Title: めも。
2016.01.27

備忘のために。

人生は、すべてが結果である。結果しか教えられていないのだ。

一瞬一瞬が、なぜ生まれてきたのかという問いに対する答えである。
私たちには問いしか与えられていない。理不尽で不条理なことでしかない。

だから「なぜ」と問う。問いしか許されない。答えはすべて阿弥陀さんしか知らないのだ。

その「問い」が問いに満足すると、答えを必要としなくなるのだ。
そこで初めて「南無」が成立する。


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Title: 椿。
2016.01.18

気づけば日々にかまけて、足下見ることも振り返ることもしないでもう1月も終わる。

昨日は畳の縁をまたぐかのようにいとも簡単に今日をこえていく。

35歳の1年で感じたこと。

例えば遠くテロに想いを馳せ、崖から落ちたバスに心を痛め、
どこかのだれかの怒りや悲しみが、さも自分も同じであるかのように振る舞おうとするときに、
おまえになにがわかるんだってなもんで、

わかった振りして、涙を流し、
振り下ろしどころのみつからない拳を振り上げて、
それがさも悲しみや怒りを代弁するかのような振る舞いに見えれば見えるほど、
それを俯瞰してそれは恥ずべきことだと思わねばならないのだと、

この1年を過ごすまでの自分は、意識的にも無意識的にもそう思わねばならないのだと思っていた。
それはきっと、「いわんや悪人をや」が自分にもたらした影響の一つなのかもしれないのだけど、

でも、最近思うのは、

「いわんや悪人をや」なんだ、
でもそれでも考えも深度も浅いところで、
嘘みたいな涙を流し、嘘みたいな拳で、
理由なんかわからず、目の前の相手を殴ろうとする人間の気持ちこそが一つの真理なのだと思う。

一つの出来事を俯瞰して、目の前の悲しみには理由があって、
それを生み出したものは様々な業であり、そもそもそれが起きるまでに繋がってくる因果に、
ああでもないこうでもないと頭でものごと考えてでてくる「いわんや悪人をや」という文言は、
それ自体がもう、深度の浅い涙と同じであって、

そのどちらもが救われねばならなくて、
どちらも救われなければならないということこそが、
善も悪も越えた凡夫という存在を浮き彫りにして、
そこにはじめて本願が差しこむのかもしれないと。

つまりは、目の前の出来事に、心が動くことは頭ではどうにもならなくて、
そこに深度もなにもなく、どうしょうもなく浅いところで心を簡単にもっていかれ、
その共感に傷を癒しあえるという機能が既存に備わっている生き物であるということは、
恥ずべき事でも、忌むべき事でもなく、
むしろそのような極端な感情を持つことこそが、
一つのとらわれで、

そのすべてに愛おしいくらいに泣けるということが、慈悲だとしたら、
その慈悲を一身に受けて、ただただ浴びて、
その暖かさをちゃんと肌で感じられるような心持ちでいたいと。

そう思うようになったということです。

あなかしこ、あなかしこ。









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Title: THE T
2016.01.18

とっちらかったあれやこれ、一息ついてずらっとならべて、あっちゃこっちゃと組み替えて、なんども組み合わせては、あれやこれやとしっくりはまらず。

それなのに、ぽいってなげたそのピースがしっかりと「T」になったりもする。

あれやこれじゃない、目の前にあるもを丁寧に。深く。

The T

*

生きてるのは暇つぶし。生きてるのは趣味のようなもんだって。

霞を掴むようなものだそれは。


*

春を待つ、梅に旭の光浴び、歌舞いて開く法の花。なむなむ。


*

仕事で結果が出たときに、その結果を生み出したのは、自分の力ではない不可抗力の影響する割合がとても大きいのだと言うことを頭のどこかに刻んでおきたい。結果がでればでるほど。

その不可抗力の作用とうまくつきあっていける心持ちこそが、「働く」ということで学ぶべき一番楽しい髄みたいなものなのかもしれないと、最近つくづく感じるわけです。

*

カウント10を仰向けになりながら、両手両足広げて、ライトに目をしばたかせながら最後まできいて、耳の奥でかすかに聞こえる誰かに対する賞賛の音を聞きながら目を閉じたときに自分の中に湧いてくる感情が、喜びであり、楽しさであり、わくわくであってほしい、そういふものにわたしははなりたいと、じっと手を見る。

戦うやつのことを、戦わない奴らが笑うだろう。

ファイトってな。

*

深層心理の奥の方に、バスクリンの香りが、こびりついていて、

その香りが呼び起こすものは、それは自分がどこまでも子どもであって、だれかに守られていて、その安心感の中で、存分にその領域一杯まで手足を広げようとしていた頃の記憶と、湯船の暖かさに包まれている夢見心地な感覚で、その感覚にやわらかいところをぎゅっと捕まれた後に、とても哀愁にも似た気持ちが湧いてきて、それを全部ごちゃまぜにしたような香りなんだ、バスクリンの緑のにおいは。










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