、あっちもこっちもかじってみたりして、オーバーフローするようなことはもうないと思うし、失うことの恐怖も昔ほどなくなった。

自分は今から宇宙飛行士になれないこともわかってるし、世界変えられるとも思ってない。でも自分の武器をもっともっと研ぎすましていけば、今よりも確実に、守れる範囲も、支えられる人も増やしていけると思っている。

その結果なにになるかはわからないけど。

でもどうなるかとかどうなりたいかというのは、おぼろげなくらいでいいのだ、今やるべきことにピントがあっていれば、結果としてなりたい自分になれるのだと信じてる。

んで。これから先に注意すべきは、自分の方法論や、習慣が慢性化して、知らず知らずのうちに、同じアングルでしか物事を捉えられないようになって、それを持論だなんて振りかざさないようにしなきゃいけないし、むしろ、自分が自信をもって振りかざした持論を粉々にぶっこわされるような瞬間にわくわくして、どきどきするような感覚は忘れては駄目なんだろうと思う。

まえにまえに。

もっともっとまえに。

さて32才。

どんなことがあって、どんな想いをして、どんな1年になるのだろうか。

むふ。

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Title: 月遠。
2012.01.02

新年が明けて。

なんだかんだとのんびりしている。

読みたい本も読んで、年始の挨拶に来る人達と話をしては合間合間にだらだらとビールを飲む。

なんか通常業務からの切り替えがうまくできないうちは、なにかこの時間の流れに慣れなかったのだけど、身体もこの時間にうまいこと順応してきた。

なんかいろんなものがほぐれきって、いろんな部分で余裕がでてくると、改めて昨年の自分がいかにガチガチと生きていたかと思う。今思えば、楽しいことやおもしろいことを想像してにんまりする機会も少なかったような気がする。なんか年末にかけてはすごい性格悪かったようにすら思う。

今年は、すこしゆるく、頭でもちゃもちゃ考えなくて済むような生き方をしようと思う。

なんか年末に紅白を見ている時にふと、今年の目標は、「ベタに生きる」ということにしようと思ったのだ。

ベタに生きるというのは、ああでもないこうでもないと考えてすぐに穿った見方をせずに、悲しい時に悲しんで、嬉しいときに喜んで、腹の立つときに怒り、それなりに周りに気を遣いつつ、一日を大事にして、熱いものに熱くなりながら。

いろんな意図や角度や、思惑や自分の想像できない裏の裏まで想像しながら生きててもしょうがない。目の前にあることにいちいち感情揺さぶられながら、その度に、目の前の瞬間の為だけに全力を出せるように生きていけたら理想的だと思う。

結局自分らしさなんていうものはそういう所にしかないのだ。

こういう自分になりたいとか、ああいう自分になろうとか、思ってがんばったところで、自分の色なんてものは、力まずにいられるところでしかでてこないのだろうと思う。

自分の色じゃない色を褒められたって、ちぐはぐな想いをするだけだもんね。

なんか同じ所を行ったり来たり、ぐるぐるぐると何周も何周もしている気がするな。

でも最近は同じ所を何周も何周もして、そこに轍ができてくるような生き方でもいいじゃないかと思う。



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Title: 後生の一大事
2011.12.29

今年がどんな一年だったかを振り返る。

親鸞聖人750回御遠忌に法然上人800回御遠忌の節目の年である今年に震災があった。

この1年間を振り返り、震災の日から、現在も進行形で放射能の対応などに追われていたり、自分の中では今日に至るまで本当に震災一色だった。

いつも頭の中にどこか震災のことがべっとりとまとわりついているようで、漠然とした焦燥感があったり、自分のしたいことと、できることと、やらなければならないことの狭間でもどかしい想いを引きずりながらここまできたように思う。

その中で様々な形で足を動かす友人をみたり、様々な形で活動する僧侶仲間をみていて、自分にはなにができるのだろうか、自分はなにをしなければいけないのだろうか、そして自分はどうありたいのか、そんなことばかり考えていたように思う。

そこで右往左往して悩んでみても、結局の所、自分にできるのは、物理的な支援をすると同時に、今手の中にあるものの精度をもっともっと高めていくことだと思ったのだ。

ばたばたと付け焼き刃でなんでもかんでも手を広げるのではなく、自分の武器をもっともっと研ぎ澄まして、それで誰かの何かになれればいいと思う。

自分のお寺のお檀家の人たちとの会話ももっともっと丁寧に、子どもたちと関わる1日1日をもっともっと丁寧に。家族や仕事でかかわる人達や友達とすごす時間をもっともっと丁寧に。

目の前に起きていることがどんなことであろうととりあえず、もっともっと丁寧にこなしていけたらと思う。

1日1日の重みを質感として感じられるように時間を過ごそうと思う。体感として今日と同じ日はないのだと思えるように過ごそうと思う。

後生の一大事を心にかけて。

んで。

毎年同じことを言っているのだけど。

来年をどんな年にしたいかといえば。

がんばらず、かかえこまずに、せのびせず。

今を大切に。

是に尽きる。

今年もありがとう。そして来年もよろしくどうぞ。







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Title: 遺書。
2011.12.23

こないだ遺書を書いたのだけど。

とはいっても死ぬきもなけりゃ、何か重い病なわけでもない。ただ肋骨が折れてるだけで。

この間若手僧侶が集まる会で、僧侶が集まって改めて真剣に遺書を書いてみようという試みがあったのだ。普段から死に触れて、人前で法話なんかしてる人たちがいざ自分の死に向き合いましょうってな意味で。

んで感じたこと。

多くの人が、遺された人たちに、ありがとうとか、ごめんなさいとか、そういう言葉を綴ったというのを聞いて。

自分の遺書にはありがとうも、ごめんさないも1つもでてこなかった。

それに正直言うと明確に誰かの顔を思い浮かべることもできなかった。

結局自分が書いたことをかいつまんでしまうと。

世の中は思い通りに行かないことが既存設定です、そう思ってるとちょっと楽になれるかもしれないです。

まあお先にいってますので、またいつかお茶でものみましょう。んじゃ。

ってな感じのことなのだ。

キレイにまとめすぎとか言われれば、そうなのかもしれないのだけど。

実はなんか感情移入しすぎて、言いたいことや想いがあふれすぎて、むしろ考えすぎちゃって、自分の一生や想いを、文章にまとめることなんて不可能だと思って、なにがいいたいかと思ったら、なんかお別れみたいなのは嫌だし寂しいから、この世もあの世もたいして遠くないよってなことがいいたかったのだ。残された人がそう感じてくれたらいいなと思ったのだ。

あの世とこの世の垣根を少しでも下げたかったのだ。

それと、自分が明確に誰かの顔を想定して言葉を残して、死んでなお自分の言葉や、想いで誰かや何かにバイアスをかけて、可能性を狭めるようなことが嫌だったのだ。

こうして生きてくれとか、自分が死んだらこうしてくれとか、寺はこうして、幼稚園はこうしてとか、あいつにこれを渡してくれとか。HDDのこのフォルダは開けないで黙って削除してくれとか。そういう残したい言葉や想いはたくさんあるのだけど、残したところで、残された人が思い通りにできることもできないこともあるから、まあそこはなるように、残された人がなんやかんやと理由を付けて、きっとあの人はこう思ってるよとか、こういう人だったからきっと喜んでるよとか、勝手なことをいいながら満足いくようにしてくれればいいやと思ったのだ。

秘蔵のコレクションが削除されずに形見分けだとかいいながらみんなが持ち帰ってもそれでいい。

むしろそれが嬉しいし、あの世から見えるかどうかはわかんないけど、もし見えるなら、自分の残した言葉や思い通りにみんなが動いているのを見るよりも、みんな思い思いに勝手なことを言ってるのを見る方がおもしろいなと思ったのだ。

それぞれ残された人達が勝手な想いで、満足して自分を思い出してくれるならそれでいい。そんであのやろう勝手なこといって都合いいこといいやがって、うらめしやなんて、いいながら、あの世でお茶でもすするのだ。

そもそも自分がいなくなったところで、世界はなにもかわならないし、いないならいないなりに日常は回っていくのだ。

なにか残したところで、いないやつの想いや願いなんてものはいづれ風化していくのだ。

なんかお寺にいて一番思うのは、これなのだ。

自分はいてもいなくても間違いなく明日から日常は、その人がいないなりに回っていくのだ。

ばたばたするのなんていいとこ数ヶ月だ。それになにかを残そうったってそんなもんは無理だ。

なぜなら3代前の先祖の残した言葉なんて自分は1つも知らないのだから、それがなによりの証拠だろう。

それが現実なのだ。

でもそれは寂しいことではなくて最高に幸せなことなのだと思う。

だからこそ、その現実こそが今を大事にするべきなによりの理由になるし、その現実があるからこそ、この瞬間が二度とないものであると思えるし、それが人生に彩りをくれるのではないかと思う。

今回こういう形で遺書を書いてみて。

なんかいろんなことを再確認できた気がした。

なむ。










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Title: 落ち葉焚き。
2011.12.23

少しづつ今年を振り返り始める。

今年は大学を卒業して10年目の年。

社会に出て10年。

いまじっくり振り返ってみると、この10年いろんなことがあって、自分を取り巻く環境も刻一刻と変わってきたし、自分のフェーズもどんどん変わってきた。

社会にでたばかりの頃は、自分はまだまだできる、もっともっと力も権力もほしいと思っていたし、1mmでも背伸びをして大きく見せたかったし、肩書きもほしかったし、社会に自分を認めさせてやるという気概だけはあふれていたと思う。その中で、悪態つきながら、文句ばかりいいながら、自分ならもっとこうできるのになんてクダを巻ながら一杯のむことが多かった。

それから、少しづついろんな意味でたたきのめされて、折れそうになったり、落ち込んだり、時には全部投げ出して逃げ出したり、心にもないことを口走って誰かを傷つけたり、しかもそんな自分を正当化して、自分だってがんばってんだからいいじゃんかぐらいにしか思っていなかった。

今思うに、その頃は、すぐに目に見える結果ばかりを求めていて、大事な部分(例えば会話とか、人間関係とか、人の気持ちとか)をおろそかにして、数字や評価ばかりに気をとられて、結果として空回りしていたのだろうと思う。

それから、任される仕事の責任も大きくなってくる中で、自分の判断のミスや、プライドとか、頭を下げられないばっかりに、自分以外の人たちにたくさん迷惑がかかるということも身をもって体験して、改めて責任って言葉の意味がよくわかった。簡単に責任って言葉を使うけど、責任ってものに含まれるものは、本当に広くて重い。

なんかそんなこんなで、右往左往して、この10年を過ごしてきたのだけど。

正直言うと、自分の中にある想いとか気持ちとかはこの10年で全然変わっていない。

今でも結果をだせないやつは消えていくだけだと思ってるし、力がないのだろうと思ってる。それを運が悪いだの、しょうがないだのと言い訳をしたくないし、そういうところにいたら、自分も朱に交わりそうだから嫌だと思ってる。

お寺関係や幼稚園関係はぬるいところがある。そのぬるさの大切さとか、そこにしかないものがあるのもわかるけど、まだまだそこに甘んじないでおこうと思ってる。

表面上だけみんな仲良く手を繋いでいきましょうとかあまり好きではないし、仕事も口だけでなにもしない人とは一緒にしたくないし、今でもいつだって自分の方がまだまだできるとか思うことたくさんある。

まぁまぁいいじゃんそんなに熱くならなくてとかいいたくもない。目の前に楽しいことがあるのに、腕組んでふふ~んとかいうの嫌だし、目の前に許せないことがあれば、まぁまぁとか言って受け流すのも嫌だ。

でもそんな性格の悪い自分がこの10年で身につけたことは。

すごいやつはすごいのだ。嫌な奴でも自分よりもできる奴はできるのだ、だからあいつはわかんなくていいとか、無駄に頭を下げないぜとかそんなちんけなプライドは捨てようと思ったこと。そういう悔しい思いをしなけりゃ成長できないってことと、人生において階段を上りたいのなら、どんな思いをしてでも、どんな小さなことでも結果をだすということが大事で、小さな結果が目の前に次のステップをつくりだすことだと思う。

嫌な奴をまともにぶん殴るのではなくて、得るものは存分に得て、使えるものは存分に使って自分の糧にしればいい。くっそう。とか思ったり、たまに愚痴ったりしながらも、それでもちゃんと階段を上ろうと思い続けることが大事なんだと思う。

