Title: トゲがじゃまするんだよ。
2011.02.28
生きているだけでお金ってでていくし、生きてるだけで次から次に仕事も増える。でもおかげでなんもやることない日がほしいとか、目覚ましかけないで寝たいとか、そんな些細なことに幸せを見いだせるんだから、もうけもんだと思うことにする。
忙しければ忙しいほど、欲張って遊びたくもなるってなもんで、でも欲張りすぎるとどこかにほころびがでるもんだという反省と自戒をする。ごめんなさいをして、ありがとうに気づかされる。
先週の終わりは、神楽坂の小さな串焼き屋で、カウンター越しに、焼きおにぎりが香ばしく焼けるにおいがふわりと漂ってきて、そのにおいが妙に優しくて、なんか心にじーんと来て、ほろりと幕を閉じた。
なんか、英雄とかヒーローになれるのは、きっといつも前線で戦っている人間なんだろうと思う。多くの人が若い時はみんな英雄やヒーローをになりたくて、前に前に飛び出していく。でもそこはいつも危険と隣り合わせで、傷ついたり、悲しい思いをしたり、何かを失うこともある、そういう経験をして、そこで自分のモチベーションが保てなくなった時には、もう英雄になんてならなくていいから、前線からひいて、後方支援部隊になりたいなんて思うんだと思う。
なんかそんなことを思いながら、できれば自分ももう後方支援部隊でいいや、当たり障りなく二番煎じとかでいれば、嫌な想いも少なくてすみそうだし。なんてぼやいたら、身近な人に、そりゃそうはいうけど、それができるあなたではないでしょう。どうせまたしゃしゃりでていくんだからあきらめなさいと言われる。
その一言にたしかにそれができるくらいの自分ならそんな事に悩みはしないわけで、それこそまさに他力のなせる業とかいって、開き直って心が軽くなれるくらいの単純な思考回路なんだ。
そんな日常の中で、ふと今まで自分の中にあったもの、例えば、こだわりとか思想とか感性とかモチベーションとかそういうものの許容範囲と守備範囲が広くなって、広くなった分、精度とか尖度とかが鈍っているとしたら、それが進化なのか退化なのかなんて本当はわからないなと思った。
人類が海から陸に上がり、指の間にあった水かきがなくなったことも、進化なのか退化なのかなんてわからない。その状況、その環境、その時の自分は、間違いなくそこに適応している自分であり、昔はよかったとか、あの頃はもっと研ぎ澄まされていたとか言ったとしても、今には今にしかない自分がある。
なにかがなくなることが必ずしもマイナスだと言えるかと言えばそうじゃない。
そんなこんなの今日この頃。
雨がふっていると、ちょっとめんどくさいけど、嫌ではないと思えるようになった心境の変化がどこからきたのか、その理由はまだ自分の中でさがしあぐねていたりする。
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Title: にわいじり。
2011.02.22
今日は朝から、土を耕して、花壇を整えて、土を入れ替えて、花を植え替える。平日の昼間から一人で黙々と土いじり。
なんか創るというプロセスは、農業でも絵でも、詩でも、人間関係でも同じなんじゃないかと思った。なにかを生むプロセスにおいて、大事なのは、その瞬間ちゃんと意識を置くことなんだろうと思う。この瞬間に意識を置くってほんと簡単なようで難しい。
自分は昔から砂場で遊ぶのが好きな子だった。山をつくって、ダムをつくって、砂場に自分の手で世界が広がっていくのが楽しかったんだと思う。それが少し大人になると、シュミレーションゲームに没頭して、ありとあらゆるシュミレーションゲームは熟知しているつもりだし、その後はサイトを創るのが好きになったし、いまじゃ農地を開拓しながら、ビオトープ作りをしているわけで、なんか自分の思考の好き嫌いというのは結局のところ繋がっているのかもなと思った。
それと、農業をやり始めて、ほんとに土のすごさというか、その重要性を身にしみて感じる。農作物なんて土で決まると言っても過言じゃないくらい土の力は大きい。土作りがこれまたおもしろい、すこしの違いで野菜の育ち方がこうも変わるんだもんな。農業、奥が深くそれ故におもしろい。
いつか山の中に自分のやりたいことの神髄を注ぎ込んだ、基地的なものをつくりたい。
全身を使って土いじりしていた帰り道、ほどよい疲れと、痛みを感じて、このここちよさに、やはり健全な精神は健全な肉体に宿るとはよく言ったものだなと思った。これを毎日続けてたら、もうすこし自分はまともな人間になれるかもしれないとすら思った。もっと身体を動かさないとな。
