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Title: やさい。
2012.08.31 8月の最後の日。 おじさんからもらったかなりの年季の入った望遠レンズをひっぱりだしてきて月を撮る。 マニュアル操作だから、シャッタースピードを少しづつ変えながら明るさを調整する。そうやってしばらく月と向き合いながら、べたながらも、今どれだけの人がこの月を眺めているのだろうかと思う。 絶望に打ちひしがれてこれを眺めてる人も、有頂天でこれを眺めてる人も、誰かと一緒に眺めてる人も、一人で見ている人も、職場の窓から眺めている人も、海岸で防波堤に座って眺めている人もいるかも知れない。 だからなんだって話だけど。 世界は広くて人の数だけ生き方があって、そのどれも正解かもしれないし、そのどれも不正解かもしれないから、誰かに自分の想いや意見を押し売りするのはやめようと思った。 ここでこうやって少し酒気を帯びながら、おじさんのレンズを引っ張り出してきて、色んな事を思い出したりしながら、夜風に吹かれて月を撮っているこの時間は、誰かにとったらどうでもいいような時間だけど、自分にとっては至福の時なのだ。 こういう時間を少しでもたくさんみつけて、あと何十時間、何百時間あるかわかんない残された時間を、少しでもこういう時間にあてて過ごしていきたい。 もうそれだけで十分だ。 こんな日は心の深いところで約束をおもいだす。 なんだろう。夏が終わるのが全然嫌じゃない。 Title: むじつのつみ。
2012.08.29 なつおわっちゃうのかね。 もう秋はそこまできてるのかね。 足音に聞こえないふりをできる時間はあとどのくらいあるのだろうか。 年をとると時が過ぎるのが早く感じると言うが、最近1日がながくてしかたねぇ。 * 出生前診断で99%ダウン症がわかるようになったそうだ。 しかも検査方法が簡単であれば、これからこの検査は一気に普及するだろうし、その結果によっては、生まれるべきはずだった命が間引かれることになっていくのだろう。 こういう技術が進歩して、実用レベルになってきたときに必ずぶつかるのが倫理感というもので、こういう問題が持ち上がると必ず一部の僧侶が倫理感に反する、命の選別はやめろ的なことをいうことがあるのだけど。 自分が僧侶として思うことは、この検査をして、自分の子どもがダウン症であることがわかった時に、堕胎するか、それでも生むかということはその人の置かれた環境や、立場や、それこそたくさんの縁によって判断されることであり、その判断自体に是も非もないと思ってる。無論堕胎をすること、命を間引くことに対して、肯定はしないし、むしろそういうことが起きなくていいなら根絶したいと思う。 でも自分だって、その状況になったらどちらを選択するかもわからない。 選択というものには、いろいろな想像を超えた様々なものが作用する、それは一人の人間の脳みそのはじきだせる限界をこえていて、考えたって答えの出るようなものではない。 いづれにせよ、どちらの選択をしたところで、いづれにも苦しみが生じる。その生じた苦しみにいかに向き合うかが僧侶の仕事だと思っているし、その答えと解答を1つでもおおく教典の中に学んでおきたいと思っている。 苦しみを生み出す元を絶たなければ意味がないという意見もあるかも知れない、焼け石に水みたいな作業かも知れないけど、目の前にいる袖ふれあうところにいるところの人達の中に生まれた苦をとりあえず、船底の水を掻き出すみたいに対処していくことが自分のできることであり、やるべきことだと思ってる。 * つらいときとか、悲しいときに、昔の良かったときや、楽しかったことを思い出して、そこにすがりたくなったり、さもそれがまだそのまま残ってるかのような幻想に癒されて、そこで背中を押されてまた歩き出せると言うことはよくある。 自分自身いままで何度もそれでまた歩き始めることができたし、何度も救われたのだけど、そういう自分は好きじゃない。 過去に癒されるほど今に絶望するまえになんとか立て直す術くらい身につけていたいし、今よりも過去が素晴らしいと思うのは自分の努力不足だと思ってる。 環境や状況や、その他諸々の諸事情を自分の力で変えたくても変えられないし、どうしょうもなく今に絶望しているとしても、やはり自分を変えられるのは自分しかいないと信じてる。 * 年をとればとるほどに遊ぶということの価値は重要性を増すし、遊ぶにもうまいとへたの差が顕著になってくる。 