なんで階段を上るのかといえば、もっといろんなものを見たいし、感じたいし、楽しいことをしたいからなのだけど、ホントは理由なんて考えるのは二の次でいい。ちゃんと登っていれば絶対自分の好きなことが好きなようにできるようになると信じてる。

最近よくいうのだけど、踊る大捜査線で例えるなら、昔は青島に憧れてて、「どうして現場に血が流れるんだ!」とか「事件は会議室で起きてるんじゃない!」とかいいたいぜとか思ってたのだけど、やっぱ室井さんの信念がなければなにも変えられないのだ。

だから途中で倒れてかっこよい死に様で消えていくのも悪くはないのだけど、今は、できればいろんなものにしがみつきながらでも、悔しい思いをしながらでも、かっこわるくとも、結果をだして死にたいと思ってる。

ただ大事なのは、結果を出すために大切なのはなにかを問い詰めていくことで、案外結果にはいろんな縁が作用しているから、自分が直接結果に結びつくと思ってるものだけを大切にしてても駄目だと言うことで、早い話が、結果を出すためには、自分の目の前に落ちてきたことを軽く受け流したりせずに、丁寧にこなしていくことの積み重ねだということじゃなかろうかってこと。

世の中結果じゃないよっていうけど。

世の中は結果じゃないという人はそれをお守りに、自分を甘やかしてるだけだと思う。本当をいうと世の中は結果じゃない。でもそれは自分で宣言することでも誰かに言われて慰められるような使い方をする言葉じゃない。

結果というのは、他人からの承認であり、他人からの承認というのは、共感でもある。

他人から共感を得て、自分を承認してもらえるだけの自分をつくろうという想いを忘れたら、成長なんてできないと思う。どんな嫌な奴でも、絶対にこいつを認めさせてやると思えなきゃおちぶれていくだけだと思ってる。

おちぶれてすまんっていいながらも貧保耐三だって誇りだけは失わなかったのだ。

へけけ。

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Title: ギルド。
2011.12.19

実は、というほどのことでもないのだけど。スープがすごい好きなのだ。昔から。

特にコーンスープ。

たぶん理由なんて考える必要はないのだろうけど。

最近子どもたちと絵本を読んでいると、絵本の中にはよくスープがでてくる。この時期に選ぶ絵本にはよくでてくる湯気の立ち昇る温かいスープをみるたびにああ・・・おいしそう・・・と思うのだ。

うちは昔から絵本がたくさんあったし、本ばかり読んでいるような子どもだったので、知らず知らずに絵本の中から受けた影響というのは大きいのかもしれないなんてふと思ったのです。

きっとスープの味が好きだというよりは、寒い日にのむスープというシチュエーションが好きなのだ。

なんか子どもたちをよくよく観察したり、自分の子どもとの関わり方をよくみるに、自分の好きなものや安心するものが子どもの時からの延長であるのかもしれないということを思わされる今日この頃。

いつか時間ができたときに読もうと思っていた、秋葉原通り魔事件の関係の本や手記、雑誌などのインタビューを一気に読みあさる。寝ても覚めても加藤智大のここ2,3日。

さっきのスープの話じゃないけど、自分をつくる要素や可能性は、自分の手を越えたところにたくさんあるのだ、それはいい方にも悪い方にも作用する種みたいなものなのだということを改めて再認識する。

強く感じたのは、生きているということは、心臓が動いていることだけを指すわけではなくて、人は生きながらに死ぬことも、死してなお生きることもある。そして孤独や寂しさや、満たされない思いというので人は生きながらに死ぬことができるのだ。

そして現代には、孤独や寂しさや、満たされない思いを簡単に味わうことだけの背景と要素があまりにも多すぎる。無意識に生きていれば誰でも簡単に落とし穴に落ちる、基本設定で人を孤独に追い込むシステムが当たり前のようにまかり通っているのだ。

「人間」という漢字を初めて作った人は本当にすごいな。

あたりまえのようだけど、人は人の間にいるということが大事なのだと思う。人の間にいるということは、煩わしいことも、めんどくさいことも全部含めて、よりかかられることであり、よりかかることなんだろうと思う。現代人の苦手なのは、よりかかられることじゃなくて、いつだってよりかかることなのだ。

そんなことを思いながら今年を振り返るに、この半年は宗派をこえて若手僧侶があつまる会の企画をしてきたのだけど、今一度僧侶とはなにか?ということを自分自身に問いかけるいい機会だった。

なんか。

今回この半年で思ったのは、やはり仏教は人のいるところにあるものなのだ。人のいるところに苦しみや悲しみがあって、僧侶はその人の顔の見えるところにいるべきなのだと思う。

あたりまえで簡単なようだけど。

人の顔を想定しないで、ああでもない、こうでもない、顔も想像できないところで議論を繰り広げると言うことが当たり前のように横行しているのだ。

脳死の議論1つとってもそうなのだ。

自分の大切な人がなるのか、他人がなるのか、自分の家族に提供を待つ人がいるのかいないのか。そんな違いでそこにある答えは様々なのだ。むしろ様々であることが既存設定なのだ。

その様々にある人間模様の一つ一つの顔の見えるところに仏教はあって、僧侶がいるべきなのだと思う。人の数だけ苦しみはあるし、その苦しみの数だけ僧侶のあり方があっていいのだと思う。

なんせ教えは八万四千もあるのだ。

すごく浄土っぽい考え方かもしれないけど、自分は真宗の僧侶なので。

なんか今回の会議を終えた帰り道、ふと、救うっていうのは掬うって言い換えてもいいのかもしれないと思った。

掬う為には、そっと両手を差し出せる距離にいなきゃ駄目なんだろうと思う。

願わくば、自分は人の顔の見えないところでなにかを動かすような僧侶になるのではなく、自分の手で直接誰かの顔を見て何かを掬えるような僧侶になりたいと思う。

自分の中にあるおぼろげなものが形になって、自然に1つの方向に押し出されて、結果として自分ができあがってくるのだ。

だから目指すべき自分なんてない。

夜と朝をなぞるだけのまともな日常。

まえにまえに。





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Title: 青月。
2011.12.07

なんか。

たぶん。

取り繕いながら、いい顔ばかりして生きてたり、いい人になろうとしたり、仕事が評価されて褒められたりして次はもっといい結果だそうとか思ったり。そういうのが慢性化して、習慣化してくると、やっぱ自分の周りに一枚膜が張ったような、殻がまとわりつくような感じがする。

ほっといても人間はどんどん大人になるんだな。そんで安定感に疑問を持たなくなって、さもそこが幸せであるという価値観を疑いもしなくなるということだ。

評価や世間体とか、どう見えるのかとか、そんなんばっか。

もっと危うさとか、未完成さとか、無鉄砲さとか、そういう高い塀の上をバランスをとりながら、その怖さと達成感の入り交じるような感覚を、お腹のちょっとしたで楽しみながら味わうような日々を過ごしたいのに。

なんで、自分を守るためにむきになったり、つまんないウソをつきまくったりすることはいい加減にやめたほうがいいことで、はやいところ、慌てず騒がず涼しい顔してられるようにならなければいけないのだ。

自分の不完全さとか、未完成さとか、未熟さとか、そういうものにうちひしがれて、また立ち上がって、ぐちゃぐちゃした気持ちを何度も何度も味わいながらいきてたっていいじゃんか。

冷たいと言われるかもしれないけど、誰かを救いたいなんて二の次で、まず真っ先に救われたいのは何時だって自分だ。

そういう自分に後ろめたさを感じたり、もやもやしたりとか、もうそういうものを抱えたままでいいや。

キレイさっぱりあたますっきりなんてのは、なにかを越えたとか悟ったとかそういう言葉にすればキレイだし、さもいいところのようだけど、そんなもんはまだまだ道半ばなんだよきっと。

なんて負け惜しみをいいながらじたばた。









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Title: とり。
2011.12.07

くだらないことで腹たてたり。

くだらないことで笑ってたり。

くだらないことで泣いたり。

そういうのが全部すきなのだ。

くだらないことをまっすぐに垂れ流しながら生きてる様が溜たまらなく心を打つのだ。

意味のない正義感とか。

ちっぽけな虚栄心とか。

自分を守るためのウソも。

ぜんぶ。




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Title: ぽやっと。
2011.12.06

つくづく、自分の判断基準において大事なのは、楽しいか楽しくないか、気持ちいいか気持ちよくないかなのだ。物理的にも精神的にも。

つまりは楽しくて気持ちよいものが最上級なのだ。

いや別に下世話な話ではなしに。

いや半分は下世話な話なのだけど。

なんか抱えていたものが1つ片付いて、すこしぽやっとした時間を過ごせているものの、来年はもすこしぽやっとした時間を過ごしていきたいと思う今日この頃。なにかに追われていない時の感性と観察力は、なにかに追われている時の数倍はあるだろうなということを実感として感じるわけです。

いつだって先ばっかり、前ばっかりを見据えて、顔を上げていれば見栄えはいいかもしれないけど、それだけじゃ見落とすものもあるってなもんで、今は今にしかなくて、案外今手の中にあるものを本気で観察してみれば、大概の答えは手の中で見つかるのだと思う。

それと最近感じるのは、境界線はなんであれ、曖昧なほうがいいのだということ。

例えば住むところもそうで、昔の家というのは、家の中と外の境界が今よりもずっと曖昧だったのだろうと思う。だからいつもどこか社会との接点があって、生活することや、子どもを育てる過程において他人が介入しやすい環境だったのだろうと思う。それと公私の距離が近いということは、言い換えれば逃げ場があるということなのではないかと思う。

そそくさと社会に逃げる、そそくさと生活に逃げ込むみたいな行き来がいまよりももっと緩かったような気がするのだ。

今はどうしてもドアを一枚隔てて、家と外との境界がはっきりしすぎてる。構造上の問題においても、昔の家って言うのは、縁側という場所があったり、外との境界をうまいこと曖昧にしてあったなと思う。

境界がはっきりすることでどんなデメリットがあるかと言えば、しっかりとした境界で自分を囲ってしまうことで、人に関わらなくてすむようになってしまって、人に関わらないと自分の立ち位置もわかんないし、自分を律することもできなくなるし、外から見えないことで、どこまでもほっとかれてしまうことが可能になってしまうことなんだろうと思う。だからいつまでも部屋に引きこもれてしまうのだ。

これは住む場所に限ったことではなくて。

いろんなものの境界をもっと曖昧にしたらいいのにと思う。

なんか権利が確立されて、個が保証されることで、その代償に逃げ場がどんどん失われているような気がする。

そんなんじゃ生きづらいのよ、なんでもかんでも線引きされるのが。

人間関係も全く一緒だ。

自分の自信のなさを補うために肩書きや、代名詞なんてものを背負ってみれば、そんな線引きのせいで、どんどん自分の逃げ場は少なくなっていくのだろうに。

もっと曖昧でいいのだ。

個にこだわることは、むしろ個と一番遠ざかる行為なのかもしれないと思う。

自分をつくる要素は大概自分でおもっているよりももっと複雑なのだろう。

んで、突き詰めていくと。

最高に楽しくて気持ちがよいところというのは、沈黙と孤独に満たされた場所であるのかもしれない。

これはいい意味でなのだけど。

沈黙も孤独も、どちらもそれを楽しむにはそうとうの自信と確信と本気でなにかに向き合った時間がなければできないのだ。

右往左往して、ああでもこうでもないといいながら、いろんな主張や衝突を繰り返して、しがらみにしがらみを重ねても、最後の最後はクレバスに落ちて死ねるくらいに強くなりたい。

なんて。

寒くてすべての活動限界が夏にくらべて40%ダウンでATフィールドも崩壊寸前なのだけど、なんとかそれを食い止めようと熱燗と焼酎のお湯割りを流し込む。

しかしながら人間も動物なのだ。

いくら抗ったところで、冬に全力で活動できるようにはできていないのだと信じたい。

ああねむい。ああお腹空いた。

にくだにくをくれ。

さて今年もあと少し。

もうひと師走。




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Title: 被災地支援について
2011.11.22

例えば。

被災地の人たちがこういっていた、といって被災者の言葉を紹介する人の話をきいていて、被災地に限ったことではないけど、自分がこれはいい話だ!これはだれかに紹介したい!この想いを誰かに届けたい!っていう気持ちはとても大事なことなのだけど、それはあくまで自分のフィルタを通した断面的なものであるということを知っておくって大事じゃないかと思う。

