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Title: 満月とスカイツリー。
2012.11.29 今年もあと1枚。 毎朝の通る道にあった大きなビルが取り壊されて、新しく基礎工事が始まった。 壊しては建てて、建てては壊す。その繰り返し。 どっちが先かはわかんない。 結局生きていくことは、建てては壊すことの繰り返しで、その行為を不毛と呼ぶか、意義があると呼ぶかは気分次第みたいなもんだ。ほんとはそんなことはどちらでもいい、人類が誕生してこのかたずっとその繰り返しなのだということがただの事実。 * 幸せはいつだってねばっこくて、なまあたたかい。 幸せというのは1つの状態なのだと思う、それは心の体感温度として、寒い冬にこたつにはいっている状態に近いようなもので、そこに包まれていると心地よくて、いつまでもそこにいたくなるような、ちょうどいい温度で、ぬくぬく感がたまらない状態なのだろうと思う。 よくもわるくも、本当によくもわるくも。 ただそれだけのことなのだと思う。 * この間。 ある人が「あの先生はきさくでいい人だよ」と言った。 そしてその後、その先生と話したのだけど、きさくはきさくなのだが、全然いい人だと思えなかった。 「あの先生はきさくでいい人だよ」も「あそこの店のからあげおいしいいよ」も自分にとっては真実ではないということはよくある。同時に自分の言う「あの映画おもしろいよ」も「あの店のサービスは最高だぜ」も真実ではない。 そう考えたら真実なんてものは1つもなくなるのだけど、真実が本当は1つもないということだけは真実なのだと思う。だからこそ世界はバラバラで、人と人がわかり合うと言うことはほぼ不可能に近いということを認識するということが、相手を知ることであるし、理解することであるし、歩み寄ることであるし、思いやることでもあるのだと思う。 だからこそおもしろい。 * 「慣れる」ということは、選択肢が増えるということ。 なにをするにも、はじめは通り一辺倒のことしかできなかったものが、洒落や遊びやを効かせたりできるようになるし、経験の浅いときには対処できなかったことに、その時には思いつきもしなかった方法で対処できるようになるということ。 その反面、小手先で対応できるようになる分、通り一辺倒にやっていた自分を支えていたモチベーションや動機を忘れがちになる。 「慣れる」メリットとても大きいので、デメリットの部分をしっかりと消しておきたいと切に感じる。自分は通り一辺倒なにをしていたのか思い出さないと。 * 人は承認されるということで得る充実感や快感にはめっぽう弱いのだな。 今の自分にとって"承認"とどう向き合っていくかということは大きな課題。 薬はただしく服用しなければいけないというけど、"承認"は用法用量をまもらないと本末転倒、自分を見失う大きな要因になる。 Title: だだ。
2012.11.29 こないだ、大きなおもちゃ屋さんにいったら、なにか新しく発売したおもちゃのイベントがやっていて、たくさんの子どもたちがいた。その中で、あちらこちらで、だだこねて泣いている子達がいて、それをしかり飛ばす親がいて、まるで修羅場のような状況だったのだけど。 たった1つのおもちゃが買ってもらえなくて、この世の終わりに近いような泣き方をする子どもを眺めていて、大人になると、どうしてだだこねて泣いたりしなくなるのだろうかと思って、大人になるというのはどういうことなのだろうかということを考えた。 大人になるということは" どうして自分だけがこんな思いを するのだ"って思うことが少なくなるということがあると思う。 経験を重ねることで、いま自分の置かれている状況が希有な状況ではなくて、世界にはごろごろしてるようなことなのだ、だから自分だけが感情にのみ込めれてしまうのは違うなという判断ができるようになるということなのだと思う。 そしてその幅を広げていくということはとても大切な事で、その幅を広げることを成長するということなのだと思う。 だから"だだ"をこねる子どもにそれをやめさせるのであれば、しかりとばすことではなくて、子どもの世界を広げてあげられるような経験をさせてあげることで、自分を客観的にみられるような声かけをしてあげることなのだと思う。 それと。 大人になるというとは、"できなくても困らないこと"に比べて"できなくては困る"ことというのが増える。 それは、いままでは誰かがやってくれていたり、だれかにぶら下がっていたりすればよかったものを、自分でやらなければならなくなる。そしてその時に自分が"やらなければならないこと"と"できること"と"やりたいこと"そういうことに折り合いをつけながら、カドをとりながら前に進んでいかなければならないということなのだけど"できなくては困る"から"できるようになる"ということは案外おろそかにしてしまいがちだったりもする。 