なんか生きているという実感というのは、楽にしていられるところにはないのかもしれない。すこし負荷がかかるくらいのときに、自分はお腹の中から沸いてくるような開放感と、なんか生きてる実感を感じられる気がする。
それと。
世間とか、まわりの人たちの自分に対する評価とかイメージというのは、大概が、自分が自分を守るために必要だからできあがったものであるような気がする。
いろんな人のツイッターのつぶやきをみているとほんとそう思う。
何かを守ろうとしてできあがった自分像がいつのまにか本当の自分であるかのように、自分自身すら勘違いしないようにしなきゃとか思う。
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Title: たこやき。
2011.02.21
たこ焼きを食べるときに、かならず口の中をやけどして、上あごの皮がむけるという習慣があって、いつも一つ目を食べたあとに後悔するのに、なんども同じ事をやってしまう自分。
でも今日たこ焼きを食べるときに、一つ目をつまみ上げたときに、ふとそうだ今日は気をつけなきゃ。と思って、すこし冷ましてから口の中にほおりこむ。
そんでいい感じに冷めたたこ焼きをほおばりながら、こんな些細なことだけど、悪い意味で習慣づいていたものを、いい方向へ意識的に変えるということを成長と呼んでもいいのだろうなとか思って、自分ってばこれちょっと成長したなとか思った。
でも思い返せばこういう、どうしょうもないような駄目習慣というのはたくさん存在して、その一つ一つを少しづつ変えて、それを意識的に実感できたらけっこう楽しいのかもしれないと思ったりする。
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Title: 雪氷とけて雨水となればなり。
2011.02.17
例えば。やらなきゃいけない仕事がたまっているけど、今日は休みだから気にしない。明日になったら処理すればいいやとか、仕事の最中にituneがおかしくなって原因がわからないけど、まあとりあえず仕事を終えてからあとでゆっくり直せばいいやとか、作りかけのサイトがあったりすると、毎日こつこつ少しづつつくっていこうとか、そういうのができなくて、なにかを宙ぶらりんにしたまま、他のことするというのが苦手なんだと思う。
目の前の事は一つ一つきっちり片付けておかないとなんか気持ち悪い。
はやい話が、テストの前に部屋の掃除をいつも以上に、入念にやり始めたり、いちいちけじめとかこつけて、自分で何事も自己完結していくタイプだということだと思う。
これでもだいぶいい意味でそういうものに心を捕らわれなくなったし、宙ぶらりんにもできるようにはなってきたものの、それは処理がうまくなっただけで、根底にある気持ち悪さが消えたわけではないわけで。
たまにそんな自分にため息の一つもでるけど。
でもそんな自分のメリットは、人生にリセットボタンはあると思っているということだと思う。
はてさて。
ここのところ御遠忌にむけての声明講習やら研修会で本山に泊まり込みで勉強をしにいくのだけど、その度に6年間全寮制で過ごした経験は完全に自分の中に根付いているなということを身にしみて感じる。
時間配分や、気の抜き方というか、いい意味でのサボり方や、パーソナルスペースの確保の仕方とか、自分の気持ちの保ち方や、共同生活をする上での他人との距離の保ち方のノウハウとか、そういうものが自分の中であたりまえのように身についてると思う。だから旅先のドミとかで赤の他人と何日過ごしたとしても、あまり不自由を感じることもないし、不自由を感じても、それを自分で立て直す術を身につけているつもりだ。
とはっきり公言できるくらい、男子校全寮制で6年間で身につけたものはでかい。
むしろ研修が3日目くらいになって、みんなが音を上げはじめた頃にエンジンがかかってきて、スイッチが完全にはいってる自分は、ちょっと共同生活が終わることに寂しさを感じたりもする。
たぶん、時間を拘束されたり、制約された中で感じる自由とか、ひねり出したような自分スペースとか、そういうものがたまらなく好きなんだろうと思う。
なんでもしていいよ。自由にいきな。と言われるよりも多少の不自由や不具合を抱えている方が、そこからこぼれ落ちる自由の価値は重いのだと思う。
きっと高校生の時に北海道を一人旅したときの感動と興奮が未だに鮮明なのと、授業中の居眠りほど気持ちいいものはないと思えるのは、きっとそういう理由なんだろう。
それと。
朝起きてあのキンキンに冷えた広い本堂をぞうきんがけして、何時間も正座して、声がかれるまで声明したり、今回は板東なんかもやったので、何十人もの僧侶が身体を揺らしながら、念仏する様に、客観的な視点で、おお・・・まさに宗教って感じがするな・・・とか想いながらも、自分がその中にいることに妙な安心感と、なんか一種の誇りのようなものを感じたりもする。