特に、ここ数ヶ月実際何度も足を運んだり、被災地支援をされている人たちがたくさんいて、そういう人たちの話を聞いていると特にそう感じる。

被災地に行けば行くほど、感情移入して、自分の関わった人たちを何とかしたいという想いが生まれて当然なのだけど、それがだれにとっても当然かと言えばそうじゃない。

嫌な言い方をするようだけど、震災からこれだけの時間が経ち、少なくとも関東においても、支援や、被災地へ想いを馳せるという機会は減ってきたように思う、いうなればブームが去ったみたいに、一時期の支援ブームは去ったのだ。

被災地でもきっと当初のような物資や食料と言った支援というよりももっと様々な形(雇用や教育、健康など)での支援が必要になってきているのだと思う。

それなのにまだ、がんばろうだの、1つになろうだの、被災地での美談や、悲談ばかりを話して、自分の主観で感じたままを伝えれば、それだけで、人を動かせるかと言えばそうじゃない。

このフェーズにおいて大切なのは、被災者と非被災者の間にはいって活動をしている団体やボランティアの人たちが、支援を広く広げていくためには、よりわかりやすく、非被災者が支援できる形を構築する事じゃないかと思う。

だから、自分がこう思うのだし、被災しているのだから、みんなも当然そう感じるだろうみたいなのはちょっと違うと思うのだ。ちょっと違うというよりもそういうフェーズから少しみんなの空気感がシフトしてきたように感じる。

今だからこそもしかしたら自分の想いが、必ずしもそのまんまみんなも共有できない可能性があるということも想定して、情報を発信したり、支援を求めていくやりかたを考えないといけないのだろうなと思う。

具体的に言えば、残念な話だけど、がんばろう日本とか、1つになろうとかそういう類のフレーズではもうなにも伝えられないし、こちらはなにをどうがんばればいいかわからないのだ。

そういうキャッチーな言葉や美談やちょっといいはなし程度で人を動かせるフェーズじゃない、ここから先に支援をつなげるには、わかりやすい形で、わかりやすい支援の形を非被災者の人たちに伝えていく努力を現場にいる人たちがしてくれたらいいなと思う。

最近仕事をして思うのだけど。

いい仕事がでいている時って言うのは、チームで動いていれば、みんなが情報の共有ができていて、今自分がなんの為に動けばいいかが明確になっているときなのだと思う。その為には、全体を一番把握している人間が、かみ砕いて細かく、一人一人に何をすればいいか指示を出さなければいけないのだと思う。

みんながんばろうとか、みんなで気をつけようとか、気を引き締めようとか、そういうありきたりな言葉だけではなにも変えられない時がある。誰がどうがんばろうとか、どことどこをどういう風に気をつけようとか、気を引き締めるためには、毎日鏡に向かって服装を整えようとか、具体的な指示がなければいけないのだと思う。

例えば会社が傾くような危機的状況においては、リーダーが細かく指示を出さなくても、みんなそれぞれ何をすればいいかくらいわかるけど、それが見えにくくなったときにこそ、だれかがそれをやらなきゃいけないのだと思う。

いま現場で被災者の為に一生懸命働いて、ボランティアにいっている人達は本当にすごいと思う。自分は一度も被災地には足を運んでいないし、直接なにか被災地の力になれたかなんてことはわからない。

でもそれでもなにかできることがあるなら、身近にいる人たちや、被災をされた方や、被災地に関わる人たちの為になにかしたいと思っているし、その思いは消えていない。きっとそう思っている人たちはたくさんいると思う。だからこそ、今明確に動ける形を現場にいる人たちが先頭に立ち提言してくれたらいいのにと感じる。


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Title: 部屋とパソコンと私。
2011.11.20

昔、はじめてパソコンを手にして、夜11時になるのを待ってテレホーダイの時間にダイアルアップで回線をつないでいた頃、パソコンやネットから自分に流れ込んでくる情報や知識は、どれも先進的で斬新で新しい世界が開けたように感じていた。

はじめてCHATというものを知ったり、右往左往しながらHTMLを書いたり、夜な夜な東風荘で麻雀をしたり、それこそはじめてネットの中でできた友人の存在というのがどこか特別な感じがしてウキウキしたりして。思えばmixiもgreeもサービスすらスタートしてなくて、2chも今みたいに有名なものではなかったと思う。

サイトというものすら、本当にできはじめたばかりで、ネットサーフィンなんて言葉にうかれて、あちこちサイトを飛び回ったところで、今とは雲泥の差でたいしたサイトなんてなかったのだ。

回線速度も昔とは比べものにならなくて、ちょっとゲスイ画像が上の方からじわじわとでてきて、1枚の画像が全部表示されるまでに数分かかることなんてざらだったのだ。その時間のもどかしいこともどかしいこと。動画なんか落とすのに一晩かかったもんだ。

今思えば、初めてファミコンでスーパーマリオブラザーズをやった時の感動みたいなものなんだろうと思う。PS3の世代には理解できないだろうが、当時ファミコンが出たときの感動なんて、いま最先端のゲームが出たときの比じゃなかったんだ。

今となったら、たいしたことないものでも、当時の自分からしたら、いままで知らなかったことがどんどん流れ込んでくるようで、楽しくてしょうがなかったし、楽しいからこそどんどんいろんなことを吸収していたのだろうと思う。

あの頃パソコンやネットで広がった世界は、確実に今自分の生活の中に根付いている。遠くにいる友人と簡単につながれたり、新しい出会いがあったり、それこそ、その出会いは今の自分の人生にがっつりかかわる出会いであったりもしているのだ。

こうやって文章をサイトに書き始めたのだって、あの頃からずっと続けていることの1つで。

はじめてHTMLを書いて、くそみたいなサイトをつくって、でもそれははじめて自分がネットの世界に住所を持てたみたいな気持ちになれて、自分の城をもったような気持ちがして、嬉しくて嬉しくて、むだにアクセスカウンターをまわしたりしながら、なんとなく文章を書き始めたら、思いの外いろんな人からおもしろいとか言われて、その気になって。んでその気になって続けているうちに、いつのまにかライフワークみたいになって、書き続けたことでおぼろげにも自分の中にあったものが、はっきりと輪郭をもつようになって、自分をつくる大事な要素になってきたのだ。

なんでこんなことを書き始めたかと言えば。

当時自分にとって、パソコンやネットというのは、未知への扉であり、知識や情報や、興味や好奇心を満たしてくれる入り口だったのだ。いうなれば、すんごいおもちゃ箱のようなものだったのだ。

でも最近はそうじゃない。

もちろんパソコンを使うのが、遊びだけじゃなくなったというのは一番大きくて、自分の仕事の半分はパソコンがなきゃできないようなものばかりだからだというのもあるのだけど、今はパソコンを開けたくないなと思う日もあるし、パソコンを開けば、返さなければいけないメールがだだだっときて、それを書くだけで力尽きてパソコンを閉じることもあるし、みたくない情報にさらされたり、無駄なしがらみにめんどくさくなったり。

なんか習慣みたいにパソコン開いたり、ネットを徘徊したりするけど、あの頃みたいなウキウキはなくて、世の中のことや社会のことをざざっと斜め読みして、いろんなSNSで友人の動向を知ったりして、それはそれなりに面白いのだけど、なんか自分の頭の中がぐぐっと広げられる感じがしないのだ。

つまりは、パソコンやネットに対する愛が薄れていることにはっと気づかされたのだ。

なんであの頃みたいに未知の扉を開いてる気もしないのか、なんで愛が薄れたのか考えたのだけど。

あの頃の扉は一方通行で、こちらからしか開けなかったし、自分専用のどこでもドアみたいなもので、扉をあけるときに今日はどこへいこうか、どこかに誰かがいるだろうかなんて、期待をしながら扉をあけていたもんだけど、今はあちこちに入り口が増えすぎたのと、ドアが便利になりすぎて、開けてもいないドアから、勝手にいろんなものが入ってくるし、開けた瞬間にあちらこちらに矢印の書かれた看板が乱立されているようで、さあ今日はどこへいこうか!なんて思わなくても扉の前にはいつも誰かが立っていて、なんとなく思考を麻痺させられて、思考停止状態のまま、とにかく矢印の進むままに徘徊したりするようなもんで、急にわくわく感が失われたのだろうな。

なんか、自分の足で歩いている感が薄れて、動かされている感と、予定調和感がぬぐい去れないのだ。

なんかゴールとルールのきまったRPGをひたすらやり続けるみたいに、どんなに歩いても誰かのかいた地図に上からでられないみたいな感覚。

だからもういいやって思っちゃう日が増えたのかもしれない。

まあはやいはなしが、社会人になって学生の時よりも自由に使えるお金が増えて、しかもその状態で同棲し始めたら、お互いの距離感に微妙の違和感が生まれたというようなものだ。

でも、自分の側にも大きな原因があるとは思ってて、たぶん自分の性格的に開拓したり、余白の多いものに興味を惹かれるからかもしれないし、ほんとは余白は自分で作り出さなければいけないようなものなんだろうけど、そこはきっと根っからのめんどくさがりなのが災いしたのと、今の環境の中で自分の感覚も麻痺しちゃって、新しいことに挑戦しようとしなくなったり、あたらしい知識を自分の中に落とそうとしなくなったというのもあるのだ。

なんにせよ。

人でも物でも、パソコンでもネットでも、街でもなんでも、つきあいかたにはフェーズというものがあるのだろうな。

そのフェーズを自分の中でどうやりすごして、どう変化させていくのかというが大事で、どのフェーズでも、そのままありのままを、のほほんと楽しめるくらいの余裕がある人生でありたいし、またわくわくできるようなつきあいかたを自分で編み出して愛を再燃させられるような術を身につけたいものだ。

これといってなにかを主張したいわけでもなんでもないただのこんな文章なのだけど、こういうことを書いて、なんかすっきりすることができるのもパソコンとネットがあってからこそなのだしね。

なんてまだ完全に消えてない愛の灯で自分を暖められるうちは大丈夫か。

まあ何が言いたいのかよくわからないし、落としどころもないのけど満足したので大塚愛を聞きながら寝る。

おやすみなさい。










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Title: 神楽坂。
2011.11.10

きゅっと冷えるな。

冬め。

熱燗がうまいじゃないかこのやろう。

白子の天ぷら・あん肝・あじのたたき・鳥鍋

熱燗をほっこり飲んだ後に、冷でしめる。

軽くあぶった葱の香りに後ろ髪を引かれながらも、しんしんと冷えた軽子坂を千鳥足でくだる。

至福だな。

やっぱりこの街がすきだ。

実は。

神楽坂に恋してからはや数年。

ここのところ、ちょっと恋心が停滞気味だったのです。長年連れ添った二人みたいに、少しマンネリ化してしまって、昔みたいにドキドキしたりわくわくしたりできなくなって、デートも近場ですませてしまうなんてなもんで、そんな状態で一緒にいてもしょうがないねなんつって、よくよく話し合って、ここの所、神楽坂と少し距離をあけていたのです。

これから先も一緒にいたいからこそ、この時間は大事なのだなんて自分に言い聞かせて、会いたくなっても、連絡したくなっても少し我慢したりしていたのです。時に寂しさを紛らわせるように、神楽坂のことを考えないように、あえて池袋や上野で飲んだりもしたりして。

でも気温がぐっとさがって、ぴりっと冷えてきたら、どうしてもいてもたってもいられずに、会いに行ったわけです。

んで。

なじみの店できゅっとやってほっとして。

はしごしたあげくに、ほろよい千鳥足で、軽子坂を下りながら、きんきんと冷えた夜風が寒くてしょうがないのに、心がぽっと温かくなったような気がして、なんかじんわりと愛を再確認したのです。

そんで家に帰ってよく眠りましたとさ。


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Title: シンプルな想いの話なのだ。
2011.10.23

どこかの遠い国で独裁者が殺されて、その国には自由と民主主義が訪れたそうだ。

昔の自分なら、鼻息荒くして原油産出国への介入の仕方はいつだってえげつないな、裏で糸ひいてる一握りの人間が、大義名分を意図的に作り出して、うまいこと利権の問題を民主主義とかいう思想の問題にすり替えたり、テロだなんだと騒ぎ立てて内政干渉する。こうやって帝国主義は覇権を広げていくんだ、いつだって保守とリベラルの問題は、どこかの頭のいいやつに本質をねじ曲げられているのだ。なんて表面的な知識をつなぎ合わせてわかったようなことを言いたくなっていたのだけど、

