Title: えにし。
2013.03.31

つくづく人と人の縁というのは不思議なものだな。出来た縁、繋がるも切れるもそれまた縁。自然に繋がったものを、意図してしまうは人の欲ってか。



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Title: 上野。
2013.03.26


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Title: さくらなみき。
2013.03.26

子どもの時、テレビのいうことは真実で、大人のいうことは社会の道理で、世界はどこまでもひろく繋がっているのだと思っていた。少しづつ大人になって自分の了見が広がってくると、世界はどこまでも繋がってなくて、社会の道理はひんまがっていて、テレビのいうことにはたくさんの利害が絡んでいるのだということが見えてくる。

その現実と心のギャップに心の置き所がわからなくて感情がうまく処理できないことを思春期と呼んだり、反抗期と呼んだりするのだろう。いくら思い悩んでも世界の現実は何も変わらないし、なによりも本当は自分だって特別な存在でもなくて、そのひんまがった社会の一要因に過ぎない。

その現実とどう向き合っていくのかということで、生き方というのは変わってくるのだと思う。気づけば気づくほどに、見えれば見えるほどに社会はひんまがって、世界ははハリボテのようなものなのだ。でもその世界に生きていくということこそがのが人生そのもの。

白も黒もいわば執着なのだ。

*

何かを輝かせる為の光は、誰かを日陰に引きずり込むのだ。

*

予想より早い開花にあちらこちらで大わらわな様子だけど、そもそも花見というのは人間が花の予定に合わせるからこそ風情があるのだろうに。どこまでいっても人は人間の物差し。花の時間に合わせようという心意気がなければ花見酒もただの酒。

*

自分の中にある思いや考えを過去の文献や、古い書物の中の言葉に見つけることで、自分の型というのは明確になってくるのかもしれない、時に反証する言葉に襟を正しつつも、その作業を繰り返し繰り返し行うことで身につくものを自信と呼ぶのかも知れない。

仏教は絡まりあって、もうどこが結び目かもわからなくて、がんじがらめの塊をばらばらにしていくための作業行程みたいなものなのだと思ってる。

*

「語りかけてくる」という言葉を使うときに自分の中に響いてる言葉は誰でもない自分自身の中にある声であり、声なき声を聞くと言うことは自分自身にしっかりと向き合うという事なんだろうな。





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Title: あお。
2013.03.13

事実はかならずしも真実ではなくて、空が青いという事実は、真実ではないし、自分の見えている青とあの人の見えている青が同じだと思うのは正解ではない。

自分よりもずっと青臭いであろう人に、わかったようなわかんないような理屈を振り回して、飄々と、そして腹を据えてみられようとしたりする。

青臭いのはどっちだ。

どうしょうもない。


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Title: 風化。
2013.03.10


とくに深く考察したわけではないので、いろいろな意見があるだろうし、側面的な想いであることはよくわかっているのだけど。

311でつらい経験した子ども達をみていると、いろいろなことがはやく風化すればいいのにとか思ってしまう。風化ってなんなんだろう。風化させないことは本当に大切なことなんだろうか。子ども達に必要なのは過去を忘れないことではなく未来に目を向ける力なのではないのだろうか。

おとなと子どものみている目の高さは決して同じではないし、おとなと子どもでは秘めてる力ののりしろも全然違う。おとなはいつも世界に、未来に、子どもにリミッターをかけたがる。

そもそも人間が本来持っている機能には必ず意味があって、それを否定することによって苦が生まれるのではないだろうか。諸行無常の中には忘却ということまでもしっかり含まれているのではないだろうか。

