Title: ほどく。
2012.12.25

ここ数日「ほどける」という感覚をすごく感じている。

やっぱ凝り固まっていていては、見える物も見えないし、こだわればこだわるほど、力めば力むほどに世界は色を失って、狭まっていくのだろうと思う。

力がはいっただけ世界は窮屈になっていくし、がんばればがんばるほど、手の届かなくなるものがあると信じている。

でもそれは楽をして、不抜けていればいいというわけではなくて。いかに「しなやか」でいることが大切かということで、「しなやか」でいるということは、つまりは意識の置き方をしっかりと捕まえておくということだと思う。

どうしてもその過程の中で「ほどく」という作業が不可欠になってくるのだ。


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Title: 承認。
2012.12.14

今年は承認ということについてよく考えた。

他人からの承認、社会からの承認、親からの承認、家族からの承認、そして自己承認。

「承認を得る」ということが人に与える影響や、自分に与える影響のメリットとデメリットを自分なりに考えて、実践してきて、いままで見えなかったことやわからなかったことにだいぶ整理がついたし、いままで何となくこなしてきた自分の中のルールみたいなものがはっきりと体系化できたことで、より考え方に厚みがでたような気がする。

承認の持つ力は大きい、人間は人から承認されることではじめて、自己承認できる生き物なのだということがつくづくわかった。

そこに付随して、「居場所」というのも一種の承認で、自分がいてもいい場所があるとか、誰かが必要としてくれる場所というものが与えてくれる力は大きい。

「お寺」ということを考えたときに、この承認ということはとても重要な役割を果たしていて、承認の扱いに長けるということは僧侶の資質としても1つ大切な事のような気がしている。

承認を制するものはすべてを制す、といっても過言ではないと思えるくらい、自分にとっては大きな命題の1つになった。これからもそれについては考察を重ねていきたい。

*

承認の中でも、自己承認というのは厄介なもので、他人からの承認によってしか自己承認できないようでは、それは本当の意味での安穏、安住には結びつかないということだ。その流れをどこで断ち切るかということはすごく大きな課題であるように思う。

特に、ここ最近、あちらこちらでコミュニティが希薄になって、ネットが既存設定になった世の中においては、絶対的に承認が枯渇しているように感じる。

SNSを通じて評価を得れば得るほど、安心する自分がいる反面、そこで評価されている自分と現実との些細なギャップがうまれ、その歪みはさらなる承認欲求へと繋がる。まるで中毒症状みたいに。

本来、承認というのは、イイネ!とか、共感だけを差すわけでなくて、時に同じ土俵で意見をぶつけあったり、口うるさい人の言葉に耳をふさいだり、へこんだり落ち込んだり、そういう関わりの中で相手の存在を認めたり、認めてもらったりしながら育まれてくるようなものなんだろうと思う。好敵手だって大切な承認の1つでもある。

そういうつながりの中で得る承認は、体感の伴うものであり、体感が伴った承認を得ることではじめて自信というものが生まれるのではないかと思う。

ただ大前提として、注意しておかなければならないのは、完璧な承認なんてものははなから存在しないということ。

他人が自分が100%理解するなんてことは不可能だし、それが親であれ子であれ、大好きな人であれ親友であれ、承認というのは、自分にとって都合のいい事実をすっぱぬいているにすぎなくて、そもそもがそういうものであるという自覚は大切なのだと思う。

承認は間違いなく動力になる。今年を振り返ってみて、今年は自分自身、承認よってすごく力をもらったし、承認をエネルギーにしなければ人生の荒波を乗り越えられないときというのは間違いなくある。

でもそれはあくまでカンフル的な要素であって、カンフルとはあくまで+αであって、普段歩くときの動力までも承認によって得なければならないような所に陥ってしまっては駄目なのだ。

自戒を込めて。

つくづく。

結局人生に目的なんかなくて、全部手段なんだよな。

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Title: 選挙
2012.12.14

乙武さんがTwitter上でフォロワーに向け「選挙に行かない理由」の意見を求めて、そこにたくさんの意見が寄せられているようだ。

自分は選挙に行くし、選挙権をもらってから一度も欠かさずに投票にいっている。どちらかというと選挙が好きだ。軽率な言い方かも知れないけど、あの非日常的なお祭り的なノリにわくわくするのだ。

という前提をした上で、今回の選挙について政見放送を聞いたり候補者のことを調べたりしていて、選挙に行かない理由として、「僧侶だから」ということは、浄土真宗の僧侶としてすごく筋の通った大義名分であるのかもしれないと思った。

政見放送をみたり、マニフェストを吟味したり、候補者の言葉に耳を傾けたりしながら思ったのだけど、結局の所、どの候補者にいれたら日本がよくなるだろうかということは、どの候補者にいれたら幸せになるだろうかということであるし、それは突き詰めていけば、どの候補者にいれたら自分にとってより都合のよい社会ができるのだろうかということなのではないかと思う。

こうなったら幸せであるという価値観で物事を判断すると言うことは、同時に、そうならなければ不幸であるという価値観を抱え込むことになるのではないかと思う。

仏教というのは、「幸せ」というものがあくまで自分の都合の上に成り立っていて、その都合をいかに小さくしていくかと言うことを、実践をとおして体現していくものだと思っている。

浄土真宗においていえば、自分の都合や、想像や、もっといえば予定や計画も、いつどこでどんな要因によって変わってしまうかも知れないし、いつだって一寸先は闇であるという現実、事実、それがあくまで既存設定であるということををしっかりと自覚することが大切で。

同時に、その現実の中で、自分の都合や、想像や予定というのは、あくまでその瞬間の自分の都合に過ぎなくて、例えその通りに進んだら必ず幸せになるかといえばそうではないし、その通りに進まなかったら不幸になるかといえばそうでない。幸せか不幸かというものは、自分一人の脳みそで想像できる範疇を超えた、たくさんの縁によってなりたっている。

そんな無常でいてたくさんの不確定な流れの中で生きて行かざるを得ないのが人生なのだということに気づいて、その現実をしっかりと受け止めていくという覚悟と姿勢を持って生きていくということこそが、浄土真宗の根幹ではないかと思っている。

あえてエッジの効いた言い方をするのであれば、表面的にそこそこ幸せに生きていくために、社会というのは切っても切り離せないものなので、真剣に自分の一票の行き先を考えると言うことは大切なことだと思う。

でもその一票で得られる幸せよりももう一歩踏み込んだところに、そういう執着に左右されない、人間の本来得るべきである安穏とか、充足というのがある。

ということを僧侶として胸を張って言えるということは、とても格好いいし、選挙にいかない大義名分としてとても筋の通ったことなのではないかと思う。真宗僧侶はそもそも出家してないけど、そもそも出社会、出世間をするということが、出家であるわけで、出家した僧侶が選挙にいくなんてことは本来は根本的な矛盾を抱えているだろうな。

とはいえ、今の自分にはまだ、その言葉に行動を伴わせるなんてことはできないし、とりあえず目の前のそこそこの幸せのほうが大事なので選挙にいく。

でもいつかそういう老僧になりたい。という志だけは高く掲げておこうと思う。


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