結局のところ、ここでどうこう騒いでても本当のところなんて見えないし、わかったようなこといってみることで満たされるものに満足してたって世界はなにも変わらないのだ。

最近はもう理由とか背景とかそんなものはどうでもいい。

一人の人間が殺されることで狂喜乱舞する人が、これだけいるのがこの世界なんだということだけがわかれば十分に自分の今いる世界に還元できるのだ。

*

自分を楽しませることのできない人間が、どうして他人を楽しませることができようか。

*

はなきんだからという理由で、金曜日には不摂生の極みをしたのだけど、その後ろめたさと胃のもたれ具合から、この土日は食生活や睡眠時間にはものすごく気を遣った。

んで思ったのだけど。

なんか不摂生であったものを意識的に戻していくプロセスとかが結構すきなのだ。

決してストイックなタイプではないし、苦しいのとかきついのとか、こつこつととか、そういうのは完全に不向きなのだけど、思い立って意図的に自分を変えていこうとするプロセスと、そこで実際に変わっていく自分を感じる瞬間に感じる気持ちはなににも代え難いと思ってる。

きっとそれは行きすぎたら破壊衝動になるのかもしれないけど、なにかを作り上げてそこに習慣ができると、それを壊してまた新しい習慣をつくりたくなったりするのも同じようなところから来ているのかもしれないと思う。

良くも悪くも、物理的にも精神的にも、自分の中で何かが変わっていくということを実感するという行為が、脳の中で快楽物質を放出しているのは間違いないようだ。

*

ある記事で、戦争経験者の老人がこう言っていた。

サイパンに新婚旅行にいったカップルが旧日本軍の戦車の残骸に腰掛けて、笑顔で写真をとったりしているのをみて、左翼の人間は、この残骸は本当におろかな行為の証だなとかいうかもしれない、右翼の人間は、日本国軍人たちが命をかけて散っていた場所で、戦車にに腰掛けて、笑顔で写真をとるとはどういうことだ!と憤慨するかもしれない。

でも、私の仲間達、旧日本国軍人が守りたかったのは、日本国民の笑顔だったのです。だからきっと仲間達は新婚旅行でサイパンに来ることができて、笑顔で写真がとれるくらいに平和になった日本を嬉しく思っているんじゃないでしょうか。

そしてこの方は、ある時、靖国神社で、夜になると若者が境内で宴会をはじめるということが目に余るようになって、夜間閉鎖を検討されたときに、一人で断固反対したそうだ。そして、若者が笑顔で酒を飲めるなんてすばらしいことじゃないか。きっとここにいる仲間達も笑顔でそれを眺めているよといったそうだ。

なんかこの記事を読んで、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうし、この話も断片的なエピソードなのだろうけど、でも自分は単純だからこういう想いを持ってくれている人がいるということが嬉しいし、だからこそその想いに答えなきゃいけないのだろうと思ってしまう。

正直、今の日本や自分をみていたら、これでいいのだろうかとか思ってしまうことだらけだけど、でもそれでもたまにこういう話を聞いて、自分の中で足下を確認する作業って大事だなと思う。

いいとか悪いとか正解とか不正解とかそういうのじゃなくて、自分がどこに進みたいかこうやってたまに自分で勝手に確認するのだ。

これは右とか左じゃなくて、もっとシンプルな想いの話なのだ。






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Title: manuSya
2011.10.23

気安くわかるなんていいたかないのだ。

わかろうといくら努力したってわかることができないものもあるのだ。

その人の中にある苦しみは、その人の中にだけあるもので、どっかのだれかにわかるはずがないのだ。

だからありきたりなこといいたかないし、気休めになにか言葉をかけるなんてことはしたくないのだ。

わかったふりするのが嫌なのだ。

当たり障りのない距離で、当たり障りのないこといって、なんとなく体のいい関係っていうのが嫌なのだ。

でもだからといってわかんないと開き直るのも嫌なのだ。

あれも嫌だこれも嫌だ。

このわがままにはどこかで折り合いつけたくないのだ。

物事は必ずしも解決すればいいってものではないし、必ずしも自己完結しればいいってものでもない。

そもそも簡単に自分で答えをみつけられるような問題ならばどこかの誰かの中で苦しみになんてならないのだ。

嫌だ嫌だとじたばたして右往左往して、自分なりにもがいて、そこでしてしまったことや、口をついて出た言葉が、今の自分のすべてであり、それ以下でもそれ以上でもないのだから、その自分を信じるしかないし、たのむぜ自分よといって足を動かすことしかできないのだ。

あわよくばそこからこぼれ出たなにかで、意図せずとも誰かの中にある苦しいことが少しでも軽くなれたらいいと思うのだ。

だから四の五の言わずに自分にできるのはいつだってただ淡々と進むことなのだと思う。

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Title: おのふ。
2011.10.19

なんだかんだ一人で全部こなしてやるんだなんて、息巻いて、はったりこいたって結局の所誰かに助けられて、行き詰まって一人もちゃってたって大声でそれを吹き飛ばすのはいつだって他人だったりするのだ。

言葉に捕まりすぎだなんてえらそうにいっておきながら、いつだって言葉に捕まっているのは他でもない自分なのだ。

結局はいつかは死ぬのだし、感情なんて一時の高ぶりなのだから、そんなところで右往左往したり、永遠を約束するなんて散臭い行為だなんてうそぶいたって、こころのどこかでは、そんな胡散臭いものを渇望しているのだ。

ほんと裏は表で表は裏だな。

某ネズミーランドが大好きだという人はある意味では、ものすごく現実的でリアリストなのだろうと思う。現実と夢の区別がしっかりできていて、自分のonとoffもしっかりできるりっぱな大人なのだ。

一方作られた夢の国を穿った見方をしたり、ネズミーマウスなんて中に人間がはいってるのさへへんっ。なんていってる人ほど心の奥底に、曇りないロマンを追い求めてるロマンチストなのだと思う。

それと完全な仮説なのだけど、ネズミーランドが好きな人とワンピースが好きな人は結構な割合でリンクするのではないかと思う。

それと。

攻め上手がSで、攻められ上手がMかといえばそうじゃない。

攻めてるときに、満たされるものが必ずしもサディスティックな面かといえばそうではないのだ、それに一方的に攻められているときに満たされる面も必ずしもマゾスティックな面かと言えばそうではない。

最近つくづく目に見えるものと本質は反比例しているのだなと思う。

だからこそ人間はおもしろいし、だからこそ人間は時にどん底まで落ち込むのだろうと思う。

でもなんてこたない。

ルールと仕組みがわかれば人間なんてそんなにやっかいな生き物ではないし、それほど複雑な生き物ではないのだろうと思う。それをややこしくしてるのはいつだって自分の願望と妄想なんだって。

*

朝から子どもたちと稲刈りをする。

んで、地べたに這いずり回ってしこたまバッタをとる。

20匹くらいつかまえて、虫かごに押し込む。

地べたにはいずり回るまでは、寒いし、こんなにくそ忙しいときに、なんで自分がこんなことをしなければならないのだ・・・とぶつくさ文句をいってたものの、1日が終わって、泥だらけの爪と靴をみてたら、いろんなものがこそげ落ちたような気がした。

なんか良寛さんみたいに、生きていくのも悪くないなとか思う。なんか10年前の自分では考えられないのだけど、最近幼稚園があってよかったなと思うことが多いのだ。

嫌で嫌で、どうにも投げ出したくても、投げ出せる状況じゃなかったからこそここまでこれたし、だからこそわかることがあるのだ。子どもの持っている感性や感覚や、物事への取り組み方やベクトルの柔軟さも、どこをすっぱ抜いたって、気づかされることだらけだと思えるようになったのは、自分にそれだけの視野が身についたからなんだろうと全く謙遜することなくそう思う。

大げさなようなのだけど、こないだ子どもたちと遊んでいるときに、ああこれはこれでみんな阿弥陀さんみたいなものなんだろうなと思った。そう考えたら、阿弥陀さんってどこにでもいるし、あるし、究極どれでもなんでもいいのかもしれないのだ。本願に届けば、すべては今現在説法なのだと思う。

ちなみに。

子どもはいいよ。純粋で無垢でなんていうキレイことだけを言いたいわけではないのだ。

子どもは時に大人よりも残酷で、捕まえたバッタの虫かごにカマキリをいれて、食べられる様をみんなで観察したりしながら、やはりお腹が一番おいしいのだろうねなんて言い合ったりする。それに平気で嘘もつくし、気に入らない奴は簡単に殴ったりするし、お世辞もくそもない、思ったままに思ったことを口にして平気で人を傷つけたりもする。

むしろそういう部分を持ち合わせているからこそ、学ぶことができる。

そして純粋と無垢という言葉はそういう部分を持ち合わせてはじめて成り立つのだということがいいたいのだ。

*

氏くんの歌ってる夕暮れをたまに聞き直すのだけど。

聞けば聞くほどにいい歌だと思う。

きっとそれは清水口っこだからなのだということも深く関係していると思うのだ。

なんか根源的に、あの頃に培われた感性や、人との関わり方とか、距離感とかは、無意識の中にも存在してるのだきっと。

*

年をとったり世代が交代したら自分の居場所がなくなるのではなくて、年をとったり世代交代をすればするほどに必要になってくるものをいま身につけておきたいのだ。

んで。

あわよくばしょぼくれても洒落とウイットにとんだ毎日をすごしたいのだ。

*

神楽坂も冬の装いになってきて、お品書きにもウキウキするような文字が躍り始めているのだ。こうやってまた季節の変わり目をこの街で旬を食べながら感じることができて嬉し。

*

やっぱ。

わかった気になってはすぐに忘れて、それを何度も何度も繰り返してきているのだけど。

結局、事実にはいいもわるいもないのだ。

悪い結果も良い結果も、それは縁のなせるわざで。

考えても考えなくても、がんばってもがんばらなくても、どこに立っていて、どこでどんな境遇にいたって、苦しいことも嬉しいことも同じように訪れるだけなのだ。

ただ流れていればいいのだな。

ぷかぷかと。

どこにいくかやない。

流れたところがいくべきところなのだ。

*

自分の欲望や、算段や、もっといえばずるがしこい部分に敏感であると言うことは、同時に他人のそういう部分にも敏感であるということなのだろうな。

自分のなかにある闘争心みたいなものともっとうまくつきあえるようになりたい。

頑なとか頑固とは別の部分で、理解されないことに屈さないで歩いて行ける人だけがみえる世界があると思うし、万が一にもそこがみえるなら見てみたい。

*

やっとかけた。

この一言にここ数週間は集約されるといっても過言ではない。




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Title: 思考停止
2011.10.06

なんかここ数ヶ月に会った人の中にはおもしろい人も、そうでない人もいたのだけど、それぞれの分野で活躍されてる人たちに共通しているのは、思考停止していないということだ。

例えば、復興支援をしなければと思った時に、生活や家族や仕事があるから、自分は無理とすぐにはならなくて、じゃあ自分のできる範囲ではなにができるのか、自分のできる範囲を広げることはできないのか、その為には、まずなにを片付けなければいけないのか、など思考を拡大させて考えていけるだけの思考法を持っているということだ。

いうなれば心に湧いた想いを、形にするまでの現実的な試算をしっかりできるということだ。

そういう風に思考を拡大していかなければなにをしたって形になんかならないし、そこで湧いてくるデメリットや自分の能力とちゃんと向き合わなきゃ結局ただの口だけのやつになっていくだけなんだろうと思う。

想いとか熱さは大事だ。

だけど、それだけを旗印みたいに掲げて、こういう世界をつくりたいんだ!おれはこんな夢を描いているんだ!と大きなことだけいうのは20代までにしてほしい。

旗印を掲げることは足を動かすための指針であるのに、さもそれが目的であるかのようになってしまっている人のなんと多いことか。

これを自分への自戒として、足をもっと動かさねばと思う。

足を動かしてたやつと、動かしてないやつの差なんてあと数年もすれば目に見えてわかるようになるんだ。

なんか思考停止について考えていて思ったのだけど。

資本主義の世の中で、国家が形成されているというのは、いうなればお金をという価値観を振りかざして、多くの人を思考停止させて国家を成り立たせてるようなものだと思った。

いうなれば、それは生活や社会をシステム化してその歯車の一個を担わせることで、もっといえば家制度をしっかりとして、家族制度を作ることで、深いことや余計なことを考える隙をあたえないということなのかもしれない。

よりよい社会とか、平和とか、もっといえば思想や宗教など、なんでもいいけど、よりよくあるためにはなにが必要なのか、よりよくあるために今自分がなにをしなければいけないかなんてことを、全国民が本気で考え始めたら、国家なんてものはすぐにバラバラになるし、きっと世界なんてものは簡単に崩壊すると思う。

