Title: サマタとヴィパッサナ。
2014.01.22

昨日久しぶりに瞑想してみて思ったこと。

たしかに日常と切り離されたときの思考とか感覚の気持ちよさとか、心が"しん"とする感じはとても気持ちがいいし、何かに追われているときには特にすごく頭がすっきりするし落ち着くのは間違いない。そして、よし。とりあえずここから一歩。と思える経験は何にも代え難い。

でも家に帰り日常が戻ってくる中で、その時のおだやかな感覚はだんだん薄れていくし、また気づかないうちに思考も、思考に至る道筋までもがまた娑婆よりになる。

そうなればまた瞑想をして落ち着けばいいのかもしれないのだけど、

やはり昨晩布団の中で改めて感じたのは、浄土教のすさまじさみたいなもので。瞑想して、心持ちや、心の置き方を学ぶのはとても大切だし、苦への対処法としてもとても有効だと思う。その反面、それでもぬぐい去れない深い部分で人間が人間であるが故に抱えるものや、また深い瞑想にはいることなどできない人間の根幹に向き合おうと試みたのが浄土教の強さであり覚悟ではないかということだ。

娑婆をどううけとめるか、今の自分をどう受け止めるか、どこに線を引くべきか。その線の引き方はつまりは生き様であり、もっといえば覚悟でもあるのだと思う。

瞑想というのは、心乱れる自分と乱れない自分に、線を引いているように感じるのだけど、でもその両方を決別させないで、同居させるための方法論がつまりは浄土教なのではないかと思った。リトリートとは避難という意味だけど、避難して避けられる苦しみには有効なのだけど、避難しても避けられない類の苦しみにどう向き合うか、それは瞑想によって解決できるのか、それはこれからもっと学ばなきゃいけない部分なんだろうと思う。

最後は本願に掬い取られる身なのだけど、それでもこの娑婆に腰を据え、腹を据える覚悟、それが浄土教の意義ではないかと思う。きっと瞑想だって付け焼き刃でなにもわかっていない身なのだけど、その覚悟というか、意識だけは忘れないようにしようと思った。

改めて、法然さんや親鸞さんのすさまじさ、覚悟というものの深さが、瞑想をすることで垣間見えた気がした。そんでもってそれって全然易行じゃないし、むしろこわい。




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Title: 牛。
2014.01.17

悟りというものを考えるときに、それはなにか明確な真理であったり、一つの答えのようなものではないかと思っていたのだけど、どうももしかするとそれは、答えに至るまでの、思考方法や、視野の開き方や、そういうプロセスを身につけることを指すのではないかという気がしてる。

つまりはそれが身につきさえすれば、答えなんていうものは自ずとどこでも見つけることができるような類の物ではないかと思う。

そうおもって十牛図を見直してみると、だいぶすっきり見直せるような気がする。



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Title: 唐揚げとハイボール。49。赤い羽。
2014.01.02

想いっていうのは、とてもシンプルなものだ。

人間というのがなんなのか、なにを信じて、なにを想って死んでいくのか。それはとてもとてもシンプルなこと。

例えばそれは、暖かいご飯で結んだおにぎりなんかにほっこりするようなものなんだきっと。その程度でしかないのだ。でもその程度のことに、心から笑ったり泣いたりできるのが人間なんだ。

ただそれだけなのだけど。ただそれだけのことがわかるのにすごく時間がかかった。時間がかかったけどよくわかった。ぷちっとわかった。

死んでいくまでにできることや、考えられることとか、成し遂げられることというのはたかが知れていて、たかがしれている中で必死にばたつくのだけど、でもやっぱり暖かいご飯で結んだおにぎりにできることなんか超えられないんだ。

だから、だれかを言葉で頷かせたり、やりこめたり、立派になることなんかよりも、おむすびを結べるほうがきっと大切な事なんだ。

正直言えば、それは自分がずっと浅いことだと思い込んでいたところなのだけど、その浅さというものが、深さの対比ではなくて、まさに人間のそのものであると思えたことは自分にとっては大きな一歩で。

この一歩が退化なのか進化なのかとか。

そんな言葉もおにぎりの前では無力であり、不言なのだと。深く確信する。生きる意味とか、出会った意味とか、あの時のたらればとか。それもまた無力で不言だ。

自分が30数年で作り上げてきた世界のなかで、価値がないに等しい物が、ある瞬間に一番価値にある物に変わる。この感覚、この気持ちよさ。この体感こそが生きてることだ。

世界はとてもシンプルに出来ている。
シンプルという言葉も無意味なくらいに。

それをややこしく、がんじらめにしたり、ときに派手なミラーボールで着飾ったり、ヤニくらしたりしたりして、必要以上に魅力的に、そして灰だらけにしてばたつくのが娑婆ダバダ。

今年は、いまこの手の中にのった気持ちを確たるものにする。それだけに費やす。

音と空気をもっと。


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