周りを見渡せば、世の中には本当に遊ぶのがうまい人が多いなぁと思う。どんな遊びでもいいけど、時間もお金も錬金術のようにつくりだして遊んでいる人をみていると自分もまだまだ遊び足りないなと思う。遊ぶのがうまいっていうのは才能だな。 遊ぶということは好奇心と想像力を研ぎ澄ませることだと思う。自分からしたらどうでもいいようなことを夢中になっているおじさんとか見てると、そんな感性をもって年をとれたら幸せなんだろうなと思う。 時間がない、お金がない、だから遊びは二の次だというのはよくわかるけど、でも二の次になっても遊ばなくていいということではないと思う。遊ぶと言うことは、無理に時間を作っても、無理にお金をかけてもするべきだと思うし、若いうちにそこにお金をかけることは自分への投資だ。 無駄遣いかどうかは目先の損得だけがバロメータじゃない。 本当の豊かさは無駄の中からしかうまれないのだと思う。 何をしてたって人間最後はおもしろいかおもしろくないかで、人間関係だって年をとればとるほど、おもしろいかおもしろくないかで人を判断するようになってくると思う。 おもしろいことをしてない人が、おもしろいことを語れるはずもない。もし少し長く生きることができたとしたら、いくつになっても、おもしろいことを追いかけ回して楽しんでいたいし、おもしろいことの1つや2つくらい、子どもや孫に語れるような大人になりたいと思っているから、無駄遣いもするし、たくさん遊ぶことにする。 というただの自己肯定と、自己鼓舞。 * 昔はもやっとしてる状態で、なんとか文章に書き出して、そこから自分の中にあるものを俯瞰的に見て、自分の中にあるものを整理することが多かったと思う。今でも最後はそうやって考えるのだけど。 最近書き出す前の状態のもやっとした状態を頭の中でねかせてこねて、熟成させるという過程を楽しめるようになったかもしれない。 まだ書かない。まだ選別しないと。 書くということは結局どこかに無理矢理ねじ込んで、そこに後付けで意味をのせるようなものだから、それはそれで大事なのだけど、もう一つ頭の中でちゅうぶらりんのまま、思い出したように手垢をつけていくことではじめて見えてくるものがあるのかもしれないと思えるようになったら、感情や想いや願いとか、そういう抽象的なものに幅を持って、少しのりしろを多くとれるようになったような気がする。 * あっちゃん(前田敦子)は顔から表情が読みづらい、感情を想定しづらいというところが最大の武器なのではないだろうか、人間はわからないもの予想できないものには無条件に畏怖するの法則であり、往々にして男子は追い続けてもわからないものを追いかけ続ける習性がある故にアイドルは天職だと思う。 * Title: おばけやしき。
2012.08.26 たかがおばけやしきだと言われるかも知れないけど、されどおばけやしきなのだ。 先週園で期間限定で2日間だけ、特設おばけやしきができることになった。なぜかちょっとお手伝いのつもりが、がっつりとど真ん中でやることになってしまって、夏休みの数日間をおばけやしき作りに費やしたのだけど。 このおばけやしき作りで、想像以上にいろんなことを学んだし、子どもの持っている可能性や、それを育むと言うことがどういうことかということを再認識させられたような気がする。 まずおばけやしきを作るときに、怖さの難易度の話し合いが行われたのだけど、多くの先生達は、子どもたちがその部屋に入れなくなったり、トラウマになったらこまるから、そんなに怖くしなくてもいいんじゃないかという意見が大半だった。 そりゃ3,4,5歳の子ども相手なのだし、ある程度の配慮は必要だとは思うのだけど、怖くないおばけやしきならやる必要はないと思っていたので、難易度のさじ加減は自分にまかせてくれということで、全面的に引き受けて、悩みに悩んでおばけやしきをつくりあげた。 案の定子どもたちも、おばけやしきの噂を聞きつけて偵察にきたりしながらも、どうせ怖いって言うか楽しいくらいなんでしょ、どうせ先生達が中にいるんでしょなんてなまいきなことを言っていたので、俄然やる気がでてきてついつい力を入れてしまった感があり、正直当日までやりすぎたかなとか・・・親から苦情来ないかなとか、どきどきしていたのだけど、そこは腹をくくってオープン。 