それをさせない為に、生み出されたものが国家であり、組織であり、その趣旨はなにかイデオロギーをかかげることで、思考停止状態をつくりだし、人間の根源的な問題を、人間の創った仕組みやルールの中で生じた問題にすり替えることで人心掌握してそこから得る利権を確保することなのではないかとすら感じる。

そう考えると、究極だけど、よい指導者というのは、なんの疑問を持たせることなく多くの人に思考停止をさせることができる人なのかもしれない。それは時に、カリスマ性で、時にお金で、時に誇りで、時に愛国心で。

そう考えていけば、思考停止という言葉が、いいものか、わるいものなのかなんて議論は不毛でナンセンスなのだ。

それは手段なんだと思う。手段にいいもわるいもない。ただ大事なのはその手段を意図的にまたは意図せずとも操る人間と操られる人間がいるということなのだと思う。そしてそこにはしっかりと利権が存在しているということと、それを享受してる一握りの人間がいるということなのだ。

自己実現をしたいだけの自己があるなら、それを頭にいれて行動し考えておくということはとても重要なことである気がする。

思考停止していない人たちが、社会を牽引していく時に、自己実現をさせるためにはまわりを思考停止させる術を身につけなければいけないということなのだろうか。

なんてね。

とぅとぅとぅ。


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Title: 鴨南蛮。
2011.09.29

ある人とはなしていて改めて気づかされたのだけど。

例えば、自分が怒りとか、悲しみとか、好きとか、そういう感情的な部分について考えるときには、怒ることをなんとか押さえようとか、悲しみを忘れようとか、好きになっていいんだとか悪いんだとか、そういう思考になっていないのだ。

よくもわるくも湧いたものはしょうがないと思ってるし、思考のスタートはそこからなのだ。

ある人(45才未婚そばや店主)が、彼女に別れ話を切り出されたから、好きな気持ちをなんとか抑えなきゃいけないし、今忘れようと努力をしているのですといっていて思ったのだ。

好きな気持ちって、頭で考えてどうにかなるもんなのかね。

振られたから、よしゃ切り替えてってできるものなのかね。きっとそうじゃないのもわかっているのにそうしないと、どうしょうもないから努力をする気持ちもわかるのだけど。あるラインまでならそれでいいけど、あるラインをこえたらそんなことは無理なのだと思う。

はっきりいって見当違いな努力なのじゃないかと思う。

これは好きだけじゃなく、悲しみも怒りも同じ。

思うに、その好きな気持ちが湧いた自分を理屈でねじ込もうとしたり、とりあえず目を背けたり、物理的なことで一時的に回避する努力は、その感情が湧くこと自体を否定しているような気がして、なおかつ、いうなればそれは感情と裏腹の行動をするということで、そんなことを繰り返していたら、本当に大事なときに素直な気持ちになれなくなりそうな気がするのだ。

そしてそれが心に歪みとかギャップをつくるのではないだろうかと思う。

子どもたちを見ていて思うのだけど、子どものもつすばらしさはそういう心に歪みが少ないことだ。

だからまっすぐで、そこから発せられるものには芯に心を打つものがあるのだと思う。

大人になるのは、自分で勝手にそういう心と裏腹の行動を課して、心に歪みをつくることを習慣として、その習慣の中で、頭でっかちになって、そのうちにいろんなところが鈍くなって、本当の気持ちがなんだったかすらわかんなくなった状態のことをいうんだきっと。

その人(45才未婚そばや店主)には、まあ、そんな必死に忘れようとしてもなかなか難しいでしょうし、簡単にできるわけではないし、ゆるりといけばいいんじゃないですかねといったのだけど。

思うに、自分の中に湧いてきた感情を断ち切ろうとか、目を背けたりするのではなく、まずそれはそれであきらめて、せめてどこにも行き場のないようなその感情で自分とか相手とか、それこそ関係ない誰か傷つけないようにするにはどうすればいいのか考えることにシフトして、前に足を出す努力をすればいいんだと思う、

つまりは尖った感情の切っ先を丸めるように、感情に飲み込まれてそれを振り回すことがないように努力すればいいのだ。その為の努力や習慣づけを仏教的にいえば行というのかもしれないけど、まずは自分の中にあるものを認めるという所に立つと言うことが大事なのだと思う。

なんて。

きっと今、この話を自力と他力にうまいこと絡めながら、最後にその答えはこの教典の中で親鸞さんがこう言っているだけどね・・・なんていえば、浄土真宗に勧誘できるのかもしれない・・・なんてことを妄想しつつ、やっぱ自分の思考の中にはけっこう仏教とか真宗っぽい考え方が染みついているのだなと思ったし、すぐにそういうところに結びつけようとする癖をなんとかしなきゃなと思うのだけど、これもまたどうにもならないのだ。

なんか感情に裏腹な行動をしなきゃ保てないものなんかいらないと、必ずしも言い切れることばかりではないけど、できるだけその摩擦を少なくして生きるということがなんだかんだ幸せになるコツなんではないかと思う今日この頃。


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Title: 2013:07:06
2011.09.24

ほんとのこといえば、夢と現実の境界線みたいなところで、もてっとしながら、食べて飲んで笑って、ゆるりとしながら、時々ぴりっとしたい時には、そうさせてくれる場所に顔出したりして生きていきたいなと思っている。好きな写真を撮って、好きな本を読んで、今日の1日をどう過ごすのかに想いを巡らせて過ごしたいのだ。

でも現実は、そうも甘くはない。

いま現実で生きなくてどうするんだどあほう、夢はいつでもみれるのだ。とも思うけど、でも本当にいつでも夢はみれるのか?とも思う。

習慣が人をつくるのであれば、自分の習慣よ、どうか夢を見るのを忘れさせてくれるな。

きっと大事なものや、大事なことや、大事な想いは、いつか突然降って湧いてくるものではなくて、間違いなく今の延長線上にあるのだ、そして今の自分の手の中には、その欠片が間違いなくある。

その欠片が時々きらりと夢をみさせるのだ。

今はがらくたのようなその欠片を取りこぼして、ぽろぽろと落としても気づかないような生き方だけはしまい。

それは言うなれば、真っ黒な空に、カメラを向けて目に見えない星を写真におさめられるような感性を日常の中で置き忘れないようにしたいということ。

ごっつあんです。

最近、もしかすると人間は忘れてもいいようなことは忘れないくせに、忘れてはいけないようなものこそ忘れていってしまう生き物なんじゃないかと思うことがあるのだ。

根拠はないのだが、それはたぶん、心に残るこびりつくような思い出は、いいものだけでなく、悪いものも含まれるから、脳は一定以上のゆさぶりをかけてきた思い出は、防衛手段として一纏めにして忘却することにしているんじゃなかろうかという仮説をたてたのだ。

そう考えるとあちらこちらに思い当たる節があるのだ。

ぼけた老人が、自分が子どもだった頃の何気ない日常を鮮明に覚えているのに、我が子の名前も、家族の名前も、もっといえば、きっと心が打ち震えたであろう言葉や、出来事のことなんかちっとも覚えていやしないのだ。

自分を振り返ってもそうだ。

いままで過去にこれだけは忘れまいと思ったことや、感動や感激で打ち震えたことはたくさんあるのに、その時の感情を呼び起こしたりすることなんてできないのだ。それなのにくだらない思い出は簡単に呼び起こせる。

そうだとしたらちょっとこわいなと思ったのだけど、よくよく考えたらその方がいいのかもしれない。

忘れるからまた同じ感動を求めようと意欲的になるのかもしれないし、忘れるからこそ、また足を前に出すきっかけになっているのかもしれない、忘れるからこそ、人間はその一瞬の感動や心揺さぶる経験に打ち震えることができるのかもしれないのだ。

なんて。

最近考えて考えて考えても。

結局の所、その事実というか現実に、これでいいのだ。ではなく、これだからこそいいのだ。と思うことが増えた。

すべてのものがこれだからこそいいのだ。

そう思えばこんな世界でもすこしは愛おしく思える。


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Title: たからかに。
2011.09.20

やっぱり、大事な事は言葉ではない。

宣言や決意をして自分を奮い立たせたり、なにか勝手に節目をつくって声を高らかにあげたとしても、足を動かさなければ何も変わらないのだ。

足さえ動かせば、大義名分も高らかな宣言も、突拍子もないような自己完結もしなくていいのだ。

そんで自分がいるべき場所へちゃんと押しだされるだけなのだ。

自分はどこへ向かうのだ!自分はどこへ行きたいのだ!声高に叫ぶのはもういい。

粛々と淡々と歩を進めよう。

自己満足でいいのだ。

自分の人生は自分を満足させることにある、そして自分が満足できない人生になんのパワーもないのだ。

ここ数ヶ月に起きた、悲しいこと嬉しいこと、ウキウキしたことドキドキしたことの全部が一つにつながった気がするのだけど、でも思うにいままでの過去を振り返ってみれば、その気になればつなげられないことなんかないのだ。

こだわるなつかまるなもっとしんぷるに。

そしてもっともっとどん欲に。

そこに伴う痛みなんか味付けに少々だ。





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Title: ツイート備忘。
2011.09.19

どんなに幸せに安定した日々を送っていても、ほんの些細なことで自分の気分なんて有頂天からどん底まで落ち込むようなもので、日々綱渡りのようなものなんだということをしみじみ感じた。なにごともないってすばらしいのだ。

*

ここ数日を集約すると。人間どんなに自己を見つめたとしても、メンタルなんてものは外的要因で簡単に右往左往するということと、車はMTよりもATのほうがウキウキできることが多いよっていうことと、ヤプーはすごいってことなのだ。

*

エアコンを消してあちぃあちぃといいながら一日テレビを見て、自分ってば節電してると思っても、実際はエアコン付けてテレビ消したほうが節電になるらしい。ということを絡めてお彼岸の法話には軽く悪人正機に触れようか。

*

なんかここ数日自分をみていて、改めて人間のどうしょうもなさとか、どうしょうもないけど、どうにもならないこととか、どうにもならないのにどうにかしようとするのとか、そういうのがよく見えた。それを凡夫という言葉を使わずに説明できる?といわれてはっとしたのだが、凡夫ってすごい単語なのだ。

*

凡夫だからなにをしてもいいといってしまえば本願ぼこりなのだ。そうではなくどんなに安穏と生きようとも外的内的要因で常にそうはいられないのが人間なのだという自覚を持って、自分の中に湧いた感情を冷静に法にあてはめてやり過ごす術を身につけていくというのが、真宗的な生き方なのかもしれない。

*

でもそう考えると真宗において、苦をどううけとめるかということがポイントで、克服するでも、忘れるでも、他の何かに置き換えるでもなく、それと同居していく覚悟というか、嫌でも同居せねばならないのが既存設定だという自覚とあきらめみたいなものが結局のところ彼岸への鍵になっていくのだろうに。

*

なんかお彼岸やお盆が近づくと法話を考えねばならないという深層心理からなのか、ついつい現実と仏教を結びつけてしまいがちなのだ。それもある種のとらわれみたいなもので、そういうことを続けていると簡単に凡夫とかいう言葉ですべてを片付けてしまいそうになるから気をつけねば。

*

なんか改めて考えると、凡夫とか本願とか、阿弥陀としか表現できないものを簡単にそこに括ってしまうのは、それはそれで大事なのことなのだけど、それが慢性化すると、それが何であったのかという本質が失われてしまう気がする
し、

そうすると親鸞聖人が山から下りたという根本的な意義まで薄れてしまうような気がした。社会の中に生活があり、生活の中に人は生きていて、人の生きているところにこそ苦しみがあるのだ、凡夫を救おうとする阿弥陀の本願によってあなたは救われる。なんて言葉をキレイに吐いても誰も救えないのだ。

そこにもっと実感を伴わせて、血の通った凡夫であり、血の通った阿弥陀の本願を、血の通った言葉で表現できるようになりたいものだ。


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Title: コクリコ。
2011.09.16

先日コクリコ坂をみたのだけど。

すごくいい映画だった。

おもしろい!とか。考えさせられた!とか。

そういうのは一切なくて、見終わったときに、しみじみと、いい映画だったなと思えたのだ。

一番感じたのは、不完全なものや未成熟なものが、未完成だからこそ持ちうるメリット、未完成だからこそある美学みたいなものがうまく描かれていたと思う。

戦後の混乱、動き出したばかりの社会や教育、そして思春期の人間関係。そのどこにもグレーな部分が蔓延していて、そのグレーな部分をみんなが享受しながら、そこにしかないメリットを堪能している感じがすごく生き生きしていたし、古き良きなんてノスタルジックな言葉は使いたくないけど、あの映画の中に描かれる日本をみていると、行き詰まった現代が、なんで行き詰まっているのか、その訳がわかるような気がした。