なんてことを感じたのです。ごめんなさい。


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Title: 旅。
2013.03.10

備忘のために。

若者よ、旅に出なさい。まだパスポートを持ってないなら、今すぐ作りなさい。夏になったら、リュックを背負って、デリー・サイゴン・バンコク・ケニヤに行き、ショックを受け、感動しなさい。食べたことのない料理を食べ、面白い人と出会い、冒険に出て、危険から身を守りなさい。帰ってきたら自分の国が違って見えるでしょう。首相も同じ人なのに、違う人に見えているでしょう。音楽、文化、食べ物、水資源の見方が変わるでしょう。シャワーを浴びる時間も短くなっているはず。「グローバリゼーション」の本当の意味もわかってくるはずです。それはトム・フリードマンが言ったフラット化する世界ではありません。地球の気候の変化と環境破壊が決して嘘ではないこともわかるでしょう。ある人の一日は、バケツ4杯分の水のために20km歩くだけで終わります。あなたのフライトの向こうでは、どんな本も先生も教えてくれない授業が待っています。多くの人は、帰ってきた時に初めて全てがはっきりし、頭の上に電球が浮かぶのです。

ヘンリー・ロリンズ(一部改訳)


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Title: されどコーヒー。
2013.03.05

誇大妄想なのだけど。

例えば、スターバックスのラテと出合ったことで、コーヒーが飲めるようになったのだけど、コーヒーが飲めるようになり、色々なところでコーヒーを飲むようになると世の中にはおいしいコーヒーというのがたくさんあるのだなということを知るわけです。

いわば、いままではスターバックスのラテが自分のコーヒーの全てだったのだけど、もっとおいしいコーヒーを知ることで、むしろスタバのラテを飲みながらコーヒーを知ったような顔していた自分の器の小ささを目の当たりにするのです。

そんなこんなでふと感じたわけです。

少しおいしいコーヒーを知ったり、いままで知らなかったようないれかたや器具を教えてもらったりして、少しづつコーヒーが自分のものになっていく中で、自分のコーヒーの入り口であるスタバのラテの存在に対して自分がどういう気持ちを払うべきか。

もっともっとコーヒーが自分のものになって、コーヒーのなんたるかが今よりも少し感じられるようになったら、きっと自分はスタバのコーヒーをのんでおいしいおいしいといっている人をみて、もっとおいしいコーヒーがあるよとか能書きを垂れてしまうのではないだろうか。えらそうにコーヒーの講釈をたれたりするのではないだろうか。そうはなるまいと思っていても心の中でどこかそういう奢りというか、わかったような顔する自分が頭をあげてくるのではないだろうか。

いやむしろそうなって当然だし、それが人間の既存設定なのかもしれない。つくづく原点とか、自分の関わってきた点とか、そういうものにどう気持ちを向けるかというのは生きていく上でも大きな命題だと思う。

自分の視点が変わることで、そのもの自体の価値が変わってしまったり、それが今の自分にとって必要か不要かとか、そういう都合のうんぬんにかかわらず、自分の通ってきた道の中で関わった点を抜きに今の自分はないのだ。人生は点ではなく線なのだ。それを認めることは自分を認めることであるし、それを認めることで今一度謙虚な姿勢を取り戻せるのかも知れない。

ほっておけば自分はどこまでも傲慢になる。どこまでもえらそうに、どこまでもわかったような気になる。そうなるまいと心に誓い、そういうときはスタバのラテをのみながらそれじゃいかんぜよと自分に言い聞かせようと思ったのです。

ちなみにスタバのラテがおいしくないというわけでもなく、日々のんでいるのですけどね。ようはわかったような顔でイキるような大人にはなりたくないとそういうことです。


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Title: こころ。
2013.03.05

久々に夏目漱石の「こころ」を読み終えたのだけど、昔と今と自分の中でこの物語に共感できる部分と感情移入できる部分が全く変わっていておどろいた。おもにKに対して。しかし改めて読み直して再認識したが、この本はすさまじい本だ。考えさせられポイントが多すぎて鼻血がでそう。

「明治の精神」だけで数時間はつばとばしながら話せそうだ。

昔は時代背景もわからないまま読んでいたから思い入れもいまほど深くなかったのかもな。特に夏目漱石の空気感や文脈でわかることは読者に任せる的なスタンスは読み手によって作品の印象を大きく変えるのだろう。