それと。 大人になるということは、白でも黒でもないものというのが、存在していることに気づかされて、それを許容して受け入れていかねばならない場面に直面する機会が多くなると言うこと。昔は、一区切り、一段落、きっちりと線を引いて前に進めるようなことばかりだったのだけど、年をとればとるほどにそうはいかなくなる。 でもそれこそが「生きる」ということの醍醐味で、いわばそういうことを味として受け止めることができるようになることが、上手に、そして楽しく生きるということなのではないかと思う。 とにもかくにも。 "大人"であることは、やることがたくさんあって、とてものりしろがあって、どこまでも自由なんだと思う。 物理的な制約の中で、時間や想いなど、そういうものが失われることがあるのは事実だけど、自由になれる可能性は、断然子どもよりも大人の中にある。 Title: Q
2012.11.20 この時期の昼下がりの空気とか色とか匂いとか、そういうものが、時間の流れを緩やかにしているような錯覚を覚えることがある。 時間が、ねばっこく、なまあたたかくまとわりついたみたいに。 それがあまりにも心地よくて、その中にずっと包まれていたいのに、いつだってすぐに夜が来て、いつだってすぐに冬が来る。 365日の中で数日しかなくて、1日の中でわずかしかない時間。 なにかが変わりゆくほんの少しの間にだけある狭間みたいなところにしかない場所。 昔はそういう場所を見つけるのが今よりもすこし上手だったのだけど。 今は目を凝らしてないとすぐに見落としてしまう。 本当は見えているのに、それがなんでもないことのようにやりすごしたりもする。 夢とか希望とか、未来とか願いとか。 そういうものは時に目を曇らせる。 自分の分限や、限界や、世界や、社会や、そういうものにくぐもったフィルターをかける。 でもくぐもっているからこそただの雨粒はきらきらと輝いて、世界を彩ったりもする。 なにもかもがはっきりみえればいいわけじゃない。 でもなにもかもがぼやけていてもいいわけじゃない。 あの心地よい温度を探している時の自分は、いつもそういう逆説を抱えてるのだ。 Title: コピペ。
2012.11.09 糸井重里さんが毎日かいてるエッセイがとても共感できたので備忘の為にコピペ。 ・ぼくは、わりと人に「ひとり旅」を薦めます。 なにかの節目とか変わり目のところで、 どうしようかわからないときには、 「旅にでも出てみたら」と言います。 ちょっとね、劇画のなかのセリフみたいですね。 ひとりで旅をしていたら、なにをするにも、 じぶんで考えて、じぶんでやらねばなりません。 いくら情報を増やそうが、知識を詰めこもうが、 判断するのも行動するのもじぶんです。 そして、旅の間は「なれてない問題」が出されます。 どう答える、どう考える、どうすればいい? じぶんの「いつもの場所」にいたら、 考えなくてもできることばかりでしょうが、 旅先では、いちいちが新しい問題です。 移動のための切符や泊まるところの手配、 食べものをどうするか、天気とどうつきあうか、 暑さ寒さと服装との関係、 さみしさをどうするのか、うれしさをだれと分けるのか、 退屈はどうする、眠る算段、洗濯やゴミのこと、 お金の計算はどう立てる、すべてじぶんの判断です。 つまり、旅って、アウトプットの連続なのです。 いまの時代、たいていの人が「インプット過多」です。 取り込むことばかりに熱心で、 それに比して使う(出力する)ことが少ないんですよね。 でも、「ひとり旅」をしている間は、 ほとんどの時間がアウトプットになります。 これが、その人の生きる力を甦らせてくれる。 実践につぐ実践が、人を成長させると思うのです。 「今日のダーリン」 http://www.1101.com/home.html Title: 見。
2012.11.08 人生大概のことは、考えても考えなくても結果に大きな影響はないし、良くも悪くもだけど、がんばったら報われるというのも嘘だし、がんばらなかったら報われないというのも嘘で。 ただ目の前にボールが来たら、自分が一番いいとおもうスイングでバットを振れればそれでいいのだと思う。 その結果がヒットになるか凡打になるか三振するかは、しったこっちゃない。 最近なにかに臨むときや、心がざわついているときに、自分に言い聞かせるように心の中で「きた球を打てばいい」と思うようにしている。 例えば、昔はバッターボックスに立つときに、どんな球が来るんだろうか、ピッチャーはどんな奴なんだろうか、いままでどんな経歴で、何キロくらいの球を投げてくるんだろうか、変化球は何種類くらいあるんだろうか、傾向と対策を立てなくてはいけないのではないだろうかとか。 