当日おばけやしきの前には長蛇の列ができて、次から次に挑戦者があらわれるのだけど、オープンして1時間しても最後までクリアした子どもが一人もでず、部屋にすら入れない子も続出で、やはり難易度を下げるべきかと思った矢先、おばけやしきの入り口で一人じっと暗闇を見据えていた男の子が、おもむろに暗闇に向かって歩き始めたのだ。 お調子者で、クラスのムードメーカーで、それに加えて女の子にも優しいというなかなかよくできた男の子なのだけど、その子がじりじりとおばけやしきを進み始めたのだ。 正直、大人でも先頭ではいるのはちょっと勇気がいるくらいの暗闇だっただけに、その勇気には本当に感動した。1つ1つびっくりポイントを通過して、ついに最後までクリアしたのだ。 たった一人で。 暗闇を見据えて、覚悟を決めた瞬間のあの顔、怖いのを我慢して勇気を振り絞ってじりじりと暗闇を進んでいる姿、本当に親にみせてあげたかった。 そしてクリアしたその子は、大声でよっしゃ~!と叫びながら教室に走っていき、ヒーロになった。 あの時の誇らしげな、やりとげたような顔は本当にキラキラしてて、本当にかっこよかった。 そしておばけやしきはここから面白くなってきたのだ。 その男の子が、女の子達や、周りの友達に、すごいすごいともてはやされているのを目の当たりにしていた、男子数人が、おれだっていけるぜと言わんばかりに、押し寄せてきたのだ。 女の子を引き連れて。 それでも入り口で、先頭を譲り合い、しまいには、おいあいへしあいもめはじめる始末。口だけは、おばけなんかいないよと言いながら腰が引けている子、女の子の手前、おずおずとはいるのだけど、結局はしって逃げ出した子、大声で歌を歌いながらはいったまではいいけど、歩き始めて数秒で蚊の鳴くような声になってしまいには泣き出した子。 そんな中でも、おれがいるから大丈夫といって、弟の手を取って果敢に挑戦する子がいたり、弟がお姉ちゃんをひっぱっていたり、入り口でおばけを追い出すための儀式?的なものをはじめる集団があらわれたり。女の子同士、はげましあいながら最後までクリアする子達もではじめたのだ。 本当に大人の想像を超えたドラマみたいなのがたくさんあって、その想像力とか、小さな身体の中に秘めた可能性みたいなものにぐっとさせられっぱなしだった。 そして初日は挑戦者100名近くで、クリアしたのは10人。半分までクリアできたのも数名。その大半は入り口もしくは、部屋にすら入れなくて断念したのだ。 初日この結果を見て、次の日から難易度を落とそうという話になったのだけど、自分の中でこのラインは絶妙だったと確信したので、そのままの難易度で次の日も開くことにした。 自分の中では、もちろんクリアして自信をもつことも大事だけど、クリアすることだけ目標じゃなくて、怖さを体験して、そこに立ち向かおうと勇気を振り絞ることや、怖くて立ち向かえなかったり、クリアできなかったとしても、そういう自分をしっかりと受け止めると言うことも大事な事だと思うし、この経験においてはプロセスを通して自分をしっかりとみつめてほしかった。 それとこれが過半数がクリアできる難易度であれば、できない子が少数派になってしまうのでそのライン崩したくなかったというのもある。そしてそのラインなのかでみんなが何を感じて、どう影響するかを見たかった。 そして次の日、初日にもまして子どもたちには驚かされることになったのだけど。 朝子どもを送ってきたお母さん達が、口々に昨日家に帰ってきてずっとおばけやしきの話をしていました、クリアできなかったのが悔しかったようです、でも怖くて勇気が出ないと話してくれましたといって声をかけてきてくれた人が何人かいた。 そしておばけやしきオープンの時間にはまた長蛇の列ができた。 するとどうもみんな昨日と様子が違うのだ。 一晩家で考えて、今日こそクリアするという決意と強い思いできているのだ。明らかに昨日とは全然違う顔で、おばけやしきに望んできているのだ。 それでもやはり入り口で少したじろぐのだけど、それでも昨日の二の舞はごめんだといわんばかりに、お互いを鼓舞し合い、次から次へと暗いトンネルにはいっていく。 これには正直驚いた。一体一晩でこの子達のなかに何がわいたのだろうか、たかがおばけやしきと思っているのは大人ばかりで、子どもたちはこのおばけやしきに望むと言うことに、顔が変わるくらい真剣に向き合っていると同時に、子どもにも子どもなりのプライドというものがあるのだということを思い知らされたような気がした。 