それに、なんかできないことがたくさんある自分に気付いたり、声明や作法も、人前で話すことも。自分よりもあからさまにできる人間を目の当たりにしたりできて、すごい悔しいかったり、恥ずかしいと思えることがうれしかったりする。こうやって自分の立ち位置を確認する作業を怠ると、いつだって自分の世界と殻の中で、偏って凝り固まって、自分の限界に自分で線を引くようになってしまうんだろうと思う。
でも。
自分にはないものを持ってる誰かがいて。
悲しくなったり、うらやましくなったり、ああなりたいと想うことはよくあるけど。
でも自分はその人にはない何かを持っていると。
最近はそう思えるようになった。
そう思えるようになって初めてその逆にも質感がともなう。
んで。
遠い太陽系に思いを馳せたりもする。
きっと繋がらないようなことこそ繋がって、それとこれは話が違うと思うようなことこそ根底で結びついてたりするんだろうと思う。
同級生を刺した中学生と自分との違いはただの選択肢の違いだけ。
陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり。
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Title: 馬鹿は遺伝するのだろうか。
2011.02.10
自分は仏教徒なのにも関わらず、愛があるとかないとかはとても大事だと思ってしまうわけで。
それが自分の価値観の押しつけだといわれたとしても、大事なものは大事で、手放したくないものは手放したくなくて、愛にはいろんな形があると言われても、理屈でどうしょうもないものを愛と呼ぶんだろうと思う。
理屈でどうにかなるものは愛とは呼ばないのだ。
先日「そんなの愛がなさすぎる」と言った後に顔を上げたら、ある人が書いていった「おれはおまえらを愛している」という言葉が壁に大きく書かれているのが目に入った。
うん。
やっぱりこりゃ理屈じゃないなと思った。
帰り道、everfreeを口ずさんでいたら、タナベとハチマキのやりとりをふと思い出した。
「先輩には愛がない」
「そんなものはあまっちょろいガキの戯言だ」
「宇宙は一人きりじゃ広すぎるのに」
でも木星に着いたハチマキはこういった
「金を貯めたら、宇宙船を買って、この宇宙を自由に駆け回るんだ。 宇宙船があればどこへだって行ける。本当の、本当の自由だ。
でもスッゲーがんばんないと宇宙船なんか手に入らない。マジにならないとだめなんだ。 だからオレはそれ以外のことはいっさいしないと決めた。
それ以外のことを考えるのもやめようと思った。
でも、でも愛し合うことだけがどうしてもやめられない。
いいか悪いかは知らないが、とても強い力だ。 核融合なんて目じゃない。
人間はみんなスゲー力を持ってんだ。 すばらしいことだし、おそろしいことだとも思う。
オレはこの力の使い方 もっとうまくなりたいんだ」
愛はこれ以上ないくらいに人間のデメリットだと思う。でもこれ以上ないくらいにメリットでもあるんだと思う。
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Title: ねんどざいく。
2011.02.09
朝からどんより曇って、雪とも雨とも言えないようなものがしとしと降っていて、でも傘がないからそのまま歩いてたらこんな天気も悪くないと思った。寒くてからっと晴れてるくらいなら、寒くてどんよりとした天気の方が潔い。そのほうがずっと腹を据えていられる。
野狐禅の「夏みかん」をエンドレスで聞きながら、反対車線で渋滞している車の運転席を眺める。
ほんといろんな人がいるな。
険しい顔した人も、なにかを熱唱する人も、携帯で話している人も、無気力にただ前を見据える人も、みんな何食わぬ顔で、それぞれの瞬間をそれぞれが生きているのだと、あたりまえのようなことに妙に納得した。
人の数だけ世界がある。
なんか閉鎖されてる後楽園ゆうえんちの横を通って、いろんなものがこみ上げる。
自分のこの両手と両足と、この目とこの脳みそは、これからなにを経験して、どんなことを紡いで、どこにいくんだろうか。
感じたことや見たことを、すぐに頭で文章化してしまうのは、同時に感性を大きな枠の中に押しやってしまっているのかもしれない思った。切れ味と後味のいい言葉ではなく、もっと子どもの作った粘土ざいくみたいにもてっとした言葉を使えるようになりたい。