あの時代にあって、現代に欠けてしまっているものの1つに、「無粋」を感じる心というものがあるのだと思う。それは無粋だぜ。いう共通感覚みたいなものがあの時代に生きている人たちにはあったのだろうと思う。

グレーなものをグレーのまま丸ごと受け入れる心。

現代は、権利や資本や合理性を掲げて、味とかわびさびというような、感覚的な配慮や思いやり、なにかを慮る心というものの、価値や存在自体がナンセンスだという波に押しやられてしまっているのだ。

印象に残ったのは、生徒会長が2人の間に流れる不思議な空気を感じ取っても、そこにはあえて触れないで、無言でやり過ごすシーン。その描写にぐっときた。

あの映画を見ていて、自分は無粋な人にはなるまいと思いながら、映画館を後にしたのだ。

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Title: 903。
2011.09.16

暑い。じりじりと暑い。

暑さ寒さもなんとやら、お彼岸でこの暑さも終わりかと思うと、最後のこのじりじりした日差しも名残おしい。

名残おしいと言えば。

名残惜しい時に湧いてくる気持ちは、とてもリアルだ。

名残惜しさの中にある、消えていくことを受け入れる気持ちと、そこに抗おうとする気持ちのせめぎあいみたいな。そういう拮抗した反比例するものが一緒に湧いてきたときの自分の中に起きている感情はなににも代え難い。

そういう時に自分の中で起きる化学反応みたいなものを、じっくりと味わうのが好きだったりする。

自分の中で起きる化学反応と言えば。

自分は昔から木登りが得意だったのだ。だからよく猿みたいだといわれていた。

もちろん今でも木登りは得意だ。そして自分の幼少期に木登りが得意というアイデンティティは人格形成に大きく関わっているのだと思うし、いまだに、サイトの名前や、携帯のアドレスにmonkeyという単語を入れたくなるのもそういうところからきているのだろうと思う。

こないだふと、木登りをしていて、この感覚を捕まえておこうと思ったのだけど。

ものすごく高い木に登った時に、てっぺんから見える景色は格別で、それに木の上っていうのは日常とは隔離された特別な時間が流れているのだ、それを独り占めするような感覚がたまらなく気持ちいいのだ。

この時に自分の脳みそのハードルはこの快感をしっかりとインプットしたのだろうと思う。

ちなみに、木のてっぺんで感じる気持ちと、休日や深夜の誰もいない街、特にビジネス街の空気はとても似ている。

それともう一つ。

木の上で感じることの1つに、このまま手を離したら死ぬな。と感じられることがある。子どもながらにその恐怖を感じたり、でも枝を握るその手に、いま自分は命を握っているのだというリアリティがこもっていて、その時に感じるドキドキ感とか、そこで得た高揚感のようなものも自分の人格形成の根源的なところに根付いているのだと思う。

これは旅をしているときに感じる高揚感ともすこし似ている。

破滅願望とか、破壊衝動とかそういうのとは違う、命という目に見えないものを、しっかりと手に握るような、言葉で表すには難しい感覚的なもの。

例えば、自分が今木に登って、木の上でぶら下がって、落ちるか落ちないかのところでぶらぶらしてたら、あいつ、ついに気が触れたんじゃないかと思われるだろうし、それは多くの人の目には狂気にうつるだろうから、保守的な自分は決してそんなことはしないけど、その狂気みたいな行動で得られるであろう、感覚とか気持ちよさがあるということは、しっかりと脳にインプットされていているし、その行動は自分の目には狂気でも何でもないし、むしろそこの感覚に意識を向けるという点では高尚な事だと思ってる。

これは単に木登りの話だけを指すのではなくて。

狂気といえば。

結局のところ、狂気はマイノリティであり、マイノリティは切り捨てられるのが世の常なのだけど。狂気を切り捨てるということはきっと、自己への探求を放棄することでもあるんだろうと思う。

深い部分で人間はすべてつながっているのだと思う。

生と死という大前提を共有している同じ種なのだから、あいつは自分であり、自分はあいつなのだ。

あいつは狂っているというのは簡単なのだが、その種は間違いなく自分の中にあるし、その狂人が感じているであろう感覚的なものや、高揚感を得た自分を、深い部分でロールプレイしてみたら、否定しきれるはずがないのだ。

その否定しきれない感覚をもつからこそ、人間は人間でいられるのだ。

アートのことはなにもしらないし、芸術的な感性なんて微塵もないのだけど、人の心を捕まえる作品というのは、その狂気にも似たむき出しの共通感覚を、否定しきれない深層心理にたたきつけるようなものなのかもしれないと思う。

そういう意味では死こそも美だとうけとることもできるのかもしれない。

なんか。

昨晩、今までよりも一歩踏み込んだ行動をして、湧いてきた気持ちは、保守的な心の核の部分と、それを否定する自分とのせめぎ合いであり、なにか1つを開き直って自分を否定して箍を外したら、自分の中でいままで自己防衛しながら、こつこつと納得させてできあがってきたものが、音をたてて崩れるのではないかという恐怖だったのだろうと思う。

そして、そこにもっとシンプル感情的な部分も折り混ざって。その拮抗具合が絶妙だったのだきっと。

その綱渡りのような感覚が無意識に自分に与える影響というのは侮れないもので、昨日は全くお腹空かなかったし、眠くもならなかったし、いろんなことが思い通りにいかなかったのだ。

いまだその余韻も。

完全なカロリーと睡眠不足。

でもこうやって感じる日常のコントラストと、どうにもならない気持ちを抱える経験であがったハードルはたぶん、他のなにかに置き換えることはできないのかもしれないと思う。

くわばらくわばら。


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Title: 月影の。
2011.09.13

昨日月をみていて、なんかいろんな事がこみ上げてきた理由を考えた。

昼間に911の追悼の様子をテレビでみていたからかもしれないし、被災地の現状をきいて、被災直後よりも根深い問題でたくさんの人が苦しんでいる話をきいたからなのかもしれない。

そういうニュースをみながら、911にスポットがあたっている時にもどこか遠い国で苦しんでる人もいるし、震災にスポットがあたっている時にも、自分のすぐ近く、手の届くような距離で絶望を感じてる人だっているかもしれないのだなんてことを感じたりして、世界には自分の手に負えないことにあふれているし、自分の一生でできることなんて本当に焼け石に水をかけるよりももっと些細なことだと感じたからかもしれない。

それでも四の五の言わず水をかけられるような人になりたいし、自分のまわりのいる、そういう熱い人たちと自分とのコントラストに、無意識にも、どうしょうもできない無力感を感じていたからかもしれない。

それに人間は何度同じ事を繰り返しても己に勝つことなんてできないのだ、世界がそれを証明しているじゃないかとか思ったからかもしれない。

自分のやるべきことは、今自分の持っているものの精度をもっともっと深めることだと信じているし、昔のようになんでもかんでも首をつっこんで中途半端なことはしないと思っている。でもなにも顧みずに飛び出していた昔の自分を心のどこかで忘れたくないとおもっているからなのかもしれない。

でも正直言うとそんな大義は、全部後付けで。

月を眺めているときに、いまから海でもいくか。と言われた一言に、いますぐ飛び出したい気持ちと、同時に二の足を踏んだ自分がいて、それを悟られまいとした自分が嫌だっただけなのかもしれないのだ。


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Title: ツイート備忘。
2011.09.13
なんか突き詰めていくと、究極の所、守りたいと思う欲求と、壊したいと思う欲求は同じなのだと思う。つまりは守って満たされる部分と、破壊して満たされる部分は同じ所なのだと思う。

*

人間は本当にどうしょうもない思い込みと、バイアスのかかった世界をすべてだと思い込んでいるのにも関わらず、平気で正義を振りかざしたり、自分はいいことしているんだと思い込んで生きるのだ。

*

人間に対して、自分に対して、ホント泣きたいくらいどうしょうもない生き物だなんて、悪態をつくたびに自分には仏教があって本当によかったと思う。言葉だけのきれい事だとしても、誓願にも慈悲にも血が通うのだ。

*

911から10年経っても、震災から半年経っても、人間はちっとも変わりはしないし、社会なんてそんなちっとも変わらない人間の中のたった一握りの思惑で右往左往して一瞬でどうにもなるくらいなものなんだ。

*

出家するということは、生きることにそういう制約と生活しなければならないことで無意識にかかるバイアスを意識的に取り払うことであるし、そこには生きて死すということを、自分の手中におさめて思い通りにしてやるという自由への渇望も含まれているのだ。

*

それは、言い換えれば、おらもうなにかに振り回されるのはごめんだぜってことでもあるのかもしれない。じゃなきゃ子どもにラゴラなんて名付けないだろう。

*

苦しみは思い通りにならないことである。というのはつまりのところそういうことなのだ。生きていくということは何時だって思い通りにならない外的要因と内的要因にふりまわされつづけることなのだ。

昔はそういうことを感じるために明日消えてもいいし、明日世界が爆発してもいいなんてことを思ってたのだけど、不思議と今はそんなことは思わないのだけど、それはもしかするとどんなに願ってもかき消えることはできないし、世界も爆発しないことが嫌と言うほどわかったからなのかもしれない。

*

月影のいたらぬ里はなかれども、ながむる人の心にぞ住む・・・か。

*

自分は。自分以外のために仏教を学んだ事なんて一度もない。

身勝手であるまじき発言だと思われるかもしれないが、仏教で誰かを救おうなんて思ったこともないし、誰かの為に生きようとか、自分が誰かを支えてあげなきゃとかも思ったことないから、そういうことを軽々しく言う人をみると違和感を感じる。

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Title: 熱量。
2011.09.06

すべては熱量だ。

自分の中から熱を自家発電して、その温度を保ったまま、いかに冷まさないで表に出すか。

その熱量をいかに自分の中で作り出すか、そこに苦悩したり試行錯誤して、自分の中でなにに熱が上がり、どういう時に熱が下がるのかを熟知して生きていくことが自分の中の命題だ。

熱量がなきゃそんなものは全部付け焼き刃だ。

話すことだけでない、書くことも、きっと撮ることも、歌うことも、なんでもいい。

自分の中にあるものを表現すると言うことは、そのプロセスに右往左往して、自分と向き合うことと切っても切り離せないところにあるんだろうと思う。

そのプロセスに腰すえて覚悟できるかが、一握りにはいれるかどうかの分かれ目なのかもしれない。

んで、プロセスにはたくさんのリスクも伴うし、時に、擦り傷ができることもあるかもしれないし、もしかしたら骨折することもあるかもしれないし、最悪入院して、立ち直るのに時間がかかることだってあるかもしれない。

年取ってカサブタができなくなって、大きな怪我しなくなるのは、成長したからじゃない、挑戦しなくなったからだ。

これは幼稚園で学んだことの一つ。

この年になると、いろんなしがらみや、仕事や、いろんな物理的な要因がたくさんあって、自分の熱量をあげられないことにも簡単に言い訳が見つかるし、その言い訳にもっともらしい理由をつけられるようになる。

若くないしとか、いまの自分もきらいじゃないよとか、いまそれなりに幸せだし居心地いいしとかいって、リスクを負わないように、無難にいきようとして得られる安穏だってそりゃすばらしいし、そこで生きていけることこそ幸せなのかもしれないけど、そんなのはもうすこし年をとってからでも手に入るんじゃなかろうか。

今は、今しかないのだ。

怪我しても致命傷にならないくらいの若さを持っているうちに脛に傷の一つでもつくればいいのだ。

先のことを見越してなにかを得ようとしてたら、きっとその時になっても手の中にはなにもないのだ、ばかやろうとか青臭いことを言い放つ。

守るなと言いたいのじゃない。守ることに最もらしい言い訳をつけてると、逃げてるときにも自分を簡単に許してしまうぞばかやろう。と言いたいのだ。

リスクのないところから、自分の手を汚さず、手を下さす、腕を組んで汗もかかずに、なにを得ようだなんて虫がいい話なのだ。

おい自分よ。






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Title: 我等は忽然として無窮より生まれ。
2011.08.28

旅の記録を読み返しながら、せっせと書き起こしていていろいろと繋がったのだけど。

例えば、ブッダガヤからバラナシまでいこう。という大きな指針は持っていながらも、実際はブッダガヤにつくまではそのルートなんか決まっていなくて、事前に車をチャーターして仏跡を巡りながらバラナシまでいっちゃおうかとか、電車で行こうか、バスで行こうか、そもそも電車とか何時にでているんだろうかとか、どこでチケットを買おうかとか、ガイドブックや情報を仕入れながら妄想するのだけど、実際現地に行ってみればすんなりとそのルートは、いろいろなことが作用して、自然と無理なく1つに絞られるのだ。