中には初日にクリアした子どもたちと一緒に、おばけやしきの対策の作戦を立ててきている子もいたり、中には後ろ向きで進めばこわくない作戦を編みだしてきて、クリアをした子どももいた。 本当に初日の経験をそれぞれが自分の中で処理をして、向き合って、自分の中で昇華させているのだ。素直にこういう場に立ちあえていることに感動したし、人間が成長していくということが今目の前にあって、それを目でみて、肌で感じることができているということにわくわくした。 この姿を本当にこの子たちの親に見せてあげたかったのだけど、でも親がいないからこそ、ここ一番でこうやって踏ん張って、こういう姿を見せてくれるのだよな。本当に子どもたちの秘めている可能性やのりしろというのは大人のそれを遙かに凌駕する。 そしてこの日のクリア人数は先日を大きく上回って30人を越えたのだ。 そして2日間をトータルすると挑戦者150名強でクリアすることができたのは、40名ほど。 クリア人数は少ないようだけど、クリアできた子もできなかった子も、朝から帰るまで、おばけやしきおばけやしき、外でも部屋でもおばけごっこに、口を開けばおばけなんてないさを歌ってるくらいだから、きっとそれなりに印象に残ったのだろうな。泥団子ブームに続きしばらくおばけブームがきそうな今日この頃。 たかがおばけやしきなんだけど、されどおばけやしきなのだ。 きっかけをつくったら、大人があれやこれや心配しなくても、子どもは自分でしっかり大きくなっていく、これからもたくさんのきっかけを作ってこういう場面に立ち会っていきたいし、なによりも今回の事で一番学ばされたのは他でもない自分であるような気がしている。 来年はもっと怖くしよう。むふ。 Title: 掘。
2012.08.25 書いたことすら忘れているようなその文章に、ここにくるまでの時間は間違いなく繋がっているのだなと思った。 備忘の為に掘りだしておこう。 Title: ほ。
2012.08.24 振り絞るような蝉の鳴き声が夏の終わりを告げているように聞こえる。 でもそれはきっと気持ちの問題なんだろう。蝉はきっと夏の初めから同じ声で鳴いているに違いない。それが精一杯に聞こえるということは、自分の中で夏が終わりかけてきたということなのかもしれない。 この夏を振り返ってみると、泳いで、食べて、照らされて、笑って、怒って、悲しんで、懐かしんで、出会って、別れて。 ほんとこの1ヶ月の間に、色んなものが流れ込んできて、それに押し出されるように手の中にあったものがこぼれた。 この夏を迎える前と、今では自分はきっと少し違うと思う。 1つのことに意識が向いたときに、頭が自動思考モードみたいのにはいって、身の回りに起きることや、得たものや、失うものや、そういう現実が、1つの答えを導き出すように繋がって、大きな流れに押し出されているようにしか思えないくらいに、道が開けるということがある。 そういう時は往々にして、変えられない人生なんかないんじゃないかという気になる。 自分の考えていることや、あたりまえにもっていた持論が少しづつ変化して、その小さな変化が、習慣に影響してきて、その習慣が自分の行動や言動に作用してきて、そういう自分の生き方が、周りにいる人間すらも変えてくる、そういうつながりと影響が、はっきりと目や耳や肌で感じることができると、本当に人生というのは面白いものだと思う。 * 例えば100人の人がいて、100通りの人生があって、100通りの家族がいて、100通りの想いがある。 あたりまえなんだけど。 あたりまえだからこそ、もう一度その事実を腹で受け止めないといけないのだろう。 それがわかるということは、いわばここ一番で人と人はわかり合えないということだし、同時に最後は人間1人であるという現実をも受け止めるということなんだろうと思う。 それを寂しいこととか、悲しいこととか、そういう感情に当てはめることがもう、自分の勝手な仕分けで、そんな仕分けを越えたところに生きるということがあるのではないだろうか。 むしろ、わかりあえないからこそ、自己はどこまでも愛おしいし、自分が自分を信じれなくて誰が信じるのだと思えるし、そう思えることで、初めて他人もみんなそうであることに気づけるのではないか。 * 最近の自分は、想いや主張や、まげられない気持ちとか、そういう類のものを誰か他人に理解してもらおうと努力するのをやめたいと思っている。 それは視野を広げる努力を怠って、井の中の蛙で、独りよがりでいればいいというわけではなくて。 