みんなが注目してるのに、空振り三振したらどうしよう。かっこわるい転び方したらどうしよう。それならせめて空振りしたときにも格好よく見えるような転び方でも練習しておこうかなんてことまで考えたりして、すぐに空気にのまれてしまっていたし、バッターボックスをでたあとも、もっといいスイングあったんじゃないか、もっといい空振りがあったんじゃないかとかばかり考えていた。 でも最近は「きた球を打てばいい」のだと思うことで、昔よりも少し気楽にバッターボックスに立てるようになった。 自信に充ち満ちてどんな球でも打ってやるぜという気負いがあるわけでもなく、かといって自信がないわけでもなくて、ホームランは打てなくても、飛んできたボールにある程度バットを合わせていけるくらいの年の取り方はできてると思えてる。 そして一番大きいのは、空振りが怖くなくなったということ。 むしろ、今待ってるのは絶好球を芯で捕らえるホームランよりも、完璧に捕らえたと思ったのに、ボールがミットの中にあって、完全に空振り三振をとられるような経験であるということで、尚且つ、昔はそういう経験をしたら、バットをホームベースにたたきつけて悔しがったと思うのだけど、今がきっとそれが嬉しくてしょうがないと感じるのだろうし、そういう球を投げるピッチャーがいるということに、わくわくできるような気がするということ。 無論ふつふつとお腹の底で、次は必ず打つという思いが煮えたぎっている点では変わらないのだけど。 今の自分は昔よりも少し嫌なバッターになれたと思う。 でもそれでは、まだ野球というルールの中で、自分がどう見えるかとか、どういうバッターなのかとか、そういう所に捕らわれていて、ただの打者に過ぎないのだということも何となく感じていて。 願わくば。 遠いいつかには。バットを持っていなくても、バッターボックスに立っていなくともピッチャーに恐れられるようなバッターになりたいと思っている。 野球とか全然やったことないんだけど。 Title: 所詮。
2012.11.07 所詮僧侶でも、所詮サラリーマンでも、所詮医者でも、所詮大工でも。 なんでもいいのだけど。 所詮と思えて初めてもう一歩前に進めて、その一歩がプロフェッショナルになっていくということなのではないかと思う。 中2みたいなへんな全能感を払拭できなくて、分限を越えてあちらにもこちらにも口を出して、あっちからもこっちからも褒めてほしくて、自分でも自分が何者かわからないうちは決して到達できない場所っていうのがあるのだと思う。 所詮だからこそできることや見えることがある。 恋人とか夫婦とか家族も同じだと思う。 所詮恋人で、所詮夫婦で、所詮家族なんだって思えてやっと俯瞰してみることができて、俯瞰できて初めて相手のいいところにも、悪いところにも目が向くのだと思う。自分の執着を美化したり、過度な愛情から生まれる幻想や妄想が大きくなればなるほど、期待もするし求めるものも大きくなるのだけど、そこに捕まれば捕まるほど目は曇る。 向き合うということは美化することじゃない。 所詮だと思えてはじめて本当の意味で向き合えることもある。 自虐とか謙遜とかではなく、腰と腹を据えて分限を知っている人はやはり強い。所詮というのは使い方によってはそういう強さを秘めた言葉になるのだと思う。 自分は自分。 人間は人間。 所詮。 だからこそ譲れないものが見えて。 なにをすべきなのか見えるのかもしれない。 所詮。 死ぬときにはなにももっていけない。 所詮。 最後は一人で死に向き合わなきゃいけない。 所詮。 所詮。 ああ、所詮がゲシュタルト崩壊しそうだ。 Title: 冬蝉。
2012.11.07 兵士でも。子どもでも。博士でも。宇宙飛行士でも。大社長でも。赤道直下に住む人でも。大好きなあの子でも。 食べることと、寝ることだけは毎日していて。 魚を捕る合間とか、鉄砲を担ぎながらとか、難しい本を読みながらとか、携帯をいじりながらとか。 朝起きて、何かを食べて、生きて、そして寝ているわけで。 1日のうちの数時間、数分は、お腹が空いたなとか、なにを食べようかなとか、眠いなとか、考えているのだというあたりまえのことに、今更思いを巡らせてみると、それがなんかとても嬉しかったりする。 世界とつながってる感じがして。 * 自分が平和だなと感じて、隣にいる人も平和だなと感じて、どこかにいる人も平和だなと感じて、そういう粒みたいな平和が地球の過半数を覆ったら世界は平和であると言うことになるのだろうか。 だとしたら世界を平和にすることは不可能ではないような気がする。 * 好きだとか、ツボだとか。 そういう言葉を使わずに感情を表現する方法をもっと練習したい。 * 大丈夫。これでいい。の力は大きい。 