そしてなんだかんだと目的地は中継地点になり、その先へと、あれよあれよという間に進んでいくのだ。

自分の期待を存分に裏切りながら。

旅をしているとこういうことがよくある。

もちゃもちゃといろいろ考えて悩んでいても、足を動かすと、出会いがあり、縁があり、運があり、トラブルがあり、いろんなことが作用して、自ずと自分の進むべき道へ押し出されるのだ。

その度に、自分の意志や想いが現実へ及ぼす影響なんてものはこの程度なんだなと感じる。

これを自分では、想像の限界、意志の限界というのだけど、それを感じる度に、世界は自分の手の内にないことにあふれていて、自分というものをしっかりと1つの方向に自分を押し出してくれるのだということを実感する。

話は飛ぶが、今年の8月末をもって5年前に起業した会社も9月からは6年目になるのだ。立ち上げた当初にはいまの形は想像もしてなかったし、この5年間いろいろなことがあった。幼稚園やお寺の傍らということもあり、いろんな形で多くの人に迷惑をかけたし、わがままもいわせてもらった。本当にいいことも悪いことも、たくさんの一期一会もあった。それでもなんとか5年間会社を存続しながら、それなりに結果も出しつつここまできて、その経験がなんか今旅の記録をまとめていて妙にシンクロしたのだ。

なんか。

ああでもないこうでもない、こうなったらどうしよう、こういう方法があるのではないかとか、いろいろと考えるということは大事なのだが、そういう時は大抵自分が立ち止まっているときなのだ。

自分の意志や想像なんてものの見通しはいいとこ数分後か数時間後、へたすりゃ明日のことすらままならないのが人間なのだ。目標というのは大事だと思う。でもそれはあまり厳密でなくていい、旅の目的地を漠然と掲げるみたいに。

プロセスなんてものは、そちらの方角に足を踏み出した瞬間に、自ずと決まってくるのだ。自分の意志に関係なく、できることはできる、できないことはできないのだ。

こりゃ思うになんでもそうなんだ、何事もなにか踏ん切りが付かない、踏み出せないことがある時というのは自分の足が止まっている時なのだ。

人生は旅であるなんてニュアンスの言葉を数多くの人が残しているが、なんかふとそれがわかる気がしたのだ。

人生は旅のようであり、旅は人生のようなのだ。そしてそれを思えば、生きるということを意識したときに、人生に例えられないものなんてないのかもしれないとも思う。

それはなぜかと言えば、世界のすべては自分の脳みその想像できることを遙かに超えているからなのだ。そして人生楽しむということはその流れにのるか否かなのかもしれない。

怖じ気気づいたらいつまでも世界は変わらない。足を出すのだ。

たぶん。

今自分は自分の意志で足を出していると思っているし、まだまだその感覚を持っている、でもこの先いつか、この足を出す感覚でさえも自分の意識ではままならないのだと思える日が来るのかもしれない。

その時にはきっと立ち止まっても歩いても同じなのだ。

世界は常に流れているのだ。そして止まることなどはじめからできなかったのだなんてことを言うのかもしれない。

紹興酒が効いたのか、中華料理の帰り道、ふとそんなこと考えていたのだ。

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Title: ぢ。
2011.08.05

自分の家が寺だからとか、そういうのが無意識にあったのかなかったのかは今となってはわからないのだけど、でもなぜだか昔からチベットとインドだけには行かねばならないと思っていたのだ。

何事も空気感を肌で感じないとわかんないこともあるかもしれないと思っているので、できれば35才までになんて、ちょっと洒落たことをいってみたりして。

別に自分を探しにいくわけでもなし、なにか逃避したいものがあるわけでもなし、なにか高尚な動機付けがあるかといえば、そんなことは全然ない。むしろインドについてから、ずっとビール飲みっぱなしで、いろんなもんが緩みっぱなしの、垂れ流しで、いきあたりばったりの旅になるのだろうし、りっぱなことなんて1つもしてこないのだ。

それに自分の好きなことを周りに迷惑をかけてまで押し通すのに、高尚な理由を付けるのもなにか後ろめたい気がするので。

なんか。

ただなんとなくインドへいくのだ。

そしていつかインドに行く前に、どうしても言いたいことがあったのだ。

なんとなく、なんとなく、インドへ行きたい気分なんで。ちょっとの間、消えます。

アイアムソーリーヒゲソーリー。

んだば。いってきます。






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Title: ゆいまーる。
2011.07.31

夏って。

ベクトルが外向きなのもあるけど、一言で言えば、自分の中にこそぎ落とすほど何かが沈殿することがないのだ。

一つ一つの感覚が自分の中にとどまることなくいまく淀まずに流れていくような感じがするのだ。

だから、文章に向き合う機会が極端に少なくなってしまうのだ。

きっとそれを生み出しているのは物理的な時間の余裕なんだろうな。

環境が自分に与える影響と、人生に影響する割合はあまりにも大きい。

ああ。ゆいまーる。


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Title: 粟手。
2011.07.22

スポーツのいいところは、

絶対に負けたくないと心から思えること。

絶対に勝てない相手に出会えること。

全力という言葉を体感できること。

無情にも平等に結果がついてくること。

想いとか、気合いとか理屈じゃない力の存在を感じること。

共有した仲間にしかわからないものを持つことができること。

いいだしたらきりがないのだけど。

なんか。

スポーツのもつ力は大きいな。

なでしこしかり、相双連合しかり。

なんか理屈じゃない部分にゆさぶりをかけてくるんだ。

自分が人生の大半でスポーツをしてきたからこそ、スポーツっていいなとか、爽やかな意味だけではないことは痛いほど感じているのだけど、それでも今スポーツっていいなとつくづく思う。

最近無性にラグビーがしたいんだ。


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Title: 0170206
2011.07.18

なんか、夏、もう終わってもいいかもと思った。

室外機の音が低く響いてる深夜の街で、煌煌と月に照らされて、夜風が吹いて、あちこちで風鈴がなっていて、その横を新聞配達のバイクが追い抜いていく。

すべてが絶妙にかみ合ってて、もちろんそれは、物理的なものだけでなく、夜道を歩くまでの経緯も含めて。

自分がここでこんなに幸せな気持ちでいることを世界中の誰も知らないということが、ある種優越感みたいにこみ上げてきて、その気持ちをかみしめながら、ながむる人の心にぞすむ。なんてことをぼんやりと考えながら、自受法楽みたいだと思った。

あんまり気分がいいから、自動販売機で120円の水を買うのに、150円入れて、おつりをとらずに立ち去ってみたりする。

幸せとかいうものはどこまでも合わせ技なんだと思う。

月だけを、夜風だけを、匂いだけを、気候だけを、そこにいたるまでの経緯だけを、そして2時6分をさした時計だけを、そのどこかだけをすっぱ抜いて、幸せの定義にしようったってそうはいかない。

本当に小さな要素が、たくさん混ざり合って、折り重なって構成される目の前の事実と現実の比重が、すこし自分にとって心地よい要素に傾いた状態を幸せと呼ぶんだ。

不幸せだと思う心も同じで、そこを抜け出したいなら、小さな要素を積みかさねて、比重を反対側に傾ければいいのかもしれない。

そのどちらも、なにか1つの劇的な行動や事実によってもたらされているわけじゃないのに、そのどこかだけをさして、幸せや不幸せの構図に捕まるなんて馬鹿みたいだ。

自分が何で、どこに向かうのかなんてわからないし、人生にはいつもレギュラーが起きるのだし、そのイレギュラーをどう受け取るか、どう処理するかということが醍醐味なんだきっと。

言葉に捕まらないように、一つ一つを味わっていけたらいい。

そして、あきらめがつくっていう気持ちは、悲しくも寂しくも響くけど、その白旗は覚悟であり、向き合うことであり、いままでなかったものを得ることだといってもいいのかもしれないと思った。

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Title: 曲胃。
2011.07.16

昨日の振り返り。

たぶん。というか絶対。

自分は人一倍、熱いこととか、青臭いこととか、思春期とか青春とか、どきどきすることも、わくわくすることも、淡いものも、たまんないくらいに好きで、それを貪欲に求めているのだ。つねに潜在的に。

そういう一つ一つを指くわえて見ていられるようになることが大人になるということなら、大人にはなりたくないとかいい年こいて、本気でおもってて、マイペースで自分勝手で、自分が満たされるためなら、結構いろんなものも踏み台にできるし、嘘もつくし、平気で人を傷つけたりもできるのだ。

それでも、普通にりっぱな大人みたいなことも言えるし、きっと昔の自分がみたら、くそったれだと思えるようなセリフもさらりとはけるようになったし、そういう自分を肯定することもうまくなったし、それなりに社会の中でも半人前くらいにはやっているのだ。

そんで潜在的にあるものと、後から身についたスキルとのせめぎあいはいつだって拮抗していると思っているのだけど、でもふと気づいたら纏足はいたみたいになってるような気になって、いつだってそれをぶっ壊してやろうと思ったりもするのだけど。

でもそのぶっ壊すものの中には、あったかくてぬるいものもたくさん含まれていて、振り上げたこぶしをあげたりおろしたりするのだ。

なんて。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、そういう時間経過のすべてが結果論として、自分のすべての人生を形作るのだろうと思えるようになった。

今は、中身も外見も、潜在的なものも表面的なものも、才能も技術も、全部が全部結果論にすぎなくて、そもそもぶっ壊すも何も、すべてはつながって出来上がったものだから、だるま落としみたいにどこかだけ、ぽこっとぶっ飛ばすことなんてできないのだ。

言葉に捕まらないようにしようと思う。

そんで帰り道に思ったのだけど。

昔と今の自分が1つ違うのは、刹那的という言葉のとらえ方かもしれない。昔思ってた刹那的は脆くも儚いイメージだったのだけど。でも今は刹那的に生きるということは、日々を丁寧に生きることだと思ってる。

そのベースが変わったことは大きい。

それと、守るとか攻めるとか、勢いとか流れとか、そういう言葉で心を奮い立たせるメリットは、ここ一番で言葉によるブレーキがかかってしまうというデメリットを兼ね備えているということも学んだ。

んで。

すべてのものは両面を兼ね備えてるからこそ、依存したくないと思うようになったのだ。






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Title: 水・陸・そら・無限大。
2011.07.16

ここで一応区切りなのです。小学校のことから変わることなく、終業式を迎えて、物理的にも精神的にも区切りをつけるのです。きっと夏が好きなのはこの区切りを境に前と後にじわりとonからoffに切り替わっていく感じが好きだからなのかもしれない。

昨日は立て続けに何人かの友達と電話をして。

泣いてたり、笑ってたり、疲れてたり、うかれてたり。

わずか1時間くらいの間に喜怒哀楽を全部垣間見た気がして、この開放感にあふれた夕暮れにも、世界はしっかりと回ってるんだということを感じた。

自分の笑っているときにも、どこかで誰かが泣いていて、自分が苦しいときにも、どこかで誰かが開放感を感じていて、どこかで誰かが絶望を感じてる瞬間に、希望に灯が灯る。

世界は着実に、無情にも寛容に回ってる。

なんか。

やっぱり少し先になにか約束をつくってしまうことが苦手だ。

どうしても唐突に行かなければならないところができたり、どうにも待ってはくれないことが日常にたくさんあるから、楽しみにしてるところや約束よりも優先しなきゃならないことも多いし、その度にわかってはいるのに、心の中にイガイガしたものがひっかかる感じが嫌なのだ。

それでもその心の置き方を克服することは、大人へのステップなのだとかおもってがんばるのだけど、でも最近は苦手なものを克服するのと、体型に合わない服を着こなそうとするのは違うのかもしれないと思う。

自分の一番いい状態を知るってことは、幸せを考えるときに避けて通れないところで、大概の諍いと争いと苦しみは、自分で自分の身の丈を知らずにいるところから生まれるのだと思う。

自分が一番力を発揮できて、しなやかで、負荷のかからないポジションをどのタイミングで掴むかということで、人生の彩りは変わるのだと思う。

でもそのプロセスで難しいのは、どうしょうもない自分と対峙しなければいけないことと、それを許容する勇気が必要なことだ。つまるところそれは価値観を再構築するときに、いい状態や悪い状態をイコールで幸せや不幸と結びつけないことなのだと思う。