Kや先生の死と藤村操の死となにか通ずるものがあるのではないだろうか。そう思えば思うほどその時代に清沢満之の残した言葉に触れることで改めて浄土教の深さを感じる。


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Title: いんてるはいってない。
2013.03.01

例えば、やらなければならないことを抱えていたり、誰かに伝えなければならないことがあったり、〆切に終われていたり、忘れてはならない事があったりするときには、頭のメモリの一部を常に稼働させておいて、その大切な事を保留させておくために使わなければならない。

自分の少ないメモリに例えるならば、その稼働領域が30%を超えてくると、色々なところに負荷がかかりはじめて、動きが鈍くなりだす。フリーズ寸前、インテルはってない。それに残りの70%のメモリは、いかに常駐メモリを解放させるかに使われてしまうので、頭の中ではいつも先のことばかりを考えるようになる。

そんな自分にふと我に返って、今に向けられているメモリ領域が少なくなればなるほどに、生きているという実感が自分の手から離れていくのだろうなと思った。

今ここにある、音や、光や、匂いや、季節がめぐってくる空気や、この瞬間に自分を取り巻いているものにしっかりと意識を向けることで、世界は自分の領域を超えた不思議で満たされているのだということに気づかされる。きっとその気づきこそが安穏とか、幸せとかそういう類のものにつながっていくのだろうと思う。

生きてるはここにしかないのに、ここで生きるのがどんなに難しいことか。

人間は、自分の領域を超えた不思議を見つけた時に、セオリーもルールも、規則性もなければ、時に非情にも無常なるこの生きるということの本質と向き合うことになる。その本質を突きつけられた時に生きるということははっきりと質感伴うのだろう。

その質感を自分の中でどううけとめるかということは人生の命題であり、その質感をどううけとめていくのかということこそが仏教の意義でもあるのではないかと思っている。

藤村操は下記の言葉を残して華厳の滝に身を投げた。

*

悠々たる哉、天壤。遼々なる哉、古今。五尺の小躯を以て、この大を計らんとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。

万有の相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

*

生きることは「不可解」であるということであれば、夢も希望もない。いくら考えても考えなくても、何もかもが一陣の風で吹き飛ぶこの人生が大きな悲観につながるという理屈はとても筋が通っている。

しかし、時を同じくして、清沢満之の著書の中にはこんな言葉が残されている。

*

私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極である。人生の事に真面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、

其研究が遂に人生の意義は「不可解」であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云ふことを惹起したのであります。

*

この対比は、今この時代においてはとても重要な対比ではないかと思う。不可解で思い通りにいかないこの「生きる」という流れの中で、泳ぎ続けることに意味はないから泳ぐのをやめるか。または思い通りにいかないのであれば、その流れにぷかぷか身をゆだねればいいと思えるかどうか。

その思考の切り替えに必要なものが宗教であり仏教であるのだと思う。

現代には多様な選択肢がある。自分に向き合う暇もないくらいの娯楽もある。その中で多くの人は自分に向き合うこともなく、自分を取り巻く不思議や無常には気づかないままなのだと思う。なんとかプランナーは人生は画一化されたもののように説明してくれて、資本主義は生きるということのモデルケースをお金に換える。

一体どれだけの人が今を生きているのだろうか。生きることが不可解だなどということにすら気づかないまま、いざ年をとって、いざ病伏して、いざ愛別離苦に合い、その時にはじめて、生きることの本質を突きつけられて、そこで無常を恨み、無常に苦しんでいるのではないだろうか。

藤村操と清沢満之の残したこの言葉は決して特別なことではなくて、いまこの瞬間の自分にむけられた大きな命題の本質なのだ。

ステマでも布教でもなんでもなしに、自分の手の届くところに仏教があって本当によかったと切に思う。そしてつくづく阿弥陀さまを本尊とする必然的な理由というのは他でもない自分の側にあるのだなと感じるわけです。




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