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Title: 旺
2017.06.29 孤独とはなにを指すのかといえば、結局は清濁あわせもって、匂いまでも香るような距離感での継続した人間関係の欠如ということなんだと思う。それはつまりは、その関係を持続するうえで必要なお互いの許容とか、寛容への欠如といってもいいのかもしれない。 寛容の欠如は慢性的な自己承認の欠如を生む。 他者からの承認というのは人が生きる上で根幹にもなりうるもので、それが慢性的に不足している中で、その欠乏感を埋めようとしたときに、いまは簡単に他者とつながれるツールがあふれているけど、そこでその穴を埋めようとすることは、結局のところ海水でのどの渇きをいやそうとするようなものなのかもしれない。 手を伸ばすほどに、心は渇いていくかのように。 この焦燥はどこからくるものなのか。 自己に抱える問題の根源は、社会や世間という価値観の中から生まれてくるものではなく、あくまで自己の内面から、人間の内側の中から染みだしてくるようなものであり、その染みのような、影のような淀みを解決するには、まずはその現実を、耐え難く目を背けたくなるような現実を、ありのままに自分自身が寛容しなければならない。 寛容は理解とは違う、それは理解するかしないかは別としてその現実を腹の中に置いておくということだ。迷いながらも共存して、同居することだ。 その共存の中にこそ、今には見えないなにかが差し込むのではないだろうか。 Title: 333,
2017.06.06 ごてついた言葉達がぶつかりあって将棋倒しのようになる。
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集中というのは意識すればするほどに難しい。集中とは力むこととは正反対にあるとはわかっていても、 気づけば身体のどこかに大なり小なりのこわばりはあるわけで、 まずはその小さなこわばりの一つ一つに心を寄せて、 こわばるのもしかたないと、自分自身への許容からはじめるのがいいのかもしれないと思うようになった。 0と1の間にあるものは、人から見たら些細な境目かもしれないけど、 こればっかりは0,1を何度も繰り返し経験しないとその隔たりの大きさと苦しみはわからない。 * 味わうということも同じなんだろう。 味わうということはいわば脱力だ。 味わいというものが自分の中に入り込んでくる余地をあけるということだ。 味わいとは、意識して生まれるものでなく、本来からそこにあるものに気づくということで、 味わうということは、能動的に行われる行為ではなく、どこまでも受動的であるということ。 味わうということは、アンテナを合わせることではなくて、アンテナにはいってきた電波に耳を澄ますということ。 |
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