それと。

消耗のベクトルを還元できる先をみつけるということは、人生において大事な事なのだけど。でもそれはあくまで代替えにしかすぎなくて、そもそも消耗するということそのものに取り組むことも大事なのではないかと思うのだ。

同じ刺激を受け続けて自己修復を繰り返していると免疫機能が過剰反応するようになって、それがあたりまえになると、痛みとか悲しみみとか、怒りも喜びとか、そういうシンプルな刺激の心地よさが心地よくなくなってしまいそうだと思う。

なんか回りくどいいい方だけど、それはたぶん鈍るというやつだ。

世界はほんとどうしようもなくシンプルで、どうしようもなくくだらないことが絶妙なバランスで成り立っているのだ。そこには意義も意味もなんにもない。

ただ日が昇って月が出て、また日が昇るだけ。

そのただの出来事を勝手に、劇的に、絶望的にそして運命的に希望を持って生きてるだけの話。

暑いし、鼻くそほじりながら昼寝でもしよ。










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Title: こんぷれ。
2011.07.05

ついに蝉が鳴いた。

これはもうきたってことでいいのだろうか。

梅雨とかもうこんな感じで抜けちゃったってことでいいのだろうか。

だとしたらいつまでも悶々してられない。

ただ、ひとつ明らかになったのは、疲れはとる努力をしないと駄目なとしになったなということ。ちょっと前まで、仕事も遊びも全力でやっていても、夏は無敵だったのに、そのペースを続けていたら耳きこえなくなったし。

しかも眠くて仕方がない。

なので、休むときも全力で休んでやるぜと決めたのだ。

夏だけでいいから1日が30時間くらいあったらいいのにとかぶつぶつ言いながら。

なんかアフリカからのお客様をお迎えしたかと思いきや、その足で竹藪に分け入って、汗だくで夕用の竹を探しながら、竹取の翁の気持ちになって、光る竹からかぐや姫でてこないかとか妄想しつつ、午後には締め切りの迫った仏教関係の原稿を書きつつ、曽我量深の法話のテープおこしをする。そんで夕方からは父母からの要望(一方的で理不尽なものも含む)への解答書を作成するための会議をするわけで。

なんか1日をこうやって書き出すといつも自分の中途半端さになにかイガイガしたような気持ちになる。

一体自分はなにがしたいのだろうかとか思う。

どこに根を下ろしてないような感じがしてなんかふわふわする。

でもたぐいまれなる自己肯定の才能をフル活用して、すべてを1つに集約して、すべては自分の中で通ずるものがあるのだといって納得させるという作業を繰り返す。

自分の根底にあるのは結局は自信のなさであり、すべてはその表裏なんだろうと思う。

でもいまはある程度自信のなさを許容できるようになったし、その許容が結局自分の立ちべき場所に押し出してくれたような気がするのだ。

コンプレックスは目を背ければデメリットのままだけど、許容すれば武器になる。

そしてそれを個性を呼ぶのだと思う。

なんて。

もうカルピスもスイカもクリアしちゃったから、あとは花火と旅と淡いものだけ。

ビバなつ。
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Title: さだめとかそういう。
2011.07.01

もわっとした昼下がりに、原付にのって近所までお届け物に行く。

車道にでて、アクセルをまわした瞬間に、いろんなものがこみ上げてきて、夏が来たんだと思った。そんな気持ちを味わいながら、なんかいいことあるかもなんて根拠のない妄想をしながら回り道をしたりする。そして日が少し落ち始めた頃に神楽坂にいって、一杯あおって、深夜の静まりかえった街を横目に家まで歩いて帰る。

そして明日は園の盆踊り。

確実に着実に、頭も身体も、準備ができてきた。

もう線香花火買ってもいいんじゃないかと思う。

なんか昨日で今年が半分終わって、今年を振り返りつつ夜道を歩いていて、いろんな意味で、本当にいろんな意味で、結局のところ自分の幸せ指数というのは、こうやって手の届く範囲のことで十分なのだと思った。

それと、いろいろなことを総合して思うのは、結局のところ心から誰かを好きになるということは、その人のいろんな表情をみたいということなのだと思う。表と裏は対になっているから、それはいうなればポジティブな表情だけではなくて、ネガティブな部分も含めてなのだろうと思う。好きな人の悲しい顔は見たくないなんて言うのは、頭ではじき出した大義名分に過ぎなくて、きっと本能的に悲しんだ顔もみたいはずなのだと思う。そうじゃないと合点のいかないことが結構あるのだ。そしてそれはある種の覚悟でもあるのだ。

結局はその覚悟を愛と呼ぶのだと思う。

言葉ではうまく伝えられないのだけど。

なんか覚悟と言えば、最近、日本人も白人も黒人も、男も女も、15才でも、90才でも、結局は自分と同じ人間なのだということを妙に実感する。

そしてその実感の中にもなんかある種の覚悟みたいなものが見え隠れしているのだ。

覚悟というのはまだしっくりこないのだけど、言い換えればそれは、さだめという単語に表せるような類のもののような気がするのだけど、それをかみ砕いて味わうにはいまは時間が足りないから、もう少し反芻しながら保留。

この間ある人と議論をしていて思ったのだけど、きっとある程度宗教とか仏教を学んでくると、その視点や見え方を流用しつつ、武器にして相手を完全にたたききることってできるのだと思う。でもそれはきっと一番やってはいけないことなのだと思うし、仏教や宗教をそういう使い方をしてしまったら終わりなんだと思う。

例えば。

結局のところあんたは自分のことは棚に上げているだけだし、この間のあなたはこう言った後にこういう行動をとっていたけど、今言っていることと矛盾しているし、それに気づいてすらいない、それに自分の足下に踏みにじられてるものが見えてもいないのに、だれかをどうにかしてやろうなんて、おこがましいにもほどがある。まずはその一貫性のない自分の事を捕まえるところからはじめたら。

なんて相手を感情的にあおっておいて、くいついてきた瞬間に

そもそもそんなに感情的になって自分を見失うような人が、広く物事が見えているとは思えないし、感情的になった時点で、この議論は不毛なものになったし、自分の感情すらコントロールできない人がえらそうになにか語ってるのとかちゃんちゃらおかしい。

とかいいたくなるときもある。

たまに議論がどういうものかもしらずに、自分の意見だけを主張して、人の話を遮ってまで他人を批判して、結局自己満足の自慰のようなことしかできない奴とかがいて、本気でやりこめてやろうかと思うし、いっそのことひと思いに・・・なんてことがよぎるのだけど、それは脳内妄想だけにとどめておいていわない。結局はそこにのっかったら自分もスパイラルの中なのだ。と冷静に言えるようになっただけ大人になったのだと思う。

#

時間というのはなんて無情なんだろうか。

時が解決してくれたり、時がすべてを許してくれるなんてこともがあるけど、それと同時に幸せな時間とか、かけがえのない瞬間なんてものもどんどん飲み込んでいく。

なんか、時間という概念と、仏教における姿勢というものは通じるものがあるのだろうと思う。

究極に無情であることは、究極に寛容なのだと思う。




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Title: 鶴褒木登
2011.06.27

やっぱ肉なんだな。

土曜日にたらふく肉を食らって、もりもり遊んできたのに、今日またもりもり肉を食らう。そしたらなんだか身体がぴちぴちしている気がして、血がどくどく湧いてくる感じがするのです。

やっぱ肉食系男子は肉を食らわねば駄目なのだな。

でも、不思議とこれが肉をもりもり食らっても太らないんだな。

ほんと不思議と。

さっき完全に見切り発車して、線香花火を買ってこようか悩んだのだけど、我慢した。

大人になったな自分。

ところで、何でそんなに書くことあるのとか、暇なのとか、なんで書いてるのとか言われるたびに、その都度適当な答えをしていたのは、はっきりなんて言っていいのか自分でもよくわからなかったからなのだけど。

前に、その質問を同じように、昔からブログを書いてる友達にしたら、自己顕示欲だといっていた。

でもなんかすこしわかったのだけど、自分の場合はただ単純に好きだし楽しいからなんだ。書くのが。

自分の中にあるモヤモヤとか悶々とかいう単語で片付ければいいようなものを、引っ張り出してきて、それを文字とか文章にしてしっくりきたときの感じがすかっとするし、なによりも書くことで、自分の中の余計なものがそげ落とされて、身体が軽くなるような気がするのだ。言うなれば趣味みたいなもので、ストレス解消もできるし、自己満足もできるってなもんで、その作業が楽しいのだ。

そんで、なんか書いててどうにもしっくりこないときは、思えばそこに意味とか意図とか、そういうものを乗せようとしていたときなのだ。

それがよくわかった。

煩悩具足な自分は、すぐにおだてられりゃ木に登るから、なんかいいこと言ってやろうとか、もっとかっこいいこと言ってやろうとか、社会に一石投じてやるぜとか、誰かの心に火をともしちゃうぜ、なんてことをすぐに考えてしまうのだ。そんで、そこに捕らわれたら、なんだか書くことも窮屈になったり、面白くなくなったりして、見られることばっかり気にして疲れてしまうのだ。

なんどもそのスパイラルを繰り返してきたけど、それをこうやって言葉にできたのははじめてで、言葉にしたことでやっと出口が見えた気がした。

ぐるっと一周して同じところに戻ってくる。

楽しければそれでいい。

楽しくないことを続けていられるほど人生は長くないのだ。















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Title: 高校の時の話。
2011.06.27

自分の卒業した高校から小さな冊子が届いた。内容はたいしたことない冊子なのだけど、その中に高校3年生の時の担任の先生のコメントが載っていた。

その先生は本当にいい先生で、他のクラスの友達にはそのクラスになれたことを羨ましがられるような先生だったのだけど。

その先生を一度だけ本気で怒らせたことがある。

理由はさておき。

その先生は、何も言わず目の前で、自分の大学の推薦状をびりびりに破って廊下にぶちまけた。

そして無言でその場を立ち去った。

その後一人で、その廊下に散らばった推薦状を拾い集めながら、よほど怒鳴られて殴られた方がよかったと思ったのを今でも覚えている。

昔から、比較的怒られ慣れている自分には、怒鳴られたり、殴られたりすることにはいくらでも耐性があるのだけど、無言で立ち去られることがこんなに響くとは思わなかった。

友達に、あの先生を怒らせるなんて、ある意味おまえすごいなと言われて、その時に怒らせてはいけない人を怒らせてしまったことを後悔したし、世の中には怒らせてはいけない人がいるのだと言うことをお腹でわかったような気がしたのだ。

なにをどう考えても自分が悪かったし、不条理でもなんでもないだけに、本当にもっといろんなことを配慮しなければいけなかったと思った。もし戻れるなら禁製品の隠し場所にはもっと気をつけようと思う。

その先生が、その冊子の中のコメントで、母校への想いを200字で述べよ。と言っていたので、200字で母校への想いを述べてみようと思う。

今になってわかるなんて綺麗な言葉でまとめたくはないが、一見素晴らしく見えるものだけでは、人は成長できないということが全寮制男子校を卒業したことでわかった気がする。自分で何か選択をするようになって初めて、あの頃にあった本当に大切なものに光が灯るような気がするのだ。二度と戻りたくないけど、でも自分はいつまでものあの頃の話をし続けると思う。そしてそういう大人になったということがしてやられた気がするのだ。

なんて。


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Title: 自己反証
2011.06.27

少し前に。

損得勘定といえば聞こえは悪いが、つねに自分のメリットと相手のメリットを考えることは大事だと思う。その価値観の位置づけが大幅にずれていたとしても、メリットの何もない人間関係なんて幻想だと思う。

それは言い換えればそれは、自分が目の前の相手に何を与えられてるかに気づくということで、自分がなにを与えられるかをしっかり考えることで、そこにしっかりと意識をもってくるということはきっと大事な事なんだろうと思う。

なんてことを自分で書いたのだけど、その言葉を反芻しているうちに、そりゃもしかしたら間違っているかもしれないと思った。

自分が自分の思っている通りのものを相手に与えられているかなんてわかんないし、また相手から自分が気づける範囲のものしか与えられてないかといえばきっとそうじゃない。

自分の脳みそなんていうのは限界があって、それに気づくと言うことが大事なのに、ふと気を抜くとまた自分の気づけることや、自分の考える範囲がすべてだなんて枠の中に落ち込んでいる。

世界はもっとひろい。

自分の想像力なんてちっぽけなもんだと思うことから世界は面白くなっていくんだと思う。

同じ事に気づいてはまた同じところに落ち込む。