うまいこと思い出せないけど、それが今の自分の中の肝心な部分になっている思い出というのがあって、そんな思い出に共通することは、なんか遠心力で振り飛ばされそうになるのを、必死でしがみつこうとしているような時だったということだと思う。
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Title: アリス
2011.02.08
「教えていただきたいのですが、ここからどっちへ行けばいいのですか?」アリスが問う。
「それは、君がどこへ行きたいかでほぼ決まるな」とその猫は言った。
「わたしはどこでもかまわないの、ただ・・・」アリスが言う。
「それならどっちでもかまわないな」猫は答える。
「どこかへ辿り着きさえすればね」とアリスは言葉を補った。
「そりゃあ、辿り着くとも」と猫、「辿り着くまで歩き続けさえすればね」
不思議の国のアリスの一場面。いま幼稚園では子どもたちが発表会に向けて練習をしている。それをみていて、まっすぐにこの台詞をいう子どもたちの言葉がずどんと響いた。
きっと役者さんがこれをいっても今の自分には届かなかったかもしれない。一生懸命に台詞を覚えて、ここにくるまでに何日も何日も練習して、舞台に立って、日に日に成長してくる姿をみていて、その時間と成長の過程が一気に押し寄せてきて、それがこの台詞に集約されてぐっとこみ上げてくるものがあった。
そういう過程を間近で目の当たりにすると、この短い時間にこの子どもたちはこれだけのことができるようになったんだ。自分だってまだまだまけてられないとか思う。
きっとこの子たちがこの言葉の意味に質感を感じられるようになるまでまだまだ時間はかかるんだろうし、これから先の人生つらいこともたくさんあるけど、でもこのまま歩いて行けばきっとどこかへたどり着けるよと思った。
長い人生のうちのわずか3年間だけど、この過程をこんなに身近で感じられるというのは本当にありがたいことだと思う。
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Title: 浄土の機縁
2011.02.07
金子大栄さん(先生も呼び捨てもおかしいと感じたので)の「浄土の機縁」の直声の法話のデータをもらったので聞いたのだけど、これはすごい。なんなんだろうかこの言葉の一つ一つが腑に落とされるような感じ。これこそがまさに「ご了解」なんだと思った。自分の感じたことをつらつらと語って、感想文みたいなものをこれが我がご了解だなんて言っている自分があまりにも小さくあまりにも恥ずかしい。すごすぎる。この人の見ている世界のかけらでも自分に見える日が来るんだろうか。なんて大それた事を思うもすぐにそんな日はこないだろうと思い直す。
「浄土はこの世ではない。したがってこの世にいる限りは悟りを開くということはできない、悟りはこの世とは陸続きではないところにあるということ。そこを理解できなければ浄土教はなりたたない。本願も念仏も意味を失う」
「如来の本願と人間の理想はかけ離れている、だからこそこの世を浄土にすることができない。この世と浄土は断絶されている、しかしながら人間の理想を断念することで感じられる本願の世界は、もっと深い意味においての理想の世界であるとも言われるかもしれないが、ともあれ、浄土教に説かれる浄土はこの世でなく来世である」
「親鸞聖人の生涯を貫いてみられることは、時代悪のうちおける人間の悩み、あるいは社会悪に悩むところの個人の悲しみと言い表せるかと思う」
一見あたりまえな事を言っているんだけど、この発される言葉の一つ一つになんか自分にはのせられないものがのっている気がした。あたりまえだが、同じ事を自分が言っても誰にも伝わらないだろう。そこに実感は伴っていないし、実感を伴えるほど勉強もしてないし、体感もついてきてないからだと思う。
なんかいろんな人の話を聞いたり、いろんな場所に行ってみて、言語とか、言葉の字面とかじゃなく、言葉には、発する人しかのせられない特有のものがあるという思いは最近核心に近い。
そこをしっかりくみ取れば大きく意思疎通で食い違うことはないと思うし、真剣に目を見て会話をすれば、その人の会話のどれだけに実感が伴っているかなんてことはわかるんだろうと思う。どんなに背伸びしても、ボキャブラリーを駆使しても伝わらないものは伝わらない、伝わるものは伝わる。
字面でいい法話をできるようになるのはそのうちできるようになるだろうけど、同じ字面でも伝わるか伝わらないかの違いというのがあって、その間にあるものがいま自分の身につけなきゃいけないものなんだろう。
それと。
やはり思ったのは。
「凡夫」である自覚というのは言葉にするのは簡単だが、これに体感を伴わせるのは並大抵ではない。
