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Title: 園庭
2018.10.30 この時期の園庭はとても尊い。 4月でも5月でも6月でも7月でもなく、この10月の運動会が終わってからの園庭の様子がとても好きだ。 不安でいっぱいな新学期、子どもたちは園庭いっぱいに広がり、自分の居場所探しをする。 そして居場所探しをする中で、少しづつ仲間を増やして、その関係性を楽しみながら、園庭いっぱいに広がっていた子どもたちは、少しづつ小さな輪になり遊びはじめる。 それでもまだその輪は、自分と自分の気の合う仲間の小さな輪、その小さな輪は、運動会の練習が始まった頃から、やがてクラスの輪になり、クラスを超えた輪、学年を超えた輪になりはじめる。そしてそのたくさんの小さな輪が、やがて大きな一つの輪になっていくような実感がある。 その心の距離はそのまま物理的な距離になって、子どもたちの間にある空間が小さくなっていく。 その変化はとても顕著で、4月からの園庭の様子をタイムラプスかなにかで撮影してたらとても面白いものになるんじゃないかと思う。ある園長先生は、そのことを「園庭の嵩が減る」とおっしゃっていた。若い頃にはその感覚がわからなかったけど、いまははっきりとその嵩の増減がわかる。その嵩の増減がそのまま、自分たちのしてきた保育の答え合わせでもある。 居場所ができて、気の置けない仲間の中で、遊ぶことに没頭できてはじめて生まれてくる遊びの数々、そしてそれを彩るたくさんの秋の恵み。 芋の弦で綱引きをして、落ち葉をあつめ、もみ殻を吹き、おままごとをして、高度な鬼ごっこが子どもたちだけで完結していく。 ただ繰り広げられるそんな日常の中に、本当に信じられないくらいたくさんの変化があって、なによりもその変化や空気の中で心地よさそうにしている子どもたちの表情はとても尊い。 いつまでもこんな顔で生活をしていけたらいいのだろうけど、そうもいかないのだろうな。 だからこそ、社会にでて、なにか辛いことや苦しいことがあった時に、この原体験や心地よさが、ここ一番で自分を支える何かになってほしいと心から切に願う。 Title: mi
2018.10.09 morohaを聞きながら、今は何年だったかと、自分の中の時間軸がぶれる、京都の細い通りをバイクで走っていた時の匂いがふとただよう。 昔を思い出す時にいつもその思い出は、昼下がりから夕方にかけてのことばかりで、なぜだかわからないけど、哀愁と昼下がりは自分の中でとても密接につながっているようだ。 今、自分の日常はだれかの日常をつくりだせているのだろうか。 誰かの思い出や、誰かの記憶や、誰かのくだらない日々になれているのだろうか。 自分の作り出す日常が、だれかの日常をつくり、その日常はまた誰かの日常になる。 その輪はあそことここと、そちらとあちらとどんどん大きくなってたくさんのものを飲み込んでいく。 でも 自分がだれかの日常をつくるのだなどというところに捕まらないようにしよう。 自分の日常は自分の目線で語られるものであるべきで、自分の目からみたものであるべきなのだ。 そこには俯瞰した目線も、相手からの目線もいらない。 いまここから見えたものが、自分の日常で、 その日常の集合体が、今なんだと。 その今は、決してつかまえることなんてできない。 Title: おてんと。
2018.10.02 心の震えるインプット不足。 これにつきる。 旅でも、音でも、人でも、 言葉でも、空でも、山でも。 その震える何かに飲み込まれる不足。 小手先を動かしてばかり、それでなんとかうまく見せるようなことばかりがうまくなる。 オーバーフローするような熱量不足。 こう見せとけばいい、こうしとけばいい、このあたりでいい感じに見える、なんて生活につかまったらあかん。 おてんとさまみとるで。 |
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