前に進むときにはこれが絶対に必要になる。 今をしっかりと認める力。 * 布教教化について、耳障りのいい話、1つ2つをもっていてもしょうがない。 求道が先にあり、そのプロセスの産物として布教教化がある。 布教教化が先に来て話術や、小ネタばかり磨いていてもしょうがないし、それが賞賛されると、そこに甘んじていたくなるから気を付けなきゃいけないと思う。 本末転倒になる。 * 人によって使い方や向き合い方は様々なのだけど、自分にとってtwitterが心の声だとしたらフェイスブックは表情。 その使い分けが最近やっとしっくりくるようになった。 表情はできるだけ豊かでありたいし、格好いい顔も悪い顔もくったくなくだせる自分でありたいとは思っているのだけど、そんな簡単そうに見えることが本当に難しいのだ。 結局の所、人間は意識的には人に見せても問題ない顔しか作れないのだ。 Title: ふくわらい。
2012.11.03 「ふくわらい:西加奈子」を読み終えた。 咀嚼するみたいにじっくりと読んだ。 そこで感じたこと。 例えば、絵を描かない自分が、何十種類もある絵の具を買うとする。絵を描かないのに絵の具を買うことは必要のないことのように見えるのだけど、でもそのなかにセルリアンと書かれた青を見つけることで世界の色が一変するということがある。 新しく彩られた世界が開けるときに、なにとなにがつながって、なにとなにがつながらないなんてことは誰にもわからない。 世界は自分が考えるよりももっと、繊細に細く複雑に絡み合っていて、それを丁寧にたぐよせて、つないだり、結んだり、時にちぎれたり、そういう感覚を指先で感じるということが味わうということであるし、生きていくということなのかもしれないと思う。 言葉もそうだ。感覚もそうだ。 感覚と言葉を結びつけるということは、自分が思っているよりももっと自由に、広く、言葉が文字として、ただそれだけで独立していてもいいのではないかと思う。 それと。 天才と凡人の努力はきっと根本的に質の違うものなのではないかと感じた。 天才と呼ばれている人の努力の根底にあるものは、飽くなき探求心であり、自己への探訪でもあり、その才能がさびていくことへの予防であるし、それはいわば恐れでもあるのかも知れない。それはあくまで動機が自分の中にとどまっているように感じるのだ。 しかし凡人の努力の根源にあるものは、顕示欲であったり、執着であったり、天才のものに比べて、息をするようになくてはならないものではなくて、動機付けがどうにも自分の外にある欲求であることが多いように感じる。 そこに付随して秀才と呼ばれる人間は、外においた動機付けでも努力を放棄することなく、天才にはなれないが、少なくとも凡人を越えた結果をだせる人のことをさすのだろうと思う。 この根本的な動機の違いはとても大きい。 それと。 自分の中に湧いてきた、定という主人公への想いは、紛れもなく、その本の中にいる人格への興味であり、自分が好きになるだけの要素を凝縮して詰め込んだような女性への思慕であったのだと思う。 その感情は定が守口に想いを寄せるのに近いのかも知れない。 だから本を読み終わることで、もう会えなくなってしまうことに対する寂しさのようなものを感じた。 それと同時に現実に定のような人がいたときに、間違いなく自分は一瞬で心を奪われるのだけど、定は間違いなく自分に心を奪われることがないということもはっきりわかる。 それがはっきりわかるということが、現実での自分の立ち位置であるし、自分が認識する自分の分限であり、それこそがまさに自分のいままでの生き方の全てであるような気がして、そんな自分が薄っぺらく思えて嫌気がさしたりもした。 そしていままでの自分を振り返ってみて。 きっと自分は特に異性に対してどこに惹かれるのかと言えば、自分自身に意識が向きすぎてない人が好きなのだ。 自分を多少犠牲にしてでも、ベクトルを向けられる何かがあるかどうか。それがあるかないかが自分の中で惹かれるか惹かれないかの間にしっかりとひかれた線のように感じる。 それと。 私の中の「すべて」が広がるという言葉が、いままで自分の中にあったけど、言葉をつけかねていた感覚にしっくりとくるような気がした。 この本を自分に勧めてくれた人がいるのだけど。 思いの外他人の目というのは、自分を正確に射貫いてくることがあるのだということに、妙な心地よさと安心感を覚えると同時に、自分の事は誰にもわからないと思い込んでいる現実とそうでない可能性の乖離に若干の戸惑いのようなものと、立ち位置がふらつくような感覚を覚えた。 ともあれこの本とであえてよかったと思える一冊だった。 こういう出遭いがあるから、おもしろい。 |
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