昔は意見を相手に認めさせようと、バチバチとぶつけて、そこから調和して、自分の世界がこじ開けられて、視野が広げられると信じていたが、ここにきてそれだけでは得られないものがあることがわかったような気がしている。 そうやって広げられるところの限界というのは、いわば人の思考の限界で、人が何かを考えて深めていくときに、想定と想定をぶつけ合っても、想定以上のものにはなりにくいのではないかと思うのだ。 まだ自分の中にあるものがうまく言葉にまとめられないのだけど。 例えば、絵をうまく描きたいと思って、いろんな人の絵を見て、書いて、真似をして、たくさん練習して、うまく絵が描けるようになっても、それは「うまい絵」にしかならないような気がするのだ。 プロセスとしてそれは避けて通ってはいけないところだと思う。 でも描くと言うことはそれで完成ではないし、自分が書きたいのはただのうまい絵の類のものじゃない。 言葉にすると目線がおかしくなってしまうのだけど。 いま自分の思考や立ち位置や他人に対する距離感の取り方というのは、いいか悪いかは別として、自分の中で信じるに値すると思ってる。いままでは、自分の中にあるそういうものに、確固たる信頼というのがなくて、ぶらぶらしたり、ふらふらしてる自分にいつだって自分自身が危うさを感じていたのだけど、今は不思議とそれがなくなったように思う。 もちろん同時に、井の中の蛙で、独りよがりになるような危うさもないし、他人を認める事や自分が変わることや、そこに付随して誤解されたりすることにある種の怖さみたいなものもなくなった。 とどのつまり。 うまい絵よりも先に行くときに避けて通れないのは、自分とどう向き合うかということじゃないかと思うということで。 昔よりも少し、変わることや、失うことや、誤解されることや、傷つけられることや、だれかと比較して悶々とすることや、理想と現実のギャップとか、そういうものは、自分勝手な仕分けだと思えるようになって、そういうことに右往左往しなくなった自分がいて、そんな自分ができてきたからしばらく、そんな自分と二人だけで、じっくり脳内対話をして過ごしてみようかと思っているということがいいたいのだと思う。 * FBやtwitterでいろんな情報にさらされて、色々思わされたことが、ここにきて自分を変化させる要因の1つになってくれたのは間違いないし、フォローしてくれたり友達認証してくれた人達へ向けて、自分がいかにあちらこちらで自分を使い分けていたかも知らされたし、でももうシステム上切り分けたりはできないからいたしかたないと腹括ったことで、自分の中でふっきれたものもあるよってこと。 * それでもまだまだ首をもたげてくる、自己顕示欲とか、優位性の主張とか、そういうどうしょうもないものが見え隠れすればするほど、いよいよ自分の中で、修養がすすむってなもんで。 * どえりゃあねむい。 * ほ。 Title: 道半ば。
2012.08.19 今日はいい空だった。 一見夏らしい雲がでているのだけど、どこか秋の匂いもするような高い空。 このあいだ高速道路を走ってるときに、こちらに気づかずに車線変更してきた車と接触しそうになったということがあって、たぐいまれなドライビングテクで回避したのだけど。 その後にふと思ったこと。 もしあそこで大事故になってたとして、自分が死んじゃったとして、残された人が自分に対して、まだまだやりたいこともあったろうに、道半ばで・・・っていわれたくないなと。 そりゃあ、やりたいことも、見たいものも、経験したいことも、言いそびれてることも、もう一回会いたい人も、行きたい場所も、ほしいものも、言い出したらきりはないし、自分の人生がこれで満足だなんて思えるほど人間できてないし、もっともっととどん欲に生きているのだけど。 道半ばと言われることで、なんか自分の人生が未完成なままって残された人が感じてしまうのがとても残念だと思った。 なんかうまく言葉にできないのだけど。 いままでしてきたことも、出会った人も、家族も、友達も、自分を取り巻く環境やそこにいる人とか、そういう自分の関わったすべての縁に対していいたいのは、十分満足してるし、不満足じゃないし、やりのこしたことや、未練はあるけど、うらめしやなんていわないし、結構やりたいことはやらせてもらってるし、してきてるし、わがままいっぱいいってるし。だから道半ばだったとか思わないでほしいし、不完全なんじゃなくて、ここで完成なんだって思ってほしいなって。 なんだろうか。 よくわからないし、うまく伝えられないのだけど。 結局の所、どこで死んでも道半ばじゃないと、そう思える自分でいたいってことなのかもしれない。 Title: ちんこん。