戦争を望むのも平和を望むのも、相手を受け入れるのも批判するのも、希望を見いだすのも、絶望にうちひしがれるのも、自己保身と、欲望と自己愛の中から生まれてくることで、いつも自分は正しく相手が間違っている。という思い込みから生まれるのだ。社会的評価やどちらが多数決で多くの賛同を得るかなんてことは関係ない。
自分の怒りはそのまま相手を肯定する唯一の証拠でもある。
浄土教はよく、自虐的だとか、あきらめすぎとか、そんなこといってたら弱肉強食のこの世の中で生き残れないとか言われるけど、自虐的でも弱肉強食でも、それで自分が生き残れないならその時は地獄も一定すみぞかしですよ。その時はサラバイバイですよ。
でも、言うが易し、それを本当に貫くとなると、やはりそこにどうしても「お念仏」というものがなければならないのだろうと思う。
なんか宗教離れとか、仏教離れなんて言われて、あたふたしているお坊さんもいるようだけど、自分は正直言うとなんの心配もしてなかったりする。
だってこれほんとすごいと思うもんね。
なむなむ。
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Title: れべるE
2011.02.07
日がのびたのを感じられるようになると、一足先に心が春めきだす。そんで、フライングぎみにタラの芽の天ぷらをむしゃむしゃ食べながらキンキンに冷えた瓶ビールをがぶがぶと飲む。
そんでパソコンを開いて、デスクトップに散らばった書きかけの原稿と、ポストイットに、作業中のファイルをみていたら、パソコンのデスクトップと自分の部屋と、心の状況はいい感じにリンクしているような気がしてまずはデスクトップをきれいにしてみた。
夜風も心なしかすこし暖かくなった気がして、これからますます飲み歩いちゃう日が増えそうだなと思って、今のうちにすこしダイエットもしなきゃと思いたち腹筋なんぞもしてみたりする。
なんか。
身の程を知るという経験は本当に大事なんだと思う。年をとればとるほどに身の程を思い知る機会が減っていくような気がする。自分から足をすすめないと身の程も思いしれない。踏み出す怖さを、勇気と向上心が上回れるような自分でいたいと思いつつも、最近は守りにはいってばっかりだ。もっといろんなところに噛みついたりしなきゃ。いつまでも高い塀の上のぎりぎりのところを歩きながらどきどきしてたい。
最近自分ってばつくづくひねくれているなと思う。
それが、いい話やまっとうな話であればあるほど、その逆説に価値を見いだしたくなる。
そのくせ妙に沸点が低くて困る。
なんか、できあがってくるスカイツリーを見ていると、やっぱ自分は東京タワーの方が好きだなと思う。スカイツリーがたち始めたことで、東京タワーの魅力がますます増したように思う。なんか目に見えない部分でいろんな物がそこに負荷されて高みに登るような、うまいこと年を纏って生きている人にじみでる哀愁のような人間くささのようなものがぐんと増した気がする。
最近は何事もすこし不完全で、均一でなく、左右非対称なくらいのものにたまらない魅力を感じる。
ポン酢醤油はキッコマン。
知らない国を想像して、手をさしのべようと思っても、自分は感情移入できないことがよくわかった。自分は目の前で見て聞いて感じて、話して、リアリティがないものには、ここ一番で感情移入ができないタイプなのだ。同時に目の前にあるものには妙な感情移入をしたりするタイプなのだ。
どこかが屈折しているのかもしれないけど、自分は理屈や美談に感情移入できるほどまっすぐではないのだろうと思う。だから感情移入するには、理屈が空論じゃなくなるように、その環境に身を置かないと駄目なんだ何事も。
だから四の五のいわずに、死ぬまで生きていれたらそれでいい。
ジュエルリングを指にはめて、公園を走り回っていた頃に見えていた世界の感覚を少しでも取り戻したいと切に思う。頭でっかちじゃなく、感情と感性で自分を組み立てていた頃に。
答えは一つだと思う。
でもすべてのものに答えがあるという、既成概念の中には答えはないのだと思う。
そんでそれはきっと言葉にできない体感だと思う。
その感じを味わいたい。
ああ。これかって。
きっと今まで感じたことないものが心に沸いてくる感じを一度体感して、脳みそがもっともっとと言っているのかもしれないとも思う。
それと、自分はきっとハチドリにはなれなくて、きっと森から逃げ出した動物と同じなんだと思う。だからきっとそういう動物たちをみると安心するんだろうと思う。
ぐびぐびっと。今日もアクアクララがうまい。
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