Title: 啓示とか。
2013.07.27

昔はよく自分探しに旅に出ちゃったり、インドにいってしまうような人たちに対して、自分なんてものはそもそもどこにもいないし、捜したところで見つかるはずもない、青い鳥みたいなものでしょ、なんてわかったようなことを得意げにいっていたのだけど、そんな自分は言葉に捕まって大事な事の欠片もわかっていなかったのかもしれない。

たしかに自分なんてものはどこにもないのだけど、そのどこにもないものが、日々の習慣とか日常とかの中で凝り固まって、むしろ幻想的に作り上げられてしまって、その自分像が凝り固まれば凝り固まるほどに、そこから抜け出せなくなってがんじがらめになってしまうということは往々にある話で、むしろその凝り固まってしまっている概念をどう打ち崩すかということがとても大事なことなのだと思う。

それをぶちこわすという意味では、あながち旅にでることで、凝り固まったものから解放されるということはあるのかも知れない。

そこで色々なことに忙殺されて、影を潜めた自我や、むき身のゆで卵のような自分がつるっと顔をだしてきて、こんな感情や感覚がまだ生きていたんだとか思ったり、こんな事を言える自分がまだ残っていたんだとか、そういう自分と鉢合わせることで、自分を自分たらしめるものがなんなのかの本質が見えてくるのかも知れない。

瓶ビールを2本ほど飲んで、フワッとしたところに、すこし粘りのある温泉につかる。頭の芯からとろりとほどけて、臓腑のひとつひとつにまでお湯が染み渡るような感覚の中でそんなことを思っていたら、唐突に目の前の山に虹が架かった。

それを見て、啓示や予言なんてくだらないなんていつも思っているし、そんな非科学的なものと仏教を一緒にしないでほしいとすら思うこともあるのだけど、なんか自分がなにかを決意したり、なにかに気づかされた時に、ふと目の前の山に虹が架かる。そんなことはただの偶然なのだけど、そんなただの偶然に、すごく背中を押されるような、まるで光がさしたような気になるなんてこともあるのだなと。自分の中に湧いてきたこの感覚がまさにそれなんだなと。

それが例え偶然でも奇跡でも、そんなささいなことでどこまでも希望を持てるのも、どこまでも絶望するのも人間。それがわかってはじめてみえてくるものもあるのかもしれない。くわばらくわばら。今しばらくはへそが沸かしたお茶でものんで一服。

まえにまえに。

痛みに屈せず。



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Title: いんぷっとあうとぷっと。
2013.07.21

ここ数ヶ月で、自分にとってのアウトプットはあくまで、インプットの飽和なんだということがよくよくわかった気がする。

なにかに追われているような気になって、インプット不足を環境や状況のせいにしてただけなのだ。本でも映画でも、舞台でも酒をのむでも、なんでもいいけど、誰かの頭の中や、誰かのアウトプットが自分のインプットになって、それをまた自分がアウトプットする。

その歯車の1つに自分が組み込まれているということが生きるということであり、そこから得られる居場所感のもたらしてくれる安穏はとても大きい。それはきっと何かに近づいていく感覚というか、山を登っているような感覚にも近いのかも知れない。

何回も何回も、何年も何十年も何百年も、形のないままに誰かの頭から頭へこねくり回され、練りまわされて表現されている何かが何なのかはわからないけど、いつの時代にもこねくり回されているアウトプットも、そこに至るインプットも、芯の芯にある部分というのは変わっていなくて、この手垢がついたアウトプットの根源も、多様なインプットの根源も、どこか1つの所につながっているような気がして、その1つとはきっと人間の根源的な何かなのだと思う。

表現とは結局の所は、その芯というか、共通項というか、すべての表現の中に脈々と流れている1つの答えに少しでも近づくということなのかもしれない。それが陶芸でも、文章でも、写真でも、文字でも、言葉でも。

きっと自分というものも同じなのかも知れない、この自分、この心をつくるものは、ひょっとすると人間の歴史そのものなのかもしれないし、自分に繋がるまでの何千人、何万人の中に沈殿してきたものから絞り落ちてきた一滴なのかも知れなくて、その一滴が結局は自分というものであって、それは同時に人間そのものといっても過言じゃないのかもしれない。

なんて。

ほんと、世界は心持ちでどこまでも広くもなるし、どこまでも窮屈になるし、どこまでも非情になるし、どこまでも寛容になる。自分がいまところの人生の中で体得したことの中で一番重要だったのは、その事実に気づかさせてもらえたことだと思う。




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Title: ここなっつ。
2013.07.10

まいにちなつい。

まさにバケツをひっくり返したような夕立が降って、ばしばし雷が落ちてきて、朝顔が咲いて、縁日にいって、我が家に風鈴がきて、島へ行く船を予約した。雨上がりに立ち上る熱気と洗い流された埃の匂い、あちこちで唸る室外機の音。

その空気に恍惚としながら自転車ではしっていると、性懲りもなくこのままどこまでも一人でいけるような気になってくる。寒くなってくるとすぐに一人ではどこにもいけないと思う癖に。

思うに、今と昔で大きく違うのは、昔は夏の先なんて見えてなかったのだけど、今は夏の先もしっかり見えているということかもしれない。昔は夏は一過性のものではなくて必ず完結していたのだけど、今はこの夏が一過性のものだということも痛いほどにわかっている。

それをなんだか悲しいような、否定したくなるような時があったのだけど、いまはそれが痛いほどわかるようになったからこそ、その価値が格段に増したし、その感覚をしっかりと味わうことに意識的になれてるような気がする。

なついぜ。




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Title: 朝顔咲いた。
2013.07.04


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Title: 四と五
2013.07.01

子どもの頃と今と大きく違うのは、自分の行動を誰が決めるかということ。

子どもの頃は、今日何をするのか、明日には何をするのか、夏休みはどこにいくのか。その選択権の多くは自分にはなくて親にあるように思う。少なくとも夏休みの先には何も見えていなかった。

与えられた時間を過ごすことしかできないからこそ、その瞬間をいかに楽しむか、その瞬間になにを感じるか、今に意識を集中できていたのかもしれない。

先に意識が巡るようになればなるほど手元がおろそかになる。

そう考えれば、先日ある人に、老後のことを考えると不安でしょうがない、先が見えないことが怖くて仕方がないという話をされたのだけど、先が見えないからこそ、見えないなにかに心を奪われるのではなくて、見えないからこそ今を大切に、今を一生懸命に大事にすればいいのではないかと思う。

一瞬一瞬の連続がその見えない闇をおどろおどろしいものから、ただの"くらやみ"に変えてくれるのだ。

先が見えないことはとても素晴らしいことだ。その中でこそ今を、今の手の中にあるものを愛おしみ、めでる心が湧いてくるのかも知れない。

そんなことを考えていたら、因幡の源左の言葉で、雨が降ってきて、ずぶ濡れになった源左にある住職が「ずぶぬれになって大変だな」と声をかけたら、源左が「鼻が下に向いとるで有り難いぞなぁ」といったという話を思い出した。

" 委ねる "という感覚の根底はそういうところにあるのかもしれない。源左が、阿弥陀さんを親様と呼ぶのも妙に納得できた。

こんな事でもつながるのだ。教えは生活の中にいくらでも落ちてる。

ここが四と五あたりであってほしい。


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