2012.08.15 葉っぱが緑色なこととか。空が青いこととか。雲が白いこととか。 それっていつだって目に入っているのだけど、でもそれは目に入ってるだけで、時々それをちゃんと見てみると、その1つ1つが纏っているものが本当に素晴らしく愛おしいことなのだと思う。 そうおもうと世界は限りなく広い。 なんて妄想を、耳障りよく言葉に紡いだところで、そんなものはウニ1つ踏んづけたら立ち所にかき消えてしまうのだ。 足の裏がズキズキして、なんで自分がこんな目にとか思うのだ。 たった1つのウニで、有頂天から真っ逆さま。 それが人生なのだな。 もやっとのほほんと、夢見心地でいる時に、顔に水をかけてくれる存在こそが善知識なのかもしれない。 そう思えばウニも善知識なのだ。 そういうきっかけがあちらこちらに落ちているからこそ人生は面白い。 足の裏のトゲをさすりながら、やるなウニめ。とかのたまわってみる。 そんな終戦記念日。 目を覚ますのはまず自分だな。 Title: もこきい。
2012.08.14 寝苦しくて夜中に目がさめたら、外には風が吹き荒れている。その風で身体を冷ましながら、季節が少し進んだことを感じた。 こうやって夏が終わっていって、秋が来て、冬が来て、春が来て、夏が来る。 このサイクルを生まれてこの方32回経験してきているわけで、あと何回ほどこのサイクルを経験できるのだろうかなんてことを思いながら、このあいだウニを踏んで、まだズキズキする踵をさすりながら、こうやって身体に季節の残り香を残しておくのもわるくないような気がした。 成長を柱に記しておくみたいに。 今年の夏は、今の時点で、はしゃいで、笑って、語って、飲んで、飲まれて、わくわくして、淡いものももれなく。なんの申し分もない夏で、なんの申し分もない分、こういう夏があと何回味わえるのかというところに捕まりそうになるのだ。 でもそこに捕まって、躍起になってこういう夏に固執した瞬間に、もう同じような時間が過ごせなくなることは十分にわかってる。 そんでこれからどうしていったらいいかも。 すべては水物、思い出も、季節も、語らいも、淡いものも。喜びも悲しみも。 人生は水物だ。 * いい思い出は、背中を押すけど、後ろ髪も引っ張るのだ。 いつか秒速11キロに達したい。 * この1ヶ月に得たものと失ったものを比べてみると。 物理的に失ったものはすごく大きいのだけど、精神的に得たものはそれよりも大きい。 まえにまえに。 Title: ねじまきし
2012.08.08 暦では立秋を過ぎて、これからの暑さを残暑というそうだ。 島から戻ってきて、存分にいろんなものを浴びてきて、ほっと一息ついたら夏も残り香らしい。でもまだ折り返し、もう少しだけ夏っぽさを味わっておきたい。 島では毎朝、日が昇る頃には布団を這い出して、朝の散歩をしていた。近くの海岸に座ってじりじりとあがってくる太陽を眺めながら考えていたのだけど。 やっぱり自分にとって、体感することというのはすごく大事で、夏とか海とか、空とか、朝焼けとか、想像の中でこんなもんだろうと線をひくのはいくらでもできるのだけど、でもやはりそこに行って、見て、感じて、それを自分の中で反芻することで、ふと気づかされたり、頭ではないところでわかる事があったり、あたりまえにあるものの価値を再確認したりできたりして。自分はそういう足下を確認するような作業が好きなのだ。 そして最後の最後は、そういう作業を得て自分の中に残ったものがここ一番で説得力をもって背中を押してくれるのだと思う。 人生を楽しもうという姿勢はだれにも干渉されるべきものではないし、誰になんて言われようと、死ぬまでのあと数十年の間、人生楽しんで生きていきたい。 自転車にのって坂を下りながら、身体で風を感じながら、夏色を口ずさみながらそんなことを思ったりもした。 曖昧というのはわからないものをぼやかすための言葉ではなくて、白と黒の間じゃなくて、それだけでしっかりと独立した1つの答えなのだと思ってる。 答えの数は感性の数だけあっていいのだと思う。 この夏と秋の境目とか。 |
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